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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


B−violet.rose



 照明が落とされた部屋の中、窓から差し込む月明かりだけが周囲の様子を薄ボンヤリと浮かび上がらせる。
「貴方に頼みたいことはね」
 女性の細い声は、どこから聞こえてくるのか分からない。水中にいるかのように歪んで聞こえる音に、思わず顔を顰める。
「ある研究所に取り残された数名の救助と、ある薬品の持ち出し、そして研究所の封鎖」
 彼女達の使う“封鎖”は、“破壊”と同じ意味だ。
「数名が、具体的に何人なのかは分からないわ。あの研究所に勤めていたのは、百名いかないくらい。連絡が途絶える前までに少なくとも23名の死亡が確認されているわ。被害はもっと広がっていると思うの」
「マテリアルでの死者も何人かいる。こちらは我々は人数把握をしていない」
 今度聞こえたのは、太い男の声だった。こちらも女性の声同様、どこから聞こえているのかは分からない。
「生きている者は全員救助して欲しいのだけれど、少なくとも3人、必ず救助して欲しい人がいるの」
 その3人が現段階で生きている可能性は? そんな問いかけに、女性は「かなり高いわ」と答えた。
「まず、研究員のローズ。次に、同じく研究員の恭一。最後に、マテリアルの蛍。特にローズは絶対に連れ帰って」
 足元に何かが投げられる。拾い上げてみれば、3枚の写真だった。
「そこでは、キメラの研究をしていたのだが、何らかの理由によってキメラが暴走を始め、研究員を次々襲っている」
「キメラのみを暴走させる薬品か何かを使ったと思うの。 その薬が何なのか、どうやって作ったのかを知りたいけれど、薬が残っている可能性は低いでしょうし、作った研究員が死亡している可能性が高いわ。‥‥でももし、貴方がその薬を持ち帰るか、研究員を生きて連れ出す事が出来れば、報酬を倍払っても良いわ」
「暴走したキメラのうち、3体は向こうで処理したとの報告を受けた。こちらはキメラが全部で何体完成していたのかの報告は受けていない」
「研究所は地下3階まであって、1階は廃工場になっているわ。工場の奥にある扉に番号を打ち込めば、開くわ。番号は1618。地下1階は主に研究員が住み、地下2階はマテリアルが住んでいるの。地下3階は研究室や実践室よ」
「マテリアルの中に能力者がおり、力を暴走させると言う事件が過去に起きたため、地下2階は、能力調査室以外はフロア全体に能力制限がかけられている」
「地下3階は、実践室以外では能力使用は出来ないわ。ただ、フロア自体に制限がかけられているわけではないから、どうしても能力を使いたいのならば廊下におびき出すしかないわね」
「それと、持ち帰って欲しい薬品は“B−violet”の完成品だ。B−violetが何処にあるのかは、ローズ君か恭一君に聞いてもらえれば分かる」
「脱出の際は、地下3階の実践管理室を抜けた先にある下水道を通って。封鎖は完全に地上に出てから行った方が良いわ」
「必要な武器を言ってくれれば揃えよう。“封鎖するための道具”もこちらで揃える。ボタンを押してから5分後に封鎖される」
「前金はもう払っておいたわ。残りは成功報酬よ」
「成功を祈っているよ」


* * *


 眠らない町でも、探せば真の夜を感じる事が出来る。 漆黒の闇が地を這い、月光が及ばない場所でただ一人、黒・冥月は依頼人が来るのを静かに待っていた。
 約束の時刻から既に時計は45度ほど傾いているが、はなから冥月は依頼人が時間通りに来るとは思っていなかった。 彼らはいつだってそう、相手を待たせるのが得意なのだ。
 ――― ま、待っているのは危険だしな
 特に周囲もロクに見えないこんな闇の中では、気配を殺して近付いてくる相手を察知することは容易なことではない。 おそらく彼らは既にこの近くまで来ており、冥月がどこにいるのか、仲間を呼んで潜ませているような事はないか、念入りに調べている途中だろう。
 コツンとヒールの音が聞こえ、冥月は寄りかかっていた壁から身体を起こした。 月明かりさえない静謐な闇が支配するこの場所で、相手の顔は見えない。ただ、冥月よりもやや背の低いすらりとした女性だと言う事は分かった。 むせ返るような薔薇の香りが広がり、女性がふわりと髪を背に払うのが分かる。
「これが鍵よ。それから、封鎖のための道具も持ってきたわ」
 あの部屋で聞こえたのとは違う、ストレートに凛と響く声は耳に心地良かった。
「廃工場じゃなかったのか?」
「鍵の管理はしっかりしているのよ。近所の子供が入り込んでは危険だし、興味本位の若者が肝試し感覚で入っては迷惑だしね」
「‥‥‥“若者”とは、お前もそのくらいの歳ではないのか?」
 声の響きや雰囲気から考えて、相手は冥月と同じかやや年上くらいだろう。そんな冥月の想像を肯定するかのように、女性が小さく微笑むのが分かる。
「貴方に“お前”と呼ばれるほど若い歳ではない事は確かだわ」
 つまり、冥月よりも年上だと言う事だろう。
「今日は良い夜ね。月明かりが眩しいわ」
「ここで言われてもな」
「闇があるからこそ、光りが映える。そうじゃなくって?」
「まぁな」
「光りと闇は裏表。闇が無ければ光りは生きていけない。そして、闇も光りが無ければ生きてはいけないの。そうでしょう?」
「自分が光りだと言いたいのか?」
「えぇ、そうね、あるいはそうかも知れない。けれどある意味ではそうでないかも知れない」
「随分曖昧だな」
「いつでも明確でいなくてはならない理由がどこにあるの?」
 嘲笑うかのような、冷たい声に溜息をつく。
 依頼主は常に倣岸だ。 けれど、そうあらなくてはならない理由も理解しているつもりだ。 闇の世界では力のある者がのし上がって行き、弱い者が落ちていく。
 そしてその不遜さに応じるのが自分たちのような存在だ。彼らは倣岸でいる代わりに、莫大な金を押し付けてくる。その金額に見合うように働くのが、冥月達の生きていく術だった。
「確かに私向きの仕事だが‥‥‥既に引退した私を見つけた手腕は誉めてもいい」
「残念ながら、貴方を見つけたのは私ではないわ」
「そうだろうな」
「私やあの人は、貴方達みたいな人に興味はないの。 報酬に見合うだけの動きをしてくれればそれで良い」
 使い捨ての物に過ぎない。今回はたまたま目に付いたから使ってあげるだけ。
 女性のつけている薔薇の香りの香水が、強風に流されて行く。 むせ返るような匂いの束縛から一瞬だけ解放される快感、しかしすぐに風は止み、冥月の身体は薔薇の香りに侵食されていく。
 暗がりで顔は見えないが、恐らく相当な美人だろう。 ただ立っているだけでも強いオーラを感じる。
「まぁ、私も暇潰しにはなるか」
 恋人亡き後、ただ生きていただけの冥月にとって報酬には魅力を感じなかったが、そこに潜む危険には多少の興味があった。
「そうね。暇を潰せるのならば、楽しんで来て。でもせいぜい、暇に潰されないようにね」
 クスクスと笑いながら女性が背を向ける。コツコツと数歩歩き、ピタリと立ち止まる。
 絶対に届かないと思っていた月光がすぅっと伸びてくると女性の姿を照らし、彼女がこちらを振り返った。
「幸運を」
 腰まで伸びた鮮やかな金色の髪は緩くウェーブがかっており、スラリと長い手足は今にも折れそうで、彫刻のように整った顔立ちの中、瞳だけが異様な色を発していた。
 キラキラと光る瞳は、虹と同じ色をしていた。 光りの入ってくる角度に従って七色に色を変えるその瞳に、冥月は見覚えがあった。
「 ――――― 」
 その名を呼んだはずだったが、風は声を掻き消した。 女性のすっと伸びた背が建物の裏に隠れ、車のエンジン音が遠ざかって行った。


* * *


 辛くも形を止めているだけと言った廃工場を前に、冥月は深く息を吐くと砂を踏んだ。 砂同士が擦れ合い、潰れる感触を足の裏で確かめ、地面にそっと手をつける。腰まである髪が肩を滑り、砂の上に広がる。
 廃工場を含め、研究所全体を影で走査するとその中に引っかかった研究員やマテリアル、その死体を含めて影の中に飲み込む。 取り込めたのは数名の死体のみで、生きている者は誰もいなかった。
 亜空間から死体を出して確認してみれば、その中に恭一の姿があった。
「遅かったか‥‥‥」
 キメラにやられたのかと全身を見てみるが、特にこれと言った外傷はない。 見開かれた目が虚空を睨んだまま凍りつき、手には何かの紙切れが握られていたが、冥月はそれに興味は示さなかった。
 恭一の死体を亜空間に戻し、再び地面に手をつく。 キメラを影槍で掃討してから潜入しようと思っていたのだが、冥月の能力が及ぶ範囲にキメラはいない。
 ――― そう簡単にいくはずがない、か‥‥‥
 一つ溜息をつき、廃工場の鍵を開けて中に入る。奥にある扉に1618と打ち込めば、エレベーターの扉が開いた。
 階数の指定はなく、開と閉のボタンのみがあり、冥月は閉のボタンを躊躇せずに押すと壁にもたれかかった。
 軽い到着音と共に扉が開き、冥月は影剣を構えた。 が、直ぐに自分が滑稽な事をしていると気づき、苦笑しながら下ろした。
 地下1階は研究員の自室やホール、食堂、機密管理室があり、このフロアに能力制限は掛けられていない。つまり、冥月の能力の及ぶ範囲だ。研究所に入る前に影で確認した通り、ここにキメラがいる事はない。
 閑散としたフロアを歩く。 コツコツと冥月の靴の音が大きく響き、不気味さを強調させている。
 依頼を全うする気はあるが、目的達成のために必死になる気はない。 必要最小限の部分のみ見て回れば良いかと、冥月は機密管理室の前に立った。
 重厚な扉はやはりと言うべきか鍵がかかっており、更には番号入力までしなくてはならないらしい。指紋を読み取る装置もつけられており、機密管理室と言うだけあってかなり守りが堅い。
 一か八かで能力を使って扉をこじ開けようとしてみるが、やはりこれも上手く行かない。 当たり前だ。この研究所には能力者がいるのだから、彼らに開けられてしまう危険がある以上、扉はそれ相応のものを選ばなくてはならない。
 指紋は影に取り込んだ恭一の指でどうにかなるが、番号についてはどうにもならない。鍵は探せば見つかるかも知れないが、無防備にそこらに置いてあるはずはないだろう。まして番号にいたってはメモなどしているはずがない。それほど愚かな研究員ならば、このような大それたところで働けはしないだろう。
 B−violet の完成品はこの中にあるのだろうか? ふとそんな疑問が脳裏を過ぎる。
 たしか依頼主は“何処にあるのかはローズか恭一に聞けば分かる”と言っていた。 しかし、残念ながら恭一はもうこの世の人ではないため、彼の口から聞く事は出来ない。
 それならば、残る一人のローズを見つけて彼女の口から聞くしかない。 近くの壁に爆弾を装置し、冥月はフロアを見渡した。
 先ほど乗ってきたエレベーターは、階数指定が出来なかった。 つまりあのエレベーターはこの階と地上を繋ぐためのもので、実際のこの研究所のエレベータは他にあるはずだ。
 機密管理室の先、左に伸びた廊下の突き当たりに銀色のエレベーターを見つけ、冥月は歩み寄った。 下向きの矢印を押せばエレベーターはすでにこの階に来ていたらしく、待つことなく開いた。
 目に痛いほどに明るい箱の中に乗り込めば、上から機械的な女性の声が降りてきた。
『認証中、認証中‥‥‥。 貴方は特別研究員の黒・冥月さんですね』
「あぁ、そうだ」
 いつの間に研究員にされていたのかは知らないが、このシステムがあるために向こうが勝手にそう組み込んだのだろう。
 この研究所には研究員かマテリアル、キメラしかいない。全フロアを行き来出来るのは研究員しかいないため、冥月も自動的にそこに納まったのだろう。
『どの階に行かれますか?』
「そうだな‥‥‥」
 蛍がいるならばB2の可能性が高いが、ローズがいるとすればB3だろう。
 B3から行くか、それともB2を見てから行くか。 考え込んだのは一瞬だった。
「B2に行ってくれ」
『B2ですね。‥‥‥命令を拒否します』
 一瞬の沈黙の後で、固く強張った彼女の声が響いた。
『貴方はB2に入る資格がありません』
「資格?」
 そんなものが必要なのか? 怪訝な顔をする冥月を見ていたわけではないのだろうが、システムが勝手に説明を開始した。おそらく声の調子と語尾の上がり具合から質問事項であると解釈したのだろう。
『現在警戒態勢中です。B2とB3の幾つかの部屋はロックされており、それ相応の自分の身を守る術がない限りは入出を許可できません』
「自分の身を守る術ならある」
『警戒態勢中では、キメラを駆除出来る力のある者以外は入出を許可できません』
「キメラを駆除出来るだけの力はある」
『B2のフロアとB3のいくつかの部屋に関しては、能力制限がかかっています』
「知っている」
『それ相応の身を守る術がない限り、入出を許可できません』
 彼女の言う“それ相応の身を守る術”とはなんなのだろうか?
 冥月には影を自在に操る能力があるが、彼女が欲しているのはそれではないのだろう。B2のフロアへの入出許可が下りないのは、そこが能力制限を掛けられているエリアだからだろう。
 影剣では、能力制限に引っかかってしまう。 制限区域では暗器を使おうと思っていたのだが、具体的に何を用意して欲しいと言う要求を依頼主に出す事を怠ったため、冥月の手持ちは無かった。
 武器がない以上、システムは冥月を能力制限区域に入れることはしない。 つまり、冥月が移動できる範囲はB1とB3の幾つかの部屋を抜かしたフロアだけと言う事になってしまった。
 B3に蛍がいれば良いが、B2がマテリアルの部屋と位置づけられており、更には彼女は能力保持者だ。このエレベーターの反応からして、それは難しいだろう。
「分かった。B3に行ってくれ」
『B3ですね。分かりました』
 エレベーターが微かに振動し、ゆっくりと下がって行く。
 依頼の背景や研究背景に興味は無かったが、依頼内容は全て熟そうと決めていた。しかし、最初の段階ですでに恭一の救出は失敗、B2に入れない以上蛍の救出も絶望的になり、挙句現段階では B-violet すらもどこにあるか分かっていない。
 ローズがB3にいる事を祈るばかりだが、実践室とフロア以外では全て能力制限がかけられている。依頼主から放り投げられた写真と、参考にと渡された数枚のファイルには彼女が銃による戦闘を得意としていると書いてあった。おそらくこんな状況の中、彼女が銃を携帯していないはずはない。もし彼女が銃を携帯していれば冥月には入れない部屋にも入れる事になり、万が一彼女がその中で危機的状況に陥っていたとしても、冥月に助ける術は無い。
 彼女を見つけ出し、彼女の口から B-violet のありかを聞き出せない限り、入手する事は出来ない。
 依頼主の言っていた“キメラのみを暴走させる薬品”や“それを作り出した研究員”を確保しようとも思っていたのだが、そんなことは到底出来そうにない。 そもそもそれは正式に依頼されたことではない挙句、現在の状況を考えてみればそんなことに固執している暇はない。正規の依頼すらも1つも達成できないかも知れないのだ。
 ――― 死亡していたとは言え、恭一を連れ帰ることには成功している、か‥‥‥
 冥月が駆けつけたときには既に息を引き取っていたのだ、冥月のせいではあるまい。 自分にそう言い聞かせ、恭一の救出については完璧ではないにしろ一応の成功は収めたと結論付ける。
『B3に到着しました』
 白を基調としたフロアに降り立った瞬間、冥月はそれまであえて無理矢理意識の外に追い出してきた事を再確認させられた。
 もしかしたら、このフロアにローズがいるかもしれない。けれどそれは確実に冥月には入る事が出来ない部屋にいるに決まっている。何故ならば、冥月がこの研究所に入る前に影で走査した結果、影に引っかかったのは恭一と数人の死体だけだったのだから‥‥‥。
 それでも、冥月の影での走査の後にローズが制限区域から出てきた可能性もある。 固く閉じられた部屋の前を通り過ぎながら、冥月は1つ1つの扉の上部に開いた小窓から中を覗き込んだ。
 何の装置か知れない物が所狭しと並んでいる部屋、物が散乱し、壁に血が飛び散っている部屋、研究員らしき男性の後姿 ――― グッタリとした様子から見るに、彼は既に絶命しているのだろう ――― キメラ保管室と書かれた部屋の前で、冥月は息を呑んだ。
 小窓の中には金髪でスラリと背の高い女性が立っており、手にした銃を部屋の奥に向けて放っている。 銃弾を浴びせられながらも怯むことなく彼女に向かっていく緑色をしたグロテスクなキメラが、紫色の血を滴らせながら1歩1歩着実に距離を縮めていく。
「無理だ!」
 部屋から出てくれれば、冥月の能力であんなキメラくらい軽く倒せる。 扉を思い切り叩いてみるが、厚い扉は音を中に響かせることはしない。こちらからも中の音は聞こえず、無音映画のようにどこか現実味のない光景が繰り広げられた。
 ローズの目の前まで近付いたキメラが鋏型に変形した大きな腕を振り上げる。 ローズが右に避けて何とかその攻撃をかわすが、机に当たって一瞬動きが鈍くなる。キメラが驚くほどの速さで方向転換し、ローズの上に巨大な鋏を振り下ろす。
 断末魔は聞こえなかった。しかし、彼女の体から流れる鮮血と、キメラの腕に付着した血は、鮮明だった。
 これでもう、彼女の口から B-violet のありかを聞きだすことは出来ない。 対象人物を殺害した事に満足したのか、キメラがゆっくりとした足取りで部屋の奥へと戻っていく。
 扉にもたれかかり、床の上に腰を下ろすと冥月はガランとしたフロア全体を見渡した。
 このフロアで冥月が行けるのは、実践室とかかれた部屋のみだ。 各種実践室 ――― 能力別に細かく分けられているらしいが、部屋の上部にあるプレートにはA実践室やB実践室と言ったアルファベットで区別されているため、それが何の実践室なのかは分からない ――― それから、脱出の際に使うようにと言われた実践管理室のみだ。
 影で脱出しようとしていた冥月にとって、実践管理室を抜けた先にある下水道を通るつもりは無かった。
「さて、どうするか‥‥‥」
 思わず独り言が零れる。 各実践室を見て回っても良いが、そこに蛍がいる可能性はないし、ローズもいはしない。ローズ・恭一の口から聞くことが出来なかったために冥月は B-violet の完成品が何処にあるのか、そしてそれがどんなものなのかを知らない。そのため、持ち帰ることは出来ない。
 研究員の救出、薬品の入手を失敗した冥月に出来るのは、研究所の封鎖だけだ。 しかしそれとてB2に入れなかった以上、不完全なものになるだろう。 さらには、もしもまだB2のフロアに生きているマテリアルや蛍がいるとしたならば‥‥‥。
 このB3のフロアでも、まだ生きている研究員やマテリアルがいるかもしれないが、怯えている彼や彼女がいる場所がもしキメラに進入されていない安全な場所だとしたならば、動く事はないだろう。こちらからの呼びかけが出来ない以上、どうすることもできない。
 B3に爆弾を装置し、一応の封鎖を遂げるか、それとも素直に依頼主に依頼失敗の旨を伝えるか。悩むまでもなく冥月の心は決まっていた。
 自分の口から依頼失敗を依頼主に告げることは出来ない。この道で生きていく上で、最低限でも依頼を遂行としたと言う結果を出さなければならない。一度上に帰って武器を取って来ると言う選択肢もないではなかったが、既にローズも恭一も死亡している。これだけ時間がかかってしまったのだ、蛍だって生きているかは分からない。
 持っていた爆弾をB3のフロアにしかけ、冥月は影で脱出した。
 夜の終わり、朝の始まり、次第に色を帯びてくる空を見上げながら、冥月はボタンを押した。
 半端な気持ちのままで受けるべき依頼ではなかった。必死になれないならば受けるべきではなかった ―――
 いかなる理由があれ、人を救うと言う依頼では必死になれなければ失敗する可能性が高くなる。人一人の命を救うと言う大きな役目に対して、冥月の決意はあまりにも軽すぎた。
 目の前の事に真剣に取り組めず、ただ自身の力を過信するだけでは、道は開かれない。 冥月はしみじみとそのことを感じると、地下から響いてきた爆音からそっと目を逸らした。


* * *


 むせかえるような薔薇の香りと、コツコツと響く小気味良い足音に冥月は顔を上げた。
「久しぶりね、黒猫さん」
「‥‥‥黒猫とは、私のことか?」
「えぇ、そう。 貴方の名前は知っているけれど、あまりみだりに言って欲しくはないでしょう?」
「別に構わない」
 窓から入ってくる月光を浴び、女性がフワリとスカートの裾を持ち上げると冥月の向かいの壁に寄りかかった。 狭く埃っぽい倉庫の中で、彼女の薔薇の香りはどこか心安らげるものがあった。
「貴方には期待していたのに、残念だったわ」
 ポツリと女性が呟き、艶かしい笑顔を冥月に向ける。 切れ長の瞳と美しい黒髪、中国系の美女と言った容姿の冥月とは対照的に、彼女は大きな二重の瞳に見事な金髪、人形のように愛らしい顔をしていた。 白を前面に押し出した真っ白な冥月の肌に、透き通るような危うい白さの彼女の肌。 両方の種類の違う白く美しい肌を、月明かりが優しく照らしている。
「結局、蛍もB2で死亡が確認されたわ」
「B2に入ったのか?」
「貴方が中途半端に爆破してくれたお陰で、B2は何とか残っていたの。 廃工場を壊し、周囲から隔離しての掘り起こし作業は大変だったわ」
「そうか‥‥‥」
「B3のローズの死体も確認したわ。 あの扉は頑丈だから、幾つかの部屋は完全な爆破は免れたの。もっとも、フロア自体が崩れているから部屋の中は滅茶苦茶になっていたけれどね」
 爆風によって吹き飛ばされたり焼かれたりしたわけではなかったが、フロアが崩れたために部屋の中は凄まじい有様だったと淡々と語った。彼女の語り口からするに、どうやら発掘作業をしている間、彼女は近くでそれを見ていたらしい。
「 B-violet も粉々。完成品にまで漕ぎ付けられたのはあの研究所だけだったのに‥‥‥。他の研究所で、ローズクラスの天才はいないわ。後数年、天才が現れるのを待つしかないのかしら」
 ローズと言う天才が出てくるまでもかなりの時間を要したのに、またどれだけの年月を私達は待たなくてはならないのかしら。どれほどの研究費をかけなくてはならないのかしら。
 声の調子は平坦で、顔にこそ何の表情も出ていなかったが、瞳には明らかな怒りが見て取れた。
「そもそも、キメラなど研究するのは時間の無駄だろう」
「貴方にとっては無駄かも知れないけれど、私達にとっては重要な事だわ。 黒猫さん、貴方の価値観なんて、私達にはどうでも良いの。貴方が私達の価値観をどうでも良いと思っているのと一緒よ」
「‥‥‥どうしてお前がそんな風になってしまったのかは分からないし、詮索もしないが、話したいなら聞こう」
「あら、貴方私の事を知っているのね」
「その瞳の色が何よりの証拠だ」
「そうね。この瞳の色は特殊かも知れないわ」
 七色の瞳、金色の髪、お人形のような愛らしい顔立ち、全ては過去に裏世界を牛耳っていた男の恋人の外見と同じだった。
「お前、不老不死なのか?」
 裏世界を牛耳っていた男は、何十年も前に他界している。ひょんな事から彼が裏世界を闊歩していた時代に書かれた書類をチラリと見たことのある冥月は、彼女の顔を覚えていた。 目の前にいる彼女は、あの時の写真と少しも変わっていない。
「あるいはそうかも知れない。けれどある意味ではそうでないかも知れない」
「また曖昧な答えだな」
「黒猫さん、貴方に言いたい事なんて1つもないわ。私が何者かも、どうしてこんな事をしているのかも、貴方に話したいことなんて1つもありはしないの」
「お前の名前なら知っている。 レナ・アクィナス」
「それが本名だとは思わないで欲しいわ」
 苦笑しながらレナが髪をかきあげる。 七色の瞳がオレンジに、青へと変わり、暫く虚空を睨んだ後で冥月に向けられる。
「一応、恭一の救出分のお金は振り込んだわ。 死亡している以上彼の身体に用は無いけれど、貴方が着く前に既に死亡していたのだから、仕方が無いわよね」
 それから数秒、妙な沈黙が場に下りてきた。 どちらも口を閉ざし、無意味に溜めた時間の末にレナがゆっくりと息を吐いた。
「もうこれ以上話し合うことはないわ。 さようなら黒猫さん、もう2度と会うことはないでしょうけれど」
 話が終わったのなら早々に立ち去った方が得策だと感じた冥月が壁から背を離そうとした瞬間、レナがその行動を制した。
「黒猫さんは私の後から出て来てくれるかしら?」
「なんの意味がある?」
「迷信よ。 それに意味なんてないし、信じてなんかいないけれど、貴方に置き換えれば信じておいた方が良いと思って」
「何を言っている?」
「黒猫が前を横切ると何か悪い事が起きる‥‥‥。個人的に黒猫は好きだし、黒猫にそんな不吉な迷信がとりついているなんて可哀想で仕方がないと思うけれど、黒猫を貴方に置き換えれば、それもあながち迷信ではないかも知れないと思ってね」
 黒猫さんが前を横切ると何か悪い事が起きるかもしれないわ ―――
「もっとも、横切らなくとも悪いことは起きてしまったんですけれどもね」
 クスクスと残酷な笑い声を上げながら倉庫を出て行くレナの背中を、冥月は黙って見送った‥‥‥。


* * *


 B-violet
 その言葉の意味を正確に知ったのは、興信所の草間・武彦のデスクの上でだった。
 あるところでは書類が山積みになり、あるところでは崩壊しつつある中で、その書類だけはまるで冥月に見てほしがっていたかのように、綺麗にデスクの中央に広げられていた。
 “B-violet ――― BはBloodの略 ―――”
 ローズと対峙したキメラは、確かに紫色の血を流していた。
「‥‥‥まぁ、私にはもう関係の無い事だけどな‥‥‥」



END


◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


 2778 / 黒・冥月 / 女性 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵・用心棒