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水中の女
１．
その日、草間興信所に訪れた客は何処か気弱そうな男だった。
年齢は３０代前半といったところだろうか。
「最近、奇妙なものが見えるんです」
席を勧められた男は腰掛けてから、そう用件を切り出した。
「奇妙なもの？」
草間の問いに男は「はぁ」と弱い声で返事をし、事情を話し始めた。
それが見えるようになったのはひと月ほど前の雨の日だった。
しょぼしょぼと降り続く雨の中、傘をさして帰路についていた男は、ふとひとつの水溜りに目がいき、ぎょっとした。
女の顔が、そこに浮かんでいた。
眠っているのか別の理由なのかはわからないが、目を閉じた女の顔だけが水溜りの中に浮かんでいる。
その日は慌てて逃げ出してしまったが、以来『女』は雨の日になると男の前に現れた。
現れるのは決まって水溜りの中。目を閉じていることも変わらない。
「最近は雨の日は出歩かないようにしています。ただ、彼女がいったいどうして僕の前に現れるのかがわからなくて……いったいどうしたら良いんでしょう」
ため息混じりにそう呟いた男を前に、草間もどうしたものかと太い息を吐いた。
「その女の人は周囲の人にも見えているんでしょうか」
一緒に話を聞いていたシュラインがそう尋ねると、男は首を横に振った。
「いえ、それが僕にしか見えていないようなんです。何気ない振りをして聞いてみたこともあるんですけど、誰も水溜りには何もないというだけで」
もしかすると幻覚を見ているのではないかと不安に思うこともあったようなのだが、幻覚だと思うには女の姿があまりにはっきりと見えすぎるためそうとは思えないらしい。
「本当に幻覚ってことはないんだな？」
「……そうです、とは言い切れません。だって、それを見てるのは僕だけなんですから」
草間の念の押し方に不安を覚えたのか男は気弱な声でそう言ったが、シュラインはすぐに草間をたしなめるように口を開く。
「武彦さん、そんな意地の悪いこと言わないで。この人が見ているというが幻覚なんかじゃないってことくらい本当はわかっているんでしょう？」
「そりゃわかってるがな、どうしてほしいかわからないんじゃどうしようもないだろ？」
どうやら草間はその点が依頼として不十分だと思っていたらしい。
「困っている人を放っておかないの。少なくともその女の人の正体を調べるっていう仕事はあるもの」
そうでしょう？ とシュラインが微笑みながら言えば、草間は降参だといわんばかりに肩を竦めた。
２．
「それで、女の人の姿が見えるようになる前後に、貴方は何か変わったことをしましたか？」
「変わったこと、ですか？」
改めてそう尋ねられた男は考え込むように微かにうーんと唸ってみせた。
「雨や傘、そういうものに関わることで何かをしたということはないですか？」
「傘？」
その単語に尋ね返したのは男ではなく草間のほうだ。
「雨の日、そして閉じるものっていうふたつから傘っていうのを想像しちゃったんだけど、強引だったかしら」
「傘か……そういえば、あんたが女を最初に見たときも傘を指していたんだよな？」
「はぁ、そりゃ濡れるのは嫌ですから」
「その傘に何かあるとか？」
その言葉に男は驚いたような顔をして見せたが、すぐにいやでも、と何かを自分で考えるようにひとり言を呟き始めた。
そんな反応に、草間とシュラインは顔を見合わせ男に問いかける。
「傘で何か思い当たることがあるんだな？」
「いったいどんなことかしら」
ふたりから尋ねられ、男はやや慌てたように「いや、その」とまた余計な前置きをしばらく続けたが、結局諦めたように思い出したらしいことを口にした。
「実は、いま使っている傘は借り物なんです」
「借り物？」
「いや、借り物っていうか……」
「おい、どっちなんだよ」
曖昧な男の言い方に焦れたように草間がそう尋ねると、男はやはりやや慌てたまま事情を話す。
「実はあの日友人の家に遊びに行ってその帰りに雨が降ったんです。生憎僕は持ってきていなくて困ったなと思っていたんですが、そうしたらそいつがある傘を適当に持っていっていいって言ったんで適当に借りて……」
「で、そのまま返すのを忘れて使ってるってことか」
「いや、それがその……返さなくていいって言われたんです」
詳しい話を聞けば、どうやら男に傘を貸した男にとってそれはもう不要のものだったらしくそれを男に押し付けたということのようだった。
「じゃあ、その男もその水溜りの女を見てたんじゃないのか？」
もしかするとそれを知った上で男にその女ごと押し付けたのかもしれない。
「でも、その傘が原因と決まったわけじゃないですし……」
そんなことをするような相手ではないと思っているのだろう。草間が示唆したことを信じられないという様子の男に、シュラインはひとつ提案をした。
「ここはひとつ、その傘を持ってきてもらうのが一番なんじゃないかしら。もしかしたら雨の日の水溜りじゃなくても水がある程度溜まっている場所になら出てくるかもしれないじゃない」
そんな実験を行ったことなど無論なかったらしい男は目を僅かに瞬かせたが、その提案を受け入れ持ってくることを約束した。
３．
男が持ってきた傘は一見すると何の変哲もない傘だった。何処にでも売られているようなデザインだがコンビニで売っているものよりは多少は上等そうだ。
だが、シュラインはもうひとつのことに気付いていた。
「これ、女性もののようね。男の人が使っても変じゃないけど、少し細すぎる気がするわ」
「そうだな、言われてみればそうかもしれない」
濃い青色をしたその傘は、男女どちらが使っても差し障りはなさそうで、目の前にいる男ならば使っていてもおかしな印象は持たないだろうが、しかしシュラインが見る限りどちらかといえばこういう傘は女性が使うもののはずだ。
「これを貸してくれたのはあなたの男性の友人なのよね？」
「……そうですが」
「もしかして、別れた女が置いていった傘なんじゃないか？」
それならば不要となって別の人間に押し付けたということにも納得がいく。
そんな話をしている間にシュラインは準備を整えていた。
水で満たした洗面器を床に置き、傘を準備する。
「最初はあなたに持ってみて確認していただきます。それで見えたら私が交代してその女性が見えるかどうか確かめます。そうすれば傘が原因かどうかわかるでしょうしね」
シュラインに促されるように男は恐る恐る傘を開き、一呼吸してから洗面器を覗き込んだ。
「どうだ？」
「あ、あります……女の顔があります」
ゆっくりと振り返った男の顔には困惑した表情が浮かんでいる。まさか傘が原因だったとは思っても見なかったのだろう。
「じゃあ、今度は私にそれを渡してください」
そう言った途端、男は傘をシュラインに慌てて手渡した。原因だとわかった傘を長く持っているのは気分が良いものではないのだろう。
傘を開いたまま、シュラインはゆっくりと洗面器を覗き込む。
確かにそこには男が言うとおり顔があった。目を閉じた黒髪の女性の顔が。
「いま、貴方には女性の顔が見えていますか？」
傘を開いたままシュラインが男にそう尋ねると、男は恐る恐る洗面器を見てから首を横に振った。草間もそれに倣ったということはやはり女はこの傘を持っているものにしか見えないのだろう。
「なら、これで事件は解決ですね。今日は幸い雨が降っていないので、いまのうちに新しい傘を購入して、この傘はこちらで預かります。そうすればもう女の人は貴方の目の前には現れないでしょう」
そう断言してみせると男は安心したように大きく息を吐き、草間とシュラインに礼を言った。
「けど、傘をくれたという御友人にそのことを話すのはやめたほうが良いと思いますよ」
シュラインがそう付け加えたとき、男は怪訝な顔をしたが特に何かを言うわけでもなくもう一度礼を言ってから興信所を後にした。
４．
「どうして知らせるななんて念押ししたんだ？」
男が立ち去った後、草間にそう尋ねられたシュラインは傘を広げ洗面器を覗いたままそれに答えた。
「もしかすると、そのせいでトラブルに巻き込まれるかもしれないもの。依頼後の安全も守らないとね」
「トラブルだと？」
「どうして目を閉じてるのか、どうしてこの傘を持ってる人にだけ見えるのか。それがまだ解決してないもの」
そう言いながら、シュラインはゆっくりと洗面器に──女の顔へと自分の顔を近づけた。
「おい、危険な真似はするなよ」
慌てて草間がそう言ったが、シュラインは大丈夫よと手を振ってみせる。
「さぁ、傘に何かがあるの？ それとも──」
『苦、しい』
シュラインの言葉に答えるように、不意にその声が耳に届いた。草間のほうを見るが心配そうにシュラインのほうを見ているだけで声は聞こえていないようだ。
「どうして苦しいの」
草間には聞こえないように声を潜めてシュラインは女に向かって尋ねた。
『息ができない、あの、人に』
途切れ途切れの声にシュラインはあることが脳裏によぎった。
依頼人の友人の家に置いてあった女ものの傘、不要だといった友人。
「武彦さん」
「なんだ？」
「至急、私がいまから言う特徴に合う女性が行方不明者リストの中にいないか調べてみて。あるいは水に関わることで事故死扱いになってるかもしれないけど」
「……どういうことだ？」
「目を閉じていたのは水中に顔を押し付けられたから、傘の中にしか顔が見えなかったのは、彼女が最初の持ち主だったからよ」
揶揄するように草間が依頼人に言ったことが遠からず的中していたということになる。
別れた女、だが、それが恋人であったかどうかはわからない。
「もうしばらく我慢して、すぐに見つけてあげるから」
草間がすばやく該当者を探している間、シュラインはそう実際にはまだあっていない女に言い聞かせていた。
了
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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0086 / シュライン・エマ / 26歳 / 女性 / 翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員
NPC / 草間・武彦
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマ様
いつもありがとうございます。
この度は、当依頼にご参加いただき誠にありがとうございます。
雨の日と閉じるということから傘を連想ということで、このような形とさせていただき、傘と水というところから事件の真相を作らせていただきましたがお気に召していただければ幸いです。
またご縁がありましたときはよろしくお願いいたします。
蒼井敬 拝
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