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春空に溶けて。
春休み。
それは、日本の学生のみに許される、穏やかな十数日である。
学年を上がる者、卒業する者、進学や就職を果たす者。
次のステップへと上がる為の準備をする為に、少年少女達は、様々に春の休日を過ごす。
東京都内は緑が少ない。人工建造物が春の空を塞ぐかのように、伸びている。それでも、春の気配は見つけようと思えば、何所にでもあった。木の芽が柔らかな黄緑の色をしている。
何所から飛んでくるのか、モンシロチョウが歩道を渡って行く。花屋の店先には、チューリップやスイトピーが鮮やかな色と形で、人の目を惹きつける。
「春休みまで宿題しなくてはならないのかしら?」
絹糸の束のような金色の髪を、一つにまとめ、背に垂らしているソフィーは、ううんと首を傾げる。春の日差しをそのまま瞳に映したかのような黄金が、真吾をじっと見た。
ソフィー・ブルック。彼女は人では無い。
『魔物の母』と呼ばれる、エキドナの末裔だ。しかし、人の世に長く交わった一族は、かつての絶大な力は削げ落ち、魔法と呼ばれる人に無い力を僅かに残す。その性質は落ち着いたが、本性は半人半蛇。美しい蛇の下半身は、ここ、鬼山・真吾の部屋…というか、人の世界では現しては居ない。人型に変化している。
可愛らしく小首を傾げている、そんなソフィーに、真吾はうーんとひとつ唸る。
「それは、あれだ。出席日数が足らないからだ」
「そうなんですか?」
「そうなんだ」
軽く溜息を吐く。
暖かい春の日差しいっぱい、部屋には降り注ぎ、昼日中は暑いくらい。夜風も、何所か春めいている。開け放った窓からは、花の香りがふうわりと風に乗って漂う。
この可愛らしい半人半蛇の少女は、真吾の許婚。
何がどうなったのかは、真吾もわからないが、遠いギリシアから、ただ許婚が居るというだけで日本までやって来たのだ。最初はそれはびっくりした。けれども、ソフィーはとても可愛い。姿形というわけでは無く、性格も、とても純真だ。
何より、真吾の家系は、魔に寛容だ。
どれくらい遡れば良いかわからないくらいの祖先から、『退邪士』という特殊な職業についている。
依頼があれば、生まれもって宿る破邪の力を振るい、魔を払う。邪なモノを払う仕事なのだ。そして、その力を薄めないようにと、伴侶には『魔』の者を迎える事が多い。だから、ソフィーが押しかけてきた時は、最初はびっくりしたが、一族郎党、遠くまでまあ、よくやってきました。と、いうだけのびっくりしかなかったりもした。
退邪士の仕事がかなり重なって、出席日数が足らない為の、補習の意味の宿題だったが…。何とか先が見えてきた。
「なあ」
「はい?」
「デート……しないか?」
「…はいっ!」
切れ長の漆黒の瞳がソフィーを見る。
ソフィーは、この婚約者。真吾が大好きだった。許婚が居るのならば、日本に行かなくてはと、その一念でやって来たが、一目見るなり、大好きになった。とても、綺麗で、素敵だと思った。
いわゆる一目惚れだ。
デート。
そんな事を言ってくれるとは思っても見なかっただけに、とても非常に嬉しい。
『初デート』その言葉だけで舞い上がってしまう。
何とも初心な魔のモノである。
「お〜い、ソフィー?」
「はっ! なななんでしょうっ?」
「何所か、行きたい所はあるか? あるんだったら…」
「公園! 映画! 動物園! 水族館! ウィンドショッピング!」
「…全部は無理だぞ」
「ええと。ええと。じゃあ、ウィンドショッピングは外せません」
「ん」
引き締まった体躯。大きな手。
真吾は、プロボクシングを目指しているという。『退邪士』なのに? と、聞けば、それだけで暮らしているのは、表向きに無理があるとか。人間社会は難しいと、ソフィーは思う。けれども、ボクシングの練習をちらっと見て、考えは変わった。
長いリーチを生かして、唸るように飛ぶ拳。しなる腕は、何所から飛んでくるかわからない恐怖を対戦者に与えるのだと言う。
サンドバックが、軋み、足元が軽い音を立てる。
真剣な真吾の姿に、二度目惚れしたのは、ついこの間の事。
あまり口数は多くないし、表情も表には出ないけれど、時折、ふっと優しいのは、とても嬉しい。
明日は、並んで歩けるのだ。何所へ行こう。何所でもきっと楽しい。
翌日も、良い天気だった。
春の日差しに温まった空気は、とても気持ちが良い。
ソフィーは、柔らかい素材のミニ丈のフレアワンピースに、ショートパンツを合わせて、パステルピンクのサンダルに、ベージュ色の小さなショルダーバック。バッグにはマーガレットのコサージュがついている。ひとつに結んだ髪は下ろして、こめかみにラインストーンの飾りがついたヘアピンを重ねつけする。化粧はあまりせずに、ピンクのリップクリームをつけた。
真吾は、グレーの薄いパーカーを羽織り、中には色味を押さえた空色のポロシャツを着込む。僅かに細身のラインのポロシャツは、パーカーの裾から色を落とし、退色した細いジーンズに最新モデルのスニーカーを履く。
大人びている2人だが、高校生だ。
さり気ないおしゃれが可愛い。
街行く人々も何所と無く明るい。
着る物が色の軽いものが多いからかもしれない。街路樹に芽吹く緑が柔らかい色合いで目に優しく飛び込む。
大きなガラス張りのウィンドウには、もう、初夏のファッションがディスプレイされている。
「ソフィー」
「あ。ありがとうございます」
人込みに押されて、よろけて、こけそうになった手を、真吾にとられ、ソフィーは、きゅっと、くっついた。
サンダルのヒールが高かった。思わずコケそうになる所を、ぐっと引き寄せられた。歩きやすい方向へと向かう。特に何を言うでも無いが、気遣いが嬉しくて、ソフィーは真吾を覗き込む。ふいっと、向うを向く真吾。
「えへへ」
大好きな人と一緒に歩くのは楽しい。
腕にぶら下がる様にくっついていたけれど、そっと手を伸ばせば、きゅっと、手を握り返してくれた。ソフィーの笑顔がさらに、嬉しい笑顔に変わる。
「ううううっ」
「そんなに泣けるか?」
「はいいいっ」
「ほら」
「はりがほうございまふ」
映画は、やっぱり、恋愛映画。と、思っていたら、ソフィーは、親友の女の子がかわいそうで、ハッピーエンドになったにもかかわらず、えぐえぐと泣いている。主人公2人は、幸せになったのだけれど、親友の彼が好きなのに、友情をとって、誰にも恋心を語らずに、じっと耐えていた少女に思わず貰い泣きしてしまったのだ。
ベンチに座って、涙を拭っていたら、ぴたりと、冷たい缶ジュースがおでこにくっついた。
桜ソーダ。
桜餅みたいな香りのするソーダをこくりと一口飲めば、少し落ち着いて。
「行くぞ」
「はーい」
見上げれば、くるっと背中を向けられてしまう。きっと、照れた顔してるに違いない。
それでも、ゆっくり歩く真吾の腕に、ソフィーは、後ろから抱きついた。
女の子は、たとえ、外国人でも、年をとっていても、うんと小さくても、半人半蛇でも、あんまり変わらないのかもしれないと、真吾は思う。ざっと挙げられた行きたい箇所は、とうてい一日では巡れない。
もっと早く連れて行ってあげれば良かったかと思いつつ、行く場所を決める。
まずは、ウィンドショッピング。そうは言っても、ただ街をぶらつくだけだ。女の子はそれだけで楽しいのだろう。きゅっとくっついているにもかかわらず、ヒールが高いのか、街の人込みが苦手なのか、よくよろけている。
(「危なっかしいな…」)
人よりも格段に世界に及ぼす力の強い種族なのに、何所かひとりでは放っておけない。
(「ちょっと…当たる…」)
胸が。
でも、それを言うのも恥ずかしいから、ソフィーの言葉に頷きながらも、あらぬ方向を向いてしまう。
どうしても、これが見たいと言った映画は、実は良くわからない。
友人の彼氏だから、言わないで身を引くのは、確かに美しい話である。けれども、引けるだけの相手だったのじゃあないかと、かんぐりたくなる。愛と恋と執着は別のモノであるのは、わかる。でも、好きと告白したわけでも無く、身を引くのは違うような気がした。本当に親友なら、主人公も、気がつけよと。
しかし、ソフィーはとても感動したようだ。
素直なんだなと、くすりと笑う。
何か、冷たいものと思って自販機の前に立てば、季節限定ジュースに気をとられる。
桜。
生まれはギリシアの半人半蛇だけれど、なんとなく、ソフィーに似合うような気がした。
泣くのも力が要るのに。
真っ赤な顔したソフィーのおでこ。
触りたいなと思って、そう思った自分の心に気がつき、自分が赤くなってしまった。
こんなソフィーを見るのは初めてだったから。
照れ隠しに、背中を向ければ、小さな気配が飛び込んでくる。
街の街路樹に植えられている桜が満開だった。
夕闇の中、桜色した提灯が、夜空に浮かび上がるように、桜を浮き立たせ。
はぐれないように、くっついて歩いて。
桜の花の香りを纏わりつかせて、家路へと…。
「楽しかったです」
「そうだな」
春の宵。
真吾の部屋で2人は寄り添ったまま、窓から夜空を見上げていた。
星空。
月明かりの無い夜でも、星明りが意外と眩しい。
レースのカーテンが僅かに揺れた。
「次は動物園です」
「動物園か」
「ただ、ごはん食べに行くだけでも良いです」
「ん…」
「あの服可愛かったです」
「そうだな」
他愛の無い話。
他愛の無い約束。
真吾は、もともと、あまり感情を表に出さず、多くを話す性質では無い。ああでも無い、こうでも無いと言うソフィーに、静かに相槌をうつ。ソフィーの声が、身体に響いて、とても気持ちが良い。
もう少し。
互いが互いにもたれて、ゆっくりとその距離は縮まる。
重なる重みと、暖かさに、ふと横を向けば、ソフィーの顔が目の前にあった。
大きな目。柔らかそうな…唇。
星明りが、一つに重なったシルエットを浮かび上がらせ。
このまま、一つに溶けてしまうかと思うぐらい。
「……」
でも、それは、一瞬の事。
どちらからとも無く離れた唇。視線を逸らすかのように俯いたソフィーの金の髪が揺れる。小さな手が、今しがた真吾の唇と繋がっていた自分の唇にそっと触れた。人差し指が、感触を確かめるように、ソフィーは自分の唇をなぞる。
「…そ…そういうの…すっごい恥ずかしいんだがっ!?」
ソフィーの仕草に、思わず逆方向に視線を逸らす真吾に、ソフィーは身体をずらし、伸びをすると、もう一度。そう、口には出さずに、唇を重ねた。
桜の香りが、ふうわりと香る。
「……」
真吾の瞳を覗き込むと、おやすみなさいと、囁くように告げて、ソフィーは嬉しそうに部屋を出て行った。
長い髪に何時の間にかついてきたのか、桜の花弁が一枚。
はらりと、真吾の前に落ちた。
ソフィーの香りと、桜の香りが混ざりあって残る。
その淡い色合いの花弁を掬い取ると、真吾はそっと口付けて……。
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