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Deep neve
深々と積もった雪。
深々と深けていく夜。
この都会において、そういった光景が見られること自体珍しいことである。
二月も終わりに近づいた某日。日本において東、そして太平洋側という地形に置かれたそこで、珍しく雪が降った。
最初は珍しいものに目を輝かせていた人々も、やがて閉口してしまう。
この東京という地において、雪というのは実はあまり歓迎されるものではない。
まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた交通網と、それを動かす手段。
密集しすぎたがために、少しの雪ですら混乱が起こってしまう。それがかなり積もってしまうようなことになれば悲惨な事態になると言ってもいい。
見事なまでに交通は麻痺し、最初は有難がっていた人々ですら、雪を見ては文句を口に出す。人とはなんとも身勝手なものだ。
「爆弾低気圧、だっけ…」
彼が空を見上げれば、まだまだ雪が降っていた。
低気圧爆弾だっけ?などとぼそっと呟いた声に、答える声は一切ない。
時は既に深夜をとうに超え、雪は未だやむ気配を見せない。
彼がこんな日に外に出ていたのは、本当に偶然の産物であった。
偶々少し用事が出来て、偶々出かけたところで雪が降り始め、偶々雪が積もっただけ。そう、それだけである。
最初は雪がやむのを待って帰ろうかと待ってはみたが、結局のところ雪は一切やまず、それどころか益々その体を積み上げていく。
こうなってしまっては自慢のバイクも使えないし、さりとて出先で一晩を過ごすわけにもいかず。仕方なしに歩き出しただけのこと。
幸い彼はまだまだ若い。部屋までは歩けないほどの距離でもないし、夜中歩いていて補導されるような年齢でもない。大体にして、こんな日には警察も犯罪者も等しく息を潜めているようだった。
こんな日でも健気にバイト代を稼ぐためにやってきていた青年たちを眺めつつ、彼はコンビニでおでんと缶ビールを買って帰路へと付いた。凍える程寒い夜、これがないとやっていられない。ビールは正確には犯罪だろうが、咎める者もいないのだから遠慮は必要ない。
思えば何故そう思ったのだろうか。
恐らくは早く帰りたいがための、無意識の行動だったのだろう。
彼は雪に埋もれた何時も歩く道ではなく、同じ雪に埋もれていても突っ切れば近道になる方向へと足を向けていた。
普段であれば、月の光が石畳に映っているのだろうが、雪に埋もれた今は何も見えない。
そして、そこに何があるかなど知る由もなく。
――願わくば生きながらに鬼に成し給へ。妬ましきと思はん者を取り殺さん――
かつっと。何か乾いた音が響き渡る。
車の通る気配がない周辺に、その音はあまりにも違和感が大きすぎた。
何かが打ち込まれる音。何かが叩かれる音。
渇。
克。
剋。
一体どう言い表せばいいのだろうか。何故かそれは、酷く嫌なものに聞こえる。何故かその音を心が拒絶する。
刷り込まれた恐怖とでも言うのだろうか。酷く不快なそれは、尚も誰も通ることのない闇夜に響き渡る。
だからといって、今更振り返ることなど出来なかった。
というよりも、彼がそこに足を踏み入れたのを合図としたかのようにその行為が始まったのだからそれも仕方があるまい。
(…このクソ寒い中でホントよく頑張るねぇ…)
それを見た瞬間の感想は、彼自身が驚くほどに冷静なものだった。
普段から人とは違うものが若干見えているせいもあるのだろうか。そういうことには慣れていたのかもしれない。
だからといって、あまり見ていて気分のいいものでもないのは事実である。
――鬼に成りたくば姿を改めて三十七日浸るべし――
(ってかマジもんかよ、初めて見たよこんなの…今時やるやついんのかよ、こんなこと)
思わず腕時計を見やる。既に時は午前2時。草木も眠る…などと言えばまだ聞こえはいいが、遠い過去より語りつがれし丑三つ時。そして、彼が今いるのは神社の境内である。
気付けば、雪はやんでいた。そしてずっと空を覆っていた雲が晴れ、神社へ月の光が降り注ぐ。
雪が光を弾き、そしてそこにあるべきものをはっきりと照らし出す。
長い髪は五つの束へと分けられて、まるで五つの角の如くそろえられている。
その顔には禍々しいほど真紅の口紅が指され、同時に肌はまるで死者の如く白く塗り揃えられている。
頭には鉄輪が嵌められ、その上に蝋燭が三本。その全てに火が焚かれ、さほど広くない範囲で周囲を照らし出している。
(うわっ…)
彼はその姿を見て、逃げ出したい衝動に駆られた。
その姿というよりも、そこから醸し出される雰囲気に、といったほうがいいだろうか。
兎にも角にも女の様子は明らかに尋常ではない。服装だけではなく、その顔までもが酷く歪んでいたのだ。
そう、それは。人というよりも、いるとするならば、鬼というべきか。
(牛の…じゃねぇ、丑の刻参り、だっけか確か…)
こんな雪の日に、少しでも早く部屋へ帰ろうと近道を選んだ彼を誰が責められるだろうか。
ともあれ、彼は酷く後悔する。こんな光景は、なるべくなら見たくはないのだ。暫く夢見に出てきても文句は言えないほどのものである。
そして、次の瞬間。彼は今度こそ踵を返して、全速力でもと来た道を走り出していた。
ハッハッハッ――。
大きく息が弾む。そして、積もった雪が彼の足を取り、気付いた瞬間には手に持っていたおでんやビールと同様に宙に放り投げられ、転がっていた。
幸いなことに、新雪が体のクッションとなって怪我は一切なかった。ただし、ビールは兎も角折角のおでんは全て落ちてしまってもう食べられそうもない。
しかし、今の彼にはそんなことを気にしている余裕はない。
雪に塗れたまま、荒い息を吐きながら空を見上げる。気付けばまた雲が天を覆い、雪がちらつき始めていた。
「最悪だ…」
思わず、震える声が漏れた。
逃げ出した、その一瞬前。見てしまったのだ。
憎悪などという言葉で到底表せぬほどのどす黒いものを。
最早周囲の闇よりも余程深い深遠。
お互いの視線が交わる。恐らくその感覚に声すらあげられなかったのだろう。
そして確かに見た。その女の目が開くところを。
闇に囚われた瞳が、自分を見つめているところを。
「これって、ヤバくねぇのか…?」
答えるように、また乾いた音が一つ雪夜に響いた。
『向坂』の名札が掲げられたドアを見つけたとき、彼は心底安堵したように大きく息を吐いた。
あんなものを見たせいだろうか、ドアが酷く重く感じられた。
ドアを閉めた後、彼はそのまま布団の中へと体を沈めた。
焦燥感がもたらす疲労は思った以上に酷い。すぐさま意識は闇の中へと落ちていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
久しぶりに夢を見た。最近はどうにも寝つきが悪かったせいだろうか、すんなりと寝れた夜はこうなるらしい。
彼の目の前には一人の女。白無垢に身を包み、穏やかな笑みを湛えている。
何故か、それが酷く恐ろしく思えた。
かつ。かつ。かつ――。
あの音が、再び響き始める。
――許さない――
彼の耳にはそうはっきりと聞こえた。
かつ、かつっと乾いた音が響き。その後ろに、怨叉の響きが混じり始める。
女は見る見るうちに姿を変え、蝋燭のあった場所に紛れもない角が生えていく。
遠い過去から連綿と続く儀式。その中に身を置いた女の変わりいく姿を彼はずっと見つめていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
酷い悪夢に魘され、起きてみれば空はいたって快晴だった。
何時もは煩わしいと感じる朝日ですら、今の彼にとっては救いの手である。
冷え切った水で顔を洗うと、冷たすぎるが故の痛さも相まって一気に目が覚める。
外を見れば、やはり雪が積もったままだった。とはいえ、既に雲は晴れ太陽も顔を出している。夕方には交通も回復するくらいには雪が溶けるのではないだろうか。
新聞などという高尚なものは取り寄せていない。それでもポストの中を見るのは人としての習性だろう。
昨日のうちに、一通だけ封筒が届いていたらしい。多分携帯電話か何かの請求書だろう。
そこに書かれた向坂嵐という自分の名前を見て、彼は部屋を出た。
昨日の一連の出来事が頭から離れず、さらに酷い寝不足である。恐らく部屋にいてもまた悶々と色々と考えてしまって寝れないと考えた彼は、手っ取り早く眠れる場所を求めていた。
向坂嵐という人物にとって、活字などあまり縁のない代物である。
本を読んでいれば自然と眠くなってくるのも、ギャグのようであるがそうなってしまうのだからしょうがないだろう。
図書館であれば煩わしい物音もない。そんなわけで、彼の足は自然と図書館へと向かっていた。
期待通り図書館の中は静まり返っている。雪ということもあって、普段から少な目の利用客はさらに少ない。
目的のために適当な本と新聞を手に取り、嵐は椅子を引いて遠慮なく腰掛けた。
「…げっ」
思わず漏れた声に、図書館中の視線が嵐へと集まる。誤魔化すように、彼は急いで本を広げて顔を埋めた。
しかし、何の偶然だろうか。昨日の今日で、適当に取った本が呪いに関するものだったのは。
眠りを求めて、適当にページをめくっていく。すると丑の刻参りという文字が目に入ってきた。
あまり読みたくはないが、無意識のうちに目は文字を追っていく。
(…へぇ)
眠るのを忘れ、嵐はその記事に没頭していた。
藁人形に呪いたい人物の髪や爪など体の一部を埋め、それを五寸釘で打ち付ける…というのはよく知られたものである。
しかし、実際の丑の刻参りというのは若干目的が違う。
呪いは呪いなのだが、人形を用いて呪い殺す、というものではなく。願をかけながらある一定のことを成す事によって、それを成就させるものなのだという。
例えばある屋代本に出てくる話であれば、ある女が鬼になりたいという願をかけ、それを成就させて恨めしく思う女とその近縁の者たちを全て殺したという。
なるほど、そういうことであれば、時代の移り変わりとともに今の形になっていってもおかしくはあるまい。時の流れはあらゆるものを変えていくものだから。
ふと、そこまで読んで嵐は一つ考える。
方法こそ違えど、その根底に流れるものはやはり一つである。
昨日神社で見たあの女。彼女もやはりそうなのだろう。
そしてその表情を思い出す。方法こそ現代のものではあるが、あの表情は寧ろ鬼というべきもの。それは一体どういうことなのか?
呪い殺すというよりも、もしかしたら本来の方法に近いものだったのかも知れない。なら、それが意味するのは?
「馬鹿馬鹿しい」
今度は誰にも聞こえない声で呟いて、嵐はその本を閉じた。
気付けば一時間ほど経っていた。無駄な時間を過ごしたと思って、今度は新聞を広げる。新聞であれば、小難しい経済の記事などを読んでいるうちに今度こそ眠れるだろう。
しかし、中々そうは問屋が卸してくれないらしい。
「うぇっ」
また漏れかけた声を必死に止めて、嵐は再び記事へと目を落とす。
そこに書かれていたのは、男性一名と女性二名が死亡したという記事。読んでみれば、痴情の縺れから死亡したうちの一人の犯行か、などと書かれている。
さらに一人を除いてその死体は酷い有様であったとも書かれている。まるで、野生の熊か何かに引き裂かれたかのようなものだったらしい。
そして、嵐はそこに写った写真を見てまた逃げ出したい衝動に駆られてしまった。
新聞であるがゆえに画像こそ荒いが、しかしだからといってあの強烈な印象を間違えるわけもない。そこには、昨日見たあの女性の写真が飾られていた。
(マジかよ…)
あの酷く歪んだものとは程遠い美人であるが、しかし確かにそこから受ける印象は同じもの。
(じゃあ昨日見たのは、その事件直前の…?)
なるほど、そういうことなら合点はいく。合点がいったところで全く嬉しくもなかったが。
既に眠れるような気分でもなく、嵐は新聞を適当に放り出して図書館を出た。
本当ならこのことを警察にでも言うべきなのだろうが、生憎と嵐と警察の相性は中々の最悪ぶりである。
「あー…また寝れそうにねぇな」
頭を一つかいて、仕方なしに今度は別の方向へと足を向ける。知り合いの医者に言えば、導眠薬の一つくらいは処方してくれるだろう。
医者と仲良くなっておくもんだな、などとどうでもいいことを考えながら彼は歩き出す。時は既に夕方だった。
「サンキューせんせっ」
軽い声で病院を後にする。
時間は既に夜。色々と話をしたりしているうちに、終電も終わっているような時間になってしまった。
偶には話し相手になれと言われて付き合ったのが運の尽きだったのだろう。彼はまた仕方なく部屋へと歩き始める。タクシーを拾ったりするには、残金はあまりにも心もとない。
そんな現実を思い知らされ、げんなりとした表情で歩くうちに昨日の神社が目の中に入ってくる。
雪は大分溶けたのか、昨日ほどの冷たさはそこにない。しかし、彼がそこを歩くことは出来なかった。昨日の今日でここを突っ切ることが出来るのは、余程の馬鹿か大人物くらいのものだろう。
深遠の広がる境内を一度だけ見やって、嵐は足早にその場を立ち去る。
かつっと。確かに乾いた物音が響き渡った。
「…嘘だろ」
そして彼は走り出した。その音から逃げるように。しかし神社から幾ら遠ざかろうとも、彼の耳からその音が消えることはなかった。
翌日、新聞を新たな殺人事件が賑わせる。被害者は前日殺害された男性の家族。
嵐がそれを知るのは暫く先の話となる。
彼は覚えているだろうか。丑の刻参りのルーツとなった話のことを。
かつ、かつっと。乾いた音が響き渡る。
音がやむことは、未だない。
<END>
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