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バレンタイン・ロンド
「えっとー……これと、これ、と……。あっ、ベーキングパウダー!」
買い物カゴにどっちゃりと商品を放り込んだまれかは、レジの前で大事なものを買い忘れそうになっていることに気がついた。
並んでいた列から離れ、うきうきとした足取りでケーキやクッキーの材料を売っているスペースへと足を運ぶ。
普段あまりフィーチャーされない材料達も、この時ばかりは、でーんっと前面に出されている。
そして当然とばかりに群がる女性客。
――そう、今日は、世の恋する乙女にとっての一大イベント、バレンタインデー直近の休日。
もちろんまれかだって例に漏れず、愛する旦那様(八割方願望)のため、当日用意するチョコレートケーキの材料を買いに来ているのだった。
今度こそはと、カゴに必要なものを全部入れて、再びレジの列へと並ぶ。
自分の番が近くなると、財布を出して準備。買い物だって、もう、慣れたものだ。
このスーパーでレジを打っているおばちゃんと話すことなどもちろんないが、小学生くらいの少女が、頻繁に一人で買い物にやってくるのだから、きっと噂くらいにはなっているだろう。
今日のカゴの中身に、おばちゃん達は『微笑ましいわよね〜』なんて会話を休憩時間にしているかもしれない。『お父さんにあげるのかしら〜』なんて。
よもやそれが、24歳の旦那様(若干妄想混じり)の手に渡るなど、彼女らに想像できるはずもなかった――。
◇
紗名は眼前の光景に、げんなりとしていた。
狭い部屋だ。一緒に住んでいる相手が何をしようとしているかなんて、扉を開けた瞬間嫌でも分かる。
「……まれか」
「なぁにぃ?」
ひょこと台所から顔を出した少女に、紗名はテーブルの上を指差して、わかりきったことを、聞いた。あえて。
「……もしかして、もしかしなくても、この材料はタンスの中にある」
「うんっ、タンスの中のお財布から払ったのぉ!」
だ か ら そ れ は 、 も し も の と き の 金 だ ッ!!
脳内で、超極太文字で叫びつつ。半分泣きそうになりながら、紗名は深く溜息をつく。
――いや、わかってた。わかってたけどな。
一緒に住んで長いし。
この時期相手が何をしようとしてるかなんて、わかりすぎるほどわかるんだけどな!
ああ、そうさ。大事な時の金が使われることなんて、わかってたさ。
一度や二度じゃないし、とっくにわかってたさ!!
ちょっぴり痩せ我慢を交えつつ心中で呟いてから、紗名はもう一度テーブルの上を見つめた。
誰が見ても少女が物凄く張り切っていることがわかるくらい、そこには何かしらの材料がどっちゃりと置かれている。
「……」
紗名は、まれかにばれぬよう、こっそりカレンダーを見やった。
視線の先は2月13日。
バレンタインデーの前日。
「……ばれたら死ぬ……」
思わずぽつりと口にした言葉を耳ざとく聞いたまれかが、不思議そうに首をかしげる。
「何が死ぬのぉ?」
「何も死なねぇよ!」
紗名は慌てて口にすると、ひらひらと手を振ってまれかを台所へと追いやった。
その日は、紗名の誕生日だ。
バレンタインデーでさえ、この張り切りよう。
誕生日が前日となれば、まれかはますますヒートアップするだろう。
絶対黙秘、ばれるなんてとんでもない! ――が。
「…………」
一緒に住んで長いのに、祝われないのは、それはそれでなんだか寂
「うおおおおおお!!!!」
一瞬ちらついた脳内の文章に、紗名は思わず雄たけびと共に壁に頭を打ち付けた。ゴィンという重厚な音が、狭い部屋に響き渡る。
「サナぁ!? どうしたのぉ!?」
「……なんでもない……」
ずるり、と壁際にしゃがみこみ、僅かに赤くなった額を押さえたまま、紗名は涙声で駆け寄ってきた少女にそう答えるのだった。
◇
『本当にバレンタイン一色ですね!』
バイト帰りに電気屋の前を通った時、テレビから聞こえていた声は、まさにそうだった。
バレンタイン、一色だ。
たった1Kの部屋の中が。
あの、したたか額を打ち付けた日から数日。
13日の夜、バイトから帰った紗名を待っていたのは、テーブルの上の豪華な夕食と、チョコレートケーキ。ベタにも『LOVE』とかケーキに書かれているとなると、さすがに紗名もがっくりと項垂れるしかない。
「サナぁ、おかえりなさーい! 早く食べよっ、ね、ね!」
玄関先で動きの止まった紗名の様子に、まれかが急かすように腕をひっぱる。
「はい、座って座ってぇ〜。いただきまぁす!」
「あー、はいはい……いただきまムグフッ!!」
腕を引っ張られるまま座り『今更どうにもならない』と半分諦めて両手を合わせた紗名の口を、まれかの持つ、チョコケーキの突き刺さったフォークが襲った。
無理やりケーキを押し込まれ、その上「あ〜ん、なんて、なんて! えへへぇ!!」――などと頬を両手で押さえて照れるまれかの声が響き渡る。
「お前なぁ! もぐ、なんで、むぐ、最初に、ごくん、ケーキなんだよ!?」
文句を言いながらも、言葉途中に口の中のケーキは完食。
フォークで新たにケーキを突き刺すまれかが、紗名の様子にニコニコと笑顔を振りまく。
「だってぇ、早く食べてもらいたかったの! サナぁ、心配しなくても大丈夫っ。明日は明日でぇ、ちゃんともう一つ作るから!」
「違ーう! そうじゃなくてだなぁ、普通ケーキはデザートじゃ」
「はいはい、あ〜ん、もう一口っ!」
「がふっ」
半開きの唇に無理やり押し込まれるケーキに、口の端から漏れる息が妙な音を奏でる。
もうこうなったら、付き合うしかない。このノリに。
こうなったまれかから逃れたことなど、一度だってないのだ。
第一、食べてみればケーキだって、美味しい。
きっと手作りなのだろう、市販のものにはない、ほんの少しの形のゆがみが、かえって胸を熱くさせる気もする。
考えてみれば、今日は誕生日なのだ。
誕生日に、家に帰ったら手作りのケーキがあるなんて、滅多なことじゃないだろう。
「……まぁ、いい誕生日だと思えば、問題ないけどな」
思わずに近い。紗名の口から、その言葉は至極自然に零れていた。
愛しい人に食べさせるために、フォークでケーキを突き刺していたまれかの動きがピタリと止まる。――ピタリと止まったまれかの姿をふと目の端に入れて、紗名も事の重大さに硬直した。
――やばい。
慌てて大きく首を振って心の底から否定して見せるが、まれかの耳は紗名の言葉を聞き逃さなかったし、大きな瞳も彼の行動をしっかり映し出していて。
「サナ……サナ、今日が誕生日だったのぉー!?」
結局は、ばれた。
◇
ちゅ。
そんな音がしそうなくらい、本当に小さく。まれかの柔らかい唇が、紗名の鼻先に触れていた。
「どどど、どうしよぉー! まれかぁ、何も用意してないの!」
「や、いいって! 第一お前知らなかったんだし」
「だめぇ! だーい好きなサナが生まれた、とっても大事でおめでたい日なんだからぁ……! えっと、えっとぉ……!」
「いいって言ってるだろ。それより早く食わねーと、折角の料理が冷めちまうぞ」
「ん……っと……、あ、そうだ! サナぁ、あのね」
「なんだよ」
そんなやり取りのあと。
ちゅ、という音が紗名の耳に届いたのだった。
誕生日 ついに幼女に キスされた 新しい歳 波乱の幕開け
(『紗名・遅れてきた青春の滑稽なる自選歌集』より抜粋)
フォークを片手に、まれかはまだ恥ずかしそうに、それでもどこか嬉しそうに、顔を真っ赤にしてちらちらと紗名を見つめている。
時々思い出したように、キャー、などと叫ぶ。
紗名はといえば、呆然と自分の鼻先を摘んだまま、滑稽なる自選歌集に新たな短歌をぞくぞくと量産中。
「……だから死ぬって言ったんだ……」
数日前の自分の発言をふと思い出し、紗名は魂の抜けた顔のまま、力なく呟いた。
誕生日がばれたら死ぬ。
死ぬ、というのがどういう意味かと言われれば、あまりにも複雑すぎて紗名には答えられないかもしれない。
けれど、確実に、これは死ぬと思った。
10程も下の少女に、鼻の頭にキスされて、こんなに照れられて。20も過ぎた男が。
泣かないのなら、死ぬしかない。そうでなければ――。
「………まぁ、いっかぁ……」
そうでなければ、受け入れるしかないのだろう。
紗名は、相変わらず鼻を摘んだまま、気が抜けたようにそう呟いていた。
そうして――夜が更けても照れるまれかの声は、相変わらず紗名の耳に届き、チョコレートケーキの甘い香は、狭い部屋をこれでもかと埋め尽くしていたのだった。
- 了 -
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