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〜苦難の果実は甘酸っぱくて〜
蚊取り線香の細い煙が、畳の上から直接天井へとたなびくのを見やり、来生十四郎(きすぎ・としろう)はがしがしと無造作に頭をかきむしった。
「これじゃまるで、『夏休みの宿題』じゃねえか!!」
折しも、夏も押し迫った8月の末である。
勉強は大嫌いだったが、締切はもっと嫌いな十四郎である。
何だかんだ言いながらも、8月最後の日まで、宿題が終わらなかったことはなかった。
無論、7月中に片付けるという芸当は、一度もできたことはなかったが。
特に、今回は長文原稿と、コラムが3つ重なっているという修羅場に近い締切地獄だ。
クーラーという贅沢品など、この廃墟寸前のアパート「第一日景荘」には存在しない。
ただただ、壊れかけた地球の報復でもある、この猛烈な夏の暑さに、精神力だけで耐えることを強いられた、これは彼の試練でもあった。
そんな中、暑さを物ともせず――当然といえば当然だが――、彼の兄の来生一義(きすぎ・かずよし)が、冷たい麦茶を彼の机の空いているところに置いた。
「少しは片付けようっていう気がないのか?」
言っているそばから片づけを始めながら、一義は乱雑に散らかる部屋の中を俯瞰した。
「せめてこの積んである雑誌だけでも片付ければ、風通しもよくなると思うんだが」
「あのな、今の俺の、どこをどう見たら片付ける暇なんてあるんだよ?!」
苦手極まりない兄の小言を、さっさとさえぎって、十四郎は兄を振り返りもせず反論を始める。
「俺が小学生なら、始業式の日に『忘れました』って言えば済むかも知れねえけど、そんな訳にはいかねえんだよ!って、宿題も忘れたことねえけどな!」
「…忘れそうになったことはあるだろう?」
ぼそり、とつぶやいた兄の一言に、カチーンと来て反撃しようとしたその時。
十四郎ははた、と思い当たった。
そんな彼の横で、手際良く掃除機をかけ始め、綺麗に本や雑誌を本棚に戻し、放りっぱなしの十四郎の服をたたんでは、押入れの一角に入れる、その流れるような一連の動作を続ける一義に、十四郎はあの年の夏を重ね合わせた。
(そうだ、あの時、掃除機をかけてたのは、俺だったな…)
忘れもしない、あれは小学生最後の夏休み。
…実際、あれほどひどい夏休みは、後にも先にも、あの時だけだったような気が、する。
相も変わらず、毎日毎日続く、家事と一義の送り迎えの日々に、さしもの十四郎もうんざり気味だったある日。
今日は、夏休みの間に行われる、学校のプールの最初の開放日だというのに、一義が図書館に行きたいというので潰れたのを機に、十四郎はとうとう、こんなことを考えた。
「俺ばっかり家事やってるから、遊ぶ時間がねえんじゃねえの?」
そう思いついて、いろいろ思い返してみると、毎日の家事のほとんどを十四郎がこなし、残ったものを母親が片付けるという構図が出来上がっていた。
このうちのいくつかを、夏休みなのに勉強しかしていない兄に押し付ければ、その分、自分の時間が空くのではないか。
「すっげー、俺って天才かも?!」
小躍りするほど喜んで、十四郎はさっそく、一義の部屋に駆け込んだ。
「兄貴、ちょっとさ、話があるんだけど」
一心不乱に机に向かっていた一義は、眼鏡の縁を上げながら、弟を椅子ごと振り返った。
「どうした?」
「兄貴も勉強ばっかしてないで、家事くらい覚えた方がいいって。勉強の合間の気分転換にもなるし、それにもし俺が入院したらどうする?」
一義は、十四郎の提案をしばし沈黙して考えた。
そして、確かにそれはそうだ、と納得する。
「そうだな。いい考えなんじゃないか?」
「だろ?じゃ、今日から早速やってみようぜ!」
勢い込んで、うきうきしながら階段を下りて行く十四郎には、何か訝しげなものを多少感じたが、提案そのものはどこもおかしくないので、一義はおとなしく、弟の後をついて一階に降りた。
「まずは食器洗いからだな」
台所に入り、十四郎は、4人分の食器が積み上がっている流しに立って、スポンジを取った。
「これに、洗剤をつけて、こうやって洗うんだぞ。コップは中もきれいに洗って、油を使ったものは最後だからな」
そう言って、泡のついたスポンジを一義に渡す。
一義は空いた手で、流しにあった白い皿を取り上げた。
だが、その瞬間、つるっと皿が滑った。
「うわっ?!」
「あっ!」
甲高い音がして、白い皿の破片が、床に飛び散った。
しかも、驚いた一義が飛びのいたところに、ビニール袋が落ちていて、そのまま足を滑らせ、スポンジが宙を飛ぶ。
それは、派手に泡を振りまいてリビングへと飛んで行き、母のお気に入りのサイドボードにあった、石膏の人形を叩き落して、ようやく止まった。
「…」
十四郎は一気に青ざめた。
一義は、床から腰をおさえて立ち上がり、飛んで行ったスポンジを回収して戻って来た。
「ああっ、そこ、皿が…!踏むなって!!」
「えっ?!なっ、痛っ!!」
一義が割れた皿を踏んで、足から血を流しているのを慌てて手当てし、十四郎は、自分がとんでもないことを始めたのではないかと、少し後悔し始めていた。
だが、こんなことは序の口で、これから先、もっと大変な事態が待っていたのである。
最初から皿洗いはハードルが高すぎたのかと、十四郎は反省した。
翌日、夕食のサラダに使うゆで卵を作らせるくらいなら大丈夫だろうと、卵をパックごと、兄に渡して、台所を去る。
洗濯物をしまおうとして、二階に上がったその時。
ドッカアアアアアン!!
爆音が家中に轟いた。
慌てて階段を駆け下り、台所に飛び込むと。
オーブンレンジの前で、途方に暮れる一義の姿があった。
「おい、今何したんだよ?!」
「ゆで卵を作ろうと思ってな、オーブンに…」
一義を押しのけて、オーブンレンジをのぞくと、大惨事が起きていた。
…どうやら、これでもハードルは高いらしい。
結局、残りの時間は後片付けに消え、その日一日はまたしても徒労に終わった。
「洗濯なら、間違いようがねえよな」
そう断じて、洗濯機の使い方を教えれば、色柄物と白い物を一緒に入れ、見張っていなければと思ったらしい一義は、水の流れを真剣に監視しすぎて、傍らで目を回して倒れていた。
リビングに引きずっていって、介抱すること1時間。
その間に水の色が汚い茶色と化し、中に入っていた洗濯物すべてを、素敵な黄土色に染め上げてくれた。
それを洗い直して、一部を漂白剤に漬け、干したらもう日が傾き始めていた。
十四郎はあきれ果て、もうこれ以上簡単なものはないからと、掃除を教えることに決めた。
掃除機のかけ方を教えて、自分は廊下の雑巾がけをしようとリビングを離れ、小半時経って戻って来てみれば、リビングのあらゆる小物がなくなっていた。
「全部吸い込んでしまったのだが…」
「何だって?!」
十四郎が掃除機の中を開け、吸い込んだものを引っ張り出している間に、代わりに雑巾がけをしようと一義はバケツの近くに行く。
バケツの中から雑巾を取り出して、絞りもせずに床にびちゃっと置き、そのままくるりと後ろを向いて、走り出した。
無論、背後にはバケツがあり、一義の足がバケツを蹴り上げる。
派手な音をたてて、中身がぶちまけられた。
「うわあああああ!!絨毯が!!」
リビングに敷かれていたゴブラン織の高級な絨毯が、汚れた水を吸い込んでいく。
半泣きになりながら、十四郎が水浸しの床を拭き始めた時、学校の先生の気持ちがちょっとだけ理解できた。
「…今度から真面目に、先生の言うこと聞こう…」
十四郎は意外に自分が忍耐強いことを、この時に知った。
毎日毎日、兄が発揮してくれる、凄まじい不器用っぷりを、文句を言いつつ、たまに本気で泣きながら、十四郎はフォローし続けた。
その結果、ある程度の家事は、一義のスキルとなった。
殊に、掃除は大の得意となる。
額の汗をぬぐって、十四郎は安堵のため息をついた。
「よし、これで俺の時間が…って、え…?今日って…」
十四郎はカレンダーを見て固まった。
その向こうで、上機嫌に掃除機がけをしている一義が視界に入る。
そこで、十四郎はあることを思いついた。
兄の近くまで歩いていくと、掃除機に負けないほどの大声で、一義に話しかけた。
「なあ兄貴、俺が協力したから兄貴も家事ができるようになったんだよな?」
一義は掃除機のスイッチを切り、自分より二回りは小さい弟を見下ろした。
「そうだな」
すると十四郎は満面の笑みを浮かべた。
「今度は兄貴が俺に協力する気ない?」
「?」
一義は首をかしげた。
それを見て、急に十四郎は表情を崩した。
「…夏休みの宿題手伝って」
半分泣き声で訴える十四郎。
今度は一義があきれる番だった。
大きく肩でため息をつく。
「…今回だけだからな」
ちりん、とどこかの風鈴が軒先で鳴る。
「思い出した…」
十四郎はぼそ、とそうつぶやいた。
「思い出したか?」
一義がしたり顔で弟を見やった。
「おい…」
その瞬間、十四郎が爆発する。
「あれは誰のせいだと思ってんだああああああああ!!!」
〜HAPPY END?〜
〜ライターより〜
またのご依頼、誠にありがとうございます!
ライターの藤沢麗です。
いやー仲のいいご兄弟ですね!
見ていて(たとえ修羅場でも・笑)、
ほのぼの、しみじみします。
あの夏の苦難の日々のおかげで(?!)、
今原稿を書く時間が取れるようになった、
ということ…でしょうか?
やはりここは、
「めでたしめでたし」で締めたいところですね!(笑)
それではまた未来の物語をつづる機会がありましたら、
とても光栄です!
このたびはご依頼、本当にありがとうございました!
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