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<東京怪談ノベル(シングル)>


■ Illusion ― forror ■

 夜陰に犬が吠え、ひたひたとなぜか人の足音が静かに響く道。
 よほど肝が据わった者でない限り背筋に冷や汗が伝い、心なしか幻聴が聞こえる。

 ――んでだ なんでおれが

 その幽霊が、否、夢でしかなかったはずの人物が行動を起こした原因は、いつだって周りに振り回される時だけ……

 ■■■ ■■■

 草間興信所という場所には、色んなアルバイターがいるもので……
「濱路ー」
 所長の草間は書類をめくりながら、何気なく呼んだ。
 今、興信所内は彼以外出払っていて誰もいない。
 いない――はずだった。
 しかし。
「濱路」
 草間は脳裏に20歳かそこらの青年の姿を想像する。なるべく明確に。鮮明に。
 すると何もなかったはずの空間から、声が落ちてくるのだ。
「何の用だよ草間サン」
 草間が想像した通りの姿の青年が、すとんと空中から降りてきた。
 草間はにっと笑った。――目の前の青年が、今から押し付けられるであろう仕事を嫌そうにしている空気がありありと伝わってきたから。
 梶浦濱路。
 彼は、人間ではない。
 本来はどこぞの誰かが、夢の中で描いていた空想上の人物だった。それがひょんなことから現実世界へ出てきてしまったのだ。
 そんな訳で実体もなく、気がつけば目視できない状態になり空中遊泳している内に、ふとしたことから草間興信所にたどりつき――
 元々自分を生み出した「夢」の主を捜すため、そのまま居ついている。いわく「アルバイター」として。
 しかし濱路がまともに働いて役に立つことは滅多にない。
 それでも、草間は濱路の体質を利用して、たまに仕事を任せていた。
「人捜しの依頼だ。引き受けてくれ」
「え〜。マジで」
「お前一応うちのアルバイトだろう」
 すぐさま嫌な顔をした濱路に、草間は苦笑する。
 濱路は両腕を広げた。
「だって人捜しなんて面倒じゃん?」
「……うちの仕事のほとんどは浮気調査と人捜しだよ」
「怪奇探偵じゃなかったっけ?」
「その名で呼ぶなっ!」
 草間は机をどかっと拳で叩いた。顔が真っ赤になっている――『怪奇探偵』の言葉は、彼には禁句なのだ。
 しかし、その一方で草間は堂々と明らかに人外の濱路に頼っているのである。素晴らしい矛盾。
 濱路が、「だ〜れ〜を〜」と草間の手にしている書類を覗き込みにくる。
 書類には写真が添付されていた。
 スキンヘッドに、頬に十字傷。
「うっわー人相悪っ。なーんか絶対アブないことしてるねこのヒト」
 濱路が茶化して言うと、草間が「そうだろうな」と軽く一言。
「指名手配中のヤクザだ」
 たっぷり数秒。
「……俺、夢ン中帰るわ〜……」
 濱路はくるりと背を向けた。
 その襟首を、草間はがしっと掴んだ。
「逃げるな」
「無理! 無理だって! 無理すぎ無理にもほどがあるってゆーか無茶じゃん!? 俺殺されるって!」
「無理じゃない、大丈夫だ」
「何の根拠!?」
「何でもだ」
「草間サンて時々ひどいよな!?」
 むり、むり、むりむりむりと何十回繰り返しても、草間は耳栓をしているかのごとく平然としている。
 濱路はやがて根負けして――というか半ばやけになって――、
「くっそ〜、後悔しても知らね!」
 草間の手から書類と縄をひったくると、外へ飛び出した。


「あー仕事めんどー。やだなー」
 アルバイターと自分で言っておきながら、そんなことをつぶやきながら濱路は適当に書類に目を通す。
 指名手配中のヤクザ。何でも人を殺しているらしい。何でそんな人間の捜査を興信所がするんだ。警察に任せろよ……とぶつぶつぶつぶつ。
 濱路は確かに人外で、殺されることはまずない。
 それでも、怖いもんは怖い。
「だってさー。草間サンが想像した時って俺ってばしっかり痛覚とか持っちゃうんだぜ? 草間サンもその辺適当でいいってのにさ〜」
 彼は、あくまでも「想像したように」しか、具現化しない。
 従って、想像主が想像しなかった部分に関しては欠けた状態で生まれる。適当に想像されてしまうと、下手すれば盲目状態で具現化されたりもするのだ。
 それでも、場合によっては適当でいい時もある。
「ヤクザだぜヤクザ。やーさんだぜ〜。ドス! 銃! エンコ詰め! こえーよー!」
 片手に書類を持ちながら、片手で髪をかき乱してああ〜〜とわめく。
 こいつ指何本ないんだろうとか想像して、濱路は余計に怯えた。
 それでも引き受けてしまったからには仕方がない。
「捜す……捜す、ねえ……」
 この男に関して、異様に自分の感覚が鋭い。
 どうやら草間は、そのように濱路を「想像」してくれてしまったようだった。


 そんな訳で。
 当のヤクザを見つけるのに、さほど時間はかからなかった。まるで引き寄せられるように、自分の感覚が「こっちだ、こっちだ」と導いてくれたのだ。
 それほど大柄な男ではない。スキンヘッドに十字傷だが、中肉中背である。
「……いきなり声かけても、逃げられんのが落ちだよなー」
 ひとまず尾行だ尾行。お、なんか探偵っぽい。そんなことを考えながら濱路は、おそるおそるターゲットを尾行した。


 ヤクザは威風堂々と歩いていた。とても指名手配犯とは思えない。
 むしろ堂々としすぎていて、誰にも気づかれないと言ったところか。
 一般人は怖がって近づかないことだし。警察官の類も、指名手配の写真をちゃんとチェックしていなければこの手の人間には慣れっこで見過ごしてしまうだろう。
 途中で人とぶつかると、ガンを飛ばす。ぺっと汚い唾も吐き出す。
 ああ、ヤクザだ。
「……こえ〜よ〜……」
 濱路は情けない声でつぶやいた。
 ターゲットは、観察すればするほど怖い人間だった。案の定指が2本ほどない。
「ひいいいい〜!」
 ヤクザにもヤクザの筋があるとは聞いているものの、このヤクザはどうやら自分の力を誇示したがるタイプらしい。周囲を威嚇しまくっている。
 遠くからターゲットの声が聞こえる。
「どたまに風穴開けたろか!?」
「うぎゃっ!?」
 濱路は、まるで自分に言われたかのように頭を抱えた。
 風穴を開ける。つまり銃を持っているということか……!?
「いいい、今時、銃を持ってふらふらしてるなんて……ヤクザだからいるのか!?」
 実のところ草間もひそかに銃を持っていることを濱路は知っている。許可は取っているはずだが。
 しかし――
「ここここのっ! どたまに風穴開けたるっつーとるだろが!!」
 ……ヤクザが震え声で言っている。
 何だ? と濱路は不審に思い、顔を上げた。
「ち、近づくなっ! ええい邪魔だ! こら、ほんまに撃つで!」
 パチンコ屋の前で。
 誰が置き去りにしていったか分からない小犬を相手に、ヤクザは唾を飛ばしていた。
 ぶるぶる震えながら。
 わん! と犬が一声鳴く。ヤクザは飛び上がった。
「お、覚えとけやおんどれ!」
 ヤクザはくるりと背を向けて、足早に犬から離れていった。
「なんだぁあのヤクザ……」
 濱路はぼけっとした表情で、ひとり険悪な顔をしているヤクザを眺めていた。
「……ひょっとして、犬が怖いってやつ〜?」


 ヤクザはそのままどんどんと街道を渡る。陽が落ちてくる。濱路は空を見上げた。どうも、雲行きが怪しい。
 何だか暗い気分になって、さっさと仕事を終わらせようと何とかヤクザを捕まえるタイミングをはかる。
 ヤクザは何をしているのか、路地裏へ入っていった。その後を一般人が入っていく。
 げ、と濱路は唇を引きつらせる。
(まさか……麻薬取引!?)
 書類には、確かにこのヤクザは麻薬も取り扱っていると書いてあった。
 ああ、どんどん深みにはまっていく気がする。
 彼の気分を表すように、空は暗さを増していく。
 やがて一般人の方が先に出てきた。
 ――今ならヤクザ一人か――?
 濱路は思い切って、路地裏へ飛び込んだ。案の定、一人きりでターゲットが煙草を吸っている。そこを、捕まえて。
「なーおっさんー!」
 ヤクザはぎょっとしたようだった。
 濱路はがしがしと頭をかきながら、
「あんた捜索願いが出てんだよー。お願いだから素直に出頭して。な?」
「何だてめえ、このガキ」
「って、おっさんって言ったけどまだ25じゃんあんたも。俺19一応。そんなわけで素直に自首だ!」
「何言ってんだこのガキ!」
 ぶん、と振り上げられた腕の先の拳。固そう! と思った濱路は必死で避けた。
 路地裏はもう完全に暗い。かろうじて見える空も、どんよりとした雲で覆われている。
 ひや……と路地裏特有の冷えた空気が、濱路の肌に触れた。
 ああ、ちくしょー、と濱路は目の前のヤクザを恨めしくにらみつけた。
「なんだおんどれ。俺相手にガン飛ばすたぁいい度胸じゃねえか」
 あぁんあぁんとヤクザはガンを飛ばし返してくる。

 ……暗い、影。
 ビルの間に挟まれて、2人の影は塗りつぶされている。
 ヤクザの顔が暗がりに隠れて見えにくい。
 同じく、ヤクザにとっても濱路の顔はよく見えなくなっていただろう。

 漆塗りのごとく、闇が近くなってくる。
 ああ、暗い――世界だ。
「どけやガキ、俺は帰るんだ」
「いーから出頭してよー。困るんだってばさ」
「うるせえ!」
 ヤクザはぶんぶん拳を振り回して暴れだした。
(力じゃ勝てっこないよな。ちくしょー……)
 疲れるからやりたくないんだよなあ、とぶつぶつつぶやきながら、濱路は両手を突き出した。
 彼の手から、霞が噴き出した。闇に包まれつつあるビルの谷間をあっという間に覆い、濱路の姿を完全に隠す。
 ヤクザが「何だこりゃあ」とすっとんきょうな声を上げる。
「俺の犬、強暴だから気をつけてね」
 濱路は低い声で言った。
「うん、そりゃもー凶暴だから。ちょっと人様の前にはあまり出したくないくらい凶暴なんだ。たまたま散歩に連れてきちゃったしー、ごめんね〜」
 ひいっとヤクザが悲鳴を上げた。
 ヤクザの頭の中で、どんどんと想像が広がる。強暴、凶暴。こんな暗くて霞がかった場所で、そんな凶暴な犬。
 ああああ、とヤクザはうめいた。
 彼はトラウマ並に犬が苦手だった。それこそ小犬でさえ前に立ちふさがられたら回れ右をしてしまうくらいに。
 その彼の耳に響いた、凶暴――の一言――

 闇が、漆黒の闇が、ビルの間に落ちてくる。

 ああ、声が響く。

 ……黒く大きく、牙の鋭い犬が、遠吠えをする、鳴き声が――
 霞の中に黒い影を見て、ヤクザはひいっと縮み上がる。
 犬だ。あれは犬だ。
 巨大な犬だ。
「ケ……ケルベロス……っ!」
 神話上に生きる、二頭狼並の怪物犬を、ヤクザは見た。
 霞の中に、確かに見た。
「く――来るなああああ!」
 彼の悲鳴さえもビルに反響して戻ってきては、彼の鼓膜を震わせてますます世界を小さくする。
 ヤクザは逃げ出した。巨大な怪物犬は追ってくる。ぶん、と鋭い爪が飛んできた。背中を引き裂かれ、ヤクザは背中をそらせた。
 その喉笛に――
 犬の牙が――
 食い込んで――

 霞の中で

 漆黒の闇の中で

 誰もいない 独りきり 助けを呼べない 否もう遅い
 自分は噛み殺される、もう、もう、

 だめだ

 ――――………

 ■■■ ■■■

「ふう……やれやれ」
 濱路は気絶したヤクザを見下ろし、ため息をついた。「見事なまでに引っかかってくれたな、このおっさん」
 いやまだ25歳なのだが。
 濱路は自分の両手を見下ろす。この手から発生させた霞の中では、想像したものが幻覚となって現れる。
 ヤクザは「強暴な犬」というキーワードに踊らされ、勝手に恐ろしい犬を想像し、幻覚を見て、
 その幻の犬に襲われて――失神した。
 濱路はヤクザの両腕を、草間に持たされていた縄で縛り上げ、上着の中からそっと銃を取り上げた。ついでにドスも。
「捕縛……完了……っと」
 つぶやいて、濱路はどさっとその場にしりもちをついた。
「あ〜あ、やだなー仕事って……」
 怖かったよー、と天を仰いで嘆く。
 あれほど曇っていた空が、いつの間にか夕陽の差し込む美しいそれへと変わっていた。


 <了>