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ホワイトデー・ラバー
「うーん……」
街角のテレビから聞こえてくる声に、紗名は額に手を当てるようにして、地の底から搾り出したような声で唸っていた。
テレビには、女性リポーターがにこやかな顔で、お菓子屋さんを巡る番組が映し出されている。
――3/14。
その日は、バレンタインにチョコレートをあげた女性は、少なからず楽しみにする日だった。
そして同時に、バレンタインにチョコレートを貰った男性は、少なからず緊張なり、考え込むなりする日だった。
そう。目前に近づくのはホワイトデーだ。
一体誰が決めたのか、ホワイトデーといえば三倍返しは当たり前。
まして彼は――紗名は、本人は否定したとしても根は真面目。当然ここで問題になってくるのは『お返し』だった。
借りたものは返しましょう。御利用は計画的に――否。
貰ったものは返さなければならない。
とはいえ、なんといっても相手はまれか。
選択を一歩間違えれば、彼女の気持ち(という名の勘違い)は一気にヒートアップするだろう。
それに、なによりウッカリすると、自分も何かの道を――それが何かと認識するのも恐ろしいが――踏み外しかねないのは、哀しいかな、ここ最近の生活で嫌と言うほど分かっている。
そんなわけで、
「うーん……」
ついさっきと同じ唸り声を出しながら、紗名はバイト先へと赴いていたのだった。
「……金もねぇしなぁ……」
まぁ。
何だかんだいっても、根本的な問題は、そこだったりもするのだけれど。
◇
そもそも、3/14という日を期待しない、というのが可笑しいもので。
チョコレートをあげたことのある女性ならば、そしてホワイトデーというものを知っているのならば、それが例え幼子であろうとも、楽しみにしないわけがない。
けれど、まれかは違った。
「……むー……サナが、くれるなら、嬉しいけどぉ……」
ホワイトデー当日の朝。
そんな気配すら感じない――どころか、ぐっすり寝ている紗名を隣で座って見つめながら、まれかはぽつりと呟いた。
自分と、紗名は、どちらかといえば一方通行の関係だ。
この部屋に押しかけたのだって自分だし、クリスマスも、バレンタインも、全部自分が引っ張ってきた、つもりだ。
誕生日に彼の鼻先にキスしたのだって、全部自分からやったことだ。
だから、紗名が自分に対してホワイトデーのお返しなんてくれなくたって、それはそれで当然のような気もする。
「……むむぅ……だからって、落ち込んだりしないもん!」
自分に向かって気合を入れるのは、自分を奮わせるためだ。
テレビで「ホワイトデー」なんて言ってたって気にしない。
大体において、故意に紗名を悲しませるのは嫌だし(なぜか普通に悲しい顔をされることはあっても)、紗名に嫌われたいわけじゃない(飛びつくと決まって苦しそうな顔をするけれど)。
彼と、誰もが祝福してくれるような幸せな関係になりたいとは思っても、一先ずは、今一緒にいるだけでも幸せには違いない。
「よぉし、今日も美味しい朝ごはん、作っちゃうんだからぁ!」
愛しい旦那様(妄想込み)のために、まれかは拳を作り、声を上げた。
モノなんか欲しいわけじゃない。
もちろん、くれれば、それはそれで嬉しいけれど。
今日はバイトは休みだと紗名は言っていた。
いつも、バイトだ音楽だと忙しい彼が、3/14のこの日、自分と一緒に居てくれるのだ。どうして幸せじゃないなんて思うだろう。
だったら、いつもみたいに美味しいご飯を――いつも以上に美味しいご飯を作って、共に時間を過ごせば、こんなに楽しいことはない。
そうして、いそいそと朝食の支度をし始めたまれかの背後から、「まれか」と自分を呼ぶ声。
「ふぇ?」
何事かとお玉を片手に振り向いたら、寝ぼけたような表情の紗名が、どこからともなくチケットを二枚、見せびらかすようにして、口を開いた。
「遊園地に行くぞ」
「――……デート!!?」
――直後。
まれかは、瞳が零れ落ちそうなくらい大きく見開き、お玉を投げ出し、愛しい彼の寝起きに、気持ちを込めた(容赦ない)抱擁(タックル)をかましていたのだった。
◇
「ぎゃああああああ!!」
「きゃああああああっ!」
ホワイトデーの遊園地。
数多いカップルの波に、紗名とまれかの声が響く。
バイト先で貰ったのだという割引券。折角だから購入したフリーパス。
そうなれば、乗らなきゃソン、というもので。
二人は片っ端からアトラクションを制覇していた。
昼前から出て、大体半分くらいは乗っただろう。つい今しがた終えたジェットコースターから、肩で息をしながら二人、手を繋いで降りてくる。
「はー、すっげ、今の!」
「サナぁ、ねぇねぇ、次は、アレ! 海賊船〜!!」
海賊船を指差すまれかに、紗名は「おう!」と大きく頷いてみせる。
「面白そうじゃん、行こうぜ」
「うんっ! その次はぁ……あっ! あれにしよっ? まれかぁ、あの、上からヒューンって落ちるのが良い!」
まれかに手を引っ張られるようにして、軽い足取りで、二人は目的のアトラクションへと急ぐ。
子供のお守りをしていると思われているのか、微笑ましそうに自分達を見る家族連れも今日ばかりは気にならない。――紗名も、まれかも。
恋人としてみて欲しいと思っている自分だとか。
幼女に興味なんかないと思っている自分だとか。
それぞれの思惑なんて、今だけは、気にならなかった。
「きゃーーーーっ!」
まれかの叫ぶ声が、紗名が笑う声が、お互いの楽しんでいる声が聞こえて、遊園地に一緒に居て。
――楽しい時間は、あっという間。
「楽しかったぁ!」
散々叫んで、楽しんで、遊んだ帰り道。
夕日の落ちかけた世界に、まれかの幸せそうな声が響いた。
「サナが、あんなに乗り物に強いなんて、思わなかったぁ」
「遊園地っていったら、絶叫系だろ。乗らなくてどーする、乗らなくて!」
無意味に威張って口にする紗名に、まれかがまた、楽しそうに笑う。そのまま小走りで、紗名の数歩先へと進んで、踵でくるんと反転。ぺこ、とお辞儀。
「まれか?」
「サナぁ。まれか、今日、すっごく楽しかったの!
……遊園地……、えへへ、連れて行ってくれて、ありがとねっ」
「な、なんだよ、急に」
いつもの調子と少し違うまれかの態度に、紗名が僅かに目を開いた。
まれかは、確かに見たままでは子供だ。
けれど、考え方も知識も、しっかりしている部分がある。
だから、分かっていた。
今日の遊園地だって、デートだとかそういうものじゃなくて、ホワイトデーのお礼だということを。
3/14におもむろに遊園地のチケットなんて差し出されれば、それが「お礼」の意味を持っているなんて、すぐに分かるに決まっている。
それでも、嬉しかった。
紗名と「デート」だ。
二人で、手を繋いで遊園地内を歩き回って、一杯アトラクションに乗って、笑って。
これを「デート」じゃなくて、他になんて言う?
二人ではしゃいでいたのを思い出して、まれかが嬉しそうに頬を染めながら、また、ふにゃりと表情を緩めた。
「ホワイトデー、すっごく嬉しかったの。
……あのね、サナぁ。まれかね……まれかぁ、やっぱりサナが、だーいすきっ!」
もう一度、ペコリと一礼。
そんな少女の姿を見てしまえば、ふと、紗名の心にも罪悪感が影を落とした。
――ホワイトデーのお返しだと分かってて、はしゃいでたのか。デートだなんて。
バイト先から貰った、割引券で。
大したこともしてないし、良いものをあげたわけでもないのに。
もっと、いいことをしてあげられたかもしれないのに。
「……まれか」
「?」
知らず困ったような表情をしていたのかもしれない。不思議そうに自分を見やるまれかに、紗名は一歩近づく。
金がないのは仕方がない。夢を追っているのだから。
けれど、金でなくてもあげられるものならば。今、あげられるものならば。
「――……ふぇ、え……!?」
「……バレンタインは、ありがとな」
腕の中に、小さな少女の柔らかい温度。
柔らかい頬に、大人の男性の、硬い胸。
出血大サービス。
ぎゅうっと抱き締めたまれかの、普段と違う硬直した様子。
その緊張していたような身体がふわりと弛緩して、紗名へと身を寄せて。
「……サナぁ、だいすき」
とても幸せそうな声が聞こえてきたから――
紗名は、ゆっくり瞼を落とした。
いつかきっと、このことを後悔する日がくるんじゃないか。
そんなことを漠然と思いながら――それでも紗名は、腕を緩めることはしなかった。
- 了 -
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