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『月読』
玄関に黒塗りの矢が突き立てられていたという。
生粋の都会育ちで、数年ぶりに田舎へと遊びに来ていた妙には、祖母がどうして血相を変えているのかが分からなかった。
聞けば、この辺りでは昔から荒神を祀っていて、黒塗りの矢はその『通達』だと言われているらしい。
「あたしのおばあちゃんの娘時分以来なんだよ、こんな事……」
祖母は震える手で、矢に結ばれた紙を解く。
「へえ。それじゃ百年くらい前の話?」
妙がわざと茶化しても、祖母は硬い表情を崩さない。ようよう開いて矢文を読み、青を通り越して白くなっていく祖母の顔色を見て、妙まで血相を変える破目になった。
「ちょっとおばあちゃん、 大丈夫!?」
「あたしの事なんかどうでもいいよ。妙、妙ちゃんあんた、えらい事になった」
開いた文を見せられ、妙はきょとんとする。行書で崩し字、しかも毛筆である。読みにくいことこの上なかったが、そこにはこう書かれているらしかった。
『ミカミ タエ。
汝ヲ斎王トシテ迎フルモノナリ』
斎王というのは、この地域では荒神の妻という意味だと祖母に言われ、妙はそれを鼻で笑い飛ばす。
「何それ。どうせ誰かの悪戯だって」
だが、近所の人から聞いた話だと、数十年前にも同じ黒塗りの矢が立てられた家があり、名指しされた娘が忽然と姿を消すという事件が本当にあったらしい。
気味が悪くはあったが、この時世に神隠しなど本当にある訳はない。都会っ子の妙はそう楽観して数日を田舎で過ごし、心配顔の祖母を置いて自宅へと戻った。
そうして自分の家の玄関に突き立てられた黒い矢文を見て、愕然となった。
『満月ノ夜ニ婚姻ノ儀を執リ行フ』
仰ぎ見た月は、くっきりと半円の形に闇を切り取っていた。
『三上妙殿 次の満月の晩 浦安でいとにお誘い申すv』
辰海蒼磨は筆を走らせた。縹に白を重ねた和紙の上で、薄墨の文字が流れるように美しく踊る。
辰海の家主であり相棒でもある氷室浩介は、盛大に眉根を寄せてそれを読んだ。
「……おい、一体何だ? この最後の『v』ってのは」
「はあとまあく、というのであろう? 好意を抱く相手への文には、こう記すのが今風だと聞いたぞ」
「ああ、なるほど、ハートマークか……」
ふんふん、と頷いていた氷室が、はたと気付いたように拳を握りしめる。
「……って、お前が妙さんにラブレター送ってどうすんだ!」
唸る拳を飄々とかわし、辰海は平然と答えた。
「これも作戦のうちよ。まあ見ておれ」
胡散臭げな視線を投げてくる氷室に笑って見せ、辰海は立ち上がる。用意した白羽の矢に文を結び、手製の弓を携えて。
「満月まで間が無い。ここは一つ勝負に出るしかなかろう。わしは妙殿を守る為、荒神殿に嫁取り合戦を仕掛ける」
「……勝算はあるのか?」
「無い」
きっぱりと答えると、卓袱台に頬杖をついていた氷室の顎がガクリと滑り落ちた。あのなあ、と呆れたように呟く相棒に、辰海は言う。
「妙殿の家に突き立てられた矢から感じる神威は尋常のものではない。もとより、力で対抗して敵う相手ではないのだ。わしが時間を稼いでいる間に、おぬしには調査の方を宜しく頼む」
氷室は早くも途方に暮れたような表情を浮かべる。
「そりゃいいけどよ……。でも、そもそも何を調べろってんだ?」
「ふむ、そうだな。まずは先代の斎王について調べるがよかろう」
斎王に迎えられた娘は、荒神と同じ時を生きる事ができる。先代が息災ならば、妙の身に『黒羽の矢が立つ』訳はないのだ。それがこうして矢が立てられたのだから、まずはその原因を探るのが妥当だろう。
「よっしゃ。じゃあ俺は早速、妙さんの婆ちゃんに会ってくる」
勢いよく立ち上がり、氷室はジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。
「そうと決まればコレ、渡しとく。使い方は分かるよな?」
手渡されたのは携帯電話だ。辰海は目を輝かせてそれを眺める。氷室が使っているのを見たり、ちょっと使わせて貰った事はあったが、自分専用の携帯電話は初めて手にしたのだ。
「わしに用意してくれたのか?」
わくわくと問うと、氷室は渋々という感じで頷く。
「しゃーねーだろ。俺達がいくら一心同体に近いとはいえ、テレパシーで会話できるわけでもねえんだしさ。連絡手段がなきゃ困んだろうが。使った分だけ課金されんだから、無駄遣いすんなよ」
聞いているのかいないのか、辰海は携帯電話を閉じたり開いたりして遊んでいる。
「浩介、待ち受け画面とやらを、美しいおなごの姿にするにはどうすれば良いのだ? 着めろとかいうのには、何の曲を選べば良いであろうな? そうそう、あの『すとらっぷ』というジャラジャラした物を付けなくても良いのか?」
浮かれていたら、氷室が殺気を放ちながら怒鳴った。それこそ、辰海を部屋から蹴り出しかねない勢いで。
「いいからとっとと妙さんの護衛に行ってこい! あっさり荒神に連れてかれたりしたら、一週間メシ抜きの上、コップで飼うぞこのタツノオトシゴ!」
「何と人使いの荒い家主だ」
そう文句を言いながらも辰海は弓をつがえ、とす、と妙の家の門柱に白羽の矢を射た。
これで荒神に対する宣戦布告は済んだ。あとは満月の夜、かの神に対峙して時間稼ぎをするのみである。
謙遜でも何でもなく、勝算は本当に無いに等しい。妙に望まぬ婚姻をさせない為には、氷室の調査結果が全てを握っていると言っても過言ではなかった。今頃彼は、荒神の住む火ヶ畝村へと向かっている頃だろう。何とかうまくやってくれるといいのだが。
「……カカセムラ、か」
呟いて、辰海は考え込む。どこかで聞いた地名なのだが、それをどこで聞いたのかがどうしても思い出せない。
この国には『カカセオ』という名前の火の神がいる。かの村に居る荒神も火の神だという話だ。おそらくはカカセオに縁のある神だから、それを祀る村にも同じ名前がつけられたのだろうと思う。聞き憶えがあると感じたのはそのせいだと自分を納得させ、辰海は腕を組む。
火の神に対し、辰海は竜神──水の神だ。単純な氷室などは、火の神と水の神が戦えば、水をかけられた火が消えるのと同じ道理で水の神が勝つと考えそうだが、実際はそんなに生易しいものではない。活火山に豪雨を降らせたところで、噴火を止められはしないのと同じで。
「奇策を練るより他に致し方ないのう……」
とはいえ、手立ては数える程しかない。辰海は青い瞳をきらりと光らせ、携帯電話を握り締める。
「焦っても仕方あるまい、ここはひとつ」
呟いて、いそいそと画面を開き、手当たり次第にボタンを押した。
「浩介と合流するまでに、これを完璧に使いこなせるように練習しておこうかの。……やや。この謎の印は一体?」
嬉々として携帯電話で遊ぶ竜神にツッコミを入れる相方は不在で、誰も彼を止める者はなかった。そうして辰海は満月の夜まで延々、文明の利器と戯れていた。
満ちた月は冴え冴えと明るく、一人の少女の影を野原に映し出していた。
三上妙は辰海に言い含められた通り、じっとその場に佇んでいる。やがてどこからともなく足音が聞こえ、闇の中から一人の男が姿を現した。
男の目は、探るように妙の青白い顔を見ている。それが僅かに柔和になり、男の声が呼ぶ。
「間違いない。そなたが三上の孫娘──妙だな」
よく似ている、と呟き、男は妙に歩み寄る。逃げ出したい衝動と戦いながら、妙はその場に踏み止まった。そうして、言われた通りに口を開く。
「あたしは……多恵さんじゃない」
男が怪訝そうに眉をひそめる。その刹那、妙に向かって伸ばされていた男の腕が縄に絡め取られた。引き倒された男の上に、何の前触れもなくトリモチの塊が落ちてくる。
「火ヶ畝村の荒神殿であらせられるな?」
枯れた草を踏みしめながら、辰海は男に近づいていく。荒神はトリモチの下で暫し足掻いていたが、腕力だけではどうにもならぬと判断するなり、それを炎で焼き去った。
「やはり、この程度の仕掛けでは役に立たんかったのう」
怒りを込めて睨みつける荒神に向かい、辰海は余裕ありげに笑って見せる。
「だが、トリモチに捕まる神の姿なぞ、そうそう見られるものではない。見世物としてはなかなかであろう? 妙殿」
妙の笑いは引きつっている。辰海の言葉に、荒神は鬼のような形相になった。
「我を天津甕星が末裔、火狩と知っての狼藉か。そもそも、何故に海の者が陸地に居るのだ」
アマツミカボシ、と辰海は心の中で反芻する。村の位置や名前からしてそうではないかという気がしていたが、当たって嬉しい予想ではなかった。日本の神の中ではかなり高位だ。若輩者の辰海が正攻法で戦って勝てる可能性は万に一もない。
それでも辰海はしゃあしゃあと笑って言った。
「妙殿に『ぷろぽおず』する為、という事にしておこうかの。火狩殿、いざ、それがしと尋常に勝負願う」
「世迷い事を。若輩者の分際で我に楯突くつもりか。それが海の者の流儀か?」
「無礼は元より承知。力及ばずとも、そうやすやすと妙殿を御身には渡さぬ」
火狩は不快そうに目をすがめる。ならば、と低い声が響いた。
「灰塵と帰すがいい、若造」
ごう、と空気を薙いで、紅蓮の炎が辰海に叩きつけられた。間一髪でそれを避け、辰海は言う。
「妙殿とそれがしは将来を誓い合った仲。言わば、邪魔者は御身の方」
「……何だと?」
火狩が訝るのに、辰海はニヤリと笑う。今回の件が無事に片付いたら、浦安でデートの約束をしているのだから、辰海の言葉はあながち嘘ではない。そうして、それを裏打ちするかのように、妙が声を張り上げた。
「辰海さん、頑張って! あたしを荒神様から守って!」
それに応えるように、辰海は陽気に妙に手を振る。視線だけで相手を睨み殺せそうな怒りの表情を浮かべ、火狩は辰海を見据えた。
「戯けた事を。妙は我が妻に選ばれた者。身の程を知れ、小僧」
辰海はのほほんと笑う。二人の力量差は歴然としている。それでも辰海の笑みには余裕があった。
「戯けた事を仰っているのは御身であろう、火狩殿。れっきとした細君がいらっしゃるにも関らず、妙殿に矢を立てるとは如何なものか」
「……何の事だ?」
火狩は怪訝そうに眉根を寄せている。それを不審に思いながらも、不敵に笑って辰海は言った。
「先の斎王、お多恵様には愛想を尽かされでも?」
火狩の目が見開かれ、炎の塊が辰海の脇腹をえぐった。妙が悲鳴を上げるのに、辰海は軽く手を上げて応える。
「大事ない」
辰海の傷はみるみる再生されていく。火狩が舌打ちするのが聞こえた。
この戦いで辰海に勝算があるとすれば、今、この場に氷室が居ない事こそが鍵だった。今の辰海は、言わば半身のみで戦っている。残りの半身──氷室が無事でいる限り、いかな荒神が強大な力を誇ろうと、辰海を滅する事などできない。
ただし、辰海の再生能力は無限ではない。神力には限りがあり、それを超えれば力を補給しなければならない。補給がままならなければ、辰海は無力なタツノオトシゴと化してしまう。そうすれば、妙は火狩に連れ去られてしまうだろう。
先程から辰海が人を喰ったような言動を繰り返しているのは、火狩を怒らせて判断力を鈍らせるため。彼の力は確かに甚大だが、敏捷性なら辰海の方が若干上。怒りに我を忘れた火狩の攻撃を何とか上手くかわし、あるいは遮りながら、妙を救い出すための手がかりを氷室が掴んでくれるのを、ギリギリまで待つより他になかった。
先の斎王、多恵は息災だと氷室は言う。しかも今は身重で、山神の庇護下で出産の支度の最中だという。
ならば何故、妙が新たな斎王に選ばれるのか。確かに火狩と多恵は夫婦喧嘩の真っ最中らしかったが、正式に離縁した訳ではない。その辺りの情報は、氷室も掴みかねているらしかった。
探りを入れるため、辰海は揶揄するような口調で問う。
「それとも、火狩殿はお多恵様に飽きて、若い娘御に手を出そうとでも? それは流石に感心致しませぬなあ──」
言い終えぬ間に、炎の礫が辰海に浴びせられた。咄嗟に水の膜を張って遮ったが、幾つかは防ぎ切れずに辰海の体を貫通する。それを癒す間もなく、鞭のようにうねる炎が辰海の体を裂いた。
「お多恵は──儚くなった」
絞り出すように一言、そう言い捨て、火狩は妙のほうを見る。少女はビクリと肩を竦ませた。
「あれに似た娘が、同じ三上の家に生まれるのをどれほど待ち焦がれたか──。誰にも邪魔はさせぬ」
焼け焦げて、しゅうしゅうと煙を上げる体を修復しながら、辰海は何かがおかしいと感じていた。氷室の掴んだ情報が嘘である可能性は考えられない。ならば、火狩に多恵の死を確信させるような、何か重大な齟齬が生じているのだとしか思えなかった。
「そんな、筈は」
言いながら身を起こそうとする辰海の上に、驟雨の如く炎が降り注ぐ。見下ろす火狩の目は、烈火のごとく怒りをみなぎらせながらも、冷ややかな光を放っていた。
「我の元を飛び出したお多恵は山神の住む山に客居していたらしいが、ある日、そこから使いがやって来た。それなりのお方が、正式な文をしたためて、我にお多恵の死を知らせてくれた」
再生が間に合わぬ勢いで、火狩の攻撃は辰海を滅多打ちにする。その苛烈さは、彼の、斎王に対する想いの深さそのままなのだと辰海は気付く。
「それでも、そちは我の邪魔をするか。お多恵を失った我の嘆きの深さを理解できぬとあらば、何度でも叩きのめしてやろうぞ。
──妙は我にとって、言わばお多恵の忘れ形見。けして誰の手にも渡しはせぬ」
ひたと見据えられ、妙は震えた。火狩は黒焦げになった辰海を打ち捨てるように背を翻し、彼女へと歩み寄る。何とか再生を果たした右手で、辰海は荒神の足を掴む。だがそれも、容易く踏み潰されてしまった。
やはりおかしい、と辰海は考えていた。これほどに火狩が多恵の死を信じて疑っていないという事は、その使いとやらの存在に、余程の説得力があったのだろう。でなければ、事実認識の食い違いがここまで甚だしくはならない筈だ。
そこまで考えて、ようやく辰海は思い出した。『火ヶ畝村』の名に聞き覚えがあったのは、自分の叔父がそこを訪ねた話を聞かせてくれたからだという事を。
詳しい内容は教えて貰えなかったが、叔父は「美女に頼まれ、祝いの手紙を携えて火ヶ畝村に足を運んだ」と言ってはいなかっただろうか。
まさか、と思う。ようやく上半身が再生したばかりで、まだ声を発することはできない。辰海は呻いた。もしも自分の叔父が、火狩に多恵の死を知らせる文をしたためたのだとしたら、この奇妙な食い違いが発生した原因に、容易に思い至ることが出来る。
──叔父は稀代の悪筆なのだ。
草書をすらすらと読み解く者ですら辟易するような、それはそれは酷い字を書く。彼の書いた文字を読むくらいなら、ミミズの踊りを眺めるほうが建設的だと思える程に酷い。あの筆舌に尽くし難い叔父の悪筆ならば、『斎王が身籠った』という一文を『斎王が身罷った』と読み違えても何の不思議もなかった。
「叔父上、犯人は……貴方か……」
脱力しながら辰海は呟き、そろそろと草の上を這う。火狩に気取られないように岩陰に移動し、そこに隠しておいた携帯電話を手に取った。
火狩に距離を詰められ、怯えた表情の妙が後ずさりたげに背後を振り返った。だが彼女は、最初に辰海が言い含めた通り、その場に踏み止まってくれている。
妙を捕えようと伸ばした火狩の指の先に、ざん、と音を立てて水柱が立った。それは妙の体をぐるりと取り囲み、まるで鳥籠のように彼女を守る。火狩が忌々しげに舌打ちし、辰海を振り返った。
「その水の檻は、いかな名だたる神の末裔の御身とて、破るは至難の業」
携帯電話を背後に隠し持ちながら、辰海はニヤリと笑う。檻を構成する水柱の水圧は非常に高く、掴む事も歪ませる事も不可能だ。かといって大量の炎を使って蒸発させようとすれば、中にいる妙が無事では済まない。それを悟り、火狩は辰海に攻め寄る。降り注ぐ炎の矢を、携帯電話を守り──しかも通話しながらかわすのは至難の業だった。
「浩介。今すぐに斎王殿をこちらにお連れせよ。今回の件、とんでもない誤解の賜物だ」
『はあ? 今すぐってそんな無茶な。お多恵さんは今、やっと無事に子供を産んだとこなんだぞ』
子供が無事に生まれたとあらば、この状況を打破するのはそれだけ容易になったと言えた。だが、峻烈極まりない火狩の攻撃をこのまま受けたり防いだりしていれば、辰海の神力はあと数刻ともたない。
「そこを何とか。細君の存命を知れば、荒神殿はたちどころに妙殿から手を引かれるであろう。それが一番手っ取り早い。というより、他に方法がない。とても話に耳を」
肩を撃ち抜かれ、携帯電話を取り落としそうになった。
「耳を、傾けて貰える状態ではないのだ。頼む、浩介」
それだけ言って一方的に通話を終え、辰海は携帯電話を妙に向かって放り投げた。大切な連絡手段を断たれて困るからではない。これは辰海の宝物だ。自分と一緒に黒焦げにされてはたまらない。
「何をこそこそしている」
侮蔑の響きも露わに言って、火狩は炎の矢で以て辰海の体を地面に縫い付けた。その首を踏みつけ、彼は問う。
「どうやら本体が別にいるようだな。焼き尽くしても死なぬのはそのせいか。答えろ。そちの本体はどこにある?」
答えようにも、踏み潰して頭を落とす勢いで足に力を込められては答えられる筈もなかった。辰海の意識が遠のく。次に致命的なダメージを受ければ、うまく再生できるかどうかが怪しかった。
氷室はまだ、ここには来ない。到着はいつ頃になるだろう。せめて、妙が連れ去られるまでには来てくれるといいのだが。
「辰海さん!」
妙の叫ぶ声が聞こえる。霞む視界の端にその姿を捉えると、彼女はこちらに向けて携帯電話を差し出していた。
「見て! 氷室さんからメールが届いたの!」
言って、妙は携帯電話を投げて寄越す。それは軽い音を立てて地面を転がり、火狩の足元に落ちた。
「……なんだ、これは」
首にかかった圧力が唐突に消失し、辰海は盛大に咳き込む。火狩は携帯電話を拾い上げ、呆然と画面を眺めた。
「これはそちの持ち物か? 何故、この中にお多恵が居るのだ!?」
つきつけられた画面には、氷室から届いた画像が表示されている。そこには、妙に良く似た面差しの女性が、生まれたばかりの赤子を抱いて微笑む姿が映し出されていた。
そうか、この手があったかと、辰海は内心で笑む。火狩は手の中にある自分の妻の姿を食い入るように見つめていた。
「火狩殿。これは、人間が作り出した、非常に高性能な、文明の利器」
辰海は息を整えながら笑んだ。
「間もなく、本物の斎王──お多恵様がこちらへおいでになる。その前に、それがしの話を聞いては頂けぬであろうか」
懐かしい妻の姿を垣間見、完全に戦意を喪失したらしい荒神は、逡巡しながらも頷き、辰海の戒めを解いてくれた。辰海は、素晴らしい機転を利かせてくれた相棒に感謝しながら起き上がる。そして、ようやく火狩に事の顛末を告げる事ができたのだった。
間もなく、夜目にも鮮やかな美しい雲が流れてきた。山神が遣わせてくれた瑞雲には、氷室と一緒に多恵と、その子供とが乗っていた。
荒神と斎王は、数十年ぶりに再会を果たした。最初こそ会話がうまく噛み合わず、すわ夫婦喧嘩の様相を呈するかと思われたが、山神が取り成し、氷室と辰海が諄諄と説くうち、やっと互いの事情を察した。
「つまりは、お前の叔父貴の字が下手くそなせいで、荒神様とお多恵さんの夫婦喧嘩がここまで長引いたって事だよな?」
たった十日余り見ない間に、氷室は少し変わったように辰海には見受けられた。どこがどう、と訊ねられるとうまく答えられないのだが、少しは風格めいたものが生まれつつあるように見える。
「うむ。血縁者として、それがしが伏してお詫び申さねばならぬ」
膝をつく辰海を火狩が制す。彼は人目も憚らずに、多恵の肩を抱き寄せて笑顔を見せた。
「良いのだ。雨降って地固まるの喩え通り、一度は失ったと思った妻と再び巡り会い、我は以前にも増してお多恵が愛しゅうなった。二度と下らぬ事で夫婦喧嘩などすまいよ」
「わたくしも、こうして火狩様のお顔を見、その腕に抱かれてしまえば、怒りもつまらぬ意地も消し飛んでしまいました。愛い子も生まれた事でございますし、これからは今以上に仲睦まじく暮らせそうですわ」
多恵は火狩にしなだれかかる。見ていられない、という風に山神があさっての方向を向いた。氷室も何やら居心地悪そうに視線を彷徨わせ、咳払いをする。
「とりあえず、お前の叔父貴に会う機会があったら、俺に一発殴らせろ。荒神様とお多恵さんが許しても、妙さんには怖い思いをさせる結果になった訳なんだしよ」
「気持ちは分かるぞ浩介。わしも今、叔父上が目の前に居ったならば、敵わぬと分かっていても殴りかからずにはおられぬ気がする。ほんに人騒がせな御仁だの」
「そんなに字が下手だと知っておれば、私も使いを頼んだりはせなんだ。まあ、かのお方に悪気はないのだから、怒っても仕方なかろうよ。全員が痛み分け、という事にしておこうじゃないかえ」
山神が言って、全員が頷いた。荒神は妙に深く詫び、山神に子供のように叱られながら帰っていった。赤子を挟んで寄り添う二人の姿は幸せそのもので、第二子懐妊もそう遠くないのではと思われた。
「めでたしめでたし、かな。これでさ」
氷室が伸びをして、妙を振り返る。少女はにっこりと笑った。
「うん。あたしも無事だったしね。確かにちょっと怖かったけど、今は結構面白い目に遭ったなって思うよ。二人の男の人があたしを取り合って戦うなんて、想像した事もなかったもん」
確かに、と氷室が笑う。今時の少女はなかなか豪胆な面を持っていると苦笑しながら、辰海は携帯電話を開いて見た。そこには先程撮った、幸せそうな荒神一家の姿が映し出されている。
「あ、それ寄越せよ。レンタル品だから返さなきゃなんねえし」
氷室が手を差し出すのに、辰海は咄嗟に携帯電話を背後に庇った。
「な、何を言うか! これはわしの宝物。手放すつもりはないぞ」
「馬鹿言え。これは借り物だっつーの。一日でも返すのが伸びたら、それだけ金取られるんだからな。さっきの画像なら、俺の携帯に保存しといてやるから貸せよ」
言われて、辰海は渋々と携帯電話を渡した。それを受け取り、画像フォルダを覗いた氷室の顔色が変わる。
そこにはここ数日の間に、辰海がナンパした女性とのツーショット画像が山のように入っていた。それだけならまだしも、ダウンロードされた着信メロディや動画まであるのはどうした事か。
「辰海、てめー、なに勝手にネットに繋いでんだよ! この馬鹿!」
「『だうんろおど』の為に決まっておろうが。大丈夫。おぬしの懐が痛まぬよう、ちゃんと無料のものばかりを選んで『だうんろおど』しておいたぞ」
「なに中途半端に知識つけてんだ! ダウンロードは無料でも、通信料は取られるっつーんだよ! ああ、もう!」
氷室は頭を掻きむしってその場にしゃがみ込んだ。たかが数曲の音楽ならまだしも、動画をメモリいっぱいにダウンロードされてしまうと、請求書を見るのが恐ろしい。項垂れる氷室に、妙が苦笑しながら言った。
「それ、経費って事でうちの両親に請求してくれればいいよ。あたしが無事だったんだから、きっと気前良く払ってくれると思うな」
多恵を斎王として差し出した三上家は、荒神の加護あってか、子々孫々まで裕福な暮らしぶりなのである。氷室は素直にその言葉に甘える事にした。でなければ、今回の稼ぎの三分の一は軽く吹っ飛ぶ。
「さて、では妙殿、我らは約束通り『浦安でいと』といこうかの」
辰海が妙の手を取る。彼女はこくんと頷いて、氷室に向かって手を差し出した。
「うん。じゃ、氷室さんも一緒にね」
妙の言葉に、辰海は途端に渋い表情になる。
「浩介は置いていくべきであろう、妙殿。こやつは小姑のように口煩いのだぞ」
「うるせーな。お前みたいな女好き、未成年と遊びに行かせられるわけねえだろ。嫌ならお前が遠慮しろ」
「はいはい、ケンカしないの! ケンカばっかりしてたら、男子二人組で観覧車に乗せちゃうんだからね」
有名な巨大テーマパークのアトラクションに、男が二人並んで乗せられる姿は真冬の海よりも寒々しい。氷室も辰海もおとなしく黙る事にする。二人の手を取り、妙がようやく重圧から解き放たれたというように高々と万歳した。
「さあ、遊ぶぞー!」
元気な少女の勢いに乗せられ、二人は朝焼けの広がる野原を離れて目的地に赴く。
そして、寝不足の祟った氷室はジェットコースターに酔い、絶叫マシン初体験の辰海は、その勢いに目を回す事になるのだった。
■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■
【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【6725/氷室・浩介(ひむろ・こうすけ)/男性/20歳/何でも屋】
【6897/辰海・蒼磨(たつみ・そうま) /男性/256歳/何でも屋手伝い&竜神】
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