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イナヅマ娘と博士
「博士、もういい歳なんですから脱走はやめてくれませんか?」
「急な会議なのは仕方ないんですから。食品会社は今大変なんですよ」
「むきゅー」
冬の空が爽やかに青い午後。
本社の会議から抜け出した白衣姿の篁 雅隆(たかむら・まさたか)は、まんまと本社の警備員に捕まり、囚われのクトルグレイ状態で、ずるずると公園を引きずられていた。
普段会議があるときは、雅隆の秘書がなだめすかして何とか行くのだが、今日はたまたま休暇を取っていたなかの急な会議で警戒していた最中の出来事だ。もうこうなると「目的があって脱走」ではなく「脱走するのが目的」という、本末転倒状態である。
「こんな天気がいい日に会議なんて、間違ってるよぅ」
「はいはい」
ずるずると引きずられながら言ってみても、無論期待するような返事はない。このへりくつに付き合うと、いつの間にか論点をすり替えられて逃げられるのは、相手も分かっているからだ。仕方なく雅隆は、辺りに目を動かす。
「小学生はいいにゃー」
丁度下校時刻なのか、ランドセルを背負った小学生が家路へ向かって歩いている。色とりどりのランドセルが可愛らしい。
「僕もランドセル背負いたかったな……なーんて、僕小学校の勉強つまらなくて留学してたんだけどねーって、何か言ってよーぅ!」
無論、返事はない。
だが、その光景をじっと見ている少女……一条 樹里(いちじょう・じゅり)がいた。
「はかせが捕まってる……」
スーツの人は白衣の人を「はかせ」と呼んでいた。今は話をしていないけれど、それは「よけいなこと」を喋らないためなんだろう。この前ちょっと見たテレビでそんなことを言っていた。
「はかせがいないと、日曜日の朝8時30分からやっている、『甲殻戦隊・バルダイン』の巨大ロボットが動かなくなっちゃう!」
バルダインは樹里が毎週楽しみにしている戦隊物で、美しい海を守るためにエビやカニなどの甲殻類をモデルとしたメカが戦う番組だ。その番組に出てくる『はかせ』は、敵に狙われているため、秘密基地や巨大ロボを戦隊の皆に託して、声だけの登場になっている。
「地球のピンチ! はかせを助けなきゃ!」
そう呟くと同時に、樹里は駆け出していた。そして、公園の柵を足場に身軽に飛び上がり……。
「イナヅマ!!」
その瞬間、雅隆は自分の頭上に風を感じた。顔を上げると、神聖都学園初等部の制服のスカート下にスパッツをはいた少女が警備員に見事なレッグラリアートを決めていたのだ。そしてすかさずもう一人に稲妻キックを入れる。
「わーを……」
これが本社のNightingaleのメンバーであれば避けていたのであろうが、雅隆一人を捕まえるのに出されたのは普通の警備員だ。流石に突然のこの攻撃は避けられないであろう。まさか、レッグラリアートが飛んで来るとも思うまい。
「なっ!」
一人が突然倒れ、雅隆の腕への拘束が緩んだ。その隙に樹里は雅隆の手を取り、ダッシュする。
「はかせ、こっち!」
樹里は雅隆を見上げ、にこっと自信ありげに頬笑んでいる。金色の髪が動きに合わせて揺れる。
「う、うん」
何だか良く分からないけれど、逃げられるのなら逃げよう。というか、この子についていけば面白そうだし、退屈な会議に出なくても良さそうだ。面白ければ正義だ。
「博士! 待って下さい」
チラと樹里が振り返ると、悪者は首や頭を押さえて立ち上がるところだった。もう一人が首を振りながらそれを起こしつつ、こっちを追いかけようとしている。
「とろくさいのには負けないもん。はかせは樹里が守らなきゃ」
手を引っ張ったまま、樹里は破れたバックネットをくぐった。その後を雅隆もひょいとくぐる。雅隆は細身だからなんとかくぐり抜けられるが、普通の大人がくぐるには穴が少し小さいかも知れない。
「はかせ、大丈夫? こわくない?」
「うん、大丈夫だよー……怖くないよ?」
樹里の言っている「こわい」とは北海道弁で「疲れる」という意味なのだが、雅隆には通じていなかったらしい。通じてはいないが会話は成り立っている。
「博士、待って下さい!」
流石にこれぐらいでは、向こうも仕事なので諦めないらしい。一人がバックネットをくぐり、もう一人は別方向から回り込むつもりのようだ。樹里は雅隆の手を引いたまま、今度は塀を乗り越えようとする。
「ここは乗り越えても、怒られないんだよ」
ぴょんと飛び乗り、樹里は雅隆に手を差し出した。まさか三十路を越えて、人の家の塀に上ることになるとは思わなかった……が、それはそれで楽しいのでありだ。
「はかせ、上れる?」
「だいじょぶー。上るのは出来るんだよね、降りるのは怖いけど」
塀を越えると、人の家の庭だ。だが、ここの家に住んでいるお婆ちゃんは樹里の友達なので、こうして通っても怒らない。
「もう追っかけてこないかな?」
「博士、いい加減にして下さい! もう知りませんよ!」
「なまらしつこいなー」
「北海道弁?」
「うん、樹里北海道から引っ越して来たの」
どうやら、悪者はまだ諦めていないらしい。塀の隙間から見ると、携帯電話で何か話しているのが見える。このままだと仲間を呼ばれるかも知れない。逃げる場所を間違えたら、変装した悪者に捕まってしまう。
「はかせ、安全なところに案内するね」
「安全なところ?」
悪者が離れるのを確認した後で、樹里は思いきり手を引いて走る。
神聖都学園の敷地内、初等部の裏山。その中にある一本の大きな木の上に、樹里が作った秘密基地がある。あそこなら見つからないし、悪者が来ても上から秋に拾っておいたいがぐり爆弾で応戦できる。それに屋根や壁もあるので暖かい。
「こっちこっち」
向こうも大事にはしたくないから、学校の敷地の中には入ってこないだろう。一応後ろを気にしつつ後に付いていくと、樹里は大きな木をするすると登り始めた。
「ここ登るのぅ?」
「樹里が言う通りにしたら登れるから。教えてあげるね」
運動神経がないわけではないが、三十路を越えて木登りすることになるとは思わなかった。樹里に教えてもらいつつ、何とか上に登ると、そこはなかなか快適な秘密基地だった。
ビニールシートやダンボールで屋根や壁が作ってあるし、見張り用の覗き窓もある。箱に入っているいがぐりの横には棘が刺さらないように拾ったトングもある。
「助けてくれてありがとね……樹里ちゃん、だっけ?」
「なんもなんも。あ、キャンディーあげるね」
スカートのポケットから出されたキャンディーを口に入れると、樹里はキラキラした目で雅隆を見た。目の前にいるのは憧れの博士だ。きっと巨大ロボや、変身ブレスレットの秘密も知っている。
「ねえはかせ、さっきの人たちは悪者なの?」
「うん、そうだよー」
雅隆にとっては会議に出させようとする悪者だが、向こうは仕事だというのは関係ない。雅隆にとっては、確かに「悪者」である。
「したっけ外に出るときは注意しないと。ここに来たら、樹里が稲妻キックをお見舞いするからね」
そう言いながら樹里は警戒するように下を見た。秘密基地は下から見つからないように作ったけれど、油断は出来ない。
「あ、はかせはゆっくりしててね。ねえねえ、バルダインのロボはいつ作ったの? やっぱり悪者に狙われてるから逃げてるんだよね」
なるほど、突然手を取って逃がしてくれた謎が解けた。
バルダインは雅隆も日曜日に見ている。樹里はそこに出てくる「博士」と自分を一緒にしているのだろう。まあ、日常「博士」と呼ばれる人は少ない。
「ロボットはね、十年前にアメリカにいるときにこっそり作ったんだ」
「アメリカで?」
「そうだよ。日本は狭いし、悪の手が僕を狙っていたからね……でも、あいつらが日本で活動を始めたから戻ってきたんだよ」
「それでメンバーを集めたんでしょ? すごーい」
ここで樹里の夢を壊すような雅隆ではない。毎週見ているのもあり、話を合わせることにした。後で本当のことが分かったとしても、それはそれだ。
「今は東京湾に隠してるんだよね?」
「そうだよ、普段見つからないようにしておかないと。今日は樹里ちゃんが助けてくれたから、バルダインの皆を呼ばなくて済んだよ」
「えへ。樹里も大きくなったら、正義の味方になれるかな?」
微笑ましい。
その眩しい表情に、雅隆も笑顔になる。
「なれるよ。僕が保証してあげる」
すると、樹里がにこっと笑って両手を組んだ。
「本当? じゃあ、樹里用にバトルスーツとかロボとか作ってくれる?」
「おけ。樹里ちゃん用に、オリジナルスーツを作ってあげる」
安請け合いをしたものだが、なにげに構想はあったりする。今は細菌の研究を主にしているが、元々雅隆は義体等の研究が専門なのだ。
「やったー……っとと、外に聞こえてないよね」
嬉しくて大きな声を出した樹里は、そっと辺りを警戒した。そして誰もいないことを確認すると、右手の小指をそっと立てる。
「はかせ、約束ね」
「うん。指切りげんまんしたら、バトルスーツのデザイン考えようか」
指切りをした後、樹里はランドセルの中から自由帳と色鉛筆を取りだして、雅隆と一緒にバトルスーツの絵を描き始めた。
「変身用には、腕時計型がやっぱりいいかなぁ。あんまり派手だとみったくなくなるから」
「だねー、時計なら色々機能つけられるし。樹里ちゃんは、どんな機能が欲しい?」
「んー……通信機能とレーダーでしょ、あと薬とかあるといいかな」
雅隆はそれを聞くと、もらった紙にその要望を書いた。だが、それを樹里がじっと見ている。
「樹里ちゃん、どしたの?」
「それって暗号だよね?」
暗号ではなく、単に雅隆がたぐいまれなる悪筆だからなのだが、樹里はそれを「暗号」と認識したようだ。まあ、間違ってはいない。
「樹里も暗号教えて欲しいな」
「バトルスーツが出来たらね。ほら、暗号はずっと同じの使ってるとばれるから」
「そっか、暗号も進化するんだね」
進化というか、退化というか。
そうこうしているうちに、夕暮れのまったりした日差しが空にグラデーションを作り始めていた。薄暗くなった秘密基地の中には懐中電灯の明かりが灯っている。自由帳にはバトルスーツだけでなく、ロボットや秘密基地のアイディアが色々書かれていた。
「もう悪者も来ないよね」
そう樹里が言ったときだった。制服の裏ポケットに入れてある樹里の携帯が、可愛らしい着信音を立てる。
「もしもし。あ、お母さん?」
電話は樹里の母からだった。携帯の時計を見ると、5時30分近い。もっと遊んでいたいけれど、もう家に帰る時間だ。
「これから帰るね。うん、大丈夫ー」
ピッ。
電話を切った樹里は、ランドセルを背負う。
「したら、じゃあね! はかせ! また遊ぼうね!!」
「樹里ちゃん、気をつけて帰ってね」
外に出ようとした樹里は、何かに気付いたようにピタと止まった。このまま帰ってしまったら、はかせと連絡が取れなくなってしまう。
「あ! はかせのメアド教えて!!」
「いいよー。名刺は持ってないけど」
日本語ではないので、雅隆はスラスラと綺麗な字でメールアドレスと携帯の番号をメモに書いて樹里に渡した。それをポケットに入れると、樹里はにこっと笑う。
「したっけ、またねー」
ぴょん。
樹里がランドセルを背負ったまま、入り口から飛び降りる。そして猫のようにすたっと着地すると、あっけに取られている雅隆に大きく手を降った。
「バイバーイ」
「樹里ちゃん、また遊ぼうねー」
走っていく樹里の背が段々小さくなり……雅隆はあることに気がついた。
「……さて、どうしよっかにゃ」
登ったはいいが、ここからどう降りたらいいのか。樹里のように飛び降りるのは無理だし、第一登ったときも教えてもらいながらだったのだが。
「あー……やっちゃったね、僕」
膝を抱えてメールで助けを呼んだ雅隆が怒られるのは、また別の話……。
fin
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