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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


花の棺



 祖母の『予言』通りに母は亡くなった、と少女は言った。

 そして祖母は、孫娘にも「お前は17歳の誕生日を迎えられずに死ぬ」と宣告してこの世を去った。
 物心ついた頃から、死ぬ日の事ばかり考えていたのだと彼女は言う。避けられぬ死をどう迎えるか、延々悩み続けたと。
 少女は、そう訥々と自分の身の上を語り、碧摩蓮に対して棺を注文した。
「木製の、綺麗なアンティーク調の棺に入って、大好きなお花をたくさん詰めてもらって、静かに眠りたいんです」
 まるで、明日の遠足には好きなお菓子を持っていくのだ、という口調で少女は語る。しかし、その目は焦点が定まらず、正気を失いかけてでもいるかのような危うさを感じさせた。
 少女の骨ばった手の中の封筒には、それなりの金額が入っているらしい。聞けば子供の頃から、自分の棺を買うお金を貯めていたのだと答える。
 蓮は深々と嘆息した。ご注文とあらば棺の一つや二つ、簡単に調達できる。だが、まだ人生の何たるかを知りもしない小娘が、当たり前のような顔をして自分の棺を注文するのには、どうにも納得がいかなかった。
 少女の誕生日まで、残り一ヶ月を切っていた。早く棺を用意してほしいと頼み込む少女を説き伏せ、一旦家に帰し、蓮は愛用の煙管をふかしながら呟いた。
「さて、どうしたもんかねえ……」



 アンティークショップ・レンから連絡を受け、末見由梨は店へ赴いた。
 きっと、頼んでいた棺が届いたのだ。誕生日まであと二週間を切っている。何とか間に合って、由梨はホッとしていた。
 ただ、解せない事が一つだけある。
 棺を買うに当たって、由梨にはある条件が課せられたのだ。自分は客なのに、おかしな話だと思う。
 だが、由梨の話を真面目に聞いた上で追い払わないでいてくれたのは、あのアンティークショップの女主人だけなのだ。今さら他の店を探す余裕はない。由梨はその条件を飲むより他になかった。
 乾いたベルの音を響かせ、薄暗い店内に足を踏み入れる。てっきり先日の女主人が出迎えてくれるものだと思っていたのに、店の奥から顔を出したのは少年だった。
 綺麗な子だ。その髪も瞳も闇色をしているのに、光沢を帯びて澄んでいる。何だかとても不思議なものを見るように、由梨はその少年を眺めた。
 もしも闇と光が溶け合えば、この少年の持つ魅力を具現化できる気がする。まるで有り得ないものを見ている気分だ。そんな事をぼんやり考えていたら、少年は困ったように、微かに笑った。
「俺の顔に何かついてる?」
 初対面の相手の顔をまじまじと見つめるなど、失礼な振舞いだった。由梨は首を横に振り、謝意を示す為に頭を下げる。
 少年は由梨に椅子を勧め、真向かいに腰掛けた。
「蓮──店主はいない。俺は留守番」
 どこか不承不承という感じで少年は言った。自分はこの店の関係者ではないから客にへつらう気はない、と言わんばかりの口調だったが、不快な態度ではなかった。よそよそしさと馴れ馴れしさのちょうど中間辺りで、由梨には心地いい。
「俺は夜神潤」
 最低限の礼儀のように、少年はそう名乗った。由梨は名乗り返し、ふと気付く。この少年の顔と名前には憶えがある気がするのだが、よく思い出せない。
 由梨のクラスの女の子達が夢中になっている、何とかいう名前のアイドルに似ているような気もするのだが、そんな人物がこの店で留守番などする筈もないし、おそらくは他人の空似だろうと思う。
「指定された物は持ってきた?」
 訊ねられ、由梨は頷いて鞄の中に手を入れた。祖母の写真と母の遺品、そして由梨の愛用の品。それを提示する事が、棺を買う為の条件だった。
 夜神は三つの品を手元に引き寄せ、一度だけ視線を落として頷いた。彼は由梨を置き去りにするかのように立ち上がり、店の奥へと続く扉に手をかける。
「あの、棺は?」
 問うと、夜神は短く「十日後くらいに」と答えた。
「それじゃ、ギリギリになっちゃう」
「その方がいいんだ」
 反論を許さない口調で言い切り、夜神はさっさと店の奥に消えてしまった。由梨は暫くその場に突っ立っていたが、やがて仕方なく店を後にした。



 奥へ引っ込むなり、夜神は溜息を落とした。何だって自分がこんな事に首を突っ込まなければならないのだろう。
「ご苦労さん」
 蓮が労いの言葉をかけてきた。薄笑いを浮かべているところを見ると、口先だけのものなのだろう。夜神は、小憎たらしい蓮の顔をジロリと見た。
「何で俺にこんな事をさせるんだ?」
「強いて言うなら、あたしが『うってつけ』の奴を探してる時に、あんたがたまたまこの店に来ちまったから、って事になるね」
 蓮は至極楽しそうである。彼女は手の中にある物を、夜神の目の前にちらつかせながら言った。
「あんたが探してたのはこれだろ?」
 夜神は頷く。蓮が手にしているのは『チェルノボグの葉』と呼ばれる品だ。スラブの民に『黒い神』と呼ばれた死神チェルノボグ。それを封じ込めたと言われる書物。
「持ち主を殺すと言われてる本を欲しがるなんて、あんたも大概変わってるねえ」
「それよりも、ちゃんと約束は守って貰えるんだろうな?」
「約束を違えたりはしないさ。あたしの代わりに、あの子に棺を売っとくれ。そうすればこの本はあんたに譲るよ。──ただし」
 依頼主を死なせずにおくのが条件、と蓮は言い添える。夜神は小首を傾げた。
「蓮は商売さえできれば、他人の生死なんか興味ないってタイプかと思ってたけど、そうでもないのか?」
「人を鬼みたいに言ってくれるね。生憎、商売の為なら何をしてもいいだなんて思っちゃいないよ」
 艶やかな唇で煙管をくわえ、蓮は静かに紫煙を吐く。
「ま、儲け話を袖にするほど無欲でもないけどさ」
「あの由梨って子を死なせずに済ませたいなら、俺は『うってつけ』なんかじゃないと思うけど?」
「おや、そうかねえ?」
 蓮は何かを見透かすように目を細める。
「『安楽椅子探偵』って言葉を知ってるかい?」
「……事件現場に行かずに、資料や証言だけで推理する探偵の事、だったかな」
「そう。あんたならお手の物なんじゃないかと思って」
 夜神は訝るように蓮を見る。この女が只者でない事は何となく察していたが、彼女は一体、夜神の素性について、どこまで『知って』いるのだろう。
 場合によっては、と夜神は蓮を正面から見据える。口封じの為なら、自分は彼女を屠る事もためらわないだろうと思った。
「そんなに怖い顔をするもんじゃないよ。何も、あんたを一方的に利用してやろうってんじゃない」
 蓮は書物の収められた箱を掲げて笑む。
「互いに損はない筈だよ。ギブ&テイクって言葉は嫌いかい?」
「別に好きでも嫌いでもないけど」
 できるだけ穏便に、かつ簡単に、夜神は『チェルノボグの葉』を手に入れたかった。自分とて、欲しい物を手に入れる為なら手段を選ばないタイプではない。金を積んでも売っては貰えないのなら、蓮の言う通りに一働きするしかないようだ。
「部屋を貸して貰う。しばらく一人にしてほしい」
「了解」
 紫煙を纏いながら、蓮は店へと戻っていった。夜神は、由梨が寄越した品をテーブルの上に整然と並べて眺める。
 祖母の写真は古ぼけ、色褪せている。若い頃の写真なのだろう、隣に夫らしき青年が並んで映っていた。
 由梨の母親の遺品は日記のようだ。これならかなりの情報を得られるだろう。夜神はその二つを一旦横に置き、由梨の愛用の品──万年筆を手に取り、そこから情報を掴むべく目を閉じた。
 夜神の持つ能力は、俗に言う『サイコメトリ』というものに似ていながら、それを遥かに超越していた。心を傾ければ、ある程度は対象者の情報を引き出せる。それがたとえ、擦り切れた写真一枚からでも。

 この万年筆は、どうやら由梨の母の形見らしい。そして彼女はそれを使い、毎日、カレンダーに×印をつけていた。自分が死ぬ日を、指折り数えて待つように。
 由梨の行動は一見、死に対峙してなお冷静に見えた。けれど万年筆を握る手は震え、じっとりと汗に濡れている。
 何とか祖母の予言から逃れる方法はないものかと、彼女は思案していた。けれど由梨の母は、祖母の予言が成就しないように細心の注意を払っていたにも関らず死んでしまっている。きっと無理なのだという諦めとともに、彼女は歪んだ×印をカレンダーに書き込んだ。
 それに、もしも生き残れたとしても、自分に一体何が残るのだろうと由梨は考える。
 祖母の『予言』がもたらされた瞬間から父も、歳の離れた兄も、母や由梨と距離を置くようになった。
 友人はいない。由梨は人付き合いを極力避け、誰とも親しくならないように生きてきたから。もしも友人がいて、彼女の死を嘆くような事になっては可哀想だから。それくらいならまだしも、『予言』が友人を巻き込まないとも限らないから。
 元々、無い命だったのだ。そう思い込もうと、由梨は万年筆のキャップを閉じた。このまま生きていったとしても、自分には何もない。最初から空っぽだったのだ。虚ろな気持ちで×印をなぞる。
 なのに涙が零れるのは何故だろう。
 誰も由梨の死を悼まない。それが悲しいのかもしれない。
 だからせめて、自分を葬る時くらいは何もかも、望み通りにしたかった。
 昔、映画で見たアンティーク調の棺はとても美しかったから、それに真っ白な花を敷き詰めて眠ろう。花と棺だけは、きっと嫌がらずに由梨に寄り添ってくれるだろうから。

 夜神は万年筆を置き、目を伏せる。
 自分は、死の恐怖というものを感じた事がない。何せ、自分にも死というものがちゃんと訪れるのかどうかも分からない。
 だから、迫り来る死に怯える由梨の気持ちを理解する事はできなかった。けど、由梨に対する家族の態度は不条理だと思うし、誰も悲しませまいと、一人ひっそり黄泉路を行こうとする由梨の姿を哀れに感じる。
 由梨の祖母の『予言』は、彼女の肉体よりも先に、心を死に至らしめようとしている。夜神にはそれが許せなかった。唐突に襲い来る理不尽な死も憤ろしいが、ひたひたと迫り来る死に怯え、少しずつ狂わされていくのは、それよりももっと残酷に思える。
 何とかして、彼女を死の予言から遠ざけたいと夜神は思った。
 子供の頃からずっと、死んだように生きてきた由梨に、明るい笑顔を取り戻させたい。
 彼女の生にはちゃんと意味があり、未来があり、そこには彼女の存在を待ちわびる者がきっといる。そう教え、信じさせたいと夜神は願う。
 何故なら──。

  ──禁忌の子。

 昔、自分に浴びせられた畏怖嫌厭の言葉を反射的に思い出し、夜神は苦い気持ちになった。
 自我を持つ者なら誰でも、己の存在を否定されれば辛い。悪口も無視も暴力も、そして殺人も、『他者を否定する』という意味でなら、根っこは同じだ。
 生まれた時から、その存在自体を忌避された夜神。幼い頃に死を宣告された由梨。二人はいわれのない、そして自分の力だけでは覆す事のできない否定を他者から受けている。だから夜神は由梨に共感を覚え、救いの手を差し伸べたくなるのかもしれなかった。

 夜神は次に、由梨の母の遺した日記を手に取る。ざっと目を通したところ、特にこれといって目を引く事のない日常が綴られていた。それに時折混じる、義母──由梨の祖母に対する描写には、婉曲な刺々しさを感じる。これを読めば、嫁姑の仲が悪かった事は、リーディング能力を使わなくても分かった。
 日記の最後の方に、姑から『死の予言』を受けた時の事が書かれている。自分だけならまだしも、その宣告は娘の由梨にももたらされた。彼女は狂乱の態で姑を罵倒している。鉛筆の、刻み込むような強い筆跡は、怒りの為に震えていた。
 彼女は、姑の予言を「馬鹿馬鹿しい」と笑い飛ばす一方で、それが当たる事に怯えてもいた。姑にはどこか神がかり的な所があり、舅と夫が共同経営している会社の為に、姑が呈する『助言』はことごとく的中していたから。
 もしも自分が予言の通りに死んでしまえば、娘はどうなるのだろうと彼女は危惧する。
 由梨はまだ四歳だ。『死の宣告』を受けた途端に、彼女の夫は妻と娘に対して冷たくなった。夫が自分と由梨を守ってくれるとは到底思えなかった。

 今際の際、別れてしまえ、と姑が囁く。
 由梨を連れてこの家を出て行け、と。

 だが、彼女はそれを受け入れなかった。
 自分が死なずに生き延びれば、姑の鼻を明かしてやる事ができるだろうと彼女は考えた。何より、自分が死ななければ、愛娘に下された宣告も同じように無効にできるだろうと考えたのだ。
 期日、彼女は自分をあらゆる危険な物から遠ざけ、自室に閉じこもる。小さな由梨を連れて。
 刃物、ロープ類、鈍器、薬物、火気類。全て部屋から運び出した。念の為、水も食物も断ち、その日が通り過ぎるのをひたすら待った。
 それなのに死神は、彼女に向けて鎌を振り下ろした。
 死因は心臓発作だったようだ。彼女の左胸が軋み、呼吸ができなくなり、気が遠くなっていくさまを夜神は読み取る。霞む視界の中で、幼い由梨が驚いたようにまんまるな目をして彼女を見つめていた。
 彼女は最後に、ごめんねと呟いた。

  ──守ってあげられなくて、ごめんね。

 日記を閉じ、夜神は少しだけ安堵した。
 由梨は孤独ではなかった。彼女を愛し、守ろうとしてくれた存在。それが夜神を奮い立たせた。彼女の母親の為にも、由梨に下された予言を実現させるわけにはいかない。
 決意を固めた夜神は最後に、祖母の写真に触れようと手を伸ばした。
 由梨の祖母は、自分の息子の妻になった女とその子供を憎んででもいたのだろうか。だから呪詛の言葉を吐き、彼女達を死に追いやろうとしたのだろうか。
 そう考えるのが一番妥当だが、何故か、そうではないような予感がした。
 古びた写真に写る女性は凛としていた。一目見ただけで高潔な雰囲気が伝わってくる。この女性が単に憎しみや妬みで、他人を陥れようとするとは思えない。
 その辺りも『読んで』みれば分かるだろうと、夜神は写真を手にとって瞑目した。
 しばし、写真に意識を集中させる。そうして夜神は呟く。
「……そういう事、だったのか……」
 自分の為すべき事は見えた。夜神は立ち上がり、店番をしている蓮のところに向かう。
「蓮、棺はもう用意したのか?」
 問うと、女主人は頷いた。
「ああ。あの子の注文通りの品を、その筋に注文したとこさ。結構な代物だよ」
「キャンセルしてくれ。そんな上等な棺は要らない。見かけだけはそれなりのやつを用意しといてくれればそれでいい」
「へ?」
 目をぱちくりさせる蓮に、夜神は微かに笑って言う。
「中身も大した事ないから、立派な棺じゃない方が釣り合う。それに棺なんて、どうせ燃やすんだし」
「……何をするつもりか知らないけど、分かったよ。あんたの言う通りにしてやろうじゃないか」
 不敵な夜神の笑みに、蓮は期待に満ちたまなざしで朱唇の端を引き上げた。



 由梨の誕生日まで、残り三日。夜神の目の前では、一人の老人が眠っている。
 いつもの寝室、いつもの夜。自分の安眠を妨げる者の存在になど思いもよらずに。
「起きろ」
 夜神は低い声で老人を揺り起こす。老人はきっと、その声を夢か何かだと思っただろう。何故なら彼の寝室は、入り口にも窓にも鍵がかけられていた。どちらも内側からしか開かず、誰かがこの部屋に勝手に侵入する事など不可能だったから。
 だが鍵など、夜神を前にしては物の役にも立たない。
「末見由梨の祖父だな?」
 胸ぐらを掴んで問うと、老人はようやく目を覚ました。反射的に夜神の手を払いのけようとするが、老いさらばえた腕には、それだけの力がない。
 闇を纏ったまま、夜神は老人を見据える。
「馬鹿な真似をしたな」
 何の事だ、お前は誰だと老人は問いたかったのだろう。だが、口が動くばかりで声にはならない。
「元々、親から譲り受けた会社だった。運営する才覚が自分にないと分かってるなら、見栄なんか張らずに誰かに譲れば良かったんだ。それを──」
 夜神は老人の襟首を掴んで引き倒す。彼の、声にならない叫びが小さく喉を震わせた。
「禍つ者と契約してまで富を得ようとするから、こういう目に遭う」
 由梨の祖母の写真に、一緒に並んで写っていた男──由梨の祖父。夜神がリーディング能力を用いて突き止めた全ての元凶は、この老人だった。
 数十年前、彼は親から社長の座を受け継いだ。うまく会社を切り盛りできる自信など微塵もないまま。
 だが、周りにそれを悟られる事など、彼の矜持が許さなかった。
 誰でもいい。自分を立派な経営者に仕立て上げてくれる者はないか──。そんな身勝手な望みを聞き届けてくれる神はこの世にいない。いたのは低俗な魔物だけ。無論、それ相応の犠牲と引き換えに。
 男は妻を依代に捧げると約束した。それだけでは足らぬという魔物の言葉に、息子の妻になる女と、その娘を贄として差し出すと誓った。自身は何の対価も払わぬまま、この老人はただ贄を捧げ、甘い汁を吸い続けた。数日後には孫娘が殺されるというのに、こうして高いびきをかいて。
「自分の妻や息子の妻、孫の気持ちを考えた事が一度でもあったか?」
 夜神はそんな無駄な問いかけをせずにはいられなかった。もしもこの老人にそんな思慮があれば、末見家の女性達は死なずに済んだ筈だと分かっていても。
「これは罰だ」
 冷え冷えとした声とともに、夜神の手は老人の体を突き破り、その心臓を鷲掴みにする。血の一滴も零さず、夜神は老人の体の奥から、ずるりと何かを引き出した。
 老人は目を見張る。夜神が掴んでいるものは、老人に地位と名誉と富を約束してくれた魔物だ。
「自分までもが寄生されてる事にも気付かなかったのか?」
 嘲笑すら含まない冷淡な声で夜神は言う。「自分さえ良ければ他者などどうなっても構わない」と、一片の躊躇もなく考える事のできるこの老人の心の中は、魔物にとってさぞかし住み心地のいい場所だったろう。
 老人の妻の体を乗っ取り、彼女の死後は老人の心に住み着いた魔物。それは既に老人とほぼ一体化しており、今更切り離す事などできない程に癒着していた。これを滅ぼせば老人は死ぬ。そう分かっていて、夜神は魔物の首根っこを掴んだ手に力をこめた。
「人間の畏怖や恐怖を喰らう魔物か。……自分の恐怖はどんな味だ?」
 闇の中、うっすら差し込んだ月の光を受けて、白く浮かび上がる夜神の手。それは魔物にとっては不可避の斬首刀に等しい。逃れようとあがく黒く卑しい影を、夜神は容赦なく握り潰した。
 老人が胸元を抑えて呻き声を上げ、夜神に掴みかかろうとした。その手は虚しく宙を掻き、力なくベッドの上に落ちる。それを見届け、夜神は音もなく闇の中に溶け込む。
「……蓮。俺はどうも、安楽椅子探偵には向いてなさそうだ」
 そう一言、残して。



 おそらくは祖父の葬儀で慌しくしているであろう末見家に連絡し、夜神は半ば強制的に由梨を呼び出す。誕生日を明日に控えた少女は、前に会った時よりももっと青白い、不健康そうな顔をしていた。
「注文の棺は、爺さんの葬儀に使われるように手配しておいたから」
 夜神の言葉に、由梨は目を瞬かせる。
「そんな。じゃあ、あたしはどうしたら……」
「由梨は死なない」
 まるで厳粛な予言のように重々しく、夜神は言い放った。
「婆さんの『予言』は外れたんだ」
 言いながら、由梨の手に三つの品を押し付ける。万年筆と日記帳、そして古い写真。
 事実を全て話すのはためらわれる。だから夜神は、大切な事だけを彼女に伝えると決めていた。
「由梨は、母親も自分も婆さんに嫌われてると思い込んでただろうけど、それは違う」
 自分の体に巣食った魔物の存在に、由梨の祖母はちゃんと気付いていた。夫がそれと良からぬ契約を交わした事も。
 だが数千人の従業員達と、その家族の生活を盾にとられては抗えず、唯々諾々と従うしかなかったのだ。
 魔物に操られ、自由の利かなくなった心と体。けれど時折、魔物の束縛が緩む事があった。その隙に、由梨の祖母は息子の嫁に対してこう口走ったのだ。

  由梨を連れてこの家を出て行け。
  (──そうすれば、貴女と由梨だけは死なずに済む)

「婆さんは、本当は由梨と母親を救いたかったんだ。……その願いは叶った」
 由梨は訝しげな表情を浮かべて問う。
「どうして夜神さんにそんな事が分かるの?」
「俺にも予知とか、そういう能力があるから」
 半分は嘘である。それでも夜神は由梨に悟られないよう、平然と嘘をつき通した。
「言ったろ、最初に。棺を用意するなら、誕生日ギリギリの方がいいって」
「……うん」
「最初から俺には分かってたんだ。婆さんの予言が外れる事も、爺さんが死ぬ事も」
 由梨は狐につままれたような顔をしていた。畳み掛けるように夜神は言う。
「ついでに予言しとく。由梨が死ぬのはもっともっと先の事だ。……明日の誕生日を迎えたら、由梨の生活は一変する」
 暗示にかけるよう、夜神はゆっくりと口にした。言葉の一つ一つを彼女の心に刻むように。
「自分は生き延びたんだと実感する。生に感謝する。心が浮き立つ。今までになかった爽やかな気持ちで、周りの人達の中に、自然に溶け込んでいける」
 由梨がとろりと瞬きする。まるで恋人の睦言に『魅了』でもされたかのように、うっとりと。
「家族との絆を取り戻せる。友達もできる。きっと彼氏も。由梨はもう、独りなんかじゃなくなる」
 言いながら、夜神は白い花束を取り出した。おそらく末見家は、祖父の死と由梨の『生還』とで、彼女の誕生日を祝うだけのゆとりもないだろうから。
「ちょっと早いけど、これ」
 差し出された花束を、由梨はぼんやりと見つめた。不思議そうに夜神の顔を見つめ、おずおずと手を出す。
 白い花からは甘やかな香りがする。それを胸いっぱいに吸い込み、由梨は目を閉じる。
「……綺麗。いい匂い。……これ、あたしに?」
「ああ。十七歳の誕生日、おめでとう」
 祝福の言葉に、少女はようやく呪縛から放たれ、ほどけるように笑顔になった。
「ありがとう……」
 由梨は白い花束を腕に抱いて、夢見心地の笑顔のまま店を出て行く。この店に来た時とは正反対の、軽やかな足取りで。
 夜神はその後ろ姿を、見えなくなるまで見守った。



 やるじゃないか、という賛辞とともに、蓮は夜神に『チェルノボグの葉』を差し出した。背表紙だけでなく、天地も小口も、闇を闇で塗りつぶしたかのように黒い本だ。
「あんたを見込んで頼んだ甲斐があったってもんだ。おまけに厄介払いまで……」
 蓮は語尾を途切れさせ、わざとらしく咳払いした。どうやら彼女はこの本を早く手放したかったようだ。素直に只でくれない辺りが蓮らしいと言えばらしい。
「にしても、ここまで見事に丸く収めてくれるとは思わなかったよ。あんた、意外と人が好きなんだね」
「え?」
 思ってもみない事を言われ、夜神は珍しくきょとんとした。自覚なかったのかい、と呟いて蓮は腰に手を当てた。
「人が好きじゃなきゃ、あそこまで細かいフォローはしないだろ、普通。諸悪の根源ぶっ潰して、後は棺を売りつけて知らん顔、で済む話なのにさ」
 夜神としては、自分なりに納得のいく方向に話を持って行きたかっただけなのだが、蓮の目にはそう映ったようだ。けれど、ひょっとしたら彼女の言葉は案外、正鵠を失ってはいないのかもしれない。
 何となく居心地悪く感じて、夜神は本を掲げた。
「じゃ、これ、貰っていくから」
「おや、そんなにそそくさと帰る事ないじゃないか。つれないねえ」
 揶揄するような蓮の言葉を振り払い、夜神は店を出た。



 自室に戻り、夜神はためらいなく黒い本を開いた。持ち主を殺すと言われているこの本なら、夜神を殺しえるだろうか。
 開いた黒い頁から、闇色の影が立ち昇る。それはやがて、夜神と瓜二つの少年の像を結んだ。
「……チェルノボグ、か?」
 問いに、漆黒の少年は薄く笑って答える。
『我は、傷にして刃。掌にして打たれる頬。引き裂かれる四肢にして責め車、刑死者にして刑吏……』
 影はよどみなくボードレールの詩をそらんじた。夜神は軽く柳眉を寄せる。
「簡潔に訊く。俺を殺せるか?」
『死に急いでいる訳でもないのに、どうしてそんな質問をするんだ?』
 影の問う声音までも、夜神のものとそっくりだ。夜神は鋭く返す。
「質問に答えろ。殺せるのか、殺せないのか」
『どうしてそんなに必死なんだ?』
 影は嘲笑する。それから、僅かな憐れみを含んだ瞳でこう答えた。
『死に方が分からない、というのも不便なものだな。いつか自分の存在が、大切な誰かの絶対的な脅威となった時、どうすればいいのか俺には分からない……』
 夜神は微かに目を伏せた。だが、すぐに影を見据えて言う。
「……結局、チェルノボグじゃないって事か」
『俺はチェルノボグだ』
「じゃ、かの『スラブの死神』も大したものじゃない、って事だな」
『そうだな、何せ、自分殺しの方法すら知らない』
 自嘲するように影は言う。この影が何者なのか探ろうとして、夜神はやめた。夜神の興味はただ、この本が自分を殺せるか否かにしかなかったのだから。
「役立たず。……働いて損した」
 言って、夜神は本を閉じ、乱雑に本棚の中に押し込めた。
 だが、放った言葉は本心ではない。
 夜神は由梨の笑顔を思い出す。今まで、死んだように生きていた少女が生に臨み、初めて見せた笑み。それを見られたなら、只働きもそう悪いものではないと思えた。

  ──あんた、意外と人が好きなんだね。

 蓮の言葉を思い出し、確かにそうかもしれないな、と夜神は呟く。
 そして夢想する。他愛のない話をしながら友達と並んで歩き、笑顔を浮かべる由梨の姿を。
 それが彼女の、本当の未来になる事を願いながら。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【7038/夜神・潤 (やがみ・じゅん)/男性/200歳/禁忌の存在】


※作中に登場する『チェルノボグ』がそらんじた詩は、ボードレールの『己を罰する者』より引用させて頂きました。