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Memento mori
その日、一人の老婆がその長い生涯を終えた。
それを見送っていたのは全身黒尽くめの男。
いかにも寂しい去り際ではあったが、しかし二人に浮かんでいたのは笑み。
男は何時も通りの少し軽薄そうな笑みを浮かべ、老婆は心底満足したかのような穏やかな笑みを浮かべていた。
それは一人の老婆がただ死んだだけのこと。
そしてその真実を知るのはその二人だけ。
○ago
時代と大衆は何時でも悲劇を求めるものである。
対岸の火事である悲劇であるなら、自分たちはただ悲しい顔をしてそれに酔っていればいいのだ。誰かのために悲しんであげるという行為は、何時でも人々の心を不思議な満足感に浸らせてくれるのだから。
そう、所詮対岸の火事なのである。自分にかかったものではないから悲しんであげられるし、何時しか忘れてしまう。一時的なカタルシスを得るには非常に効率的なのだ。
だがそれも、あくまで他人であれば、の話。自分がいざそうなったとき、人はどうなるのだろうか。
世界を割った大きな戦争を終え、漸く経済が復旧してきた頃。二つの大国が冷戦に突入したその時代。小さな国の小さな町で小さな悲劇が起こった。
当時としてはやっと大衆にも出回り始めた自動車がある家族を乗せて走り、そして事故を起こした。
新婚であった妻一人を残し、一緒に乗っていた夫、そして二人を祝福しようと車に乗せた女性の父と母は死亡。ほとんど即死であった。
運がいいのか悪いのか、女性はたった一人ほぼ無傷で生き残った。
そんなご時世である、飢えていた人々は女性を祭り上げ大々的に同情した。それだけの大事故で、一人だけ残ったのはやはり不幸であったとしか言いようがない。
ありとあらゆる地元紙は彼女を取り上げ、悲劇のヒロインとして彼女の名は瞬く間に広がっていく。
口々に出る『可哀相』という同情の言葉。無論、人々にとっては同情と悲しみにくれる自分を演出するための道具でしかない。
その一家の葬儀は、その町では前例がないほどの『盛況』なものとなった。
「辛かっただろう」
「可哀相に」
「頑張るんだよ」
擦れ違う人々が口それぞれに彼女を応援した。
それは随分と身勝手な行為だ。言われるほうの気持ちを、彼らは一度として考えたことがあっただろうか。
だが、その意味を誰も知ることもなく、知ろうともせず。彼らはただただ悲劇を眺め観客として声援を送る。
仮に地獄があったとしたら、彼女にとってはその世界こそ地獄だったのだろう。
遠慮のない同情と応援が、彼女の心を蝕んでいく。
最初は最愛の家族を失った悲しみで泣いていた彼女も、次第にその大衆のために泣いていくようになった。そんな彼女の気持ちを誰が理解出来ただろうか。
「死にたい」
随分と久しぶりに開いた彼女の口から出た言葉は、たった一言だった。悲しさで泣いているのか、苦しくて泣いているのかもわからない。ただその極短い言葉にありったけの怨叉を込めて、彼女はその地獄に決別を図る。
誰も見ていない部屋の中、鈍色に輝いたナイフを振るって盛大に手首を掻っ切る。横一直線、鮮やかなまでに深く裂けた手首からは、一瞬のうちに血が溢れ出た。手を振るえばまるでペンキのように紅い華が窓ガラスを彩る。
血が流れていくたびに消えていく感触。誰にも見取られない方が今の自分にはお似合いだと思って彼女は瞳を閉じた。
がしかし、やはり不幸なことに、偶々家に来た近所の女性が彼女を見つけてしまった。
運悪く偶々外から見えるガラスに血が大量に張り付き、そしてやはり運悪く女性がそれを見つけてすぐさま手当てをしてしまったのだ。
気を失ったまま彼女は病院に運ばれ、そしてそこでまたあの遠慮のない視線にさらされることになる。
「なんで放って置いてくれなかったの…」
病室、誰も見ていないところで呟いたその言葉は、心底から出た言葉だった。
彼女の行動は、すぐさま本人の考えとは別方向に伝えられた。
家族を失ったゆえの悲しみ。その深さからの自殺。
新聞を飾ったのは、まるで美談の如き文字の羅列。当然その真意を知るものなど、彼女以外はいない。
それからというもの、彼女はただ自らの死だけを望み続けた。
が、どうしても死ぬことは叶わなかった。
家族の思い出が詰まった家と一緒に燃えてしまおうとしたこともある。しかしそれはすぐさま誰かに見つかり、家は全焼したものの彼女はすぐに助け出された。
町に漸く交通手段として整備された電車の前にふらっと歩み出たこともある。しかし何故か電車は目の前で止まってしまった。
それならばと崖から飛び降りを図ったこともある。しかし運悪くブッシュや木の枝がクッションとなり、何重にも彼女の身体を受け止めて結局負った傷は掠り傷や打撲程度のものだった。
運がいいのか悪いのか。間違いなく彼女からしたら不幸ではあったが、兎も角死ねない。
程なく死にたがりなどと呼ばれはじめ更なる好奇の目に晒され、彼女は益々追い詰められていった。
家族を失って一年。何度となく死のうとして叶わず、最早正気をなくしたかのような彼女の前に、一人の男が現れた。
どこからともなく現れた彼は、軽薄でしかし妖艶な笑みを浮かべ、彼女の前に立っていた。部屋のドアが開いた形跡もない。ただただ闇の中に溶けそうな髪をマントを靡かせ笑っている。
しかし、彼女がそれを気にすることはない。する必要もない。ただ壊れてしまった瞳で彼を見つめ、溜息をついた。
「…あなたも私を笑いにきたのかしら?」
「まさか。少しお話をしたくて寄らせてもらいました」
大仰に頭を下げた彼を、彼女はやはりつまなさそうに見つめていた。
「帰って」
その態度は彼女にとって酷く気に障った。からかっていると感じたのだろう。にべもなく言い捨てて、空になったグラスにワインを注ぐ。
「死にたいのでしょう?」
不意に耳元で囁かれた言葉に、手が一瞬止まる。その反応に満足したのか、彼はまた大仰な仕草で腕を広げる。
「貴女のお噂はかねがね。少々興味がありまして…いかがでしょう?」
何が、とは言わない。言わずとも、彼女ならそれを選ぶのが分かっているから。
返事もなく小さく震える彼女の前に、シンプルな銀のリングが置かれる。
「そのリングを持っていれば、確実に死をもたらしてくれるでしょう。信じるも信じないも貴女次第、ですが」
それだけ言い残し彼はまたマントを翻して踵を返す。
「あぁそうそう、私はレイリー・クロウ。貴女が死ぬときにでもまたお会いしましょう」
ただただリングを見つめるだけの女性は何も知らない。彼のことなど何も知らない。彼がどんな目的があってここにきたかなどどうでもよかった。
たった一つの願いを叶えられずにいた彼女は、藁にも縋る思いでそのリングを嵌める。絶望に彩られたままの心が、彼に喜びを与えていることなど知らずに。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
程なくして、彼女の生活に転機が訪れる。
「君を守りたい。それはいけないことだろうか?」
「え…?」
あれから一年。家族の命日を壊れた心で過ごした彼女の前に、一人の男性が現れた。
彼は夫の親友であり彼女自身との親交もあった。ここ数年は別所へ出張となっていたが、つい最近になって戻ってきたらしい。
そんな彼が親友の死を知り、そして彼女の現状を知ったとき、彼は本心からこう言った。
「君の気持ちが分かるとは言えない。それは無責任だ…俺は君じゃないから。
…でも、あいつを失った悲しみは俺も抱いている。親友だったから。…辛いな」
同情もなく、励ましもなく。ただ、彼は辛いと言った。
それは今までにない言葉で、彼女はその言葉を聞いた瞬間涙が止まらなくなっていた。
それからというもの、肉体的にも精神的にも酷く衰弱していた彼女を彼が支えるようになっていた。
初めは親友の妻だから、そんな責任感があったからかもしれない。だが、その心境も次第に変化していく。
彼はそんな弱い女性を、一人の女として見るようになり。
そして彼女も、そんな献身的な男性を一人の男をとして見るようになっていた。
だがしかし、その想いはまた彼女を追い詰めていく。
事故のことなど世間からすればとうの昔に風化していたが、それでも彼女の近所周辺となればまた話は別である。
未亡人の家に一人の男が入り浸っているとなれば、そういう噂が立つのは自然なことであるとも言えた。
彼女が彼を誑し込んだ。
彼女の財産目当てに男が出入りしている。
様々な下卑た噂が囁かれ、また彼女を遠慮なしに傷つけていく。
世界は彼女の真実などどうでもよく回っていくのだ。
そんな逆風の中でも、彼女を守ったのは他でもない彼だった。
かつては同情や激励だった罵詈雑言を一身に受けても、彼は彼女を支え続けた。
元々強い人だったのかもしれない。しかしそれは並大抵のことではない。何せ人の心など他人の言葉で簡単に壊れてしまうのだ。
それでも彼女を支え、なおかつ自分の心も支え続けた彼は称賛されて然るべきだったという他ない。
「…私、もう駄目…」
しかし彼女はそうではなかった。元々弱く、傷つき壊れてしまっていた心は、また再び崩壊していく。
近くに彼という存在があったからこそ、逆にその傷は大きくなっていった。
自分がいるから彼に謂れのない非難が飛び、そしてまた自分にも飛んでくる。
彼の存在が、また彼女を追い詰めた。
だから、また何時ものように彼女は死を求めたのだ。
一度は収まったように思えたその衝動に、彼女はただ身を任せた。
あの日、あの時と同じように。隣にいる彼の目の前で、今度は自分が車の前に飛び出した。
それは本当に不意の行動で、彼の呼ぶ声など彼女の耳には届かない。
(やっと解放されるかな…)
ふと、そんなことを思う。
が、次の瞬間には意識は現実へと戻された。咄嗟に飛び出した彼の腕が彼女をしっかりと掴み、そして彼女の身体を寸でのところで車から救い出していたのだった。
ごろごろと転がり、道路の隅で漸く止まる。容赦のない運転手の雑言を受けつつ、彼の手が彼女の頬を張っていた。
「……」
「君は莫迦だ」
「……」
言い返す言葉はない。それは全く真実で、彼女に言い返すことなど出来るはずがない。
「だから、君がそんなことをするたびに俺は怒る。ずっと傍にいて、ずっと怒ってやる」
彼女が顔を上げれば、彼の顔はくしゃくしゃに歪んでいた。そして漸く安堵の息をついたように、彼女のやせ細った身体を抱きしめる。
「君がいなくなったら、きっと俺は今の君と同じになる。だから…」
暫くして、二人は立ち上がり歩き始めた。しっかりとその手を繋ぎあい、寄り添いながら。
そんな二人を見る鴉がいたことを、当然二人は知らない。
そうして彼女は、生涯二度目にして最後の結婚をした。
かつての彼女であれば全く考えられないことであったが、今の彼女の隣には一人の男性が立っている。今度こそ、そんな想いもあったのだろう。
しかしそれは、再び彼女を苦悩の日々へと落とすことを意味していた。
一度負ってしまった心の傷は簡単に癒えるものではない。否、真実として消えることはないのかもしれない。
幸せなはずの新婚生活は苦しみの日々でもあった。
彼は変わらず彼女を支え続けたが、壊れてしまっている彼女の心はそれを素直に受け取ることが出来なかったのだ。
「…皆死んだのに、私はのうのうと生きて、あなたに愛してもらって…そんな資格、あるの?」
「幸せになる資格なんて誰だって持ってる…苦しんだならもっと幸せにならなきゃ、そうじゃなきゃ駄目だ」
その言葉は紛れもない本心だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そうして彼女は幸せと死を隣り合わせにしながら生きていった。
幸せそうに笑っていながら、心の中では死を求めている。そんな彼女を、彼はよく支えていた。
それから四十年余り、二人は一緒の時間を過ごしていく。その手には、あの日黒い男からもらった銀のリングが輝いていた。
時間は永遠ではない。
彼女を支え続けた彼はその年流行った病にかかり、呆気なく亡くなった。
随分といい年齢であったし、大往生であったと言えるかもしれない。
最期の刻、夫婦は生涯最後のキスを交わして別れていった。
感染力の強かったその病は年老いた身体には間違いなく毒であり、程なくして彼女も同じ病にかかり、床に伏せるようになった。
子供もなく、既に身寄りのない彼女には寄り添う者もいない。
「御機嫌ようマダム」
そんな彼女の前に現れたのは、あの日銀のリングを渡した黒い男だった。
あの日と同じように軽薄そうで、しかし妖艶な笑みを浮かべている。鮮烈な印象だっただけに、見間違えるはずもなかった。
「あなたは…そう、そういうこと…」
一人何かに納得して、老婆は小さく微笑む。
穏やかなその様子に彼の笑みは変わらず、老婆は一人独白を始めた。
「この指輪をもらった日から、絶望の日々だったわ…。愛してくれた人がいたけれど、それが余計に圧し掛かってくるの…」
愛した人との過去を思い出し、老婆はなおも続ける。
「本当に幸せだったのよ、私…だけど、それ以上に苦しかったわ…辛くて、悲しくて…」
「えぇ、それはよく存じ上げています」
男の言葉の真意を知ってか知らずか、老婆はまた笑った。
「…何度死のうとしたかしら。何度死ねなかったかしら。もう思い出すのも無理だわ…。でも確かに、私は死ねるのね…そのことが、こんなにも幸せなことだと思えたことはないわ…。
…あぁ、あの日必ず死ねると言ったのはそういう意味だったのね…」
「マダム、今でも苦しいですか?」
穏やかな笑みには、聊か不釣合いな質問。しかし、彼女ははっきりと答えた。
「えぇ、苦しいわ。こうやってもう少しで死のうとしている今でさえ、私の心は絶望に彩られているわ…でも」
「でも?」
「それはあの人が傍にいないからよ…きっと抱き続けた絶望以上に、幸せだったもの」
「死ねるということは、とても素敵なことね」
それが老婆の最期の言葉だった。眠るように息を引き取った彼女には、もう絶望の色はない。
その指からリングをとろうとして、レイリーの腕が止まる。あの日のように大仰な仕草で肩を竦め、マントを翻して彼は部屋を出た。
「実に素晴らしかった。そのリングは手向けとして差し上げますよ」
答える者はいない。そうして静かな屋敷から一羽の鴉が飛び立った。
たった一人の死を胸にしまい、鴉は次の闇へと羽を広げる。
<END>
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