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デンジャラス・パークへようこそ 〜染井吉野幻想〜
長らく東京に降り続いていた雨は、暦が卯月に変わるころ、春の嵐となった。
井の頭通りを往くひとびとの、傘を飛ばすほどの強風が吹き荒れた翌日。ようやく風雨は止み、空は晴れ渡った。
今日は一転して、汗ばむほどの陽気である。
すでに満開だった井の頭公園の桜は、桜吹雪を散らせながらも、まだその花勢を保っていた。
水面に落ちた花びらは井の頭池を覆い尽くし、見事な「花いかだ」ができている。
「さぁて、今日こそお花見を決行するぞえ!」
弁天橋の欄干にも、はらはらと白い花弁が落ちている。
「今年は、桜の精労働組合の面々もストライキを起こさず、重畳、重畳」
頬杖をついて、弁天は目を細める。
このところ荒天つづきでくさっていたのであるが、急に春めいた華やぎが公園を満たしたため、ようやくやる気がでたものらしい。
「客人も来てくれたことじゃし、絶好の天気じゃ。のう、チカや」
「うん♪ あったかーい。春のにおいがするね」
弁天の足もとを、千影が、黒い子猫のすがたで走り回っている。
舞い散る花びらを追いかけて、七井橋から弁財天宮へ駆けぬけたかと思えば、ふわふわ浮かぶたんぽぽの綿毛に気を取られ、ボート乗り場から動物園前へ、はては弁天橋を飛び跳ねながら往復してみたりと、大はしゃぎである。
「お花のかおりがいっぱーいっ♪」
「……チカ。そんなにはしゃぐと危ないよ」
ともに訪れた栄神万輝が、端正なおもてに苦笑を浮かべる。
その視線は先ほどから、満開の桜の海を撫でていたのだが、不意に宙を彷徨って、遥か遠くへと飛翔している。どこか物憂い様子だった。
あるじの注意が聞こえているのかいないのか、やんちゃな子猫は、くるくる舞う花弁に思いっきりじゃれついた。
ジャンプした拍子に、バランスがぐらりと崩れる。
あわや、井の頭池に落っこちそうになったのだが――
「わわっ。こら、気をつけろよチカ」
ボート乗り場にいた鯉太郎が、慌てて駆けつけ、手を差し伸べる。千影は間一髪でキャッチされた。
「あ、鯉太郎ちゃん。やっほー」
「やっほーじゃねぇ! 万輝も心配してんだろ?」
「まあ、楽しそうだからいいけどね」
子猫はすとんと、欄干の上に戻される。が、すぐにひょいと飛び降りて、春のお散歩をさらに満喫するべく駆け回った。しばらくは千影の好きにさせてやろうと、万輝は弁天のそばで腕組みをする。
「久しぶりじゃのう、万輝。メイド喫茶以来かの?」
「あはは、こんにちは、弁天サマ。公園の皆も元気そうだね」
微笑んだ万輝の前髪をかすめて、薄紅の花びらが舞う。
すっと指を伸ばしてつまみあげ、目を凝らす。
その瞳に映るひとひらと、水面を覆う花いかだ。
池のほとりをぐるりと囲み、爛漫と咲き誇るソメイヨシノ。
「……桜、か」
「万輝ちゃん、どうかしたの?」
千影がぴたりと歩を止めて、あるじを振り返る。
「……この光景、なんか見覚えがあるんだよね。……懐かしい」
「だって、年末に、一緒にきたよね?」
「あぁ……この間じゃなくてさ……。そう……もっと周りが大きくて、世界が広く感じていたあのころ……」
つまんだ花弁に、ふっと息を吹きかける。薄紅の花びらは空を泳ぎ、音もなく池に落ちた。
「もっと前のこと? ちっちゃかったころ?」
「うん。なんどか来たことがあるね」
「これこれ、万輝」
弁天が万輝の顔を覗き込む。
「さらっと云うておるが、それは爆弾発言じゃぞえ」
記憶を探るように、弁天は眉を寄せた。
「……はて、幼いころのおぬしがここを訪れていたならば、わらわが覚えておらぬはずはないのじゃが」
「そうだよね……。弁天サマには逢ってないと思うな」
万輝と弁天を交互に見て、千影は小首を傾げる。
「……はにゃ〜。チカわかんない〜」
万輝が幼かったということは、守護獣の千影も生まれたてに等しい魂だったろう。まったく心当たりがないようで、子猫は困惑し、うにゅーと尻尾を揺らす。
――ざわり。
桜の海が、揺らぐ。
「あら、私は覚えているわよ」
一陣の風が、吹き抜けた。激しい桜吹雪があたりを包む。
弁天橋は一瞬、白い花びらの更紗に閉ざされる。
橋のうえに散った桜が、小さな竜巻となって舞い上がり――
現れたのは、目にも彩なしだれ桜の振袖を纏った、ひとりの女。
「おんや、染子。客人の前に姿を現すとは、珍しい」
弁天が、目をしばたたかせる。
井の頭公園に咲く、600本のソメイヨシノ――彼女はそのなかでも、ひときわ素晴らしい枝振りを誇る、桜の木の精だった。
万輝を見つめ、染子のくちびるが、大きくなったわね、と、動く。
「そうね、十年以上前になるかしら。そういえばあの時期、弁天さまは外出がちだったから、すれ違ってたのかもね。ちっちゃな坊やがこの季節に、訪れてくれてたのよ」
桜の精は、白い手をゆらりと、池の水面に伸ばす。
花いかだをスクリーンにして、映像が浮かび上がった。
*〜*〜* *〜*〜*
それは――過ぎ去りし春の情景。
*〜*〜* *〜*〜*
声が、きこえる。
雪に似た花びらがほとほと積もるような、やわらかでやさしい――
(おいで、おいで)
(あたらしいさくらが、うまれたよ)
(こうえんに、おいで)
(いっしょに、あそぼう)
……なんだろう?
5歳の万輝は、たしかに、その呼びかけを聞いた。
「いまのこえ、きこえた? チカ?」
「はにゅう〜? んー、ねむぅい……」
生まれたばかりの彼の守護獣に問うてみる。しかしまだ幼い獣は、自我の目覚めまで時を待たねばならぬようで、可愛らしい欠伸で応えるばかり。
――いってみよう。
声に誘われるまま、子猫を抱きしめて万輝は歩きだし――
異界に、迷い込んだ。
そう、息を呑むような満開の桜に満たされたこの公園は、きっと異界なのだろう。
――だけど。
見回して、万輝は眉を寄せる。
さくらのきせつに、さくらがさく。
そんなの、あたりまえのことじゃないか。
どうしてぼくは、よばれたんだろう?
一段と、桜の香りが強くなる。
「おともだちー」
万輝の服の裾を、誰かの小さな手が、つんつんと引っ張った。
振り返ってみれば、淡いピンクの絞りの振袖を着た小さな女の子と目が合う。背丈と年頃は、万輝と同じくらいだろうか。
「きみ、だれ?」
「おともだち」
耳元でふっさり切りそろえた黒髪をゆらし、女の子はにこりと笑った。固かった桜のつぼみが急にほころんだような、華やかな笑顔だ。
「あそぼう?」
言うなり、女の子は万輝の手をぐいぐい引っぱる。
「いいけどさ……。なにしてあそぶの?」
「どうぶつえん、いこ?」
動物園の門の前には、管理者を名乗る巻き毛の少女が陣取っていた。
「初めまして。あたしハナコ。なぞなぞ勝負に勝たないと、動物園には入れないよ――って、へー、この子、『辻が花・藤造り』なんか着ちゃってる」
まじまじと振袖を検分するハナコの巻き毛を、女の子は引っ張り、思いも寄らぬ言葉を放った。
「ままー!」
あまり動じないお子さまであるところの万輝も、目を見張る。
「このこ、きみのこ?」
「ちちちちち違うよう、こう見えてもハナコ、仕事一筋のキャリアウーマンなんだからっ! そりゃ、たまには合コンもするけど、理想が高いもんっ!」
ハナコが両手をわたわたさせたとき、門のむこうの光景が、いきなり変化した。
巨大な城のような建物が現れ、扉が開く。
中からは、幻獣が――幻想の動物であるはずの、グリフォンやケルベロスやドラゴンが、次々に出てくる。
彼らは人の言葉を使い、口々にハナコと女の子と万輝に話しかけた。
「先ほど、桜の木の下に謎の座敷童が出たとの、よくわからない情報が入ったのですが……、ハナコさんっ! いつの間に産んだんですか。実はこの子、象ですか?」
「だからちがうってば、フモ夫。ハナコ、身に覚えがないよう〜」
幻獣に驚くでも怯えるでもなく、女の子はにこにことグリフォンの翼を掴む。
「ままー」
「え? いや、私は」
「フモ夫団長!? まさかあなたがっ?」
ケルベロスが胡乱な目でグリフォンを見る。その三つの首の真ん中に、女の子は物怖じせずに触れた。
「まま、どこ?」
「ポチっ! おまえ、いったいどこの誰にこの子を産ませた?」
「濡れ衣ですよぉ」
「ファイゼ。ポール。ふたりとも落ち着くように。客人が困惑しておられる」
ひとつ目のドラゴンが、丁重な物腰で万輝に問う。
「おそらくは迷子だと思うが、貴方は何か、ご存じですか?」
首を横に振る万輝に、ドラゴンは思案顔になる。
「今日は、弁天どのも蛇之助どのも外出なさっておられるゆえ、しばらく、私どもでお預かりしましょう。せっかくいらしたのですから、桜を眺めていかれると宜しい」
「たまにはこういうのもいいですね、フモ夫団長、公爵どの」
「だな。迷い込んだ客人と、私たちだけのお花見というのも悪くない」
「万輝どのはそちらの席に。何か食べたいものがおありでしたら、お持ちしますゆえ」
「うーん、おなかすいてないから、いいかな。はな、みてるよ。ね、チカ?」
「はにゃあ? おはな……?」
「うふふ。たのしい」
それは、不思議なできごとだった。
池のほとりに敷き詰めた茣蓙のうえに行儀よく座る幻獣たち、謎めいた女の子、彼らと並んで見上げる満開の染井吉野。
女の子は、それはそれは楽しげに笑いながら、万輝と小さな守護獣と、幻獣たちに話しかけては公園を歩き回り――不意に、すがたを消した。
(おともだち、いっぱい)
(うまれてきて、よかった)
*〜*〜* *〜*〜*
染子の見せた過去の映像に、千影は大きな瞳をぱちくりさせる。
「うにゅー? 万輝ちゃん、小さい頃から美人さんだったんだね」
「そこに突っ込むチカの大物ぶりに脱帽じゃ。して染子」
子猫の頭をぐりぐり撫で回して、弁天は染子を見る。
「この、謎の座敷童は、もしや」
「ええ」
ふふ、と、笑みを漏らす染子に、頷いたのは万輝だった。
「今ならわかるよ。あの子も桜の精だよね、生まれたばかりの。そしてたぶん、染子さんの娘だ」
「あら。さすがね、坊や」
「だって、よく似ている。けど、ソメイヨシノって、たしか」
「そうなの。私たちは一代雑種だから、自家交配して結実しても、それが芽吹くことはないの。本来は」
でもね、と、染子は微笑む。
「坊やが来てくれたあのとき、奇跡が起きたのよ」
ソメイヨシノは、おもに接ぎ木で増やされる。圧倒的な華やかさを誇るこの桜はしかし、ひとの一生にも例えられるほどに、成長が早く寿命が短い。
我が身だけでは繁殖できずに、儚く散るだけの花。
だが――
その枝にひときわ早く咲き、散った花が自然結実したのだ。
桜の種は池のほとりに落ち、そして。
あの日、種は奇跡的に芽吹いた。
あの女の子は、思いがけずに生まれ、よちよち歩きをはじめた、ソメイヨシノの赤子だったのだ。
「おお、成る程。それで合点がいったぞえ。あれは、生まれたての千早(ちはや)であったか」
「千早――」
「あの子にはまだ名前がなかったから、坊やの子猫の名前を一字、もらったの。千早、あなたもご挨拶なさい」
ちらちらと舞い落ちる桜のひとひらに、染子は声をかける。
「はーい、お母様」
花びらは軽快に、くるくると渦を巻く。
桜吹雪の竜巻が起こり――静まったその瞬間。
少女は、現れた。
見覚えのある、淡いピンクの絞りの振袖『辻が花・藤造り』を着て。
あれから十年余。
ソメイヨシノの赤子は、万輝と同様に成長を遂げていた。
*〜*〜* *〜*〜*
「きゃあ、万輝さん。こんにちはぁ、お久しぶりですぅー!」
「――どうも。元気そうでなにより」
「やーん。思った通り、クールな美少年になりましたねぇ」
千早はにこにこと屈託がない。弁天は万輝に小声で耳打ちをした。
(いまひとつ桜の精の儚さに欠けるが、大目に見てたもれ。なにせ井の頭公園で一番若い桜木ゆえ、生命力に溢れておってのう)
(まあ、いいんじゃない? 楽しそうだし)
「あ、あのとき眠そうにしてた子猫ちゃんだぁ」
千早は万輝の手を取ってぶんぶん揺すったかと思うと、今度は千影を抱き上げて頬ずりをする。
「うにゃあ♪」
「あたしのこと覚えてる?」
「ううん……。チカ、小さかったから」
「そっか。じゃあこれから、お友だちになろう。ね、お花見するんでしょ? 一緒に焼き鳥食べよ」
「うん♪」
「これ千早。おぬしは鑑賞される側じゃ。おとなしく咲いておれい」
「え〜? だってお母様たちは、去年みんなで慰安旅行して北海道でジンギスカン食べたりしてたじゃない? あのとき留守番してたのよ。あたしも遊ぶぅ〜!」
「……ふう。親が親なら娘も娘じゃ」
天を仰ぐ弁天をよそに、子猫を抱いたまま万輝の手を引いて、千早は足取りも軽く池のほとりへ歩いていく。
「焼き鳥といえば、蛇之助が買い出しに行っておるはずじゃが、まだ帰らぬのか」
弁天が公園入口方向に目を凝らす。ちょうど、大きな紙袋を持った蛇之助が小走りに戻ってきたところだった。
「お、お待たせしましたー!」
「遅いぞえ、蛇之助!」
「だって『いせや』さんの店頭は行列ができてて、凄まじい混みようだったんですよぉ」
「お花見だお花見だ、わーい! 万輝ちゃん、千影ちゃん、ひさしぶりー!」
「こんにちは。桜の季節によく、お会いしますね」
動物園方向からは、ハナコとデュークが連れ立って歩いてくる。
少し遅れてエル・ヴァイセの騎士たちも、わらわらと後を追ってきた。
彼らの周りを取り囲み、花びらが謳うように舞い踊る。
ソメイヨシノが謳歌する春は、今が爛漫のときであった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【3480/栄神・万輝(さかがみ・かずき)/男性/14/モデル・情報屋】
【3689/千影(ちかげ)/女性/14/Zodiac Beast】
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■ ライター通信(神無月まりばな) ■
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桜の季節にお揃いでご来園くださり、ありがとうございます。
誘われて迷い込んだ5歳の万輝さまのイメージが、えらいこっちゃな萌えでどうしようかと思いました。
若い桜の精は、すっかりおふたりになついた様子。よろしかったらこれからも時々、様子を見にいらしてくださるとうれしゅうございます。
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