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cherry-blossom viewing
花の命は短く儚い。それが桜ともなれば尚のこと、この国の住人は開花の報に一喜し、散る様を見て一憂する。
世の中に、絶えて桜のなかりせばと詠んだ歌人も古くに居たそうだが、その気持ちも解らなくもない、とアドニス・キャロルは新緑と薄紅の混在する枝を見上げてつらつらと考えていた。
桜の萌芽は、花の終わりを告げる。
風もないのに色褪せた花が力尽き、はらはらと散り落ちる様は物悲しく、アドニスはひらと空を漂う花弁に思わず手を差し延べた。
しかし、花弁はアドニスを避けるように、ついと翻ってそのまま足下に落ち、他の花弁に紛れてしまう。
アドニスは思わず溜息を吐いた。
一時、掌に止めてみたところで、土に還る定めが変わる筈もないのだが、惜しむ気持ちを無碍にされた心持ちになってしまうのは、今から花見に向かう予定の為だ。
モーリス・ラジアルから連絡を受けたのは一昨日、アドニスのバイトのシフトが空いているか確認の後、ならば今日にも出掛けましょう、と半ば一方的に話を纏められて閉まった。
花見の約束こそ、随分前に交わしていたのだが、桜はとうに盛りを過ぎている。
待ち合わせに指定されたのは、アドニスのバイト先近くの公園、つい先週までは花見に繰り出した酔客に賑やかだった場所は、今や散る花が静かに降り積もるばかりだ。
緑鮮やかな葉桜を愛でるのもいいが、花見、とくればやはり桜でなければという拘りを感じるほどには、アドニスも日本に馴染んでいる。
モーリスの意図が掴めないまま、アドニスはぼんやりと空に手を差し延べた姿勢を保つ。
微動だにしていないつもりでも、何某かの空気の流れがあるのだろう。
花弁はアドニスの掌に降りることなく、ひら、ひらと踊るように左右に舞い落ちて行く。
何処か不思議なものを眺める心地で、しばし花弁の動きを追っていたアドニスは、ふと違和感を感じて顔を上げた。
何か……右側面からじんわりとした気配を感じる。
月齢は新月に向かっているとはいえ間の頃、徐々に力と鋭さを増していく感覚でも曖昧にしか捉えられないそれが、ひたすら己に注がれていることが訝しい。
アドニスは不審に思いながらも、気負いなくごく自然な風を装ってそちらに目を向け、びくりと緊張を走らせた。
路肩に止まる、高級車。
磨き上げられたフロント硝子越し、ハンドルに置いた両手に顎を乗せる形で、モーリスがこちらを凝視している。
思わず公園の時計に目をやれば、約束の時間から十分ばかり経過しており、アドニスは慌てて駆け寄ると、助手席から車内に乗り込んだ。
「声をかけてくれれば良いのに」
アドニスのごく当たり前の要求に、モーリスが微笑んで見せた。
「嫌です。そんな勿体ない」
穏やかだが、きっぱりとした拒絶が返るとは思わず、アドニスは思わずシートベルトを固定しかけた手を止める。
「花の下のキャロル……まるで一幅の絵画のようで思わず見惚れてしまいました。いえ、絵画にしてしまうと勿体ないですね。周囲を舞い散る花が、形作る陰影の淡さは如何なる名画家でも再現出来るはずがありません。儚げな風情に、キャロルの銀髪がまた映えて」
滔々と語るモーリスの大絶賛にアドニスの手から力が抜け、シートベルトはするすると元の位置に戻ってしまう。
「物憂げな表情の持つ色香たるや、花精も斯くや。車を飛び出して抱き締めてしまいたい、けれどあの空気を壊したくもない。相対する気持ちに引き裂かれそうだった私の煩悶を理解して貰えるでしょうか」
故に、ガン見していたと。
モーリスの性格からして、待ち合わせの五分前には現場に到着していた筈である。
交通機関の都合上、アドニスは十分前に待ち合わせ場所に居たので、最低でも十五分はモーリスの視線に晒されていたわけだ。
賛辞の言葉に某かのコメントをすべきではないかと思うのだが、下手な肯定は自意識過剰のようだし、迂闊な否定はモーリスの気持ちを踏みにじってしまう。
謙遜も甘受も出来ないとなれば、アドニスには頬を赤らめる程度しか、自分の気持ちを表す手段は残されていない。
「……早く行こう」
出掛ける前からぐったりと疲れてしまったアドニスは、言葉少なにモーリスに要請する。
「はい、キャロル」
シートに深く身を沈めたアドニスに、モーリスがやけに嬉しそうな表情で応じ、エンジンをスタートさせた。
目的地を知らされないまま高速に乗り、北西に向かってひた走ること四時間。
モーリスの運転技術と、安定した走行についうとうととしていた間に地道に降りたらしく、気がつけばアドニスは自分の所在地が解らなくなっていた。
標識等で確認しようにも、曲がりくねった峠道をひた走るに地名の手がかりは見当たらない。
モーリスに場所を聞いても、着けば解ります、と悪戯っぽい微笑みを浮かべるばかりだ。
周囲は宵闇に沈み始め、道の上に大きく張りだした樹木の影が空を隠す。
それでも狭間から見える星のきらめきは澄み、それによって空気のきれいな場所だということは察することが出来た。
花見と言うからには桜がある筈だが、目を懲らしても空の藍を背景に黒々とした影を作る木々の枝葉にそれらしい色合いはない。
かといって、モーリスに無理から目的地を聞き出すのも不粋に思えるとなれば、少ない材料に推測するしかない。
標高は高くはないが、それなりに山奥であるのは察せられる。庭師を生業とするモーリスのこと、人知れず咲く名木で花見に洒落込もうという腹かと当たりをつけた。
一口に桜と言っても、種類によって花期は前後する。山桜が最も早く、次いで枝垂れ、一般的な里桜、それから八重へと続き、花の遅い種ならばそろそろ満開の頃かと思いを巡らせる。
世の人々が、花見が宴会の口実であるならば、アドニスにとってはモーリスと二人の時間を過ごすためのそれだった。
桜の品種が何であれ、共通の時を過ごせるならばそれで充分だと、待ち合わせ前の疑念に漸くの決着をつけて目を閉じる。
ちょっとした不安や不満、そんなものに右往左往するなど、らしくもない。
しかし桜は咲いたか、まだ散らずに居るか、春の移ろいやすい天気にも気持ちを左右されながらも、望む気持ちを抱き続けるのは悪くない。
穏やかな思考に沈んでいる間に、車はゆるやかに停車し、エンジン音が止まる。
「……キャロル? 眠ってしまいましたか?」
途中、サービスエリアで軽い食事を摂った時以外、ずっとハンドルを握っていたモーリスが、顔を覗き込むように身を乗り出す気配に、アドニスは目を開いた。
「いや、起きてる」
到着地は、山の頂上に作られた駐車場のようだ。
モーリスに促されて車外に出れば、春らしからぬ山の空気が鼻腔に冷たく感じられた。
コンクリートで整えられた敷地を木を模した柵がぐるりと囲い、遊歩道と思しき小路へと続く。
「こちらです」
仄かに明るい道の向こう、十段ほどの階段の先を示して先を行くモーリスの後に倣い、肩を並べるのがせいぜいな、狭い階段を上り切る。
途端に、視界が一転した。
眼下に見下ろす風景は、一面の桜色。
山の傾斜を覆い尽くす勢いで植樹された染井吉野は今を盛りと咲き誇り、遊歩道に沿って点された灯篭の灯りを受け、白く浮かび上がる。
灯火の届かぬ場所でさえ、半月の淡い月光をその花弁一つ一つに含むようにして、斜面全体がぼんやりと光っているかのようだ。
ほんの少し、遊歩道に沿って傾斜を下っただけで、天を桜花が埋め尽くし、歩道に散った桜と相俟って淡い紅に包まれる。
「彼処が小さな温泉街になってまして。今日は桜祭りが催されているそうですよ」
言葉なく、風景に見入るアドニスに、モーリスが木々の間に見える山裾の光を示す。
斜面の勾配が急なせいか、全景を見下ろす形になるが、等間隔に並ぶ灯篭の灯りを目で追えば距離自体はさほどないようだ。
その為か、幻惑されそうな光景に……スピーカーで音の割れた、上手いとはお世辞にも言えない歌声が木霊になって時間差で響いてくる。
幻想的な光景にはあまりに不似合いな、平たく言えばムードぶち壊しなわけだが、ここから止めろと叫ぶわけにもいかない。
「賞金付きのカラオケ大会だそうですが……参加します?」
モーリスの誘いに、アドニスは無言で首を横に振った。
郷に入れば郷に従え、或いは朱に交われば朱くなる。祭りの賑わいに紛れてしまえば、下手な歌など気にならなくなる、というよりもアドニス自身、歌に自信は全くない。
それを解ってカラオケ大会に誘うのかと、思わず非難がましい目でモーリスを見てしまう。
「そうですね」
その視線を飄々と受け流し、モーリスの碧眼がアドニスに据えられた。
「ここなら、誰にも邪魔されず」
言って、踏み出す一歩に距離が詰められる。
伸ばされた右の手が、アドニスに進むことも退くことも禁じて優しく頬に添えられた。
「二人きりになれるのですから」
モーリスの求めるところに応じて、アドニスは僅かに唇を開く。
至近に寄せられるモーリスの顔に、自然、眼を閉じれば、瞼の裏に白く桜の天蓋の影が残る。
花の下。想いとぬくもりを交わすことに、何の抵抗もありはしない。
と、同時にタイヤの擦過音もけたたましく、一台の車が先の駐車場内に停車する気配があった。
「もー! パパの方向音痴!」
「じゃぁ寝てないで道教えてくれよ!」
「今度、ナビ買って!」
「かってー」
荒々しいドアの開閉に続き、そんな言い争いが甘い空気を吹き飛ばした。
アドニスは咄嗟に一歩を退き、モーリスは踵を返してくるりと背を向ける。
「あー、もうカラオケ大会始まってる!」
「いっつも右か左かで迷うんだよなー」
「迷った時は自分の判断と反対に行けばいいのよ」
「のよー」
夫婦に子供の二人連れは、遊歩道に雪崩れ込み、桜の間から望む町の灯を見下ろして口々に捲し立てながらも楽しげだ。
その間、アドニスは空に手を差し延べて桜の花弁が掴めないかなー、というふりを保ち、モーリスは職業病的に桜の幹に手をあて、樹木の診断なぞ初めて見ている。
「車を回してる暇はない! 走るぞ!」
「目指せ賞金二十万!」
「カーナビ買うぞー!」
「ぞー!」
鼓舞に拳を振り上げた家族一同、幼児を肩車した父を先頭に中学生と思しき娘が続き、最後尾を母親が守りながら、遊歩道を駆け下りていく。
彼等は一面の桜の景観にも、明らかに不自然なアドニスとモーリスにも目をくれることなく、疾風のように去って行った。
あっという間に桜の連なりの向こうに消えてしまった背を見送り、アドニスとモーリスは、同時に顔を見合わせて、どちからからともなく笑いを零す。
そうして、申し合わせたようにごく自然に身を寄せ、もう一度唇を合わせ……ようとして。
アドニスは、微かな違和感に目を開いた。
その感覚はモーリスも同じくしたらしく、彼も眼を開いて動きを止めている。
違和感の正体は、ひんやりと瑞々しい冷たさを保ったモーリスの唇、と己の間に滑り込んだ、桜の花弁。
掌の上に落ちることすらなかったというのに、どういう塩梅にすればこういう事態になるのか。
感心が先に立って、モーリスの目に悪戯っぽい光が宿ったことに、気づくのが遅れた。
桜の花弁はそのままに、舌先で口内に押し込まれる。
何を、と不満の声を上げるには、その花弁は甘すぎた。
邪魔が入らない場所に移動しましょうか、とモーリスの誘いに応じたが、アドニスは先のどれもさして邪魔とは感じていなかった。
カラオケはその後上手い歌い手に移行したし、あの家族は騒がしかったが一過性、桜の花弁とて、風情の一環であって快くはあれ、邪険に思うほどではない。
けれどモーリスの誘いに応じて進む道は、催しの会場とは反対方向で、賑やかさが徐々に遠のいていく。
人気がないとはいえ、手入れはきちんと為されており……それどころか、○○商店街や、○×旅館共同組合などのスポンサー付の灯篭から文字が消え、プラスチック製と思しき物自体が、朱塗りの凝ったものに変わっている。
本来ならば、繁華街に近いあちらの方に力が入って然るべきではないかと首を傾げた瞬間、目の前をひらりと過ぎった花弁の色の白さが目に止まった。
思わず見上げた先には、周囲の若い木々とは一線を画した山桜の大樹が聳える。
「着きましたよ」
遊歩道の終着点……と、言うよりも、ここに到るための道であったのだと、小さいながらも門を構えた平屋の様子に得心した。
下の温泉街まで温泉を汲み出している、最も源泉に近い場所にこぢんまりと構えられた旅館は、山桜と合わせて古い佇まいを見せている。
人の気配と、暖かく点された灯り。門の両側に掲げられた灯篭には、桜の紋が染め抜かれて内から柔らかな光を発していた。
「ここは?」
「近隣で最も古い温泉宿です。何でも武家の隠れ湯だったとか」
「相変わらず用意がいいな」
古式ゆかしい風情も成る程と理解して、アドニスは苦笑する。
最も、日取りの設定から場所まで、全てモーリスが牛耳っていた為、一泊の予定が立っていたことなど、アドニスが察する余地はない。
けれど、二人きりの時間がまだ続くという確約は、正直に嬉しい。
が。
「今日は私達だけですから、誰の邪魔も入りませんよ」
そう請け負うモーリスに、思わず足が止まる。
それは貸し切りと言わないだろうか。
家屋の向こうに位置しながらも、道まで枝を大きく張り出した山桜を見上げ、アドニスは眉を顰めた。
花の盛りに客が一組だけなどと、宿に如何なる利益を供すれば可能なのかと、不粋にも程があるが,どうしても宿泊代が気に掛かってしまう。
「……高価いだろう」
「それほどでもありませんよ」
あまりにもあっさりとした答えの自然さが信用ならず、動かないアドニスにモーリスは門を潜りかけた位置で振り返った。
「時節の流れに本館を麓に新築したそうですが、桃源郷ならぬ桜源郷の風情が惜しいということで、昔ながらの設備をここに別館として残してあるそうです」
故にこの施設はは花の季節、しかも一夜に一組のみ限定の宿泊客をもてなす為だけに使われていると言う。
「それを……二人きりで?」
それはそれで、希少価値や競争率の高さや何やかやがぐるぐるしてしまうアドニスに、モーリスは肩で息を吐くとスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。
「お休みを頂いたら、ゆっくりしてきなさいと言われたんですよ」
独り言のように呟きながら、携帯電話のフリップを開く。
「どうですか、嫌なら断りますけれど」
宿を目の前にして……と、いうよりも、既にアドニスとモーリスの来訪を察知し、大きく開いた戸口には女将や仲居と思しき和装姿の女性が待ちかまえているのが見える。
ここまで来て、断りの連絡を入れさせるほど、アドニスは我が強くない。
退路を断ちながら、決定権はアドニスに委ねる。是か否かのみを両手に乗せて差し出すモーリスの遣りようは、時折試されているようにも感じる。
けれど。
「嫌なわけないだろう」
アドニスの即答に、モーリスは笑顔を、心底から安堵したような、そんな表情を見せる。
モーリスの仕掛ける駆け引きは、アドニスが決して否を選ばない前提を頼りにしているのだろうと。
そんな自負を抱かせる。
この二世紀近く年下の恋人に、踊らされる自分はつくづく甘いと思いながら、アドニスは彼を待つモーリスの隣に並んだ。
その耳元に、囁きが吹き込まれる。
「先程の続きは……部屋で存分に」
甘やかな誘いを、断る謂れは何処にもなかった。
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