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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【夜の海のチーコ】


〜OP〜

今日はチーコは四回殴られた。

一回目は、唄ってる時に笑ったから。
二回目は、お昼ご飯のパンくずを床に落としてしまったから。
三回目は、殴られた時に吐いた血で殴った人の手を汚してしまったから、
四回目は、何となく。

チーコは、南の海にある活火山を抱く小さな島で生まれた。
チーコは、その島では仲間達から「可愛いチーコ」と呼ばれていた。
友達思いのチーコ。
笑顔が素敵なチーコ。
可愛い、チーコ。

チーコは、ここでは、名前を呼ばれない。
ただ、「化け物」って人間はチーコの事を呼んだ。

それは突然の嵐だった。

チーコが住んでいた南の島に、ジェット船に乗った人間たちがやってきた。
誰かと喧嘩なんてした事のないチーコの仲間達は、みんな一編に殺されたり、捕まったりした。
チーコは捕まった側で、そのまま、「新宿」ってトコにある、あんまり性質の良くない店で見世物としてショーに出されていた。

チーコの種族は、皆歌が上手だった。
燃える様な、命を燃やすような、赤い、赤い、力強い、炎のような歌を歌った。
人間はチーコの歌を珍しがって、たくさんの人間の前で散々に歌わせた。

チーコは、10歳。
活火山がある、南の島で、毎日歌を歌って暮していた。
その日々は太陽みたいに暖かくって、海のように無限に続くと思ってた。

カフッ。

薄暗い小さな小部屋で、チーコは小さな口からたくさんの血を吐き出す。
此処に連れてこられて、もう一年になる。
チーコは、南の島の美しい空気の中でしか本来は生きられない生き物だった。

もう、永くない。
チーコは分っていた。
もう、私は、永くない。

目を閉じる。
おかあさんの顔
おとうさんの顔
友達の顔

チーコももうじきそちらに逝きます。
チーコは笑う。
怖くない。
怖くない。

ただ、恋をしてみたかった。

何度も、何度も、喉を震わせ、情熱的に歌った恋。

チーコは知らない。
恋を知らない。
チーコは知らない。
それが、どんなに幸せかを知らない。

突然、大きな音がチーコの鼓膜を震わせた。

「アァ!!」

声を上げて跳ね起きる。
すると、自分の顔を覗き込む黒い影にチーコは気付いた。
「ああ、間違いない」
男の人の声。
キンキンとした、鼓膜をやけに引っ掻く声。
パチパチと瞬いて、チーコは見上げた。
黒く長い髪が揺れていた。
何だか険しい顔。
南の島にたくさんいた、蜥蜴や、蛇にちょっと似ている。
けれど、彼らはこちらが乱暴をしなければ決して、牙をむく事のない大人しい生き物立ちチーコは知っていたので、チーコはちっとも怖くなかった。
恐る恐るといった手つきで、骨ばった硬い手が、チーコの体を抱き上げる。
煙草の匂いが、チーコの鼻腔を擽った。
「ひぅあぁ?」
喉を震わせ、だあれ?と問う。
「助けにきた」
思いの外優しい声だった。

チーコは、疑う事を知らない子だったので。
何度でもそれで騙されて呼ばれて笑って傍によって、何度も、何度も蹴り飛ばされるような子だったので、「ひぅふぁぅぅ!」と高い声を上げて笑って、しっかりとその胸にしがみ付いた。

夜の空の下、男はチーコを抱えて駆け出した。
長い髪が、漆黒のカーテンのように風に煽られ広がる。

きれいだな。

チーコは手を伸ばし、さらさらとした手触りに微笑んだ。

きれいだな。

夜のカーテン。
なんて、美しい帳。

「化け物が逃げたぞ!!」」
後ろの方から声が聞こえる。
チーコをたくさん殴った男たちの声だ。
「ひぁふぅ!」
叫んで後ろを指差し、気をつけてと叫ぶチーコの背中を分ってるよという風に優しく叩いて、髪の長い男は誰かを呼んだ。
「竜子!!」
るーこ?
首を傾げるチーコの耳に、闇を切り裂くエンジン音が聞こえてくる。
あれ、知ってる。
あれ、バイクってゆうんだ。
チーコの見張り役の男が読んでる雑誌に載ってたよ?

「誠!!」
女の人の声。
凛とした、強い声。
バイクに乗ったその女の人は金色の髪を靡かせて、チーコと男の前に急停止すると、慌てた様子でヘルメットを投げつけて「追手は?!」と問い掛けた。
「しこたまだ。 とっととずらかるぞ!」
そう誠と呼ばれた男は答え、宝物を抱くような手でチーコを抱き直し、るーこのバイクの後ろにまたがる。
「大丈夫。 怖くないから」
るーこが優しい声で言った。
「大丈夫。 行こう、チーコ」
誠が、チーコの名前を呼んでくれた。
「ひあぅぅふぅるるぅぅ!」
嬉しくって大声で笑う。
るーこのバイクが、夜闇の中を猛スピードで駆け出した。
神様だってきっと追いつけない。
大型バイクは、そうやってチーコを暗い部屋から攫っていった。

*******************************

「で?」
「匿って欲しい」
黒須の言葉に武彦は、はぁと溜息を吐き出した。
「この前は不良娘の捜索で、今度は…」とそこまで言ったところで、零が常に無い強い声で「お受けします」と勝手に返事をしてのける。
「おい…零!」
そう非難の声をあげる兄をキッと見据え、「受けるんです!! 絶対に」と殆ど悲鳴のような声で兄に詰め寄った。
「…まぁ、こっちとしては報酬さえ受け取れるんなら、別段構わないが」
そう言いながら、ひしっと小さな掌で黒須の服を掴んだまま膝の上で眠るチーコの顔を見つめる。
ステージに上げるからだろう。
顔にこそ傷はなかったが、体中痣だらけで、煙草を押し当てられた火傷の痕も点々とあった。
「…まだ…子供だぞ」
黒須の隣に座る竜子が軋む声で呻いた。
「…こいつ…まだ…子供なんだぞ」
自分だって世間じゃまだ、充分子ども扱いされる年齢の癖に、ぎゅっと握り拳を固めた、相変わらず派手な特攻服に身を包んだ女は「糞野郎共だ」と吐き捨て、「頼む」と律儀な声音で呟き、頭を下げてきた。
「…で? 何なんだ、この子を追って来てる奴らの正体は」
武彦が問えば、「アジア諸外国を縄張りに、麻薬の密売やら人身販売やら、まぁ後ろ暗い商売の業界で一気に伸し上がってきた新興のマフィアだよ」と黒須は答えた。
「で、そこのトップっつうのが、若干キてる趣味の持ち主でね。 人間と動物を掛け合わせて作るキメラの研究やら、人間外の珍種なんかを世界中から攫ってきてオークションに掛けたり、ショーに出したりするような、そういうえげつのねぇ商売もやってやがんのさ」
黒須の説明に、武彦はチーコの容貌をもう一度しげしげと眺めた。
チョコレート色の肌。
オレンジ色の髪。
鳥のような声。
小さな体は、人間の子供と変わりない形をしているが、唯一つだけ、大きな違い。
大きな、大きな一つの目。
チーコには目が一つしかなかった。
顔の真ん中に一つ、燃えるような太陽色の綺麗な目玉。
「ベイブが…俺達の上司がね、この子の事を見つけてさ、何とかしてやれってお達しが出たんだ。 たまに、そういう慈善事業めいた事をしたがる奴なんだが、今回はバックがやべぇ。 とにかく、三日間。 何とか、三日間あいつらからチーコを守ってやってくれ」
「何故三日間なんだ?」
そう問い掛ける武彦に、黒須はチーコを見下ろして、その唇に手を当て、彼女が確実に眠って居る事を確かめると、囁くような声で言う。
「保たない」
「……何がだ」
「チーコがだよ。 一年間、この汚れた街で引き絞るみたいにして生きてきた。 保たないんだ。 あと三日なんだ」
「それは…」
確かなのか?と問い掛けかけて、事務員が教えてくれた、彼らの上司と言う男が、全てを見通す力をある鏡により得ている事を思い出す。
「多分、俺達の住んでる城に連れてけば、多分危険に晒されないで済むんだろうが…そりゃあ、あんまりだろ? 最期位、外の世界で、楽しいもんばっかり見せてやりてぇんだ」
黒須の言葉に、武彦は溜息を吐き出して、零を横前で見れば、大きな目に既に涙を溜めていて、「兄さん…」と震える声で呼んでくる。
「あーーー、もう、分ったよ。 請け負うから、お前は泣くな、お前も!」
そうズビシと指差された竜子は、既に鼻水もだくだくに流していて「ううう、…だのむからなぁ?」と涙に濡れた声で告げてきた。

チーコを守るだけならともかく、その背後にあるマフィアまで相手にしなきゃならないとなると、かなり面倒な案件になるとひしひしと感じながら、武彦は二人の女の涙に負けて、この厄介な依頼を引き受ける事にした。


〜本編〜



初日。


「はじめまして。 チーコ。 私はいずみ。 飛鷹いずみっていいます」

小柄ないずみより、更に背の低いチーコに少し背を曲げて目を合わす。
滑らかなチョコレート色した頬が日の光を弾いていた。
「いゆみぃ?」
口を少し曲げて舌足らずに言う。
「そう。 いずみ」
穏やかに微笑みかければ、チーコはにいいと唇を裂いて、明るい笑みを浮かべた。
「いゆみ! チィゥィコ! ひぅ、チィウゥィコ!」
小さな両掌を一杯に伸ばし、はしゃいだ声で言うチーコに頷きながらいずみは、優しい優しい声で彼女の名前を呼んだ。

「チーコ。 可愛い名前。 よろしくね。 チーコ」

伸ばした掌が、いずみの柔らかな掌を優しく握った。


チョコンと小さな足をぶらつかせて、いずみのスカートの端を握ったまま、チーコがぐらりぐらりと首を横に揺らしている。
いずみとチーコは並んで座って、エマに貰った棒付きのハート型キャンディを咥えていた。
ピンク色の花が散っている包装紙には「メリィ」と小さく書かれていて、同級生の女の子達が最近騒いでいる学校の近くに新しく出来たキャンディショップのものだといずみは察する。
口の中でキャンディをもごつかせながら、こういう可愛いお菓子が売っているなら、自分も一度覗いてみようかな?と考えてみる。
いずみ達と同じように、エマにキャンディを貰ってはしゃいでいた竜子が、レモンの味がするという黄色のハートキャンディを舐めながら口を開いた。
「なぁ、なぁ、なぁ、じゃあさぁ…悪法も法なり…」
「ソクラテス」
「おお、じゃあ、ペニシリンを発見…」
「フレミング」
「おおお!」
竜子がクロスワードパズルの雑誌を見ながら出してくるクイズを、最後まで聞く事無くいずみは即答していった。
「ていうか…貸して下さい。 解いてあげますから…」
そう手を差し出すいずみに「そしたら、意味ないだろー?」と唸る。
竜子のそんな声が面白かったのか、チーコが「ひぃふぅははぁっ!」と明るい笑い声をあげた。
咥えたキャンディを大事そうに何度も何度も大きさを確かめるように口の中から出して眺め、それからまた咥えている。
いずみは、イチゴミルク味のキャンディを舌先で味わいながら「おいし?」とチーコに問い掛けた。
「ひぅ!」
元気の良い返事に笑い返しながら「味覚は、人とは然程変わりないのね」と冷静に確認する。
これからどういう風に行動を共にするのかは分からないが、痩せっぽっちの体を見てるとロクな食べ物を食べさせて貰ってないようだし、思いっきり美味しい物を食べさせてあげたかったので、自分達が美味しいと感じるものを彼女も美味しいと感じるのだと知る事ができたのはいずみにとっては大きな収穫だったのだ。

「ねぇ!!」

ふいに、三人がいる書斎の扉が開いた。

「旅行だって! 旅行、旅行!」
「三人はどこに行きたい?」

飛び込んできたのは二人の少女。
片方は、美しい黒髪を揺らしながら、白磁の如き肌を少し紅潮させて、「旅行、超っ! 久しぶりっ! どうしよう! 気合入り過ぎてきた! 何処行く? 何食べる? 何する?」と騒ぎ、はしゃいでいる。
美しい瞳は、右目は黒曜石の如く、左眼は澄んだ深海の色を凝縮したような輝きを放っており、整った顔には嬉しげな色を刷いて、見ている者も笑顔になってしまうような喜びようを見せていた。

もう一人の少女は、キラキラのプラチナブロンドの髪をピョコン、ピョコンと跳ねさせている。
光の粒を振り巻いているようにも見える綺麗な髪を揺らし、明るい若葉色の瞳を瞬かせた少女は、いずみ達の前に抱えていた旅行雑誌を広げた。

黒髪の少女の名は、水鏡・千剣破。
プラチナブロンドの髪の持ち主である少女の名は、
エリィ・ルー。
二人は、どちらも人目を惹く美少女ではあったが、千剣破は和装のよく似合いそうな日本美人であり、エリィは対照的にレースやリボンがよく似合いそうな西洋人形めいた愛らしい容貌をしていた。
そんな少女達がキャッキャッと笑いあいながら、「温泉も入りたいね」やら、「美味しい物も食べたいね」等と言い合うさまは、大変、大変目に愛らしいのだが、10歳の少女であるいずみにとっては、何ら琴線に触れる光景でもなかったらしく、至極冷静な気持ちで口を開く。

「終わったのですか?」

いずみの問い掛けに、「うん、ま、大体ね?」と笑いながらエリィが答えた。

「旅行?! まじで?! うおお、やったぁ! あたいも最近旅行とか、とんとご無沙汰だったしな! ていうか、お前らは大丈夫なのかよ。 親とかは?」

竜子がエリィと千剣破を交互に指差せば、「あ! 大丈夫、あたしの親はあたしの事信用してくれてるから」とエリィは笑って答え、千剣破も「何が、何でも、許可貰うの! 絶対!」と気合の入った握りこぶしを見せる。
「うひぁぁぅ!」
千剣破を真似て、きゅっと拳を握ってみせるチーコに「応援してくれてるの? ありがとー!」と言いながら手を伸ばし、千剣破はその小さな体をぎゅうっと抱きしめる。
「きゃぅ、きゃぅ!」とチーコの喜ぶ声を一頻り聞いた後、ひょいと、千剣破に抱きしめられたままのチーコに雑誌を見せ、「なぁ、なぁなあ、チーコは何処が良い?」と竜子を尋ねた。
千剣破から解放されたチーコがトテトテと雑誌に近づき、顔がくっ付きそうな程近づけ眺めた後、今度はいずみを眺めてくる。
ぺらぺらとページを捲った竜子が、ある箇所に目を止めて、「いずみとか、こういうトコ好きそうじゃねぇ?」と言った。
科学館のカラー写真を眺め、「もう、何度も行って飽きました」とすげなく返答すると、「チーコには、汚れた環境は毒だとお伺いしています。 街から離れた自然の豊かな……南洋は無理でも海の綺麗なところが良いかと思います」と答える。
すると、千剣破が手を叩き、「まだ少し早いけど暖かくなってきたし海は確かに良いかも!」と賛同の意を表した。
「ね? チーコ。 海、好きでしょ?」とチーコに問い掛ければ、チーコは笑って頷いて、「いゆぅみぃ、ふぃぁ?」と首を傾げてきた。
何となく、「いずみは?」と問い返されている気がして「好きよ。 とっても」と微笑み返す。
するとエリィが、「うん、うん、チーコちゃんも行きたいって言ってるし…」と頷いて、それから書斎の外に向かって「海は決定だよー! チーコちゃんも希望してるし、絶対に行くよー!」と応接間に集まっている面々に宣言した。

「うわぁい、海だよ! 海ー!」
そう嬉しげに言いながら振り返るエリィに対し、いずみはチーコへ向けていたものとは表情を一変させて冷たい目でじろっと睨み上げる。
いずみが言外に非難しているのを感じ取ったのか、「だってぇ…」とエリィは甘やかで、幼い顔立ちに困ったような顔を浮かべ、「えーと、凄く難しい話をしてたからね? つまんないと思うよ?」と誤魔化すように言ってきた。
千剣破も「そうそう、聞いてても全然つまんないし、ね? ここでチーコちゃんや、竜子ちゃんとお喋りしてるほうが楽しいよ」と明らかに子供を誤魔化そうとする口調で言ってきた。
いずみは、子ども扱いされる歯痒さに、一度奥歯を噛み締めて、静かに一度息を吸い込む。
そして、「私も、一興信所スタッフとして今回の案件に参加させて頂く所存ですから、全ての事情や、これからの対応をお伺いさせて頂きたいのです」と、丁寧な口調で斬り込んだ。
大きな目をパチパチさせて、それから、今度は手をパチパチと打ち合わせるとエリィが、「すごおい! いずみちゃん、難しい言葉知ってるのねぇ」と呑気な声で褒めてくる。
「な?! すげぇだろ! いずみは、天才なんだぜ?」とまるで我が事のように嬉しがる竜子に、「なんで、竜子さんが…」と思えども、子供のように笑いかけられると溜息を吐くしかない。
「エリィさん、それに、千剣破さんも、私との間に然程の年齢差はないように見えるのですが?」
いずみが問えば、「えー? そんな事ないよ? あたし、17だもん」と答えて、「いずみよりは大人よ?」と胸を張った。
千剣破も「うわ! 偶然」と目を見開くと、「同い年、同い年!」とエリィの肩を叩く。
「マジで? 何か嬉しいんだけど!」
「あたしも!」
透き通るような透明感のある白い肌をした千剣破と、マシュマロのような純白のミルクめいた白い肌のエリィの頬が同時に軽い興奮にピンク色に染まる。
「えぃぃ? んひぅ!」
そんなはしゃぐエリィの袖を引いて、雑誌を覗いていたチーコが、あるページ字の写真を指差した。
「チーコちゃんはそこに行きたいの? どれどれどれ…」
そう言いながらエリィが旅行雑誌を覗きこみ、優しく目を細める。
「ここは…、潮岬…本州最南端の海ね…」
小さく呟くエリィを横目に、いずみはスタスタと勝手に書斎を出て行った。


興信所に集まっていたメンバーは、いずみの目から見てもてんでばらばらだった。

初めて見る顔も多くて、興味深く思いながら応接間のソファーに腰掛けていたら「チーコと向こうで遊んでおいで」と言われて書斎へと追い出された。
竜子がまるでお守りをしにきたと言わんばかりについてきて、大層腹立たしかったのだが、もう我慢も限界だ。
「あ、いずみちゃん? いずみちゃん!」
そう呼びかける千剣破の声も無視して、いずみを見てくる大人たちの視線をものともせずに、ソファーにちょこんと腰掛ける。
「さ、話の続きをどうぞ?」
そう促せば、黒須誠が困った顔になって、「いずみ? なんだ、退屈しちゃったのか?」と問うてきた。
相変わらずの、爬虫類的空気を身に纏った、不気味な様相をしているが、努力家のいずみは、前回から時を経て、爬虫類への苦手意識を克服しつつあるのだ。
この時も「キッ」と一睨みすると、「いえ、のけものにされるのが、我慢ならないだけです」ときっぱり答えた。
久しぶりの邂逅だというのに、懐かしむ間さえ与えられず別室に追いやられた恨みは深い。
ジトッとしたいずみの眼差しに耐えかねたように視線を逸らす黒須の代わりに今度は興信所の事務員であるシュライン・エマが「あ、いずみちゃん、いずみちゃん、ほら、これ面白いのよ? 絵が凄く綺麗で…」と言いながら、どうも彼女が翻訳を請け負っていたらしいイギリスの児童書を渡してくる。
確かに、油絵で描かれているらしい可愛いキャラクターが表紙一杯に描かれているその絵本は、いずみの目に大層魅力的に映った。
だが、当然、これで誤魔化されるいずみじゃない。
「チーコちゃんと読んでらっしゃい、ね?」
にっこりと笑うエマに「結構です」とぴしゃりとお返事。
彼女も、いずみと何度も事件を共にしたせいか、彼女の性格を熟知しているのだろう。
「そうよねぇ…」と言いつつショボンと肩を落としてみせる。
「いずみちゃん、本たくさん読んでるから、私の翻訳の出来栄えが如何なものか意見聞きたかったんだけどなぁ」と残念そうに言いつつ鞄の中に本を仕舞うエマに「また、後で読ませてください」と慌てて言い添えると、もう、てこでも動かないぞ!と決意の滲んだ顔でソファーに座るいずみ。
隣に座る大人しげな女性が、パクパクと口を開け閉めして、いずみに何か言おうとするが、「ひゅぅ」と小さく息を吸い込んだまま、何も言わずに口を閉じた。
視線を向ければ、小動物めいた小作りで大人しげな容貌をした少女がじいっといずみを見返してくる。
口を引き結んだまま、茫洋としたような、それでいて、何か強い意思を含んでいるかのような不思議な眼差しに晒されて、いずみは居心地悪げに身じろぎした。
「あ…あの…?」
何か言いたいのだろうか?
私がここにいるという事に関して。
そう思い問うようにして、声をかければ少女は、まるで自分が初めていずみを凝視していた事に気付いたかのように目をパチクリと見開き、見開いたまま首を傾げる。
「いくつですか?」
唐突な問い掛け。
「…百合子。 ほら、いずみちゃんがびっくりしてる…し、出来るだけ脈絡を付けて喋るように言ったよね?」
甘い声。
さっき食べたキャンディみたいな、いや、違う、むしろバレンタインデーに父親が会社の女の人に貰ったのを、母に内緒で分けてくれた、チョコレートボンボンのような声がした。
大人の、だけど、甘くて、トロリとして、蜜のような、酔っちゃうような、そんな声。
ああ、そうだ、大人しそうな女の人は、歌川・百合子さんで、甘い声の男の人は兎月原・正嗣という名前の筈だ。
事務所に来てすぐ自己紹介してもらった名前を、頭の中で確認する。
今回、初めて事務所の仕事を手伝うそうで「もっと、荒っぽい仕事ばかりかと思ってたら、こんなロマンチックな仕事もするんですね」と兎月原は微笑んでいた。
百合子はどうだったか…と、また視線を向ければ、霞がかかったような眼差しのまま「で、いくつですか?」と再度問い掛けてくる。
「あ…10歳です…」
とりあえずそう答えれば「へぇ…」と一言呟いて、それから、ゆっくりと驚いたような顔をし「若い」とだけ唸るように言った。

いずみは、余りに言葉のタイミングを掴みかねる会話のテンポに、言葉に詰まれば、「だって、皆さん気になってたと思うんです。 いずみさんと、初対面の方も多いんですよね? 私含め。 あんまりにも大人っぽい事を言うもんだから…10歳って、小学四年生位?」とまた、独特のテンポで言葉を重ね、兎月原に顔を向けたので、あ、さっきの言葉は、兎月原の「脈絡なく喋るな」という注意への反論だったのかと気付く。
「あ、そうです」と答えれば、「そう…」と、まるで自分の世界に閉じこもっているかのような声で囁くと、また凝視するようにいずみを眺めた。
「…聞かない方がいいですよ?」と小さな声で忠告するように言う。
うんうんうんと自分の言葉に頷くような仕草を見せて、またも言葉を重ねた。
「あんまり、良い話はしてなかったもの」

静かな声で「覚悟はあるのか」と涼やかに女性が問い掛けてくる。
視線を上げると、細身の黒いシャツに、後ろに深いスリットの入った黒のロングスカートを合わせ、窓際に立つ一人の女性が目に入た。
腰まである黒髪を、背中で揺らすその女性は、真っ白な紙にスッと美しく筆で引かれたような形をした睫の長い切れ長の目を閉じたまま、冷たい声で問う。

「いずみ…といったな? お前に覚悟はあるのかと聞いている」

細い体は、華奢なのに鋼の強靭さを感じさせ、それでいてしなやかで柔軟な美しさを兼ね備えている。
いずみは、知らず一度喉を鳴らし、緊張に拳を震わせながら「出来てます」と答える。
「何のだ?」
「全てを知る…です」
「…哀しい事もか?」
いずみは頷く。
「辛い事もか? 怖い事もか?」
重ねられる問いかけに、コクンコクンと頷いて、それから、ただ、悪い奴らから助け出されたチーコと友達になって三日間一緒に過ごしてやって欲しいと頼まれていただけのいずみは、それ以上の何かがこの依頼にはあるのだと悟った。

「大人と対等に扱うという事で良いんだな?」

黒・冥月と名乗っていた女性は、明らかに普通の人とは違う近寄り難い空気を身に纏いながら、無表情に口を開いた。


「チーコは三日後死ぬんだそうだ」


「冥月さん!」
非難じみた声をエマがあげた。
いずみは、言葉を失い立ち尽くす。

「知りたいと本人が言っている。 知る意思がある者が、知らぬまま他の者が把握していた悲劇に直面すれば、知らされなかった悲しみも合わせて、余計に辛い。 覚悟はあるといった。 だから、伝えた。 知ったからこそ出来る事もある」

冥月は、厳しい声音でいずみに告げた。

「考えろ。 いずみ。 知りたがったのはお前だ。 だから、知った以上、私たちと一緒に考えてくれ。 圧倒的な事実に際して、それでも自分が何を出来るのか」

いずみは目を見開いたまま、小さく体を震わせる。

志之さん…。

脳裏に浮かぶは、ある夏の日々。
畳の上で眠るようにしてなくなった、一人の老婆の死に顔だった。

チーコが死ぬの?

「うぃひぁぁははぁあ!」

無邪気な笑い声が書斎から聞こえてきて、いずみはびくりと肩を震わせた。

なんで?
だって、笑ってるじゃない。
キャンディだって食べてた。
どうして?
まだ、小さいのに。
どうして死ぬの?

志之さんが亡くなった時は「老いて死ぬ」って「人生を生ききって死ぬ」って理解した。
志之さんは、生きて、生きて、死んだ。

じゃあ

子供が どうして 死ぬの?

ねぇ、チーコ。
貴女は、どれだけ生きた?


息を吸う。
深く。 深く。
「どう…しよう…も、ないんですか?」
掠れた声が出た。
「ど…うしようもないなんて事は、ないと思うんです。 そんな、ねぇ、だって、チーコは…」
いずみは自分が掌に握り締めているキャンディの棒がやけに厭わしく思えた。

「チーコは、子供じゃないですか。 子供が死ぬなんて…そんなの、おかしい…」

いずみの言葉に、皆一様に口を引き結ぶ。
だが、そうやって困ったようにいずみを見つめる大人の視線に今度はいずみが立ち竦んだ。

恥かしい。

何故か耳が赤くなる。

いずみは、いつも冷静で、年不相応に頭の回転が速くて、クールで、みんな「大人っぽいね」って「賢い子だね」って褒められていて…。

だから、こうやって言い募って、頑是無い事を言って、大人に困惑したような、戸惑っているような、労わるような目で見られる事なんて滅多になくて、その滅多になさのせいで、余計にうろたえて、表情に出さないよう、無理矢理捻り出した冷静な声で「…だから、良い大人が雁首そろえて、3日しか保たないとかいきなり泣き言を言ってないでベイブさんに泣きつくなり何か手が無いか尽くしてからにしましょうよ。 彼女の命を諦めるのは」とまるで憎まれ口のように皆の顔を見回しながら言い放つ。

誰も、いずみの目から目を背けなかった。
誰も、彼女を言いくるめようとはしなかった。

静かな静かな、宇宙の果てのように静かな沈黙の後に、黒須は黄色い目を隠す為の遮光眼鏡を中指で押し上げると、「…いずみ…ごめんな」としわがれた声で言った。

その声に、言葉に、大の男が何の躊躇もなく小学生の自分に詫びる姿にいずみは、哀しい、哀しい声で「ああ…」と溜息交じりの嘆きの言葉を吐き出した。
悟ったのだ。

どうしようもないんだという事を。

子供には似つかわしくない、それは、諦念の声。

「いゆみぃ?」

書斎の扉が開いて、千剣破と、エリィ、それにチーコの手を引いた竜子が現れた。
「いゆみぃ、あぉうぃ?」
そう言いながら、チーコがパタパタと手招いてくる。

「なぁに? チーコ」

全ての動揺を一切押し殺した穏やかな声で問い掛けつつ、傍に寄れば、エリィが開いた雑誌を見せてきた。
写真に写るは、鮮やかな青い海と、崖の上に立つ白い灯台。
「あのな、チーコ、この、潮岬行きたいそうなんだよ。 あたいも、千剣破も、エリィも賛成なんだけど、山口県にあって、ちょっとばかり遠いんだ。 日帰り旅行じゃ済まないし、多分ニ泊三日位の日程になる。 今って、いずみ、GW中だっけ? チーコが、お前と行きたいって聞かないんだけどさぁ…、良かったら、いずみも付き合ってくれるか?」
竜子に問われて、考える間もなく「もちろん」と頷けば、チーコが嬉しげに「ひゃぁ!」と声をあげ、背後の三人を交互に見上げた。
「良かったね、チーコちゃん」
エリィの微笑みにチーコが頷く。

「んじゃ、いずみも、お父さんと、お母さんに許可取らないとな?」
男性の声。
少しぶっきらぼうな、だが穏やかな声だった。
語尾が優しく、いずみは「はい」と素直に頷く。
「他のメンツも、三日間は大丈夫なんだよな?」
赤茶色の髪と、同じ色したキツ目の印象的な瞳。
端正な顔立ちをしているのに、そんな事は、どうでも良いと言わんばかりの、気取りのない立ち居振る舞いを見せる男は、向坂・嵐と名乗っていた。
「うん、あたしは大丈夫! んで、チーコちゃんの希望により、山口県の潮岬は、絶対、絶対行くの決定ね?」
エリィが書斎の扉の前に立ったまま、そう呼びかければ、美少年めいた美貌を持つ、だが、れっきと性別女性な蒼王翼も頷いて「じゃ、一旦解散かな? みんなそれぞれ用意があるだろうし…」と全員を見回す。

皆、異論はないのだろう。
ただ、何だか、みんな、少しだけ雰囲気がおかしい。
その違和感の正体は何?と聞かれると、はっきりとは言えない。
凄く皆、何かを隠すのが上手で、竜子も、チーコも何も疑問に思わない様子で「おやつ買う暇あるかな? チョコ買ってやる、あと、あと、ポテトチップスと…酢昆布も欲しいよな…」とか、「ひっぅあふぅうう!」と嬉しげに言い合っている。
「えーと」と翼が人数を数え、「11人か…結構な人数だな…」と呟いた。
「あれ? 零は?」
そう竜子が問い掛ければ、「今回は、兄さんの手伝いに専念して、情報収集の面から皆さんのお役に立とうと思うので、お留守番です」とサラリと答える。
それから、零はチーコの傍へとしゃがみこみ、「楽しい旅をね?」と微笑みかけた。
気丈な笑みは、悲しみの雫を一粒たりとも滲ませはせず、まるで、本当にただ、朗らかに旅立ちを見送る者の笑みそのものだった。

強い。

いずみは心中で唸る。
自分ならばどうだろう?
死出の旅。
見送れるか? あのように笑って。
分っていながら、それを微塵も感じさせない、零の笑顔。
いや、むしろ、そもそも、この旅に同行すると即答していたが、果たしてその判断は正しかったのだろうか?
先程のように、動揺を露にする危険性のある自分は、チーコの傍にいるよりも、東京に残って零や、武彦の情報収集の手伝いをした方がいいのじゃないだろうか?
グルグル考え出すと纏まらなくなってくる。

だが、冥月に覚悟はあると答えた。
共に考えてくれと乞われた。
一緒に行きたいとチーコが言った。

だからいずみは決意した。
全ての覚悟を決めて、共に行く事を。
そして、道中、零のように、自分も穏やかな雰囲気でチーコに優しく接し、悲しそうな顔だけは絶対に見せないでおこうと。
楽しい事ばっかりの三日間にする手伝いを、精一杯しようと、後で一人で泣く事になるであろう確信しながら、いずみは今回の仕事に自分の力を全て振り絞って取り組むことにした。
「じゃあ、今から一時間後。 駅前のロータリーで集合な?」
腕を組み、今まで黙って事務所内でのやりとりを聞いていた武彦が総括するようにそう声を上げる。
「三日間分の旅行の用意だからな? でも、あんま荷物は多くすんなよ」
武彦の言葉に頷いて「移動手段は電車ですか?」といずみが問えば「いや、まぁ、それは見てのお楽しみだよ」と武彦は含みを持った台詞を言った。
「いずみは、ご両親にちゃんと説明すんだぞ? 連絡先は…」
「あ、私の携帯番号教えておくわ」とエマは挙手し、「もし、必要だったら、お家に説明のためにお伺いしてもいいけど?」と心配そうに顔を覗きこんでくる。
「あ…大丈夫です。 そんなお手数かけられません」と丁寧に断りを入れれば、またも百合子が目をパチリと開いていずみの顔を凝視した。
「じゃあ…エマ…よろしくな」
そう言われ、「任せて」とエマが頷けば、武彦は眩しいものを見るような目でチーコを見て「気をつけてな?」と優しく言った。
「あぅぃ!」
チーコが手を挙げ、大きな声で返事をする。
いずみは、そうか、武彦も、これがチーコと最期の別れなのかと気付き、何だか切なくなった。

ここで、武彦と零はチーコの為に出来るだけの事をしてくれる。
彼らにしか出来ない事を。


「では、チーコ、いずみ、エマ、それに、竜子と…百合子も、途中まで兎月原に送ってもらえ」

冥月がそう告げた。
兎月原が微笑みながら立ち上がる。

他の面々が何故事務所に残るのか気にならないでもなかったが、色々と話し合いたい事もあるのだろうと判断して、大人しくソファーから降りる。
残る面子と、事務所を出て行かされる者達との差異が何なのか、初対面の者も多いので、おいそれと判断はできないが、きっと理由はあるのだろう。
とはいえ、今は、そんな事よりも、チーコだ。
いずみは、ひょいと手を伸ばし、チーコの掌を握る。
「行こ?」
声を掛ければ「ひぅ」と返事をして頷き返し、「さぁ、レディ達?」と言いつつ扉を先に立って開けてくれる兎月原に「ありがとうございます」「あぅぅぃ!」と二人揃ってお礼を言った。
「あ、私も送ってきます」と零も、その後に続き、事務所の外へと足を踏み出しかけた時だった。


「ご…め…なさ…ぃ…! お…そくなった…っ!」

途切れ途切れの声。
赤く、長い髪が揺れている。


鮮やかな印象を与える、青年が一人、扉の外に立っていた。

まるで、炎のような。

チーコが、ぎゅっと一度強くいずみの手を握った。

チーコも、いずみも、見上げていると首が痛くなるような高い背をした赤い髪の男はひょいとしゃがみこみ「チー…コ…?」と首を傾げた。
チーコがこくんと頷く。
すると、全身の力が抜けるような、人懐っこい笑みを浮かべて、チーコの空いている手を握り締めて、ぶんぶんと振る。
「は…じめま…して、ボク…は…、五降臨…時雨。 時雨って…呼んで…ね?」
首を傾げてそう言いそれから、今から出て行く所と言わんばかりの様子のいずみ達を見て眉を下げると、まるで置いて行かれる子犬のような目をしながら「何処…か、行く…の…?」と問うてくる。
「はい、ちょっと山口県まで」
冷静な声でそう告げる百合子に、益々困ったような顔をして、「山口…県…?」と時雨が呟けば、「百合子…唐突にそれじゃあ、時雨さん困るだろ? えっと、チーコの事で来て下さった、興信所のスタッフの方ですよね?」と兎月原が問い、時雨が慌てて頷く。
そんな入り口での遣り取りを見かね、「時雨! こっち来い。 全部説明してやるから」と武彦が声を掛けた。
コクンと頷いて、それから忘れてた!という風に、時雨がポケットをごそごそと探り出す。
「こ…れ…」
そう言いながら差し出した掌には、色違いの、髪留めのが二つ。
セットになっているのだろう。
キラキラと光る、ピンクのプラスチックのハートと、赤いハートがついた髪留めに「可愛い」といずみが呟けば、にこっと時雨は笑ってまずは、チーコの髪に一つ着けた。
「は…ふぃぅぅ…!」
びっくりしたような顔をして、時雨を見上げたチーコの頬が見る見る真っ赤になっていく。
「着ける…と、もっと……かわいい…」
時雨がそう褒めれば、チーコは真っ赤な顔のまま、「あぅ…ぅ…あぅ…」と何も返事が出来ず、まるで、時雨の目から逃げるかのように、エマの後ろに身を隠した。
「あぅぅひぅ…」
「あら、照れてるの?」
エマの言葉に、いずみが微笑めば、いずみの髪にも手を伸ばし、時雨がもう一つ、ピンク色の髪飾りをつけてくれる。
「…うん…可愛い…」
そう言う時雨に、きっと髪留めはチーコのものだと勝手に思っていたいずみは心底驚いて彼を見上げれば「おそろい…友達…だから」と言って、にこにこと嬉しそうに笑った。
いずみは、手を伸ばして髪留めを触り、それから「ありがとう…ございます…」とお礼を言う。
チーコがエマの後ろからひょこんと顔を出して「ぅぁぅぁあ!」と嬉しそうに自分の髪飾りを触った後、いずみのを指差した。
「そうね、色違いのお揃いね」
いずみは頷いてそう答え、「ああ、凄く似合ってる」と兎月原も蕩けるような声で褒めてくれる。

「では、参りますか」

そう言いながら扉の外を指し示す兎月原に頷き返し、皆はそれぞれ、自宅へと慌しい旅の準備をしに向かった。

両親には、友達の家に泊まりに行くとだけ告げてきた。 エマに渡された携帯の番号が渡された紙は、緊急の時にだけ書かれた番号に掛けて来て欲しい旨告げて、その代わり毎日一度は連絡を入れる事を約束する。
エマや武彦に、ちゃんと説明しろとは言われていたが、実際チーコの事や、今回の旅の事をどうやって分かって貰えばいいのか見当がつかなかったのだ。
鞄の中には、三日間分の下着や着替えを詰め込む。
咄嗟に、背格好も似通っていたししという事で、チーコの分のシャツ等も入れておいた。
きっと、彼女のそういった着替え等はまだ、用意できてないと思ったからだ。
買いに行くのもいいのだろうが、たった三日間しかない時間を、もっと有効に使いたい。
一時間と言うタイムリミットは中々厳しく、余り選ぶ暇もなく、とにかく動きやすい服を選び、洗面用具だけあとは叩き込むようにして鞄の中に納めると、慌てて家を飛び出した。

パタパタと鞄を肩に掛けて歩くいずみの目に、並んで歩く竜子と、百合子の姿が目に入った。
「あ…!」
そう声を上げると同時に振り返った竜子が「おう! いずみ」と笑いかけてくる。
何だか嬉しくなって駆け寄ろうとすれば、「んだよ、あんま急ぐと転ぶぞ?」と、竜子が心配そうに注意してきた。
竜子はスポーツバッグを肩に掛けていて、「準備なさって来たのですか?」と問えば、「うん! あと、どっかで、チーコのも買えればいんだけどなぁ…」と呟く。
という事は、一旦千年王宮に戻ったのだろうか?
何か、ベイブから新たな情報を手に入れてはいないのだろうか?と思えど、何も知らないであろう百合子の前で尋ねるのも憚られたので、「あ…シャツとかは、私、多目に持ってきたんでチーコの分もあると思います」と告げるだけに留めておいた。
百合子が「凄い!」と心から感嘆したような声でいい「いずみちゃんて、ほんっとに気が利くのね…」としみじみとした声で褒めてくれる。
「いえ…服の用意をしてる時に、チーコの分もあった方がいいかな?って気付いただけなので…」と言えば「私だったら、まず思いつけないもの! そこも、よく兎月原さんに言われるのよね」と答えて、「だから、今回はとっても心配!」と妙に力のこもった声で訴えてきた。
「心配?」
言葉の意味がわからずいずみが問い返せば、「だって、役立たずなんだもの、私」と口を尖らせた。

「なんで?」

突然背後から声がかかり、文字通り皆「うひゃあ!」と声を上げて飛び上がる。
慌てて後ろを振り返れば、「やほ!」と片手を挙げてエリィが「驚かせちゃった? ごめん、ごめん!」と軽く詫びてくる。
片手に大きな紙袋を提げ、肩に淡いピンク色のトートバッグをぶら下げていた。
ドキドキと暴れる心臓を手で抑えてなだめつつ、「心臓が止まるかと思ったよ!」とエリィに文句をいう竜子に思いっきり同意する。
「んん、だって、そんなに皆がびっくりするなんて、思わなかったんだもん」
そう言い訳しつつ、「それよりも、百合子さんだよ。 なんで自分が役立たずなんて思うの?」と話題を元に戻してくるエリィに百合子は困った顔を見せる。
「え…? いや…だって…」と口の中でもごもごと何かを呟いた後、「な、何にも特技…とかないし…」と小さな声で言ってきた。
「私、勘違いしてたの。 なんか、皆さん凄い人達だったのね。 もっと、事務しか出来ない私でも、お手伝いできる事があると思ってたのになぁ。 でも…、あの、そういう仕事は必要とされてないみたいだし、事務所にいてお話聞いてても、なんだか私、場違いみたいで…」
ぶつぶつとした声でそこまで言って、弱ったように肩を竦める。
「だから、まるで、ダメ元で受けた有名大学に、そんな実力もないのにまぐれで入ってしまったみたいな、居心地の悪さだったわ。 普通の顔をしてあそこに座ってた自分が信じられないの。 三人とも、きっと何か、凄い能力とか持ってるんでしょ?」
百合子の問い掛けに、竜子とエリィ、それにいずみは顔を見合わせる。
「凄い…能力…うーん?」
エリィは首を傾げながら自分の手をグーパーと開け閉めしてみる。
「…ないよ」
エリィは、ふっとあどけない顔に静かな微笑を浮かべて、そう答えた。
「なーんにも凄くないっ。 あたしは普通の女の子だよ」
そう頷きながら言うエリィは「あ、でも、ちょーっとだけ運動神経が良いかな? ちょーっとだけよ」と笑って言った。
「私も…そんなに凄くないです」
いずみも冷静に答える。
「そりゃ、普通の人よりは変わった能力を持っているかもしれないけれど…でも、子ども扱いですし、役立たずは、私だって変わらない」
事務所での自分を思い出し、そう自嘲すれば、「「「は?」」」と三人揃って口を開ける。
「いずみちゃんは凄いよ!」
「そうだよ、お前は凄いって」
「もう、逆に子供なのが凄いわよ」
三人に、一緒に声を合わせて言われ、思わず目を見開き、「ありがとう」といずみは礼を言う。
なんだか、余りに真剣に言われて怯んだのもあるし、少々ばかりくすぐったい喜びがあったのもある。
「それっこそ、じゃあ、あたいは何?って話さね」
竜子が、「ひひっ」と笑って言った。
「知らねぇやな。 役に立つか、立たないかなんて。 そんな事考えてたら、なぁんも出来なくなっちまうよ」
竜子が手を伸ばし、百合子の頬を引っ張った。
「それに、百合子の笑顔は可愛い。 チーコだって、百合子が笑ってくれりゃあ嬉しいよ。 そいで充分じゃないのさ。 だろ?」
竜子の言葉にふにゃとした柔らかな肌触りの笑みを百合子は浮かべ、「そうね。 うん、やっぱり、出来るだけの事をやるだけよね」と言いながら「うん、うん」と何度も頷く。
「そうよ、やれるだけをやりましょう」
いずみも自分に言い聞かせるようにして呟いて、それから、ふいと視線を横に向ける。

「あ、あそこです」

そう指差したのは、真っ白な壁に、ピンクの三角屋根、ピンクの両開きの木の扉も可愛い小さなお店だった。
「あそこが、メリィ。 最近出来たんです。 キャンディショップ。 エマさんが下さったハートのキャンディはあすこで売ってたんですよ」
そう教えれば、「ふええ」とエリィは目を輝かせ「いーなぁ…」と言って、指を唇に持っていく。
「あれ、美味しそうと思ってたんだけど…三個しかなかったし…」
そうエリィが言えば、百合子も頷いて、「パッケージも可愛かったし…」と呟いて、それから同時に竜子を見上げた。
竜子は自分の腕に巻かれた、キャラクターの描かれてる、何だか可愛らしい腕時計を見て「はい! 集合場所までの時間を考えると余裕はあと五分だぞー!」と言い、「と、いう訳で各自、迅速に選ぶように!」と宣言し「突入!」とピッとメリィを指差す。
その瞬間、「おー!」と声をあげ、店に走り出す、エリィと百合子。
「ほら! いずみも! チーコの分も買ってってやろうぜ?」
そう背中を叩かれて、竜子に手を捕まれ引っ張られて走り出す。
一歩踏み出す事に「そうか、今から私旅に出るんだ」といずみは自覚した。
「そうか、楽しい旅に出るんだ」
そう思うと、思わず顔が緩んで「竜子さん痛いです!」と言いながら、そのうち自分の足で駆け出したいずみは竜子と並んで店に飛び込んだ。

その中は、女の子の夢をしこったま詰め込んだような作りになっていた。

「「「いらっしゃあいま〜〜しぃ〜〜!」」」

ふにゃふにゃとした音程で、店の人間と思わしき三人の若い女性が挨拶してくる。

店員の制服も、物凄く可愛い作りになっていて、太ももまでの短い裾が広がったフレアのピンクのスカートは、裾から白いレースが何段にもなって覗いていた。
上もレースがたっぷりあしらわれたドレスシャツを着ていて、大きな襟と、胸元をピンクと白のチェックの大きなリボンが愛らしい。
ガーターでつった白いストッキング地のハイソックスにはピンクのハートの模様が入っている。
三人ともみんなピンクのリボンで髪を結んだり、飾ったり。
まるで、フィギアのような非現実的な格好をして、ひらひらと裾を閃かせながら店員達が動き回っている。
店の中は、小学生や、中学生くらいの女の子達でごった返し、百合子とエリィはそんな面々に違和感なく馴染みながら、思い思いのお菓子を選んでいた。
大きなゆっくり回るメリーゴーランドを模したようなケースに所狭しと並べられた色とりどりのお菓子たち。
「はい、あと三分」
そんな竜子の言葉に慌てて、透明のハートのケースを二つ抱えて目に付くものを中に放り込む。
「五百円までだぞー?」
耳元で囁かれて、慌てて竜子を見上げれば「あたいの小学校の修学旅行の時の、お菓子の設定金額だ。 お姉様が奢ってやるよ。 だから、チーコの分も頼むな? あと、寝る前に喰うは禁止だぞー。 虫歯になっからな」と竜子が笑う。
「他の二人も、一緒の約束だかんな? 守ってくれりゃあ、あたいが買ってあげるよ」
そう竜子が言えば、二人は顔を見合わせてブンブンと首を振り「だったら、私が一番年上なので、私が払うわ」と百合子が宣言する。
「嘘だ。 百合子みてぇな、ちんまいの、あたいより年上のわけないだろ?」
そう竜子が言えば「三十路前よ?」と百合子が物凄く冷静な声で言った。
思わず硬直する三人。
「え…うそ?」
そう言いながらエリィが指差せば「ぷくっ」と頬を膨らませ、「大人なの!! もう、29なの! 女性人の中ではきっと最年長なの! はい、だから、甘えて下さい!」と言いながら、三人のハートのケースを回収していく。
「あ、こ、これも!」
思わず、最後に詰め込んだのは、やっぱりあの、ハートの棒付きキャンディで、にこっと笑って百合子は頷くと、さっきのお返しとばかりに竜子のほっぺを摘み、百合子はレジにケースを並べた。

「あ、さっき、竜子さんが言ったお約束。 夜のお菓子は禁止!は私も賛成だから、守ってね?」と首を傾げられ、三人揃って大人しく頷く。
そのままほよほよとした口調で「なんか、『してやられた!』って感じだぜ」と竜子が言えば、百合子がハートのケースをそれぞれに渡し、自分は、ピンクと赤のハートが沢山散った、灰色の英字新聞柄の大きな紙袋を抱えてくる。
「あ、反則だ」
そうエリィが指差し、「いけないんだぁ! 500円越えてるでしょ?」と百合子を覗き込めば、百合子はほよんと笑って「大人だから良いの」と言い、そのままスタスタと店の外へ歩き出した。
「キャラメルハニー味のポップコーンと、ピンクシュガーのハート型ラスク。 それに、ミントとシナモンのキャンディ。 ほんとに可愛くて目移りしちゃったわ。 五分間でお買い物なんて、絶対無理よ!皆さんにもお分けしようと思って買い込んだけど、男の人は苦手かしら?」
百合子が首を傾げれば「他の奴は知らねぇが、黒須は、そこそこイけんぜ?」と竜子が言う。
「ほんと? 良かった! じゃあ、お裾分けしようっと」
そうピョンと兎みたいに一度飛んでから言う仕草は、やはり少女にしか見えず、エリィと顔を見合わせて「ほんとに大人?」って首を傾げあった。

集合場所には、やっぱりちょっとだけ遅刻した。

「おせぇ!」
嵐に怒鳴られ、いずみ達は身を竦める。
彼は、バイクの性能の良さで知られている会社の看板を背負っている大型バイクを傍らに置いていた。
威圧感を感じる程の「デカイ」ボディは、デザイン性の高さにも定評があり、男が思う「カッコいいバイク」そのものの姿をしていたが、まぁ、そういうバイクの格好良さがいずみに通用するはずがない。
(こんな大きなもの、よく乗り回せるわね)
その程度の感想しか抱かないいずみであったが、竜子が目を輝かせ「かっけぇぇ!」と叫んだのには驚いた。
「やっぱ、CBシリーズは、長く続いてるだけあって、風格っつうの? 正統派の格好良さがあるよなぁ…! シビれるわ〜!」
竜子の言葉に嵐は嬉しげに笑って「何? お前、バイク好きなの?」と問い掛ける。
すると竜子はブンブンと頷いて、「これってさぁ、フルパワー化とか厄介だったか?」と問えば、「いや? 俺も自分でやったし、比較的簡単なほうだと思うぜ?」等と意味の分からない事を言い合う。
「一応、背後の警戒の為、俺はこれで追っかけるから」と言った後の、「後ろに乗りたいって奴いたら、乗っけてやるよ」いう嵐の台詞に、正直ちょっとぐらついた。

いや、バイクは怖い。
あの後ろに乗って、喜べる程の興味もない。

だが、嵐は、端正な顔立ちをしているし、仕草や言動が男っぽい所も魅力的だ。
バイクに跨る姿も、そりゃあ、そりゃあ様になるのだろうと想像できる。
そんな男の背中にしがみついて、ハイウェイを走り抜けていく…というのは、まぁ、それは、それで乙女の夢だ。
リリカル☆ドリームだ。

(これが…白馬…だったら、きっと迷わず乗りたいって言えたんだけど…)
そう肩を落とすいずみだが、冷静になってみれば、ハイウェイを白馬に乗って駆け抜けていく嵐は奇異だ。
咄嗟に脳内に思い浮かべて、白馬というイメージ故か、何故か白い歯を見せながら笑い、片手を挙げて走り去る嵐の図を想像し、目の前の無愛想な表情とのギャップにげんなりする。
大体、そんな嵐に、どんだけ男前だろうが近寄りたくないったら、近寄りたくない。

だが、竜子にとってはいずみにとっての魅力的とは全く別の意味で、嬉しい申し出だったのだろう。
「乗りたい!!」
そう元気よく手を挙げる竜子に「いいぜ? 乗れ、乗れ! エンジン音がさぁ、また、すうげぇ痺れるんだって!」と、嵐も自慢げに言っており、趣味の世界って、初対面間もない人間同士の息をこんなに合わせる事が出来るのかと、いずみは別視点から感心の念を抱いた。

「あぅ! いぅゅぅみぃ! えいぃ! ゆぃこぅ! るー!」

チーコの声が聞こえる。

振り返れば手を振るチーコが見え、いずみはまず、チーコに手を振り返し、それからハタと、彼女が乗っている乗り物の姿を見回した。

「これ…ですか?」

いずみが問えば「おう」と嵐が答える。
「俺も最初見て、驚いたっつうの」
そうしみじみ言う嵐の声を掻き消すように「か…かわいい!」とエリィが悲鳴のような声をあげ、見てのお楽しみと言われたわけがいずみは漸く分った。
「羊…バス?」
白い車体には羊の顔がペイントされ、横原の部分に「××幼稚園」としっかり幼稚園名が入っている。
エマがバスから降りつつ、にっこりと笑った。
「そう! 可愛いでしょ? 武彦さんが昔請け負った依頼でね、解決したのはいいけど、依頼者が報酬払えなくって、それで、代わりにってこれを置いて逃げちゃったのよ。 幼稚園の園長さんだったんだけど、経営が立ち行かなくて、潰れちゃったのね。 まぁ、正直、どうしたもんかなぁ?って思ってたんだけど、こんな場面で役に立つとは思わなかったわ」
そう言うエマに、ガクッと肩を落とした百合子が「ろ、ロマンが…ロードムービーのロマンが…」と虚ろに意味の分からない事を訴えてる。
「ろーどむーびぃ?」
「ろまん?」
エマと、エリィが同じ方向に首を傾げればぐっと握りこぶしで、百合子は必死に訴え始めた。
「だって、見ず知らずの若者同士が、一つの目的のために集い、車に乗って旅をするんですよ?! これぞ、ロードムービーの王道じゃないですか! な の に 幼稚園バス! しかも、羊! こんなんじゃ、こんなんじゃ…途中立ち寄った古ぼけたガソリンスタンドで、奇妙な風体の中年男を拾ったら、それが悪魔の殺人鬼一家の長兄で、そのまま、殺人鬼一家の家にお邪魔する事になって、凄惨な血の惨劇に巻き込まれることが出来ないわ!」
「やめて、いやに具体的! なんで、こっからホラー展開?」
そうエマが否定すれば、いずみも「そんな、悪魔のイケニエ的なものになる気はありませんっ!」と、カルトホラーの金字塔な映画を思い出して身震いする。
羊バスをペタペタ触って喜んでいたエリィも首を振って「普通がいいの! チェーンソーとか持って追い掛け回されたくないの! 普通の旅行がいいの!」と訴えており、「むぅ」と不満げな百合子が肩に掛けていた荷物を、嵐がひょいと取り上げていった。
「バス、運び込むぞ? そっちのデカイ荷物も貸しな」
そう言いながら手を出す嵐に「あ、そんな! すいません! あ、でも、これ、重くないし大丈夫です」とメリィの紙袋を抱えなおし、慌てて手を振る百合子に頷いた後、今度はいずみに手を差し出す。
「おら、貸しな?」
そう言いながらいずみから荷物を有無を言わせず手に取り、車内に運び込んでくれた嵐が、「じゃ、百合子さんの思う、正しいロードムービーの車って何?」と興味深げに尋ねた。
百合子はその問い掛けに、コクン、コクンと頷いて、「そりゃ、ロードムービーっていったら、古ぼけたワゴンか、四輪のごついオープンカーとか…それか、トラックとか…ですよ。 そういうのが、アメリカの西側の乾いた大地をぶっ飛ばすんですよ。 なのに、えー、よ、幼稚園バスって…」そう、項垂れる百合子に「だって、10人以上を一気に運ぶには、バスが一番なんですもの」と答えつつ、エマが「はい、乗って、乗って!」と促してくる。
チラリと視線を向ければ、嵐は自分のバイクに跨り、竜子にメットを渡していて、竜子は本気だったのだと、ちょっとびっくりした。

バスに乗り込みながら、「あの、大型の免許って…どなたが…」といずみは言いかけたところで、運転席には黒須が座っているのを見て、「ひっ」と音が出るほど息を呑んだ。
「ひっさしぶりだから、なんか、感覚掴むのに時間掛かりそうだな」なんて怖い事を言っているのを聞き、いずみの目が忙しなく瞬きを繰り返す。
「え?」
エリィが黒須を指差せば「一応、元都バスの運転手」とさらりと黒須が答えた。
「え、えええええ?!」
いずみが叫べば「ほら、同じ反応」とエマが言い、翼も「やっぱりな。 思ったとおりだ」と座席に座ったまま嬉しげな声をあげた。
「なんで、そんなに意外ぞ?」
そう呻くように言う黒須をまじまじまじと眺め、一歩下がって眺めた後、再び今度は近寄って凝視して、それからいずみはある考えに至り、百合子を手招きする。
「あの、悪魔的なイケニエ展開は望めませんが、とりあえず、『妖怪蛇バス』です」
そう黒須を掌で指し示しながら言ってみれば、まず、百合子に「そんなのロードムービーじゃない! テキサスに、そんな妖怪いると思えない!」と喚かれ、「NO妖怪! 俺、超人間! ていうか、人生のうちで、『俺、超人間!』なんていう、台詞を言う機会に遭遇する自分が情けないわ!」と否定され、最後に時雨が「あ…、ああ…あ…、く…、黒須…さん…、あの…、な、生卵…あとで、あげる……から、食べな…いで…下さい…」と両手を握り合わせて真剣な顔をして懇願してくるのを、「うがぁ! なんで、興信所に集まる連中は! 俺の話が通じないんだー!」と喚き散らす。
その姿を見て、「ああ…相変わらずだなぁ…」と懐かしさ交じりの安堵を感じると、いずみは、バスの中央部分にチーコを抱えて座っていたエマの隣に腰掛けた。


全員が無事揃い、バスは平和に出発を果たせた。



流れるように後ろに過ぎ去っていく景色にチーコが歓声を上げていた。
チーコを膝に乗せたエマがその頭を撫でながら鼻歌を歌っている。 ハスキーな声が優しく、穏やかな旋律を奏でるのが心地よくて、隣に座っているいずみが見上げれば、エマは少女のように微笑んで「楽しいね」と言ってきた。
青い空がどこまでも続いていて、初夏の日の光が優しく窓から差し込んでくる。
「ぁううぃぅぅ?」
「ああ…あれは、つつじ。 綺麗でしょ? もっとたくさん咲いてるとこにも連れてってあげるからね?」
「ひぅうあぃぃぃー!」
「ああ、はいはい、じゃあ、なんの歌が良いかしら?」
明らかにスムースに会話を交わしているエマに驚けば、いずみの真向かいの席に座っている千剣破も同じように感じたのか「チーコちゃんの言葉、もしかして分るんですか?」と、問い掛ける。
「んふふ、自慢じゃないけど、このエマさんは言葉に関しちゃエキスパートよ?」
そう言いながら胸を張り、それから傍らにある鞄から大学ノートを一冊引っ張り出した。
ペラペラと開いて見せてくれると、そこにはびっしりとメモ書きがしてあって、急いで書いたのであろう走り書きの状態であるというのに、それがとても読みやすい字である事にまず驚いた。

「チーコちゃんが住んでた島の位置をね、黒須さんに聞いてきてもらったの。 チーコちゃんが喋ってる言語が何処から伝わってきたものなのか知りたくてね? というのも、彼女の舌っていうのは、私達とちょっと作りが違って、長さがとても短いの。 喉の構造も違うようで、そもそも人間とは発声方法が違うと考えた方が良いみたい」
エマの言葉に聞き入れば、エマはノートをチーコの頭の上でペラペラ捲りながら喋り続ける。
「だから、彼女の言葉の音は、母音と、ハ行の音、それに時折カ行が入り混じる位で、とても限られてるわ。 これが歌となると、また発声手段が変わってくるみたいなんだけど、そこまでの仕組みはちょっと分からない。 何にしろ、チーコちゃんの種族は会話における音が限られるから、当然語彙も限られてくるのよ」
「つまり、コミニケーション手段が『言語』である事が向かない種族という訳ですね」
通路を挟んで隣に座る翼の言葉に、「その通り」とエマが頷けば「確かに、それなら別のコミニケーション手段が発達して然るべきなのかも知れない」といずみも呟く。
「チーコの様子を鑑みるに、チーコはとても知的レベルが高いと思うんです。 幼い所が目立ちますが、私のクラスメイトにもチーコのような無邪気な振る舞いが目立つ子も大勢おりますし、現に彼女は人間社会に連れてこられて一年程の時間の間に、こちらの仕草を真似できるほど理解し、言葉も殆ど耳で聞く限りはその意味を分かっているように見受けられます」
そう推察を述べれば、チーコは自分の話だからか、眼を大きく見開きながら、エマといずみに交互に視線を走らせた。
「まぁ、…いずみちゃんから見れば、大概の子は幼く見えるだろうけど…でも、確かにチーコは賢いよ。 その、エマさんの言うように、発声に関しては種族や、器官の構造の違いから、僕達と同じような発声が出来ないから、チーコはチーコの種族の言葉で喋っているんだろうけど、もし発声器官が同じなら、きっと僕らの言葉をマスターしていたような気がする」
翼が唸るような声でそう言った。


「耳が、いいのだろうな…」

目を閉じ、眠っているかのように静かに座席に身を預けていた冥月がぼそりと呟く。
「歌を得意とするものは、大抵聴力に優れ、耳で聴くものへの理解力が高い。 チーコは、一年間人間社会で過ごし、耳にする言葉の、音程や、高低、台詞の強弱等から、瞬時にこちらの言っている事の大まかな意図を察し、反応をしているのだろう」
冥月の言葉に、通路を挟んで隣の席に座っていた翼が感嘆したような声で「賢いな、チーコちゃん」と言えば、チーコが誇らしげな声で「ひぅぁう!」と声をあげる。
そんなチーコの頭を愛しげな手つきで撫で、「よいしょ」と掛け声かけつつ抱え直すと、「そうね、だからね、これだけ知的レベルが高く、喉の構造から見て『言語による会話コミニケーション』に向かない種族が、それでも何故『会話』によって、コミニケーションを交わしていたか…そこに私は着目したの」とエマはよく通る、ハスキーで耳障りの良い声で言った。
「ああ…確かに、それほど知的レベルが高ければ、自分達独自のコミニケーション方法を発達させていたとしてもおかしくないな」
エマの声にスキッと晴れ渡った意識が、途端にぐずぐずに溶かされてしまうような甘い声。
兎月原が大人の色気に満ちた端正な顔をこちらに向けて、鼓膜を直接舐るような、官能的な声で「それで、エマさんは、何故、チーコの種族が、それでも『会話』によるコミニケーションを発達させたんだと考えてるんです?」と問い掛ける。
茶色の髪に日の光が透けていて、これぞ「女にモテる男の見本」のような、美形ぶりにいずみは、「大人の男の人って…いいなぁ…」と一瞬惑わされかけた。
エマも、同じように蕩けた顔で兎月原に見惚れていたようだったが「ハッ」と気を取り直し、「あ…いやいや、あのね、つまり、言葉が『伝来』したんじゃないかな?と思ったのよ。 人間からね」と答える。
「…ああ! そうか。 それなら、納得です」
大きく頷くいずみ。
「チーコの住んでいる島に、難破した船の乗組員等が流れ着いた可能性はゼロとはいえない。 どういう海流が、島の周囲を囲んでいるのかは見当がつきませんが、人間という会話によるコミニケーションを主にしている種族が、チーコ達の祖先が住む島に流れ着き、『言葉』を伝え、それが、チーコの代にまで伝わったと考えるのが自然ですね」
「そう、その通り。 言葉が伝わったのがどの位の時期なのかは見当がつかないけど、推測だと、かなり昔の事だと思うの。 ほら、今の時代だったら、言葉を教えたりとか、そういう事の前に、世紀の大発見としてチーコちゃんの種族を世間に公表したりとか…」とそこまで言って、エマの表情が徐々に曇り、それから口を一度噤む。
一瞬重たい沈黙が落ちた。

つまり、今の時代に人間に発見されてしまったから、チーコ達の種族の、悲惨な現状があるのだ。
昔ならば、難破し、無人島に辿り着けば、そのまま通信手段もなく、救助も求められず、その島で生を終えるしかなかったのだろう。
きっと、昔、チーコの島に辿り着いた人間は、彼女たちの種族と仲良く暮したに違いない。
人を疑わず、すぐに誰にでも懐き、笑顔を向けるチーコを見ていていずみは確信する。

「…そうすると、チーコちゃんの言葉にはルーツがあるという事ですよね? 地球上にある、何処かの国の言語が、彼女たちの言葉の成り立ちとなっているって事ですか?」

百合子が、空気を変えようとしてというよりも、全く場の空気読まないままに、素直に口を開いたといったような声音でそう自分の意見を述べる。
だが、彼女のほのほのとした声に、明らかにエマはほっとしたような表情を見せ、「そう! その通り! 私、こう見えても言語オタクでね? 黒須さんに、彼女の島の場所をベイブさんに聞いてきて貰ったのよ」と話の続きを始めた。
「で、先程まで述べていたような考察からチーコちゃんの祖先が人間とファーストコンタクトした時期を割り出してみると、航海技術が長期航海に耐えられるほど発達し、それでいて情報技術や、通信手段が今ほど栄えてない時代…。 そう考えてみると…大体15世紀中ごろから、17世紀中頃じゃないかな? と私は考えたわけ」と滔々と説明を続けるエマに、「大航海時代!」といずみが手を打った。
「だ…い…こうか…い?」
時雨がきょとんと首を傾げる。
「なんか…凄く…辛い…時代だった…とか?」
そう無邪気に問う時雨を見て、百合子が「ああ、それは、『大後悔でしょ』と突っ込んであげたいのだけども、突っ込んだら大火傷!って感じだから、何も言いたくないっていう、私の気持ち分って貰えます?!」と兎月原に訴えている。
「え…百合…子…火傷? あ…、大丈夫…? 大丈夫…?」
眉を下げ、心配そうに自分に手を伸ばしてくる時雨に、「いや、もう、あの、え、ええ、ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」と、最終的に謝っている百合子を見て、何だか気の毒な気持ちに陥りつつも、時雨の為にも説明する。

「大航海時代って言うのは、スペイン、ポルトガル等のヨーロッパ人が領土拡大や、当時は金と同じ重さの金と等価で取引されていた香辛料を求め、インドとの直接貿易の為に、アジア大陸、インド大陸、アメリカ大陸へと航海による海外進出を盛んに行っていた時代です」
いずみの説明に「…あ…うん」ととりあえず頷いた時雨は、眼をパチパチさせながらマジマジと顔を凝視してくる。
翼が「本当に、君が小学生だっていうのが、信じられないよ。 見た目はそんなに可愛いのにね」と微笑みながら褒めてくれて、賢いと言う言葉よりも、やっぱり可愛いという言葉の方が嬉しい自分がちょっと気恥ずかしかった。
「ああ、では、チーコの言語の元は…」
そう顎先に指を当てて、兎月原が「ヨーロッパ圏の言語」と言えば「そう、彼女の言葉のルーツは、ポルトガル語よ」とエマはにっこり笑ってノートを閉じた。
「言葉の元さえ分れば、言葉の響きや、選択されている音の強弱からも、チーコの言葉の意味が推察できる。 幸い、ポルトガル語なら習得済だし、彼女の言葉をこうやって書き留めて、翻訳しつつ、ちょと理解してこうとしてるの。 簡単な通訳くらいだったら出来ると思うわ」
そうエマが言うのを、出会ってから数時間でも、よくぞまぁ…と感嘆すれば、皆のその無言の驚きを理解したのか、「いや、まぁ、だから、えーと、言葉が好きなの。 趣味なの。 だからよ」とヒラヒラと手を振りながら、凄まじい事を何でもない事のように言って纏めた。

「エマさんって…ほんっと…尋常じゃないよね」
千剣破に心底の声で言われ、エマも心底の声で「いや、でも、私、ほら、みんなみたいに、『破壊光線!』とか『テレポーテーション!』とか出来ないから…」と否定すれば「いや、幾らこのメンバーでも多分、誰も『破壊光線!』とか撃てないから。 『テレポーテーション』とかしないから」と、速攻否定し返された。
いずみにしてみれば、『破壊光線』に近いことをやってのけられるメンバーが入り混じっているのを知っている為に、まぁ、何だかんだで「尋常」な人間の方が少ないよね、この車内と思い、改めて見回して「あ、いや、いないや」と重ねて納得する。
ただ、自分自身の事は、当然省いて考えている訳で、他の面子からも「尋常じゃない」と自分が認識されている事など当然知らぬ気に、「まぁ、自分の事は自分では分からないものだしね」なんて、まさしく己に当てはまるような事を、腕を組んで他人事のように考えていた。

「う、うう、なんか、凄い…だって、興信所の事務員さん…なんですよね?」

百合子が両手を組み合わせながら問う。
「ん? そうよ? もう、雑用ばっか! ていうか、ボランティアだし! 給料殆ど払ってくれないし!」
そう訴えるエマを、またパチパチと瞬きして眺め百合子は、「そんな…エマさんがボランティアだったら、私お金払って勤めさせて貰わないといけない」と呟いて、「あ、それはいいな」と兎月原が笑った。
「ま、エマさんは、ほら、ね?」
にやっと、笑う千剣破に、「何よう」とエマが言えば「ボランティアっていうかぁ…武彦さんをお手伝いしたいだけだもんね?」と首を傾げられ、ピッと片眉を上げて「からかわないのっ」と怒られている。
「う、うう、どうしよう、どうしよう」
おどおどと見回す百合子の様子に「どしたの?」と、黒須のすぐ近くに座って道をナビ係をしていたエリィが振り返り、百合子は「えーと…」と言いつつ、自分の網棚の上にあげらている鞄をごそごそ探り出す。
「…事務員らしく…こんなものを作ってきたのですが……」
そう言いながら取り出したるは、十数ページ程の小冊子の束。
「あの…しおりです」
そう言いながら渡された冊子には、可愛い兎のイラストやら、今回参加するメンバーのミニイラストが描かれた表紙が付けられていて、「かわいい…」といずみが思わず呟けば、千剣破も、「きゃぁ!」と嬉しげな声をあげて、ページを捲りだす。
「ね、ね? この子があたしだよね?」
黒髪の女の子がニコと笑っているのを指差せば、百合子が恥ずかしげに頷いた。
「うあ、上手! ほら、時雨さんなんかもそっくり!」
指差す千剣破の指先を眺め「うわ…ボ…クだ!」と時雨も楽しげな声を上げる。

「旅行と言えば…しおりです!」
妙な力強さを持って断言する百合子から冊子を受け取った面々は、思い思いの表情で冊子を捲り始める。
「頂戴、頂戴!」
そう手を伸ばすエリィに、廊下側に座っている冥月が手渡せば、「ほんと、凄い可愛いー!」と言いつつ、運転席に座り黒須に冊子を手渡していた。
にこぉと笑って、自分の似顔絵の部分を指先で撫で「ゆぃこぉ! はぅぃぅ!」と百合子に満面の笑みを見せる。
「注意事項とか…あと、スケジュールなんか書いてみました! 緊急の連絡先として、エマさんの携帯No書かせて貰ったんだけど…」
「オッケー! はぐれたり、迷子になったら、連絡頂戴ね?」
そう声を掛けるエマに、苦笑を浮かべる者もいれば、大真面目に頷くものもあり、「しおり」の登場に俄然盛り上がる旅行ムードに、いずみもワクワクと胸を躍らせる。
ぺらぺらと読み込んでいけば、旅行の予定表なんかもあって、これからどんな場所に行けるのか、一つ一つ確認しては胸を高鳴らせた。
「わ、でも、これ、ほんとに便利。 メモ用紙にも出来るようになってるし…、凄い…あはは、嬉しい! これから行く場所の、見所とかも書いてある。 よく一時間で作れたわねぇ…」
感心したように言うエマは「凄いわよ、百合子さん」と心からの声で言い、いずみも、あれだけ、自分に何が出来るのか悩んでいたのに、これだけの事を懸命にやってきていた彼女に感心する。
百合子は嬉しげに「よかった、喜んでもらえて」と胸を撫で下ろし、にこっと幸せそうに笑った。



夕時。

高速のパーキングエリアで、夕食がてら休憩を挟む。
チーコの外見の特徴を考慮し、バスの中で夕食をとる事にして、いずみと千剣破、それに時雨が買出し班を請け負った。
他にも、慌てて出発したせいで、色々揃ってない物なども一緒に買う為にバスを降りる。
バイクで後ろから追ってきていた嵐は、バスのすぐ傍に愛車を停車させていた。
彼の後ろに酔狂にも乗せてもらっていた竜子が、ヘルメットを脱いでいる。
「うひー、気持ち良かったぞー!」
竜子がばさばさと犬のように金色の髪を振りながら、嵐と並んで歩いてきた。
「やっぱ、いいな、バイクって!」
そう言う竜子に「当然」と嵐が済ました顔で告げて、それから「うし、じゃあ、次、いずみ行ってみるか?」と聞いてきた。
「結構です」そう冷静に返答し、「バスで皆さんお待ちですよ?」と声を掛ける。
「今から、買い出し?」
嵐が首を傾げ、休憩エリアにならぶ店舗を指差す。
「そう。 ペットボトルとか、タオルとか…役に立ちそうなものをね、買い出しに行こうと思って…」と千剣破が言えば、「荷物になりそうだし、男手もうちょっとあった方がいいだろ」と言いつつ、「俺も行くわ」と嵐は言った。
「竜子は体冷えたろ? 先バス戻ってな」
そう言う嵐に「あんがと。 大丈夫だけど、ちっと誠達とも相談したい事があっから、戻るわ」と言いつつ手を振る。



四人でサービスエリアの店舗にて、手分けして色々買い込んだ。
「明日まで夜通し走るんだよな。 だったら、夜食っぽいのも、買っとくか?」
「あ、水! これ、大きなの多目に買おう!」
「えーと…、こういう、歯ブラシセット…チーコに良いんじゃないですか?」
「…ね…ね…、良い匂い…!五平餅…五平餅…!」
実は、エリィが夕食にと弁当を詰めてきてくれており、一緒に食べられるようなものと、日持ちがしそうなものをチョイスする。
たちまち、嵐と時雨が持ってくれていた籠は一杯になり、「手伝おっか?」と千剣破が言えば、「おお、ありがとう。 でも、大丈夫だから」と嵐は答えた。
時雨も両手一杯に荷物を抱えて平気な顔で先を行く。
彼がご機嫌なのは、店先でじいいいっと眺めていた五平餅をきちんと人数分購入したからで、「餅…餅…お味噌の…餅♪」と唄いながら「早く…バスで…ご飯にしよう♪」と、身軽にクルンとこちらを振り返り、それからパタパタと走り出した。
身長がえらく高い、大変見た目に恵まれた体型をしているのに、仕草がいちいち可愛くて、「ああいう犬…見たことあります」といずみが呟けば、「うん、あたしも近所の犬に似てるな〜って思ってた」と千剣破も和んだ声で言う。
「あー、確かに昔アパートの大家さんが飼ってたペスに似てるわ。 すっげぇ、人懐っこいの」と嵐も同調し、ほわほわと背後から見守られている事に気付かぬまま、時雨は何もない場所で、何故か「あ」と声を上げて、ステンと転ぶ。
漫画になるような転び方を見せた後、「あう…、あう…あ、めろんぱん…あ、あんぱん…あ、お水も…」と散乱した荷物を焦って拾い集める時雨に思わず慌てて走り寄り「大丈夫ですか?」と問うた後、いずみが「めっ」と睨みつけ「前を見て歩いてください」と注意した。
まさに「犬の躾」ボイスで言ういずみの台詞にしゅんと項垂れて「はい…気をつけます…」と良い子なお返事をする時雨。

年齢差15歳。
慎重差に至っては、頭何個分?という位、多大な差があるいずみが、時雨を叱る様はどうにも、千剣破と嵐の笑いのツボを刺激したらしく「ぶはっ」「くすっ」と噴き出しつつ、そんなやり取りを微笑ましげに見守って、荷物をきちんと袋に収めなおすと、「さ、みんなが待ってるから、行こ?」と千剣破がバスを指差した。



バス車内。

「じゃ、じゃーん!」
エリィがそう言いながら、行きがけに提げてた大きな紙袋から幾つかのタッパーを取り出した。
「時間ないからさぁ、冷蔵庫の中のもの詰めて、あと、短時間で作れるものだけ作ってきたんだけど…」と言いつつ、バスの中央座席にエマが持ってきたという、小さな折り畳み机の上に広げる。
女性一人の身でよく持って来れたものだと感心し、そう言えば、夏、お世話になった健司の家にも大きなスイカを一人で運んできたんだっけ?と意外なエマの腕力にいずみは瞠目した。
チェックの可愛いランチョンマットを敷いた上に並べられた料理の数々は、とても短時間で揃えたとは思えない彩の良さと、明らかに凝った料理の数々で、「えへへ、そこのポテトサラダとかは、結構自信作」と言いつつ、薦められるままに箸を伸ばせば、ほくほくとして、しっとりとした舌触りに、ふにゅと崩れた笑顔になる。
「山菜おこわのおにぎりもあるからねー」と、エリィが言って差し出すのを受け取って、「へぇ、旨いもんだな」と黒須が褒めれば、「えへへへ」と嬉しそうに笑って、それから、「こうやって大人数で食べるのって楽しいね」と、気持ちの篭った声で言った。
チーコが、片方の手におにぎり、片方の手にから揚げをさしたフォークを握り締めながら、「はぐはぐ」と懸命に口を動かす姿を見て、「はい、喉に詰まらせないようにね?」とエマが注意している。
魔法瓶に入れてきたという、お味噌汁を啜りつつ、ああ、確かに、ご飯は誰かと食べる方が美味しいと強く感じた。
一人で食べるご飯よりも、たくさんの人と一緒に食べたほうが美味しい。
空豆と明日葉の掻き揚げを食みつつ、「時間がたってもサクサクしてるのね。 また、コツ教えてよ」とエマがエリィに強請り、時雨がチーコに負けない位口いっぱいに食べ物を詰め込み、片手に握り締めた五平餅にもパクついている。
千剣破は、ひたすら「美味しい、美味しい!」と嬉しそうに、百合子と言い合いながら箸を進めていて、「このロールキャベツとか、もう、お店出せるよ」と感激していた。
翼は、流石と言うべきかエリィを「あなたみたいな方の恋人になる男性は世界一の幸せ者だ」と絶品の微笑みで褒めており、そうなると当然のように兎月原が澄ました顔で、「ああ、願わくば、俺もその、世界一幸せになれる男候補に名乗り挙げたいものだ」なんて甘い声で告げている。
会うたびに思う事ながら、何故女性に生まれてしまったのだろう?と思う程の、ハンサムっぷりを発揮する翼と、甘いマスクに似合った甘い声で賞賛する兎月原の前に、頬を染め、へにょへにょと身をくねらせながら、「ううう、やばい、照れすぎちゃう!」とエリィは喚いていた。
竜子と嵐も、バイクでの走行と言うのは体力を使うのか旺盛な食欲を見せ、ブロッコリーの塩茹でに、レモンの手作りドレッシングをかけたものを皿に山盛りに取りながら、「うめぇ…! 野菜って正直そんな好きじゃなかったんだけど、こうやって喰うとうめぇんだな」と感嘆の声を上げていた。

竹の子のオーブン焼きや、菜の花とあさりを卵でとじたもの等春野菜をふんだんに使った料理の数々に舌鼓を打ち、サービスエリア名物のチープながらも、暖かで癖になるようなテイクアウトの品々も綺麗に平らげ、これまた最後に暖かな緑茶を啜って、大層賑やかな夕食を終える。

「んじゃ、嵐君、交代」

そう言いながら立ち上がったのはエマで「バイク疲れたでしょ? 鍵、貸して」と言いながら有無を言わさず差し出す手に、嵐は目を見開いたまま鍵を渡し、それから「はえ?!」と声を上げた。
「私、大型二輪の免許持ってるから、交代要員に数えてくれて良いわよ? お昼からずっと走り詰めでしょう。 休憩なさいな。 あ、運転技術は、結構折り紙付きだから大丈夫」と言うエマに、嵐は「いや、そこら辺は疑っちゃいないが…外結構風冷たくなってくる時間帯だし、女が体冷やしたらまずいだろ」と眉を寄せて言う。
エマは首を傾げ、ひらりと軽やかな大人の笑みを見せると、「あら。 優しいのね。 ありがと。 でも、ちゃんと、防寒用にダウンジャケットと革パン持ってきてるし、季節的にもそんなに冷え込まないから、心配しないで」と言い、肩にボストンバッグを提げて颯爽とバスを降りていく。
そんな格好の良い背中を皆で見送って、「あの人…なんでも出来るんだな」と呻く嵐に、「意外な特技発見よね」とエリィも頷いて、「要するに、暇人って事だろ?」と黒須が口を歪めて憎憎しげに言えば、竜子がその後頭部を思いっきり叩いた。
「姐御の悪口言うな! 命が惜しくないのか!」
竜子の物の言いに、「いや、その筋の人じゃあるまいに…」と思えども、うっかり時雨が「やっぱり…、どこかの…組の人だったんだ」と大きく頷いていたりして、確かに肝の据わり方は尋常じゃないけど…といずみは頭痛すら感じ始める。
百合子と、兎月原も「只者ではないと思っていたが…」「やっぱり、その筋の関係者だったのね。 なんで、じゃあ、興信所の事務員を?」と話し合い始めており、心の中で「エマさん、ごめんなさい」と呟いて、いずみは面倒臭さに負けて、この誤解を解く努力を放棄した。




二日目。

昨日は、夕食後、チーコとわきゃわきゃと喋ったり、夜通しバスで過ごすという体験に興奮して眠れないかと思ったが、疲れていたのかいつの間にか眠りこけていたいずみ。
バスタオルをタオルケットの代わりに掛けられていて、「ふあ」とあくびをしながら身を起こしたいずみの目に、キラキラと目を輝かせながら、万華鏡を覗いているチーコの姿が目に映った。
足音を立てぬよう、隣に座れば、チーコは嬉しげに、ひたっと身を寄せて「ひぁぅっ」と挨拶してくる。
「おはよう」と返事をした後、「どうしたの? それ」
といずみが問えば「ふぇい。 くぇひあぅ」と眠っている皆に配慮して囁くような声で教えてくれた。
きっと誰かに貰ったのだろうと察し、いずみは「良かったね」と笑う。
チーコが宝物を渡す手つきで、いずみに万華鏡を差し出してきた。
美しい細工の施された、黒塗りの万華鏡を「いいの?」と確認してから受け取り、覗いてみる。
「わぁ…」
起き抜けの目には余りにも眩しい世界が広がった。
綺麗な宝石のような光の粒。
美しく展開されている、その極彩色の世界に息を呑む。

「綺麗だろう」

低い声。
顔を向ければ、腕を組んだまま、眼を閉じていた冥月が、此方に顔を向けずに腕を組み「人から貰ったものなのだがな、暇を潰すのに丁度良い」と告げた。
冥月があげたのか…と少し意外に思う。
彼女は、皆からも、チーコからも距離を置いているように見えたから。
だが、万華鏡を無邪気に覗いているチーコを見る表情は存外に穏やかで、「今兵庫を通過中だ。 神戸市にある水族館へと向かっている。 あと少しで、次の休憩所に着く。 そこで、洗面と朝食を済ませよう」と告げた言葉に、いずみは素直に頷いた。





「うわぁ!」
エリィが歓声をあげて、水槽に張り付いた。
その隣に翼も立ち、「なんて美しいんだろう」とうっとりとした声で言う。

青い水槽の中を、鮮やかな色した熱帯魚が優雅に泳いでいる。
美しい珊瑚が彩る水槽内は、いずみの目を楽しませ、手を繋いでいるチーコもいちいち歓声を上げていた。

神戸市にある水族館。
チーコは、熱帯魚を熱心に見つめていた。
きっと、自身が住んでいた島の近くの海で、たくさん見かけた事だろう。
一つだけの大きな目が、吸い込まれるように熱帯魚を追っている。

水族館には、チーコ、竜子、嵐、エリィ、翼、そしていずみというメンツで来ていた。
残ったメンバーは、それぞれ、買い出しなり、所用があるらしく、「楽しんでらっしゃい」と送り出され、少々申し訳ないような気がしつつも、有り難く言葉に甘えた。


今チーコが着ている、目深に被ったピンクのパーカーは、いずみの私服だった。
いずみに丁度いい大きさのパーカーは、チーコには少し大きく、姿形を誤魔化してくれている。
連休中とあって、そこそこ混み合ってはいたが、嵐がバス内で「水族館なら、館内、意外と薄暗いし、周りの人は水槽に気を取られてチーコの事もあんま気付かれないんじゃないかな。まぁ、勿論パーカーとか着てフード被ってもらったりとかの多少の変装だか位は必要だろうけど」と言ったように、暗い館内では、髪や目を隠せばチーコは人間の子供と変わりなかった。

「あぅぃう! うはぅ!」
「おお、あれはカツオだな。 たたきにすると旨い」
「うぉひぅぅぁぅふぅ!」
「あれはマグロ。 絶品」
「はぅ? うひぁぅぅ!」
「ああ、あいつはマンボウだな。 結構珍味」
チーコが指差す先の魚に、無愛想な口調で一つ一つコメントを付けていく嵐に対し百合子が「浪漫がない!」と文句をいう。
「ここは生け簀じゃないんですから、もっと、なんか、情緒のある説明をしてよ」
そう口を尖らせる百合子に「浪漫って…」と嵐が口篭もれば、「女の子は、デリカシーのない台詞は嫌がりますよ? ね?」と、いずみはチーコに同意を求める。
くりんと首を傾げて、眼をパチパチさせるチーコの仕草が可愛くて微笑めば、「うおー! あのサンマの群れ美味そうー!」という竜子の声が聞こえてきた。
「あれは女の子じゃないのか?」
半眼になって嵐に問われ、いずみは思わず「あの人は、女の子じゃなくて、竜子さんです」と答えてしまう。
百合子もいずみの言葉に頷いて、「そうね、竜子さんよね」と答え、嵐は、何が何だか分からない様子ながらも「そうか、女の子じゃなくて、竜子なのか」と納得してしまっていた。
「でも、大体、こんな水族館で、そうそう、ロマンのある台詞もへったくれもないだろう」
嵐がそう反論すれば、先をエリィと歩く翼が「本当に生きている宝石のようだ。 そういう意味では、エリィさんや、竜子さんと一緒ですね」とサラリとスーパー口説き文句を口にしており、思わず百合子といずみで揃って小さく拍手をしてしまう。
「ああいう感じで」
「ええ、ああいう感じで」
そう百合子と交互に言い合い、嵐を見上げ「是非、素敵なコメントをチーコに一つ」といずみが促せば、日頃口数の多くなさそうな嵐は、これ以上ないという位の困り顔を見せて、「あ…う…、えーと…」と口篭もった挙句、「これぞ、海の宝石箱やぁ…」と、嵐的にも一生物の後悔になりそうな事を口走った。

思わず気が弱いものならば、即座に自殺を決意しそうな程の氷の眼差しで百合子と並んで嵐を眺める。


「パクりじゃん」
「しかもグルメレポーターのパクリじゃん」
「咄嗟に、それが思い浮かぶ辺りが貧困」
「しかも、実際に言っちゃう辺りが最悪」
「ていうか、ありえない」
「うん、ありえない」

いずみも大概キツいが、百合子も中々の腕前(?)で嵐を攻め立てる。
嵐も咄嗟に口走った台詞が、まさか某グルメリポーターのパクリになるとは、自分で自分が信じられず、項垂れ、水槽に額を押し当てたまま、「すいません、ほんますいません」と反省モードに突入する。
「自分でもどうかしていました。 ちょっと、焦りすぎました。 け ど なぁ、あれは無理!!」

そう指を指す先では、翼が「ああ、エリィさん、僕から離れない方がいい。 そうじゃないと、人魚姫に間違われて、浚われちゃうからね」と真顔で言っていて、「ハンサム風林火山」ともいうべき、物の言いと、それがしっくり似合う余りの美少年ぶりに(しつこいようですが翼は女性です)思わず三人揃って立ち眩む。
「た、確かにハードル高いわ」
「この世で他にあの台詞が許されるのは、翼さんの他には兎月原さん位ですね」
「だろ? 俺には、一生、無理! ていうか無理でいい! 無理な俺で生きていきたい!」
そう力強く決意表明する嵐に、チーコが事態を分かっているのかいないのか、ポンポンと嵐の背中を優しく叩き、嵐は感動したような表情で、「お前だけだよ、優しいのは」等と言って、その小さな頭をぐしぐしと撫でた。



「はーい、では最後にもう一度、ルーク君に盛大な拍手をお願いしまぁす」

明るいお姉さんの声に、いずみは力いっぱいの拍手を送り、チーコが歓声を上げながら大きく手を振った。
「面白かったねぇ!」
エリィの言葉に素直に頷く。
人目につかぬよう最後部座席で見たイルカショーは、それでも大迫力の出来映えだった。
計算してみせたり、可愛いポーズを見せたり、アクロバティックなジャンプをしてみせる姿に、チーコと並んで、いちいち感心し、拍手を送る。

楽しい。
凄く楽しい。

嵐の膝の上に乗ったチーコが「いふぅぁ、あぅひぉぅ!」と言いながら嵐の首根っこにしがみ付いた。
「おう。 俺も楽しかった、ありがとう」
嵐はそう言いながらチーコの背中を軽く叩いて、「さ、行くか」と立ち上がる。
「次は何処だっけ?」
「海! チーコちゃん、海だよ! 海!」
エリィの言葉に「ひぃあ!」と喜びの声を出し、チーコが、するんと嵐から滑りおりると、スキップする。
すると、チーコは足をもつれさせ、コロリと転んだ。
「大丈夫? 駄目よ、はしゃぎすぎ」
そう言いながら手を握って引っ張りあげた時覗いた顔が、一瞬、見たこともないような、恐怖に強張った顔をしていて、いずみは目を見開く。

「…チーコ?」

問い掛ければ、慌ててにこっと笑いかけてきて、それから、チーコは慎重な足取りで歩き始めた。
いずみは、一度大きく息を吸い、表情を変えないように気をつけつつも、いつでも彼女が倒れてもいいように、手を握り締めて、隣を歩く。


さっきの、足の縺れ方はおかしかった。

まるで、急に足の力が抜けたように。
まるで、足の筋肉が、もう力尽きようとしているかのように。
まるで、もう、チーコには歩く力がないのだというように。

さっきの、足の縺れ方はおかしかった。

チーコがしっかりといずみの手を握る。
大丈夫。
私は、大丈夫。

いずみは、優しく笑う。
「海、楽しみね」

嵐が、チーコのもう片方の手を握った。
「そうだな。 凄く綺麗な海だそうだからな」
エリィが、「人がいない海を探したんだよ?」と笑い、翼が「黒須さん達が、バーベキューの用意をしてくれているらしい。 僕も腕を振るうから、期待しててよ」と言う。

気付かない振りをしていた。
誰の為にか、もう分からない。
強いて言うならば、自分の為に、気付かない振りをしていた。

「あ、なぁなぁなぁ! あそこプリクラあんぞ!」

正真正銘の能天気な声に、いずみは思わすつんのめる。
「ふわあ! ほんとだぁ! ね、ね! みんなで撮ろう?」
テテテテと音がしそうな走り方を見せ、百合子がみんなを手を振って呼んでくる。
ピョンコ、ピョンコと癖なのか、その場で跳ねる百合子に、本当に女性陣最年長なのだろうか?と首を傾げつつ、カーテン内に突入し、勝手にお金を入れてフレームを選び出している竜子の隣に立った。
画面に並んでいるフレームは、水族館ならではといったものばかりで、海洋生物や、ラッコ、シャチ、ペンギンといったフレームが羅列され、いずみは、目がチカチカするような心地になる。
友達と、何度か一緒に映った事があるが、いつまで経っても慣れないプリクラは、竜子もさほど経験ないらしく、「えーと…あれ? どこ押すんだ??」と困った様子で首を傾げている。
「あ、代わって、代わって〜♪」
そう嬉しそうに竜子と交代したエリィは、「何にしようかな〜♪」と嬉しげにフレームを選びだした。
「あ、あのラッコ可愛い!」とエリィが言えば、百合子が「あざらしも、可愛いよ!」と訴えている。
「チーコはどれが良い?」と翼が問えば、じぃっと眺め、それから、先程凝視していた熱帯魚のフレームを指差した。
綺麗な色合いのフレームを「おっけー、じゃ、これにしよ」と言いながらエリィが選択する。
戸惑ったように遠巻きに眺めていた嵐を、竜子がぐいっとカーテン内に引っ張り込んで、「あい、みんな笑えよー!」という声の無邪気さに、いずみは思わずにこっと自分の常にない酷く無防備な笑みを浮かべてしまった。
チーコがにいいっと人の形とは違う、鋭い形の歯をむき出しにして笑う。
カシャとカーテン内をフラッシュの光が満たす。

出来上がった写真は、みんな子供みたいに笑ってて、何だか切ないようにも見えて、それぞれの分を鋏で切り分けた後、百合子が作ったしおりに大事に、大事に貼り付けた。




「うひぁうぅ、はああぅふぃぃぅ!」
サクサクサクと軽い音を立てる白い砂。
裸足になったチーコが波打ち際ではしゃいでいる。
水族館で一瞬見せた、おぼつかない足取りの幻影を振り払うようなはしゃぐ姿にいずみは安堵した。
「よーーし! チーコちゃん! チーコちゃん、いっくよー! 嵐君ちゃんと、抱っこしててよー!」
そう言いながら千剣破が両手を海に翳す。

「うんんんっ、うし! ここの子達は、とっても良い子!」

嬉しげに褒めるように言った瞬間、チーコを抱き上げた嵐が吸い込まれるように海の上を滑り出す。

「うっととと!」

一瞬バランスを崩しかけるも、波がまるで彼の体を支えるように大きく立ち上ってそっと寄り添うと、まるで、スケートリンクの上の如く波間を嵐は滑り始める。
身体能力が高いのだろう。
すぐさまその遊びに慣れた嵐が「へぇ」と笑い、それから確り、チーコを抱き直すと、「すげぇな、あんた!」と、千剣破に声を掛けた。
「あんたじゃなくて千剣破!」
そう不満げに返し、千剣破がいずみを手招きする。
「一緒に滑ろう!」
千剣破の言葉に頷いて、いずみは彼女の傍に走り寄った。
手を繋ぎあい、波が手招きする海に足を乗せる。
すると、まるで導かれるようにするするするっと体が滑り始め、いずみはそのうち、千剣破に手を引かれずとも滑れるようになった。

「巧い、巧い!」

嵐に降ろしてもらったチーコも、楽しげに滑っている。
傍まで行けばチーコが「いゆぅみぃ!」と手を振って、傍に寄ってくる。
水の飛沫が上がる。
千剣破が指先が振るえば、思い通りに水が踊る。
「えい」と嵐とチーコに向かって指を振るえば、キラキラとした水の雫が二人に纏わりつき、「きゃふぅっぃう!」とチーコが歓声をあげた。
嵐が「冷てぇよ」と笑いながら言い、「んー…」と一瞬悩む素振りを見せて、それから、立ち上がる水の飛沫に手を突っ込み、千剣破に向かって振るう。
すると、今度はお返しとばかりに、盛大に海水が千剣破に降りかかり、甘えるように周囲で舞った。
黒髪に輝きの雫が纏いつき、千剣破は美しく両手を広げてくるりとまわる。
「やったわね!」
明らかに楽しげにそう言い、腰に手を当てて睨んでくる千剣破を笑い返すと、今度は嵐はいずみに水を振るってくる。
透明な雫はいずみの周囲でも踊って、その冷たい感触に身を竦めると、チーコも真似していずみに水をかけてきて「ちょっ! もっ! 折角濡れないようにって、浮かんで遊んでるのにっ!」」と叫ぶと、いずみも水の飛沫を両手に掬って飛ばす。
そのまま、きゃいの、きゃいのと遊んでいれば、「ごはんだよー!」という声が聞こえてきた。
「バーベキュー!! いい具合だよ!」
翼が金色の髪を風に遊ばせながら呼んでくる。

お昼も少し回った時間帯。
お腹をぺこぺこに空かせた面々は、めいめい返事とも歓声ともつかぬ声を上げて、既に美味しそうな匂いが漂っている浜辺へと走っていった。

エリィが見つけてくれた浜辺は、彼女が言っていた通り、観光客の姿も地元の人間の姿も見えず、チーコは姿を隠さずに、のびのびと振舞う事が出来ていた。
串に差した肉に齧りつきながら、熱かったのかチーコが「ひふひふ!」と息を大きく吐き出している。
「はい、どうぞ」と冷たい水を兎月原が差し出し、丁寧な手つきでチーコの口元をナプキンで拭ってあげていた。
「おいし?」
首を傾げて問う姿や、チーコが別のものに手を伸ばそうとすると、さっと皿を差し出す紳士ぶりに感心していると、いずみの心を読み取ったが如く、百合子が、とうもろこしに兎のように齧りつきながら、「まぁ、プロだしね」と言いつつ、うんうん頷く。
「プロ?」と首を傾げれば、「おもてなしのプロ」と分ったような分からないようなことを言い、「いずみちゃんにはまだ早いから、嵌るにはもう少ししてからね?」と更に意味の分からない事を言われた。


料理上手のメンツが揃っているからか、どれもこれも、本当に美味しい。
バーベキューの他にも、タラのホイル包み焼きに、海鮮塩焼きそば、ブイヤベースのスープまで、「エリィちゃんが作ってきてくれたお弁当に触発されちゃった」とエマが笑い「僕も張り切らせて貰いました」と翼が、優雅な手つきでスープをプラスチック皿に流し込む。
翼も、エマも、乏しい調理器具から、手早く見事なバーベキュー料理を作り上げており、エリィもお弁当作りで見せてくれた腕前を思う存分披露してくれていて、皆、お腹が一杯になると、本当に野外料理の食後なのかと疑いたくなるほどの、満足感に満たされた。

その後、日暮れ前にここを発つという事で、浜辺で眠るもの、波打ち際で遊ぶもの、ビーチパラソルの影で本を読むもの等、それぞれ別れる。

いずみも、片づけを手伝った後は、クーラーボックス(これもエマ持参だそうだ。 咄嗟に『怪力』と慄いた事は、勿論内緒)から、よく冷えたサイダーをチーコと二人分貰う。

昼食後は、すぐ動くとお腹が痛くなるから、二人で暫く、冥月に貰った万華鏡を交代で眺めた。
ジュースを飲みながら、明るい空に向けて翳し、くるくる回せば、光の世界の中で、カシャカシャと美しい模様が変幻自在に変わっていく。
二人で、そうやって身を寄せ合って、万華鏡を見ている背中を、他の皆が穏やかな表情を浮かべて眺めていた。

平和な。
酷く平和な一時。

その後は、チーコと綺麗な貝殻を拾って歩いた。
頭上には初夏の太陽。
吹き渡るのは爽やかな風。
「ほら、これも綺麗だ」
先に立って歩く翼が、チーコの掌に一つ真っ白な貝を乗せる。
いずみには、小さな人魚の小指の爪のような美しい形の桜貝をくれた。
大きめの真っ白な巻貝に、「ひぅぁ! あぅぃひぅひぁ!」と喜びの声を上げて頬ずりをする。
水族館で見た、南の海を模した水槽にて展示されていた貝殻に似ていた。
きっと、故郷の砂浜に転がる貝殻に似ているのだろう。
その事を伝えると、翼は「へぇ、そうなんだ。 じゃあね、これを、今から真水でようく洗おう」と、言いながら、翼が長い睫を伏せて、ペットボトルの水を真っ白な巻貝に注ぐ。
「綺麗に砂と、塩分を洗い流したら、次は日干し」
そう言いながら、チョコンとコンクリートの堤防の上に置く。
その間に、ごそごそと何やらバスに置いてあった鞄から何かを取り出してくる翼。
綺麗なビーズや、黒い皮ひも。
それに、少し太い目の針を一本持ってくると、貝殻に触り、「もう少しだね」と言って興味津々の目で見守ってるいずみとチーコに微笑みかける。
天使のような美しい笑み。
エリィと千剣破も「何々? 何してるの?」と傍によってきて、翼は「今から貝殻のネックレスを作ろうと思って」と優しい声音で答えた。
「これがね、チーコの故郷の貝殻に似てるようなんです」と言いながら白い巻貝を示して見せれば、「へぇ、いいなぁ、チーコちゃん」とエリィが羨ましそうに良い、その隣に腰掛ける。
千剣破も、ポスンと堤防下の砂浜に腰を下ろし、それから「ううん」と伸びを一つした。
「ああ、気持ち良い日ねぇ。 チーコちゃんのお陰だよ。 こんな楽しい旅が出来たのは」
にこっと笑う千剣破に、チーコは天真爛漫に微笑み返す。
「あ、見て、あそこ…」
白金の髪を風に舞わせてつつ、エリィが砂浜を指差す。
白い彼女の指先には、竜子が座っていた。
海を見つめ微笑む彼女の横顔が、今までに見たことのないような優しい美しいものである事にいずみは目を見開く。
いつもは濃い目の化粧も、旅の途中であるせいか然程激しいものでなく、彼女の地顔が大変整っているものである事に、いずみは漸く気付いた。

まるで、聖母めいた。

酷く近寄り難い程の微笑みを浮かべる彼女の膝に頭を乗せて、黒須が眠っていた。
昨日は夜通しバスを運転し続けたらしい彼は、流石に疲れているのか、膝を曲げ、まるで胎児のように体を丸めて、呼吸すらしていないかのように静かに、静かに眠っていた。
風が。


黒須の長い髪を揺らし、竜子の一つに結んだポニーテイルを舞い上げた。

どうしてだろう?
あんなにくっついているのに、何処も触れ合ってない二人に見えた。

いずみは、何故だか、胸が痛くなって目を逸らせば、チーコが目を細めて二人の姿を眺めていて、「ああ」と、夢見るような溜息を吐いた。

翼が器用に空けてくれた穴に、チーコが四苦八苦しながらビーズを通している。
手先は然程器用でないのか、何度も貝殻を取り落としたり、ビーズを見失ったりしている姿に歯痒さを覚えど、いずみは決して手を出さない。

それは、千剣破もエリィも、それに翼も同じ気持ちで、チーコが懸命に取り組む様を、微笑みながら見守っている。
途中何度か、彼女は自分の髪に止められている髪留めを触っていた。

時雨に貰った髪留め。


赤い髪が日の光を受けて鮮やかに輝いていた。
長身の青年は、今は嵐や兎月原と談笑しつつ海辺を歩いている。
ふいと時雨が此方を見て、それから大きく手を振ってくる。
子供のような笑み。

チーコが、その笑顔を見返して、何だか困ったようにキョロキョロした後、翼の腕に顔をくっ付けた。
慌てていずみが大きく手を振り返し、見れば、エリィも、千剣破も振っている。
みんな同じような微笑を浮かべて時雨を眺め、それからチーコに視線を戻した。

そういう事かと思って、いずみは自分の髪留めに手をやる。

ああ、そういう事か。

一生懸命作っているネックレスの長さは、小さなチーコには余りにも長すぎて、自分で使うものじゃないなんてことはすぐに分ってしまうのだ。
そして、素直なチーコを見ていると、誰に貝殻のネックレスをあげようとしているかという事も、勿論いずみにはお見通しなのである。


夕焼け空になり始めた頃、不器用な手つきで仕上げたネックレスを大事に、大事に、いずみが貸してあげたポシェットに仕舞いこむ。
「さて、そろそろ…」と、エマがそこまで言いかけた所で顔を上げた。
「…望まざるお客さんが来ちゃったみたいね」と、軽い口調でエマが言うと、まるで、それまで消していた気配を全て解放するかのように冥月が立ち上がる。
ゆらりと彼女の周りが揺らいで見えるほどの、酷く剣呑な気配にいずみは身震いした。

堤防沿いに、黒塗りの車が数台バタバタと停まる。
降りてきた黒スーツ姿の男達に「お約束どおりね」といずみは冷めた声で呟いた。
チーコを、捕まえていた悪い奴らとは、あいつらの事に違いない。
追っ手に追いつかれたのか…。
しかし、どうやって此処が?

首を傾げれば、キビキビとした声で冥月が言った。

「非戦闘員は、一旦バスへ避難だな。 いずみ、百合子、エマ、竜子バスへ。 嵐っ!」
まるで教師めいた口調で冥月が呼べば、嵐は肩を竦め「んだよ。 俺は、非戦闘員扱いで良いんだぜ?」と言う嵐に、にっと物騒な笑みを見せると、トンとその胸を掌で突き「ああ、非戦闘員扱いさ。 今回はな」と意味ありげに告げた。

「あいつらの狙いはチーコだ。 嵐、バイクで、チーコを連れて逃げろ。 向こうは、ざっと見ても30人強。 興信所での脅しが効いたか、私や時雨の名前が効いたのか、中々、手厚いおもてなし部隊を送り込んできてくれたようだ。 まぁ、それでも、私にしてみれば、馬鹿にしているとしか思えない、お粗末なもんだが…こちらとしても、彼女を守り、非戦闘員の安全を確保しつつ、あの人数を相手にするのは、そこそこ骨だ。 銃の使用も予想されるし、守りに徹するだけでなく、今回は、あいつら全員叩きのめし、どういう人間を相手にしているのか向こう側に知らしめたい。 何より、どうして此処が分ったのか、誰か一人捕縛して吐かせてもやりたいしな。 それだけの事をチーコに目を配りながらやってのけるより…」
「向こうの目当てである、チーコを安全な場所へと移動させる…って事か…」
翼が賢しげに呟けば、冥月が満足げに頷く。
「ああ。 出来るな?」
冥月の言葉に「俺は、ただの、一般市民なのに」と一度肩を落とすと、諦めたように「まぁ、チーコの為ならしょうがないな」と嵐は決心を付け、「活路は開いてくれよ?」と、皆に視線を走らせた。
「とうぜん…まかしといて…」と時雨が自信に満ちた声で言う。
「ぜったい…チーコに傷…付けさせないから…ね?」と首を傾げた時雨から、チーコは耳を真っ赤にさせつつ、ぷいと顔を背ける。
途端シュンとした顔になる時雨に(ああ、教えてあげたい!!! チーコの気持ちを教えてあげたいけど、それを言うわけにはいかない!)といずみはもどかしさを感じつつ、冥月に「戦闘要員」とされてるらしい面子を見回した。
時雨、翼、エリィ、千剣破、黒須に、兎月原…そして、冥月。

翼と黒須以外の実力の程は分からないが、冥月がこういう事に掛けては、間違いなくプロであろう事や、彼女は「チーコを守る」というその役目の為に武彦から選ばれた、最良の存在であろう事も察する。
それは他のメンツにも言える事で、そして、そういう彼女が何の疑いもなく戦闘員として数えている面々、いわば、同じ戦場に立てると判断した面々において、ここで心配や不安を感じるのは無駄にしかならないだろうといずみは冷静に判断する。
普段ならば非戦闘員扱いを不服に思うところだろうが、ここでごねても足手まといにしかならないのだろうと冷静に判断し、大人しく荒事のプロ達に任せてバスへと避難することにする…が、その前に。

「エマさん」
いずみはエマに声を掛け「いらないバスタオルありませんか?」と問いかけた。


エマがタオルを裂いて作ってくれた丈夫なヒモで、バイクにまたがった嵐に、チーコの身体をしっかりと括り付ける事にした。

水族館で見た、足の縺れ。
考えたくはないが、チーコの全身の筋肉が衰え始めている可能性が高い。
しっかりしがみ付こうとしても、腕の力が入らず、走行中に転落する事も考えられる。
そのような事態を防ぐ為にも、いずみはチーコの身体を嵐の身体に固定して出発させるべきだと提案した。

向こうもこちらの出方を窺っているのか、堤防の向こうからこちらを威嚇するように大人数がこちらを睨み据えているだけの膠着状態に陥っている。
向こうの方が明らかに人数が多く、力押しで来てもおかしくないのにも関らず、手を出しあぐねている様子なのは砂浜に立ち、じっと男達を眺めている時雨と冥月の力が大きいのだろう。

今のうちにと気が急くのを落ち着かせながら、いずみはチーコに「ちゃんと掴まっててね?」と言い聞かせる。
不安げな表情をすれば怖がらせる事に繋がると思い、必死に笑みを浮かべながら「すごーく早いから、きっととっても気持ち良いわ。 いいなぁ、チーコ」とうらやんでみせた。
腰と胸の部分二箇所を、兎月原がしっかりと括る。
「苦しくないか?」
まずチーコの顔を覗き込んでそう問い、彼女が頷くのを確認すると、余裕のある甘い笑みを浮かべた。
「いいかい? チーコ。 俺の大事なお姫様。 君が乗っているのは魔法のバイクだ。 嵐は、君を守るナイトで、魔法のバイクを操る事に掛けては、他に並ぶ者のいない名手だ。 誰も追いつけない。 この世の誰も。 彼の背中にしがみついている間は、君にも魔法が掛かるんだ。 悪い奴なんか、指先だって掠められやしないさ。 だから、お姫様。 君はただ、安心して、このアトラクションを楽しんでいればいい。 どこのテーマパークにもないよ。 君だけの為の特別なイベントだ。 楽しんでおいで。 君を他の男に任せるのは、正直悔しいけどね…」
そうまるで、まさに魔法を掛けるが如く呪文めいた声でチーコの耳に直接蜜のような声音を流し込めば、チーコはコクン、コクンと言われるがままに、恍惚の表情で頷きを繰り返す。
催眠術に掛かっているかのようにも見えるチーコにそこまで言った後、兎月原はふいにそっと唇を寄せて、チーコの頬に口付けた。
「これが、俺からの魔法。 これで、君は無敵だ」

パチクリと目を開き、頬をぽーっと染めて頷くチーコに頷き返して兎月原は立ち上がると、「頼んだぞ」と嵐に告げてその背中をポンと叩き、悪党達と対峙する為に砂浜へと向かった。
兎月原の呪文が効いたのか、にこにこと出発をせっつくように嵐の背中に、コンコンと額をぶつけるチーコを感心したように眺め「流石すぎるわ」とエマが呟く声に、大きく頷いた。
そして百合子と顔を見合わせて、とりあえず、嵐の顔を覗き込む。

「えーと、では、ああいう感じで」
「ええ、ああいう感じで、ロマンチックな台詞をチーコに一つ」

そう水族館の時の如く促せば、即座に「無理だ」と真顔で返されて、まるで逃げるかのごとく、嵐は冥月に向かって頷いて見せた。
冥月は不敵に微笑み返すと、翼に向かって何事か告げ、ついと堤防前に雁首そろえる男達に向かって指を指す。
翼が、腕を軽やかに踊るかのように振るった。
その瞬間、強い風が巻き起こり、男達が面白いほどに、呆気なく将棋倒しのように倒れた。
それが合図であるかのように「振り落とされんなよ?」とチーコに一声掛けて、嵐がアクセルを全開にして走り出す。
タイヤを取られ易い砂浜を難なく突っ切ると、堤防に備え付けられた階段、その脇の手すりとして設けられているのであろう幅の酷く狭いコンクリートの急な坂を一気に駆け上がった。
思わずいずみはぎゅっと両手を握り合わせ、竜子と百合子が声を揃えて叫ぶ。

「いっけぇぇぇぇ!!」

するとその声援が届いたのか、見事に嵐の操るバイクは見事、坂をジャンプ台代わりに男達の頭を飛び越え道路の向こう側に着地すると「ひぅあぁはああぁぁぁ!」と何とも明るいチーコの笑い声を残して走り去って行った。

アクロバティックな技の成功に、竜子や百合子、エマと手を取り合って喜ぶ。
倒れた男達が起き上がり、バイクに向かって銃を構えれば撃ち放すより先にいつの間にか彼らに詰め寄っていた、翼やエリィ、時雨、兎月原、黒須達が彼らを地に沈めて行った。
車で追おうとする者には、千剣破が「さっせないよー」と宣言して、海水で作り上げた水の鋭い針を、車に向かって降り注がせる。
すると、たちまち車は穴だらけになり、ただの鉄の塊に成り果てた。
冥月が、全ての仕上がりに満足しているという風に微笑みながら頷いて、それから敵に向かって一歩踏み出す。


その後は幾つか銃声やら怒号やら、まぁ物騒な騒ぎが暫らく続いたが、いずみから見れば、呆気ないほどに決着はついた。





「さて、一応問うが…この中で拷問が得意な者」


冥月のとんでもない台詞に、エマといずみを除く皆が一斉に黒須を見た。
基本的に、曖昧な感じではあるが、黒須の性癖を知っているいずみは、(あ、違うのに)と思う。
だが、どう違うのか、幾ら大人びていても、ここら辺の問題は、流石に10歳の身では説明が困難に思われて、咄嗟にエマを見ればエマも、もどかしげな表情を見せていた。
「ていうか、お前ら見た目のイメージだけで、俺を判断するな!! なんだ、拷問得意そうなイメージの外見って! 嫌だ! そんなイメージ! 得意技、拷問です☆って自慢になんねぇ!」
そう怒鳴る黒須に「いや…見るからに…こう…陰湿系というか…」と翼が言えば、「うん、金融業とかで取立て屋になったら、相手の精神を破壊尽くすまで追い詰めそうな感じよね。 マムシの誠とか呼ばれてるイメージ」とエリィがVシネチックな事を言う。
「趣味とかも、自分を振った女性の写真にひたすら『怨』と書き続けるとかっぽいし…」と百合子がマジマジと黒須を見ながら言えば、「あと、嫌いな相手への攻撃方法が、靴に待ち針を仕込むとかそういう精神的にクるけど、セコイ感じなのね!」と千剣破が嬉しそうに断言した。
余りの言われようによろめく黒須に兎月原が笑顔で「総じて、身動き取れない相手に対しての攻撃が凡人の想像を絶するような陰険な手段を思いつきそうなイメージって事です。 やったね! 黒須さん」とウィンクすらして告げるものだから、いずみとしては「ああ、可哀想だけど、真剣に助けてあげる気にもならない」と脱力する。
エマが、うずうずと体を揺らしていたが、頃合や良しと見計らったのか、とうとう黒須の前に庇うように立ちはだかり「みんなっ! 違うよ?! 黒須さんっ、そんな人じゃ…ないよ?!」と、首を大げさに振りつつ、児童劇団の道徳芝居で役者が見せそうな、妙に芝居がかった仕草でいいながら、くるりと振り返り、黒須をキラキラと見ると、「黒須さんは、ドMだもんね? そんな、拷問なんて、する側より、される側の時の方が幸福MAXだもんね☆」と超全開の笑顔で告げる。
竜子が「正解!」と力強く親指を立て、「わぁ、そっちの方が更に気持ち悪い。 不気味。 傍に寄りたくない!」という表情を隠そうともせず周囲の輪が一歩分広がるのを黒須はがくりと項垂れ眺めると、エマを恨みがましげに見て、「お前 ほんと 俺を馬鹿にする時全力投球な!」と半眼になりつつ、唸るように言う。
そんな黒須に「てへ」と笑って見せると、「あー、すっきりした。 ほら、中々今回、黒須さんを虚仮にするゾ♪タイムがなかったもんだから、ストレス溜まってて」とエマは、肩をキリキリと回しつつ、爽快感に溢れる顔で言い放つ。
「そんなレギュラータイムを勝手に設けるなよ!」と怒鳴る黒須に、「次回をお楽しみに☆」とエマは笑顔で返し、更にもう一歩ほど後ずさった場所で「えーと、然程興味がないを越えて、むしろ地雷踏んだ感を噛み締めつつ、黒須さんの性癖についてはこれ以上何もお伺いしたくないので、話を先に進めてもらって宜しいでしょうか?」と丁寧な口調で兎月原がお願いする。
すると、道端に落ちている丸めたティッシュを眺めるような目で黒須を一瞥した後冥月は頷いて、「では、私も余り加減が分らんので、向いている方ではないのだが、ちょっと訊いてみるか」と、軽い口調で物騒な事を言って、足元に転がる縛り上げた男性を見下ろした。
猿轡を噛まされ、縛り上げられた男は畏怖の眼差しで冥月を見上げるが「ただ口を割らせるだけなら、多分僕だと手間なくやれるよ」と翼が手を挙げる。
「おお、意外と拷問得意系?」と竜子の頓珍漢な問い掛けに、「得意・不得意の区別の仕方が分からない」と肩を落として見せた後、男の目の前に座りこみ翼はじいっとその瞳を覗き込む。

「さぁ、よく、見て。 僕の目を、ようく見て」

唆すような声。
男は翼の魅惑的な瞳に魅入られる。
ぱち、ぱち、ぱちと、三度瞬いた瞬間、男の全身が弛緩した。
猿轡を外し、翼は優しい声で問う。

「ねぇ、どうしてここの居場所が分ったの? チーコに取り付けられていた発信機は全て取り外したはずなのに」

発信機? 彼女にそんなものが取り付けられていたのかと、いずみはびっくりする。
自分が知らぬ間にも、何事か起きていたらしいと思えど、今はそれを尋ねる時ではない。
魅入られたように熱っぽい瞳で翼を凝視する男が、翼が促すままに口を開いた。

「は、発信機は、まだ、ある」
軽く翼は目を見開き、「それは何処に?」と問い掛けた。

「それは…」

虚ろな口が、咳き込むようにして吐き出した。


「あの化け物の体に埋め込んである」


「ひゅっ」と鋭い音がして、その出所が分からないままいずみは自分の喉を抑えた。

ああ、私の声。

息を吸うと、ひゅうひゅう鳴った。

この男、なんて言ったの?

「肩甲骨の下を、麻酔なしで開いて、『Dr』が、発信機を埋め込んだ」

翼を熱心に見つめながら、他には何も世界はないという風に男はだらだらと言葉を零す。

「泣いていた。 大声で。 何を言っているか分らなかった。 気持ちの悪い 生き物。 一丁前に涙なんかを 零して。 触ってみたら、分る。 あの化け物の肉の下に、ゴツッとした膨らみがある。 触ると酷く痛がるから、面白がって…」

そこまで言った瞬間、竜子がその即頭部を思いっきり蹴飛ばした。
いずみは、口を両手で覆って、全身を振るわせる。



麻酔 なしで 体の 中に あの 小さな体の中に

痛い きっと 凄く 痛い どうしたら ねぇ どうしたら……人間は許してもらえる?



チーコ!!


蹲りかけて思いとどまる。
ここは膝を着く場所じゃない。
目が泳いだ。
自分だったらと思うと耐えられなかった。

竜子が息を荒げながら「くそっ、やっちまった! 子供の前で、やっちまった!」と髪の毛をくしゃっと掻き毟る。
「いずみ!」
名前を呼ばれ、「はい」と静かに返事する。

「今のあたいが言っても説得力ねぇけどな、自分が気に入らないからって、話し合いもせずに、すぐ暴力ふるって、相手を黙らせるのは、いけない事だかんな!」

そう荒い息の下に、困った気持ちを混じらせながら、竜子が言えば、いずみは静かに頷いて「肝に銘じます。 ただ、そのルールは、『話が通じる』相手のみに適用させていただきます」と冷静に返事し、竜子を益々困り顔にさせた。


「…殺すか?」

冥月が平坦な声で言った。

「ここにいる連中、皆同じ外道だ。 依頼主が望むなら、皆、証拠を残さず消してやる。 生きていても、チーコと同じ犠牲者が生まれるばかりだ。 子供が、弱いものが、抵抗する術を持たないものが、理不尽に殺され、虐げられ、泣かされる。 生かす事によって、失われる命が増える『生』もある殺すか? 私は躊躇わんぞ」

冥月の言葉に、日頃の人懐こい表情を一変させた時雨がカチャリと腰に提げている刀に物騒な音を鳴かせる。
エリィも、冷たい表情で銀色の幅広のナイフを鞘から抜いた。

ああ、みんな、そういう人達なのだと悟る。
聡いいずみは彼らの纏う空気から理解した。

そういう生業の人で、プロで、きっと腕前も一流などと言う言葉では生温い人達なのだろう。

千剣破が青い顔をして、倒れている無数の男達を眺め回していた。
その全身に宿るは間違いなく殺意。
危ういといずみは思った。
でも、チーコの小さな体に発信機を埋め込んで、痛みに泣き喚く彼女を想像すると、この男達を生かす意味が一つも見つからずに、いずみは少し混乱した。

黒須は無表情で竜子を見る。
竜子は、黒須を横目で眺め、全てを委ねられている事を理解したかのように目を閉じて、それから自分が蹴り飛ばした男をもう一度見下ろした。


「殺さないで」


細い声。
見れば両手をぎゅっと握り締めて百合子が震える声で言った。
「殺さないで」

竜子は「はっふっ」と大きく息を吐き出すと、「うん、殺さない」と答えた。
冥月は少し首を傾げ「甘いな、お前らは」とそれでも、何だか優しい声で言った。

「いいんだ。 甘くて。 その、あんたらからすれば、きっとこの仕事自体、凄く甘い仕事じゃないのかい? いや、知らないけど。 女の子守って、最期の三日間を楽しく過ごさせてやって欲しいだなんて…ああ、そう、ロマンチックだ。 ロマンチックじゃないか、なぁ、百合子」
そう言われて目を見開き、それから「ろ、ロマンよ。 そうよ、ロマンなの」と必死の声で言う。
「ゆ、夢見がちかもしれないけど、ねぇ、チーコには、ロマンが似合うわ。 あの子は、きっと、凄く辛い目に合って、ねぇ、それを、その最期までの間を幸せに過ごさせてやって欲しいなんて依頼は、本当に…本当に……甘い、甘い、砂糖菓子みたいにベタついた仕事で……でも、だから、いいのよ。 あの子に関わる時間全てがロマンチックであった方がいいのよ。 だって、女の子なんだもの。 チーコ、女の子なんだもの。 だから、似合わないわ、人殺しは。 倫理とかは分からないの。 道徳も、知らないわ。 安易なヒューマニズムなんて反吐が出る。 でも、綺麗ごとよ。 このお仕事は全部綺麗ごとなの…だ、だから…だから…」
言葉を捜しあぐねたように、自分の髪の毛に手をやり、ぎゅうっと引っ張って困り果てた顔をする百合子にエリィは駆け寄ると、柔らかな、春の日差しのような微笑を浮かべて「分かった。 殺さない」と言った。
時雨も、ふしゅんと険しい空気を霧散させて、「チーコ達…無事…待ち合わせ場所…着けたかな?」と心配そうに呟く。
エマが素早い手つきで携帯を操作し、まず、警察に通報の連絡を入れると、次に嵐に連絡を入れた。
「んー、どうも、まだ走行中みたいだけど、ちゃんと、安全が確認出来たら連絡入れるように言ってあるし、まぁ、嵐君の事だから大丈夫でしょ」
そうエマが言い、冥月がバスに目を向ける。
「チーコの体に発信機が埋め込まれている以上、バスを捨てていく事も考えたが無意味か…」と呟いて、「まぁ、全滅の一報がいけば、次の追っ手の準備も慎重にならざる得ない。 こちらの実力派充分に分って貰えただろう。 そうそう、敵う相手ではない事もな。 油断をするわけにはいかないが、チーコの体から発信機を取り出すわけにもいくまい」と冥月は言い、皆一様に大きく頷く。

冥月は、乾いたような笑みを口の端に乗せ、それから竜子に視線を向けた。

「殺すという事は覚悟のいる事だ。 だが、生かす覚悟の方が厳しい事もある。 分っているな?」
冥月の言葉に竜子は静かに頷いた。
長い睫に縁取られた強い眼差しを見て、冥月は「ふん」と呆れたように溜息を吐くと、「あと…一日と少し…か。 守りきれるだろう?」と、他メンバーを見回す。
翼が肩を竦め「認めたくないですけど、武彦はベストメンバーを選んでます。 チーコを守り、幸福な気持ちで過ごさせるという事に関してはこれ異常ないほどのベストメンバーをね。 最初事務所に揃えられているメンツを見た時は…」とそこで言葉を切り、千剣破がその続きを引き取った。
「もう、バラッバラ!」
その台詞に、エリィも頷いて「どうなる事かって思ったけどね」と笑う。
いずみも第一印象は、余りにもちぐはぐな印象の面々に驚いたのだが、ここまで来てようく分った。



これが最良で、最強。


興信所の主の名は伊達じゃないって事だ。


「行きましょう。 チーコの所に」

いずみが言う。
兎月原が、空を見上げ、「ああ…あんなに良い天気だったのに、曇ってきた。 急いだ方が良さそうだ」と典雅な声でそう告げた。


程なく、雨が降り始めた。

ひっそりとした畦道を抜け、バスが辿り着いたのは、エマが興信所ぐるみで懇意にしていると言う古い神社だった。
人里離れた場所にあるのだが、家屋も広くて情緒があり、一晩置いて貰うには最適な場所だと判断し、エマは先に連絡を取って、一晩の宿の許可を得ているらしい。

「んふふ、ここの神主さんは、凄いのよ? お歳も、お歳、ってまぁ、百年以上生きてる人とか、興信所じゃ、珍しくないんだけど、神社の建立からずっと、神社を守り続けている初代神主=現神主な人で、もう、本尊が神主?みたいな人なのよ。 確か、500歳だか、なんだったか…。 まぁ、もうじき、大祭があるとかで、此方にはいらっしゃらないんだけれども、チーコちゃん達と、私達が到着した際には、一時的に結界を開いて迎え入れてくれるよう頼んでおいてあるの。 普段は、神社自体、森が隠していておいそれとは見つからないし、例え、霊感のある人が見つけてしまったとしても、結界のせいで足は踏み入れられない。 発信機も、磁場の歪みのせいで、本来の機能は発揮できないし、寝込みを襲われる心配と、出掛けを急襲される心配もないわ。 まぁ、こよなく安全な場所であるっていうのは、私がこの場所を選んだ大きなポイントではあるんだけど…まさか…この場所を選択した事が、こういう意味でも役に立つとは思わなかったけどね」
残念そうなエマの言葉に、翼が気を取り直すような明るい声で、「流石にエマさんの人脈だ」と感嘆すれば、「んふふ。 ありがと」とエマは胸を張る。
山際にバスを停車し、山を開いて作られた木々に四方を覆われた階段を登る。
嵐から既に無事に待ち合わせ場所に辿り着いたという連絡は受けていたが、バイクが山際の大きな木の下に停車されているのを見つけると、何だかほっとしてしまった。

シトシトとした雨に身を打たれながら、ひんやりとした空気を掻き分け階段を登っていると、今から神域に足を踏み入れるのだという緊張感が全身を満たした。
神社も、酷く古い作りをしていて、ぬかるみに足を取られぬよう門をくぐれば、感嘆するしかない情景が広がっていた。

「わ…あ…」

「ね、綺麗でしょ? これを、チーコちゃんに見せたかったの」

そう言う得意げなエマの声に、いずみは大きく頷く。
藤の花弁がほろり、ほろほろと散っていた。
大気に充満する香りは、芳しく、雅やかでありながら、清涼。
初夏の匂いに、皆大きく息を吸い込む。

澄んでいる。

つつじの花が咲き乱れていた。
手入れそれ程されていない様が、しかし、だからこそに素朴で、自然の力強さも漂わせていて、美しい。

「お、来たな」


そう言いながら、本殿の玄関先から嵐が顔を出し、続いてチーコが「ふあゎぅふぅ!」と声を上げる。
「あらぁ、そうなの、良かったわねぇ」とエマが表情を緩ませて両手を広げれば、テテテテと駆け寄ろうとして、チーコは階段の途中でくたりと倒れるように転げ落ちた。

「っ!!」

咄嗟に、飛び出そうとしたいずみより早く、兎月原が掬い上げるような手つきでチーコを抱きとめ、抱き上げる。
「大丈夫かな? お姫様」
兎月原が蕩けるような声で問えば「ふぁふぅ!」と元気な返事をして、その首根っこに齧りついた。
チーコは笑っていて、いずみは、ほっと胸を撫で下ろす。
抱き上げられたまま「ひぃふぅあぅ、ふあぅ!」とチーコはエマに何事か告げた。

「バイクでここまで走ってくるの、凄い楽しかったって。 雨に降られなかった?」と聞くエマに「ああ、ギリギリ振り出す前に間に合った。 とりあえず勝手に上がらしてもらったけど、良かったんだよな」と嵐が問い返す。
「大丈夫、ちゃんと全部分って貰ってるから」
嵐の疑問に頷くエマ。
「あ、一応、風呂の用意だけしといたから」と嵐が言えば、エリィと千剣破が同時に歓声をあげる。
「海にいたから体がベタベタしてんのよねー! お風呂、嬉しい♪」
エリィがはしゃげば、「雨にも打たれたし、体あっためたいよねー!」と千剣破も嬉しげに言って、同時に「「嵐君、ありがとう」」と声を揃えるる。
すると、眩しいばかりの美少女二人のお礼の声に、嵐は、ちょっと照れたようにそっぽをむいて「どーいたしまして!」とぶっきらぼうに答えた。

「さ、じゃあ、夕食の支度をするわね。 男性陣、先、お風呂入っちゃって」とエマは手を叩けば、「あ、いや、まだ沸かしてない…」と嵐が言いかけたところで、チッチッチとエマが指を振り、「藤ちゃん、つつじちゃん、お願いね。 あとで、一曲歌ってあげるから」と声を上げる。

すると、そよそよそよと庭に植えられたつつじと藤が優しい音を立てて一斉に揺れた。

「ここの神主さんの式神ちゃん。 私も姿は見た事ないんだけど、私の歌を気に入ってくれてて、ここに来た時は歌の代わりに、神社内の色んな御用事も請け負ってくれるの。 そこそこ力のある子達だから、お風呂も、もう沸いてる筈よ。 広くて、10人くらいだったら一気に入れるお風呂だから、えーと…むさい時間をどうぞ、ごゆるりと〜」と何だか明らかに風呂に行く気力を殺ぐような事を言いつつ手を振るエマに、「じゃ、お言葉に甘えて」と黒須が頷き、男性陣は揃って風呂場に向かいかけ、「あ、チーコはレディだから、女性陣と一緒にね?」と言いつつ、兎月原が、チーコを廊下に下ろした。

にこっと兎月原に笑い返し、此方に走り寄ろうとしたチーコが再びこける。

「ふぁっ、うふぅうっ」

恥かしげに身を竦め、再び立ち上がろうとした時に、チーコの足がガクガクと痙攣した。



あれ?
笑顔のまま、いずみは固まる。

どうしたの? チーコ?
問おうとして声が出ない。

だって、昼間はあんなに元気にはしゃいでいたじゃない。
一緒に海で遊んだじゃない。
ネックレス作ってたじゃない。

好きな人に贈るネックレス作ってたじゃない。


「っ」

ああ、もう、チーコは立てないのだ。

一瞬の混乱。
いずみは走り寄ってチーコの腕を引き、まるで、さっき兎月原がそうして見せたように、チーコを抱き上げようとして、当然、出来ずに一緒に転ぶ。
どうして、私の体はまだ、小さいのだろう。

助けたいのに。
チーコを、助けたいのに。

「あ、ごめ…け、怪我…ない?」
チーコの体を、世界中の全てから守ろうとして覆いかぶさるように抱きしめ、震える声で問い掛けた。
いずみの問い掛けに強張った顔で頷いて、途方に暮れたような顔をして辺りを見回し、それからチーコが初めて、泣きそうな顔を見せる。

怖いだろう。
怖いだろう。

この子は 明日 死ぬのだ。



笑え。
笑え、いずみ。
チーコに、悲しそうな顔を見せてはならない。

そのために、私はここにいるんだ。

笑え、いずみ。

唇を優しく持ち上げる。

チーコの髪をふわふわと撫でて、「転んじゃったね。 私も一緒。 今日は疲れたからしょうがないね」と穏やかな声で言った。

「一緒。 チーコと私は一緒」

チーコが、不安に揺れる一つだけの大きな目でいずみを見上げる。
その額に自分の額をくっつけて、「一緒よ。 チーコ」といずみが言えば、チーコは小さな両手でいずみの頬を挟みこんだ。

「いぅお?」
「うん。 そう、一緒」

すると、チーコはまた、可愛く笑う。
翼が、チーコの体を抱き上げた。
「そうか。 チーコ、疲れちゃったのか。 じゃあ、少し休もう。 今日は一杯遊んだからね」
翼がそう言いながら歩き出し、一瞬振り返っていずみに対して、賞賛の意を込めた満面の笑みを見せた。
いずみは首を振り、それから少しだけ俯く。

怖かった。
酷く怖かった。
耐えられる気がしなかった。
思った以上に怖くて、今すぐベイブの元へと駈けて言って、私の命も何もかも差し上げるから、チーコを助けてあげてくださいと、あの足元に身を投げ出したかった。

構わなかった。
昨日初めて出会ったばかりのチーコは、いずみにとってそういうかけがいのない存在になっていた。


これまた、どうやって?という程に絶品の夕食を終え、そろそろお風呂に入ろうかと言う時間帯。
だが、エリィも、千剣破も、竜子も、百合子も時計を眺めて、動かなかった。
カタカタと、人形がお茶を運んでくる。
これも、どうも、「つつじ」と「藤」の仕業らしかった。

いずみ達は、食後のデザートとばかりに、メリィのお菓子を摘んでいて、一緒に行けなかった千剣破も、大量にみんなで分けられるものを購入していた百合子の相伴に預かっていた。
男性陣も、畳張りの同じ部屋で、寝転がったり、座ったりと思い思いの格好をしつつも時計を見上げている。

「おそくね?」

嵐の言葉に、百合子が頷いた。

「遅いわね」

時雨が皆の分のアイスを買いに出かけると言った時、チーコに一緒に行くように薦めたのはいずみだ。
チーコの気持ちを分ってしまったという事もあり、明日タイムリミットを迎えるというのに、照れてばかりいてロクに時雨と話も出来ていないチーコに二人きりの思い出を作ってあげたかった。
それは、エリィや、千剣破、翼にも共通した願いだったらしく、時雨も勿論嫌がる素振りなく、恥かしがるチーコを抱き上げ、雨の中傘を差して出て行ったのだが、遅くとも30分程で往復できるはずの近所の小さな駄菓子屋に向かった筈なのに、一時間経過した今も帰ってこない。
状況が状況だけに、かなり心配ではあるが、身の危険と言う意味では、時雨の実力を海辺で目の当たりにしていたいずみとしては、然程心配はしていなかった。
時雨はおいそれと敵に襲われて、チーコを危険な目にあわせるような腕前ではない。
エマと、黒須と共に、迎えに行っている冥月も、そこら辺は心配していないらしく、ただ、体調の変化によって、チーコが苦しみ、立ち往生しているのか、他に何か問題が合ったのかと考え出すといずみは不安で不安で、仕方がなかった。

気を紛らわせる為に、ハートの形をしたラムネを口に放り込む。


ガリガリと噛んでいる途中で、玄関先から待望のチーコの声が聞こえてきた。

「ひぅあぅっ!」

慌てて立ち上がれば、皆も一斉に飛び上がるように立っていて、慌てて玄関に向かう。

「おう?」

黒須の腕の中で、戸惑ったような声をあげるチーコの姿を見て、へたりこみたい程の安堵感を覚えた。

「…ごめんなさい」

しゅううんとしぼんだみたいな顔をして、時雨が小さな声で詫びてくる。

「アイス…溶けちゃった…」

そう言いながらビニール袋を差し出す時雨に「いや、それは良いから何があったんだよ」と嵐が問えば、黒須が「傘を野良猫にやっちまって、そんで、バス停で雨宿りしてたんだと」と肩をすくめて答える。
「そのうち…止むかなって…思ったんだけど…どんどん…強くなってきちゃって…しかも、ボク、寝ちゃって……」

とろとろとした喋り方に、いずみはどんどん全身の力が抜けていくのを知覚した。

「ま…いいや。 無事なら」

竜子の言葉に皆頷く。
「チーコ、体冷えたでしょう? お風呂行こうか?」
そう言いながらエマが黒須からチーコの身柄を受け取った。
身を屈めて靴を脱いでいた時雨の胸元から、しゃらりと貝殻のネックレスが滑り落ちた。

ああ、渡せたのだといずみは安堵し、エマに抱かれて先を歩くチーコを見て、ガッツポーズを見せる。
チーコはいずみが何を言いたいのか分ったのか、「ふひひ」と恥かしそうに笑うと、ぎゅっと拳を握って見せた。



お風呂は、凄く広くて、石造りにも関わらず、見た目にも温かみが合って、全身を浸すとふわぁっと疲労が溶け出て行くような心地になった。

「気持ち良いねぇ」

エリィが白い肌を惜しげもなく晒しながら、そう呟けば、千剣破も美しい肢体を湯に沈めくつろいだ表情を浮かべる。
湯をサッと体に浴びせた後に、湯船に足を差し込んでいる冥月も見惚れる程のプロポーションを有していて、見事なバランスを有したスレンダーな体をぐぐぐっと伸ばし、「ああ、いい湯だ」と満足げに呟いた。

驚くべきは竜子で、皆、素顔を見て呆気にとられていたのだが、化粧を落とした素顔といったら、眉こそないものの、息を呑むほどの美人っぷりで、「うひゃー! やぁぁっぱ、日本人は風呂だな! 風呂!!」等と情緒のない事を言っているのが信じられない程に、美麗な顔立ちを有していた。
肢体とて、「何で、黒須さんが好きぞ? 目を覚ませ!」と肩を掴んで揺すってやりたくなる程のプロポーションで、何が、凄いって、胸がでかい。
日頃、特攻服の下の晒しで抑えているせいで分らなかったが、かなり、こう、豊満と言って良い程の大きさを持っていて、ぷかりと湯に浮かばせながら、「いずみ! いずみ! 海坊主」等といいつつ、「にしし」と笑って、タオルからぶくぶくと泡を吹き出させている姿を見ていると、この世の中にこれほど「黙っていれば…」と思わせる女性も少ないだろうといずみは思った。

大体、なんであんなみょうちくりんな化粧をするのか一切想像つかないが、まぁ、この性格にはあの化粧は凄く似合っている。
まぁ、そういうものよね、なんていずみが納得した所で、ガラリと、戸が開く音が聞こえて、チーコを抱いたエマと、翼、百合子が入ってきた。

「遅いわよ?」と言いながら振り返るいずみの目にまず飛び込んできたのは、醜い傷だらけのチーコの体。
見られまいとするかのように身を小さく小さく縮めるチーコの体は、火傷の痕や、痣、中には酷い切り傷のようなものも見えて、「ああ」と心の内でいずみは詠嘆した。
先ほどまで見ていた、エリィの肌も、千剣破の肌も、冥月の肌も、竜子の肌だって、傷一つない、珠のように美しい肌で、いずみとて勿論まだ、何処もかしこも柔らかで滑らかな肌をしていて、チーコは、まるで、他の人と違って、傷がたくさん残る自分の肌を恥じるように、見られまいと体を硬くしている。

畜生。

口汚い言葉。
滅多に思い浮かびやしない、そんな言葉がいずみの脳裏に思い浮かんだ。
奥歯をぎりっと噛み締める。

畜生。

竜子さんは殺さなかった。
いずみは、それでほっとした。
だけど、思う。
こんな事をチーコにする奴を私は決して許せないとも。

エマが掛け湯をしてあげると傷に染みるのか、身を竦めるチーコを「えいっ!て、一度お湯に浸かっちゃえば、すぐに慣れるからね?」と励ましつつ、エマがチーコを抱えてゆっくりとお湯に浸かる。

ぶるぶると身体を小刻みに震わせ、目をぎゅうっと閉じていたチーコが、息を小さく吐き出し、体の強張りを徐々に解いていくまで、誰もが息を詰めてチーコの事を見守っていた。

「はふぅ…」と小さく息を吐き出し、漸くゆっくりと体を弛緩させる。
「えらい、えらい。 凄いね、よく我慢したね」
エリィが気持ちを込めた声でそう言いチーコの頭を撫でた。
「ご褒美に、エリィおねーさんが、チーコちゃんの頭を洗って進ぜよう。 あたし、手先器用だから、超気持ちいいよ?」
明るい、心の染み入るようなエリィの笑みに、気持ちもほぐれたようにチーコが頷く。
千剣破も「ええー? いいなー! じゃあ、あたしの髪も洗ってよ! ほら、ご褒美に!」と訴えて、半眼になったエリィに「何のご褒美?」と問い返される。
「えーと…可愛いご褒美?」とわざとらしい上目遣いで言う千剣破に「不可! 自分で洗いなさい」とエリィはきっぱり答え、そのほのぼのとしたやり取りに、チーコが「ふぁうふぅ」と、漸くいつもの笑い声をあげた。
百合子が、ぽちゃんと肩まで浸かると、チーコの傷のこと等何にも目に入ってないような、呑気な口調で「はぁ…気持ちいい」としみじみ呟き、自分の太ももを撫でさすると、「ね? 正木さん」と語りかける。
「…正木さん?」
気になったように翼が問えば「ええ、人面疽の正木さん」と事も無げに答えて、ザバァと突然肉付きの薄い足を「えい」と高く掲げ太ももを指差した。
「この人」
そう言いながら示す先には、確かに人の顔に見えなくもない痣が一つ。
「これが正木さん。 今は大人しいけれど、私がピンチの時には的確なアドバイスをくれるの」
そう言って「よしよし」と痣を撫でる百合子を皆、マジマジと眺める。
そういう能力がある…としても、興信所のとんでもない面々を見てきたいずみにすれば、別段驚愕の事実って訳でもないのだが、なんだか、どう見たってただの「人の顔に見える」痣にしか見えない。

「おじさんなんだけど、大丈夫、今は眠ってるし、お風呂中はね、紳士だから目を瞑っててくれるの。 だから、皆の裸も見られたりしないから安心してね?」

そう言う百合子に、皆、曖昧に頷いたり首を傾げたり、それぞれ反応を見せたのだが、百合子が最初の頃にまるで自分が何の変哲もない普通の人間みたいな物の言いを思い出し、どこかだ!といずみは少し憤慨した。
彼女が喋ると、それまでの流れなんか全然把握してないような、頓珍漢なのに憎めない言葉ばかり吐き出して、雰囲気も何もかもぶち壊しにされてしまうのだけど、逆にそれがありがたかった。
あまつさえ、チーコの太もも部分の痣を指して「あ、これ、私と御揃いじゃないかしら? ねぇ、喋ったりしない? きっと、この子も人面疽よ」等と言い出し、色々な意味での恐怖にチーコをピシリと固まらせる。
「よかったね! きっとピンチの時には助けてくれるわ☆」そう無邪気に言う百合子にブンブンと首を振り、助けを求めるようにこちらを見てくるチーコに「大丈夫。 絶対、喋らないから」と請け負うと、「怖いことを、チーコに吹き込まないで下さい!」といずみは百合子に注意する。
「えー? ロマンなのにぃ」
そう口を尖らせ言う百合子に、エマも、翼も「ぷっ」と噴き出し、「百合子さんに掛かると、みんなロマンになるんだね」と翼が面白そうに言った。
チーコは、そんなみんなの様子に先ほどまで見せていた固い態度を取り払い、自分の体の傷跡も、恥ずかしそうに隠すそぶりもいつの間にか見せなくなった。



寝床に布団を敷いて、皆で並んで眠った。
やはり身体を伸ばせて眠れるのはありがたく、外のしとしととした雨音と、芳しい藤の香にぼんやりとした酩酊感を覚えながら、いつの間にかいずみは、夢も見ない眠りについていた。





最終日

「うひゃあああ!!」

無闇矢鱈な大声をあげて竜子が走り出した。
時雨もつられたように「わぁぁぁ!!!」と大声を上げて、案の定パフンと途中で転ぶ。
強い風が吹き渡っていた。

「まぁ、本物の砂漠には及ばないけど、やっぱ、ここはここで、奇景って感じで風情があるわね」
エマが風にあおられる髪を抑えながら言う。

そう、ここはかの有名な、鳥取県にある「鳥取砂丘」。
連休中という事もあってか、観光地らしく、ラクダなんぞに乗って砂丘を横断している人もあり、歓声をあげてはしゃぐ子供の姿もそこらかしこにあり、深々とまた大きめのパーカーを着て、フードを被り、顔を隠しているチーコも同い年位の子供達の声に何処となく嬉しげに聞いているように見えた。


今朝方は、それまで見せていた旺盛な食欲も衰えて、折角エマ達が腕によりを掛けて作った朝食を殆ど残していた。
体調も酷く悪そうで、昼過ぎ頃まで眠らせて、少し顔色が良くなったのを見計り、神社を後にしてきた。

つつじと、藤の花に見送られ、心地良い神社を後にした一行が、ここを訪れたのは、エリィがパラパラと道を確認する為に捲っていたガイドブックを、布団の中から覗き込んでいたチーコが、砂丘のページに差し掛かった所、どうしても見たいとエマに訴えたからだ。
そのガイドブック一杯に広がっていたのは、夕日が沈み行く砂丘で、たくさんの子供達が駆け回る写真。
何かの砂丘にてイベントが行われた時の写真らしい。
母親に手を引かれ走る子供達の写真を見て、行きたいと願うチーコに、エマは二つ返事で了承し、他の者とて誰も反対しなかった。

チーコの為の旅なのに、自分の体調の事を含め、しきりに申し訳なさそうな顔をするチーコが、何だか健気で仕方がない。
エマはしゃがみこみ、自分の膝の間にチーコを抱え、その髪をゆっくりと撫でている。
百合子は、それでも平和な顔をして、小さな声で「月の砂漠」を唄っていた。
エマも小さな声で、囁くように百合子と合わせて唄う。
小鳥のように澄んだ可愛い声した百合子と、落ち着いた優しい声音で唄うエマは、強い風の中で、それでもかすかな歌声をチーコの耳にありったけの愛情を込めて注いでいた。
チーコは、余り持ち上がらなくなった腕で、それでもおぼつかない手つきで、冥月に貰った万華鏡を覗いていた。
いずみは、エマの膝に頬をくっつけて、二人の歌声に耳を澄ませていた。

昨日まで元気に見えていたのに、病の進行の仕方も人間とは異なるのか、肌の色艶も良くなくて、呼吸も微かに荒い。

苦しいのかな? チーコ。

いずみは穏やかに、落ち着いた振る舞いを心がけながらも、心中は嵐が吹き荒れているような状態だった。

もし、周りに誰もいなければ、声の限りに泣き喚きたい。
理不尽だと、あんまりだと、誰かに訴えたい。
何も悪い事してないのに、どうして苦しい思いをして、寂しい思いをして、その上、チーコは子供のままで死んでいくのだろう。

だが、現実は残酷で、時は間違いなく流れていて、少しずつ日は暮れていく。



時雨が子供達を連れて、チーコの元へとやってきた。
どうも、子供に酷く好かれる性質のようで、腕や足元に纏わりつく子供達を柔らかな笑みを浮かべて見下ろしている。
身長の高い時雨と、小さな子供達の影が、砂丘に長く伸びていた。
まるで、ハーメルンのようだといずみは思う。
茜色に染まりだした空の下で、優しいハーメルンは子供達を、チーコに引き合わせた。

ガイドブックの写真を見ていたチーコの目は、憧れの眼差しで、きっと、時雨はチーコのあの目に込められた希望を読み取って、彼らをここへ導いたのだろう。
一瞬、いずみは「大丈夫かな?」と、どうしたって普通の人間の子供の姿とは違うチーコと子供達を会わせる事に不安を抱いた。
だが、時雨がいるなら大丈夫。
何だか、子供の扱いに関しては、時雨の右に出るものはいないような気がしたのだ。
まぁ、いずみも子供なのだが。

自分の事を好奇心一杯で覗き込んでくる、実際の子供たちの姿に、チーコは一瞬身構えるも、時雨が言い含めてあるのか、子供達は驚いた目でチーコを眺めるも騒ぎ立てはしない。
チーコの姿をマジマジと眺めながらも、そのうちの一人の女の子が、素直な声で、「かわいい」とチーコを評した。
夕闇の赤い色が濃くなっていく。
チーコはおっかなびっくりの表情で、子供達に手を伸ばした。
一人の子供がチーコの掌を握った。
「かわいいね。 名前は、なんていうの?」

チーコは、震える声で答えた。

「チーコ」

はっきりとした発音で、何度も、何度も、皆が呼んでくれた自分の名を、大事に、大事に呟いた。

「チーコ…いう」
「チーコ。 可愛い名前」

子供達がさざめき、チーコに笑いかけた。

「かおりー! そろそろ行くよー!」
「聡、何処行ったの?」
「あら? 翠? 翠?」

砂丘のそこらかしこから、子供を呼ぶ母親の声が聞こえてきた。

「あ、呼んでる! じゃあね、チーコちゃん!」
女の子が一人手を振り、砂丘を越えて行ったのを切っ掛けに、子供達は皆それぞれ、母親の元へ帰っていく。

チーコは小さく手を振って、それから甘えるようにエマの胸に顔を埋めた。
ポンポンとその頭をエマは優しく叩く。

「ひぃぅあぅ…」
エマが頬を、チーコの頭にくっつけて、「なぁに?」と聞いた。

「ふぅあぅぃぅう……」

いずみは、喉の奥が痛んだ。
時雨が、夕日に目を向ける。
海の波が、ザブザブとした音を立てた。

「……もうじき、……日が沈む。 ボク達も…行こう」

頷いて、立ち上がった時だった。


突如背筋を襲う寒気。


 
振り返れば、砂丘の上にずらりと男達が並んでいた。
皆、手に物騒なものを持っている。
タッと、素早い動きで駆け寄ってきたのは冥月。
流石と言うべきか、チーコの元にすぐ駆け寄れる位置で待機していたらしい。

「思ったよりも早かったな。 追いついてくるのが」

舌打ちせんばかりの表情で、そう呟くと、ひょいとエマからチーコを取り上げた。

「私の傍にいろ。 大丈夫だ。 絶対に傷つけはさせない」

冥月の言葉に、チーコが頷く。
「いずみは、時雨の傍に…」
「大丈夫です」
冥月の言葉をいずみは遮る。

「一応、自分の身は自分で守れますし…」
視線を向ければ、前回を遥かに超える人数で、しかも、どうも容貌がおかしい。

「あの人達…人間じゃない」

いずみの言葉に「いい目だ」と冥月は褒めると、「キメラだ」と呟いた。

「キメラ?」
「人間と、動物を掛け合わせてある。 あの、悪い奴らのお得意技らしい。 とうとう、相手も本気を出してきた」
そう唸るように言って、それから、「大丈夫なんだな?」と念を押す。
「ええ、足手まといにだけはならぬよう自衛に努めます」
いずみの言葉に、冥月はしょうがないという風に溜息を吐けば「私も、これは、守られ役ではいられないわ。 サポート程度だけど、協力も出来ると思う」と、エマが強い目で告げる。
百合子はもじもじと「わ、私も…」と何か言いかければ、「百合子は、私と共にチーコを守れ。 抱いていてやってくれ」と、チーコをその腕に預けた。
細い腕で、おっかなびっくり、不器用にチーコを抱く百合子に一瞬不安を覚えども、今はそういう事態ではない。
「夜になれば…」

え?といずみは首を傾げて、冥月を見上げる。

「夜になれば、私一人で全て片をつけられる。 闇は私の領域だ。 何が起こったのか分らぬ内に、皆地に沈めて見せよう。 だが、今は無理だ。 影を操って、あいつらを拘束するのは可能だと思うのだが、これがただの先発隊で、後からまた別部隊を送られてくる可能性がないわけではない。 今、この様子をまた、別場所から眺めているものがないとも言い切れぬしな。 こちらの能力を悟られれば、何某かの対抗策を練ってこないとは限らない。 向こうは、こちらを遥かに凌ぐ組織力と、資金を持っている。 この仕事が終わった後の事を考えると、はったりを効かせ続ける為にも、私の能力は、まだ、悟られない方が良いだろう。 まぁ、幸い…」

そこまで言って周囲を見回せば、異様な雰囲気を察したのか、観光客等は姿を消していて、「…周りを気にせず、思いっきりやれる。 夜まで保つか?」の問い掛けに、翼と、時雨が同時に片眉を上げた。

「冥月さん、こう見えても、僕は荒事も得意中の得意でね。 特に女性を守る時には、自分でも想像のつかないほどの力を振るえるんだ」

にぃと翼は美しくも凶暴な笑みを浮かべて見せると、「夜までなんて、長すぎる。 まぁ、見てて下さい」と冥月に宣言した。
時雨も、「大丈夫…夜になる前に…ここを出られるように…するからね?」とチーコに語りかけ、それからツイと同時に敵を睨んだ。
首をクキクキと鳴らしながら「ううん。 あんまり、暴力とか得意じゃないんだけどな」と言いつつ、兎月原が柔軟を始め、エリィが夕日の輝きを受け、赤く光るナイフを抜いて、「さて、チーコちゃん、あんまり待たせられないしね」と静かに呟く。
黒須と竜子は一度視線を合わせ、ぽんと竜子が黒須の背中を叩いて「んじゃ、いってらっしゃい」と気軽な調子で言い、それから、冥月に向かって「あたいも、あんたの傍にいさせてくれ」と告げた。
「了解した」と、冥月は頷き、嵐が何か言いかけるより早く、「バイクで、かき回してやれ」と指示を下す。
ガクリと肩を落とし、「ほんと、俺、ただの素人なんだけど?」と問う嵐に、冥月がシレっとした顔で「いや、素人にしておくには勿体無い度胸と身体能力を持っている。 励め」等と、嵐の師匠と見紛うばかりの励ましの言葉を口にする。
千剣破は海へと向かって歩き出し、「いずみちゃん、あなたの目であたしをサポートして」と声を掛けてきた。
彼女は水の力で、遠距離から近接戦の面々をサポートするのだろう。
了解したという風に頷き、いずみは千剣破と共に歩き出す。
彼女の強張った表情が、なんだか少し気になった。

「日があるうちは、私はチーコの守りに徹する。 任せたぞ」

冥月が、そう告げると、一際強い風が吹いた。

「チーコを苦しめた連中だ。 死なない程度にしか、手加減はしてやらない」

翼が剣呑な宣言をするのを合図に、それは始まった。

向こうの人数は、圧倒的に多数。
だが、個人個人の実力は、比べるまでもなく此方の方が上。
人数押しで来る向こうの攻撃を少ない人数で、どれだけ押し留められるのかが鍵になってきていた。

冥月の体の傍に、ぴったりと百合子が身を寄せて、チーコを抱きながら戦況を見守っている。
冥月は表情を変えず、腕を組んだまま微動だにしない。
千剣破は、海の水を硬球に変えて、一気に敵に降り注がせた。
痛みに怯むものや、当たり所が悪く、一撃で昏倒するものもいる。

「向こうの一群、一斉に銃を構えてます! お願いします!」
いずみがそう言い指差せば、「オッケー!」と千剣破は返事をし、指差すほうに向かって性格に、攻撃を仕掛けた。
「殺してはならない」の制約は、名うての実力者達にとっては、少々面倒なものらしく、それぞれ手加減の程に苦慮しているようだった。
接近戦を得意とする、エリィや、兎月原は、確実に一人一人に当身や、急所への攻撃を仕掛け、意識を奪っていっている。
嵐は、冥月の言葉どおり、バイクで敵が固まっている場所に突っ込み、散らしたり、タイヤを使って巻き上げた砂によって、視界をさえぎったりしていた。
「ん、んんっ、もうちょっとスピード上げればいいのかもだけど、そしたら、体に穴開けちゃいそうだし…」
千剣破もコントロールに苦慮しながら、何とか敵の数を減らしていっている。
振り返れば、夕日が徐々に沈み始めていた。
冥月の時間が近づいてきている。
負傷者や、深刻な重症を負う者もなく、冥月の言葉を信じれば、これにて決着が着くのだろうか?と思われた矢先の事だった。

冥月が、もう少し戦況が見渡せるような、高台へと移動を始めた。

強い風が吹いた。

チーコが万華鏡を落とした。


コロコロコロと、万華鏡が転がっていく。

その刹那、もがく様に百合子の腕を抜け出したチーコが、その後を追った。


「っ! チーコ!!!!」

初めて、冥月が声を荒げた。


コロコロコロ、冥月に貰った万華鏡が砂漠を転がっていく。

トテトテと、もう歩けぬ足で、それでもよたよたと、チーコが必死に追った。
慌てて、冥月がチーコに走り寄るより早く、四つん這いになって人間ではありえない速さでチーコに走り寄ってきた男が、まるで、サッカーのボールを蹴るみたいに思いっきり、チーコを蹴っ飛ばした。

「ヒュゥッ」と喉の奥が狭まる。
チーコが玩具みたいに吹っ飛ぶ。
砂の上を、二三度バウンドして、ごろごろと体を転がしたチーコ。


「逃げて!!! チーコ、逃げてぇぇぇぇ!!!」


いずみが叫ぶ。
もし、目の前で、チーコが無残に殺されたら…


竜子さんがなんと言おうと知らない。
自分の力で、それが叶うのかなんて、分からない。

だけど、この世界に、彼らが存在する事を許してはおけないといずみは思った。

この知能、力、何もかも全て使って、あいつら全員、許してはおかない。

それは、紛れもない凶暴な殺意。


だが、チーコは、動かぬ足を砂の上でもがかせ、そして、腕で這いずるようにして、それでも、万華鏡を追った。
ずるずると這い手を伸ばす先に、万華鏡が触れるか否かの間際、横たわるチーコの体を、先程チーコを蹴り飛ばした男が思いっきり踏みつけた。

「うぐぅはぅっぅっ!!!」

悲鳴とも喚き声ともつかない声。

いずみの頭が真っ白になった。




「チィーーーーコーーー!!!!!!」



喉を潰すような大声で、いずみは叫ぶ。

助けようとする冥月の周りを、数人の男が取り囲んだ。
その間を抜けて、百合子が転がるようにチーコの上に覆い被さり、竜子が再びチーコの上に迫る男の前に立ちはだかる。



いずみは、全身から冷や汗が吹き出るのを感じ、意識を集中して、ベクトルを変換し、チーコに襲いくる男達を阻もうとする。
動いているものならば、制御できるはずと拳を握り締めるも、いつになく焦り、巧く力がコントロールできない。
自分の足元の砂がピシピシと音をたて、渦を描く事に歯痒い思いを味わえば、この制御の困難さは、自分の焦りのせいだけではないと、漸く悟った。

振り返れば、千剣破の周りを黒い水が取り囲んでいる。
海から巨大な水の竜巻が幾つも立ち上がっていた。
真っ黒な海。

酷く禍々しい、その姿。

「あ…ああっ、あっ…!! 許せない…許せない…許せないっ!!!!!!!!!」

目を見開いたまま、千剣破が強い声で繰り返し叫ぶ。
ビリビリと周囲の空気が震えていた。
空に暗雲が立ちこめ、稲光の音が聞こえてくる。


黒い水を身に纏い、真っ白な頬を更に白くさせ、爛々とした目で敵を見据える千剣破の姿にいずみは息を呑む。


酷く恐ろしく、酷く神々しく、酷く美しく、そして酷く危うい。

髪の毛が風に舞い上がる。
普段より赤く色づく唇が、きゅうっと引き結ばれる。

皆が、海の様子、そして千剣破の様子を凝視していた。

敵の男達の中には、明らかに危険なこの状況に既に逃げ始めたものもいる。


こんな力、コントロール出来る筈かない!!


「いずみ…、千剣破を止めろ!」

冥月が叫ぶ声がする。


尋常じゃない。
呼吸すらままならない力の本流に、いずみは頭がズキズキと痛み出す。

何か、尋常ならざるものを呼び覚まそうとしている。

目覚めれば、もう、誰にも止められない。



チーコの泣き声が聞こえた。


万華鏡を抱きながら、チーコが泣いている。



いけない。
チーコ、泣かないで。
泣かないで。



幸せな気持ちで。
幸せな気持ちで…。


私は、その為に、ここにいるんだ。


いずみは、ぐいと手を伸ばし、千剣破の胸倉を掴むと、下に引き寄せ、その頬を思いっきり張り飛ばした。


「しっかりなさい!!!!」

凛とした声で、千剣破を叱る。

「泣いているでしょう! チーコが泣いているでしょう! 今、あなたは、誰のために力を振るおうとしているの?! それは、誰を守る為の力なの?! 正気に戻りなさい! 泣かさないで、チーコを! 千剣破さん! 泣かさないで!!」


いずみの言葉に徐々に千剣破の焦点が結ばれる。
海が徐々に静まり始めた。

我に返った、千剣破が脱力したようにへたり込み、血の気のない顔をして、震えながらいずみに礼を述べた。

「ありがとう」

いずみは、そんな千剣破に安心して、一度頷いてみせた。

そして、チーコに慌てて視線を送れば、黒須が竜子を鋭い爪で切り裂こうとしていた男を叩き伏せ、時雨がチーコを抱きかかえようと手を伸ばしている。

千剣破が呼んだ暗雲も、霧散し、その下の茜色の空が、夜の闇を濃くし始めていた。

冥月が、明らかに身に纏う空気を冷たく、凍りつかせながら敵に向かって歩き出し始めていた。
手には黒い刀を持っている。

脱力する千剣破を支え、あとは決着の時を待つだけと心を落ち着かせるいずみの耳に、一発の鋭い銃弾の音が届いた。


ドラマみたいな、偽者みたいな銃弾の音。

いずみの驚異的、動体視力が銃弾の軌跡を無意識に追いかけ、咄嗟にチーコや竜子達を守る為に壁になった黒須の背中に撃ち込まれるのをはっきりと視認した。


「「ひっ…」」

いずみと、千剣破が同時に悲鳴の前兆を零す。

だが、二人の、その声の意味は、全く持って、180度くらい意味が違った。


千剣破はきっと、黒須の身を心配し、その命の事を想って悲鳴をあげようとしているのだろう。

だが、いずみは違う。

全然違う。


まーーーったく違う。


「ひっ、っっ、へ、蛇っ!!!!!!!!」


咄嗟のいずみの悲鳴に、叫びかけていた千剣破が口を開けたままぽかんといずみを眺めた。


夜闇の下、「あ、っ、っつぅっ、ち、畜生っ!!」と黒須が叫び、蹲った次の刹那には、彼の姿が、あの下半身大蛇の姿へと変わっていた。

着ていたスーツは無残に破かれ「今回は、この姿になんねぇで済むって、踏んでたのに!」と悔しげに喚く。

いずみと、エマ、竜子を除く全ての面々が、一時硬直した。


ていうか、いずみは、知ってるけど、黒須の正体知ってるけど、別の意味で固まっている。

幾ら破虫類に慣れ始めていても、これは無理だ。
これは無理だ。
これは無理だ。


「う、うううっううぅぅぅ!!」

ぎゅうっと握りこぶしをしたあと、耐え切れずに目を逸らす。
脂汗が額に浮かび、「き、気持ち悪いよう…」と黒須が聞いたらしこたま傷つけてしまうゆえ、絶対に本人の前では言えない言葉が、ころりと転がり落ちた。
「な、んな、なっ! なんなの! あれ!」

ずびし!と黒須を指差し叫ぶ千剣破に説明するのが億劫で「…呪われた蛇一族の末裔なんです、黒須さん」と限りなく好い加減な嘘を吐く。

「蛇、一族…」

ゴクリと喉を鳴らし、恐ろしげに呟く千剣破に、「ああ、もう、そういう事にしておこう…」と彼女の素直さに感謝しつつ、放置を決定したいずみは、ふと、嫌な気配を感じて、砂丘の上に視線を向けた。


そこには、今、この場にいるどの男たちとも雰囲気の違う二人の男が立っていた。

一人は仕立ての良いダブルのスーツを着こなした長身の男で、他の粗野な雰囲気を身に纏う男たちとは一線を画する威圧感を有している。
派手な色に染めた少し眺めの髪を、鬣のように後ろへ流して風に舞わせている。
顔立ちは端正で、精悍でありながら、後ろ暗い、ヒリヒリとした危険を感じさせる危険味も含んでおり、全身から「只者でない」空気を発散していた。
今回の一群を率いている幹部らしい、体格の逞しい男が、腰を低くしながら、追従するような様子で何か鬣の男に伝えている。
その隣に立つのは、男と対照的に身長も低く、青白い顔をした細い男で、白衣を風になびかせながら、脇に立つ男達のやり取りなど一切無関心といったように、戦況を凝視していた。

Dr。

チーコに発信機を埋め込んだ男。

浜辺で、翼によって得られた情報を思い出し、まさしくと言った風貌に間違いないと確信する。

ぎょろぎょろと目ばかり大きく、銀縁の眼鏡の中で彷徨っている視線が、黒須を捉えると、ギラギラとした輝きに満ち始めた。

こんな人間と、動物を掛け合わせたキメラを作ったり、チーコのような子を攫ってくる人達だもの。
黒須のような人間に興味を持つのも不思議はないと思いながらも、Drと呼ばれている男の視線の狂気的な有り様に怖気を奮う。

(黒須さん、変な目のつけられ方をしなければいいけど)と思えど、千年王宮の住人でもある黒須には、おいそれと及ぶ危険もあるまいと考え、いずみは現状の把握に意識を集中させようとする。

だが、そんな必要は一切なかった。

夜しか、変化できない黒須が、下半身大蛇の姿になれたという事は…。

夕日が完全に沈みきり、あたりは夜闇に包まれる。

「待たせたな」


低い声。


無慈悲な夜の女神。


黒冥月が動き出す。

「じゃあ、終わりを、始めようか」

黒いロングスカートが風に揺れる。
髪を高く結った冥月が両手を広げた。

チーコへの狼藉を目の当たりにした面々も、その怒りを力に換えて、敵方を睨み据えている。



夜が来るという事。
それは、「冥月によって、全て片がつく」という事と同意語でもあった。




思わぬ時間を取られたせいで、山口県に到達する頃には、夜明けが近付いて来ていた。

砂丘の上に見た男達は、冥月に尋ねど「取り逃した」らしく、その後「あんな場所まで見ているとは、本当に目が良い」と褒められた。

チーコの蹴られた傷跡は、もう微塵も見当たらない。
千剣破の水の力によって、傷を癒したのだ。
疲れきった様子の千剣破ではあったが、最後の力を振り絞り、チーコを癒す姿を見て、いずみは心底、彼女にはこういう力の使い方の方が似合うと感じた。
チーコの蹴られた時の記憶は、翼の「事象の操作」という恐るべき能力によって消されていた。

「本当は、タイムパラドックスを引き起こしかねない、使ってはいけない力なんだけどね…これ位なら、大丈夫だろう…」と言って翼が新たに作り上げた事象は「蹴られた際に、チーコは意識を失い、砂丘で暴力に晒された記憶は、ショックで消えてしまった」というもの。
傷跡もなく、記憶もないチーコは、まさか自分が恐ろしい目に合っていただなんて事も、すっかり知らぬ気に、穏やかな様子でエマの腕の中でじっとしていて、いずみは心から安心した。

良かった。
不幸せな思い出は、三日間の間一つだってチーコの中に残したくなかったから、本当に良かった。





潮岬…本州最南端の海。


その海を一望できる、灯台の上に立ち、チーコが夜の海を眺めていた。

もうじき、夜が明ける。

チーコは、自分を抱いていたエマの腕を優しく叩き降ろしてくれるようにと頼んだ。


ここが彼女にとっての、最期の地。


見上げれば満天の星空があって、皆息を殺してチーコを眺めた。


チーコは、自分の運命全て分っているかのように微笑んで、一礼する。

キラキラキラと、夜闇を引き裂くように、流れ星が落ちていった。


唐突に、何の予備動作もなく、その喉から、チーコは燃えるような、熱く、熱く、力強い声を出した。



「会わなければ よかったと

思う私を 許してください」


それは紛れもなく、人の、日本語の、いずみ達が使う言葉の 歌。






会わなければ よかったと

思う私を 許してください


闇の中で 息絶えていれば

生きたいと願わずにいられたのでしょう


優しくされて

優しくされて


私は死ぬのが怖くなった

優しくされて

優しくされて


私はとうとう恋をした


幸せです
不幸せです

嬉しいです
寂しいのです

抱きしめて
触らないで

全部嘘です
全てが真実


あなたが 好き





チーコが手を延べる。
視線の先には時雨がいる。





あなたが 好き


好きじゃない
嫌い

だから 泣かないで
笑っていて
私が いなくなっても 笑っていて


真実

あなたが 好き

だから 笑っていて

私が いなくなっても 幸せになって

私の事を忘れてください


いやだ

私の事を忘れないで

うそ

わすれていいの

だから

幸せになって 幸せになって

好き 好き 好き 好き さようなら



「あなたに あえて よかった と おもう わたしを ゆるしてください」


炎の歌。
命を燃やす歌。

夜が明け始める。

チーコの指先が、髪が、炎に変わり始めた。


その全てを燃やすかのように、チーコが唄う。

最期の歌。

時雨が、転げるように、チーコに走り寄り、その体を抱いた。


「チーコ!!!」


幸せになって


「チーーコ!!」


幸せになって

「いやだ…いやだよ…チーコ…一緒に…故郷…見に行こうって言った…約束した…嘘つき…チーコの…うそつき…あっ、ああっ、うああっ、わああっあああああっ!!!」


慟哭。

自分の全身が炎に包まれるのも構わずに時雨はチーコを強く抱きしめた。

一緒に燃えてしまうんじゃないだろうか?と心配になった。
赤い髪が、体が、何もかもが炎に包まれて、時雨は夜闇の中で、チーコを抱いて燃えていた。

キラキラと炎に包まれ、光の粒が二人の周りを舞う。

ああ、あれは万華鏡の光の欠片。

焼けた万華鏡の中から、光が舞い上がり二人の周りをひらひら飛んでいる。


チーコは最期の瞬間いずみを見た。

いずみは無意識のうちに、ガッツポーズを見せた。
チーコはぎゅっと拳を握って見せて、「ばいばい」といずみに手を振った。




朝日差す海。
目を射るほどの輝きが海面一杯を満たす。




その瞬間、チーコの体は全て炎と化して、消え果てた。



時雨が喚く。
声にならない声で。

赤い髪が炎のように揺れていた。



そして、眩い光の中真っ黒な影の塊になって、時雨は長身を折り曲げ蹲ると、唇を押さえ、耳を押さえ、目すら閉じて、全て、全て記憶にあるチーコの全てを、何処にも逃さないかのように、じっとそうやって、じっと、蹲り続けた。

まるで、両手を組み合わせていないのに、その姿は祈りに見えた。

酷く敬虔な祈りに見えた。


神様は、呆れる程に無力で、チーコの命を救えはしなかったけど、それでも最期彼女は笑っていたから、笑っていたから……

いずみは、祈りの変わりに、ぎゅっとガッツポーズを取る。



ばいばい チーコ


そして、皆に背を向け、いずみは一人で泣く為に歩き出す。

全く持って、なんて成長していないんだ私はと、自嘲しながらも、ほろほろと我慢しきれずに流れ始めた涙を拭おうともせず、いずみは歩き続ける。

三日間。
本当に楽しかった。
私 あなたに会えてよかった。


ばいばい チーコ
夜の海のチーコ

あなたの事は忘れない
あなたの歌を私は忘れない



fin



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1271/ 飛鷹・いずみ   / 女性 / 10歳 / 小学生】
【3446/ 水鏡・千剣破  / 女性 / 17歳 / 女子高生(竜の姫巫女)】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【7520/ 歌川・百合子/ 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2778/ 黒・冥月 / 女性 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【5588/ エリィ・ルー / 女性 / 17歳 / 情報屋】
【1564/ 五降臨・時雨  / 男性 / 25歳 / 殺し屋(?)/もはやフリーター】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】



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■         ライター通信          ■
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出来上がりが大変遅くなりまして誠に申し訳有りませんでした。


本当に、長い、長い物語にお付き合いくださいましてありがとう御座います。
三日間、参加してくださった皆様も楽しいときが過ごせていたら幸いです。
チーコは皆様のお陰で、幸福な気持ちでこの世に手を振ることが出来ました。
彼女の最期の歌を是非、忘れないでいてください。
夜の海のチーコ。

終幕で御座います。

尚、momiziのウェブゲームは、登場人物全ての方、それぞれの視点に即した物語となっております。
お暇なときにでも、他のウェブゲームにもお目通し頂けると新たな真実や、自分のPCが他PCにどう思われていたのかを、知る事が出来るかと思います。

それでは、momiziでした。