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繰り広げられる三百六十五日
朝の強烈な光がカーテンに中和され、ぼんやりと部屋を照らす。淡い陽射しの下で少女は寝苦しそうに眠っていた。両手が飛び出し、ほどいていた黒髪が周囲に散っている。桃色のシーツと枕、パジャマがよく似合っていた。
「う、うう〜」
いつもの可憐な寝顔が柳眉をよせ、うなされている。
夢の中で水無瀬燐は。
道端で拾った小石の夢をみていた。なぜか三角形で、おにぎりのようだ。
手にしたとたん瞬く間に重くなり、すぐに離した。だが重力に抗ってお腹にへばりつき、そのまま圧迫していく。
「へへ〜んだ」と言いながら、小石がわらわらと集まってくる。後方へ圧されて立っていられなくなり、尻餅をついてしまった。このままでは息ができなくなってしまう。
馬鹿にしているのかと額に青筋を浮かべた。
手を振り乱し「どくのじゃ! 燐に触れるな!」と一喝。
はっと目を覚ました。
見慣れた天井が青い瞳に映る。親しんだ朝の光が覚醒を促していた。
うつつの世界に戻ってきたのだ。
「夢、じゃったのか……」
目覚める寸前に現実の方の腕を使ったことは覚えている。いや、肩の関節が動いたことを主張していた。
もうどんな夢だったのか分からない。瞳を開けた瞬間に、どこかへ置き忘れていた。ただ、寝返りもできずお腹が苦しかったことだけは記憶にある。
ちらりと布団の上を一瞥した。
「……原因は、お主か」
三毛猫が気持ちよくすやすや眠っていた。ただの猫ではない。猫又の子猫だ。尾が二本あり、先だけ上下に揺らしている。燐のお腹の上で――
最近あまり睡眠がとれない。夢を見るのがその証拠。それというのも猫又が来てからだった。飼うと意気込んだものの猫の飼い方については何も知らない。本を読み、日々悪戦苦闘していた。
「起きるのじゃ!」
猫が降りない限り、自分は起きることができない。
猫又はピクリと耳を動かし、目を薄く開ける。
「燐の上で寝るとは肝が据わっておるのう……。今後寝るときは床の上か燐の横じゃ!」
ビシッと猫又に指さした。
「なぁ〜ん」と鳴き、微かに震える。少女の体温で温もった布団の中へ潜り込んだ。分かったのか分からないのか、上手くかわす猫。そっと掛け布団を持ち上げると、先ほどよりも丸まって眠っていた。寒かったのだろうか。いや、それとこれとは別だ。「また叱らねば」と決意する。
そんな一人と一匹を眺めていた妖怪たち。部屋の中で大量に徘徊していた。黒い毛の生えた小さな妖怪と両の目玉だけの妖怪など火の玉を浮かばせて部屋を行ったり来たり、壁をすり抜けたり。常人なら気絶しかねない幽霊や魔物がいる中で燐は平然と寝起きしていた。この家の魑魅魍魎たちは無害だったからこそ。
*
燐は支度をすませ、玄関の扉を開ける。久方振りの姉に会うためだ。
本来なら休日でも外出しない。しかし、会う機会は逃したくない。
一歩踏み出して、外の様子をくまなく見回す。
――何も、誰もいない。朝の光が冷えた道を暖めているだけだ。ほっと胸を撫で下ろす。
もうあんなことはごめんだ。体質とはいえ毎日追いかけ、られ……て――――
「っ!」
通りかかった道に止めてあった車。その脇から妖怪らが溢れ出てきた。口からよだれを垂らし、にやりと口角を上げる。
待ち伏せされていた。
「くっ」
燐は一歩後ずさる。妖怪らも一歩詰め寄った。
「り、燐がそんなに欲しいのか! もう追ってくるなぁ!」
振り向きざまに疾走する。
少女は竜神の血を引く。全身に流れる血は癒しの薬。人が血を飲めば自身の能力を一時的に数段階増幅させる。妖魔にとっても魅力的な誘い。餌を目の前にして狙わないわけがない。
燐が生を受けてからというもの、闇の住人との戦いが待っていた。
「なぜこんな宿命を……!」
一向に答えの出ない問い。
公園を踏み越え、菱形金網をよじ登る。頂点に到着したところで、黒と白の二つの影が後方からひょろりと体を伸ばす。
「ひっ」
燐はびくっと硬直した。
丸く半透明な体の頭付近には目と口しかない。
『逃げても無駄だぞ〜』
『楽しみだな〜』
何が楽しみなのか。考えたくもない。
「あ、あれはなんじゃ!?」
空を指差し異形の者の気を逸らす。騙されるわけがない、と思いつつ。一つの賭けだった。
全ての妖怪らは注意を奪われる。子供じみた賭けは難なく成功した。
フリルのスカートをたくし上げて飛び降り、また距離を切り離す。
何とか逃げ切らなければ、明日はない……!
妖怪らは目配せし、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
自らの手、触手を頭の高さまで持ち上げた。その数は数え切れない。平均で一体につき、触手は三本だ。
燐は前方に夢中で後ろの企みなど、察知できなかった。
ドスッ
「うわっ!」
燐の右手前に突き立てた。アスファルトにめり込み、蜘蛛の巣状にひび割れている。
触手の腕から辿って後方を見上げると、妖怪らは意気に燃えて虎視眈々と燐を狙っていた。キラリと目が光る。
『次はこうじゃない、ぜ』
「なっ」
あけすけに、わざと照準をずらしたことをばらす。
「そこまでするのか! お主らは恥ずかしくないのか!」
それに構わず――
ドスドスドスッ
たち続けに狙撃。燐は走りながら持ち前の反射神経で避けていく。日頃から無駄に追いかけられていないのだ。
触手に掠めて、束ねた黒髪の数本が切れ、桃色のリボンの先が破れてしまう。
「むぅ……。お気に入りじゃったのに」
*
「あ……」
右から左へと燐が駆けていく。霊力がなければ見えない妖怪らに追われて。
やはり目をつけられた。燐は自然に惹きつけてしまうから。迎えに来て、良かった。
水鏡千剣破はスカートを翻し後を追う。
*
「もう嫌じゃー!」
大声で叫ぶ。
通りの人々は何事かと振り返る。脱兎のごとく走り抜ける少女。時折後ろを顧みるがそこには何もない。逃走している風なのに、妖怪たちが見えない人は首を傾げる。姿が消えるまで目で追うしかなかった。
体力ゲージがそろそろ尽きる。息が乱れ肩で呼吸してしまう。毎日のことで体力はついたが、それでも長距離は走れない。選手ではないのだ。十三歳の成長期に妖怪から追われる者は燐だけだろう。
後ろとの距離を測る。
「……よし!」
左に逸れ、姿を消した。
近くの使われていない建物の影に隠れる。三階建てのビルは時代に取り残され、老朽化が激しい。一つ寂しく佇むそれは夕日と融合すればもっと儚く、今にも消えるかもしれない。
全身で深呼吸し、息を整える。動悸が落ち着いてくると、こっそり外の様子を伺った。
敷地内に入る入口には誰もいない。だが、今すぐにこのビルから抜け出すにはいかなかった。
「!」
ろくろ首が垣根を越えて、上から探す。
(まずい!)
とっさに隠れる。
『いないねぇ』
『どこにいったんだぁ?』
妖怪らの声が届く。
思わず息を止めて、行き過ぎるのを待つ。
しばらくすると何も聞こえなくなり、風の通り道に泳ぐ枯葉の音だけだ。
壁に背を当てて、一息つく。緊張の糸を少し緩めた。
瞳を閉じた瞬間、誰かが肩を叩く。
誰だろうか、と頭をめぐらす。
「っ!」
息を飲む。かろうじて声が出ることはなかった。ここで抑えてなければ、他の妖怪たちが集まり囲まれていただろう。
だが、目の前には異形の者。人間ではない。危険なことには変わりなかった。
黒い大きな塊。巨体から幾本も伸びる触手の先に目玉がついていた。ぎょろりと燐を観察する。
近づく気配が気づけなかった。
もう駄目じゃ――!
その時。
青い一閃が魔物を切り裂く。上から下へと軌跡が残っては消えていく。
足元に、真っ二つに転がっていた。
燐は顔を上げると、そこに心から慕う人物。会いたかった身内の姿。
「姉上……」
千剣破がすっと水の剣を消すと、すぐに燐が駆け寄った。
ぎゅっと抱きしめて、姉の温もりを実感する。
「燐、大丈夫だった?」
真っ直ぐ視線を合わせ、こくりと頷き「ありがとう」と呟く。
姉がいてくれたおかげで助かった。もしいなかったとしたらどうなっていたのだろう。
ふるふると頭を左右に振る。もしものことなど、考えても始まらない。
*
姉に家まで送ってもらった燐。あれから何度か追われたが、千剣破がいれば怖くなかった。戦闘能力皆無の燐にとって心強い味方だ。
部屋まで案内して、飲み物をテーブルに運ぶ。
姉は猫又をねこじゃらしで遊んでいた。四方に振ってみたり、くるくる回したり。小さな体がひっくり返ってもへっちゃらだ。しなやかな体で一点に集中する。
お互い遊び疲れると、千剣破の膝の上に猫又が寝転ぶ。
お腹をくすぐっても前足と後ろ足で手を掴みつつ、爪を尖らせない。
「あーもう、可愛いなー」
満面の笑顔でへにゃっと崩れる。このままお持ち帰りしたいぐらいだ。
「みゃあ」
子猫も千剣破を気に入ったらしく、前から這い登って肩に乗る。
顔にすり寄せると、手を丸めて座った。
隣で見つめていた燐の心にいつのまにか隙間風が吹く。
それに気づかず、千剣破は燐に微笑んで。
「そういえば、燐も猫っぽいなー」
頭を手で撫でる。猫耳が生えたかのように見えたのは妹には秘密だ。
燐は心地よくて体をすり寄せ、そのまま千剣破の膝にごろんと横になる。
「姉上の膝枕は眠たくなるのう……」
「そう?」
姉妹で同じ黒髪、青い瞳。血を色濃く感じる繋がり。
姉は珍しく青と黒のオッドアイだけど、燐は二つの瞳がどちらも好きだ。光る煌きは色褪せないから。
燐は千剣破の顔を見続けていた。
「なに?」
はっと我に返る。紅色に頬を染めて、姉の視線から目を背けた。
「な、なんでもないのじゃ」
「変な燐……」
ふふっと笑う。
めったに見ない妹の一面。
猫又はぐるる……と唸る。展開的に面白くないのか、肩から燐の顔面に飛び降りる。
「痛っ!」
「燐!」
一気に雰囲気がぶち壊しになった。
手で顔を覆う。引っかき傷は三本走って、血が滲み始めている。
「何をするのじゃ! 燐の顔に生涯、傷が残ったらどうしてくれるのじゃ!」
「みゃあ!」
怒鳴り声に負けじと荒げた。
嫉妬なのだ。燐が千剣破に懐いているから。もちろん千剣破のことは好きだ。でもあくまでも飼い主は燐。それを変えるつもりはなかった。
その気持ちが理解できずに燐は目くじらをたてる。
「こらー!」
「みー」
子猫は部屋の中の障害物をたやすく乗り越え、狭い場所に入り燐を翻弄する。猫の方は楽しんでいるかのようだった。
霊水で顔の傷を治そうと思った千剣破だが、妹は猫又に釘付けで止められない。
姉の背後に隠れた猫又。背中からゆらゆらと二本の尾が揺れている。傷のついた顔で覗いた。
「みゃ」
見つかった、と素早く動く。
だが、先を読んでいた燐は行く先に手を伸ばす。
「み、みゃあ〜!」
簡単に捕らえられてしまう。意地でも離れようと、じたばたともがく。
「ふっふっふっ燐を謀ろうなど百年早い!」
少女の勝ち誇った顔。猫又はもう逃れられないと悟ったのか、だらんと力を抜いた。
燐は腕にそっと抱く。柔らかく包み込むように。慈しむように体を撫ぜた。
仮にも飼い主だ。たとえ引っかかれても想いは変わらない。
温もりに触れ、猫又にもそれは通じていた。
お互いの熱が通い合う――。
一つの絆。
姉妹の視線が交わり、優しい笑みを漏らす。
そして、また一つ……。
*了*
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