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<東京怪談ノベル(シングル)>


うつせみの春

 草履を脱いで玄関に上がった途端、鼻を擽る微香があった。
 鬼籍に入った先達の、一周忌に訪れた時のことである。薄っすら空気を漂っているのは、恐らく奥の間から流れてきた抹香。しかしそれよりずっと濃く、壁や柱、家の隅々にまで染みこんでいる馴染みの香りを感じ。
 喪服姿の藤宮永は、唇の端で笑った。

 もう先生はおらんゆうのに、相変わらずやなあ、ここは。
 いの一番、墨が円やかぁに香ってきはったわ。





 同じく書を生業とする「先生」の許へ、祖父に手を引かれて訪れたのは、永がまだ小学校にも上がらぬ頃だった。
 頻繁な行き来こそ無かったものの年始の挨拶は欠かさない、そんな間柄は長く保たれた。まあつまり、お互い軽口を叩きながらもその才と性質を好ましく思い合っていたのだろう。
 彼の気質は豪放磊落……と言えば聞こえのいい、礼や遠慮といったものを人生のどこぞかに投げ捨ててきた御仁で、祖父と孫ほど歳の離れた永のことを最初から最期まで「坊主」と呼んでいた。
『おう坊主、おれはそろそろ駄目だ。先に現をおさらばするぞ』
 病床の彼を見舞ったのは、結果として彼が永き眠りにつく数週間前。そない大口開けて笑ってはるならまだ十年は余裕やな、との予想を裏切り、彼はあっけなくこの世を去った。
 それが、一年前の春のことだ。

 季節が一巡した先日、先方の家から法要の報せを受けた。
「内々に行う弔いですが、宜しければ」
 添えられた言葉は奥方の手によるもので、自分は予定が無いことを確認すると、桐箪笥の奥から紋付の羽織を引っ張り出したというわけだ。うー、ナフタレンくさっ。

 僧の読経が終わり食事をいただき、ほうと一息ついたところで、招いてくれた奥方へと改めて礼を述べた。
 彼女は永とさして歳が変わらない。亡き先生は人生の大半を独り身で過ごし、還暦を迎えた後に遅い結婚をした。書家としてそこそこ名を成した人であったので、え、もしかして財産とかそういう? と周囲が勘ぐったこともあったらしいが、正真正銘恋愛結婚だと白髪の主人は言っていた。
(ちなみに、まあ、先生ならありうる気ぃするわ、というのが永の忌憚無い感想である)
 近況など少し話をした後、奥方は、夫が生前使っていた部屋へと永を案内した。
「骨は墓に、位牌は仏間にあるんですけど、あの人の気配が一番濃いのは今でもこの部屋だと思いまして」
 会ってやってくださいませ。言いながら彼女が襖を開けると──ふわり。一層濃まやかな墨の香りが、花開く様に広がった。
 六畳ほどの、それほど広くはない部屋。彼はいつもここで筆を揮っていた、傍らに招かれてその筆遣いを間近で見たこともある。
 思い出す。水を注して墨を磨り筆先に含ませて、白い紙と──未だ何ものでもない世界と向き合う彼の横顔。ゆっくりと筆の先を置き、じわり、滲んだ黒を滑らせる。その軌跡が線と成り、形と成り、文字と象られ。
 命が、生まれる。
 彼が、命を、生み出す。

 ────覚えている。

 永はそっと部屋に足を踏み入れて、あの時と変わらずそこに在る、彼の道具類を見回した。床に散らばった半紙もそのままで、ああ確かに先生が今にも襖の向こうから顔を出しそうな気配がする。
 いや、これは墨の匂いか。景色も匂いも変わらないから、そこに居た人もまた、生きているような錯覚を覚えるのだろう。
 そんなふうに、窓際の日向に猫の様に座っていた彼の姿を思い出しながら。床の間に掛かる、彼の書の御前へと進み出る。
 ──向かい合う。
 気に入ったと自画自賛して、表装にも凝ったというそれ。流麗な永の手とは異なり、とても癖のある、いっそ子どもの落書きの様な、踊っている様な文字がそこに在った。
 生きていた彼の、彼の「現」の証が。

 ────生きるだけ生きたらば
 ────死ぬでもあらうかと思ふ

 生きるだけ現に生き、眠る様に現から去った人。
 あっちでも元気にしてはります? ……って、訊くまでもあらへんわな。
 いっそ苦笑した永の記憶の中で、しわだらけの顔がかっかと笑った。





 まだ日の高いうちに屋敷を辞して、その帰路、川沿いの道を戯れに散歩することにした。
 ぶらぶらと歩く天端には、両岸に桜の並木が植えられている。今はまだ三分から五部咲きといったところで、満開まではいま少しの猶予が必要かと窺わせる。
 だが、花は桜と讃えられる春の象徴である。低い枝に花をちらほら見つけただけで、その薄紅色、微笑を零すに躊躇いは無い。
 川へと視線を転じれば、幅が悠に20メートルはある泰然とした流れ。水面には水晶を砕いたかの光がきらりきらりと乱反射し、春の麗の言うわなぁ、と早春の陽の柔らかさと眩しさに、永はほんのり目を細めた。
 歩を進めながら、今日偲んできた人のことを思い出す。記憶を手繰れば、案外鮮やかに甦る彼の一挙手一投足、自分を呼ぶ声笑う声。一年くらいではそうそう印象は潰えないものらしい、彼はもう、この世界にはいないというのに。
 彼岸、という場所に、彼は今にいるのだろう。現という此岸と、そう、このくらいの川を挟んであちら側の世界に。
「……うつつ」
 そういえば、彼岸に対するこの世を意味するのも「現」なら、物事が存在していることを示すのもまた「現」。生きていることと在ることの2つの意味を、この字は身ひとつに孕んでいる。
 ならば、“この世の存在”と“在る”こと、すなわち“生きている”ことと“在る”ことは同意なのだろうか。
 ──成る程、それは一理あるかもしれない。
 “在る”と判じるのは生きている者だ、生有る者にとって見えること触れられること、つまりその存在を確かめられること。それが、“在る”ことなのだろうから。

 自分は、この世に、在る。
 先生は、この世に、無い。
 現の自分と、現から去った人。

「…………」

 けれど。
 それじゃあ。

 右手には薄紅の霞たらんと時期を待つ花の並木が。左手の河川敷へと下っていく斜面には、葉を伸ばす若い緑が繁っていた。
 草履がぺたんぺたんと進む土の色は赤味を帯びた茶色、見上げる空は冬のそれより仄かに色を薄めた、透き通る様な蒼。ちぎれ雲は白くたゆたい、飛んでいく鳥の影が黒い軌跡を描く。
 そんな景色をぼんやり目に映しながら、永は取り止めも無く考えていた。
 この世の存在を“在る”と言うのならば、死してなおこの世に存在しているモノは“在る”とは呼べないのか。
 “在る”ことが「現」であるならば、自分が“見ることの出来る存在”──霊や魂、物の怪といった類は「現」ではないのか。
「……確かに存在、してはるんやけどなぁ」
 触れられる実体の無いもの、形や存在は有るが命の無いもの。「現」の埒外に放り出されながら、それでいて影を「現」の中に残している。そういったものを永はよく知っていた。
 例えば、自分の文字。
 自分の手に成る文字は仮初の命を吹き込まれ、この世に姿を持つ物質と変じる。場合によっては、危険に晒された己が身の盾とも剣ともなる。それらは永劫の存在ではないが、その瞬間には──その刹那だけは確かに、この世に存在するのだ。
「けど、それは」
 それは、「現」の枠の内に入るようでいて。
 しかし、決して「現」と断じることは……断じようとすると、悩む。
「何や、はっきりせんなぁ」
 嘆息とともに吐き出す。立ち止まり、草履の先でこつんと、小石を蹴る。
 それはトン、ト、トン、と軽やかに地を跳ね、柔らかな草の上へと──トン。葉の裏に落ちて見えなくなった。

 ちゃんと在るのに、無い。
 見え無いのに、在る。
 現なのに、夢。
 夢なのに、現。

 ────それは、逝ってしまった人の面影を。
 ────目の前にいるかの様に思い出すことと、似ている?

 やや西に傾き始めた陽光が、川の水面を斜めに照らす。
 川を渡る風が、静かに永の横を通り過ぎていく。
 そういえば、近隣の邸宅に咲く辛夷や白木蓮は、大振りな白い花弁をまるで燃えるが如く立ち昇らせていた。我が家の庭にも、雑草に紛れて菫が高貴な紫を咲かせていたっけ。
 その横で素朴な黄を色付かせていたのは蒲公英。通勤途中で見かけるのは淡い赤味を帯びた馬酔木の花に、名残雪を思わせる雪柳の細かな散り際。香りに足を止めて愛でるのは沈丁花、電車の窓の向こう、一面の黄を目に飛び込ませるのは菜の花の群生だ。
 数えだしたらきりがないほど、冬の間息を潜めていた色彩が徐々に芽吹いていく。都会たるこの街でさえそうなのだから、深い根雪に閉ざされる地方にとってはおいておや。雪解けの後に姿を現す春の花は、それはそれは目に鮮やかに映るのだろう。
 古歌にも、春を寿いだものは数多在る。命有る者全てが、この季節を心待ちにしていた証拠だ。
「見渡せば……柳桜を、こきまぜて」
 ひらりひらりと、早くも舞い落ちてきた花弁を目で追いながら、ふと口をついたのは歌の上の句。千年以上も前の人の歌だったかと思い出しながら、また、瞳は川面へ戻る。
 川は隔たりの象徴。此岸と彼岸を分けるもの──現と夢を、分けるもの?
「……夢か現か、寝てか覚めてか」
 って、それ全然違う歌やないか。無意識に続いてしまった下の句に己でツッコミを入れつつ、だが──ああ、そうか。
 夢と現は対義として扱われ、それは生と死とがそうである様に、はっきりとした境目で区切られるのだと認識されている。
 けれども自分は、その境目にこそ在る存在を知っている。川の流れを漂う水の如く、掬い上げれば形と成り、しかし零せば形を消すもの。確かに在るのに、どこにも無いもの。
 字義に反して、現の意味はなんとあやふや。────この現の身は、なんとあやふや?
 現の中に夢は在り、夢の中にも現は在る。線など引けない。世界は、永の知っている世界はもっと混沌としていて、己の目に映るものすら定義できない。
 もしも逝ってしまった人が夢だというのなら、彼の残したモノもまた夢だというのか。現に在るのに、その魂は夢なのか。自分が今日向き合った文字、気配、匂い──彼を想起させるものさえ、いや想起したこと自体が、現だとは呼べないのか。

『坊主、命を見ろ。この世に溢れる命を見ろ。そしてそれを、自分の文字にしろ』

 不意に甦ったのは故人の声。
 永ははっとし──そして、空を見上げた。
 そら、と声を発したら、空、という字がそこに見えた。
 今日久々に対面した故人の文字は、文字でありながら絵でもあると評されている。
 彼は、文字をただの記号ではなく、それそのものが姿であり命であることを願って筆を執る人だった。自分とは違う命の吹き込み方を──文字に魂を息づかせようとしていた人だ。
 あの人の書には、確かに命が、魂が在った。決して見られぬ触れられぬ存在だけれども、込めた人はとうにこの世を去ってしまったのだけれども。

 あれは、現、だった。
 少なくとも永の目には、現と映った。

 ────なんて。
 考えてしまってから、永は唇の端で微笑う。
 やれやれ、久しゅうあの先生の書なんぞ見たから、こないなこと考えてまうんやろな。
「まぁ、どっからが夢で現かなんぞ……私に迷惑かからんやったら、別にどうでもええことか」
 至極永らしい結論で思考を締め、再び、桜並木の道を歩き出す。
 長時間座していたせいで凝った背筋を「うン」と伸ばしたあと、天上と眼下とをぐるり、見回してみた。

 そこに見えたのは。
 空、雲、鳥、山、川、花、木、虫、人、人、人。
 そこに在ったのは。
 蒼、白、墨、萌黄、若草、東雲、白金、薄紅、山吹、紫苑、色、色、色。

 見渡せば、世界の隅々にまで満ち始めている春の気配。
 命を彩る柔らかな色様々、ああ、あの色の数だけ命がある。

「都ぞ春の、錦なりける──て、法師はんは言いはったよな」
 古歌の正しい下の句を思い出し、美しき衣と讃えられた春の景色をもう一度見遣った。法師が詠嘆した時期には少し早いだろうが、それでも、春めかしい眺めであることに変わりはない。
 それが現であろうと夢であろうと、世界には命が在る。
 そして自分は、それを表す文字をもっている。

 ……書家はそんだけわかっとりゃあ十分、言わはるんやろ。
 なあ、先生?

 なにとはなしに機嫌良く、歩く永の目の高さに桜の蕾があった。
 綻び始めた膨らみに、永は含み無く微笑う。
 ────もうすぐ、現せ身の花が咲く。


 了