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社長と私・6
「雅輝さんが好きな鍋物か……」
携帯に保存してあるメールを見て、私はふうっと溜息をつく。
雅輝さんとのメールのやりとりで言っていた話。まだじーちゃんが生きていた頃みたいに、一緒に鍋を囲みながら話がしたいなって思ってた。雅輝さんの方も結構乗り気だったから、機会はやっぱり作りたい。
思い出す光景に、そっと目を閉じる。
暖かい部屋で炬燵に入って、じーちゃんはお酒を飲んでいて。鍋からは暖かくて美味しそうな湯気が上がっていて、雅輝さんが私の取り皿を持って「何が食べたい?」って聞いてくれたり……。
「はっ! 空想に浸ってる場合じゃなかったわ」
カセットコンロの上に乗っている土鍋からは、ほかほかと湯気が立っていた。
鍋物はお店でも食べられるけど、何かこう、くつろげないのよね。多分雅輝さんもお店で……というのは望んでいないはずだと思って、試しに自分で作ってみることにしたのよ。一人鍋はちょっと寂しいけど、慎重であって困ることはないのよ。多分。
「匂いは良い匂いよね」
具材はちゃんと切ったし、出汁も取った。
後は味だけ……私はお玉でだし汁をすくって、そっとそれを飲んだ。
「……うっ!」
……不味い。
いや、これは不味いなんてもんじゃない。激マズ。魚の生臭さと、野菜のアクと、あと他は何? 何か味覚の世界が広がったあげく、別の世界が開きそうになったわ。
「寄せ鍋って具材入れるだけよね? 何でこんなに不味いの?」
これはもう呪いなのかしら……ちゃんと覚えている手順通りにしてるのに、料理が上手く行った試しがない。ここは女の手料理を見せて、雅輝さんに感心してもらう所じゃないの?
「折角雅輝さんとの鍋なのにー……」
はぁ。
でも、これは今に始まった事じゃないわよね。よくよく考え直せば、雅輝さんとは古い付き合いで、私が料理下手だってのも知ってるはずだし……諦めて注文しよ。無理矢理私が作った物食べさせて、何かあったら恐ろしい目に遭うわ。
「よし、鍋物は注文するとして、後は約束よね」
私の休みは二月十四日。
計画としては、その日に会社の宿泊室を借りて、そこに炬燵とかを持ち込んで一緒に鍋を囲む感じ。流石にまだ雅輝さんを家に呼ぶ度胸はないし、それ以前に勇気がない。もし家に呼んだなんてばれたら、Nightingaleの皆はともかく秘書が怖いわ。私だって命は惜しい。
「バレンタインだから、予定とか入ってるかな……そしたらちょっと残念かも」
ドキドキしながらメールを送る。
さりげなく去年のクリスマスの話とかしながら、開いてたらどうですーみたいな感じで。別に十四日を狙った訳じゃなくて、本当のその日が丁度休みだっただけで。
「どうしよう、何か緊張してきた」
返事、どう返ってくるのかしら。
そんな事を思いながら、私は不味く出来上がってしまった寄せ鍋を前に溜息をついた。
そして二月十四日……。
私はいそいそと宿泊室に炬燵や座布団を持ち込んで、鍋物の用意をしていた。
雅輝さんからの返事は「14日の鍋のお誘い楽しみにしているよ。その時間は丁度何もないし、良い季節だからね」
本当に何もなかったのか、それとも私のために開けてくれたのかしら……なんて、メールを見たときドキッとしちゃった。
「鍋はお店に頼んだし、お酒も用意してあるし……」
鍋奉行は雅輝さんがしてくれるっていうし、後は来てくれるのを待つだけ。炬燵に足を入れて、私はそっと台所の方に隠してある包みに目をやった。
チョコレート。
今日はバレンタインだから、会社の情報部の皆にも渡したけれど、この包みはまた別……そんな事を思っていたときだった。
「桜? 入ってもいいかな」
「あ、いらっしゃいませ。どうぞどうぞ」
雅輝さんの声がして、私は慌てて炬燵から出た。
「やあ、今日はお誘いありがとう」
多分ここに来る前に、何処か行っていたんだろう。雅輝さんはコート姿で、私がクリスマスにあげたマフラーを外しながら入ってきた。眼鏡の端が少し曇っているのは、外が寒かったからなんだろうか。
「何処かから直行ですか?」
ハンガーを手に取りながら私が言うと、雅輝さんは少しだけ目を細める。
「うん、ちょっと商談にね。でも、思ってたより早く済んで良かったよ」
「じゃあ、今はゆっくりくつろいで下さいね。雅輝さんいつも忙しそうですから」
座ったのを確認して、コンロに火を。そして用意していた『久保田 碧寿 山廃純米大吟醸』を手に取った。
「ささ、まず一献行きましょう」
「ありがとう」
私が自分の杯に入れようとすると、雅輝さんは笑いながらそれを止めた。そうだわ、手酌は良くないもんね。
「あ、返盃頂きます……乾杯しますか」
「そうだね。こうやって、くつろいで鍋をするのは久しぶりかな」
小さく乾杯をして、ぐっと杯を……んー五臓六腑に染み渡る〜! やっぱり鍋には日本酒よね。今日はあんまり飲み過ぎないように、程々に行こうっと。
「鍋はお店に頼んだので、味は大丈夫ですよ。私が作ると、くつろぐどころじゃありませんから」
「メールでも言ったけど、今日は僕が鍋奉行のつもりだからね。煮えてきたところから食べていこうか。お皿出して」
えっ? そんな、取ってもらわなくても、もう私子供じゃないですし……とか言っても、取ってくれるんだろうな。ここは遠慮しちゃいけないわよね。
「雅輝さん、本当に鍋奉行ですね」
「お店で食べると、店の人にやられちゃうからね。あれはあれで落ち着かないものだよ」
お豆腐とか鱈とか取ってもらって、頂きます……うん、んまい! やっぱり奮発してお店に頼んで良かったわ。ささ、雅輝さんも食べて食べて。
「うーん、美味しい……雅輝さんと一緒に、鍋突くの久しぶりですね」
「そうだね。昔はよく桜の家で夕飯をご馳走になったんだけど」
「じーちゃん鍋好きだったから、雅輝さんが来る度に、何か鍋してましたよね。すき焼きとか、しゃぶしゃぶとか」
なんか、鍋の湯気越しに雅輝さんを見るのも久しぶりな気がする。すき焼きとかしたときも、じーちゃんが具を入れて、雅輝さんが私に取ってくれたのよね。何か懐かしい。
「雅輝さん、ビールもありますよ」
日本酒だけじゃなくて、ビールも用意。やっぱり鍋には缶じゃなくて瓶ビールよね。いそいそとコップを用意しようとすると、雅輝さんは空いた場所に具を少しずつ入れている。
「そうだ、桜。この前はご苦労様」
「いえ、ご苦労様だなんて……仕事ですから」
少し前に雅輝さんから頼まれた、侵入の任務。仕事自体は上手く行ったし、私は収穫があったけれど、この任務は実は会社からのものじゃなかった。
雅輝さんが、個人として何かを調べている。
Nightingaleは雅輝さんが持っている個人組織だから、それに対して私達が異を唱えたりすることはない。
「……また、分家絡みとかだったんですか?」
それを聞くと、雅輝さんは小さく首を振った。
「いや。篁の家と昔から敵対している家があってね、桜に調べてもらった貿易会社はそっちに繋がりがあったんだ」
「雅輝さんの敵なら、私達にとっても敵ですね」
「だね。随分昔から色々あったらしいけど、僕の代でそろそろ決着を付けたいなと思っているんだ。分家絡みにしても、後々まで引きずるのは面倒だし」
エビの尻尾を取りながら、私は顔を上げる。
「雅輝さんって、意外と面倒がりですよね」
自分でも気付いてるのかな……それとも無意識なのか分からないけど、雅輝さんが合理的なのは「面倒」を嫌ってのような気がする。
「そうだね。僕は面倒がりだから、桜たちに色々手伝ってもらっているんだよ。多分、その敵対者相手の任務はこれからも増えるだろうから、桜にはもっと手伝ってもらわないと」
「過労死しない程度にお願いします」
グラスを持ったまま、クスクスと二人で笑う。
嫌だなんて言うわけないじゃないですか。雅輝さんが調べろって言うなら、国家機密だって調べに行きますって。分家だろうが、敵対する家だろうが調べ上げちゃいます。
他にも最近の私の話とか、友達の話とか……美味しい料理と美味しいお酒。そして雅輝さんが一緒だとやっぱり話も弾む。
「何だか仕事の話が多くてすまないね」
「いえいえ、どんな話でも楽しいです。雅輝さんは、鍋物の締めは雑炊がいいんですよね?」
「うん、やっぱり卵が入った雑炊が好きかな。すき焼きだとうどんだけど」
「最後に三つ葉乗せると、良い香りですもんね」
それは昔から変わらないんだなー。そう思うと何だか安心する。ご飯を少しくつくつ煮て、柔らかめにしたところでふわっと卵。三つ葉を乗せて蓋閉めて……普段料理とかしていないはずなのに、雅輝さんは手慣れた感じで締めの雑炊を作った。
「これが楽しみなんですよねー。雑炊は私が取り分けますから」
「ありがとう」
卵の所を雅輝さんの器に入れて。出汁がしみたご飯が美味しいー。二人分だけど、美味しく頂いちゃったわ。量も丁度良かったし。
「食後のお茶用意しますね。雅輝さんはゆっくりくつろいで下さい」
「桜のお言葉に甘えてそうしようか」
そそくさと台所に下がって、私はチョコの包みを見て少し悩んだ。そっと部屋を見ると、雅輝さんはコンロの火を止めたりして、残ったお酒を飲んでいる。
「どうやって渡そうかな……」
メールではチョコ渡すとか軽く書いちゃったけど、いざとなると結構悩む。幼い頃は、恥ずかしげもなく渡せたけど、やっぱり今は恥ずかしい……まさか、本命だなんて言えないし。
うん、義理よ、義理。社長に渡す義理チョコ。頑張れ私!
「桜?」
うわお、呼ばれた。
私はチョコの包みが入った紙袋を後ろ手に持って、ひょこっと顔を出した。
「雅輝さん、今日チョコいくつもらいました?」
後ろに隠したままそそくさと歩き、また座る。雅輝さんはくすっと笑うと、何かを思い出すように宙を見た。
「うーん、外に出てたから全部は数えていないけれど、朝の時点で二十個ぐらいあったかな?」
流石、モテモテだわ。多分、外でももらってるんだろうなと思いつつ、私もそっと紙袋を差し出した。
「はい、私からも毎年のチョコです。フランスのイルサンジェーのチョコで、美味しいんですよ。どうぞ」
「ありがとう、桜」
雅輝さん、私のチョコを受け取ってにっこり笑って。
うっ、その笑顔は反則だわ。頬が熱くなるのが分かって、心の中で耐えろーと呟く。
「これから書類に目を通すから、その時に食べるよ。桜が美味しいって言うなら期待できそうだ」
社交辞令だとしても、嬉しいな。
楽しい時間は過ぎるのが早い。鍋も終わったし、そろそろお開きの時間。雅輝さんも帰る用意をしているし。
「雅輝さん、これから仕事なんですか?」
コートをハンガーから降ろして聞いたら、年度末だから目を通さなきゃいけない書類があるんだって。それでもここに来てくれたのは……いや、今考えたら顔が赤くなっちゃう。
「お疲れ様です。また機会があったら何かしましょう」
「今日はありがとう。楽しかった」
私も、楽しかったです。
「じゃあ、また」
去っていく雅輝さんの背を見送った後で、私はドアを背にぺたっと座る。
また、今度何かしようかな。雅輝さんが少しでも楽しんでくれるならいいし。
「………」
顔が赤い。
これは酔ってるんじゃ、ないわよね?
fin
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