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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【夜の海のチーコ】


〜OP〜

今日はチーコは四回殴られた。

一回目は、唄ってる時に笑ったから。
二回目は、お昼ご飯のパンくずを床に落としてしまったから。
三回目は、殴られた時に吐いた血で殴った人の手を汚してしまったから、
四回目は、何となく。

チーコは、南の海にある活火山を抱く小さな島で生まれた。
チーコは、その島では仲間達から「可愛いチーコ」と呼ばれていた。
友達思いのチーコ。
笑顔が素敵なチーコ。
可愛い、チーコ。

チーコは、ここでは、名前を呼ばれない。
ただ、「化け物」って人間はチーコの事を呼んだ。

それは突然の嵐だった。

チーコが住んでいた南の島に、ジェット船に乗った人間たちがやってきた。
誰かと喧嘩なんてした事のないチーコの仲間達は、みんな一編に殺されたり、捕まったりした。
チーコは捕まった側で、そのまま、「新宿」ってトコにある、あんまり性質の良くない店で見世物としてショーに出されていた。

チーコの種族は、皆歌が上手だった。
燃える様な、命を燃やすような、赤い、赤い、力強い、炎のような歌を歌った。
人間はチーコの歌を珍しがって、たくさんの人間の前で散々に歌わせた。

チーコは、10歳。
活火山がある、南の島で、毎日歌を歌って暮していた。
その日々は太陽みたいに暖かくって、海のように無限に続くと思ってた。

カフッ。

薄暗い小さな小部屋で、チーコは小さな口からたくさんの血を吐き出す。
此処に連れてこられて、もう一年になる。
チーコは、南の島の美しい空気の中でしか本来は生きられない生き物だった。

もう、永くない。
チーコは分っていた。
もう、私は、永くない。

目を閉じる。
おかあさんの顔
おとうさんの顔
友達の顔

チーコももうじきそちらに逝きます。
チーコは笑う。
怖くない。
怖くない。

ただ、恋をしてみたかった。

何度も、何度も、喉を震わせ、情熱的に歌った恋。

チーコは知らない。
恋を知らない。
チーコは知らない。
それが、どんなに幸せかを知らない。

突然、大きな音がチーコの鼓膜を震わせた。

「アァ!!」

声を上げて跳ね起きる。
すると、自分の顔を覗き込む黒い影にチーコは気付いた。
「ああ、間違いない」
男の人の声。
キンキンとした、鼓膜をやけに引っ掻く声。
パチパチと瞬いて、チーコは見上げた。
黒く長い髪が揺れていた。
何だか険しい顔。
南の島にたくさんいた、蜥蜴や、蛇にちょっと似ている。
けれど、彼らはこちらが乱暴をしなければ決して、牙をむく事のない大人しい生き物立ちチーコは知っていたので、チーコはちっとも怖くなかった。
恐る恐るといった手つきで、骨ばった硬い手が、チーコの体を抱き上げる。
煙草の匂いが、チーコの鼻腔を擽った。
「ひぅあぁ?」
喉を震わせ、だあれ?と問う。
「助けにきた」
思いの外優しい声だった。

チーコは、疑う事を知らない子だったので。
何度でもそれで騙されて呼ばれて笑って傍によって、何度も、何度も蹴り飛ばされるような子だったので、「ひぅふぁぅぅ!」と高い声を上げて笑って、しっかりとその胸にしがみ付いた。

夜の空の下、男はチーコを抱えて駆け出した。
長い髪が、漆黒のカーテンのように風に煽られ広がる。

きれいだな。

チーコは手を伸ばし、さらさらとした手触りに微笑んだ。

きれいだな。

夜のカーテン。
なんて、美しい帳。

「化け物が逃げたぞ!!」」
後ろの方から声が聞こえる。
チーコをたくさん殴った男たちの声だ。
「ひぁふぅ!」
叫んで後ろを指差し、気をつけてと叫ぶチーコの背中を分ってるよという風に優しく叩いて、髪の長い男は誰かを呼んだ。
「竜子!!」
るーこ?
首を傾げるチーコの耳に、闇を切り裂くエンジン音が聞こえてくる。
あれ、知ってる。
あれ、バイクってゆうんだ。
チーコの見張り役の男が読んでる雑誌に載ってたよ?

「誠!!」
女の人の声。
凛とした、強い声。
バイクに乗ったその女の人は金色の髪を靡かせて、チーコと男の前に急停止すると、慌てた様子でヘルメットを投げつけて「追手は?!」と問い掛けた。
「しこたまだ。 とっととずらかるぞ!」
そう誠と呼ばれた男は答え、宝物を抱くような手でチーコを抱き直し、るーこのバイクの後ろにまたがる。
「大丈夫。 怖くないから」
るーこが優しい声で言った。
「大丈夫。 行こう、チーコ」
誠が、チーコの名前を呼んでくれた。
「ひあぅぅふぅるるぅぅ!」
嬉しくって大声で笑う。
るーこのバイクが、夜闇の中を猛スピードで駆け出した。
神様だってきっと追いつけない。
大型バイクは、そうやってチーコを暗い部屋から攫っていった。

*******************************

「で?」
「匿って欲しい」
黒須の言葉に武彦は、はぁと溜息を吐き出した。
「この前は不良娘の捜索で、今度は…」とそこまで言ったところで、零が常に無い強い声で「お受けします」と勝手に返事をしてのける。
「おい…零!」
そう非難の声をあげる兄をキッと見据え、「受けるんです!! 絶対に」と殆ど悲鳴のような声で兄に詰め寄った。
「…まぁ、こっちとしては報酬さえ受け取れるんなら、別段構わないが」
そう言いながら、ひしっと小さな掌で黒須の服を掴んだまま膝の上で眠るチーコの顔を見つめる。
ステージに上げるからだろう。
顔にこそ傷はなかったが、体中痣だらけで、煙草を押し当てられた火傷の痕も点々とあった。
「…まだ…子供だぞ」
黒須の隣に座る竜子が軋む声で呻いた。
「…こいつ…まだ…子供なんだぞ」
自分だって世間じゃまだ、充分子ども扱いされる年齢の癖に、ぎゅっと握り拳を固めた、相変わらず派手な特攻服に身を包んだ女は「糞野郎共だ」と吐き捨て、「頼む」と律儀な声音で呟き、頭を下げてきた。
「…で? 何なんだ、この子を追って来てる奴らの正体は」
武彦が問えば、「アジア諸外国を縄張りに、麻薬の密売やら人身販売やら、まぁ後ろ暗い商売の業界で一気に伸し上がってきた新興のマフィアだよ」と黒須は答えた。
「で、そこのトップっつうのが、若干キてる趣味の持ち主でね。 人間と動物を掛け合わせて作るキメラの研究やら、人間外の珍種なんかを世界中から攫ってきてオークションに掛けたり、ショーに出したりするような、そういうえげつのねぇ商売もやってやがんのさ」
黒須の説明に、武彦はチーコの容貌をもう一度しげしげと眺めた。
チョコレート色の肌。
オレンジ色の髪。
鳥のような声。
小さな体は、人間の子供と変わりない形をしているが、唯一つだけ、大きな違い。
大きな、大きな一つの目。
チーコには目が一つしかなかった。
顔の真ん中に一つ、燃えるような太陽色の綺麗な目玉。
「ベイブが…俺達の上司がね、この子の事を見つけてさ、何とかしてやれってお達しが出たんだ。 たまに、そういう慈善事業めいた事をしたがる奴なんだが、今回はバックがやべぇ。 とにかく、三日間。 何とか、三日間あいつらからチーコを守ってやってくれ」
「何故三日間なんだ?」
そう問い掛ける武彦に、黒須はチーコを見下ろして、その唇に手を当て、彼女が確実に眠って居る事を確かめると、囁くような声で言う。
「保たない」
「……何がだ」
「チーコがだよ。 一年間、この汚れた街で引き絞るみたいにして生きてきた。 保たないんだ。 あと三日なんだ」
「それは…」
確かなのか?と問い掛けかけて、事務員が教えてくれた、彼らの上司と言う男が、全てを見通す力をある鏡により得ている事を思い出す。
「多分、俺達の住んでる城に連れてけば、多分危険に晒されないで済むんだろうが…そりゃあ、あんまりだろ? 最期位、外の世界で、楽しいもんばっかり見せてやりてぇんだ」
黒須の言葉に、武彦は溜息を吐き出して、零を横前で見れば、大きな目に既に涙を溜めていて、「兄さん…」と震える声で呼んでくる。
「あーーー、もう、分ったよ。 請け負うから、お前は泣くな、お前も!」
そうズビシと指差された竜子は、既に鼻水もだくだくに流していて「ううう、…だのむからなぁ?」と涙に濡れた声で告げてきた。

チーコを守るだけならともかく、その背後にあるマフィアまで相手にしなきゃならないとなると、かなり面倒な案件になるとひしひしと感じながら、武彦は二人の女の涙に負けて、この厄介な依頼を引き受ける事にした。


〜本編〜




初日。

「兎月原を…ですかぁ…?」

口を開け放した喋り方は、幼く聞こえると再三雇い主である兎月原正嗣に注意されていたのだが、それでも治らない歌川・百合子の癖の一つだった。

「ああ、何でも、絶対に客の女性を満足させるってぇんで、結構評判は聞いてるぜ? しかも、性質の良くないヤクザに難癖つけられても表情一つ変えずに、相手を叩きのめしたんだろ? そういうメンツがどうしても一人欲しいんだ。 頼むよ」

目の前に座っているのは「草間興信所」とかいう所の、オーナーさんらしい。
目の前には、彼がご馳走してくれるというので、思わずオーダーしてしまったチョコレートパフェ。
細いスプーンでザクザク掘下げながら、「えーと、そのチーコちゃんを喜ばせるお仕事に、兎月原の力を借りたいって事で良いんですよねぇ?」と確認と取れば「ああ」と頷く。
「でも、チーコちゃんは人間の子供の外見とはちょっと違ってて、しかも、あと三日の命…と…」

ふむふむふむと頷きながら、ハクハクとアイスクリームを掬って口の中に入れる。

「えーと、もっと詳しい説明を受けなきゃお返事は出来ないんですけど…」
んくんくと、飲み下せば、冷たくて甘美な感触が喉を滑り落ちてくる。
「気狂いアリス」。
浅草にある、百合子の行きつけの喫茶店は、相変わらず落ち着いた雰囲気で、他に客の姿も見えないために、思う存分居座ることが出来た。

「一応、受ける場合の条件の大前提としてですね、私も仲間に入れるって事をですね、提案させてください」

そう百合子が言えば、武彦は少し目を見開いた。
「あ、お金はいいです。 お金持ちなわけじゃないんですけど、お役に立てる自信がないんで、私の分まで報酬を下さいとは言いません。 でも、ちょっとお話を聞いてるだけでも…なんか…ロマンチックなんで…」
「ロマンチック?」
「ええ。 異種族の女の子を守って、楽しい時間をすごさせてあげるお仕事なんて、凄く、すごおおくロマンチックじゃないですか?」
百合子の言葉に「あー、そういう見方も…あんのか?」と首を傾げて、それから武彦は煙草を咥えた。「あ、吸っていいか?」
そう許可を求められ「どうぞ」と頷いた後、「あ、でも、チーコちゃん…?の前では駄目ですよ」と注意すれば「わぁってるよ」と肩を竦める。
「うん。 あんたみたいな人がメンツに混じってくれるのも、チーコにとってはいいかもしれない。 いいよ、一緒に来てくれ。 だからくれぐれも…」
「兎月原ですよね? ええ、任せてください。 お話の内容を伺って、私の今の印象どおり、ロマンチックな仕事でしたら、私、なんとしてでも彼にもこのお仕事に参加して貰います」
そう力強く頷く百合子は、頭の中で、さてどうやって、兎月原を口説き落とそうかと算段を整え始めていた。

百合子の雇い主であるところの、兎月原は、出張ホストの仕事をしていた。
そんな兎月原の元で勤め始めて、早半年。
それまでは、何故か、望んでいるわけでもないのに止む得ない事情で職を転々とし、流れ流れて、とうとう水商売の片棒を担ぐ事になった時には、本当に、心底、ずううんと落ち込んだ。
だが、一回踏ん切りをつけて勤め始めて見ると兎月原は、中々紳士な性格で、大雑把な彼が全部丸投げにしてくる事務仕事や、経理の仕事を片付けたり、雑務をこなしている内に、この仕事が自分の性にあっている事を悟ってしまった。

今まで観たことのないような世界を垣間見えるし、我が儘で、気紛れなところがある兎月原を宥めすかして働かせるマネージメント業務の真似事のような事も、そこそこ楽しい。

何だかんだと慌しい日々を過ごすうちに、とうとう半年。
これからも、同じような生活を続けていくのだろうと考えていた百合子に舞い込んだのは、更なる非日常への招待状だった。



「草間興信所?」
「はい!」
「聞いたことはあるけど」
「ロマンなの!」

両手を組み合わせて、膝をぺたんと床に着き、目をきらめかせながら見上げる百合子を、兎月原が困ったように見下ろしてる。

「ロマンなの?」
「ええ! 悪い奴らに捕まってた悲劇の少女を助けるの。 さしづめ、兎月原さんは王子様役ね! 私は、精一杯背後で目を光らせているわ! 白馬の用意もしてあげたいけれど、街中じゃ目立つわよね…。 どうしましょ! 王子様の必須アイテムって、なんだったかしら?」
そう言いながらパタパタと手を閃かせ、それから再度兎月原を見上げる。
「ねぇ…いいでしょ?」
兎月原の事務所兼住所のマンションの一室で、百合子は必死になってお願いする。
「きっと色々楽しいものを見れるわ。 不思議な人が集まる事務所らしいの。 私も出来るだけの事はするから…」
言葉を続けようとする百合子を制し、手を伸ばして優しく頭を撫でてくる。
端正な甘いマスク。
甘い、甘い、焼け付くように甘い、魅力的な蜜の声。
「いいよ。 百合子の頼みを、俺が断わったことがあったかい?」
そう微笑まれて、ほっと安堵の息をつく。
「ありがと。 兎月原さん。 大好き!」
そう言えば、「俺も、百合子が大好き」と言って、柔らかく百合子の頬を摘んだ。
「しかし…その武彦って男もやるね。 どうも」
兎月原の言葉に「なんでぇ?」とピョコンと首を傾げれば「俺が男の頼みなんて滅多に引き受けないのを見越して、直接俺に頼むんじゃなく、可愛い、可愛い百合子に依頼をしてきたわけだろ?」と答えられ、そういえばどうして、兎月原さんでなく、私に言うのかしら?って最初疑問に思っていた事を思い出す。
「あー、確かに。 え? 兎月原さん、私の頼みじゃなかったら、引き受けなかった?」
そうくるくる目を瞬かせながら問えば「オフコース」と軽く答えられる。
「もう! こんなロマンたっぷりなのに。 我が儘なんだから…」なんて、見当違いの怒りを抱きつつ、良かった武彦が自分に依頼してくれて…とも思う。
だって、そうじゃなきゃ、自分はきっと関わる事なんて出来なかった。
折角の、こんな楽しい機会逃してなるものですか!と喜び勇む百合子だった。


かくして、そんなこんなで、二人で訪れた、興信所。

金髪の少女が目を真っ赤にして、呆然と座っていた。
鼻をかみ過ぎたのだろう。
鼻の頭も真っ赤になっていて、何だか幼く見える。
隣に座る男の陰惨な空気を中和するかの如く、感情を駄々漏れにしながら、今は泣き疲れのせいか、何だか呆けているようだった。

彼女の名前は城ヶ崎竜子。
すんすすんと、鼻を啜り上げている姿が可愛くて、じいっと眺めていたら、きょとんとした顔で見返された。
化粧が濃く、特攻服なんかを着ているから鉄火な気質なのだろうとは思うのだが、なんだか若干間抜けな空気も漂っていて、泣き伏したせいでアイラインが滲んでいる顔は、ちょっと小狸にも似ている。
隣に座っている髪の長い、薄気味の悪い男は黒須誠。
この男もどうにもこうにも好奇心を刺激する気配を漂わせていて、何にしろ、このちぐはぐな二人組みが今回の依頼人であることは間違いなかった。

黒須が今回の仕事について説明を終えた後、竜子は、きっちりと「頼みます」と頭を下げ、真摯な声で、そう告げた。 竜子や黒須が、『チーコ』という少女を何故助けようとしているのかはさっぱり分らなかったけれど、何だか竜子のその姿は信頼に値するような気がした。


「で、結局、お前らの上司っていうのは何者なんだ?」

涼やかな女性の声に黒須は、はぐらかすように首を傾げた。
問い掛けたのは、黒・冥月。
細身の黒いシャツに、後ろに深いスリットの入った黒のロングスカートを合わせ、窓際に立ちながら、
腰まである黒髪を、背中で揺らすその女性は、真っ白な紙にスッと美しく筆で引かれたような形をした睫の長い切れ長の目を閉じたまま、冷たい声で問う。

「おかしいだろう? 何の利益も見込めない。 誰が得するとも分からん。 ただのボランティアとは思えど、物騒な匂いもプンプンする。 善意のみで、このような件に首を突っ込む輩がいるとは考え難い。 目的は? お前達はどんな組織に所属してるんだ? そもそも、お前達自体は、何者なんだ?」

冥月のもっともな疑問に、黒須の視線が落ち着かなさげにあっちこっちする。
細い体は、華奢なのに鋼の強靭さを感じさせ、それでいてしなやかで柔軟な美しさを兼ね備えている。
身のこなしや、その眼差しから、彼女が尋常な者でないであろう事を、百合子は朧気に察した。

「あー…」だの、「うー…」だの呻く黒須に肩を竦め、冥月の攻撃の矛先は、この興信所の主人にも向けられた。

「大体、武彦も、武彦だ。 気安く受けるな。組織から逃げる事がどれ程困難か」
そう言いながら、自分のすぐ目の前にあるソファーに腰掛けている武彦を小突く。

「これほど得体が知れぬ連中の依頼等、本来ならば、蹴って然るべき案件だろう」

そう、彼の不用意さを責める冥月に「まぁまぁまぁ…」と笑いながら、この興信所の事務員だという、シュライン・エマという女性が割って入り、「いいじゃないの。 とりあえず、とーぉぉぉっても胡散臭いけど、この二人の身元は私が証明するわ?」と胸を叩いた。
中性的で整った容姿は、同時に知的で、冷静な空気も醸し出しており、喋り口調の明快さや、明らかに頭の回転の速そうな会話内容から鑑みても、充分信用に値する人間だと百合子は判断する。
エマが請け負うならば、この依頼人二人も、決して身元の怪しい人間等ではないのだろうと百合子は確信を深めた。
エマが皆に協力を求める意味も含めて、「ほら、黒須さんって、こう見えても、穏やかな午後に近所の美味しいケーキ屋さんのシナモンロールを突きつつ、熱い薔薇の紅茶を啜ってるお茶の一時なんかだったら、夢見心地に、気紛れに、気の迷いで『まぁ、僅かにはいい人かも…』と思えなくもない人だから…ね?」等と、言葉を重ねるが、うん、これは、間違いなくフォローにはなってない。
黒髪も清らかに、透明感のある美しさを有した、美少女水鏡・千剣破が、黒曜石のような黒と、澄んだ海の如くの青のオッドアイを瞬かせ、横目で、黒須の様子を伺いつつ「えーと、黒須さんが既に涙目なんですけど、いいのか…な…?」と彼を指差した。
エマは、気安い口調から鑑みれる通り、前々からの知り合いなのか「ほら、黒須さんも、疑われてんのは、あなたのその、不気味さのみで構成されてるツラのせいなんだから、無理矢理、多分不可能だけど、その胡散臭い、87%成分がヤクザな顔にスマイルを浮かべて、みんなの信頼を勝ち取って?! はい、レッツ爽やかスマイル!」と言いつつ黒須を揺すった。
黒須の隣に座っていた金髪の美少年も同様の立場らしく、「駄目です。 エマさん、その人笑ったらもっと不気味だから!!」と、追い討ちの追加点を入れていて、咄嗟に黒須が目頭を手で押さえつつ「もう、いっそ、死ね!って俺は言われたほうが気が楽だよ」と呻いている。
翼は仕草も典雅で、見惚れるばかりのその姿に、認めたくなさの余り、「美少年」呼ばわりをしているが、彼女はれっきとした「女性」らしく、それでも「お願いします。 協力してあげてください」等と言われれば、例え最初から協力するつもりだった百合子にしてみても、更に固く「命を掛けて頑張ります!!」宣言も辞さない覚悟を決めてしまう。
まず、白金の髪も美しく、マシュマロのような色合いの柔らかそうな白肌も愛らしいエリィ・ルーという少女が、大きな翠の目を瞬かせ、頬をピンク色に染めながら「はい…翼さんの為にも…協力させて下さい…」と両手を組み合わせて答え、百合子も負けていられないと、「わ、私も、何でもするわ…! 大したお手伝いは出来ないかもだけど、精一杯翼さんのお力のなれるよう努力するから…」と、翼を凝視しながら宣言した。
そんな二人の女性陣の様子に、千剣破も勢い込んで、「あたしも、翼さんの為に…!!」と言いかければ「いや、依頼人俺と竜子だから!!」ともっともなツッコミを、絶妙のタイミングで黒須がツッコミを入れてきて、ハッと我に返らされる。

「あー…いや、エマさんが信用してるんなら、俺はもう、腹決めてたし、構わないぜ?」

そう言うのは、向坂・嵐という青年で、赤茶色の髪と、同じ色したキツ目の印象的な瞳の持ち主だった。
端正な顔立ちをしているのに、そんな事は、どうでも良いと言わんばかりの、気取りのない立ち居振る舞いが逆に好感度を上げていて、この人モテるんだろうなぁ…と、百合子は別事を考えてしまう。


まぁ、だがモテるといえば…と、この面子の中でも圧倒的なまでの大人の色気を発散している兎月原に自慢の気持ちが一杯こもった目を向ければ、「俺も、チーコを守るっていう依頼を受ける事に異論はないよ」と微笑みながら答えていた。
聞くものが皆、骨抜きになりそうなほどの甘い声に思わず、そろそろ彼の声も聞きなれた筈の百合子の腰が砕けそうになる。
とろりと甘く、喉を焼くようなチョコレートボンボンのような声。
兎月原は、声に負けず劣らずの甘い端正なマスクに、少し崩れた隙がありながらも、何処か野性味も感じさせる色っぽい笑みを浮かべたまま、「今回、初めて事務所の仕事を手伝わせて貰うのだが、ここの評判は聞き及んでいる。 中々優秀なスタッフが揃ってるようだし、お姫様を守るだなんて、中々風情がある仕事だ。 この興信所を通しての依頼なら、明かせぬ事情が諸々あるにせよ、そうそうおかしな事はないでしょ?」と余裕ありげな様子で言った。


皆の意思表明に、ついと黒須に目を向け、「良かったな。 皆お人好し揃いで」と冥月が口の端を持ち上げて言えば、黒須は小さく笑って「あんたも、そのお人好しの仲間じゃねぇか。 手伝ってくれるつもりなんだろ?」と確信を持った声で言う。
その黒須の言い様が気に入らなかったのか、冥月が眉間に皺を寄せ、「大体お前等の主は本当に独善だな。余命3日なら助けない方が幸せかも知れんだろう」と黒須を指差した。
「楽しく過して少しでも未練を残せば、死ぬのが余計辛いぞ。何も知らず死ぬ方が幸せな事もある」
黒須は、冥月の言葉に笑みを深め、「善か、悪かは分からねぇよ。 正しいか否かっつうのも、まぁ、難しいわな。 でも、やれっつうから、やるんだ」と自嘲気味の声で答える。
「お前の…主が言うからか?」
「ああ。 まぁ、しょうがねぇ」
そして首に嵌っている細い黒い輪にも見える首輪に指を引っ掛けた。
「チーコ…守ってやってくれよ。 あんた…相当の人と見た。 そんで、多分…」
小さな遮光眼鏡の奥に見える、細く険しい目がじいっと冥月の事を見据え「優しい人間だ」と、唐突な声で告げた。
冥月にしてみれば予想外の言葉だったのか、少しだけ後ずさり、コツンと窓枠に肩をぶつける。
「適任だろ? 俺が選んでんだ。 間違いない」
武彦がそう自信ありげに言うのを受けて、改めて百合子はメンツを見回す。

バラバラに見えた。
てんでばらばらで、咄嗟の団結力なんて見込めない面々。

少し不安に思いつつ、そうなのかしら?と百合子が首を傾げる。
自分で首を突っ込んだ仕事ではあるが、なんだか中々骨が折れそうな内容だ。
この面々で乗り越えられるのか、疑問を感じつつも、自分は自分にやれるだけの事をやろうと握りこぶしを固めた。


「…笑止。 私は、然程優しい人間ではない…が、先程まで申していた事も冗談だ。 守る。 依頼は依頼だ。 どのような者が頼みの筋であろうとも、守る。 チーコを」
冥月が淡々と述べるその声は自負に満ちており、彼女がそう宣言すると言う事は、その言葉どおりの結果を導くのであろうと人を納得させる力に満ちている。
「それで、チーコを追っている組織の名は?」
そう冥月が問えば、黒須は「『K麒麟』…てぇんだそうだ。 生憎、こちとら、そんな裏社会にゃあ詳しくねぇから、怖い名前なのか何なのかはさっぱりなんだが、ベイブ…俺らの上司は『面倒だ』とは言ってたな」と答えた。
麒麟。
中国の伝説の獣。
「聞き覚えがある。 K麒麟ならば、ちょくちょく余りよくない場所で、その名を耳にするよ。 確かに、随分と最近は幅をきかせているみたいだ。 だとすると、竜子とやらが科された制限が、尚面倒に拍車をかけるな」と呟き、冥月は唇に指を這わせて思案気な表情を見せる。
「殺さないで…か」

そう、竜子が、皆に言ったのだ。
この依頼にあたって、チーコを守る為に、武力を行使する事は止む無いとしても、相手を絶対に殺さないで欲しいと。

そんな竜子の言葉に、むしろ百合子は逆の意味で驚いた。

人殺しなんて!

別段、平和主義者でもない百合子ではあるが、ロマンチシズムを遵守したい彼女としては、今回の案件で人の血が流れる事を一切望んではいやしない。
だから、竜子の告げたその制限は、何処か物騒な匂いのするメンバーも入り混じるこの依頼において、「誰も殺される事はない」という安心感を百合子に抱かせた。


「勢いのあるマフィアは厄介だぞ。保身考えず無茶するからな」
そう言いながらチラリと窓の外に走らせる冥月の視線が険しさを増したような気がしたが、ついと室内に視線を戻す時には、もう、平静極まりない眼差しへと変化していた。

「で、これからどうする?」
そう冥月が言えば、まず、エリィが手を上げて「旅、行こう、旅!!」と言った。
「安全を確保する意味でも、3日間移動を続けるってのは、アリだと思うの。 ルートの確保は任しておいて? これでも、あたし情報屋なの。 おいそれと、追跡なんてさせないわ! 旅行なら、色々見せてあげられて、チーコちゃんにも楽しい時間を過ごして貰えるしね?」
エリィの言葉に、翼も頷き、「それは良いかもしれない。 故郷の南の島まで連れて行ってあげれるのが一番だけど…」とそこで言葉を切り、「この人数での移動や、危険面、期間を考えると中々難しいかな。 だけど、そうだな、海…うん、海には連れてってあげたいね」と提案した。
「海、賛成。 そんで、水族館とか、どうかな? 館内、意外と薄暗いし、周りの人は水槽に気を取られてチーコの事もあんま気付かれないんじゃないかな。 まぁ、勿論パーカーとか着てフード被ってもらったりとかの多少の変装だか位は必要だろうけど。 南の海の生態を紹介するコーナーとか、水族館にはあるし、チーコにとっては嬉しいかも知れない。 あと、俺も海は絶対連れてってやりたいな。 そりゃ、チーコの故郷に比べたら全然劣るだろうけど…見せてやりたいと思う。 チーコに何か特別な事をしてやれる訳じゃないけどさ…一緒に色んなもの見て聞いて…感じて…、そう言う事してやれたら良いと思う」
考え、考えしながら、そう語る嵐の口調に、皆がそれぞれ頷いた。
三日間、然程特別な事は、百合子とて出来るとは思えない。
それでも、その「特別じゃない」事がきっと、チーコには特別になるのだ。
気負わず、それでも、チーコの事を幸せな気持ちで一杯にしてあげたい。
エマも「旅…いいわねぇ…。 じゃあ、宿泊所に一つアテがあるから、連絡入れておくわ。 古い神社でね、藤やツツジの名所なの。 きっと喜んでもらえるわ。 あと、移動手段も、一つ良いアテがあるから任せておいて」と予想通りの頼りになりっぷりを、既に発揮していた。
百合子は皆の会話内容に、俄然気持ちが盛り上がり「旅行なんて…嬉しい…。 しかも、女の子を守るための旅なんて、なんて、ロマンチックなんだろう!」と感激の声を上げてしまう。
兎月原は、ある程度方向性が固まったと見たのか「冥月さんは、何か?」と問えば、彼女は首を振り「任せる。 何処へでもついていく」とだけ答え、また窓の外へと視線を向けた。
「じゃあ、今度は、可愛いお嬢さん方にも聞かないとね」と兎月原がそう言いながら立ち上がれば「あ、あたしが行くー! ちょうど、みんなの参考に良いかと思って、旅行雑誌を持ってきていたのです!」と言いつつ、じゃーんと雑誌を一冊掲げてみせる。
「こっから、チーコちゃんに指差しで、何処行きたいのか選んでもらおうよ」と言うエリィ。
実は、チーコ、竜子、それに、もう一人今回の依頼のの参加者として呼ばれている飛鷹いずみは、別室に控えて貰っていた。
というのも、あまり性質の良くない話(チーコの寿命について等)をどうしても話題にせざる得ない関係上、当人のチーコや、まだ明らかに子供のいずみには、話の内容を聞かせたくないという配慮から、竜子をお守り役としてつけて、書斎の方へと追いやったのだ。
とはいえ、竜子の子供っぽい言動と、明らかに年齢不相応な大人びた言語能力を見せていたいずみとでは、いずみが二人のお守りにも見えて、不満げに何度も振り返りながら書斎に引っ込んでいったいずみの可愛い顔を思い出し、誤魔化すのが大変そうだなぁと百合子は他人事のように思う。
如何にも賢そうな、冷静な目をした少女だった。
ぱっと見は、小柄な体躯も相まって、愛らしく、大人しげな少女にしか見えないのに、口を開けば、大人顔負けの論理でもって、驚くべき頭の回転の速さで会話を繰り広げていた。
後ほど苛烈を極めるであろう、いずみの追及は避わすのが大変そうだと考えていると、千剣破が立ち上がり、「あたしも一緒に行く」とエリィに声を掛ける。
「旅行か…やばい、凄い楽しみなんだけど!」
「確かに、確かに!」
二人は、どちらも人目を惹く美少女ではあったが、千剣破は和装のよく似合いそうな日本美人であり、エリィは対照的にレースやリボンがよく似合いそうな西洋人形めいた愛らしい容貌をしていた。
そんな少女達がキャッキャッと笑う姿は、大変、大変愛らしく、「いいなぁ…若いって…」と全くそうは見えないのだが、現在ナニゲに三十路前、今回集った女性陣の中では最年長な百合子は羨む。
しかし、こうやって見回してみると、仕事をすると決めてからにわかに情報収集してみた聞きかじりの情報では、怪奇現象に対して滅法強い等と聞いていたイメージからは随分とかけ離れた面々だし、事務所の様子だといえる。
「だけど…私、ここの興信所のお仕事って言ったら、もっと、おどろおどろしいものとか、ホラーなものばかりだと思ってたわ」
百合子がそう呟けば、「えーと…ここのって、一応ですけど、どういう意味です?」と、武彦の妹だと言う零が問うてきた。
「えー? だって、ここは、『怪奇探偵事務所』なんでしょ?」と百合子は素直に聞き及んでいた名称を口にし、それから「素敵よね…怪奇…」と言う。
思わず頭痛を堪えるような表情を見せ、額に手をやった武彦が、うんうんうんと頷きつつ、「いや、色々誤解があるようだが…一応、今回初参加の君達にははっきり伝えておきたい。 違いますから!」ときっぱり、すっきり宣言した。
エマも、遠い目をしつつ、「そうなのよね…なぁんでか、こう、超常ってる現象系の依頼ばっかが舞い込むんだけど…一応ね? 普通の興信所なのよね。 建前は」と呻き、「もう、でも、今更後戻りは出来ない感じがしますよね」と零が総括するように呟く。
なんだか、不本意だと言わんばかりの面々に、「ええ? 素敵じゃないですか! 怪奇探偵! あれでしょ? ゾンビとかと戦うんですよね? あと、ゾンビとかに襲われたり。 ゾンビとかに感染したり。 ゾンビと一緒に閉じ込められたり!! ああ、なんてロマンなんでしょ!」と、感極まったように百合子が言うのを、呆然と眺め、翼が「え? なんで、ゾンビ推し?」と問い掛けてきた。
百合子が口を開くより早く、「いや、彼女、B級ホラーが大好きで…」と兎月原が説明すれば、ブンブンブンと手を振って、「ちゃんと、他の映画も好きだよう! あの、えっと、宇宙人モノとか、ジェイソンとかも、可愛いと思うし…」と兎月原に訴えた。

全部、ホラーやんけ。
しかも、B級の代表選手やんけという周囲の突っ込みの空気に気付かず、兎月原に「はいはい」と頭を撫でて貰えば「えへへ」と百合子は、幼く笑う。
そんな二人の様子を見て、武彦が兎月原と百合子を交互に指差して「あんたら二人は恋人同士か、何かなのか?」と問うてきた。
百合子は思いがけない問い掛けに、「ぶっぶー! 違います。 私と兎月原さんは、あくまで、雇用主と雇われスタッフの関係なの」ときっぱり答える。
「まぁ、俺にとっては手のかかる妹みたいな存在です」と言って、兎月原が百合子の柔らかな頬を指先でピン!と弾くと、百合子はチリっとした痛みに「あうち!」と呻いた。


そんな会話の最中、書斎から千剣破に「あ、いずみちゃん? いずみちゃん!」と呼びかけられているのも無視して、いずみが応接間の、ソファーにちょこんと腰掛ける。
ぐっと唇を引き結んだ表情は「私は、書斎に追いやられた事を怒ってます!」という気持ちを如実に映していて、その素直さに、百合子は思わず微笑んだ。
「さ、話の続きをどうぞ?」
そう促すいずみに、黒須が困った顔になって、「いずみ? なんだ、退屈しちゃったのか?」と問う。
そんな黒須を「キッ」と一睨みすると、「いえ、のけものにされるのが、我慢ならないだけです」ときっぱり答えた。
ジトッとしたいずみの眼差しに耐えかねたように視線を逸らす黒須の代わりに今度はエマが「あ、いずみちゃん、いずみちゃん、ほら、これ面白いのよ? 絵が凄く綺麗で…」と言いながら、イギリスの児童書を鞄から取り出す。
油絵で描かれているらしい可愛いキャラクターが表紙一杯に描かれているその絵本は、いずみの目にも大層魅力的だったらしく、一瞬身を乗り出せど、すぐさま、ソファーに身を沈めて、ふいと目を逸らす。
「チーコちゃんと読んでらっしゃい、ね?」
にっこりと笑うエマに、いずみは「結構です」とぴしゃりとお返事。
するとエマは、「そうよねぇ…」と言いつつショボンと肩を落としてみせる。
「いずみちゃん、本たくさん読んでるから、私の翻訳の出来栄えが如何なものか意見聞きたかったんだけどなぁ」と残念そうに言うエマの言葉に、ここの仕事だけでなく、翻訳の仕事もやっているのかと、その多才さに驚いていると、鞄の中に本を仕舞うエマに「また、後で読ませてください」と、いずみが慌てて言い添えていた。
もう、てこでも動かないぞ!と決意の滲んだ顔でソファーに座るいずみ。
百合子は、そんな最中、余りにも大人びた返答や、その仕草に驚いて、突如彼女の年齢が気になり、パクパクと口を開け閉めするも、そういう事を尋ねていい場面なのか判断しかね、結局「ひゅぅ」と小さく息を吸い込んだまま、百合子は何も言わずに口を閉じた。
あんまりにも賢いものだから、何を聞いても怒られそうな気がしたのも事実である。
とはいえ、子供に起こられるのが怖くて、口を噤む自分に、自己嫌悪するのだが、それでも興味が尽きず、知らず、じいっといずみを凝視する百合子に、いずみが居心地悪げに身じろぎする。
「あ…あの…?」
そう問うようにして、声をかけられ、百合子はまさか、声を掛けられるとは思わずに、目をパチクリと見開き、見開いたまま首を傾げる。
「いくつですか?」
ええい、聞いてしまえ!
そう踏ん切りをつけ、問い掛ければ、百合子にしてみれば頭の中で充分筋道があって、聞きたい事を口にしているのだが、周囲の者にしてみれば、随分唐突な質問に聞こえるらしい。
「…百合子。 ほら、いずみちゃんがびっくりしてる…し、出来るだけ脈絡を付けて喋るように言ったよね?」
そう、諌めるように言われ、百合子のコミニケーション上の欠点を人前で指摘された事にちょっとムッとして、兎月原を見て唇を尖らせた。
だが、質問の答えを諦める気はなく、霞がかかったような眼差しのまま「で、いくつですか?」と再度問い掛ける。
「あ…10歳です…」
いずみの答えに驚き、「へぇ…」と一言呟いて、それから「若い」と唸るように感想を述べた。

若いって言うか、見た目どおり、やはり子供だったのだ。
うんうんうんと、驚きを漸く消化し尽くす頃には、余りに言葉のタイミングを掴みかねる会話のテンポに、いずみが言葉に詰まったように、目を白黒させている。
だが、くるりといずみから視線を外し、「だって、皆さん気になってたと思うんです。 いずみさんと、初対面の方も多いんですよね? 私含め。 あんまりにも大人っぽい事を言うもんだから…10歳って、小学四年生位?」と兎月原に訴えた後、再びいずみに問い掛ければ、「あ、そうです」との回答を得て、「そう…」と、ぼんやりと答えつつ「そうか、小学四年生なのか…」と自分の中で反芻させた。
再びいずみを凝視しつつ、思わず「…聞かない方がいいですよ?」と小さな声で忠告するように言ってしまう。

あと三日で死んじゃうとか、追っ手があるとか、そういう事は、この子は知らないほうが良い。
子供は、何にも知らずに、楽しい時間を過ごすほうが良い。
大人になったら、幾らでも辛い思いや、理不尽な思いをするんだから…。

たった三日先には訪れる現実。
いずれ分かる事実でも。
知らないでいた方が、きっと良いんだ。

うんうんうんと自分の言葉に頷くような仕草を見せて、百合子はまたも言葉を重ねた。
「あんまり、良い話はしてなかったもの」

静かな声で「覚悟はあるのか」と涼やかに冥月がいずみに問い掛けた。
窓際に立ち、長い睫をした薄い瞼を閉じたまま、冥月は更に冷たい声で問いを重ねる。

「いずみ…といったな? お前に覚悟はあるのかと聞いている」

いずみは、緊張感を身に纏わせながら、それでもきっぱりとした声で、「出来てます」と答えた。
「何のだ?」
「全てを知る…です」
「…哀しい事もか?」
いずみは頷く。
「辛い事もか? 怖い事もか?」
重ねられる問いかけに、コクンコクンと頷くいずみ。

「大人と対等に扱うという事で良いんだな?」

冥月はいずみの意思を確認すると、無表情に口を開いた。


「チーコは三日後死ぬんだそうだ」


「冥月さん!」
非難じみた声をエマがあげた。

百合子は、ぼんやりとそのやり取りを眺め「あーあ、言っちゃった」と胸中で呟いた。


いずみが、言葉を失い立ち尽くす。

「知りたいと本人が言っている。 知る意思がある者が、知らぬまま他の者が把握していた悲劇に直面すれば、知らされなかった悲しみも合わせて、余計に辛い。 覚悟はあるといった。 だから、伝えた。 知ったからこそ出来る事もある」

冥月は、厳しい声音でいずみに告げた。

「考えろ。 いずみ。 知りたがったのはお前だ。 だから、知った以上、私たちと一緒に考えてくれ。 圧倒的な事実に際して、それでも自分が何を出来るのか」

いずみは目を見開いたまま、小さく体を震わせている。

ショックだったのだろう。
随分と仲良くなっているように見えた、チーコといずみ。


「うぃひぁぁははぁあ!」

無邪気な笑い声が書斎から聞こえてきて、いずみがびくりと肩を震わせた。

可哀想だとは思うが、冥月の言う通り、彼女が欲した事実だ。
現実は、時として、残酷で、どうしようもない姿を眼前に晒す。

死ぬんだって。 チーコは。

だからこそ、出来ることを。
だからこそ、彼女の為にありったけの幸福を。

百合子はそう決めていて、きっといずみも、同じ決心を抱くだろうことを確信していた。

「どう…しよう…も、ないんですか?」
いずみが掠れた声で言った。
「ど…うしようもないなんて事は、ないと思うんです。 そんな、ねぇ、だって、チーコは…」

いずみが拳をぎゅうっと握り締める。

「チーコは、子供じゃないですか。 子供が死ぬなんて…そんなの、おかしい…」

いずみの言葉に、皆一様に口を引き結ぶ。

ふいに突きつけられた言葉に響きに、間違いなく百合子は、戸惑った。
あまり好かれないものだから、自分自身、子供を苦手としているところがあって、だから、余計にあまり意識しないでおこうと思ったのだけど、そうだ、チーコは確かに子供だ。

たった10年。
それも、理不尽で、あまりにも暴虐な運命に翻弄された命。

三日後には、ない命。

理不尽だけど、命の終わりの訪れは、誰にも測る事は出来ず、皆一様に、唐突に失われる命を眼前にすれば「理不尽」だと呟くのだろう。

そもそも、命の存在そのものが、理不尽の果てに存在するものなのかもしれない。

いずみが、皆の視線に立ち竦み、どんどん顔を赤くしていった。
うろたえたように視線を彷徨わせ、無理矢理捻り出したような冷静な声で「…だから、良い大人が雁首そろえて、3日しか保たないとかいきなり泣き言を言ってないでベイブさんに泣きつくなり何か手が無いか尽くしてからにしましょうよ。 彼女の命を諦めるのは」とまるで憎まれ口のように皆の顔を見回しながら言い放つ。

ベイブ?
聞きなれぬ名に一瞬首を傾げかけ、そういえば黒須が己の上司の名として口にしていたっけと思い出す。

「ベイブ(赤ん坊)」

ふざけた名だとは思ったが、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。

誰も、いずみの目から目を背けなかった。
誰も、彼女を言いくるめようとはしなかった。

「いゆみぃ?」

チーコの声を聞いた瞬間、いずみの表情が一変した。
険しさの一片もない、優しい微笑み。

ああ、凄いな、いずみちゃん…と、百合子は素直に感嘆する。
何一つの不安も、チーコに与えたくないのだ。
自分の役割を明確に把握し、自分に徹底させている。

「なぁに? チーコ」

穏やかな声でチーコに問い掛けつつ、パタパタとチーコに走り寄っていく。
エリィが開いた雑誌を見せ、写真に写るは、鮮やかな青い海と、崖の上に立つ白い灯台。
「あのな、チーコ、この、潮岬行きたいそうなんだよ。 あたいも、千剣破も、エリィも賛成なんだけど、山口県にあって、ちょっとばかり遠いんだ。 日帰り旅行じゃ済まないし、多分ニ泊三日位の日程になる。 今って、いずみ、GW中だっけ? チーコが、お前と行きたいって聞かないんだけどさぁ…、良かったら、いずみも付き合ってくれるか?」
竜子に問われて、間髪入れずに「もちろん」といずみが頷けば、チーコが嬉しげに「ひゃぁ!」と声をあげ、背後に並ぶ千剣破達を交互に見上た。
「良かったね、チーコちゃん」
エリィの台詞にチーコが頷いた。
「んじゃ、いずみも、お父さんと、お母さんに許可取らないとな?」
嵐の言葉にいずみが「はい」と素直に頷く。
「他のメンツも、三日間は大丈夫なんだよな?」
そう彼が問い掛ければ、それぞれみんな頷いた。
「うん、あたしは大丈夫! んで、チーコちゃんの希望により、山口県の潮岬は、絶対、絶対行くの決定ね?」
エリィの書斎の扉の前に立ったままの呼びかけに、翼は頷きながら「じゃ、一旦解散かな? みんなそれぞれ用意があるだろうし…」と全員を見回す。

皆、異論はないのだろう。

竜子やチーコ達が「おやつ買う暇あるかな? チョコ買ってやる、あと、あと、ポテトチップスと…酢昆布も欲しいよな…」とか、「ひっぅあふぅうう!」と嬉しげに言い合っている。
「えーと」と翼が人数を数え、「11人か…結構な人数だな…」と呟いた。
「あれ? 零は?」
そう竜子が問い掛ければ、「今回は、兄さんの手伝いに専念して、情報収集の面から皆さんのお役に立とうと思うので、お留守番です」とサラリと答える。
それから、零はチーコの傍へとしゃがみこみ、「楽しい旅をね?」と微笑みかけた。
気丈な笑みは、悲しみの雫を一粒たりとも滲ませはせず、まるで、本当にただ、朗らかに旅立ちを見送る者の笑みそのものだった。

強い。

百合子は心中で唸る。
死出の旅。
そう知りながらそれを微塵も感じさせない、零の笑顔。
彼女の気丈な笑みの為にも、チーコの幸福の為にも、百合子は、全力を持ってこの仕事に取り組む事を決意した。

「じゃあ、今から一時間後。 駅前のロータリーで集合な?」
腕を組み、今まで黙って事務所内でのやりとりを聞いていた武彦が総括するようにそう声を上げる。
「三日間分の旅行の用意だからな? でも、あんま荷物は多くすんなよ」
武彦の言葉に頷いて「移動手段は電車ですか?」といずみが問えば「いや、まぁ、それは見てのお楽しみだよ」と武彦は含みを持った台詞を言った。
そういえば、エマが用意してくれるんだっけ?と視線を送れば、彼女も何だか意味ありげな笑みを浮かべていて、なんて喰えない興信所なんだろうと少し呆れる。
「いずみは、ご両親にちゃんと説明すんだぞ? 連絡先は…」
「あ、私の携帯番号教えておくわ」とエマは挙手し、「もし、必要だったら、お家に説明のためにお伺いしてもいいけど?」と心配そうに顔を覗きこんだ。
その気の回りように、思わず感心すれば、「あ…大丈夫です。 そんなお手数かけられません」と丁寧に断りを入れるいずみに、百合子は再び目をパチリと開いていずみの顔を凝視する。
やっぱり、いずみは、ちょっとデキすぎだ。
言葉遣いとかが、大人びすぎている。
これで大人の女性になったら、もう、超・超・賢い、スーパーキャリアウーマンとかになるんじゃないかしら?と自分の姿と比較して、訪れてもいない未来のいずみに対し、コンプレックスを感じて落ち込んだ。
「じゃあ…エマ…よろしくな」
そう言われ、「任せて」とエマが頷けば、武彦は眩しいものを見るような目でチーコを見て「気をつけてな?」と優しく言った。
「あぅぃ!」
チーコが手を挙げ、大きな声で返事をする。
百合子は、そうか、武彦も、これがチーコと最期の別れなのかと気付き、何だか切なくなった。

ここで、武彦と零はチーコの為に出来るだけの事をしてくれる。
彼らにしか出来ない事を。


「では、チーコ、いずみ、エマ、それに、竜子と…百合子も、途中まで兎月原に送ってもらえ」

冥月がそう告げた。
兎月原が微笑みながら立ち上がる。

他の面々が何故事務所に残るのか気にならないでもなかったが、色々と話し合いたい事もあるのだろうと判断して、大人しくソファーから降りる。
残る面子と、事務所を出て行かされる者達との差異が何なのか、初対面の者ばかりなので、おいそれと判断はできないが、きっと理由はあるのだろう。
「さぁ、レディ達?」と言いつつ扉を先に立って開けてくれる兎月原に、いずみとチーコが「ありがとうございます」「あぅぅぃ!」と二人揃ってお礼を言う姿に目を細めつつ、「あ、私も送ってきます」と零も、その後に続き、皆で事務所の外へと足を踏み出しかけた時だった。


「ご…め…なさ…ぃ…! お…そくなった…っ!」

途切れ途切れの声。
赤く、長い髪が揺れている。



鮮やかな印象を与える、青年が一人、扉の外に立っていた。

まるで、炎のような。

見上げていると首が痛くなるような高い背をした赤い髪の男はひょいとしゃがみこみ「チー…コ…?」と首を傾げた。
チーコがこくんと頷く。
すると、全身の力が抜けるような、人懐っこい笑みを浮かべて、チーコの空いている手を握り締めて、ぶんぶんと振る。
「は…じめま…して、ボク…は…、五降臨…時雨。 時雨って…呼んで…ね?」
首を傾げてそう言いそれから、今から出て行く所と言わんばかりの様子の百合子達を見て眉を下げると、まるで置いて行かれる子犬のような目をしながら「何処…か、行く…の…?」と問うてくる。
「はい、ちょっと山口県まで」
素直にそう告げる百合子に、益々困ったような顔をして、「山口…県…?」と時雨が呟けば、またも兎月原に「百合子…唐突にそれじゃあ、時雨さん困るだろ?」と叱られ、 えっと、チーコの事で来て下さった、興信所のスタッフの方ですよね?」と問い、時雨が慌てて頷く。
そんな入り口での遣り取りを見かね、「時雨! こっち来い。 全部説明してやるから」と武彦が声を掛けた。
コクンと頷いて、それから忘れてた!という風に、時雨がポケットをごそごそと探り出す。
「こ…れ…」
そう言いながら差し出した掌には、色違いの、髪留めのが二つ。
セットになっているのだろう。
キラキラと光る、ピンクのプラスチックのハートと、赤いハートがついた髪留めに「可愛い」といずみが呟けば、にこっと時雨は笑ってまずは、チーコの髪に一つ着けた。
「は…ふぃぅぅ…!」
びっくりしたような顔をして、時雨を見上げたチーコの頬が見る見る真っ赤になっていく。
「着ける…と、もっと……かわいい…」
時雨がそう褒めれば、チーコは真っ赤な顔のまま、「あぅ…ぅ…あぅ…」と何も返事が出来ず、まるで、時雨の目から逃げるかのように、エマの後ろに身を隠した。
「あぅぅひぅ…」
「あら、照れてるの?」
エマの言葉に、チーコが益々身を縮める。
時雨はいずみの髪にも手を伸ばし、もう一つ、ピンク色の髪飾りをつける。
「…うん…可愛い…」
そう言う時雨に、きっと髪留めはチーコのものだと勝手に思っていたのであろういずみが、心底驚いたように彼を見上げれば「おそろい…友達…だから」と言って、にこにこと嬉しそうに笑った。
いずみが、手を伸ばして髪留めを触り、それから「ありがとう…ございます…」とお礼を言う。
チーコがエマの後ろからひょこんと顔を出して「ぅぁぅぁあ!」と嬉しそうに自分の髪飾りを触った後、いずみのを指差した。
「そうね、色違いのお揃いね」
いずみは頷いてそう答え、「ああ、凄く似合ってる」と兎月原は蕩けるような声で心から彼女達を褒めた。

「では、参りますか」


そう言いながら扉の外を指し示す兎月原に頷き返し、皆はそれぞれ、自宅へと慌しい旅の準備をしに向かった。

自宅にて小さな鞄に、ぽいぽいと着替えだけ放り込み、すぐさま飛び出そうとした百合子の目に、ふと自宅PCであるマックが目に入った。

「旅行…みんなで…旅行……」

事務所で相談した日程や、色んな事柄がバババッと脳内を走り抜ける。
時計を見れば、あと30分ほど時間は合った。

「よーし! やってみるか!」

そう百合子は腕まくりをして、とりあえず猛然とした勢いでPCの前に座り込んだ。


肩に鞄を掛けて、ほよほよと歩いていると「おっす」と肩を叩かれた。
「…あ、お竜さん」
そう名前を呼べば、百合子の顔を覗きこみ「寝起き?」と問いかけ首を傾げる。
「ちーがーうーもぉん! 起きてるよう! ずっと、起きてるよう!」
そう訴えれば、「おお、なんか、ほやほやしてっから、昼寝でもしてきたのかと思った」と竜子は言い、「しっかし、酔狂だな」と笑う。
「自分から、参加したいつったんだろ?」と聞いてくる。
「うん! だってさぁ…だぁって、なんかロマンじゃない?」
にひゃと笑いながら言う百合子に「わっかんねぇ奴!」と、竜子もにひゃっと笑って肩をすくめれば、背後から「あ…!」といういずみの声が聞こえてきた。
振り返った竜子が「おう! いずみ」と笑いかける。
天真爛漫な笑みに、百合子まで明るい気持ちになりながら、いずみの方を振り返れば、同じく嬉しそうな笑みを浮かべて、いずみが駆け寄ってきていた。
「んだよ、あんま急ぐと転ぶぞ?」と、竜子が心配そうに注意する。
「準備なさって来たのですか?」といずみが竜子に問えば、「うん! あと、どっかで、チーコのも買えればいんだけどなぁ…」と呟く。
「あ…シャツとかは、私多目に持ってきたんでチーコの分もあると思います」と、いずみが告げるのを聞いて、またしても、「なんて賢い」と百合子は感激した。
「凄い!」と百合子はいずみを褒め、「いずみちゃんて、ほんっとに気が利くのね…」としみじみとした声で感嘆してしまう。
「いえ…服の用意をしてる時に、チーコの分もあった方がいいかな?って気付いただけなので…」といずみが言うので、「私だったら、まず思いつけないもの! そこも、よく兎月原さんに言われるのよね」と答えて、「だから、今回はとっても心配!」と妙に力のこもった声で訴えた。
「心配?」
いずみに問い返され、百合子は、「だって、役立たずなんだもの、私」と口を尖らせる。

「なんで?」

突然背後から声がかかり、文字通り皆「うひゃあ!」と声を上げて飛び上がる。
慌てて後ろを振り返れば、「やほ!」と片手を挙げてエリィが「驚かせちゃった? ごめん、ごめん!」と軽く詫びてきていた。
片手に大きな紙袋を提げ、肩に淡いピンク色のトートバッグをぶら下げていた。
ドキドキと暴れる心臓を手で抑えてなだめつつ、「心臓が止まるかと思ったよ!」とエリィに文句をいう竜子に思いっきり同意する。
「んん、だって、そんなに皆がびっくりするなんて、思わなかったんだもん」
そう言い訳しつつ、「それよりも、百合子さんだよ。 なんで自分が役立たずなんて思うの?」と話題を元に戻してくるエリィに百合子は困った顔を見せる。
「え…? いや…だって…」と口の中でもごもごと言葉にならない言葉を呟いた後、「な、何にも特技…とかないし…」と小さな声で答えた。
実際、興信所の面々を見て、百合子は確信したのだ。

私、場違いだ…と。

みんな何か特技や特殊な能力を持っていて、だからこそ武彦に呼び集められた精鋭たち。
その中に、自分から立候補で、兎月原をダシにして混ぜて貰った自分が、どうやって役に立てる事が出来るのか、一つだって想像できない。
「私、勘違いしてたの。 なんか、皆さん凄い人達だったのね。 もっと、事務しか出来ない私でも、お手伝いできる事があると思ってたのになぁ。 でも…、あの、そういう仕事は必要とされてないみたいだし、事務所にいてお話聞いてても、なんだか私、場違いみたいで…」
ぶつぶつとした声でそこまで言って、弱ったように肩を竦める。
「だから、まるで、ダメ元で受けた有名大学に、そんな実力もないのにまぐれで入ってしまったみたいな、居心地の悪さだったわ。 普通の顔をしてあそこに座ってた自分が信じられないの。 三人とも、きっと何か、凄い能力とか持ってるんでしょ?」
百合子の問い掛けに、竜子とエリィ、それにいずみは顔を見合わせる。
「凄い…能力…うーん?」
エリィは首を傾げながら自分の手をグーパーと開け閉めしてみる。
「…ないよ」
エリィは、ふっとあどけない顔に静かな微笑を浮かべて、そう答えた。
「なーんにも凄くないっ。 あたしは普通の女の子だよ」
そう頷きながら言うエリィは「あ、でも、ちょーっとだけ運動神経が良いかな? ちょーっとだけよ」と笑って言った。
「私も…そんなに凄くないです」
いずみも冷静に答える。
「そりゃ、普通の人よりは変わった能力を持っているかもしれないけれど…でも、子ども扱いですし、役立たずは、私だって変わらない」
そう自嘲の口調で言ういずみに、「「「は?」」」と三人揃って口を開ける。
「いずみちゃんは凄いよ!」
「そうだよ、お前は凄いって」
「もう、逆に子供なのが凄いわよ」
三人に、一緒に声を合わせて言われ、びっくり眼で、「ありがとう」といずみは礼を言う。
「それっこそ、じゃあ、あたいは何?って話さね」
竜子が、「ひひっ」と笑って言った。
「知らねぇやな。 役に立つか、立たないかなんて。 そんな事考えてたら、なぁんも出来なくなっちまうよ」
竜子が手を伸ばし、百合子の頬を引っ張ってきた。
「それに、百合子の笑顔は可愛い。 チーコだって、百合子が笑ってくれりゃあ嬉しいよ。 そいで充分じゃないのさ。 だろ?」
竜子の言葉にふにゃとした柔らかな肌触りの笑みを百合子は浮かべ、「そうね。 うん、やっぱり、出来るだけの事をやるだけよね」と言いながら「うん、うん」と何度も頷く。

乗りかかった船どころか、完全に乗船は完了していて、今更引き返せもしない事で、あーだ、こーだな止むのなんて馬鹿らしい。
「そうよ、やれるだけをやりましょう」
いずみもそう大人びた声で呟いて、それから、ふいと視線を横に向けた。

「あ、あそこです」

そう指差したのは、真っ白な壁に、ピンクの三角屋根、ピンクの両開きの木の扉も可愛い小さなお店だった。
「あそこが、メリィ。 最近出来たんです。 キャンディショップ。 エマさんが下さったハートのキャンディはあすこで売ってたんですよ」
その言葉に、百合子は目を輝かせる。
そういえば、いずみとチーコはエマから、ハート型の可愛い棒吐きキャンディを貰っていて、大人ながらに、凄く羨ましかったのだ。
メリィの店内には、あのキャンディのような、可愛いお菓子が唸るように置いてあるに違いない。
「ふええ」とエリィは目を輝かせ「いーなぁ…」と言って、指を唇に持っていく。
「あれ、美味しそうと思ってたんだけど…三個しかなかったし…」
そうエリィが言えば、百合子も頷いて、「パッケージも可愛かったし…」と呟いて、それから同時に竜子を見上げた。
竜子は自分の腕に巻かれた、キャラクターの描かれてる、何だか可愛らしい腕時計を見て「はい! 集合場所までの時間を考えると余裕はあと五分だぞー!」と言い、「と、いう訳で各自、迅速に選ぶように!」と宣言し「突入!」とピッとメリィを指差す。
その瞬間、「おー!」と声をあげ、店に走り出す、エリィと百合子。
二人並んで店に飛び込んだ。

その中は、女の子の夢をしこったま詰め込んだような作りになっていた。

「「「いらっしゃあいま〜〜しぃ〜〜!」」」

ふにゃふにゃとした音程で、店の人間と思わしき三人の若い女性が挨拶してくる。

店員の制服も、物凄く可愛い作りになっていて、太ももまでの短い裾が広がったフレアのピンクのスカートは、裾から白いレースが何段にもなって覗いていた。
上もレースがたっぷりあしらわれたドレスシャツを着ていて、大きな襟と、胸元をピンクと白のチェックの大きなリボンが愛らしい。
ガーターでつった白いストッキング地のハイソックスにはピンクのハートの模様が入っている。
三人ともみんなピンクのリボンで髪を結んだり、飾ったり。
まるで、フィギアのような非現実的な格好をして、ひらひらと裾を閃かせながら店員達が動き回っている。
店の中は、小学生や、中学生くらいの女の子達でごった返し、百合子とエリィはそんな面々に違和感なく馴染みながら、思い思いのお菓子を選び出す。
大きなゆっくり回るメリーゴーランドを模したようなケースに所狭しと並べられた色とりどりのお菓子たち。
「はい、あと三分」
そんな竜子の言葉に慌てて、お菓子を目に付く順に抱え込む。
竜子も手当たり次第に籠に放り込みながら、ふいにいずみの耳元にしゃがみ込み「五百円までだぞー?」
と囁いた。
いずみが慌てて竜子を見上げれば「あたいの小学校の修学旅行の時の、お菓子の設定金額だ。 お姉様が奢ってやるよ。 だから、チーコの分も頼むな? あと、寝る前に喰うは禁止だぞー。 虫歯になっからな」と竜子が笑う。
「他の二人も、一緒の約束だかんな? 守ってくれりゃあ、あたいが買ってあげるよ」
そう竜子に言われ、咄嗟にエリィと顔を見合わせてブンブンと首を振り「だったら、私が一番年上なので、私が払うわ」と百合子は宣言した。
「嘘だ。 百合子みてぇな、ちんまいの、あたいより年上のわけないだろ?」
そう竜子が言われ、思わず「幾つに見られてんだよ、私は」と憤りつつ、「三十路前よ?」と百合子が物凄く冷静な声で言った。
何故か、分かりやすい程に硬直する三人。
「え…うそ?」
そう言いながらエリィが指差さされ、ムカッときて「ぷくっ」と頬を膨らませると、「大人なの!! もう、29なの! 女性人の中ではきっと最年長なの! はい、だから、甘えて下さい!」と言いながら、三人のハートのケースを回収していく。
「あ、こ、これも!」
そう言いながらいずみがケースに入れたのはハートの棒付きキャンディで、ちゃんとチーコの分を含めて二本彼女が渡してきた事に対し、にこっと笑って百合子は頷くと、さっきのお返しとばかりに竜子のほっぺを摘み、百合子はレジにケースを並べた。

「あ、さっき、竜子さんが言ったお約束。 夜のお菓子は禁止!は私も賛成だから、守ってね?」と首を傾げて言えば、呆然とした表情のまま、三人揃って大人しく頷く。
レジを済ませ、百合子はハートのケースをそれぞれに渡し、自分は、ピンクと赤のハートが沢山散った、灰色の英字新聞柄の大きな紙袋を抱える。
「あ、反則だ」
そうエリィが指差し、「いけないんだぁ! 500円越えてるでしょ?」と百合子を覗き込めば、百合子はほよんと笑って「大人だから良いの」と言い、そのままスタスタと店の外へ歩き出した。
「キャラメルハニー味のポップコーンと、ピンクシュガーのハート型ラスク。 それに、ミントとシナモンのキャンディ。 ほんとに可愛くて目移りしちゃったわ。 五分間でお買い物なんて、絶対無理よ!皆さんにもお分けしようと思って買い込んだけど、男の人は苦手かしら?」
兎月原が甘いものが好きなのもあって、多目に購入したものの、他の面々はどうだろう?と百合子が首を傾げれば「他の奴は知らねぇが、黒須は、そこそこイけんぜ?」と竜子が言う。

まぁ、あんなに怖い外見なのに?と思えども、黒須がもそもそと可愛いお菓子を食べてる図を想像すると、なんだかおかしくって、「ほんと? 良かった! じゃあ、お裾分けしようっと」と、ピョンと兎みたいに一度飛んでから言った。


集合場所には、やっぱりちょっとだけ遅刻した。


「おせぇ!」
嵐に怒鳴られ、百合子達は身を竦める。
彼は、バイクの性能の良さで知られている会社の看板を背負っている大型バイクを傍らに置いていた。
威圧感を感じる程の「デカイ」ボディは、デザイン性の高さにも定評があり、男が思う「カッコいいバイク」そのものの姿をしていたが、まぁ、そういうバイクの格好良さが百合子に通用するはずがない。
(こんな大きなもの、よく乗り回せるわね)
その程度の感想しか抱かない百合子であったが、竜子が目を輝かせ「かっけぇぇ!」と叫んだのには驚いた。
「やっぱ、CBシリーズは、長く続いてるだけあって、風格っつうの? 正統派の格好良さがあるよなぁ…! シビれるわ〜!」
竜子の言葉に嵐は嬉しげに笑って「何? お前、バイク好きなの?」と問い掛ける。
すると竜子はブンブンと頷いて、「これってさぁ、フルパワー化とか厄介だったか?」と問えば、「いや? 俺も自分でやったし、比較的簡単なほうだと思うぜ?」等と意味の分からない事を言い合う。
「一応、背後の警戒の為、俺はこれで追っかけるから」と言った後の、「後ろに乗りたいって奴いたら、乗っけてやるよ」いう嵐の台詞に、正直ちょっとぐらついた。

いや、バイクは怖い。
あの後ろに乗って、喜べる程の興味もない。

だが、嵐は、端正な顔立ちをしているし、仕草や言動が男っぽい所も魅力的だ。
バイクに跨る姿も、そりゃあ、そりゃあ様になるのだろうと想像できる。
そんな男の背中にしがみついて、ハイウェイを走り抜けていく…というのは、まぁ、それは、それで乙女の夢だ。
リリカル☆ドリームだ。

(これが…白馬…だったら、きっと迷わず乗りたいって言えたんだけど…)
そう肩を落とす百合子だが、冷静になってみれば、ハイウェイを白馬に乗って駆け抜けていく嵐は奇異だ。
咄嗟に脳内に思い浮かべて、白馬と言うイメージ故か、何故か白い歯を見せながら笑い、片手を挙げて走り去る嵐の図を想像し、目の前の無愛想な表情とのギャップにげんなりする。
大体、そんな嵐に、どんだけ男前だろうが近寄りたくないったら、近寄りたくない。

だが、竜子にとっては百合子にとっての魅力的とは全く別の意味で、嬉しい申し出だったのだろう。
「乗りたい!!」
そう元気よく手を挙げる竜子に「いいぜ? 乗れ、乗れ! エンジン音がさぁ、また、すうげぇ痺れるんだって!」と、嵐も自慢げに言っており、趣味の世界って、初対面間もない人間同士の息をこんなに合わせる事が出来るのかと、百合子は別視点から感心の念を抱いた。

「あぅ! いぅゅぅみぃ! えいぃ! ゆぃこぅ! るー!」

チーコの声が聞こえる。

振り返れば手を振るチーコが見え、百合子はまず、チーコに手を振り返し、それからハタと、彼女が乗っている乗り物の姿を見回した。

「これ…ですか?」

いずみが問えば「おう」と嵐が答える。
「俺も最初見て、驚いたっつうの」
そうしみじみ言う嵐の声を掻き消すように「か…かわいい!」とエリィが悲鳴のような声をあげ、見てのお楽しみと言われたわけが百合子は漸く分った。
「羊…バス?」
白い車体には羊の顔がペイントされ、横原の部分に「××幼稚園」としっかり幼稚園名が入っている。
エマがバスから降りつつ、にっこりと笑った。
「そう! 可愛いでしょ? 武彦さんが昔請け負った依頼でね、解決したのはいいけど、依頼者が報酬払えなくって、それで、代わりにってこれを置いて逃げちゃったのよ。 幼稚園の園長さんだったんだけど、経営が立ち行かなくて、潰れちゃったのね。 まぁ、正直、どうしたもんかなぁ?って思ってたんだけど、こんな場面で役に立つとは思わなかったわ」
そう言うエマだったが、百合子にとっては、なんというか…なんというか…がっかり極まりない外観のバスである。

(こ、これじゃあ、ゾンビに襲われない!!)

一体自分が何を期待しているのか見失いつつ、思わず、ガクッと肩を落とした百合子は「ろ、ロマンが…ロードムービーのロマンが…」と虚ろに呟いた。

そう。
百合子は、この旅に、大・大・大好きな、ロードムービーのロマンを見出していたのである。


「ろーどむーびぃ?」
「ろまん?」
エマと、エリィが同じ方向に首を傾げればぐっと握りこぶしで、百合子は必死に訴え始めた。
「だって、見ず知らずの若者同士が、一つの目的のために集い、車に乗って旅をするんですよ?! これぞ、ロードムービーの王道じゃないですか! な の に 幼稚園バス! しかも、羊! こんなんじゃ、こんなんじゃ…途中立ち寄った古ぼけたガソリンスタンドで、奇妙な風体の中年男を拾ったら、それが悪魔の殺人鬼一家の長兄で、そのまま、殺人鬼一家の家にお邪魔する事になって、凄惨な血の惨劇に巻き込まれることが出来ないわ!」
「やめて、いやに具体的! なんで、こっからホラー展開?」
そうエマが否定すれば、いずみも「そんな、悪魔のイケニエ的なものになる気はありませんっ!」と、カルトホラーの金字塔な映画の名前を口にする。
羊バスをペタペタ触って喜んでいたエリィも首を振って「普通がいいの! チェーンソーとか持って追い掛け回されたくないの! 普通の旅行がいいの!」と訴えており、「むぅ」と不満の気持ちを込めて唸り声をあげれば、百合子が肩に掛けていた荷物を、嵐がひょいと取り上げていった。
「バス、運び込むぞ? そっちのデカイ荷物も貸しな」
そう言いながら手を出す嵐に「あ、そんな! すいません! あ、でも、これ、重くないし大丈夫です」とメリィの紙袋を抱えなおし、慌てて手を振る百合子に頷いた後、今度はいずみに手を差し出す。
「おら、貸しな?」
そう言いながらいずみから荷物を有無を言わせず手に取り、車内に運び込んでくれた嵐が、「じゃ、百合子さんの思う、正しいロードムービーの車って何?」と興味深げに尋ねてきた。
百合子はその問い掛けに、待ってましたとばかりに、コクン、コクンと頷いて、「そりゃ、ロードムービーっていったら、古ぼけたワゴンか、四輪のごついオープンカーとか…それか、トラックとか…ですよ。 そういのが、アメリカの西側の乾いた大地をぶっ飛ばすんですよ」と勢い込んで訴える。
だが、ふとバスを見上げ、目をしょぼしょぼさせると、「…なのに、えー、よ、幼稚園バスって」と、項垂れる百合子に「だって、10人以上を一気に運ぶには、バスが一番なんですもの」と答えつつ、「はい、乗って、乗って!」とエマが促してくる。
チラリと視線を向ければ、嵐は自分のバイクに跨り、竜子にメットを渡していて、竜子は本気だったのだと、ちょっとびっくりした。

バスに乗り込みながら、「あの、大型の免許って…どなたが…」といずみが言いかけたところで、運転席には黒須が座っているのを見て、「ひっ」と音が出るほど息を呑んだ。
「ひっさしぶりだから、なんか、感覚掴むのに時間掛かりそうだな」なんて怖い事を言っているのを聞き、百合子の目が忙しなく瞬きを繰り返す。
「え?」


物凄く、本能的に、「バスの運転席に座っている黒須」っつう図が怖い。


エリィが黒須を指差せば「一応、元都バスの運転手」とさらりと黒須が答えた。
「え、えええええ?!」
いずみが叫べば「ほら、同じ反応」とエマが言い、翼も「やっぱりな。 思ったとおりだ」と座席に座ったまま嬉しげな声をあげた。
「なんで、そんなに意外ぞ?」
そう呻くように言う黒須をまじまじまじと眺め、一歩下がって眺めた後、再び今度は近寄って凝視して、それからいずみが、百合子を手招いてくる。
ほとほとと近寄れば黒須を掌で指示しながら、「あの、悪魔的なイケニエ展開は望めませんが、とりあえず、『妖怪蛇バス』です」といずみが紹介してきた。
余りといえば、余りの台詞に、まず百合子が、「そんなのロードムービーじゃない! テキサスに、そんな妖怪いると思えない!」と喚き、「NO妖怪! 俺、超人間! ていうか、人生のうちで、『俺、超人間!』なんていう、台詞を言う機会に遭遇する自分が情けないわ!」と黒須が否定し、最後に時雨が「あ…、ああ…あ…、く…、黒須…さん…、あの…、な、生卵…あとで、あげる……から、食べな…いで…下さい…」と両手を握り合わせて真剣な顔をして懇願する。
「うがぁ! なんで、興信所に集まる連中は! 俺の話が通じないんだー!」と黒須が喚き散らすのを見て、「あ、蛇が吼えてる。 妖怪蛇男が吼えてる」とほえほえと眺めると「日本の怪談ホラーの味わいは、少し位なら感じられるかも」と、自分を無理矢理納得させつつ百合子は座席に腰掛けた。


全員が無事揃い、バスは思ったよりも平和に出発を果たせた。

流れるように後ろに過ぎ去っていく景色にチーコが歓声を上げていた。
チーコを膝に乗せたエマがその頭を撫でながら鼻歌を歌っている。 ハスキーな声が優しく、穏やかな旋律を奏でるのが心地よくて、百合子が視線を向ければ、エマは少女のように微笑んで「楽しいね」と千剣破の真向かいに座るいずみに言っていた。
青い空がどこまでも続いていて、初夏の日の光が優しく窓から差し込んでくる。
「ぁううぃぅぅ?」
「ああ…あれは、つつじ。 綺麗でしょ? もっとたくさん咲いてるとこにも連れてってあげるからね?」
「ひぅうあぃぃぃー!」
「ああ、はいはい、じゃあ、なんの歌が良いかしら?」
明らかにスムースに会話を交わしているエマに驚けば、千剣破が「チーコの言葉、もしかして分るんですか?」と、問い掛ける。
「んふふ、自慢じゃないけど、このエマさんは言葉に関しちゃエキスパートよ?」
そう言いながら胸を張り、それから傍らにある鞄から大学ノートを一冊引っ張り出した。
ペラペラと開いて見せてくれると、そこにはびっしりとメモ書きがしてあって、急いで書いたのであろう走り書きの状態であるというのに、それがとても読みやすい字である事にまず驚く。

「チーコちゃんが住んでた島の位置をね、黒須さんに聞いてきてもらったの。 チーコちゃんが喋ってる言語が何処から伝わってきたものなのか知りたくてね? というのも、彼女の舌っていうのは、私達とちょっと作りが違って、長さがとても短いの。 喉の構造も違うようで、そもそも人間とは発声方法が違うと考えた方が良いみたい」
エマの言葉に聞き入れば、エマはノートをチーコの頭の上でペラペラ捲りながら喋り続ける。
「だから、彼女の言葉の音は、母音と、ハ行の音、それに時折カ行が入り混じる位で、とても限られてるわ。 これが歌となると、また発声手段が変わってくるみたいなんだけど、そこまでの仕組みはちょっと分からない。 何にしろ、チーコちゃんの種族は会話における音が限られるから、当然語彙も限られてくるのよ」
「つまり、コミニケーション手段が『言語』である事が向かない種族という訳ですね」
翼の言葉に、「その通り」とエマが頷けば「確かに、それなら別のコミニケーション手段が発達して然るべきなのかも知れない」といずみも呟く。
「チーコの様子を鑑みるに、チーコはとても知的レベルが高いと思うんです。 幼い所が目立ちますが、私のクラスメイトにもチーコのような無邪気な振る舞いが目立つ子も大勢おりますし、現に彼女は人間社会に連れてこられて一年程の時間の間に、こちらの仕草を真似できるほど理解し、言葉も殆ど耳で聞く限りはその意味を分かっているように見受けられます」
いずみの明晰な推測に百合子は、彼女の知能の異常な高さを流石に悟り、恐るべき子供だなぁと、今日一日で何度目かの感心の念をまた抱かされる。
チーコは自分の話だからか、眼を大きく見開きながら、エマといずみに交互に視線を走らせた。
「まぁ、…いずみちゃんから見れば、大概の子は幼く見えるだろうけど…でも、確かにチーコは賢いよ。 その、エマさんの言うように、発声に関しては種族や、器官の構造の違いから、僕達と同じような発声が出来ないから、チーコはチーコの種族の言葉で喋っているんだろうけど、もし発声器官が同じなら、きっと僕らの言葉をマスターしていたような気がする」
翼が唸るような声でそう言った。


「耳が、いいのだろうな…」


目を閉じ、眠っているかのように静かに座席に身を預けていた冥月がぼそりと呟く。
「歌を得意とするものは、大抵聴力に優れ、耳で聴くものへの理解力が高い。 チーコは、一年間人間社会で過ごし、耳にする言葉の、音程や、高低、台詞の強弱等から、瞬時にこちらの言っている事の大まかな意図を察し、反応をしているのだろう」
冥月の言葉に、通路を挟んで隣の席に座っていた翼が感嘆したような声で「賢いな、チーコ」と言えば、チーコが誇らしげな声で「ひぅぁう!」と声をあげる。
そんなチーコの頭を愛しげな手つきで撫で、「よいしょ」と掛け声かけつつ抱え直すと、「そうね、だからね、これだけ知的レベルが高く、喉の構造から見て『言語による会話コミニケーション』に向かない種族が、それでも何故『会話』によって、コミニケーションを交わしていたか…そこに私は着目したの」とエマはよく通る、ハスキーで耳障りの良い声で言った。
「ああ…確かに、それほど知的レベルが高ければ、自分達独自のコミニケーション方法を発達させていたとしてもおかしくないな」
兎月原が、鼓膜を直接舐るような、官能的な声で「それで、エマさんは、何故、チーコちゃんの種族が、それでも『会話』によるコミニケーションを発達させたんだと考えてるんです?」と問い掛ける。
茶色の髪に日の光が透けていて、これぞ「女にモテる男の見本」のような、美形ぶりに女性陣がほわわんと彼に見惚れるのを百合子は誇らしげに眺めた。
エマも、同じように蕩けた顔で兎月原に見惚れていたようだったが「ハッ」と気を取り直し、「あ…いやいや、あのね、つまり、言葉が『伝来』したんじゃないかな?と思ったのよ。 人間からね」と答える。
「…ああ! そうか。 それなら、納得です」
大きく頷くいずみ。
「チーコの住んでいる島に、難破した船の乗組員等が流れ着いた可能性はゼロとはいえない。 どういう海流が、島の周囲を囲んでいるのかは見当がつきませんが、人間という会話によるコミニケーションを主にしている種族が、チーコ達の祖先が住む島に流れ着き、『言葉』を伝え、それが、チーコの代にまで伝わったと考えるのが自然ですね」
「そう、その通り。 言葉が伝わったのがどの位の時期なのかは見当がつかないけど、推測だと、かなり昔の事だと思うの。 ほら、今の時代だったら、言葉を教えたりとか、そういう事の前に、世紀の大発見としてチーコちゃんの種族を世間に公表したりとか…」とそこまで言って、エマの表情が徐々に曇り、それから口を一度噤む。

つまり、今の時代に人間に発見されてしまったから、チーコ達の種族の、悲惨な現状があるのだ。
昔ならば、難破し、無人島に辿り着けば、そのまま通信手段もなく、救助も求められず、その島で生を終えるしかなかったのだろう。
きっと、昔、チーコの島に辿り着いた人間は、彼女たちの種族と仲良く暮したに違いない。
人を疑わず、すぐに誰にでも懐き、笑顔を向けるチーコを見ていて百合子は確信する。

「…そうすると、チーコちゃんの言葉にはルーツがあるという事ですよね? 地球上にある、何処かの国の言語が、彼女たちの言葉の成り立ちとなっているって事ですか?」

百合子は、自分の考えに沈む余り、周りに重たい空気が満ちている事には一切気付かないまま、頭に思い浮かんだ自分の意見を述べた。
エマがほっとしたような表情を見せ、「そう! その通り! 私、こう見えても言語オタクでね? 黒須さんに、彼女の島の場所をベイブさんに聞いてきて貰ったのよ」と話の続きを始めた。
「で、先程まで述べていたような考察からチーコちゃんの祖先が人間とファーストコンタクトした時期を割り出してみると、航海技術が長期航海に耐えられるほど発達し、それでいて情報技術や、通信手段が今ほど栄えてない時代…。 そう考えてみると…大体15世紀中ごろから、17世紀中頃じゃないかな? と私は考えたわけ」と滔々と説明を続けるエマに、「大航海時代!」といずみが手を打った。
「だ…い…こうか…い?」
時雨がきょとんと首を傾げる。
「なんか…凄く…辛い…時代だった…とか?」
そう無邪気に問う時雨の言葉に、百合子が「ああ、それは、『大後悔でしょ』と突っ込んであげたいのだけども、突っ込んだら大火傷!って感じだから、何も言いたくないっていう、私の気持ち分って貰えます?!」と兎月原に訴える。
「え…百合…子…火傷? あ…、大丈夫…? 大丈夫…?」
眉を下げ、心配そうに自分に手を伸ばしてくる時雨を見て、その純粋な瞳に、滅多矢鱈に罪悪感を書きたてられると、「いや、もう、あの、え、ええ、ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」と、最終的に謝ってしまった。
もう、何がごめんなさいなのかは知らないが、ペタペタと百合子の頭や掌を触る時雨に、今時珍しいくらいの純粋さを感じて怯む。

「大航海時代って言うのは、スペイン、ポルトガル等のヨーロッパ人が領土拡大や、当時は金と同じ重さの金と等価で取引されていた香辛料を求め、インドとの直接貿易の為に、アジア大陸、インド大陸、アメリカ大陸へと航海による海外進出を盛んに行っていた時代です」
いずみの説明に「…あ…うん」ととりあえず頷いた時雨は、眼をパチパチさせながらマジマジといずみの顔を凝視していた。
翼が「本当に、君が小学生だっていうのが、信じられないよ。 見た目はそんなに可愛いのにね」という翼の台詞に百合子は大きく賛同の意を表したかった。
「ああ、では、チーコの言語の元は…」
そう顎先に指を当てて、兎月原が「ヨーロッパ圏の言語」と言えば「そう、彼女の言葉のルーツは、ポルトガル語よ」とエマはにっこり笑ってノートを閉じた。
「言葉の元さえ分れば、言葉の響きや、選択されている音の強弱からも、チーコの言葉の意味が推察できる。 幸い、ポルトガル語なら習得済だし、彼女の言葉をこうやって書き留めて、翻訳しつつ、ちょと理解してこうとしてるの。 簡単な通訳くらいだったら出来ると思うわ」
そうエマが言うのを、出会ってから数時間でも、よくぞまぁ…と感嘆すれば、皆のその無言の驚きを理解したのか、「いや、まぁ、だから、えーと、言葉が好きなの。 趣味なの。 だからよ」とヒラヒラと手を振りながら、凄まじい事を何でもない事のように言って纏めた。




「エマさんって…ほんっと…尋常じゃないよね」
千剣破が心底の声で言えば、エマも心底の声で「いや、でも、私、ほら、みんなみたいに、『破壊光線!』とか『テレポーテーション!』とか出来ないから…」と否定する。
だが千剣破は「いや、幾らこのメンバーでも多分、誰も『破壊光線!』とか撃てないから。 『テレポーテーション』とかしないから」と、速攻否定し返していた。

百合子としては、余りに未知数の面々なので「こちら、破壊光線を撃つのが得意な○○さん」と、誰かを紹介されても即座に「へぇ! それは珍しい特技をお持ちで」と頷いていてしまっただろう。
何だかんだで、尋常じゃない面々が集っている事は間違いないのだと確信しつつ、自分自身の事は、当然省いて考えている訳で、他の面子からも「尋常じゃない」と自分が認識されている事など当然知らぬ気に、「まぁ、自分の事は自分では分からないものだしな」なんて、まさしく己に当てはまるような事を、腕を組んで他人事のように百合子は考えていた。

しかし、事務能力のみを頼りに参加したというのに、エマのように人脈が広く、事務的な手配も完璧に出来、その上言語能力にも優れているメンツが混じっているとなると、本当に自分にしか出来ない事ってなんだろう?と深く悩みたくなる。
「う、うう、なんか、凄い…だって、興信所の事務員さん…なんですよね?」
百合子が両手を組み合わせながらエマに問えば「ん? そうよ? もう、雑用ばっか! ていうか、ボランティアだし! 給料殆ど払ってくれないし!」と、エマは、何でもない事のように答えた。
またパチパチと瞬きして眺め百合子は、「そんな…エマさんがボランティアだったら、私お金払って勤めさせて貰わないといけない」と心から呟けば、「あ、それはいいな」と兎月原がからかってくる。
「ま、エマさんは、ほら、ね?」
にやっと、笑う千剣破を、「何よう」とエマが睨んだ。
「ボランティアっていうかぁ…武彦さんをお手伝いしたいだけだもんね?」と首を傾げて言えば、ピッと片眉を上げて「からかわないのっ」と千剣破を叱り、ああ、武彦とエマの二人は恋人同士なんだと、そのやり取りで悟れた。
「う、うう、どうしよう、どうしよう」
しかし、こうなってくると自分が作ってきたものが、なんだか、場違いで、恥かしくて、幼稚なものに思えて、ビクビクしてしまう。

渡すなら今のタイミングなんだろうケド…。

おどおどと見回す百合子の様子に「どしたの?」と、黒須のすぐ近くに座って道をナビ係をしていたエリィが振り返って声を掛けてきた。
百合子は迷いながらも、えい、折角だし!と思い、「えーと…」と言いつつ、自分の網棚の上にあげらている鞄をごそごそ探り出す。
「…事務員らしく…こんなものを作ってきたのですが……」
そう言いながら取り出したるは、十数ページ程の小冊子の束。
出かけの際に慌てて作った代物だ。
だから、丁寧になんて、とても作れなかったが、それでも、百合子なりに頑張った。
「あの…しおりです」
そう言いながら渡す冊子には、百合子が得意なイラストで、可愛い兎やら、今回参加するメンバーのミニイラストを表紙や、描くページに描いてある。
「かわいい…」といずみが呟き、千剣破も、「きゃぁ!」と嬉しげな声をあげて、ページを捲りだした。
「ね、ね? この子があたしだよね?」
黒髪の女の子がニコと笑っているのを千剣破が指差してくるのを見て、恥かしさに俯きつつも、コクンと頷く。
「うあ、上手! ほら、時雨さんなんかもそっくり!」
指差す千剣破の指先を眺め「うわ…ボクだ!」と時雨も楽しげな声を上げてくれた。
何だかみんなの反応が嬉しくて、「旅行と言えば…しおりです!」と、妙な力強さを持って断言する百合子から冊子を受け取った面々は、思い思いの表情で冊子を捲り始める。
「頂戴、頂戴!」
そう手を伸ばすエリィに、廊下側に座っている冥月が手渡せば、「ほんと、凄い可愛いー!」と言いつつ、運転席に座り黒須に冊子を手渡していた。
にこぉと笑って、自分の似顔絵の部分を指先で撫で「ゆぃこぉ! はぅぃぅ!」と百合子に満面の笑みを見せる。
「注意事項とか…あと、スケジュールなんか書いてみました! 緊急の連絡先として、エマさんの携帯No書かせて貰ったんだけど…」
何か会った時のためにと、事前に知らされていたエマの携帯番号を勝手に書いた事に対して、少しビクつきながら問い掛ければ、満面の笑みで「オッケー! はぐれたり、迷子になったら、連絡頂戴ね?」と了承の答えが返ってきて、ほっと息をつく。
エマの大人相手では明らかにない言葉に、苦笑を浮かべる者もいれば、大真面目に頷くものもあり、「しおり」の登場に俄然盛り上がる旅行ムードに、百合子も、良かった、喜んでもらえてと、心から思うことが出来た。
「わ、でも、これ、ほんとに便利。 メモ用紙にも出来るようになってるし…、凄い…あはは、嬉しい! これから行く場所の、見所とかも書いてある。 よく一時間で作れたわねぇ…」
エマに「凄いわよ、百合子さん」と心からの声で褒められ、スーパー事務員の賞賛に照れに、照れまくってしまう。
百合子は嬉しげに「よかった、喜んでもらえて」と胸を撫で下ろし、にこっと幸せそうに笑った。



夕時。

高速のパーキングエリアで、夕食がてら休憩を挟む。
チーコの外見の特徴を考慮し、バスの中で夕食をとる事にした。
買出し班が、色々な物資を調達しに行っている間に、車内を食事が取りやすいよう座席を回したりして、調整を始める。
エマが、バスの横原にある荷物置き場から、車内に簡易机を運び込もうとしているのを手伝ったり、色々な準備を進めていると、「えへへ、見て見て?」と言いながらエリィが、行きがけに持っていた紙袋からタッパーを一つ取り出して見せた。
中には、色とりどりのおかずがぎっしり詰められていて、「わぁ!」と百合子は声を上げる。
「凄い、凄い、凄い!」
「ありがと!」
褒められて嬉しげに礼を言うエリィに「え? これ、出かけに作ってきたの?!」と賞賛の声を上げれば、「うん! といっても、出来合いのものばっかりだけどね」と謙遜し、それから、運転席で「うううん」と伸びをしていた黒須に一つ爪楊枝で差した、ベーコンのアスパラ巻きを差し出した。
「お一つ、どーぞ! ずっと運転ありがとう」
エリィの顔と、差し出された料理を交互に一度眺め、、黒須は「おお、さんきゅ」と礼を述べて、彼女の手からつまようじを受け取る。
パクンと口の中に放り込み「おお、旨い、旨い」と彼が褒めれば、「ふいー」とエリィは息を吐き「あー、よかった。 それ、ちょっと味付け雑にやっちゃったもんで、自信なかったんだよね」と言いつつ、小さく舌を出した。
「おお、すげー、ナチュラルに、お前、俺を毒見役にしたな?」
そう黒須が半眼になって問えば「美味しかったから良いでしょ?」とエリィは無邪気に笑う。
バスの中に戻ってきた竜子が、「うわ、旨そう」と言いながら手を伸ばし、卵焼きを指先でつまんで口の中に放り込むと「おいひぃ!」と嬉しげに叫んだ。
チーコも走り寄ってきて、「あう! あう!」と手を伸ばすので「あとでみんなで食べれるのに」と言いつつも、エリィはから揚げを一つ、チーコに食べさせてあげる。
はぐはぐはぐと懸命に口を動かす姿が可愛くて、百合子が「かわい…」と言いつつ、動いている頬を突けば、「ふぁぅ!」と声を上げて、チーコは百合子の指先をきゅっと握った。



「じゃ、じゃーん!」
エリィは、一足先に摘んだ人間の評判が良かったからか、自信たっぷりといった声を出しつつ、タッパーを机の上に並べだした。
「時間ないからさぁ、冷蔵庫の中のもの詰めて、あと、短時間で作れるものだけ作ってきたんだけど…」と言いつつ、バスの中央座席にエマが持ってきた、小さな折り畳み机の上に広げる。
手伝ったので知っているのだが、この机、結構重い。
途中までとはいえ、女性一人の身でよく持って来れたものだと感心し、意外なエマの腕力に百合子は瞠目した。
チェックの可愛いランチョンマットを敷いた上に並べられた料理の数々は、とても短時間で揃えたとは思えない彩の良さと、明らかに凝った料理の数々で、「えへへ、そこのポテトサラダとかは、結構自信作」と言いつつ、薦められるままに箸を伸ばせば、ほくほくとして、しっとりとした舌触りに、思わず崩れた笑顔になる。
「山菜おこわのおにぎりもあるからねー」と、エリィが言って差し出すのを受け取って、「へぇ、旨いもんだな」と黒須が褒めれば、「えへへへ」と嬉しそうに笑って、それから、「こうやって大人数で食べるのって楽しいね」と、気持ちの篭った声で言った。
チーコが、片方の手におにぎり、片方の手にから揚げをさしたフォークを握り締めながら、「はぐはぐ」と懸命に口を動かす姿を見て、「はい、喉に詰まらせないようにね?」とエマが注意している。
魔法瓶に入れてきたという、お味噌汁を啜りつつ、ああ、確かに、ご飯は誰かと食べる方が美味しいと強く感じた。
一人で食べるご飯よりも、たくさんの人と一緒に食べたほうが美味しい。
空豆と明日葉の掻き揚げを食みつつ、「時間がたってもサクサクしてるのね。 また、コツ教えてよ」とエマがエリィに強請り、時雨がチーコに負けない位口いっぱいに食べ物を詰め込み、片手に握り締めた五平餅にもパクついている。
百合子は、ひたすら「美味しい、美味しい!」と感想を述べるしか出来なくて、同じように「美味しい」と言い続ける千剣破と顔を見合わせ、微笑み合いながら箸を進めて、それぞれ「このロールキャベツとか、もう、お店出せるよ」とか「この白和えもサイコー」と感想を述べ合った。
翼は、流石と言うべきかエリィを「あなたみたいな方の恋人になる男性は世界一の幸せ者だ」と絶品の微笑みで褒めており、そうなると当然のように兎月原が澄ました顔で、「ああ、願わくば、俺もその、世界一幸せになれる男候補に名乗り挙げたいものだ」なんて甘い声で告げている。
何故女性に生まれてしまったのだろう?と思う程の、ハンサムっぷりを発揮する翼と、甘いマスクに似合った甘い声で賞賛する兎月原の前に、頬を染め、へにょへにょと身をくねらせながら、「ううう、やばい、照れすぎちゃう!」とエリィは喚く。
竜子と嵐も、バイクでの走行と言うのは体力を使うのか旺盛な食欲を見せ、ブロッコリーの塩茹でに、レモンの手作りドレッシングをかけたものを皿に山盛りに取りながら、「うめぇ…! 野菜って正直そんな好きじゃなかったんだけど、こうやって喰うとうめぇんだな」と感嘆の声を上げている。

竹の子のオーブン焼きや、菜の花とあさりを卵でとじたもの等春野菜をふんだんに使った料理の数々に舌鼓を打ち、サービスエリア名物のチープながらも、暖かで癖になるようなテイクアウトの品々も綺麗に平らげ、これまた最後に暖かな緑茶を啜って、大層賑やかな夕食を終える。

「んじゃ、嵐君、交代」

そう言いながら立ち上がったのはエマで「バイク疲れたでしょ? 鍵、貸して」と言いながら有無を言わさず差し出す手に、嵐は目を見開いたまま鍵を渡し、それから「はえ?!」と声を上げた。
「私、大型二輪の免許持ってるから、交代要員に数えてくれて良いわよ? お昼からずっと走り詰めでしょう。 休憩なさいな。 あ、運転技術は、結構折り紙付きだから大丈夫」と言うエマに、嵐は「いや、そこら辺は疑っちゃいないが…外結構風冷たくなってくる時間帯だし、女が体冷やしたらまずいだろ」と眉を寄せて言う。
エマは首を傾げ、ひらりと軽やかな大人の笑みを見せると、「あら。 優しいのね。 ありがと。 でも、ちゃんと、防寒用にダウンジャケットと革パン持ってきてるし、季節的にもそんなに冷え込まないから、心配しないで」と言い、肩にボストンバッグを提げて颯爽とバスを降りていく。
そんな格好の良い背中を皆で見送って、「あの人…なんでも出来るんだな」と呻く嵐に、「意外な特技発見よね」とエリィも頷いて、「要するに、暇人って事だろ?」と黒須が口を歪めて憎憎しげに言えば、竜子がその後頭部を思いっきり叩いた。
「姐御の悪口言うな! 命が惜しくないのか!」
竜子の物の言いに、時雨が「やっぱり…、どこかの…組の人だったんだ」と大きく頷く。
確かに肝の据わり方が尋常じゃないし、先程の背中には独特の迫力が感じられた。
百合子と、兎月原は「只者ではないと思っていたが…」「やっぱり、その筋の関係者だったのね。 なんで、じゃあ、興信所の事務員を?」と言い合う。
後ほど誤解は解けるのだが、その時は百合子は、真剣にエマは何処かの筋の姐さんなのだと思い込んでいた。



二日目。


昨日は、夕食後、チーコとわきゃわきゃと喋ったり、夜通しバスで過ごすという体験に興奮して眠れないかと思ったが、疲れていたのかいつの間にか眠りこけていた百合子。
バスタオルをタオルケットの代わりに掛けられていて、「ふあ」とあくびをしながら身を起こすと、キラキラと目を輝かせながら、万華鏡を覗いているいずみと、チーコの姿が目に映った。


「わぁ…」

そう、微かな、それでも、驚嘆しような声をあげるいずみの姿に、今万華鏡を覗いている彼女の目に、どのような世界が映っているのだろうと興味深く思う。

「綺麗だろう」

低い声。
顔を向ければ、腕を組んだまま、眼を閉じていた冥月が、二人に顔を向けずに腕を組み「人から貰ったものなのだがな、暇を潰すのに丁度良い」と告げていた。
冥月があげたのか…と少し意外に思う。
彼女は、皆からも、チーコからも距離を置いているように見えたから。
だが、万華鏡を無邪気に覗いているチーコを見る表情は存外に穏やかで、「今兵庫を通過中だ。 神戸市にある水族館へと向かっている。 あと少しで、次の休憩所に着く。 そこで、洗面と朝食を済ませよう」と告げた言葉の柔らかさに、彼女を優しいと言った黒須の言葉は、的外れではなかったと百合子は確信した。



「うわぁ!」
エリィが歓声をあげて、水槽に張り付いた。
その隣に翼も立ち、「なんて美しいんだろう」とうっとりとした声で言う。

青い水槽の中を、鮮やかな色した熱帯魚が優雅に泳いでいる。
美しい珊瑚が彩る水槽内は、百合子の目を楽しませ、チーコもいちいち歓声を上げていた。

神戸市にある水族館。
チーコは、熱帯魚を熱心に見つめていた。
きっと、自身が住んでいた島の近くの海で、たくさん見かけた事だろう。
一つだけの大きな目が、吸い込まれるように熱帯魚を追っている。

水族館には、チーコ、竜子、嵐、エリィ、翼、そしていずみというメンツで来ていた。
残ったメンバーは、それぞれ、買い出しなり、所用があるらしく、「楽しんでらっしゃい」と送り出され、少々申し訳ないような気がしつつも、有り難く言葉に甘えた。


今チーコが着ているのは、いずみからの借り物のピンクのパーカーで、目深に被れば、チーコの最大の特徴でもある一つ目が隠せて、大変重宝していた。
連休中とあって、そこそこ混み合ってはいたが、嵐が興信所にて「水族館なら、館内、意外と薄暗いし、周りの人は水槽に気を取られてチーコの事もあんま気付かれないんじゃないか」と予想したように、暗い館内では、髪や目を隠せばチーコは人間の子供と変わりなかった。

「あぅぃう! うはぅ!」
「おお、あれはカツオだな。 たたきにすると旨い」
「うぉひぅぅぁぅふぅ!」
「あれはマグロ。 絶品」
「はぅ? うひぁぅぅ!」
「ああ、あいつはマンボウだな。 結構珍味」
チーコが指差す先の魚に、無愛想な口調で一つ一つコメントを付けていく嵐に対し百合子は耐え切れず「浪漫がない!」と文句を付けた。
「ここは生け簀じゃないんですから、もっと、なんか、情緒のある説明をしてよ」
そう口を尖らせれば「浪漫って…」と嵐は口篭もり、「女の子は、デリカシーのない台詞は嫌がりますよ? ね?」と、いずみはチーコに同意を求める。
くりんと首を傾げて、眼をパチパチさせるチーコの仕草が可愛くて微笑めば、「うおー! あのサンマの群れ美味そうー!」という竜子の声が聞こえてきた。
「あれは女の子じゃないのか?」
半眼になって嵐に問われ、いずみが即座に「あの人は、女の子じゃなくて、竜子さんです」と答える。
その答えに妙に納得させられて、「そうね、竜子さんよね」と答え、嵐は、何が何だか分からない様子ながらも「そうか、女の子じゃなくて、竜子なのか」と認めてしまっていた。
「でも、大体、こんな水族館で、そうそう、ロマンのある台詞もへったくれもないだろう」
嵐がそう反論すれば、先をエリィと歩く翼が「本当に生きている宝石のようだ。 そういう意味では、エリィさんや、竜子さんと一緒ですね」とサラリとスーパー口説き文句を口にしており、思わず百合子といずみで揃って小さく拍手をしてしまう。
「ああいう感じで」
「ええ、ああいう感じで」
そう百合子と交互に言い合い、嵐を見上げ「是非、素敵なコメントをチーコに一つ」といずみが促せば、日頃口数の多くなさそうな嵐は、これ以上ないという位の困り顔を見せて、「あ…う…、えーと…」と口篭もった挙句、「これぞ、海の宝石箱やぁ…」と、嵐的にも一生物の後悔になりそうな事を口走った。

思わず気が弱いものならば、即座に自殺を決意しそうな程の氷の眼差しでいずみと並んで嵐を眺める。


「パクりじゃん」
「しかもグルメレポーターのパクリじゃん」
「咄嗟に、それが思い浮かぶ辺りが貧困」
「しかも、実際に言っちゃう辺りが最悪」
「ていうか、ありえない」
「うん、ありえない」

いずみも大概キツいが、百合子も中々の腕前(?)で嵐を攻め立てる。
嵐も咄嗟に口走った台詞が、まさか某グルメリポーターのパクリになるとは、自分で自分が信じられないのか、項垂れ、水槽に額を押し当てたまま、「すいません、ほんますいません」と反省モードに突入する。
「自分でもどうかしていました。 ちょっと、焦りすぎました。 け ど なぁ、あれは無理!!」

そう指を指す先では、翼が「ああ、エリィさん、僕から離れない方がいい。 そうじゃないと、人魚姫に間違われて、浚われちゃうからね」と真顔で言っていて、「ハンサム風林火山」ともいうべき、物の言いと、それがしっくり似合う余りの美少年ぶりに(しつこいようですが翼は女性です)思わず三人揃って立ち眩む。
「た、確かにハードル高いわ」
「この世で他にあの台詞が許されるのは、翼さんの他には兎月原さん位ですね」
「だろ? 俺には、一生、無理! ていうか無理でいい! 無理な俺で生きていきたい!」
そう力強く決意表明する嵐に、チーコが事態を分かっているのかいないのか、ポンポンと嵐の背中を優しく叩き、嵐は感動したような表情で、「お前だけだよ、優しいのは」等と言って、その小さな頭をぐしぐしと撫でた。



「はーい、では最後にもう一度、ルーク君に盛大な拍手をお願いしまぁす」

明るいお姉さんの声に、百合子は力いっぱいの拍手を送り、チーコが歓声を上げながら大きく手を振った。
「面白かったねぇ!」
エリィの言葉に素直に頷く。
人目につかぬよう最後部座席で見たイルカショーは、それでも大迫力の出来映えだった。
計算してみせたり、可愛いポーズを見せたり、アクロバティックなジャンプをしてみせる姿に、チーコと同じく、いちいち感心し、拍手を送る。

楽しい。
凄く楽しい。

嵐の膝の上に乗ったチーコが「いふぅぁ、あぅひぉぅ!」と言いながら嵐の首根っこにしがみ付いた。
「おう。 俺も楽しかった、ありがとう」
嵐はそう言いながらチーコの背中を軽く叩いて、「さ、行くか」と立ち上がる。
「次は何処だっけ?」
「海! チーコちゃん、海だよ! 海!」
エリィの言葉に「ひぃあ!」と喜びの声を出し、チーコが、するんと嵐から滑りおりると、スキップする。
すると、チーコは足をもつれさせ、コロリと転んだ。
「大丈夫? 駄目よ、はしゃぎすぎ」
そう言いながらいずみが手を握って引っ張りあげる。

そして、チーコを覗いた顔が、一瞬、凍りついたように強張った。

「…チーコ?」

いずみが、震える声で問い掛ければ、慌てて顔を上げたチーコがにこっと微笑む。

ああ、良かった怪我はなかったのかと、百合子は一安心した。

いずみが、優しい声で「海、楽しみね」と言う。

大股で歩き、すぐさま二人に追いついた嵐が、チーコのもう片方の手を握った。
「そうだな。 凄く綺麗な海だそうだからな」
エリィが、「人がいない海を探したんだよ?」と笑い、翼が「黒須さん達が、バーベキューの用意をしてくれているらしい。 僕も腕を振るうから、期待しててよ」と宣言した。

「あ、なぁなぁなぁ! あそこプリクラあんぞ!」

竜子が先を指差し能天気な声を上げる。
百合子も、その機械に歓声をあげ、思わず走り寄ると、「ふわあ! ほんとだぁ! ね、ね! みんなで撮ろう?」と、みんなを手を振って呼んだ。
ピョンコ、ピョンコとその場で跳ねる百合子に、皆が苦笑しつつも、集まりプリクラ装置のカーテン内へと入る。
画面に並んでいるフレームは、水族館ならではといったものばかりで、海洋生物や、ラッコ、シャチ、ペンギンといったフレームが羅列され、百合子は、眼がチカチカするような心地になる。
友達と、何度か一緒に映った事があるが、いつまで経っても慣れないプリクラは、竜子もさほど経験ないらしく、「えーと…あれ? どこ押すんだ??」と困った様子で首を傾げている。
「あ、代わって、代わって〜♪」
そう嬉しそうに竜子と交代したエリィは、「何にしようかな〜♪」と嬉しげにフレームを選びだした。
「あ、あのラッコ可愛い!」とエリィが言えば、百合子が「あざらしも、可愛いよ!」と訴える。
「チーコはどれが良い?」と翼が問えば、じぃっと眺め、それから、先程凝視していた熱帯魚のフレームを指差した。
綺麗な色合いのフレームを「おっけー、じゃ、これにしよ」と言いながらエリィが選択する。
戸惑ったように遠巻きに眺めていた嵐を、竜子がぐいっとカーテン内に引っ張り込んで、「あい、みんな笑えよー!」という声の無邪気さに、百合子は無防備な笑みを浮かべる。
チーコがにいいっと人の形とは違う、鋭い形の歯をむき出しにして笑う。
カシャとカーテン内をフラッシュの光が満たす。

出来上がった写真は、みんな子供みたいに笑ってて、何だか切ないようにも見えて、それぞれの分を鋏で切り分けた後、百合子が作ったしおりに大事に、大事に貼り付けた。




「うひぁうぅ、はああぅふぃぃぅ!」
サクサクサクと軽い音を立てる白い砂。
裸足になったチーコが波打ち際ではしゃいでいる。
千剣破や、嵐、いずみと一緒に海で遊んでいるチーコを目を細めて眺めつつ「長閑だわ〜」と百合子はのんびりとした声で呟いた。
兎月原が、まるっきり猫か犬かを眺めるような目で百合子を眺めている事には気付かずに、ほやほやほやと、日光の温度に癒される。
冥月が堤防側に油断なく視線を走らせつつ、簡易チェアに腰掛けていた。
真っ黒な衣裳は、初夏の海にはそぐわないものであったが、風にたなびく黒髪と、そこから覗く白い項は涼しげでやけに色っぽい。
ネックレスの金色の鎖が、巻きついていて、そのしなやかさを強調していた。
兎月原が絶景を愛でるような眼差しで、冥月の事を眺めていた。
ほんとに、女の人が好きね…なんて少し呆れつつも、だから、ホストなんて商売が出来るのかな?と首を傾げる。
まぁ、逆に、本当に「心底好き」ならば、勤められぬ商売でもあるのだが、百合子はまだ、勤めて半年故に、そこまでは思い至らず、じいっと冥月を眺めている兎月原を、これまたじいっと観察してみた。
兎月原の視線に気付いたのか「何だ?」と訝しげに振り返る冥月に、「いえ。 絵になるなと思って」と如才なく兎月原は答える。
眉を寄せた冥月は「からかうな」と兎月原を叱った。
「いやいや。 本当に。 目が洗われるようだ」と甘い声で言う兎月原に一度ブルリと身を震わせ「お前の声は、甘ったる過ぎる」と訳の分からない文句を冥月は言う。
「…こうやって見ると、ごくごく華奢でか弱げな女性に見えるんだけどね」と、そのしなやかな後姿に兎月原が目を細めれば、「お前も、ただのナンパ男だ」と手酷い言葉を返されていた。
おお、流石に手強いと感嘆する百合子だが、冥月は更に手強い言葉を重ねてくる。
「相当デキるだろう?」
愉しげな冥月の声に首を傾げ「あなたのような人に誉められる程の腕は持ってないな」と兎月原も平然と答える。
「くっ」と冥月は喉の奥で笑うと、「ご謙遜をと言った所だ」と皮肉気に言って、「それにしたって、何ともおかしな依頼だ」と肩を竦めた。
「黒須と…竜子…、どこかの組織に属しているのなら、そういう匂いがするものだが、どうにも二人とも群れに属している人間には見えない。 黒須は人間離れした気配を身に纏っているし、逆に竜子は素人同然…依頼人も謎だらけながら、あの二人の上司とか言うベイブという名の者の事とてさっぱり分からん。 そこそこ、様々な裏組織には詳しいつもりなのだが、情報屋であるエリィとて、耳にしたことのない名だという」
「…蛇」
「ん?」
「黒須さんは、蛇の血が混じってるそうだ」
兎月原が意味の分からない事を言った。

蛇?

あの、にょろにょろの蛇よね?

疑問を感じた百合子と同じく、「なんだ、それは? 蛇と人間の間に生まれたとでもいうのか?」と冥月は嘲笑うような形に唇を曲げる。
そして、「まぁ、だが…」と呟き、「ここに揃う者は皆異能者か…。 そもそも、人間であるかすら危うい者も、ちらほら混じっている。 そう言う意味では、蛇の血が混じる男など、別段驚嘆に値するものではない…か」と独り言めいた声音で呟いた。
その客観的な言葉が不思議で、思わず口を挟んでしまう。
「…冥月さんも、人間離れした力を持ってるの?」
百合子が問えば、冥月はさらりと髪を揺らして首を傾げた。
「さぁて、それは、見る人間が判断することだ」と嘯ぶく口調で答えてくる。
「私が人間の範疇か否か。 最早私にも分からないよ」
冥月の言葉に、そよ…と百合子は笑って、「強いのね、冥月さんは」と穏やかな声で言った。


強さは誇りとなるや否や。
自分より、随分と年下なのであろう冥月の周囲に漂う、諦念の気配が、何だか百合子にはもどかしかった。

何を諦念する事があるのだ。

強いのに、何故、諦念するのだ。
私は、弱くて、色んなものを諦念したというのに。


「強い事って冥月さんにとって幸せな事?」
冥月は表情を変えないまま、「分からん」と呟いた。
「強ければ、全てを守れると思っていたが……守り損ねたものもある」
胸に提げられるロケットを握り締め「…そういう時は虚しかったよ。 己の力が」と淡々とした声で言った。
「私は…弱いわ…」
百合子は呟いた。
「弱いから、色々諦めたり、守り損ねたり、立ち止まっちゃったり…まぁ、散々ね。 失う前に手に入れられないの」
クスリと笑って、横目で冥月を眺めると「『強いから』何かを失ったって事はないの?」と、吐き出した。
百合子のその言葉に一度だけ、一度だけ冥月は肩を震わせ、髪を潮風に舞い上げると、顎を上げて空を眺める。
そして、冥月は、にこりともせずに、「そもそも、何も持ってはいなかった。 況や、失うものなど何もない」と無表情な声で答え、百合子を見つめてきた。
真昼の月のような顔だった。
冷たく、儚い顔だった。

百合子は、寂しげに「そう」と笑って、冥月と同じように空を眺めた。

兎月原が突然頭に手を伸ばし、鷲掴むようにして自分の肩へと引き寄せてくる。
百合子は、まるで木が倒れるかのごとく、花が風に折れるかの如く、逆らわずに兎月原へと引き寄せられた。

時々。

こうやって兎月原は百合子を不憫がった。
百合子は、兎月原に不憫がられる度に、後ろ暗いほどの哀しい幸福を噛み締めた。

兎月原さん。
私って 可哀想?

青い空に、白い雲がふわふわと浮かんでいる。
一瞬脱力し、そして次の瞬間、自分が随分とお腹がすいている事に気付いた。

良い匂いが鼻先を漂う。
あ、バーベキューの匂いだ。

「兎月原さん」
「なんだ?」
「お腹空いた」

ポカンとした声で百合子は言った。

冥月が一瞬きょとんとして、それから小さな声で少しだけ笑った。
兎月原も、何だか酷く無防備な顔になって、程なく「ごはんだよー!」という声が聞こえてきた。
「バーベキュー!! いい具合だよ!」
翼が金色の髪を風に遊ばせながら呼んでくる。

お昼も少し回った時間帯。
お腹をぺこぺこに空かせた面々は、めいめい返事とも歓声ともつかぬ声を上げて、既に美味しそうな匂いが漂っている浜辺へと走っていった。


エリィが見つけてくれた浜辺は、彼女が言っていた通り、観光客の姿も地元の人間の姿も見えず、チーコは姿を隠さずに、のびのびと振舞う事が出来ていた。

串に差した肉に齧りつきながら、熱かったのかチーコが「ひふひふ!」と息を大きく吐き出している。
「はい、どうぞ」と冷たい水を兎月原が差し出し、丁寧な手つきでチーコの口元をナプキンで拭ってあげていた。
「おいし?」
首を傾げて問う姿や、チーコが別のものに手を伸ばそうとすると、さっと皿を差し出す紳士ぶりにさすがと感心していると、女性陣が多々憧れるような目で眺めていた。 自分より年若い者が多いので、とうもろこしに兎のように齧りつきながら、「まぁ、プロだしね」と言いつつ、人が知らぬ情報を握っている優越感的なものも噛み締め、うんうん頷く。
「プロ?」と相手に首を傾げられれば、「おもてなしのプロ」と答え、「まぁ、貴女にはまだ早いから、嵌るにはもう少ししてからね?」と忠告だけはしておいた。



料理上手のメンツが揃っているからか、どれもこれも、本当に美味しい。
バーベキューの他にも、タラのホイル包み焼きに、海鮮塩焼きそば、ブイヤベースのスープまで、「エリィちゃんが作ってきてくれたお弁当に触発されちゃった」とエマが笑い「僕も張り切らせて貰いました」と翼が、優雅な手つきでスープをプラスチック皿に流し込む。
翼も、エマも、乏しい調理器具から、手早く見事なバーベキュー料理を作り上げており、エリィもお弁当作りで見せてくれた腕前を思う存分披露してくれていて、皆、お腹が一杯になると、本当に野外料理の食後なのかと疑いたくなるほどの、満足感に満たされた。

その後、日暮れ前にここを発つという事で、浜辺で眠るもの、波打ち際で遊ぶもの、ビーチパラソルの影で本を読むもの等、それぞれ別れる。

百合子も、片づけを手伝った後は、クーラーボックス(これもエマ持参だそうだ。 咄嗟に『怪力』と慄いた事は、勿論内緒)から、よく冷えコーラを取り出し、浜辺でぼんやり日光浴をする事にした。

サクリとした足音が聞こえた。
「隣良い?」と声を掛けられ、エマが座る。
「あ、黒須さん! 黒須さん!! 私、食後のアイスコーヒーが飲みたーい!」とエマが大声を出せば「依頼人をコキ使うって、どんな職員だよ」とブチブチ言いつつも律儀に氷を浮かべたコーヒーをエマに手渡した。
「冥月さんも、おいでよ」とエマが手招きすれば、何かを言いかけた後に頷いて、傍に来る。
「うふふ。 でも、ほんとチーコちゃんのお陰で楽しい旅が出来て、ありがとう!って感じよね」
そうにこにこというエマに冥月は肩を竦め、「呑気なものだな…」と言った後、ふっと表情を緩めると「だが、まぁ、皆が皆ピリピリしていてはチーコも楽しくなかろう」と答えて、浜辺でいずみとならんで座っているチーコに視線を送った。
今は二人肩を寄せ合って、一つの万華鏡をのぞいている。
あれは、冥月のあげた万華鏡。

「…気に入ってるみたいよ?」

エマが冥月に言えば、「それは何より」とクールに冥月は答える。
「…三日間…短すぎだわ」
百合子が寂しげに言えば、黒須はチーコの背中を見て「楽しんでくれてりゃあいいんだけどな」と呟いた。
「…やっぱ、どうしようもない事は、どうしようもないんだな」
黒須の言葉に、いずみが事務所で喚いた言葉を思い出す。

「良い大人が雁首そろえて、3日しか保たないとかいきなり泣き言を言ってないでベイブさんに泣きつくなり何か手が無いか尽くしてからにしましょうよ」

「ベイブさんっていう人は…」
百合子の口から出たその名前に、異様に体をびくつかせた黒須が、百合子にキョドった目を向ける。

「凄い力の持ち主なんですか?」
「んあ? え? ベイブがか? あー、どうなんだろう?」
咄嗟にエマに視線を向ける黒須に、エマが「なんで、私を見るのよ」と唸りつつも「いや…凄いっちゃあ、凄すぎるくらい凄いんだろうケド……」とそこまで言って口を噤み、「…まぁ、不便な人よね」と言って頷いた。

ああ、エマさん、ベイブさんって人と会った事あるんだと少し羨ましくなりつつ「不便って?」と問いを重ねれば、「ううん、何ていうか、夢の世界に住んでるみたいな人なのよ」と要領の得ない言葉が返ってきた。
「異世界みたいなものか? その、空間が違う…とか」
冥月が言えば、「ああ、そういう感じだ」と黒須が頷く。
「だから、何処の情報網にも引っかかってこないのか…」
冥月の呟きに「あ、じゃあ、『発狂運輸』つったら分かるか?」と黒須が問う。
「…発狂」
「運輸…?」

随分とアヴァンギャルドな運輸会社名だと思いつつ、エマも訝しげな声をあげたので、どうも、この中では一番黒須と付き合いの長そうな、エマも知らぬことなのかと、察する。
だが、逆に冥月は聞き覚えがあったのか「ああ、あの妙ちくりんな『裏社会御用達配達会社』。 あすこに関わりのある人間なのか? そのベイブとやらは」と、驚いたような口調で言った。
「…おお、関係も何も、オーナーだぜ。 確か」
黒須の答えに、ヒュウ♪と口笛を吹き、意外そうに冥月は笑う。
「本当か? へぇ。 じゃあ、『発狂運輸』の殺人お届けサービススタッフから、『花龍』が抜けたという噂が事実か?」
物騒な名前の連呼に、エマと百合子、二人並んで目をパチクリさせていたのだが、黒須は「ああ…なんか、ベイブがそういや言ってたな。 ナンバー1が行方不明になったって」と答えて、「ほんとに、詳しいのな。 そういう業界については」と黒須は肩をすくめる。
「え…えーと…?」
そうエマが首を傾げるので黒須は「いや、なんか、ベイブがこっちでやってる、まぁ、会社みてぇなもんだよ。 一応、こうやって興信所に依頼したし、何かの際に人がいるようになった時に困らないよう現金を手に入れる手段を持っておいた方が良いって理由らしいが、多分退屈だからってだけだぜ? んで、あんま、こう、普通の配達会社には頼めないような、後ろ暗いものとかを配達してくれるっつうんで、組やら、色んな組織から、個人まで重宝してくれて、幅広くサービスを提供してるってわけよ」と説明してくれた。
「その…殺人お届けサービスは?」
エマの恐々とした問い掛けに「字のまんま。 殺し屋を、相手宅に配達して、『死』をお届けしますっていうサービス」と黒須は何でもないような声で答え、「花龍は、一番仕事の出来た大陸から出稼ぎに来ているスタッフらしいが、今は行方知れず。 殺られたっつう訳でもなさそうだし、ほんとに消息を絶たれちまってて、後を追いようがないんだと」と黒須は肩を竦めた。
なんか…えーと、かなり、これは殺伐とした話じゃないのか?と思いつつも、どうにも興味深くて耳を済ませずにはいられない。
「白雪さんに聞いても分からないの?」
また、知らない名前だ。
「白雪?」と百合子が問えば「ベイブさんに仕えてる、何でも見通す力を持ってる女の子よ」とエマは答え、そんな凄い人が傍にいるなんて、いいなぁとベイブを羨む。
黒須は首を振ると「かなり、今は不確定要素ばかりの状況にいるらしくて、どうしても存在が掴めないらしい」と答えた。
「…何にしろ、だから、そっちのねーさんが言ってた通りさ」
黒須に指し示された冥月が「ん?」と疑問符を口にする。

「独善で、まぁ、偽善だ」

黒須の自重めいた言葉の響きに、冥月は、自分が興信所にて口にした台詞を思い出したのだろう「あれは、冗談だと言っただろう」と答えた。
「いや、でも的を得てんだよ。 だって、考えても見ろよ。 殺し屋雇ったり、えげつない物の配達を請け負う会社のオーナーが、今はチーコを助けようとしてんだぜ? 逆に言えば、チーコを南の島から連れ去ってきたような組織の手助けだって、何度もやっちまってるのかも知れない。 何にしろ、ベイブのやってる事で、酷い目にあったやつや、命を取られた奴だってたくさんいるんだろう」
黒須は皮肉気な笑みを浮かべた。

「狂ってんだよ。 そもそも」

自分の首に嵌っている、黒い輪に手を這わせる。

「矛盾だ。 だが、そこに疑問を感じない。 俺の上司ってのは、そういう奴だよ。 おかしいんだ。 頭が」

淡々と語る口調に百合子は、ぼんやりと「じゃあ、何故、それでもその、ベイブって人の下で働いてるの?」と問い掛ける。
エマが何か言いかけて、口を噤み、黒須は遮光眼鏡の下にある険しく、陰惨な目を眇めると、「…どうしても、見つけ出さなきゃいけない奴がいて、そいつに会う為」と端的に答える。
冥月が何気ない口調で問うた。

「それはどういう奴なんだ?」

「俺の嫁さん殺した奴」

それは余りに乾いた声だったので「ああ、そうなのか」としか思えなかったし、そう思うのが正しい反応なんだろうと思った。
冥月は、自分の胸元に提げられたロケットを握り締めると、「へえ…」と小さく呟いて、「会えると良いな」と、無表情な声で言った。
「ま、だから、俺も狂ってんのかもな」という黒須に「だったら、私も同じだな」と冥月が言う。
「私も、そこそこ今までに色々あったもんだから、チーコみたいな身の上の子供はゴマンと見てきたよ。 九龍城って知ってるかい?」
冥月の言葉にエマが「ええ。 何処の国の法も及ばない、無法地帯。 中国大陸からの流民のスラム街よね。 アジアンカオスの象徴だった場所よ」と答える。
百合子も、アジア映画などの題材としてもよく扱われている事から、その存在は知っていた。
「今はもう、取り壊され、あの場所に住んでいた不法滞在者や犯罪の逃亡者等は強制退去させられているが、私は昔、仕事の関係上、何度もあの場所に足を運んだ事がある」
冥月の言葉に「へぇ。 歴史の生き証人みてぇなもんだな」と黒須が言えば、「さて、生き証人になれる色々見聞きしたわけではない」と冥月は答え、それから、ふいと遠い目をした。
「あそこは、阿片窟にもなっててな、九龍城に住む女が妊娠した際は、母親が重度の中毒者だった為に、その赤子もドラッグベイビーとして生まれてくるケースが非常に多かった。 低体重や脳萎縮・臓器奇形、五体満足に生まれても、生まれながらに情緒不安定。 母親の腹の中にいる時から麻薬漬にされて、生まれた場所も阿片窟。 娼館に売られる子やら、盗みを親に強制される子…まぁ、有り体に言えば、地獄だ」

冥月の語る言葉の凄みに、百合子の背筋がすうっと冷えた。

「私は何も出来なかった。 その時は、私も子供と言って良い年齢でな。 自分の身の上を殊更幸福だとは思えなかったが…それでも、その地獄を目の当たりにする度に、自分で自分の道を切り開ける力を持てた事を神に感謝したよ。 どうしようもない。 誰も手の施しようがない。 理不尽で、暴力的な、残酷でしかない現実。 無力だった。 私の力なんざ、その子達の誰も救えるもんじゃなかった。 人を、たくさん殺せます。 素早く息の根を止められます。 狙った獲物は逃しません」

冥月は「ふっ」と端麗な顔に、寂しい笑みを刷く。

「それで、目の前で苦しむ子供の誰を救えよう。 重病の痛みに泣き、親に捨てられ売り飛ばされる子供たちの絶望を、どうやって癒せるというんだ。 無力だ。 百合子。 私は、その時、圧倒的に無力だった」

ついと顔を向けられて、百合子は返せる言葉を見つけられなかった。
絶望を知る者の顔をしていて、きっと、彼女は自分には到底想像のつかない多くの理不尽さを目の当たりにしてきたのだろうと思った。

「…こんな仕事は嫌いだよ。 あの時の私の無力さを思い起こさせる。 お前の上司が狂ってて、お前も狂ってるというのなら、私も一緒だ」
冥月は、黒須に向かって穏やかに言う。
「矛盾だ。 この手をしこたま血に濡らしておいて、それでも、チーコを救いたいって考えてる。 だけど、こんな仕事で私が何か出来る事があるのなら、そのどれ一つだって、私は厭わずやりたいと思うんだ。 チーコを、三日間、なんとしても守り抜く」

冥月が、美しい位の凛とした声で言った。

「それが…あの時私が救えなかった子供達に対する、せめてもの罪滅ぼしだ」 



膝を抱え、暫く風に吹かれていた。
エマも隣に座って、一緒にじいっと海を眺める。

「ねぇ…百合子さん」
「はい」
「私、ちょっと落ち込んじゃった」

エマの声は、少しだけか弱くて、目を向けると、堤防際にいるチーコを眺めていた。
チーコの周りには、千剣破や、いずみ、エリィに翼といった美しい少女達が、微笑み合いながら輪になって座っている。
心躍る程に愛らしいその情景に、百合子の目の淵に涙が滲んだ。
チーコが輪の中心で必死に指先を動かしていた。
何かを作っているのだろうか?


「今の私たちの生活からは、想像のつかないような過酷な現実を生きる子供達がいるって事は、知識としては知ってたの。 だけど、冥月さんのように現実に見てきた人から話を聞くとやっぱりショックね」

エマがしょぼんと肩を落とす。

「私は時々勘違いしちゃうの。 興信所を通して、色んな人に感謝されたりしてきたせいね。 私自身を時々正義の味方みたいに考えちゃう。 だけど…そう、無力よ。 私も。 だって、どうしてあげたら良いか分からないもの。 そういう子供達に対してね。 どうしようもない事しか分からないもの」
エマの、落ち込んだ横顔が、なんだか可愛くて、ちゃんと年下に見えて、百合子は「よしよし」と口に出して、その頭を撫でた。

「よしよし。 エマちゃん。 元気出して? 今出来ることをやるの。 やれる事を精一杯やるの。 私達は、チーコちゃんに会えたじゃない。 チーコちゃんの為に出来ることをやる。 冥月さんがそうであるように、みんながそうであるように、きっとチーコちゃんを守る事、笑顔にする事は、きっと、少しだけでも、今よりも良い結果に繋がると思うの。 その、子供達にとってもね?」

百合子がそう慰めれば、エマが甘えるようにコトンと百合子の肩に頭を乗せる。

「そうね。 きっと、そうよね」

エマがそう呟いて「あら、まぁ」と小さく呟いた。


「あそこ見て?」

美しいエマの指先には、眠る黒須の事を覗き込んでいる竜子の姿があった。
昨日は夜通しバスを運転し続けた彼は、流石に疲れているのか、膝を曲げ、まるで胎児のように体を丸めて、呼吸すらしていないかのように静かに、静かに眠っている。
竜子は、そんな黒須の頭を、そーっと、そうっと持ち上げて、自分の膝の上に置いた。
優しい手付きで、ポンポンとその体を宥めるように叩く。
そして、愛おしくて仕方がないといったように彼女の掌が、黒須の頬を一度撫でた。
海を見つめ微笑む彼女の横顔が、今まで見たどの顔とも違う、優しく、美しいものである事に百合子は目を見開く。
最初見た時驚かされた濃い目の化粧も、旅の途中であるせいか然程激しいものでなく、彼女の地顔が大変整っているものである事に、百合子は気付いた。

まるで、聖母めいた。

酷く近寄り難い程の微笑みを浮かべる竜子に息を呑んだ。
黒須も、瞼を閉じた、無防備な寝顔は起きている時の険しさを微塵も感じさせず、何だか不安になるほどに幼い。



風が。


黒須の長い髪を揺らし、竜子の一つに結んだポニーテイルを舞い上げた。

あの二人は、恋人同士なのだろうか?
お似合いとは言い難いけど、何だか不思議な二人組よね…。
そう思えども、どうしてだろう。


あんなにくっついているのに。

何一つ触れ合ってない二人に見えた。


百合子は、何故だか、胸が痛くなって目を逸らした。



夕焼け空になり始めた頃、皆はそれぞれ帰り支度を初め、百合子も発つ準備を整える。

「さて、そろそろ…」と、エマがそこまで言いかけた所で顔を上げた。
「…望まざるお客さんが来ちゃったみたいね」と、軽い口調でエマが言うと、まるで、それまで消していた気配を全て解放するかのように冥月が立ち上がる。
ゆらりと彼女の周りが揺らいで見えるほどの、酷く剣呑な気配に百合子は身震いした。


堤防沿いに、黒塗りの車が数台バタバタと停まる。
降りてきた黒スーツ姿の男達に「お約束どおりね」といずみが冷めた声で呟いて、取り乱す事も一切なく、子供らしくもない感想に、やっぱりびっくりさせられた。

首を傾げれば、キビキビとした声で冥月が言った。

「非戦闘員は、一旦バスへ避難だな。 いずみ、百合子、エマ、竜子バスへ。 嵐っ!」
まるで教師めいた口調で冥月が呼べば、嵐は肩を竦め「んだよ。 俺は、非戦闘員扱いで良いんだぜ?」と言う嵐に、にっと物騒な笑みを見せると、トンとその胸を掌で突き「ああ、非戦闘員扱いさ。 今回はな」と意味ありげに告げた。

「あいつらの狙いはチーコだ。 嵐、バイクで、チーコを連れて逃げろ。 向こうは、ざっと見ても30人強。 興信所での脅しが効いたか、私や時雨の名前が効いたのか、中々、手厚いおもてなし部隊を送り込んできてくれたようだ。 まぁ、それでも、私にしてみれば、馬鹿にしているとしか思えない、お粗末なもんだが…こちらとしても、彼女を守り、非戦闘員の安全を確保しつつ、あの人数を相手にするのは、そこそこ骨だ。 銃の使用も予想されるし、守りに徹するだけでなく、今回は、あいつら全員叩きのめし、どういう人間を相手にしているのか向こう側に知らしめたい。 何より、どうして此処が分ったのか、誰か一人捕縛して吐かせてもやりたいしな。 それだけの事をチーコに目を配りながらやってのけるより…」
「向こうの目当てである、チーコを安全な場所へと移動させる…って事か…」
翼が賢しげに呟けば、冥月が満足げに頷く。
「ああ。 出来るな?」
冥月の言葉に「俺は、ただの、一般市民なのに」と一度肩を落とすと、諦めたように「まぁ、チーコの為ならしょうがないな」と嵐は決心を付け、「活路は開いてくれよ?」と、皆に視線を走らせた。
「とうぜん…まかしといて…」と時雨が自信に満ちた声で言う。
「ぜったい…チーコに傷…付けさせないから…ね?」と首を傾げた時雨から、チーコは耳を真っ赤にさせつつ、ぷいと顔を背ける。
途端シュンとした顔になる時雨に(あらら、嫌われちゃったのかしら?)と首を傾げ、チーコが耳まで真っ赤になっているのを見て「ははーん」と小さく口に出して呟いた。
(むしろ、凄く好きになっちゃったのね)と百合子にしては珍しく、チーコの気持ちなんぞを察してみる。
だったら、落ち込む事なんてないのにと思えども、場に満ちている緊張感は流石に逼迫していて、そういう事を口に出せる雰囲気でない事にがっかりした。

冥月に「戦闘要員」とされてるらしい面子を見回してみる。
時雨、翼、エリィ、千剣破、黒須に、兎月原…そして、冥月。

兎月原以外の実力の程は分からないが、冥月がこういう事に掛けては、間違いなくプロであろう事や、冥月がチーコを守るという事に対して、厳しいまでに自分に使命を科しているのは知っている。
それは他のメンツにも言える事で、そして、そういう彼女が何の疑いもなく戦闘員として数えている面々、いわば、同じ戦場に立てると判断した面々において、ここで心配や不安を感じるのは無駄にしかならないのだろう。
ここにいたって足手まといにしかならないのだろうと冷静に判断し、大人しく荒事のプロ達に任せてバスへと避難しようとすると、いずみがエマに声を掛けた。
「エマさん。 いらないバスタオルありませんか?」
問い掛けの意味も分からず、百合子はポカンとし、エマも同じような表情を見せていたが、いずみの決然とした表情を見て、慌てて頷くとバスの中へと駆けていった。



エマがタオルを裂いて作った丈夫なヒモで、バイクにまたがった嵐に、チーコの身体をしっかりと括り付けた。

いずみ曰くだが、水族館で見た、チーコの足のもつれ。
あのもつれは、考えたくはないが、チーコの全身の筋肉が衰え始めている可能性が高いらしい。
しっかりしがみ付こうとしても、腕の力が入らず、走行中に転落する事も考えられる。
そのような事態を防ぐ為にも、いずみはチーコの身体を嵐の身体に固定して出発させるべきだと提案した。

同じ場面を見ていながら、そんな事に一切気付けなかった自分の迂闊さを恥じるが、そんな事で落ち込むよりも今出来ることをと自分に言い聞かせ、チーコに目深に被らせたフードの顎紐をちゃんと結んであげる。
 
向こうもこちらの出方を窺っているのか、堤防の向こうからこちらを威嚇するように大人数がこちらを睨み据えているだけの膠着状態に陥っている。
向こうの方が明らかに人数が多く、力押しで来てもおかしくないのにも関らず、手を出しあぐねている様子なのは砂浜に立ち、じっと男達を眺めている時雨と冥月の力が大きいのだろう。

今のうちにと気が急くのを落ち着かせながら、百合子はチーコに「寒くない?」と問い掛ける。
不安げな表情をすれば怖がらせる事に繋がると思い、必死に笑みを浮かべながら「素敵なドライブ楽しんできてね?」と朗らかに言ってあげた。
腰と胸の部分二箇所を、兎月原がしっかりと括る。
「苦しくないか?」
まずチーコの顔を覗き込んでそう問い、彼女が頷くのを確認すると、余裕のある甘い笑みを浮かべた。
「いいかい? チーコ。 俺の大事なお姫様。 君が乗っているのは魔法のバイクだ。 嵐は、君を守るナイトで、魔法のバイクを操る事に掛けては、他に並ぶ者のいない名手だ。 誰も追いつけない。 この世の誰も。 彼の背中にしがみついている間は、君にも魔法が掛かるんだ。 悪い奴なんか、指先だって掠められやしないさ。 だから、お姫様。 君はただ、安心して、このアトラクションを楽しんでいればいい。 どこのテーマパークにもないよ。 君だけの為の特別なイベントだ。 楽しんでおいで。 君を他の男に任せるのは、正直悔しいけどね…」
そうまるで、まさに魔法を掛けるが如く呪文めいた声でチーコの耳に直接蜜のような声音を流し込めば、チーコはコクン、コクンと言われるがままに、恍惚の表情で頷きを繰り返す。
催眠術に掛かっているかのようにも見えるチーコにそこまで言った後、ふいにそっと唇を寄せて、チーコの頬に口付けた。
「これが、俺からの魔法。 これで、君は無敵だ」

パチクリと目を開き、頬をぽーっと染めて頷くチーコに頷き返して兎月原は立ち上がると、「頼んだぞ」と嵐に告げてその背中をポンと叩き、悪党達と対峙する為に砂浜へと向かう。

こういう時はやっぱり、兎月原の力に感嘆せずにいられなかったし、心底助かったと心から感謝した。

兎月原の呪文が効いたのか、にこにこと出発をせっつくように嵐の背中に、コンコンと額をぶつけるチーコをエマが感心したように眺め「流石すぎるわ」と呟く声に、大きく頷いた。
そしていずみと顔を見合わせて、とりあえず、嵐の顔を覗き込む。

「えーと、では、ああいう感じで」
「ええ、ああいう感じで、ロマンチックな台詞をチーコに一つ」

そう水族館の時の如く促せば、即座に「無理だ」と真顔で返されて、まるで逃げるかのごとく、嵐は冥月に向かって頷いて見せた。
冥月は不敵に微笑み返すと、翼に向かって何事か告げ、ついと堤防前に雁首そろえる男達に向かって指を指す。
翼が、腕を軽やかに踊るかのように振るった。
その瞬間、強い風が巻き起こり、男達が面白いほどに、呆気なく将棋倒しのように倒れた。
それが合図であるかのように「振り落とされんなよ?」とチーコに一声掛けて、嵐がアクセルを全開にして走り出す。
タイヤを取られ易い砂浜を難なく突っ切ると、堤防に備え付けられた階段、その脇の手すりとして設けられているのであろう幅の酷く狭いコンクリートの急な坂を一気に駆け上がった。
竜子と声を揃えて叫ぶ。

「いっけぇぇぇぇ!!」

するとその声援が届いたのか、見事に嵐の操るバイクは見事、坂をジャンプ台代わりに男達の頭を飛び越え道路の向こう側に着地すると「ひぅあぁはああぁぁぁ!」と何とも明るいチーコの笑い声を残して走り去って行った。


アクロバティックな技の成功に、竜子やいずみ、エマと手を取り合って喜ぶ。
倒れた男達が起き上がり、バイクに向かって銃を構えれば撃ち放すより先にいつの間にか彼らに詰め寄っていた、翼やエリィ、時雨、兎月原、黒須達が彼らを地に沈めて行った。
車で追おうとする者には、千剣破が「さっせないよー」と宣言して、海水で作り上げた水の鋭い針を、車に向かって降り注がせる。
すると、たちまち車は穴だらけになり、ただの鉄の塊に成り果てた。
冥月が、全ての仕上がりに満足しているという風に微笑みながら頷いて、それから敵に向かって一歩踏み出す。


その後は幾つか銃声やら怒号やら、まぁ物騒な騒ぎが暫らく続いたが、百合子から見れば、呆気ないほどに決着はついた。



「さて、一応問うが…この中で拷問が得意な者」


冥月のとんでもない台詞に、エマといずみを除く皆が一斉に黒須を見た。
こう、本能的にだが、「拷問得意そう!」という陰惨なイメージ=黒須という、ナツラルな流れでの視線の流れは本人いたくお気に召さなかったらしい。

「ていうか、お前ら見た目のイメージだけで、俺を判断するな!! なんだ、拷問得意そうなイメージの外見って! 嫌だ! そんなイメージ! 得意技、拷問です☆って自慢になんねぇ!」
そう怒鳴る黒須に「いや…見るからに…こう…陰湿系というか…」と翼が言えば、「うん、金融業とかで取立て屋になったら、相手の精神を破壊尽くすまで追い詰めそうな感じよね。 マムシの誠とか呼ばれてるイメージ」とエリィがVシネチックな事を言う。
「趣味とかも、自分を振った女性の写真にひたすら『怨』と書き続けるとかっぽいし…」と百合子がマジマジと黒須を見ながら言えば、何だか楽しげな口調で「あと、嫌いな相手への攻撃方法が、靴に待ち針を仕込むとかそういう精神的にクるけど、セコイ感じなのね!」と千剣破は嬉しそうに断言した。
余りの言われようによろめく黒須に兎月原が笑顔で「総じて、身動き取れない相手に対しての攻撃が凡人の想像を絶するような陰険な手段を思いつきそうなイメージって事だな。 やったね! 黒須さん」とウィンクをしつつ総括すれば、もう、ここまで固まってるんだし、事実で良いんじゃないか?
黒須は拷問が得意技で良いんじゃないか?という気にすらなってくる。
そんな馬鹿なやり取りの間、エマが、何か言いたげに、うずうずと体を揺らしていたが、頃合や良しと見計らったのか、とうとう黒須の前に庇うように立ちはだかり「みんなっ! 違うよ?! 黒須さんっ、そんな人じゃ…ないよ?!」と、首を大げさに振りつつ、児童劇団の道徳芝居で役者が見せそうな、妙に芝居がかった仕草で言う。
そして、くるりと振り返り、黒須をキラキラと見ると、「黒須さんは、ドMだもんね? そんな、拷問なんて、する側より、される側の時の方が幸福MAXだもんね☆」と超全開の笑顔で告げた。

あ、そっちのが、きもい。

心からの嫌悪に、思わず、百合子、一歩二歩と後ずさる。

基本的にも、応用しても夢見がち。
ロマンをこよなく愛する百合子としてはドMの黒須という字面だけで、「ロマンがない」と嫌悪する。
竜子が「正解!」と力強く親指を立て、「わぁ、更に気持ち悪い。 不気味。 傍に寄りたくない!」という表情を隠そうともせず周囲の輪が一歩分広がるのを黒須はがくりと項垂れ眺めると、エマを恨みがましげに見て、「お前 ほんと 俺を馬鹿にする時全力投球な!」と半眼になりつつ、唸るように言う。
そんな黒須に「てへ」と笑って見せると、「あー、すっきりした。 ほら、中々今回、黒須さんを虚仮にするゾ♪タイムがなかったもんだから、ストレス溜まってて」とエマは、肩をキリキリと回しつつ、爽快感に溢れる顔で言い放つ。
「そんなレギュラータイムを勝手に設けるなよ!」と怒鳴る黒須に、「次回をお楽しみに☆」とエマは笑顔で返し、更にもう一歩ほど後ずさった場所で「えーと、然程興味がないを越えて、むしろ地雷踏んだ感を噛み締めつつ、黒須さんの性癖についてはこれ以上何もお伺いしたくないので、話を先に進めてもらって宜しいでしょうか?」と丁寧な口調で兎月原がお願いすれば、道端に落ちている丸めたティッシュを眺めるような目で黒須を一瞥した後冥月は頷いて、「では、私も余り加減が分らんので、向いている方ではないのだが、ちょっと訊いてみるか」と、軽い口調で物騒な事を言って、足元に転がる縛り上げた男性を見下ろした。

猿轡を噛まされ、縛り上げられた男は畏怖の眼差しで冥月を見上げるが「ただ口を割らせるだけなら、多分僕だと手間なくやれるよ」と翼が手を挙げた。
「おお、意外と拷問得意系?」と竜子の頓珍漢な問い掛けに、「得意・不得意の区別の仕方が分からない」と肩を落として見せた後、男の目の前に座りこみ翼はじいっとその瞳を覗き込む。

「さぁ、よく、見て。 僕の目を、ようく見て」

唆すような声。
男は翼の魅惑的な瞳に魅入られる。
ぱち、ぱち、ぱちと、三度瞬いた瞬間、男の全身が弛緩した。
猿轡を外し、翼は優しい声で問う。

「ねぇ、どうしてここの居場所が分ったの? チーコに取り付けられていた発信機は全て取り外したはずなのに」

魅入られたように熱っぽい瞳で翼を凝視する男が、翼が促すままに口を開いた。

「は、発信機は、まだ、ある」
軽く翼は目を見開き、「それは何処に?」と問い掛けた。

「それは…」

虚ろな口が、咳き込むようにして吐き出した。


「あの化け物の体に埋め込んである」


「ひゅっ」と鋭い音がして、その出所が分からないまま百合子は自分の喉を抑えた。


ああ、私の声。

息を吸うと、ひゅうひゅう鳴った。

この男、なんて言ったの?


「肩甲骨の下を、麻酔なしで開いて、『Dr』が、発信機を埋め込んだ」

翼を熱心に見つめながら、他には何も世界はないという風に男はだらだらと言葉を零す。

「泣いていた。 大声で。 何を言っているか分らなかった。 気持ちの悪い 生き物。 一丁前に涙なんかを 零して。 触ってみたら、分る。 あの化け物の肉の下に、ゴツッとした膨らみがある。 触ると酷く痛がるから、面白がって…」

そこまで言った瞬間、竜子がその即頭部を思いっきり蹴飛ばした。


麻酔 なしで 体の 中に あの 小さな体の中に

なんで? 痛い。 凄く 痛い。 なんで? 

そんな事が出来る生き物と、自分自身が同じ「人間」という種族である事に吐き気がする。

それは余りに非道じゃないか。
それは余りに人の道に外れた行いじゃないか。 

竜子が息を荒げながら「くそっ、やっちまった! 子供の前で、やっちまった!」と髪の毛をくしゃっと掻き毟る。
「いずみ!」
名前を呼ばれ、いずみが「はい」と静かに返事する。

「今のあたいが言っても説得力ねぇけどな、自分が気に入らないからって、話し合いもせずに、すぐ暴力ふるって、相手を黙らせるのは、いけない事だかんな!」

そう荒い息の下に、困った気持ちを混じらせながら、竜子が言えば、いずみは静かに頷いて「肝に銘じます。 ただ、そのルールは、『話が通じる』相手のみに適用させていただきます」と冷静に返事し、竜子を益々困り顔にさせていた。


いずみが言う通り、話なんて通じる連中だろうか?


こいつらは、クズだ。



「…殺すか?」

冥月が平坦な声で言った。

「ここにいる連中、皆同じ外道だ。 依頼主が望むなら、皆、証拠を残さず消してやる。 生きていても、チーコと同じ犠牲者が生まれるばかりだ。 子供が、弱いものが、抵抗する術を持たないものが、理不尽に殺され、虐げられ、泣かされる。 生かす事によって、失われる命が増える『生』もある。 殺すか? 私は躊躇わんぞ」

冥月の言葉に、日頃の人懐こい表情を一変させた時雨がカチャリと腰に提げている刀に物騒な音を鳴かせる。
エリィも、冷たい表情で銀色の幅広のナイフを鞘から抜いた。

千剣破は青ざめながら、倒れている無数の男達を眺め回していた。

黒須は無表情で竜子を見る。
竜子は、黒須を横目で眺め、全てを委ねられている事を理解したかのように目を閉じて、それから自分が蹴り飛ばした男をもう一度見下ろした。

その瞬間、考えるより早く言葉が口を突いて出た。


「殺さないで」


細い声。
見れば両手をぎゅっと握り締めて百合子は震える声で言った。

「殺さないで」

それは、理屈を越えた祈り。

竜子は「はっふっ」と大きく息を吐き出すと、「うん、殺さない」と答えた。
冥月は少し首を傾げ「甘いな、お前らは」とそれでも、何だか優しい声で言った。

「いいんだ。 甘くて。 その、あんたらからすれば、きっとこの仕事自体、凄く甘い仕事じゃないのかい? いや、知らないけど。 女の子守って、最期の三日間を楽しく過ごさせてやって欲しいだなんて…ああ、そう、ロマンチックだ。 ロマンチックじゃないか、なぁ、百合子」
そう言われて目を見開き、それから「ろ、ロマンよ。 そうよ、ロマンなの」と百合子は必死の声で言う。
「ゆ、夢見がちかもしれないけど、ねぇ、チーコには、ロマンが似合うわ。 あの子は、きっと、凄く辛い目に合って、ねぇ、それを、その最期までの間を幸せに過ごさせてやって欲しいなんて依頼は、本
当に…本当に……甘い、甘い、砂糖菓子みたいにベタついた仕事で……でも、だから、いいのよ。 あの子に関わる時間全てがロマンチックであった方がいいのよ。 だって、女の子なんだもの。 チーコ、女の子なんだもの。 だから、似合わないわ、人殺しは。 倫理とかは分からないの。 道徳も、知らないわ。 安易なヒューマニズムなんて反吐が出る。 でも、綺麗ごとよ。 このお仕事は全部綺麗ごとなの…だ、だから…だから…」

言葉を捜しあぐねたように、自分の髪の毛に手をやり、ぎゅうっと引っ張ってしまう。

ああ、なんで、巧く言葉に出来ないの?

悔しい。

だけど、困り果てた顔をする百合子にエリィは駆け寄ると、柔らかな、春の日差しのような微笑を浮かべて「分かった。 殺さない」と言った。
時雨も、ふしゅんと険しい空気を霧散させて、「チーコ達…無事…待ち合わせ場所…着けたかな?」と心配そうに呟く。
エマが素早い手つきで携帯を操作し、まず、警察に通報の連絡を入れると、次に嵐に連絡を入れた。
「んー、どうも、まだ走行中みたいだけど、ちゃんと、安全が確認出来たら連絡入れるように言ってあるし、まぁ、嵐君の事だから大丈夫でしょ」
そうエマが言い、冥月がバスに目を向ける。
「チーコの体に発信機が埋め込まれている以上、バスを捨てていく事も考えたが無意味か…」と呟いて、「まぁ、全滅の一報がいけば、次の追っ手の準備も慎重にならざる得ない。 こちらの実力は充分に分って貰えただろう。 そうそう、敵う相手ではない事もな。 油断をするわけにはいかないが、チーコの体から発信機を取り出すわけにもいくまい」と冥月は言い、皆一様に大きく頷く。

よかった。
全身が安堵した。
よかった。

誰も殺されない。


冥月は、乾いたような笑みを口の端に乗せ、それから竜子に視線を向けた。

「殺すという事は覚悟のいる事だ。 だが、生かす覚悟の方が厳しい事もある。 分っているな?」
冥月の言葉に竜子は静かに頷いた。
長い睫に縁取られた強い眼差しを見て、冥月は「ふん」と呆れたように溜息を吐くと、「あと…一日と少し…か。 守りきれるだろう?」と、他メンバーを見回す。
翼が肩を竦め「認めたくないですけど、武彦はベストメンバーを選んでます。 チーコを守り、幸福な気持ちで過ごさせるという事に関してはこれ以上ないほどのベストメンバーをね。 最初事務所に揃えられているメンツを見た時は…」とそこで言葉を切り、千剣破がその続きを引き取った。
「もう、バラッバラ!」
その、エリィも頷いて「どうなる事かって思ったけどね」と笑う。
百合子は、やはり武彦の判断は正しかったと、ここまで来てようく分った。



これが最良で、最強。


興信所の主の名は伊達じゃないって事だ。


「行きましょう。 チーコの所に」

いずみが言う。
兎月原が、空を見上げ、「ああ…あんなに良い天気だったのに、曇ってきた。 急いだ方が良さそうだ」と典雅な声でそう告げた。


程なく、雨が降り始めた。

ひっそりとした畦道を抜け、バスが辿り着いたのは、エマが興信所ぐるみで懇意にしていると言う古い神社だった。
人里離れた場所にあるのだが、家屋も広くて情緒があり、一晩置いて貰うには最適な場所だと判断し、エマは先に連絡を取って、一晩の宿の許可を得ているらしい。

「んふふ、ここの神主さんは、凄いのよ? お歳も、お歳、ってまぁ、百年以上生きてる人とか、興信所じゃ、珍しくないんだけど、神社の建立からずっと、神社を守り続けている初代神主=現神主な人で、もう、本尊が神主?みたいな人なのよ。 確か、500歳だか、なんだったか…。 まぁ、もうじき、大祭があるとかで、此方にはいらっしゃらないんだけれども、チーコちゃん達と、私達が到着した際には、一時的に結界を開いて迎え入れてくれるよう頼んでおいてあるの。 普段は、神社自体、森が隠していておいそれとは見つからないし、例え、霊感のある人が見つけてしまったとしても、結界のせいで足は踏み入れられない。 発信機も、磁場の歪みのせいで、本来の機能は発揮できないし、寝込みを襲われる心配と、出掛けを急襲される心配もないわ。 まぁ、こよなく安全な場所であるっていうのは、私がこの場所を選んだ大きなポイントではあるんだけど…まさか…この場所を選択した事が、こういう意味でも役に立つとは思わなかったけどね」
残念そうなエマの言葉に、翼が気を取り直すような明るい声で、「流石にエマさんの人脈だ」と感嘆すれば、「んふふ。 ありがと」とエマは胸を張る。
山際にバスを停車し、山を開いて作られた木々に四方を覆われた階段を登る。
嵐から既に無事に待ち合わせ場所に辿り着いたという連絡は受けていたが、バイクが山際の大きな木の下に停車されているのを見つけると、何だかほっとしてしまった。

シトシトとした雨に身を打たれながら、ひんやりとした空気を掻き分け階段を登っていると、今から神域に足を踏み入れるのだという緊張感が全身を満たした。
神社は、酷く古い作りをしていて、ぬかるみに足を取られぬよう門をくぐれば、感嘆するしかない情景が広がっていた。

「わ…あ…」

「ね、綺麗でしょ? これを、チーコちゃんに見せたかったの」

そう言う得意げなエマの声に、百合子は頷く。
藤の花弁がほろり、ほろほろと散っていた。
大気に充満する香りは、芳しく、雅やかでありながら、清涼。
初夏の匂いに、皆大きく息を吸い込む。

澄んでいる。

つつじの花が咲き乱れていた。
手入れそれ程されていない様が、しかし、だからこそに素朴で、自然の力強さも漂わせていて、美しい。

「お、来たな」


そう言いながら、本殿の玄関先から嵐が顔を出し、続いてチーコが「ふあゎぅふぅ!」と声を上げる。
「あらぁ、そうなの、良かったわねぇ」とエマが表情を緩ませて両手を広げれば、テテテテと駆け寄ろうとして、チーコは階段の途中でくたりと倒れるように転げ落ちた。

「っ!!」

咄嗟に、飛び出そうとした百合子より早く、兎月原が掬い上げるような手つきでチーコを抱きとめ、抱き上げる。
「大丈夫かな? お姫様」
兎月原が蕩けるような声で問えば「ふぁふぅ!」と元気な返事をして、その首根っこに齧りついた。
チーコは笑っていて、百合子は、ほっと胸を撫で下ろす。
抱き上げられたまま「ひぃふぅあぅ、ふあぅ!」とチーコはエマに何事か告げた。


「バイクでここまで走ってくるの、凄い楽しかったって。 雨に降られなかった?」と聞くエマに「ああ、ギリギリ振り出す前に間に合った。 とりあえず勝手に上がらしてもらったけど、良かったんだよな」と嵐が問い返す。
「大丈夫、ちゃんと全部分って貰ってるから」
嵐の疑問に頷くエマ。
「あ、一応、風呂の用意だけしといたから」と嵐が言えば、エリィと千剣破は同時に歓声をあげた。
「海にいたから体がベタベタしてんのよねー! お風呂、嬉しい♪」
エリィがはしゃげば、「雨にも打たれたし、体あっためたいよねー!」と千剣破も嬉しげに言って、同時に「「嵐君、ありがとう」」と声を揃える。
眩しいばかりの美少女二人のお礼の声に、嵐は、ちょっと照れたようにそっぽをむいて「どーいたしまして!」とぶっきらぼうに答えた。

「さ、じゃあ、夕食の支度をするわね。 男性陣、先、お風呂入っちゃって」とエマは手を叩けば、「あ、いや、まだ沸かしてない…」と嵐が言いかけたところで、チッチッチとエマが指を振り、「藤ちゃん、つつじちゃん、お願いね。 あとで、一曲歌ってあげるから」と声を上げる。

すると、そよそよそよと庭に植えられたつつじと藤が優しい音を立てて一斉に揺れた。

「ここの神主さんの式神ちゃん。 私も姿は見た事ないんだけど、私の歌を気に入ってくれてて、ここに来た時は歌の代わりに、神社内の色んな御用事も請け負ってくれるの。 そこそこ力のある子達だから、お風呂も、もう沸いてる筈よ。 広くて、10人くらいだったら一気に入れるお風呂だから、えーと…むさい時間をどうぞ、ごゆるりと〜」と何だか明らかに風呂に行く気力を殺ぐような事を言いつつ手を振るエマに、「じゃ、お言葉に甘えて」と黒須が頷き、男性陣は揃って風呂場に向かいかける。
だが、腕の中にいるチーコの顔を覗きこみ、兎月原は「あ、チーコはレディだから、女性陣と一緒にね?」と言いつつ、チーコを廊下に下ろした。

にこっと兎月原に笑い返し、此方に走り寄ろうとしたチーコが再びこける。

「ふぁっ、うふぅうっ」

恥かしげに身を竦め、再び立ち上がろうとした時に、チーコの足がガクガクと痙攣した。

あれ?
笑顔のまま、百合子は固まる。

どうしたの? チーコ。
問おうとして声が出ない。

だって、昼間はあんなに元気にはしゃいでいたじゃない。
海で遊んでいたじゃない。



「っ」



ああ、もう、チーコは立てないのだ。

一瞬の混乱。
いずみが走り寄ってチーコの腕を引き、まるで、さっき兎月原がそうして見せたように、チーコを抱き上げようとして、当然、出来ずに一緒に転ぶ。
一瞬打ちひしがれたような顔をいずみは見せた。
自分の無力さを嘆く顔。

子供が見せるには余りにも哀しい顔。

助けたいのに。
チーコを、助けたいのに。

「あ、ごめ…け、怪我…ない?」
チーコの体を、世界中の全てから守ろうとしてるかのように覆いかぶさるように抱きしめ、震える声でいずみが問い掛けた。
チーコは強張った顔で頷いて、途方に暮れたような顔をして辺りを見回し、それからチーコが初めて、泣きそうな顔を見せる。

怖いだろう。
怖いだろう。

この子は 明日 死ぬのだ。



また、ふと、圧倒的な悲しみの波に襲われて、百合子はよろめきかけた。

違う。
あの子は殺されるのだ。

人間に。

そうだ、殺すんじゃないか。
死ぬんじゃない。

殺すんじゃないか。
あいつらが。

もう、歩けないチーコ。
こんなに弱って、傷ついて、明日殺されるんだ。
チーコは、明日殺されるんだ。

どう言っていいのか分からず、自然と浮かびそうになる憐憫の表情を必死に殺した。

それでも、あの子が最後まで笑っていられるように。

それが、私の仕事だから。



チーコの髪をふわふわと撫でて、いずみが「転んじゃったね。 私も一緒。 今日は疲れたからしょうがないね」と穏やかな声で言った。

「一緒。 チーコと私は一緒」

チーコが、不安に揺れる一つだけの大きな目でいずみを見上げる。
その額に自分の額をくっつけて、「一緒よ。 チーコ」といずみが言えば、チーコは小さな両手でいずみの頬を挟みこんだ。

「いぅお?」
「うん。 そう、一緒」

すると、チーコはまた、可愛く笑う。
翼が、チーコの体を抱き上げた。
「そうか。 チーコ、疲れちゃったのか。 じゃあ、少し休もう。 今日は一杯遊んだからね」
翼がそう言いながら歩き出す。
傍に走り寄れば、チーコは百合子の顔を見て「えへへ」と照れたように笑っていて、たまらないような気持ちになって、その頬を優しく撫でた。
「ひぅあぅ…」
気持ちよさげに目を閉じる、子供の顔に胸が痛んだ。

これまた、どうやって?という程に絶品の夕食を終え、そろそろお風呂に入ろうかと言う時間帯。
だが、エリィも、千剣破も、竜子も、百合子も時計を眺めて、動かなかった。
カタカタと、人形がお茶を運んでくる。
これも、どうも、「つつじ」と「藤」の仕業らしい。

百合子達は、食後のデザートとばかりに、メリィのお菓子を摘んでいて、一緒に行けなかった千剣破も、大量にみんなで分けられるものを購入していた百合子の相伴に預かっていた。
男性陣も、畳張りの同じ部屋で、寝転がったり、座ったりと思い思いの格好をしつつも時計を見上げている。

「おそくね?」

嵐の言葉に、百合子が頷いた。

「遅いわね」


時雨がチーコと二人で、皆の分のアイスを買いに出かけていた。
どうも、女性陣のセッティングらしいのだが、残り時間が少ない悲しい現実を思うと、せめて二人きりの時間を過ごさせてあげたいと思うのは百合子も同じで、笑顔で送り出してあげた。
時雨も勿論嫌がる素振りなく、恥かしがるチーコを抱き上げ、雨の中傘を差して出て行ったのだが、遅くとも30分程で往復できるはずの近所の小さな駄菓子屋に向かった筈なのに、一時間経過した今も帰ってこない。
状況が状況だけに、かなり心配ではあるが、身の危険と言う意味では、時雨の実力を海辺で目の当たりにしていたと百合子しては、然程心配はしていなかった。
時雨はおいそれと敵に襲われて、チーコを危険な目にあわせるような腕前ではない。
エマと、黒須と共に、迎えに行っている冥月も、そこら辺は心配していないらしく、ただ、体調の変化によって、チーコが苦しみ、立ち往生しているのか、他に何か問題が合ったのかと考え出すと百合子は不安で不安で、仕方がなかった。

気を紛らわせる為に、ハートの形をしたチョコレートを口に放り込む。


ガリガリと噛んでいる途中で、玄関先から待望のチーコの声が聞こえてきた。

「ひぅあぅっ!」

慌てて立ち上がれば、皆も一斉に飛び上がるように立っていて、慌てて玄関に向かう。

「おう?」

黒須の腕の中で、戸惑ったような声をあげるチーコの姿を見て、へたりこみたい程の安堵感を覚えた。

「…ごめんなさい」

しゅううんとしぼんだみたいな顔をして、時雨が小さな声で詫びてくる。

「アイス…溶けちゃった…」

そう言いながらビニール袋を差し出す時雨に「いや、それは良いから何があったんだよ」と嵐が問えば、黒須が「傘を野良猫にやっちまって、そんで、バス停で雨宿りしてたんだと」と肩をすくめて答える。
「そのうち…止むかなって…思ったんだけど…どんどん…強くなってきちゃって…しかも、ボク、寝ちゃって……」

とろとろとした喋り方に、百合子はどんどん全身の力が抜けていくのを知覚した。

「ま…いいや。 無事なら」

竜子の言葉に皆頷く。
「チーコ、体冷えたでしょう? お風呂行こうか?」
そう言いながらエマが黒須からチーコの身柄を受け取った。


脱衣所で衣服を脱いでいると、チーコを抱っこしてきたエマと翼と一緒になった。
何だか、チーコの目が赤く腫れていて、「どうしたの?」と問い掛ける。
チーコが「ひぅふぁ」と少し元気のない声で何か言い、エマが「えーと、ちょっとね…」と言いながら曖昧な笑みを浮かべる。
だが、その理由は程なく知れた。

脱衣所で、優しい手つきでチーコの服をエマが脱がせる。
そこで目の当たりにしたのは、醜い傷だらけのチーコの体。
見られまいとするかのように身を小さく小さく縮めるチーコの体は、火傷の痕や、痣、中には酷い切り傷のようなものも見えて、「ああ」と心の内で百合子は詠嘆した。

畜生。

口汚い言葉。
滅多に思い浮かびやしない、そんな言葉が百合子の脳裏に思い浮かんだ。
奥歯をぎりっと噛み締める。

畜生。

これが彼女を見舞った理不尽の証。
チーコは女の子で、恋をしていて、まだ10歳で…。

ぐるぐるぐると言葉が頭を駆け巡る。

酷く心臓が痛い。

殺さないでってお願いした。

それは、本当に正しかった?

翼とエマは先に手早く服を脱いで、既に浴室に入っていった。

ペタンと百合子は座り込み、自分の右太ももを撫でさする。

息が荒い。
世界がゆらゆら揺れていた。


「ま…まま、正木さんっ…あっ…ん、ま、正木さんっ…ひぅっ…うぅ…た…助けて…」

引き攣った笑み。
言葉の嵐に飲み込まれ、難破している脳髄がSOSを発している。

「こ…殺して…って…言う…言う…言う…言うべき…言うべきだった?」

右太ももにある痣は、人の顔に見えなくもない。
百合子がじっと見つめれば、それはおぞましいような、淫らなような蠢き方をして、それからはっきりと人の顔の形になり、唇を裂いて笑った。


人面疽。
彼女が混乱を極めた際に、彼女の良きアドバイザーとなる一人格。

実際に「在る」か「ない」かは、問題ではない。
ただ、百合子からすれば、間違いなく存在し、彼女を支え、こうやって自失状態になった際に、間違いなく自分の事を救ってくれる、大事な、大事な存在だった。


素裸で、脱衣所に座り込んだまま、焦点の合わない目で、太ももに語り続ける。

「こ、殺しちゃえ…ってぇ…ゆぅってたらぁ…チ…チーコに酷い事、事、した奴ら…み…ひっひひ…みんな、地獄逝きだった…のに…ね?」

すると、じゅるじゅると隠微な音を立てて「正木さん」は蠕動し、「いや…よかったんだよ」と優しい声で、百合子に言った。

「よ…よかったの…?」
「そうだよ。 よかったんだ。 可愛い百合子。 君がその時『殺す』側に加担していたら、君が血で汚れる事になっていた。 美しい百合子。 可愛い百合子。 汚れなき百合子。 清らかな百合子。 君が汚れる事なんてない。 そうだろ?」

頤を挙げ、自分の喉に手を這わせ、ガクガクと糸が切れたように百合子は頷く。

「そ…そうね…血…いや…。 映画のは良いわ。 ロマンが…あるも…あるもの…。 でも、ほ、本物の血は…いや…。 それに…」

ふっと、百合子の目に正気の光が点った。

「誰を殺したって、チーコが救われる訳じゃない」

「正木さん」が「ぬちゃっ」と音を立て「その通りだ。 今、君が一番助けてあげたいあの子供は望んでないよ。 きっと、人の死は望んでないよ」と理性的な声で言う。
コクンと一度頷いて、正木さんを見れば既に彼は、只の痣へと戻っていた。
自分の唇に指を当て「ちゅっ」と音を立てて口付けし、その指先で、ゆるゆると痣を撫でる。

「ありがとう。 正木さん」

そう密やかな声で礼を述べると、ゆっくりと百合子は立ち上がり、浴室へ向かった。



お風呂は、凄く広くて、石造りにも関わらず、見た目にも温かみが合って、全身を浸すとふわぁっと疲労が溶け出て行くような心地になった。

エリィが白い肌を惜しげもなく晒し、千剣破も美しい肢体を湯に沈めくつろいだ表情を浮かべている。
冥月も見惚れる程のプロポーションを有していて、見事なバランスを有したスレンダーな体をぐぐぐっと伸ばしていた。

驚くべきは竜子で、化粧を落とした素顔といったら、眉こそないものの、息を呑むほどの美人っぷりで、「うひゃー! やぁぁっぱ、日本人は風呂だな! 風呂!!」等と情緒のない事を言っているのが信じられない程に、美麗な顔立ちを有していた。
肢体とて、「何で、黒須さんが好きぞ? 目を覚ませ!」と肩を掴んで揺すってやりたくなる程のプロポーションで、何が、凄いって、胸がでかい。
日頃、特攻服の下の晒しで抑えているせいで分らなかったが、かなり、こう、豊満と言って良い程の大きさを持っていて、ぷかりと湯に浮かばせながら、「百合子! 百合子! 眠いのか? ぼんやりしてたら、溺れっぞ」等と言ってくる姿を見ていると、この世の中にこれほど「黙っていれば…」と思わせる女性も少ないだろうと百合子は思った。

大体、なんであんなみょうちくりんな化粧をするのか一切想像つかないが、まぁ、この性格にはあの化粧は凄く似合っている。
まぁ、そういうものよね、百合子はとりあえず納得する。

チーコは、エマの胸に抱かれて、まるで、他の人と違って、傷がたくさん残る自分の肌を恥じるように、見られまいと体を硬くしている。

ぶるぶると身体を小刻みに震わせ、目をぎゅうっと閉じていたチーコが、息を小さく吐き出し、体の強張りを徐々に解いていくまで、誰もが息を詰めてチーコの事を見守った。

「はふぅ…」と小さく息を吐き出し、漸くゆっくりと体を弛緩させる。
「えらい、えらい。 凄いね、よく我慢したね」
エリィが気持ちを込めた声でそう言いチーコの頭を撫でた。
「ご褒美に、エリィおねーさんが、チーコちゃんの頭を洗って進ぜよう。 あたし、手先器用だから、超気持ちいいよ?」
明るい、心の染み入るようなエリィの笑みに、気持ちもほぐれたようにチーコが頷く。
千剣破がおどけた声で「ええー? いいなー! じゃあ、あたしの髪も洗ってよ! ほら、ご褒美に!」と訴えて、半眼になったエリィに「何のご褒美?」と問い返される。
「えーと…可愛いご褒美?」とわざとらしい上目遣いで言う千剣破に「不可! 自分で洗いなさい」とエリィはきっぱり答え、そのほのぼのとしたやり取りに、チーコが「ふぁうふぅ」と、漸くいつもの笑い声をあげてくれた。

ああ、よかった。
チーコちゃんが笑った。

百合子は一気に安堵して、ぽちゃんと肩まで浸かると、呑気な口調で「はぁ…気持ちいい」としみじみ呟き、自分の太ももを撫でさすると、「ね? 正木さん」と語りかける。
さっきは、貴重なアドバイスをくれたのだ。
彼も癒されていればいい…と心から思う。
「…正木さん?」
気になったように翼が問われ「ええ、人面疽の正木さん」と事も無げに答えて、ザバァと突然肉付きの薄い足を「えい」と高く掲げ太ももを指差した。
「この人」
そう言いながら正木さんを示す。
「これが正木さん。 今は大人しいけれど、私がピンチの時には的確なアドバイスをくれるの」
そう言って「よしよし」と痣を撫でる百合子を皆、マジマジと眺めてきた。

「おじさんなんだけど、大丈夫、今は眠ってるし、お風呂中はね、紳士だから目を瞑っててくれるの。 だから、皆の裸も見られたりしないから安心してね?」

そう言う百合子に、皆、曖昧に頷いたり首を傾げたり、それぞれ反応を見せたが、勿論、毎度の如く一切気にせず、太もものマッサージを続ける。
あまつさえ、チーコの太もも部分の痣を指して「あ、これ、私と御揃いじゃないかしら? ねぇ、喋ったりしない? きっと、この子も人面疽よ」等と言い出し、色々な意味での恐怖にチーコをピシリと固まらせた。
「よかったね! きっとピンチの時には助けてくれるわ☆」そう無邪気に言う百合子にブンブンと首を振り、助けを求めるようにいずみに視線を送るチーコ。
「大丈夫。 絶対、喋らないから」と請け負うと、「怖いことを、チーコに吹き込まないで下さい!」といずみから百合子は注意された。
「えー? ロマンなのにぃ」
そう口を尖らせ言う百合子に、エマも、翼も「ぷっ」と噴き出し、「百合子さんに掛かると、みんなロマンになるんだね」と翼が面白そうに言ってくる。
チーコは、そんなみんなの様子に先ほどまで見せていた固い態度を取り払い、自分の体の傷跡も、恥ずかしそうに隠すそぶりもいつの間にか見せなくなった。



寝床に布団を敷いて、皆で並んで眠った。
やはり身体を伸ばせて眠れるのはありがたく、外のしとしととした雨音と、芳しい藤の香にぼんやりとした酩酊感を覚えながら、いつの間にか百合子は、夢も見ない眠りについていた。





最終日

「うひゃあああ!!」

無闇矢鱈な大声をあげて竜子が走り出した。
時雨もつられたように「わぁぁぁ!!!」と大声を上げて、案の定パフンと途中で転ぶ。
強い風が吹き渡っていた。

「まぁ、本物の砂漠には及ばないけど、やっぱ、ここはここで、奇景って感じで風情があるわね」
エマが風にあおられる髪を抑えながら言う。

そう、ここはかの有名な、鳥取県にある「鳥取砂丘」。
連休中という事もあってか、観光地らしく、ラクダなんぞに乗って砂丘を横断している人もあり、歓声をあげてはしゃぐ子供の姿もそこらかしこにあり、深々と大きめのパーカーを着て、フードを被り、顔を隠しているチーコも同い年位の子供達の声に何処となく嬉しげに聞いているように見えた。


今朝方は、それまで見せていた旺盛な食欲も衰えて、折角エマ達が腕によりを掛けて作った朝食を殆ど残していた。
体調も酷く悪そうで、昼過ぎ頃まで眠らせて、少し顔色が良くなったのを見計り、神社を後にしてきた。
つつじと、藤の花に見送られ、心地良い神社を後にした一行が、ここを訪れたのは、エリィがパラパラと道を確認する為に捲っていたガイドブックを、布団の中から覗き込んでいたチーコが、砂丘のページに差し掛かった所、どうしても見たいとエマに訴えたからだ。
そのガイドブック一杯に広がっていたのは、夕日が沈み行く砂丘で、たくさんの子供達が駆け回る写真。
何かの砂丘にてイベントが行われた時の写真らしい。
母親に手を引かれ走る子供達の写真を見て、行きたいと願うチーコに、エマは二つ返事で了承し、他の者とて誰も反対しなかった。

チーコの為の旅なのに、自分の体調の事を含め、しきりに申し訳なさそうな顔をするチーコが、何だか健気で仕方がない。
エマはしゃがみこみ、自分の膝の間にチーコを抱え、その髪をゆっくりと撫でている。
百合子は、それでも平和な顔をして、小さな声で「月の砂漠」を唄った。
正直なところ、ここへきても、事態をきちんと把握してなかったり、状況の深刻さを分かってない百合子がいて、それでも、そういう百合子だからこそ、周りの皆が救われていた。
まるで、嵐の中の無風地帯のように、穏やかで、呑気なままに、百合子はチーコに接し続ける。
エマも小さな声で、囁くように百合子と合わせて唄い出した。
小鳥のように澄んだ可愛い声した百合子と、落ち着いた優しい声音で唄うエマは、強い風の中で、それでもかすかな歌声をチーコの耳にありったけの愛情を込めて注いでいた。
チーコは、余り持ち上がらなくなった腕で、それでもおぼつかない手つきで、冥月に貰った万華鏡を覗いていた。
いずみは、エマの膝に頬をくっつけて、二人の歌声に耳を澄ませていた。

昨日まで元気に見えていたのに、病の進行の仕方も人間とは異なるのか、肌の色艶も良くなくて、呼吸も微かに荒い。

苦しいのかな? チーコ。

虚ろな眼差しが彷徨って、百合子を認めると、弱弱しく微笑んだ。
何も悪い事してないのに、どうして苦しい思いをして、寂しい思いをして、その上、チーコは子供のままで死んでいくのだろう。

だが、現実は残酷で、時は間違いなく流れていて、少しずつ日は暮れていく。



時雨が子供達を連れて、チーコの元へとやってきた。
どうも、子供に酷く好かれる性質のようで、腕や足元に纏わりつく子供達を柔らかな笑みを浮かべて見下ろしている。
身長の高い時雨と、小さな子供達の影が、砂丘に長く伸びていた。
まるで、ハーメルンのようだと百合子は思う。
茜色に染まりだした空の下で、優しいハーメルンは子供達を、チーコに引き合わせた。

ガイドブックの写真を見ていたチーコの目は、憧れの眼差しで、きっと、時雨はチーコのあの目に込められた希望を読み取って、彼らをここへ導いたのだろう。
一瞬、百合子は「大丈夫かな?」と、どうしたって普通の人間の子供の姿とは違うチーコと子供達を会わせる事に不安を抱いた。
だが、時雨がいるなら大丈夫。
何だか、子供の扱いに関しては、時雨の右に出るものはいないような気がしたのだ。

自分の事を好奇心一杯で覗き込んでくる、実際の子供たちの姿に、チーコは一瞬身構えるも、時雨が言い含めてあるのか、子供達は驚いた目でチーコを眺めるも騒ぎ立てはしない。
チーコの姿をマジマジと眺めながらも、そのうちの一人の女の子が、素直な声で、「かわいい」とチーコを評した。
夕闇の赤い色が濃くなっていく。
チーコはおっかなびっくりの表情で、子供達に手を伸ばした。
一人の子供がチーコの掌を握った。
「かわいいね。 名前は、なんていうの?」

チーコは、震える声で答えた。

「チーコ」

はっきりとした発音で、何度も、何度も、皆が呼んでくれた自分の名を、大事に、大事に呟いた。

「チーコ…いう」
「チーコ。 可愛い名前」

子供達がさざめき、チーコに笑いかけた。

「かおりー! そろそろ行くよー!」
「聡、何処行ったの?」
「あら? 翠? 翠?」

砂丘のそこらかしこから、子供を呼ぶ母親の声が聞こえてきた。

「あ、呼んでる! じゃあね、チーコちゃん!」
女の子が一人手を振り、砂丘を越えて行ったのを切っ掛けに、子供達は皆それぞれ、母親の元へ帰っていく。

チーコは小さく手を振って、それから甘えるようにエマの胸に顔を埋めた。
ポンポンと頭を優しくエマは叩く。

「ひぃぅあぅ…」
エマが頬を、チーコの頭にくっつけて、「なぁに?」と聞いた。

「ふぅあぅぃぅう……」

百合子は、喉の奥が痛んだ。
時雨が、夕日に目を向ける。
海の波が、ザブザブとした音を立てた。

「……もうじき、……日が沈む。 ボク達も…行こう」

頷いて、立ち上がった時だった。


突如背筋を襲う寒気。



振り返れば、砂丘の上にずらりと男達が並んでいた。
皆、手に物騒なものを持っている。
タッと、素早い動きで駆け寄ってきたのは冥月。
流石と言うべきか、チーコの元にすぐ駆け寄れる位置で待機していたらしい。

「思ったよりも早かったな。 追いついてくるのが」

舌打ちせんばかりの表情で、そう呟くと、ひょいとエマからチーコを取り上げた。

「私の傍にいろ。 大丈夫だ。 絶対に傷つけはさせない」

冥月の言葉に、チーコが頷く。
「いずみは、時雨の傍に…」
「大丈夫です」
冥月の言葉をいずみが遮る。

「一応、自分の身は自分で守れますし…」
視線を向ければ、前回を遥かに超える人数が待機していて、いずみがきゅうっと目を細めた。

「あの人達…人間じゃない」

いずみの言葉に「いい目だ」と冥月は褒めると、「キメラだ」と呟いた。

「キメラ?」
「人間と、動物を掛け合わせてある。 あの、悪い奴らのお得意技らしい。 とうとう、相手も本気を出してきた」
そう唸るように言って、それから、「大丈夫なんだな?」と念を押す。
「ええ、足手まといにだけはならぬよう自衛に努めます」
いずみの頑なな表情に、冥月はしょうがないという風に溜息を吐けば「私も、これは、守られ役ではいられないわ。 サポート程度だけど、協力も出来ると思う」と、エマが強い目で告げる。
百合子は、そんな二人に触発されて、もじもじと「わ、私も…」と何か言いかけるも、実際に戦闘に対して、何ら有効な能力を持たない百合子に、冥月は「百合子は、私と共にチーコを守れ。 抱いていてやってくれ」と、チーコをその腕に預けてくる。
軽い感触に驚いて、おっかなびっくり、不器用にチーコを抱いた百合子は、きゅっと自分の首に巻きつく、チーコの腕の感触に胸打たれた。

「夜になれば…」

え?と百合子は首を傾げて、冥月を見る。

「夜になれば、私一人で全て片をつけられる。 闇は私の領域だ。 何が起こったのか分らぬ内に、皆地に沈めて見せよう。 だが、今は無理だ。 影を操って、あいつらを拘束するのは可能だと思うのだが、これがただの先発隊で、後からまた別部隊を送られてくる可能性がないわけではない。 今、この様子をまた、別場所から眺めているものがないとも言い切れぬしな。 こちらの能力を悟られれば、何某かの対抗策を練ってこないとは限らない。 向こうは、こちらを遥かに凌ぐ組織力と、資金を持っている。 この仕事が終わった後の事を考えると、はったりを効かせ続ける為にも、私の能力は、まだ、悟られない方が良いだろう。 まぁ、幸い…」

そこまで言って周囲を見回せば、異様な雰囲気を察したのか、観光客等は姿を消していて、「…周りを気にせず、思いっきりやれる。 夜まで保つか?」の問い掛けに、翼と、時雨が同時に片眉を上げた。

「冥月さん、こう見えても、僕は荒事も得意中の得意でね。 特に女性を守る時には、自分でも想像のつかないほどの力を振るえるんだ」

にぃと翼は美しくも凶暴な笑みを浮かべて見せると、「夜までなんて、長すぎる。 まぁ、見てて下さい」と冥月に宣言した。

時雨も、「大丈夫…夜になる前に…ここを出られるように…するからね?」とチーコに語りかけ、それからツイと同時に敵を睨んだ。
首をクキクキと鳴らしながら「ううん。 あんまり、暴力とか得意じゃないんだけどな」と呟いて、兎月原は柔軟を始める。
エリィが夕日の輝きを受け、赤く光るナイフを抜いて、「さて、チーコちゃん、あんまり待たせられないしね」と静かに呟いた。
黒須と竜子は一度視線を合わせ、ぽんと竜子が黒須の背中を叩いて「んじゃ、いってらっしゃい」と気軽な調子で言い、それから、冥月に向かって「あたいも、あんたの傍にいさせてくれ」と告げた。
「了解した」と、冥月は頷き、嵐が何か言いかけるより早く、「バイクで、かき回してやれ」と指示を下す。
ガクリと肩を落とし、「ほんと、俺、ただの素人なんだけど?」と問う嵐に、冥月がシレっとした顔で「いや、素人にしておくには勿体無い度胸と身体能力を持っている。 励め」等と、嵐の師匠と見紛うばかりの励ましの言葉を口にした。

千剣破が海へと向かって歩き出し、「いずみちゃん、あなたの目で私をサポートして」と声を掛けた。
千剣破は水の力を操れるようだ。
海の水を使って、遠距離から近接戦の面々をサポートするつもりだろう。
先ほどの様子を見ても、かなり目が良いいずみの協力を得て、力を振るってくれるらしい。
だが、彼女の強張った表情が、なんだか少し気になった。
ピンと張った糸が、今にも切れそうな風情に見えたから、いずみも、一瞬気遣わしげに、千剣破を見上げたが、その視線に余裕をなくした、彼女は気付かなかった。

「日があるうちは、私はチーコの守りに徹する。 任せたぞ」

冥月が、そう告げると、一際強い風が吹いた。

「チーコを苦しめた連中だ。 死なない程度にしか、手加減はしてやらない」

翼が剣呑な宣言をするのを合図に、それは始まった。

向こうの人数は、圧倒的に多数。
だが、個人個人の実力は、比べるまでもなく此方の方が上。
人数押しで来る向こうの攻撃を少ない人数で、どれだけ押し留められるのかが鍵になってきていた。

冥月の体の傍に、ぴったりと百合子は身を寄せて、チーコを抱きながら戦況を見守る。
冥月は表情を変えず、腕を組んだまま微動だにしない。
千剣破は、海の水を硬球に変えて、一気に敵に降り注がせていた。
痛みに怯むものや、当たり所が悪く、一撃で昏倒するものもいる。

「殺してはならない」の制約は、名うての実力者達にとっては、少々面倒なものらしく、それぞれ手加減の程に苦慮しているようだった。
接近戦を得意としているらしい、エリィや兎月原は、確実に一人一人に当身や、急所への攻撃を仕掛け、意識を奪っていっている。
嵐は、冥月の言葉どおり、バイクで敵が固まっている場所に突っ込み、散らしたり、タイヤを使って巻き上げた砂によって、視界をさえぎったりしていた。

振り返れば、夕日が徐々に沈み始めていた。
冥月の時間が近づいてきている。
負傷者や、深刻な重症を負う者もなく、冥月の言葉を信じれば、これにて決着が着くのだろうか?と思われた矢先の事だった。

冥月が、もう少し戦況が見渡せるような、高台へと移動を始めた。

強い風が吹いた。

チーコが万華鏡を落とした。


コロコロコロと、万華鏡が転がっていく。


「あぅ!! ひぁぅ!!」


小さな手が、信じられないような力でもがき、百合子の決して力強いとは言えぬ腕から抜け出した。


「チーコ?」


それは、問い掛けの形の声。



チーコが、サクサクサクと足音を立てて、万華鏡の後を追っていく。




「っ! チーコ!!!!」

初めて、冥月が声を荒げた。


コロコロコロ、冥月に貰った万華鏡が転がり、チーコも転げるようにして走っていた。

トテトテと、もう歩けぬ足で、それでもよたよたと、チーコが必死に万華鏡を追った。

一瞬、呆然とした百合子の背筋を寒いものが駆け上がる。
「チーコ!!」

竜子が怒鳴るような声をあげ、チーコの後を追い、百合子も慌てて走り出した。
「っ! 馬鹿者! 動くな!」
冥月が背後で叫ぶ声がしたが、立ち止まるつもりはない。

私が、頼むって託されたのに…!


チーコに追いつくより早く、四つん這いになって人間ではありえない速さでチーコに走り寄ってきた男が、まるで、サッカーのボールをけるみたいに思いっきり、チーコを蹴っ飛ばした。

「ヒュゥッ」と喉の奥が狭まる。
チーコが玩具みたいに吹っ飛ぶ。
砂の上を、二三度バウンドして、ごろごろと体を転がしたチーコ。


「逃げて!!! チーコ、逃げてぇぇぇぇ!!!」


いずみが叫んでいる。


どうしよう! どうしよう!!

再び酷い混乱。
一瞬、太ももを見下ろした。

「…ひぃっ……いひっ…ひっ…ま…正木…さんっ! あはっ…はぁっ…ど…ど…どうしたら…」


そう問いかけようとした百合子の前を、竜子が一心不乱に駆けている。
その特攻服の背中に刺繍で刻まれた文字は、「唯我独尊」。

聞かずとも、分かる。
惑わずとも、行ける。

ぐちゅりと、太ももにいる「正木さん」が走ることで捲れ上るスカートの下で囁いた。


「守りなさい」


分ったわ。
血に汚れる事が嫌って決めた以上、チーコの血だって、流させない。

絶対に、流させない。


この命を懸けて。

もし、目の前で、チーコが無残に殺されたら…


彼女を守りきれなかった自分を、自分は一生許せないだろう。

それは、圧倒的な恐怖心。

チーコは、動かぬ足を砂の上でもがかせ、そして、腕で這いずるようにして、それでも、万華鏡を追った。
ずるずると這い手を伸ばす先に、万華鏡が触れるか否かの間際、横たわるチーコの体を、先程チーコを蹴り飛ばした男が思いっきり踏みつけた。

「うぐぅはぅっぅっ!!!」

悲鳴とも喚き声ともつかない声。


幸せな気持ちだけで一杯にして、幸せな時間を過ごさせてあげる筈だったのに。


「チーコ!!!!」


絶叫に似た、それは、紛れもない咆哮だった。

百合子は、前後も分らず、チーコの上に覆いかぶさる。
竜子が、そんなチーコと百合子の前に、彼女達を全ての脅威から守るかのごとく立ちはだかった。
無力だけど、これが精一杯。
弱いけれど、諦めない。

腕の中で温かな命が確かにある。

私が守るんだ。 この子を。


稲光が聞こえた。
酷く凶暴で荒れ狂うその音に、全てのものが一瞬、空へと視線を向け、そして、海の様子に瞠目した。

真っ黒な海。
荒れるなんてものじゃない、それは、異常な姿だった。

千剣破の様子が明らかにおかしかった。

彼女の仕業か?

千剣破の周りを黒い水が取り囲む。
海の色は、黒炭を流し込んだような漆黒。
海から巨大な水の竜巻が幾つも立ち上がっていた。
真っ黒な海。

酷く禍々しい、その姿。

「あ…ああっ、あっ…!! 許せない…許せない…許せないっ!!!!!!!!!」

目を見開いたまま、千剣破が強い声で繰り返し叫ぶ。
ビリビリと周囲の空気が震えていた。
空に暗雲が立ちこめ、稲光の音が聞こえてくる。


黒い水を身に纏い、真っ白な頬を更に白くさせ、爛々とした目で敵を見据えている。


酷く恐ろしく、酷く神々しく、酷く美しく、そして酷く危うい。

髪の毛が風に舞い上がる。
普段より赤く色づく唇が、きゅうっと引き結ばれる。

皆が、海の様子、そして千剣破の様子を凝視していた。

敵の男達の中には、明らかに危険なこの状況に既に逃げ始めたものもいる。


「いずみ…、千剣破を止めろ!」

冥月が叫んでいる。

冥月が焦っている。
その事をもってしても、今の危機状況が如実に把握できた。

だが、いずみが、突然ぐいと手を伸ばし、千剣破の胸倉を掴むと、下に引き寄せ、その頬を思いっきり張り飛ばした。

「うわ」
百合子は、蹲りながらも、いずみの容赦ない張り手の様子に、思わず自分の頬に痛みを感じる。

「しっかりなさい!!!!」

凛とした声で、いずみが千剣破を叱る声が聞こえてきた。

「泣いているでしょう! チーコが泣いているでしょう! 今、あなたは、誰のために力を振るおうとしているの?! それは、誰を守る為の力なの?! 正気に戻りなさい! 泣かさないで、チーコを! 千剣破さん! 泣かさないで!!」



チーコの泣き声。


万華鏡を抱きながら、腕の中でチーコが泣いている。



いけない。
チーコ、泣かないで。
泣かないで。



幸せな気持ちで。
幸せな気持ちで…。

百合子はかすかに歌を歌った。
チーコが驚いたように見上げてくる。

彼女の背中に手を回し、優しく、優しくなでながら、百合子は小さな声で歌を唄う。

チーコが百合子の胸に顔を埋めて、「ひぁぅ…」と小さな声でさえずった。
百合子は目を閉じて、全ての世界を置き去りにして、チーコの為に歌を歌い続けた。

怖い事は何もないのだと。
そればかりを気持ちに込めて。

いずみの言葉に徐々に千剣破の焦点が結ばれる。
海が徐々に静まり始めた。
千剣破が呼んだ暗雲も、霧散し、その下の茜色の空が、夜の闇を濃くし始めている。
頭を上げれば、黒須が竜子を鋭い爪で切り裂こうとしていた男を叩き伏せていた。
「無事か?!」
黒須の問い掛けに頷けば「百合子…さんっ!」と言いつつ、時雨が手を伸ばしている。
百合子はもう一度頷いて、抱きしめていたチーコを時雨へと渡した。

「ああ…よかった…」とその無事な姿に時雨が微笑み、ついで「百合子…さんも…お竜…さんも無事で…よかった…」と安堵に満ちた声で言う。

「っ…行くぞ…」

そんな時雨の肩を叩き、黒須が百合子と竜子を促して、とりあえずこの場を離れようとした瞬間百合子の耳に、一発の鋭い銃弾の音が届いた。


ドラマみたいな、偽者みたいな銃弾の音。


音のするほうに目を向ければ、まるで壁になるみたいに、チーコや竜子達を守る為両手を広げている黒須がゆっくりと倒れる姿が目に入った。


まるで、世界中の速度が、スローモーションになったように見えた。


黒須…さん?

百合子は意識しないまま、悲鳴の形に口を開く。

「黒須さんっ!!!」



黒須さんが…撃たれた…!!!

それも私たちを守って。

駆け寄る寸前、「あ、やばい」と、酷く軽い口調で竜子がいう声が聞こえ、思わず視線を向ける。


「夜来てるしな…いや、それで助かったんだけど…助かったんだけど…」

そこまで言って、困ったように周囲を見回す。
「あんまな、気持ちの良いもんじゃないから……じっと見ないほうが良いぞ?」
竜子がそう言うのに、思わず首を傾げた。

言ってる意味が分からない。
説明を求めようとする前に、竜子が、少しだけ愉快気に口を開いた。

「怪奇。 蛇男のお出ましだ」


「「蛇男??」」と、百合子と時雨が揃って首を傾げた。
疑問に翻弄される百合子の目に、驚くべき光景が映った。
夜闇の下、「あ、っ、っつぅっ、ち、畜生っ!!」と黒須が叫び、蹲った次の刹那には、彼の姿が、下半身大蛇の姿へと変わっていた。


濡れた輝きを見せる黒い鱗に覆われた大蛇の尻尾がのたくっている。
6.7メートルはあるだろうか?
その長く、丸太のように太い下半身をくねらせながら、蹲る黒須の姿に、咄嗟に生理的な嫌悪感を感じて鳥肌を立たせる。
どういう事かも見当がつかず、ただただ、黒須の姿に魅入られた。

うぐぐぐっと上ってくるのは間違いなく吐き気。
嘔吐感に唇を押さえれば竜子が横目でそんな百合子をちらりと眺めた。

「ご…ごめ…んなさ…」

詫びる百合子に首を振り、「大丈夫、大丈夫」と言いつつ、ポンポンと背中を叩いてくれる。

怖い。
気持ち悪い。
不気味でしょうがない。

だから、目が離せない。

何が、どうなって、こういう姿になってしまったのか。
それとも、元からこういう生き物だったのか。
醜い。
それは、酷く醜い姿だった。

兎月原さんの言っていた、蛇の血が混じってるって…こういう事?!

百合子は驚愕を禁じえない。
想像以上の、真実だった。

着ていたスーツは無残に破かれ「今回は、この姿になんねぇで済むって、踏んでたのに!」と悔しげに喚く。

竜子を除く全ての面々が、硬直していた。
硬直…せざる得ないだろう、この姿には。


「な…、なん…、な…! なに…?! あれ…!」

ずびし!と黒須を指差し時雨が問えば、竜子は一瞬の困惑の表情を浮かべた後、随分老成した虚ろな眼差しを見せると「…呪われた蛇一族の末裔なんだ。 黒須は」と限りなく棒読みな声でそう告げた。
普通ならば、光の速さで「嘘だよね?」と気付ける、好い加減具合最高潮な竜子の台詞なれど、天然ぼけ二人組百合子と時雨は即座に信じる。

(かわいそ…黒須さん…。 唯でさえ人相が悪いのに…あんな気持ち悪い姿にまでなっちゃって…)

そう同情すらしつつ、まあ、命に別状がないのなら良かったと思った瞬間、ふと、嫌な気配を感じて、砂丘の上に視線を向けた。


そこには、今、この場にいるどの男たちとも雰囲気の違う二人の男が立っていた。

一人は仕立ての良いダブルのスーツを着こなした長身の男で、他の粗野な雰囲気を身に纏う男たちとは一線を画する威圧感を有している。
派手な色に染めた少し眺めの髪を、鬣のように後ろへ流して風に舞わせている。
顔立ちは端正で、精悍でありながら、後ろ暗い、ヒリヒリとした危険を感じさせる危険味も含んでおり、全身から「只者でない」空気を発散していた。
今回の一群を率いている幹部らしい、体格の逞しい男が、腰を低くしながら、追従するような様子で何か鬣の男に伝えている。
その隣に立つのは、男と対照的に身長も低く、青白い顔をした細い男で、白衣を風になびかせながら、脇に立つ男達のやり取りなど一切無関心といったように、戦況を凝視していた。

Dr。

チーコに発信機を埋め込んだ男。

浜辺で、翼によって得られた情報を思い出し、まさしくと言った風貌に間違いないと確信する。

ぎょろぎょろと目ばかり大きく、銀縁の眼鏡の中で彷徨っている視線が、黒須を捉えると、ギラギラとした輝きに満ち始めた。

こんな人間と、動物を掛け合わせたキメラを作ったり、チーコのような子を攫ってくる人達だもの。
黒須のような人間に興味を持つのも不思議はないと思いながらも、Drと呼ばれている男の視線の狂気的な有り様に怖気を奮う。

(黒須さん、変な目のつけられ方をしなければいいけど…)と思えど、今は、先の事を考えている余裕はないと、百合子は現状の把握に意識を集中させようとする。

だが、そんな必要は一切なかった。

夕日が完全に沈みきり、あたりは夜闇に包まれる。

「待たせたな」


低い声。


無慈悲な夜の女神。


黒冥月が動き出す。

「じゃあ、終わりを、始めようか」

黒いロングスカートが風に揺れる。
髪を高く結った冥月が両手を広げた。


夜が来るという事。
それは、「冥月によって、全て片がつく」という事と同意語でもあった。




思わぬ時間を取られたせいで、山口県に到達する頃には、夜明けが近付いて来ていた。

砂丘の上に見た男達は、冥月に尋ねど「取り逃した」らしく、悔しさの欠片もなく「つくづき逃げ足の早い連中だ」と呟いた。

チーコの蹴られた傷跡は、もう微塵も見当たらない。
千剣破の水の力によって、傷を癒したのだ。
疲れきった様子の千剣破ではあったが、最後の力を振り絞り、チーコを癒す姿を見て、百合子は心底、彼女にはこういう力の使い方の方が似合うと感じた。
チーコの蹴られた時の記憶は、翼の「事象の操作」という恐るべき能力によって消されていた。

「本当は、タイムパラドックスを引き起こしかねない、使ってはいけない力なんだけどね…これ位なら、大丈夫だろう…」と言って翼が新たに作り上げた事象は「蹴られた際に、チーコは意識を失い、砂丘で暴力に晒された記憶は、ショックで消えてしまった」というもの。
傷跡もなく、記憶もないチーコは、まさか自分が恐ろしい目に合っていただなんて事も、すっかり知らぬ気に、穏やかな様子でエマの腕の中でじっとしていて、百合子は心から安心した。

良かった。
不幸せな思い出は、三日間の間一つだってチーコの中に残したくなかったから、本当に良かった。





潮岬…本州最南端の海。


その海を一望できる、灯台の上に立ち、チーコが夜の海を眺めていた。

もうじき、夜が明ける。

チーコは、自分を抱いていたエマの腕を優しく叩き降ろしてくれるようにと頼んだ。


ここが彼女にとっての、最期の地。


見上げれば満天の星空があって、皆息を殺してチーコを眺めた。


チーコは、自分の運命全て分っているかのように微笑んで、一礼する。

キラキラキラと、夜闇を引き裂くように、流れ星が落ちていった。



唐突に、何の予備動作もなく、その喉からチーコは、燃えるような、熱く、熱く、力強い声を出した。



「会わなければ よかったと

思う私を 許してください」


それは紛れもなく、人の、日本語の、百合子達が使う言葉の 歌。






会わなければ よかったと

思う私を 許してください


闇の中で 息絶えていれば

生きたいと願わずにいられたのでしょう


優しくされて

優しくされて


私は死ぬのが怖くなった

優しくされて

優しくされて


私はとうとう恋をした


幸せです
不幸せです

嬉しいです
寂しいのです

抱きしめて
触らないで

全部嘘です
全てが真実


あなたが 好き





チーコが手を延べる。
視線の先には時雨がいる。





あなたが 好き


好きじゃない
嫌い

だから 泣かないで
笑っていて
私が いなくなっても 笑っていて


真実

あなたが 好き

だから 笑っていて

私が いなくなっても 幸せになって

私の事を忘れてください


いやだ

私の事を忘れないで

うそ

わすれていいの

だから

幸せになって 幸せになって

好き 好き 好き 好き さようなら



「あなたに あえて よかった と おもう わたしを ゆるしてください」


炎の歌。
命を燃やす歌。

夜が明け始める。

チーコの指先が、髪が、炎に変わり始めた。


その全てを燃やすかのように、チーコが唄う。

最期の歌。

時雨が、転げるように、チーコに走り寄り、その体を抱いた。


「チーコ!!!」


幸せになって


「チーーコ!!」


幸せになって

「いやだ…いやだよ…チーコ…一緒に…故郷…見に行こうって言った…約束した…嘘つき…チーコの…うそつき…あっ、ああっ、うああっ、わああっあああああっ!!!」


慟哭。

自分の全身が炎に包まれるのも構わずに時雨はチーコを強く抱きしめた。
一緒に燃えてしまうんじゃないだろうか?と心配になった。
赤い髪が、体が、何もかもが炎に包まれて、時雨は夜闇の中で、チーコを抱いて燃えていた。


キラキラと炎に包まれ、光の粒が二人の周りを舞う。

ああ、あれは万華鏡の光の欠片。

焼けた万華鏡の中から、光が舞い上がり二人の周りをひらひら飛んでいる。


チーコは最期の瞬間百合子を見た。

百合子は咄嗟にかすかに歌った。



しあわせに なって



消えゆく命には、不適切な言葉かもしれない。
だけど、心から思った。


しあわせに なって


チーコは頷いた。
最期まで、チーコは酷く優しかった。


朝日差す海。
目を射るほどの輝きが海面一杯を満たす。




その瞬間、チーコの体は全て炎と化して、消え果てた。



時雨が喚く。
声にならない声で。

赤い髪が炎のように揺れていた。



そして、眩い光の中真っ黒な影の塊になって、時雨は長身を折り曲げ蹲ると、唇を押さえ、耳を押さえ、目すら閉じて、全て、全て記憶にあるチーコの全てを、何処にも逃さないかのように、じっとそうやって、じっと、蹲り続けた。

まるで、両手を組み合わせていないのに、その姿は祈りに見えた。

酷く敬虔な祈りに見えた。


神様は、呆れる程に無力で、チーコの命を救えはしなかったけど、それでも最期彼女は頷いてくれたから。
幸せになるって頷いてくれたから。


百合子は、祈りの代わりに、唯々唄う。



ばいばい チーコ


夜明けの海が、百合子の目を射た。
最期の歌を、いつまでも、いつまでも、百合子は口ずさむ。


ばいばい チーコ
夜の海のチーコ

あなたの事は忘れない
あなたの歌を私は忘れない





fin

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1271/ 飛鷹・いずみ   / 女性 / 10歳 / 小学生】
【3446/ 水鏡・千剣破  / 女性 / 17歳 / 女子高生(竜の姫巫女)】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【7520/ 歌川・百合子/ 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2778/ 黒・冥月 / 女性 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【5588/ エリィ・ルー / 女性 / 17歳 / 情報屋】
【1564/ 五降臨・時雨  / 男性 / 25歳 / 殺し屋(?)/もはやフリーター】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】



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■         ライター通信          ■
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出来上がりが大変遅くなりまして誠に申し訳有りませんでした。

本当に、長い、長い物語にお付き合いくださいましてありがとう御座いました。
三日間、参加してくださった皆様も楽しいときが過ごせていたら幸いです。
チーコは皆様のお陰で、幸福な気持ちでこの世に手を振ることが出来ました。
彼女の最期の歌を是非、忘れないでいてください。
夜の海のチーコ。

終幕で御座います。

尚、momiziのウェブゲームは、登場人物全ての方、それぞれの視点に即した物語となっております。
お暇なときにでも、他のウェブゲームにもお目通し頂けると新たな真実や、自分のPCが他PCにどう思われていたのかを、知る事が出来るかと思います。

それでは、momiziでした。