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『月読』
玄関に黒塗りの矢が突き立てられていたという。
生粋の都会育ちで、数年ぶりに田舎へと遊びに来ていた妙には、祖母がどうして血相を変えているのかが分からなかった。
聞けば、この辺りでは昔から荒神を祀っていて、黒塗りの矢はその『通達』だと言われているらしい。
「あたしのおばあちゃんの娘時分以来なんだよ、こんな事……」
祖母は震える手で、矢に結ばれた紙を解く。
「へえ。それじゃ百年くらい前の話?」
妙がわざと茶化しても、祖母は硬い表情を崩さない。ようよう開いて矢文を読み、青を通り越して白くなっていく祖母の顔色を見て、妙まで血相を変える破目になった。
「ちょっとおばあちゃん、 大丈夫!?」
「あたしの事なんかどうでもいいよ。妙、妙ちゃんあんた、えらい事になった」
開いた文を見せられ、妙はきょとんとする。行書で崩し字、しかも毛筆である。読みにくいことこの上なかったが、そこにはこう書かれているらしかった。
『ミカミ タエ。
汝ヲ斎王トシテ迎フルモノナリ』
斎王というのは、この地域では荒神の妻という意味だと祖母に言われ、妙はそれを鼻で笑い飛ばす。
「何それ。どうせ誰かの悪戯だって」
だが、近所の人から聞いた話だと、数十年前にも同じ黒塗りの矢が立てられた家があり、名指しされた娘が忽然と姿を消すという事件が本当にあったらしい。
気味が悪くはあったが、この時世に神隠しなど本当にある訳はない。都会っ子の妙はそう楽観して数日を田舎で過ごし、心配顔の祖母を置いて自宅へと戻った。
そうして自分の家の玄関に突き立てられた黒い矢文を見て、愕然となった。
『満月ノ夜ニ婚姻ノ儀を執リ行フ』
仰ぎ見た月は、くっきりと半円の形に闇を切り取っていた。
三上妙の身の安全は、相棒の辰海蒼磨が一応ながら守るという。
勝ち目の無い戦いになるだろう、と辰海は言う。氷室浩介は神との婚姻を強いられた少女の為、単身でかの村へ行き、早急に調査を開始する事になった。荒神が妙を連れ去るまでに、何としてでも阻止する方法を探らねばならない。
真っ先に調べなければならないのは、先代の斎王の消息。彼女の身に何かが起こったからこそ、次の斎王として妙が選ばれてしまったのだ。そう示唆され、氷室は手早く荷物をまとめてアパートを出た。
「よう」
聞き慣れた声に呼び止められて振り返る。見ると、草間武彦が車の中で煙草をふかしていた。
氷室はきょとんとして問う。
「草間さん? どうしたんだよ、こんなとこで」
草間は助手席を顎で示した。とりあえず従って車に乗り込むと、彼は車を急発進させた。
「今回おまえ達の所に飛び込んできた依頼、なかなか難儀らしいじゃないか。少しばかりサポートしてやろうかと思ってな」
「へ?」
怪奇系の依頼を厭う草間が、進んで手を貸してくれるとは思えない。氷室は眉をひそめて問いかけた。
「ひょっとして、蒼磨の奴に頼まれたのか?」
「頼まれてはいないさ。ただ、難しい依頼だとは聞かされたがな」
「……余計な事言いやがって、あいつ」
氷室は舌打ちする。辰海も草間も、氷室の事が信用できないのだろうか。確かに自分は駆け出しの部類に入るが、相方に心配されるほど酷い仕事振りではない筈だ。
「うちは貧乏だから、草間さんに報酬なんか払えないぜ」
投げ出すように言うと、彼は苦笑するふうに笑って答えた。
「安心しろ、最初から期待はしてない。ただ、おまえ達に恩を売っておいて損はないだろうと思ってる」
目を瞬かせる氷室に、ニヤリと笑って草間は言う。
「竜神と竜神憑き。しかもおまえは確実に強くなってる。どんな仕事振りを見せてくれるのか興味もあるしな」
その道の先輩格、そのうえ学生時代から密かに憧れていた草間に認められているのだと思うと、嬉しいけれど気恥ずかしい。柄にもなく、氷室は顔を赤くして照れた。──が。
「……ちょっと待てよ。それってこの稼業の中じゃ、ライバル視するほどでもねえって事だよな?」
「ほう。分かってるじゃないか」
草間の瞳に揶揄するような色が浮かぶ。氷室はふてくされて、腕組みしながらズルズルとシートから滑り落ちた。
「畜生。ぜってーいつか見返す……!」
「楽しみにしてる」
笑い含みに答え、草間はアクセルを踏み込む。その余裕綽々の横顔が、異様なまでに憎たらしかった。
荒神が住む火ヶ畝村にようやく到着した頃には、既に日が落ちていた。
予め来訪を告げておいたからか、妙の祖母は夕食を用意して待ってくれていた。氷室は草間と一緒に恐縮しながらそれを有難く頂き、熱い茶を啜りながら話を聞いた。
「そもそも、先代の斎王っちゅうのが、あたしの祖母の姉でねえ」
羊羹を切り分けながら、老女は言う。
「妙の名前はあたしがつけたんじゃが、その祖母の姉の名前を貰うたのがいかんかったんかのう……」
「じゃあ、先代の斎王も『タエ』さんなんすか?」
氷室が問うのに老女は頷き、囲炉裏の灰の上に、火かき棒を使って『多恵』と書いた。
「お多恵さんは気の強い人じゃったらしいけど、それはそれは綺麗で、頭も良かったそうでな。あたしも孫にそんな風に育ってほしくて『妙』とつけたんじゃが、まさかその孫が次の斎王に選ばれるなんて……」
二人にご馳走を振る舞ってくれた老女は、自身はほとんどそれに手をつけていなかった。今も、自分の皿に乗った羊羹には見向きもしない。心労のせいか、深い皺の刻まれた目の下には濃く隈が入っている。
「別に名前のせいで選ばれた訳じゃないっすよ。婆ちゃん……じゃなかった、三上さんが気に病む事じゃ……」
氷室が言うのに老女はようやく微かに笑み、「婆ちゃんでええよ」と答えた。だが、その笑顔もすぐに消え、心許ない表情になる。
「あたしにとって、妙はたった一人の孫。あの子が荒神様に連れていかれたら、あたしを婆ちゃんと呼んでくれる子が居らんようになるんじゃな……」
顔をくしゃくしゃに歪め、老女は顔を覆った。氷室はどうやって慰めたものかと草間を見たが、彼は素知らぬ顔で茶を啜っている。仕方なしに、氷室は妙の祖母の丸い背中を撫でた。
「婆ちゃんは何も心配することなんかねえよ! 妙さんは、何が何でも連れてかせやしねえ!」
言いながら自分自身、随分な大言壮語を吐いていると思う。だが不安に泣く老女に対し、励ます以外の何ができるというのだろう。氷室は半ば自分に言い聞かせるように続けた。
「今時、本人の意思を無視した結婚なんて有り得ねえよ。妙さんは、ちゃんと自分で決めた相手のとこに嫁に行けるに決まってる。婆ちゃんは孫の結婚式に出る日まで、元気に過ごす事だけ考えてりゃいいんだって!」
老女は鼻をすすり、頷いた。ありがとう、という呟きは力なくかすれて、氷室の心を痛ませた。
翌日、氷室は草間を伴って、村外にある図書館に足を運んだ。火ヶ畝村に関する歴史書や郷土史はそこにしかないらしく、どれもが持ち出し禁止になっていた。資料になりそうなものを手当たり次第に引き出して机に並べ、氷室は古い和綴じの本をめくる。
「……何だ? これ」
擦り切れ薄汚れた紙の上にのたうつ黒い落書き。氷室の目にはそう見えた。覗き込んだ草間がしかめっ面になる。
「草書か……。厄介だな」
「ソウショ? 文字なのか? ……これが?」
氷室は愕然とする。判読が難しい、というレベルではない。全く読めない。だが、どの本をめくっても大概が草書、良くても行書で書かれたものしかなかった。
草間は席を立ち、やがて一冊の本を手に戻ってきた。
「これと睨み合いながら解読していくしかないな」
『草書辞典』と書かれたその本には、謎の文字の元となる漢字がきちんと記されている。だからといって、普通の辞書を引くように簡単にいく筈もない事は一目瞭然だった。氷室は早くも全てを投げ出したくなる。
「だーっ! 読めるかよこんなの!」
そこが図書館だという事も忘れて大声を張り上げると、司書にジロリと睨まれてしまった。慌てて口を塞ぐ氷室に草間は言う。
「ほう。何が何でも連れてかせない、なんて豪語した奴の言う台詞じゃないな」
氷室は返答に詰まる。確かに、たかが文字に尻込みしていい状況ではなかった。だが、これはあまりにも難解すぎる。途方にくれる氷室の前で、草間はパラパラと郷土史の一冊をめくる。
「まずは全ての本の目次にざっと目を通して、荒神に関する記載がありそうな部分を探す。そこから順に地道に解読していけ。最初は平仮名から。平仮名だけでも解読できれば、あとはそれを穴埋めする要領で漢字を当てはめていけばいい」
言うのは簡単だけど、と呟くと、おまえもな、と返された。確かに草間の言う通りである。氷室は腹を据えて草書辞典を手に取った。
「男に二言はねえ。やってやる!」
「その意気だ。せいぜい頑張れ」
どうやら草間には、助言以外の手伝いをする気は全く無いようだった。泣き言をグッと堪え、氷室は辞書と首っ引きで郷土史の解読に乗り出した。
郷土史の解読には、一週間以上を費やした。要所要所で的確な助言をくれる草間がいなければ、おそらくはもっと時間がかかっていただろう。
満月の夜は目前に近づいている。なのに氷室は未だ、これといった有益な情報を掴めずにいた。
半ば縋るような気持ちで資料を読み進めるうち、ある記述が氷室の興味を惹いた。身籠った斎王に関する伝承だ。村から遠く離れたとある山には、斎王のお産を手助けする山姥が住んでいるのだという。
「荒神とお多恵さんの間に、子供はいたのかな……?」
呟いて、氷室は思考を巡らせる。郷土史の大半に目を通したが、手がかりになりそうな記述は今の所ひとつも無い。なら、一か八かでこの山姥に会い、荒神と多恵について訊ねてみるより他にないと思う。
「どうやら、かの山は男神禁制らしいな。まあ、俺達は人間だから大丈夫だろう」
草間は、その山へ行くと言い出した氷室に反対しなかった。それに意を強くして、氷室は祈るような気持ちで山姥の所へと向かった。夜を徹して車を走らせ、ようやくその山が見えてきた頃になって、本当にこの線で調査していいものかという疑問が湧き上がってくる。
「……こういう仕事をしてるとな」
まるで氷室の迷いを見通しているかのように草間が呟いた。
「綿密な調査だけじゃなく、自分の直感ってのも大切になってくる。当てずっぽうの勘じゃない。経験則から導き出されるものだ」
氷室は草間の目を見据え、頷く。自分は仮にもこの仕事で飯を食っているのだ。ただの勘で動いている訳ではない。もっと自分の能力を信じなければ。
「鬼が出るか、蛇が出るか」
呟く草間と一緒に、まだ夜も明けやらぬ空に黒々と聳える稜線を見上げ、氷室は喉を鳴らす。意を決してハンドライトを握り、先に立って山道を登り出した。
幾らも進まないうちに、霧が立ちこめて二人の視界を遮る。何だか妙だと思った瞬間、鋭い声がした。
「このお山は男神禁制。引き返して貰おうか」
若い女の声だ。素っ気ない口調ながら、その底には何やら興味深げな響きが含まれているように聞こえた。氷室は声を張り上げる。
「俺は人間だ。神様なんかじゃねえよ。斎王のお産を手伝う山姥に会いに来ただけだ!」
氷室の声を吸い込んだ霧が、うっすらと人影を浮かび上がらせる。辛うじて髪の長い、着物姿の女性だと判った。もしや斎王かと思い、氷室は言った。
「お多恵さんを知らないか? 火ヶ畝村の荒神の嫁さんになった人だ! もし知ってるなら……」
「おや。お多恵の客かえ?」
スッと霧が晴れ、女が笑うのが見えた。氷室はおろか、草間までもが僅かに面食らったように目を見張る。
雪のような髪をした若い女が、白い着物を纏って佇んでいた。女は金色の瞳を細めて氷室の姿を見回す。
「よく見れば、人間の小僧じゃないか。……竜神憑きか。変わっているねえ」
「あの、あんた、ひょっとして……」
氷室が口をぱくぱくさせながら問うのに、美貌の女は愉快そうに唇の端を引き上げて答えた。
「斎王のお産を手伝う山姥なら私の事さ。私に会いに来たのかえ? それともお多恵に会いに来たのかえ? 坊や」
顎が外れそうな程ぽかんと口を開け、氷室は女を見つめる。山姥と聞けば、髪を振り乱した恐ろしい形相の老婆が思い浮かぶのだが、目の前に立つ山姥は玲瓏たる美女だった。素直に驚きを露わにする氷室に、女は面白そうに笑う。
「火狩の使いかえ? それともお多恵の血縁者かねえ?」
「ホガリ?」
きょとんとする氷室に、女は笑みを引っ込める。
「おや。ようやく火狩の奴が心を改めてお多恵を迎えに来たのかと思いきや、違うようだね」
「お多恵さんは、やっぱりこの山にいるのか!?」
氷室は目を見開いて歩を詰める。途端、足元に亀裂が走って飛び退った。女が剣呑な目つきでこちらを見ている。
「いるさ。だが今は大事な時期だ。馬の骨にやすやすとは会わせられぬよ」
そこでようやく氷室は、自分が素性を明かしていない事に気付いた。すぐさまその場に膝を付き、女を見上げる。
「俺は氷室浩介。確かに竜神憑きだけど、正真正銘の人間っす。お多恵さんの血縁者が、火ヶ畝村の荒神の嫁さんにされちまうのを阻止する為にここへ来ました」
女は渋い表情で唇を歪めた。
「……何を考えている? 火狩の奴め、お多恵が身重だと知っていて、他の娘を斎王に迎えるなど……」
ひとりごつ女の言葉に、氷室は弾かれたように顔を上げる。
「お多恵さんに、子供が?」
「そうさ。ようやく産み月だ。……そのお多恵の前で滅多な事を口走るでないよ、坊や」
着物の袖から金色の鋭い爪を覗かせた女は、二人を招くように背を翻す。
「お多恵に会わせてやろう。……説明は道々」
久方振りに会う人間を、多恵は華やいだ笑顔を浮かべて迎えてくれた。氷室は若々しいその姿を見て、また驚く破目になる。彼女は妙と瓜二つだった。
山姥は多恵に、氷室と草間を『火ヶ畝村から来た懐妊祝いの使者』だと紹介した。それを聞いて、多恵は顔をほころばせる。
「それは嬉しゅうございます。三上の家の者は息災でしょうか?」
「皆様ご健勝です。斎王殿は?」
草間が問うのに、多恵は大きく膨らんだ腹を愛しそうに撫でながら答える。
「山神様のお陰で、わたくしも子も元気です。どうぞ良い子が生まれるよう祈りながら撫でて下さいまし」
おっかなびっくりの手つきで、氷室は多恵の腹を撫でた。この中に新たな命が息づいているのだと思うと、何とも言えない不思議な気持ちになる。
山姥──正式には山神らしい──から聞いた話によると、斎王は懐妊後、荒神とは離れて暮らし、この山で子供を産むのが決まりなのだという。だが、多恵がここにいるのは妊娠したからではなく、荒神と盛大な夫婦喧嘩の末に村を飛び出してきたかららしかった。夫婦喧嘩のあとに懐妊が発覚するとは、何とも皮肉な話である。
「変な事を訊いてもいいっすか?」
問うと、多恵は稚けない少女のように、笑顔で小首を傾げた。
「子供が生まれる事、荒神──火狩様は知ってるんですよね?」
多恵の表情が見る間に変わった。山神に足を踏まれ、氷室は自分が失言をした事に気付く。
「ええ、ご存知です。なのに祝いの品はおろか、文のひとつも寄越さない薄情なお方なのですわ」
つんとそっぽを向いて、多恵は苛立たしげに着物の袖を握りしめる。
「いくら喧嘩中とはいえ、妻であるわたくしの懐妊を知って知らぬ振りとはあまりの仕打ち。子が無事に生まれたら、こちらから三行半をつきつけてさしあげるつもりでおります」
氷室は草間と顔を見合わせる。こんな状況で何故、荒神が妙を斎王に迎えようとしているのかを突き止めたかったが、下手な事を口にして多恵を激昂させてはまずかろうと思い、二人共が口を噤んだ。
「何かの手違いで、知らせが届いてないという事は考えられませんか?」
訊ねる草間を軽く睨みつけ、多恵は言う。
「有り得ませぬ。私の懐妊が判明した時、たまたまこの山を訪れていらしたやんごとなきお方が、しかと文をしたためてお届け下さったのですよ」
問うように山神を見ると、彼女はしっかりと頷いた。
「それなりのお方さ。男と見込んで私がお頼み申し上げた。知らせが届いていないなどという事は有り得ぬよ」
「あんな薄情な方の事など、どうでもいいではありませぬか」
ぴしゃりと打ち切るように多恵は言い、二人に向かって笑いかける。
「それより、村の様子をお聞かせ下さいまし。私があの村に足を踏み入れる事は、年老いた父の最期を看取る事を許された時より絶えているのです。懐かしくて懐かしくてたまりませぬ」
子供のように話をねだる多恵に、氷室は彼女と同じ名前を貰った妙の話を語って聞かせた。目を輝かせて子孫の暮らしに思いを馳せる彼女に、妙が次の斎王として選ばれた話など聞かせられる筈もなかった。
「おかしな話だよな……」
その夜は山神の庵に泊めてもらう事になり、氷室と草間は顔をつき合わせて話し込んでいた。
「何でお多恵さんが身重なのに、妙さんを嫁に貰わなきゃならないんだ? どっかで話が食い違ってるとしか思えねえんだけど……」
斎王の妊娠期間は約50年だと山神が教えてくれた。氷室の記憶では郷土史の中に、ちょうど50年程前、村に偽の黒羽の矢が立てられたという記述があった筈だ。だがその時は、名指しされた娘がいなくなる事も、偽の矢に対する荒神の怒りだと思われる災害もなかったという。
「荒神自身の自作自演だった、という推論はどうだ?」
草間が煙草をふかしながら冗談交じりに言う。氷室は苦笑した。
「なるほど。行方をくらました嫁さんに出てきてほしくて、違う女の人に粉かけるフリをしたって事か」
そう想像するのは何やら微笑ましかった。山神から聞いた話では、荒神と多恵の喧嘩は、わざわざ語るまでもない些細なきっかけで勃発したのだという。神とはいえ、夫婦喧嘩はどこまでいっても夫婦喧嘩らしい。
満月を明後日に控えていた。氷室はここで一旦、辰海に報告を入れる事にする。仕入れた情報を全て彼に伝え、携帯電話のカメラ機能について詳しく聞きたがる相棒を振り切るように通話を終え、横になる。
うとうとし始めた頃、慌しい足音が聞こえてきた。何事かと起き上がるのと、山神が勢いよく庵に飛び込んでくるのはほぼ同時の事だった。
「手伝っておくれな、若いの!」
山神は、どこからか集めたらしい布の山を草間に押し付け、氷室にタライを投げつける。何を、と問うのに、仰天するような答えが返ってきた。
「湯を沢山沸かしておくれ。お多恵が産気づいた」
氷室は、自分の顔が青ざめる音を聞いたような気がした。
苦しむ多恵の様子を正視できなくなり、とうとう庵の外に逃げ出したはいいものの、産みの痛みに搾り出される絶叫からは逃れられなかった。今も山神の叱咤と、息も絶え絶えに応じる多恵の声が聞こえてくる。
「こういう時、男って無力だな……」
耳を覆いたくなるのを堪えて呟くと、草間は深く頷いて答える。
「いい経験だ。よく憶えておけよ。おまえもああやって生まれてきたんだ」
言われて、神妙な気持ちになる。母親が死に物狂いで生み出してくれた命を、自分は一度、無駄にした。二度としてはならない、という気持ちが更に強くなり、氷室は『母親』の血に濡れた手のまま胸元を掴む。この痛みを、この叫びを、けして忘れないと誓いながら。
氷室は、呻く多恵と生まれてくる赤子に向けて、頑張れ、と念じた。それしかできない自分が情けなかったけれど。
多恵は一昼夜苦しみ続け、ようやくその苦痛から解き放たれた。赤子の声が庵の外まで響き渡った時には、既に満月の夜が数刻後に迫っていた。
「元気な男の子だよ」
山神に目通りを許され、二人は身を清め、多恵と赤子に対面する。夫の仕打ちに拗ねていた少女の面影は消え、多恵は慈愛に満ちた母親の顔で、子供に乳を含ませていた。母子共々の無事な姿に、氷室は足の力が抜けて、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「お疲れさん」
言いながら、草間が助け起こしてくれる。氷室はヘヘッと笑って首を横に振る。
「言う相手を間違えてるぜ草間さん。一番お疲れなのはお多恵さんだろ」
「いいえ。よくぞこの時にわたくしを訪ねて来て下さいました。お二人に、お礼と労いを」
多恵の口調には、苦しみを乗り越えた者だけが持つ貫禄のようなものが感じられた。照れる氷室に、多恵は笑って言う。
「山神様がお助け下さるとはいえ、夫に知らぬ振りをされ、血縁者の付き添いもないまま子を産むのは心細うございました。お二人の存在に、どれだけ励まされたかしれませぬ」
そう言って貰えるのなら、来た甲斐があった。草書と向き合って苦心惨憺した数日間も報われる。そう安堵した時、場違いな程にけたたましい携帯の着信メロディが鳴り出し、氷室は慌てる。相手は勿論、辰海だった。
水を差しやがって、と怒ってやろうと思ったのだが、ふと視線をやった庵の外がとっぷりと暗いのに氷室は息を飲む。電話から聞こえる辰海の声は、今まで聞いた彼の声音の中で一番切羽詰っていた。訊ねなくても、辰海が荒神と交戦中──しかも劣勢にある事が明白だった。
途切れ途切れに轟音が混じる通話の中、辰海は氷室に、今回の荒神夫妻の長い夫婦喧嘩を「とんでもない誤解の賜物」と説明した。誤解を解こうにも、荒神は頑として辰海の話に耳を傾けないようだった。百聞は一見に如かず、今すぐに多恵を荒神の目の前に連れて来てくれと頼まれ、氷室はうろたえる。今から車を飛ばした所で、間に合う筈もなかった。
「そういう事情なら、私が手を貸してやろう」
有難い事に、山神が助力を買って出てくれた。瑞雲というものに乗せて、氷室や多恵を荒神の所まで連れていってくれるという。
「ただし、これは人間には乗れぬもの。草間とやらにはここに残って貰う」
神格を持つ山神と、神の妻である多恵、そして神の血を引く赤子は勿論、瑞雲に乗れる。竜神憑きの氷室も乗れるが、唯人である草間だけが乗れないのだと教えられ、氷室は顔をしかめた。
「そりゃねえよ。草間さんだってここまで手伝ってくれたのに、置いてくなんて……」
「気遣いは無用だ。ただし、事後報告はしっかり頼むぞ」
暗に「仕事を最後までやり遂げろ」と言われているのだと気付き、氷室は頷いた。それでも、ここまで手助けしてくれた草間を一人だけ残して行くのは何やら忍びなく思えて、瑞雲に乗り込んだあとも彼を振り返る。
苦笑顔の草間が、軽く手を上げて送り出してくれた。
「最後の一手だ。仕損じるなよ、何でも屋」
「分かってる。絶対に丸く収めて見せるから、報告待っててくれよ草間さん!」
瑞雲が高く舞い上がる。急激な気圧変化に、耳の奥が詰まる感覚がした。そこに、風の音に紛れて聞き取りにくくはあったが、確かに草間の声が届いた。
「楽しみにしてる、浩介」
え、と呟き、地上を見下ろした時には、草間の姿は既に豆粒ほどになっていた。瑞雲は光の矢のように夜空を裂いて飛ぶ。「今、何て呼んだ?」という氷室の問いは、風の音に掻き消されてしまった。
氷室は逸る胸を押さえて前を向く。まだまだ半人前の自分だが、一人前に近づきつつあると草間に認めて貰えたような気がしていた。けれど、それに浮かれて気を緩めてはいけない。荒神と多恵が元の鞘に納まり、妙の身を守りきるまでは。
だが、不思議と気負いは無かった。不安もまた無い。氷室の相棒は飄々として掴み所の無い男だが、大切な約束を違えた事は一度もない。ならば自分も責務を果たし、多恵と赤子を荒神に引き合わせるだけだ。
雲は月に迫って闇夜を駆ける。その眩いばかりの真円が、今回の事件の円満な解決を示してくれているような気がして、氷室は笑う。その不敵な笑みは彼の胸に、自信だけではなく、『何でも屋』としての矜持が芽生えつつある事を物語っていた。
■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■
【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【6725/氷室・浩介(ひむろ・こうすけ)/男性/20歳/何でも屋】
【6897/辰海・蒼磨(たつみ・そうま) /男性/256歳/何でも屋手伝い&竜神】
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