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VD攻防戦2008
●静かに進行中
それは今年の正月が明けた頃のことである。
「零ちゃん。また夕食のお手伝いしてもらえるかしら?」
「あ、はい、分かりました。ファイルを棚に仕舞ったら行きますね」
その日の夕方――草間興信所の台所に居たシュライン・エマは、草間零に夕食準備の手伝いをお願いしていた。別に今更何の不思議もありゃしない、草間興信所ではよく見られる光景である。
「シュラインさん、私は何をすればいいですか?」
じきにファイルを棚へ片付けた零が台所へやってきた。そしてシュラインの指示を仰ぐ。
「今日は寒いでしょう? だからおでんを作ろうかと思って。それでね、零ちゃん。大根とこんにゃくの下ゆでをしてほしいの」
美味しいおでんを作ろうとするのなら、やはり丁寧な下準備は必要だ。大根やこんにゃくは下ゆでして、練り物などは熱湯をかけて油抜きすればよい。このちょっとした手間がおでんを美味しくするのである。
「おでんですか。そうですよね……草間さんたち、今日は寒空の下で尾行中ですもんね」
小さくこくこくと頷きながら零が言った。
事務所の主である草間武彦は、今日は何人かの手を借りて依頼対象者の尾行をしている最中であったのだ。帰ってくる頃には、間違いなく身体が冷えきっていることだろう。そんな身体には、温かいおでんは何よりのごちそうであるはずだ。
「でしょう? 温かくて美味しい物で出迎えてあげないと、武彦さん拗ねちゃうわよ」
くすっと笑みを浮かべるシュライン。まあ確かにここで『冷やしたぬき』なんざ出した日にゃ、嫌がらせ以外の何者でもなく。
「ですね。ええと、大根は……」
零が大根を探してきょろきょろと周囲を見回した。と、その時ある物が零の視界に入った。
「お箸……?」
そこにあったのは数膳の真新しい箸だった。どれも黒塗りで、中央部が少し膨らんでいて、両端が細くなっているタイプの物であった。
「買ってきたんですか?」
「ええ、そうよ。今あるの少し痛んできてるでしょ。まだ十分使えるけど、年も明けたし一応ね。徐々にこれも使っていって、使い慣らしてゆきましょ」
零の質問に答えるシュライン。そしてこういう形の物をらんちゅう箸と呼ぶのだと付け加えた。
「らんちゅうって……金魚のあれですか?」
「その通りよ、零ちゃん。どっちも膨らんでいるでしょう?」
「へえ……。そういえば、お正月にもこの形のお箸を使いましたよね」
「ええ、おめでたい日に使われることが多いの」
箸について、そんな会話をしばし続ける零とシュライン。この光景だけを見れば、ただ単にシュラインが新しい箸を買ってきただけに過ぎない。しかし……。
今年の2月14日、バレンタインデーに向けた布石はこの時すでに打たれていたのである。
●現在工作中
2月1日――シュライン自宅にて。
「ううん……ダメ、割れちゃってる」
シュラインは台所にて、何やら渋い顔をして立っていた。
「こっちは形がいびつだし。これは先が欠けちゃってるわね……」
まな板の上で手を動かし、何かを転がしながらつぶやくシュライン。
はてさて、いったい何をしているのだろうか?
「もうちょっと仕上がり具合をよくしないと、武彦さんに見破られちゃうわ」
シュラインは小さく溜息を吐いた。そして冷蔵庫に向かうと、扉を開いて中からカカオ分たっぷりのチョコレートを取り出した……。
●いよいよ当日
そして2月14日がやってきた。言うまでもなくバレンタインデー当日である。
「おは……あら、零ちゃん1人?」
朝10時、スーパーの袋を提げて事務所に現れたシュラインが目にしたのは、零1人きりの姿であった。
「武彦さんはまだ寝てるの?」
「いえ。あの、朝早くに電話がかかってきて、草間さんがそれを受けた後すぐにちょっと出かけてくるって……」
答える零の言葉には、少し困惑した様子があった。思うに、草間は零に詳しい説明をしないまま出ていってしまったのだろう。
「何時の話?」
「確か……7時になってすぐだったと。それで何度か確認して、場所を聞いてから出かけて……」
「7時ってまた早いわね」
思案するシュライン。場所を確認したということは緊急の依頼で呼び出されたのだろうか。とりあえず、今引き受けている依頼関係ではないだろうと思われる。シュラインが覚えている限り、そんな切羽詰まった依頼はなかったはずなので。
「まあ……内緒にしてもらいたい依頼を頼んだのかもしれないし。こっちはこっちで、書類の整理をしながら武彦さんの帰りを待ちましょ」
「……そうですね」
シュラインの言葉にこくんと頷く零。今の段階ではまだ何とも言えないのだから、心配するのは連絡ないまま明日を迎えてからでも遅くはない。
「今日の夕食の材料はもう買ってあるしね」
そう言ってシュラインはそそくさと台所へ向かう。後ろから零が尋ねてきた。
「今日は何を買ってきたんですか?」
「お味噌汁の材料よ。具沢山がいいかなと思って」
答えながら冷蔵庫を開け、野菜などを仕舞ってゆくシュライン。やがて一通り仕舞い終わると、続いて冷凍庫の扉を開いて何やら入れ始めた。
「冷凍食品ですか?」
「え? え、ええ、4割引だったからいくつか買ってきたの。あと脱臭剤とか」
冷凍庫の中でごそごそと手を動かしながらシュラインが答えた。
「それでね」
バタンと扉を閉め、台所から顔を出してシュラインは言った。
「今日は別件のお仕事もあるから、遅くならないうちに帰らなきゃいけないの。お味噌汁作りは手伝うけど、メインのおかずは零ちゃんが作ってくれる?」
「はい、分かりました! 3人分ですよね」
「ううん、私は食べずに帰るから」
「なら2人分ですね。うーん、ある物で何か作っちゃいましょうか」
夕食の思案を始める零。
「後で冷蔵庫確認するといいわよ」
そう言ってシュラインが台所から出てきた。
(機会は夕食1回切りね……)
その時のシュラインがそんなことを考えているとは、零には全く思いもつかないことであった。
●計画実行
そして書類の整理をしながら日中を過ごすシュラインと零。やがて夕方の5時を回り、夕食作りの準備を始めた頃にようやく草間が戻ってきた。
「ただいま……っと」
中身のぎっしり詰まった大きな紙袋を、両手でしっかりと抱えて。
「あ」
帰ってきた草間の姿を見た零の言葉が止まった。
「……パチンコ?」
シュラインが呆れたように言った。
「ああ。いやー、やっぱり新装開店初日はよく出るよなー」
悪びれずそう答える草間の表情は、ほくほくと嬉しそうであった。
「武彦さん」
「ん、どうした?」
荷物を置いた草間がシュラインの方へ向き直る。
「もしかして、今朝の電話って……」
「何だ、零に聞いたのか? なーに、新装開店だって聞いてな。さっそく打ちに行ってたんだ。煙草もどんどん値上がってるしな……」
……そりゃ何度も確認して、場所も聞きますわな。で、朝早くから出かける訳だ。
「早くから並ばないと、いい台が取れないって聞くものねえ……」
そんなことを言うシュラインの言葉には、どことなくとげがあった。
(全く……零ちゃん心配させてどうするの)
とはもちろん思ったが、零が安堵している姿を見たのであえて口にはしなかった。
(でもこれで、安心して計画実行出来そうね)
計画……? シュラインは何をしようというのか。
ともあれ無事に草間が戻ってきた後、シュラインと零は夕食作りを続けた。結局零は、冷蔵庫にあったちくわと味噌汁に使った野菜の一部を使ってフライパンで炒めて、卵でとじた物を作っていた。
「私が運んであげるから、零ちゃんは先に行ってて」
と言って零を台所から追い出すシュライン。そして箸やら味噌汁やら何やらと用意する。
「ん、お前の分は?」
テーブルに2人分しか並んでいないのを見て、草間がシュラインに尋ねた。
「今日は早く帰らないといけないんだそうです」
シュラインが答えるより早く零が草間に言った。うんうんと頷き、シュラインが口を開く。
「そうなの。別件のお仕事が、ちょっとね」
「そうか……。ま、しょうがないな」
草間はそう言うと、箸に手を伸ばそうとした。それをシュラインが制止する。
「あ、ちょっと待って」
シュラインは一旦台所に引っ込むと、手に小さな箱を2つ持って戻ってきた。
「はい、今日は2月14日だから」
そして草間と零に各々箱を手渡す。もちろん中身はバレンタインデーのチョコレートだ。
「武彦さんのは色々悩んだんだけど、チョコレートボンボンにしたわ。吟味したんだから、味わって食べてよね。それで零ちゃんには苺のチョコ」
「わあ……どうもありがとうございます、シュラインさん」
とても嬉しそうに礼を言う零。一方の草間は、箱とシュラインの顔を交互に見比べていた。
「どうしたの、武彦さん」
「いや……何か仕掛けてあるんじゃないかと思ってな。まさか中身がウォッカとか、激辛とうがらしパウダーだとか、そんなんじゃないよな?」
「安心して、普通のよ」
不安そうな草間に対し、シュラインはくすっと笑った。まあ、毎年のごとく何かしらある訳だから、警戒する気持ちも分からなくはない。
「そうか。じゃ……食後にでもいただくか」
「ん、そうして。とても美味しいそうだから。じゃあ私はこれで。また明日ね」
バッグを肩にかけ、シュラインは晴れ晴れした笑顔で手を振って事務所を出ていった。そして扉を閉めると――すぐそばの壁にぴたっと寄り添って、何故か中の様子を窺い始めたのである。
(いよいよだわ)
息を殺し、中の音に集中するシュライン。草間と零の会話が聞こえてくる。
「私からは後で渡しますね」
「ああ、ありがとうな。さて……来月のお返しどうするかなあ」
「あ、冷めないうちに食べませんか?」
「……そうだな。いただくとするか」
今から夕食に手をつけるようである。シュラインの耳が、箸を手に取る音を捉えた。
(……気付いてないみたい)
草間が何の反応も示さないので、シュラインがにんまりと笑みを浮かべた。
(そうすると、気付くのはお味噌汁に口をつけた時に……)
シュラインは足音を立てないようにして、そうっとその場から離れていった。
実は――草間が今使っている箸は特製の物であった。シュラインが腕によりをかけて作った……箸先がチョコレートになっている箸だったのだ。
そのために先月から新しい箸を用意したり、自宅で試作品を何度も作り直したりしたのである、シュラインは。色合いにもこだわったため、カカオ分の多いチョコレートを使用して。
その特製の箸は直前まで他の冷凍物に偽装して、冷凍庫に隠しておいた。零を先に台所から追い出したのも、それを取り出すのをばれないようにするためと、箸を触れても怪しまれない温度まで戻すための時間稼ぎのためであったのだ。
作戦は見事に成功し、草間はまもなく味噌汁に口をつけようとしている。
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」
「草間さんっ!?」
そしてシュラインは、草間の叫び声と零の驚きの声を背中に聞きながら本当に帰路についたのであった――。
【了】
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