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宵待ちの宿 攻防戦
「なぜ私が小間使いなんか……」
異界へと続く異空間の中、とある宿を探しながら黒・冥月は渋い顔で呟いた。だが、確かにこうなる羽目になったのは自分のせいでもある。だからこそ断ることはできなかったし、こうして目的地へと向かっているのだ。
それでも――それでも、やはり思うことはあるものだ。どうしてこんなことをしなくてはならないのかと。
――そもそもの事の発端は、狐だった。
それは冥月が草間興信所のアルバイトをこなし、仕事の報告をするために興信所を目指していた時だっただろうか。冥月は背後からついてくる小さな気配を感じていた。
特別、敵意のようなものは感じなかった。放っておけばどうせどこかへ行ってしまうだろうと、考えて冥月は特に気にしてはいなかった。
だが、どこまで行こうともその気配はついてくる。まるで冥月の操る影のように、どれだけ歩いてもついてくる。
冥月が怪訝に思って振り返れば、そこにいたのは一匹の子狐。美しいはずの毛は黒い泥で汚れ、黄金色の輝きはとっくに失せている。まだ一人立ちの頃ではないだろうに、こんなところに一匹だけいるということは迷子の狐だったのかもしれない。みすぼらしいほどに痩せ細り、足などはまるで骨だけのようにさえ見えた。
「悪いが、食べられるものは持っていないんだ。他所をあたってくれ」
冥月は見上げる狐にそう告げてさっさと興信所に帰ろうと歩き出す。けれども、追いかけてくる気配は変わらない。
餌もなく空腹で、歩くだけでも辛いだろうに、子狐はただ一途に冥月の後をついてくる。まるですりこみをしたひよこだ。
けれども、そんな弱りきった子狐を乱暴に追い払うのは少しためらわれた。
「……わかった。興信所になら何かあるだろう、それを食べたら野生に帰るんだ」
そう言って冥月が子狐を見下ろすと、子狐はその言葉を理解したようにこうこうと嬉しそうに鳴いた。
そんな理由で冥月は子狐を連れて草間興信所に帰ったのだが、興信所はもぬけの殻だった。一番目につく机の上には白い紙切れがある。冥月がそれを手にとって見れば、それは零からの置手紙だった。手紙には草間と零は少しの間、興信所を空けるので留守を頼むという旨が書いてある。
「……参ったな」
人様の冷蔵庫を勝手に開けるというのは少々礼儀がなっていない。だが、このまま子狐を飢えさせておくのもやはり少々忍びない。
期待するような眼差しで見上げてくる子狐を見つめながら冥月は考えた。そして出てきた結論は、
「まあいい。どうせ草間のものだろう」
ヘビースモーカーの草間なら食べ物の一つや二つ、煙草を買ってやればなんとかなるだろう。何しろ三度の食事を削ってでも煙草を吸う男なのだから。
冥月は一人納得し、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中には特別大したものはなく、がらんとしていたがふと目に留まったものがある。
「稲荷寿司か……」
そういえば狐は油揚げが好きだという話を聞いたことがある。冥月が試しに稲荷寿司の一つを子狐の前に差し出すと、子狐は嬉しそうにそれに飛びついた。
どうやら狐が油揚げ好きというのは本当だったらしい。あっという間に稲荷寿司を平らげた子狐にもう一つ、また一つと稲荷寿司をやっていくと、稲荷寿司ののっていた皿はただの皿になった。子狐も満足したのか、冥月の周りを飛び跳ねながら回っている。
「よかったな。約束だ、もう野生に帰れ」
冥月がそっと微笑んで言えば子狐はこうこうと高らかに声を上げ、もう一度冥月の周りを回って興信所を出て行った。それを微笑ましく思い見送った冥月だったが、後々それを後悔する羽目になる。
「俺の稲荷寿司がない!」
零と一緒に出かけていた草間・武彦が興信所に帰ってきて数刻ほど経った頃だろうか。冷蔵庫を開けた草間の悲鳴が上がった。
「稲荷寿司なら子狐にやったが?」
「なに!?」
淡々と事実を偽らずに言い切っ冥月に、草間が声を大きくする。冥月は軽く耳を押さえながら、涼しい顔で言った。
「ああ、勝手にやったのは謝ろう。詫びに煙草でも買ってやるからそう怒鳴らないでくれ。耳に響く」
「駄目なんだ、あの稲荷寿司は!」
「……何が駄目なんだ?」
好物の煙草をちらつかせても草間の機嫌は直らない。妙に思って問い返せば、こんな答えが返ってくる。
「あの稲荷寿司は特別なんだ。異界の狐が作った絶品なんだよ…!」
冷蔵庫を開けっ放しにして床に手を着きうな垂れる草間に、冥月はしばし困惑した。煙草好きの草間がこれほど執着するのも珍しい。どうやらよっぽど大事にしていたもののようだった。
「そうなのか……それはすまないことをしたな」
「"すまない"、で済むことじゃない!」
「なら、どうすればいい?」
「……ってきてくれ……」
「何?」
「――異界に行って買ってきてくれ!」
そして冒頭に至る。
今回ばかりは冥月に非があるから仕方がない、そうは思うのだがいかんせん納得できない部分もある。最も、『小間使い』程度で済むのならそれに越したことはないのだが。
「とっとと終わらせて帰るか」
そう冥月が呟いた時、ふと冥月の目の前に一軒の宿屋らしきものが見えてくる。
「宵待ちの宿――ここか」
だが、どうも宿の様子がおかしい。客を迎える宿の扉は無残にも壊されていて、窓ガラスもあちこちが割れている。そして、聞こえてくる雄たけびと悲鳴。
「おかしいな……草間には争いは法度だと聞いたんだが……」
小首を傾げながらも、冥月は一先ず宿の中に入ってみることにした。
宿の中は異形の者や人間でごった返していた。誰も彼もが武器を手にし、目と目の間で火花を散らす。
「人間ごときが!」
「あやかしどもが!」
飛び交う怒号は人と異形たちの間の隔たりを表すかのようだった。
だが、冥月はまるで気にしてはいなかった。殺気漂う宿の中、冥月は見境なく襲ってくる異形を軽い足取りで避けて歩いた。それはまるでのどかな平原を歩くように、あるいは戦場に迷いこんだ黒い蝶のように、たおやかに、戦場をいく。
「そういえばここの主の顔を知らなかったな」
そうぽつりと呟いた瞬間、刃物を手にした異形が冥月に飛びかかった。それを見た冥月は動じることなく、だた一言。
「ああ、ちょうどよかった」
呟く間に異形の持つ武器を足を使って蹴り落とし、そのまま異形の顔をわしづかみにする。自分の能力を使うまでもない。
「は、離せ! なんの真似だ人間!」
「少々聞いたいことがあってな」
じたばたと暴れて冥月の手から逃れようとする異形を片手で顔が歪むほどに強くつかむと、異形が悲鳴を上げた。それでもまだ冥月は手の力を抜かない。
「この宿の主……ミツルギはどこだ?」
「そ、そんなの知らねえよ!」
「……本当だろうな?」
そう言って手にこめる力を強くすると、異形は泣きながら叫んだ。
「本当だ! 俺達だって今さがしてるんだ!」
「そうか、なら用はないな」
異形からは情報が得られないと知った冥月が異形を片手で放り投げると、すぐ傍で猫又と刃を交えていた異形にぶつかって諸とも吹き飛んだ。それに驚いた猫又が冥月を振り返る。
「あんたは……味方なのか?」
「事態があまり把握できてはいないが、少なくとも敵ではないな。宿の主に用がある」
「ミツルギさんに?」
そう聞き返す猫又の目に微かな警戒の色が見えた。
「あんた、ミツルギさんに何の用なんだ」
猫又の毛が逆立つのを見て、冥月は落ち着かせようと平常心で声を出す。
「ここの稲荷寿司を買わなくてはならなくてな」
「稲荷寿司……? イチさんのか?」
「ああ、そういえばそう言われていたな。宿の主人の奥方だったか」
思案にふける冥月に、猫又は複雑そうな表情になった。
「あんたのこと、信用していいのか?」
猫又の瞳の中で揺れるその感情を見出した冥月は静かに頷く。
「今言ったことの全ては真実だ」
「…………わかった」
猫又がそう言ったかと思うと、ふいに冥月の脳裏に宿の厨房が浮かび上がる。そこで札を使い異形達を退ける金髪碧眼の若い男が見えた。その背に庇われるようにして金髪の女が立っている。けれど、その映像はすぐに霞みとなって消えてしまった。
「……今のは?」
「ちょっとした神通力さ。そこにミツルギさんとイチさんがいる。それだけだ」
言い終えるなり猫又はすぐにまた戦場に駆け戻っていく。それを見送って冥月は呟いた。
「ありがとう、助かった」
そして、再び戦場を危なげもなく歩きながらミツルギのいる地下へと向かった。
厨房には大勢の異形達が群がっていた。それを軽く吹き飛ばしながら冥月が厨房の奥へと行くと、猫又に見せられた映像どおりの姿で金髪の男女が立っていた。
「お前がミツルギか?」
単刀直入に冥月が問えば、男は静かに頷いた。
「貴女は……草間さんからの使いの方のようですね」
「わかるのか」
「ええ、鼻が利きますので」
「ああ、草間はいつでも煙草臭いからな」
驚くこともなく淡々と頷いて、冥月は更に続けた。
「今日は草間の頼みで稲荷寿司を買いに来たんだが、残りはあるか?」
「そ、それでしたら私達の分にと残していたものがありますが……」
そう言ってイチは棚から筍の皮で包まれた稲荷寿司を冥月に手渡す。と、その時、冥月の背後に突然異形が現れた。
「危ない!」
そう叫んだミツルギが動く前に、冥月は振り返ることなく握った裏拳で異形の顔面を殴り飛ばした。完全に油断していた異形は悲鳴も上げられずに地に沈む。
「お強いのですね……」
呟いたのはイチだった。「そのようですね」と、ミツルギの声が続く。
けれど、冥月はあくまでマイペースだった。
「金はここに置いていく。邪魔をしたな」
それだけ言い残して役目は終わったと言わんばかりに立ち去ろうとする冥月に、ミツルギが慌てたように声をかけた。
「お待ちください!」
「なんだ?」
「そのお力、私達に貸してはいただけませんか?」
焦りと疲労の色を顔に滲ませて問いかけるミツルギに、冥月はただ一言。
「その義理はない」
そして、「報酬次第だが」と冥月は続ける。それを聞いたミツルギは表情を曇らせた。
「決して廃れている宿ではないですが、お客様のことを第一に考えていますので、お金は……」
苦渋の顔で続けたミツルギに、イチも顔を俯けた。
その様子を見ていた冥月はふと足元に幾つも散乱している稲荷寿司に目を留めた。この争いの最中で散らばってしまったのだろう。
そして、ふと冥月は稲荷寿司を買ってくるように言った草間の様子を思い出した。あのヘビースモーカーも認めたこの稲荷寿司は一体どれほど美味しいのだろうか――
「ああ、それでいい。報酬はその稲荷寿司だ」
床に散らばる稲荷寿司を指して言ったその言葉に、夫婦は思わずといった様子で固まった。
「え?」
「何か問題でもあるか?」
「と、とんでもありません!」
慌てて首を振るイチに、冥月は満足そうに笑った。
「交渉成立だ」
そして冥月がぱちんと指を鳴らすと、突然人や異形たちの影から無数の黒い触手が伸びて人々を拘束していく。なんだなんだと驚く宿泊客と急襲者達を見てミツルギが口を開いた。
「宿泊客の方達は離していただけませんか?」
「簡単なことだ」
そう言って冥月はまた一つ指を鳴らす。するとたちまち宿泊客をがんじがらめにしていた触手が消え去った。
その後はミツルギのはからいで急襲者達は遠い別次元の異界に送り出された。宿泊客達は宿の修復と掃除に手を貸し、イチは冥月の為にとせっせと稲荷寿司を作っている。ミツルギはできあがった稲荷寿司を冥月の待つ席へと持っていった。
「いくらでもありますので、どうぞお食べください」
そう言ってミツルギは稲荷寿司をのせた皿を冥月の前に置いた。促されるまま冥月はできあがったばかりの稲荷寿司を箸でつかむ。
と、そこでふとミツルギ微笑んだ。
「冥月さんは運がよろしいのかもしれませんね」
「なんのことだ?」
意味がわからずに問えば、ミツルギは声を潜めてそっと言った。
「イチの稲荷寿司はできたてが一番おいしいんですよ」
それなら買いに来なかった草間は損をしたということになるのだろうか。そう考えると今回の仕事は悪くもない気がする。
帰ったらからかってやろうかと思いながら、冥月は稲荷寿司を口に運ぶ。そして言った。
「うん、美味い」
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2778 / 黒・冥月 / 女 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
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■ ライター通信 ■
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初めまして、諸月みやです。この度は『宵待ちの宿 攻防戦』を発注してくださり、まことにありがとうございます。
設定の一部を一任されたのは初めてですが、気に入っていただければと思います。NPCを出したのも初めてなので、今回はとても勉強になりました。
黒・冥月様に楽しんで読んでいただけると嬉しいです。
もしまたの機会がありましたらば、ぜひよろしくお願いいたします。
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