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rainy dream
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その日の雨は、あまりにも突然の出来事で。
ちょうど降り始めの頃に母親からお使いを頼まれて家を出た一条樹里が、お気に入りの戦隊ヒーローが高らかに拳を突き上げている姿が描かれた傘を差して歩いていると、何人もの大人達が駆け足で横を通り過ぎていく。
パシャパシャと歩調に合わせて上がるしぶきは、路面に溜まり始めた雨水。
時にはゆっくりと歩いていた樹里の衣類にまで跳ねて薄茶の染みを広げるのだ。
「これだから雨ってー」
普段は元気一杯の少女も、やはり悪天候の下では少しばかりご機嫌斜め。
眉間に皺を刻みながら柔らかな頬を膨らませた。
住んでいるマンションの傍にある商店街まで距離的にはそれほど無く、少し道を逸れると駅前のスーパーに出る。
今日はこちらでの買い物だ。
母親から預かった買い物リストと品を見比べながら店内を歩き、会計を済ませて再び外に出ると、雨足は来た時よりも強くなっている。
「今日はもう止まないのかなぁ」
くるくると開いた傘を回しながら、家に向かって歩き出した。
と、その視界に映った人影に目を瞬かせる。
「……雨宿り?」
きっとそうなのだろう。
駅前に広がるタクシー乗り場の奥、バスの待合室を兼ねた小さな小屋の前で辛うじて突き出している屋根を傘代わりに佇んでいるのは、高校生くらいの少女。
樹里からしてみれば随分と年上なのだが、見るからにこの土地に不慣れな様子と、厚い雲に覆われて止む気配が皆無の空を見上げる困った表情が、少女の持ち前の正義魂に火をつけた。
「うーんと…」
樹里は自分の傘を見上げる。
お気に入りのスーパーヒーロー。
「うん!」
一つ、大きく頷くと困っている彼女の傍に駆け寄った。
「お姉ちゃん!」
「え?」
突然、見ず知らずの子供に声を掛けられた彼女の方は驚いた顔で樹里を見下ろす。
「お姉ちゃんにコレあげる!」
「――」
くいっと差し出された傘に、少女は呆然。
「樹里は家が近いから大丈夫だよ、女の子が体冷やしちゃいけないっしょ?」
「え、でも…」
「はい!」
更に間近に差し出せば、相手も受け取らないわけにはいかなくなる。
「したっけね!」
傘を手渡し、空いた手を大きく振った樹里は、今度は自分が濡れ始めているのを知ってタタッと駆け出した。
「あ、待って! せめて名前くらい……」
彼女は樹里の背中にそんな声を掛けたが、強まる雨音に遮られて本人には届かない。
びしょ濡れになりながらも、雨を相手に家まで得意の駆けっこを始めた少女を止められるものではなかったのだ。
*
雨の下、流行の戦隊物ヒーローが堂々とした姿で描かれた傘を、回す。
「不思議な子だったなぁ…って言うか、どうしよう…」
呟く彼女に、そこで掛かったのは男の声。
「雪子さん、お待たせしました」
「おまえ、勝手に出掛けたくせに雨が降ったから迎えに来いってな、人を何だと思って…」
声は二種。
どちらも彼女の親しい友人で、彼らは彼女が持っていた傘に目を丸くした。
「…買うなら、せめてもう少し歳相応の柄を買ったらどうだ?」
「っ、そういう失礼な事を言うのはどの口かしら!?」
むぎゅっと右頬をつねれば「おいっ」と抵抗。
しかし彼女も簡単には退かない。
「この傘はねっ、……そうよ、天使の女の子が貸してくれたの」
「天使、ですか?」
聞き返したもう一人の男に、彼女は説明する。
傘を貸してくれた相手の容姿。
緩やかなウェーブの掛かった金色の髪に青いつぶらな瞳をした小学生くらいの少女だったと。
「あ、たぶん出身は北海道よ。“したっけ”って確か北海道の方言でしょ?」
彼女にもそちら出身の知り合いがおり、北国とは何かと縁が深い。
「走って帰っちゃって、家は近いから大丈夫だって言ってたんだけど」
「――あ。そういやぁこの近所って……」
その内にもう一人の男が、何かに気付いた。
辺りを見渡した後で顎に手を置き、しばし考えこんでいたが、――微笑った。
「借りたって事は、ちゃんと返さなきゃな」
「誰か判るの?」
「ああ、たぶんな」
傘の絵柄はスーパーヒーロー。
金髪に青い瞳で、北海道弁を使い、こういう傘を持って雨の中を走って帰ろうという少女など、そうは居ない。
●
雨の夜は、不思議と静かだ。
窓やベランダのアスファルトを打つ雨音は確かに聞こえているのに、それがうるさいとは思えない。
むしろ心地良く耳に馴染み、布団の中にいる事を気持ちよく思わせる。
『水』の存在を身近に感じるからだろうか。
覚えているはずの無い、この世界に生れ落ちる以前の記憶を呼び起こすからだろうか。
目を閉じれば暗闇の中。
護られているようにすら感じられる水音の中で。
ゆらり、ゆらりと意識が遠のく。
いざなわれるは、夢の世界――。
「ん……?」
何かに呼ばれたような気がして体を起こすも、辺りは真っ暗。
自分自身すら見えない。
「ここ……?」
何が起きたのだろうと、感覚としては小首を傾げたつもりの樹里は、やはり何かに呼ばれているような気がした。
「誰?」
問い掛ける、闇の中。
「!」
不意に頭を撫でられた。
「ぇ…、あ!」
見上げた視界に、佇んでいるのはスーパーヒーロー。
樹里の好きな。
持っていた傘に描かれていた、彼だ。
『偉いぞ、樹里』
闇の中にただ一人浮かび上がる姿で、彼は語る。
マスクの下の表情が見えるわけでもないのに、優しく微笑んでいるのが判る。
それが伝わって来るのだ。
『正義の使者となるための道を、確実に一歩一歩進んでいる』
「ほんと?」
将来の夢は正義の使者。
世界の平和を守ること。
そのための道を確かに進んでいると言われて、少女は破顔した。
満面の笑顔に、彼も笑みを深める。
『私は、そんな樹里を傍で見守っていたい』
「見守る?」
『そうだ。だから私は樹里の傍に戻るよ』
戻るという表現に、再び小首を傾げる。
では、いまは何処に居るのだろう。
「何処かに行っていたの?」
『樹里が、人を助けるために私を手放しただろう?』
「?」
『彼女はとても感謝していたよ。お陰で雨に濡れずに済んだ、と』
「ぁ…、あ! あの時のお姉ちゃん!」
思い当たった夕方の出来事に、周囲の空気も和らいだ気がした。
「あのお姉ちゃんは体を冷やさずに済んだの?」
『ああ。樹里のおかげだ』
「そっか、良かった!」
本当にそう思う。
力になれた事が何よりも嬉しかった。
「あ」
ポン、と再び頭を撫でられる。
否、撫でると言うよりは愛情が弾むような温かで優しい感触。
『だから私は樹里の傍に帰るよ。――「ありがとな」』
「え…」
それが最後。
辺りには暗闇が戻り、もう何も見えない。
「どこ? ねえ、どこ?」
声は誰にも届かない。
頭上に残った感触だけが全て。
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「!」
その朝、樹里はベッドの上に飛び起きた。
起きると同時に辺りを見渡し、そこを飛び降りる。
居間に飛び込んで「傘は?」と尋ねれば、母親には「昨日あんなに濡れて風邪は引かなかった?」と逆に質問され、父親に傘を見なかったかと問うてもなしのつぶて。
挙句には早く学校に行く準備をしなさいと叱られて。
「もう!」
頬を膨らませて部屋に戻った。
カーテンを開けると、昨日の雨が嘘のように澄み渡った青空が窓の向こうには広がっていた。
そして。
「――あった!」
窓の外。
ベランダの手すりに掛かっていた傘は、間違いなく昨日、駅前で雨宿りしていた女の子に貸した傘。
「夢じゃない!」
傘を握る、その感触が証。
誰が信じなくても。
「絶対に正義の使者になるんだから!」
青空の下で宣言する少女の笑顔は、これから迎える夏に似合う情熱を帯びていた。
―了―
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