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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【夜の海のチーコ】


〜OP〜

今日はチーコは四回殴られた。

一回目は、唄ってる時に笑ったから。
二回目は、お昼ご飯のパンくずを床に落としてしまったから。
三回目は、殴られた時に吐いた血で殴った人の手を汚してしまったから、
四回目は、何となく。

チーコは、南の海にある活火山を抱く小さな島で生まれた。
チーコは、その島では仲間達から「可愛いチーコ」と呼ばれていた。
友達思いのチーコ。
笑顔が素敵なチーコ。
可愛い、チーコ。

チーコは、ここでは、名前を呼ばれない。
ただ、「化け物」って人間はチーコの事を呼んだ。

それは突然の嵐だった。

チーコが住んでいた南の島に、ジェット船に乗った人間たちがやってきた。
誰かと喧嘩なんてした事のないチーコの仲間達は、みんな一編に殺されたり、捕まったりした。
チーコは捕まった側で、そのまま、「新宿」ってトコにある、あんまり性質の良くない店で見世物としてショーに出されていた。

チーコの種族は、皆歌が上手だった。
燃える様な、命を燃やすような、赤い、赤い、力強い、炎のような歌を歌った。
人間はチーコの歌を珍しがって、たくさんの人間の前で散々に歌わせた。

チーコは、10歳。
活火山がある、南の島で、毎日歌を歌って暮していた。
その日々は太陽みたいに暖かくって、海のように無限に続くと思ってた。

カフッ。

薄暗い小さな小部屋で、チーコは小さな口からたくさんの血を吐き出す。
此処に連れてこられて、もう一年になる。
チーコは、南の島の美しい空気の中でしか本来は生きられない生き物だった。

もう、永くない。
チーコは分っていた。
もう、私は、永くない。

目を閉じる。
おかあさんの顔
おとうさんの顔
友達の顔

チーコももうじきそちらに逝きます。
チーコは笑う。
怖くない。
怖くない。

ただ、恋をしてみたかった。

何度も、何度も、喉を震わせ、情熱的に歌った恋。

チーコは知らない。
恋を知らない。
チーコは知らない。
それが、どんなに幸せかを知らない。

突然、大きな音がチーコの鼓膜を震わせた。

「アァ!!」

声を上げて跳ね起きる。
すると、自分の顔を覗き込む黒い影にチーコは気付いた。
「ああ、間違いない」
男の人の声。
キンキンとした、鼓膜をやけに引っ掻く声。
パチパチと瞬いて、チーコは見上げた。
黒く長い髪が揺れていた。
何だか険しい顔。
南の島にたくさんいた、蜥蜴や、蛇にちょっと似ている。
けれど、彼らはこちらが乱暴をしなければ決して、牙をむく事のない大人しい生き物立ちチーコは知っていたので、チーコはちっとも怖くなかった。
恐る恐るといった手つきで、骨ばった硬い手が、チーコの体を抱き上げる。
煙草の匂いが、チーコの鼻腔を擽った。
「ひぅあぁ?」
喉を震わせ、だあれ?と問う。
「助けにきた」
思いの外優しい声だった。

チーコは、疑う事を知らない子だったので。
何度でもそれで騙されて呼ばれて笑って傍によって、何度も、何度も蹴り飛ばされるような子だったので、「ひぅふぁぅぅ!」と高い声を上げて笑って、しっかりとその胸にしがみ付いた。

夜の空の下、男はチーコを抱えて駆け出した。
長い髪が、漆黒のカーテンのように風に煽られ広がる。

きれいだな。

チーコは手を伸ばし、さらさらとした手触りに微笑んだ。

きれいだな。

夜のカーテン。
なんて、美しい帳。

「化け物が逃げたぞ!!」」
後ろの方から声が聞こえる。
チーコをたくさん殴った男たちの声だ。
「ひぁふぅ!」
叫んで後ろを指差し、気をつけてと叫ぶチーコの背中を分ってるよという風に優しく叩いて、髪の長い男は誰かを呼んだ。
「竜子!!」
るーこ?
首を傾げるチーコの耳に、闇を切り裂くエンジン音が聞こえてくる。
あれ、知ってる。
あれ、バイクってゆうんだ。
チーコの見張り役の男が読んでる雑誌に載ってたよ?

「誠!!」
女の人の声。
凛とした、強い声。
バイクに乗ったその女の人は金色の髪を靡かせて、チーコと男の前に急停止すると、慌てた様子でヘルメットを投げつけて「追手は?!」と問い掛けた。
「しこたまだ。 とっととずらかるぞ!」
そう誠と呼ばれた男は答え、宝物を抱くような手でチーコを抱き直し、るーこのバイクの後ろにまたがる。
「大丈夫。 怖くないから」
るーこが優しい声で言った。
「大丈夫。 行こう、チーコ」
誠が、チーコの名前を呼んでくれた。
「ひあぅぅふぅるるぅぅ!」
嬉しくって大声で笑う。
るーこのバイクが、夜闇の中を猛スピードで駆け出した。
神様だってきっと追いつけない。
大型バイクは、そうやってチーコを暗い部屋から攫っていった。

*******************************

「で?」
「匿って欲しい」
黒須の言葉に武彦は、はぁと溜息を吐き出した。
「この前は不良娘の捜索で、今度は…」とそこまで言ったところで、零が常に無い強い声で「お受けします」と勝手に返事をしてのける。
「おい…零!」
そう非難の声をあげる兄をキッと見据え、「受けるんです!! 絶対に」と殆ど悲鳴のような声で兄に詰め寄った。
「…まぁ、こっちとしては報酬さえ受け取れるんなら、別段構わないが」
そう言いながら、ひしっと小さな掌で黒須の服を掴んだまま膝の上で眠るチーコの顔を見つめる。
ステージに上げるからだろう。
顔にこそ傷はなかったが、体中痣だらけで、煙草を押し当てられた火傷の痕も点々とあった。
「…まだ…子供だぞ」
黒須の隣に座る竜子が軋む声で呻いた。
「…こいつ…まだ…子供なんだぞ」
自分だって世間じゃまだ、充分子ども扱いされる年齢の癖に、ぎゅっと握り拳を固めた、相変わらず派手な特攻服に身を包んだ女は「糞野郎共だ」と吐き捨て、「頼む」と律儀な声音で呟き、頭を下げてきた。
「…で? 何なんだ、この子を追って来てる奴らの正体は」
武彦が問えば、「アジア諸外国を縄張りに、麻薬の密売やら人身販売やら、まぁ後ろ暗い商売の業界で一気に伸し上がってきた新興のマフィアだよ」と黒須は答えた。
「で、そこのトップっつうのが、若干キてる趣味の持ち主でね。 人間と動物を掛け合わせて作るキメラの研究やら、人間外の珍種なんかを世界中から攫ってきてオークションに掛けたり、ショーに出したりするような、そういうえげつのねぇ商売もやってやがんのさ」
黒須の説明に、武彦はチーコの容貌をもう一度しげしげと眺めた。
チョコレート色の肌。
オレンジ色の髪。
鳥のような声。
小さな体は、人間の子供と変わりない形をしているが、唯一つだけ、大きな違い。
大きな、大きな一つの目。
チーコには目が一つしかなかった。
顔の真ん中に一つ、燃えるような太陽色の綺麗な目玉。
「ベイブが…俺達の上司がね、この子の事を見つけてさ、何とかしてやれってお達しが出たんだ。 たまに、そういう慈善事業めいた事をしたがる奴なんだが、今回はバックがやべぇ。 とにかく、三日間。 何とか、三日間あいつらからチーコを守ってやってくれ」
「何故三日間なんだ?」
そう問い掛ける武彦に、黒須はチーコを見下ろして、その唇に手を当て、彼女が確実に眠って居る事を確かめると、囁くような声で言う。
「保たない」
「……何がだ」
「チーコがだよ。 一年間、この汚れた街で引き絞るみたいにして生きてきた。 保たないんだ。 あと三日なんだ」
「それは…」
確かなのか?と問い掛けかけて、事務員が教えてくれた、彼らの上司と言う男が、全てを見通す力をある鏡により得ている事を思い出す。
「多分、俺達の住んでる城に連れてけば、多分危険に晒されないで済むんだろうが…そりゃあ、あんまりだろ? 最期位、外の世界で、楽しいもんばっかり見せてやりてぇんだ」
黒須の言葉に、武彦は溜息を吐き出して、零を横前で見れば、大きな目に既に涙を溜めていて、「兄さん…」と震える声で呼んでくる。
「あーーー、もう、分ったよ。 請け負うから、お前は泣くな、お前も!」
そうズビシと指差された竜子は、既に鼻水もだくだくに流していて「ううう、…だのむからなぁ?」と涙に濡れた声で告げてきた。

チーコを守るだけならともかく、その背後にあるマフィアまで相手にしなきゃならないとなると、かなり面倒な案件になるとひしひしと感じながら、武彦は二人の女の涙に負けて、この厄介な依頼を引き受ける事にした。


〜本編〜




初日。

金髪の少女が目を真っ赤にして、呆然と座っていた。
鼻をかみ過ぎたのだろう。
鼻の頭も真っ赤になっていて、何だか酷く幼く見える。
隣に座る男の陰惨な空気を中和するかの如く、感情を駄々漏れにしながら、今は泣き疲れのせいか、何だか呆けているようだった。

彼女の名前は城ヶ崎竜子。
化粧が濃く、特攻服を着ている姿はかなりオールドタイプのスケ番といった感じで、なんだか若干間抜けな空気も漂っていて、泣き伏したせいでアイラインが滲んでいる顔は、ちょっと小狸にも似ている。
隣に座っている髪の長い、薄気味の悪い男は黒須誠。
この男も得体の知れない空気を身に纏っていて、その上、どうにもキナ臭い。
だが、このちぐはぐな二人組が今回の依頼人であることは間違いなかった。

黒須が今回の仕事について説明を終えた後、竜子は、きっちりと「頼みます」と頭を下げ、真摯な声で、そう告げた。 竜子や黒須が、『チーコ』という少女を何故助けようとしているのかは気になるところであったのだが、その姿は信頼に値するような気がした。


「で、結局、お前らの上司っていうのは何者なんだ?」

冥月に問い掛けに、黒須ははぐらかすように首を傾げた。
その態度は、隠していると言うよりは、明らかに面倒くさがっているように見え、何だか少しばかりイラっとくる。
窓際に立ちながら、腰まである黒髪を、背中で揺らし、真っ白な紙にスッと美しく筆で引かれたような形をした睫の長い切れ長の目を閉じたまま、冥月は更に冷たい声で問いかけた。

「おかしいだろう? 何の利益も見込めない。 誰が得するとも分からん。 ただのボランティアとは思えど、物騒な匂いもプンプンする。 善意のみで、このような件に首を突っ込む輩がいるとは考え難い。 目的は? お前達はどんな組織に所属してるんだ? そもそも、お前達自体は、何者なんだ?」

冥月の矢継ぎ早の質問に、黒須の視線が落ち着かなさげにあっちこっちする。
「あー…」だの、「うー…」だの呻く黒須に肩を竦め、然程悠長なやり取りをしている時間はないのだと理解しつつも、冥月の攻撃の矛先は、この興信所の主人にも向けられた。

「大体、武彦も、武彦だ。 気安く受けるな。組織から逃げる事がどれ程困難か」
そう言いながら、自分のすぐ目の前にあるソファーに腰掛けている武彦を小突く。

「これほど得体が知れぬ連中の依頼等、本来ならば、蹴って然るべき案件だろう」

そう、彼の不用意さを責める冥月に「まぁまぁまぁ…」と笑いながら、この興信所の事務員、エマが割って入ってきた。「いいじゃないの。 とりあえず、とーぉぉぉっても胡散臭いけど、この二人の身元は私が証明するわ?」と胸を叩いた。

長年この興信所の事務員として仕事に携わってきているエマ。
当然、冥月も頻繁に顔を合わせており、彼女が信頼のおける優秀な女性である事は重々承知している。
エマが言うのならば、まぁ、おかしな二人ではないのだろうと、冥月は素早く判断する。

エマが皆に協力を求める意味も含めて、「ほら、黒須さんって、こう見えても、穏やかな午後に近所の美味しいケーキ屋さんのシナモンロールを突きつつ、熱い薔薇の紅茶を啜ってるお茶の一時なんかだったら、夢見心地に、気紛れに、気の迷いで『まぁ、僅かにはいい人かも…』と思えなくもない人だから…ね?」等と、言葉を重ねるが、うん、これは、間違いなくフォローにはなってない。
黒髪も清らかに、透明感のある美しさを有した、美少女水鏡・千剣破が、黒曜石のような黒と、澄んだ海の如くの青のオッドアイを瞬かせ、横目で、黒須の様子を伺いつつ「えーと、黒須さんが既に涙目なんですけど、いいのか…な…?」と彼を指差した。
エマは、気安い口調から鑑みれる通り、前々からの知り合いなのだろう。
「ほら、黒須さんも、疑われてんのは、あなたのその、不気味さのみで構成されてるツラのせいなんだから、無理矢理、多分不可能だけど、その胡散臭い、87%成分がヤクザな顔にスマイルを浮かべて、みんなの信頼を勝ち取って?! はい、レッツ爽やかスマイル!」と言いつつ黒須を揺すった。
黒須の隣に座っていた一見美少年にしか見えない少女、蒼王・翼も同様の立場らしく、「駄目です。 エマさん、その人笑ったらもっと不気味だから!!」と、追い討ちの追加点を入れていて、咄嗟に黒須が目頭を手で押さえつつ「もう、いっそ、死ね!って俺は言われたほうが気が楽だよ」と呻いている。
仕草も典雅で、見惚れるばかりのその姿に、女性と知りつつも惑わされる者も多く、「お願いします。 協力してあげてください」等と翼に言われれば、眩暈もののお願いになるらしい。
まず、白金の髪も美しく、マシュマロのような色合いの柔らかそうな白肌も愛らしいエリィ・ルーという少女が、大きな翠の目を瞬かせ、頬をピンク色に染めながら「はい…翼さんの為にも…協力させて下さい…」と両手を組み合わせて答える。
「わ、私も、何でもするわ…! 大したお手伝いは出来ないかもだけど、精一杯翼さんのお力のなれるよう努力するから…」と、そう宣言するのは、大人しげな容貌の女性で、歌川・百合子というらしい。
彼女は小動物めいた小作りな頬を紅潮させて、目を星屑を入れたかのように輝かせていた。
そんな二人の女性陣の様子に、負けてはおられぬと言わんばかりに、千剣破も勢い込んで、「あたしも、翼さんの為に…!!」と言いかければ「いや、依頼人俺と竜子だから!!」ともっともなツッコミを、絶妙のタイミングで黒須が入れた。


「あー…いや、エマさんが信用してるんなら、俺はもう、腹決めてたし、構わないぜ?」

そう言うのは、向坂・嵐。
興信所絡みの事件等で、何度目かの顔合わせになる彼は、赤茶色の髪と、同じ色したキツ目の印象的な瞳の持ち主で、端正な顔立ちをしているのに、そんな事は、どうでも良いと言わんばかりの、気取りのない立ち居振る舞いが逆に好感を抱かせる。
そして、今回の面子の中でも圧倒的なまでの大人の色気を発散している兎月原正嗣という男性に目を向ければ、「俺も、チーコを守るっていう依頼を受ける事に異論はないよ」と微笑みながら答えた。
聞くものが皆、骨抜きになりそうなほどの甘い声に思わず、冥月は顔を顰めてしまう。
とろりと甘く、喉を焼くようなチョコレートボンボンのような声。
百合子の勤め先のオーナーだという兎月原は、声に負けず劣らずの甘い端正なマスクに、少し崩れた隙がありながらも、何処か野性味も感じさせる色っぽい笑みを浮かべたまま、「今回、初めて事務所の仕事を手伝わせて貰うのだが、ここの評判は聞き及んでいる。 中々優秀なスタッフが揃ってるようだし、お姫様を守るだなんて、中々風情がある仕事だ。 この興信所を通しての依頼なら、明かせぬ事情が諸々あるにせよ、そうそうおかしな事はないでしょ?」と余裕ありげな様子で言った。


皆の意思表明に、ついと黒須に目を向け、「良かったな。 皆お人好し揃いで」と冥月が口の端を持ち上げて言えば、黒須は小さく笑って「あんたも、そのお人よしの仲間じゃねぇか。 手伝ってくれるつもりなんだろ?」と確信を持った声で言ってくる。
見透かすようなその言い様が気に入らず、冥月は眉間に皺を寄せ、「大体お前等の主は本当に独善だな。余命3日なら助けない方が幸せかも知れんだろう」と黒須を指差した。
「楽しく過して少しでも未練を残せば、死ぬのが余計辛いぞ。何も知らず死ぬ方が幸せな事もある」
黒須は、冥月の言葉に笑みを深め、「善か、悪かは分からねぇよ。 正しいか否かっつうのも、まぁ、難しいわな。 でも、やれっつうから、やるんだ」と自嘲気味の声で答えた。

なんだ、それは。
己がこれから行う所業に対する、信念というものはないのか?

「お前の…主が言うからか?」
「ああ。 まぁ、しょうがねぇ」
そして首に嵌っている細い黒い輪にも見える首輪に指を引っ掛けた。
「チーコ…守ってやってくれよ。 あんた…相当の人と見た。 そんで、多分…」
小さな遮光眼鏡の奥に見える、細く険しい目がじいっと冥月の事を見据え「優しい人間だ」と、唐突な声で告げた。
それは、余りに予想外の言葉であったため、自分の意思が関与しない体の反応が出て、少しだけ後ずさり、コツンと窓枠に肩をぶつける。
「適任だろ? 俺が選んでんだ。 間違いない」
武彦がそう自信ありげに言うのを受けて、冥月は思わず俯きかける。
だが、今は動揺している時ではないと思い、皆の顔を見回した。

バラバラに見えた。
てんでばらばらで、咄嗟の団結力なんて見込めない面々。

だが、確かにバランスは良い。
流石…という冠を頭につけるのも癪だが、興信所の主と言うべきか。
あとは、少々実力の程を測れれば、襲撃に対して的確な対応を取る事が出来るだろう。
何か良い判断材料はないかと考えていると、影に不穏な気配を感知する。

「…笑止。 私は、然程優しい人間ではない…が、先程まで申していた事も冗談だ。 守る。 依頼は依頼だ。 どのような者が頼みの筋であろうとも、守る。 チーコを」
冥月は淡々と述べながらも、影に捉えた人間の人数を頭の中で冷静に数える。
「それで、チーコを追っている組織の名は?」
そう冥月が問えば、黒須は「『K麒麟』…てぇんだそうだ。 生憎、こちとら、そんな裏社会にゃあ詳しくねぇから、怖い名前なのか何なのかはさっぱりなんだが、ベイブ…俺らの上司は『面倒だ』とは言ってたな」と答えた。
麒麟。
中国の伝説の獣。
「聞き覚えがある。 K麒麟ならば、ちょくちょく余りよくない場所で、その名を耳にするよ。 確かに、随分と最近は幅をきかせているみたいだ。 だとすると、竜子とやらが科してきた制限が、尚面倒に拍車をかけるな」と呟き、冥月は唇に指を這わせて思案気な表情を見せる。
「殺さないで…か」

そう、竜子が、皆に言ったのだ。
この依頼にあたって、チーコを守る為に、武力を行使する事は止む無いとしても、相手を絶対に殺さないで欲しいと。

そんな竜子の言葉を、心底面倒に思いつつも、依頼人の意思を尊重させるべく、頭の中で様々な作戦をめぐらせ始める。



「勢いのあるマフィアは厄介だぞ。 保身考えず無茶するからな」
そう言いながらチラリと窓の外に走らせる冥月。
(ひぃ…ふぅ…みぃ…はーん、総勢20名弱。 興信所に張り付いているものと、ここまでの道沿いに待機している者。 ここに張り付いているものは、そのまま、ここを襲撃。 道沿いの者達は、逃げ出した者の排除。 では、一旦非戦闘員や、チーコを外に出してやるとして…)
そう思いながら、視線を事務所内に走らせ、身のこなしや、仕草等から、素早く外へ逃がす者を選出していく。

「で、これからどうする?」
そう冥月が問えば、まず、エリィが手を上げて「旅、行こう、旅!!」と言った。
「安全を確保する意味でも、3日間移動を続けるってのは、アリだと思うの。 ルートの確保は任しておいて? これでも、あたし情報屋なの。 おいそれと、追跡なんてさせないわ! 旅行なら、色々見せてあげられて、チーコちゃんにも楽しい時間を過ごして貰えるしね?」
エリィの言葉に、翼も頷き、「それは良いかもしれない。 故郷の南の島まで連れて行ってあげれるのが一番だけど…」とそこで言葉を切り、「この人数での移動や、危険面、期間を考えると中々難しいかな。 だけど、そうだな、海…うん、海には連れてってあげたいね」と提案した。
「海、賛成。 そんで、水族館とか、どうかな?館内、意外と薄暗いし、周りの人は水槽に気を取られてチーコの事もあんま気付かれないんじゃないかな。 まぁ、勿論パーカーとか着てフード被ってもらったりとかの多少の変装だか位は必要だろうけど。 南の海の生態を紹介するコーナーとか、水族館にはあるし、チーコにとっては嬉しいかも知れない。 あと、俺も海は絶対連れてってやりたいな。 そりゃ、チーコの故郷に比べたら全然劣るだろうけど…見せてやりたいと思う。 チーコに何か特別な事をしてやれる訳じゃないけどさ…一緒に色んなもの見て聞いて…感じて…、そう言う事してやれたら良いと思う」
考え、考えしながら、そう語る嵐の口調に、皆がそれぞれ頷いた。
三日間、然程特別な事は、冥月とて出来るとは思えない。
それでも、その「特別じゃない」事がきっと、チーコには特別になるのだ。
彼女を完璧に守り抜き、苦しめる事なく穏やかに最期を迎えさせてやりたい。

エマも「旅…いいわねぇ…。 じゃあ、宿泊所に一つアテがあるから、連絡入れておくわ。 古い神社でね、藤やツツジの名所なの。 きっと喜んでもらえるわ。 あと、移動手段も、一つ良いアテがあるから任せておいて」と流石の頼りになりっぷりを、既に発揮していた。
百合子も「旅行なんて…嬉しい…。 しかも、女の子を守るための旅なんて、なんて、ロマンチックなんだろう!」と感激したような声を上げる。
兎月原は、ある程度方向性が固まったと見たのか「冥月さんは、何か?」と問うてくる。
冥月は首を振り「任せる。 何処へでもついていく」とだけ答え、また窓の外へと視線を向けた。
(さて、どうするか? まだ、挑発には早い…が向こうも、そうそう悠長な性質じゃないだろう。 早く、チーコ達を外へと促さねば…)
そう考えていると、眉を寄せ、訝しげな表情を見せた兎月原の姿が目に入る。

(ふむ。 気配に聡いし、かなりの手練れと見た)と判断し、冥月は片眉を器用に上げる。
彼がこちらを注視するのを確認すると、誰にも気付かれぬよう、冥月は口をパクパクと動かし、声に出さずに、兎月原にあるメッセージを伝えた。

『チ イ コ タ チ ヲ オ ク レ 。 テ キ ガ ソ ト ニ イ ル』

チーコ達を送れ。 敵が外にいる。

つまり、事務所からチーコ達を送り出す際に、護衛を勤めろと兎月原に伝えたわけだ。
チーコには、追われている事すら気取られたくない。
出来るだけ知らせずに、素早くカタを付けてくれそうな人間という風に考えると、兎月原が適任のように思えた。
会って僅かばかりの時しか経っていないが、こと戦闘における実力に関しては、ぱっと見ただけで悟れなければ、即命に関わるような世界を生きてきた。
自信をもって指名した相手は、不安そうな素振りは一切見せず、肩を竦め、微かに頷き了承の意を表してくる。
その様子に益々、自分の判断が正しかった事を確信すると、冥月は満足げに頷いて、それから何事もなかったかのように視線を逸らした。



「じゃあ、今度は、可愛いお嬢さん方にも聞かないとね」と兎月原がそう言いながら立ち上がれば「あ、あたしが行くー! ちょうど、みんなの参考に良いかと思って、旅行雑誌を持ってきていたのです!」と言いつつ、じゃーんと雑誌を一冊掲げてみせる。
「こっから、チーコちゃんに指差しで、何処行きたいのか選んでもらおうよ」と言うエリィ。
実は、チーコ、竜子、それに、もう一人今回の依頼のの参加者として呼ばれている飛鷹いずみは、別室に控えて貰っていた。
というのも、あまり性質の良くない話(チーコの寿命について等)をどうしても話題にせざる得ない関係上、当人のチーコや、まだ明らかに子供のいずみには、話の内容を聞かせたくないという配慮から、竜子をお守り役としてつけて、書斎の方へと追いやったのだ。
とはいえ、竜子の子供っぽい言動と、明らかに年齢不相応な大人びた言語能力を見せていたいずみとでは、いずみが二人のお守りにも見えて、不満げに何度も振り返りながら書斎に引っ込んでいったいずみの可愛い顔を思い出し、誤魔化すのが大変そうだと冥月は他人事のように思う。
如何にも賢そうな、冷静な目をした少女だった。
ぱっと見は、小柄な体躯も相まって、愛らしく、大人しげな少女にしか見えないのに、口を開けば、大人顔負けの論理でもって、驚くべき頭の回転の速さで会話を繰り広げていた。
後ほど苛烈を極めるであろう、いずみの追及は避わすのが大変そうだと考えていると、千剣破が立ち上がり、「あたしも一緒に行く」とエリィに声を掛ける。
「旅行か…やばい、凄い楽しみなんだけど!」
「確かに、確かに!」
二人は、どちらも人目を惹く美少女ではあったが、千剣破は和装のよく似合いそうな日本美人であり、エリィは対照的にレースやリボンがよく似合いそうな西洋人形めいた愛らしい容貌をしていた。
そんな少女達がキャッキャッと笑う姿は、大変、大変愛らしく、思わず冥月も微かに表情を緩めた。

「だけど…私、ここの興信所のお仕事って言ったら、もっと、おどろおどろしいものとか、ホラーなものばかりだと思ってたわ」
百合子がおっとりとした声で、興信所を見回しつつ、そう言った。
「えーと…ここのって、一応ですけど、どういう意味です?」と零が問えば、「えー? だって、ここは、『怪奇探偵事務所』なんでしょ?」と百合子が言い、それから「素敵よね…怪奇…」と呟く。
思わず頭痛を堪えるような表情を見せ、額に手をやった武彦が、うんうんうんと頷きつつ、「いや、色々誤解があるようだが…一応、今回初参加の君達にははっきり伝えておきたい。 違いますから!」ときっぱり、すっきり宣言した。
エマも、遠い目をしつつ、「そうなのよね…なぁんでか、こう、超常ってる現象系の依頼ばっかが舞い込むんだけど…一応ね? 普通の興信所なのよね。 建前は」と呻き、「もう、でも、今更後戻りは出来ない感じがしますよね」と零が総括するように呟く。
「ええ? 素敵じゃないですか! 怪奇探偵! あれでしょ? ゾンビとかと戦うんですよね? あと、ゾンビとかに襲われたり。 ゾンビとかに感染したり。 ゾンビと一緒に閉じ込められたり!! ああ、なんてロマンなんでしょ!」
そう感極まったように百合子が言うのを、呆然と眺め、翼が「え? なんで、ゾンビ推し?」と問い掛けていた。
「いや、彼女、B級ホラーが大好きで…」と兎月原が説明すれば、ブンブンブンと手を振って、「ちゃんと、他の映画も好きだよう! あの、えっと、宇宙人モノとか、ジェイソンとかも、可愛いと思うし…」と兎月原に訴える。

全部、ホラーやんけ。
しかも、B級の代表選手やんけという周囲の突っ込みの空気に気付かず、兎月原に「はいはい」と頭を撫でられて、「えへへ」と百合子は、幼く笑う。
そんな二人の様子を見て、武彦が兎月原と百合子を交互に指差して「あんたら二人は恋人同士か、何かなのか?」と問うていた。
百合子はキョトンとした後、即座に「ぶっぶー! 違います。 私と兎月原さんは、あくまで、雇用主と雇われスタッフの関係なの」ときっぱり答える。
「まぁ、俺にとっては手のかかる妹みたいな存在です」と言って、兎月原が百合子の柔らかな頬を指先でピン!と弾くと、百合子は「あうち!」と呻いた。


そんな会話の最中、書斎から千剣破に「あ、いずみちゃん? いずみちゃん!」と呼びかけられているのも無視して、いずみが応接間の、ソファーにちょこんと腰掛ける。
ぐっと唇を引き結んだ表情は「私は、書斎に追いやられた事を怒ってます!」という気持ちを如実に映していて、その素直さに、冥月は思わず微笑んだ。
「さ、話の続きをどうぞ?」
そう促すいずみに、黒須が困った顔になって、「いずみ? なんだ、退屈しちゃったのか?」と問う。
そんな黒須を「キッ」と一睨みすると、「いえ、のけものにされるのが、我慢ならないだけです」ときっぱり答えた。
ジトッとしたいずみの眼差しに耐えかねたように視線を逸らす黒須の代わりに今度はエマが「あ、いずみちゃん、いずみちゃん、ほら、これ面白いのよ? 絵が凄く綺麗で…」と言いながら、イギリスの児童書を鞄から取り出す。
油絵で描かれているらしい可愛いキャラクターが表紙一杯に描かれているその絵本は、いずみの目にも大層魅力的だったらしく、一瞬身を乗り出せど、すぐさま、ソファーに身を沈めて、ふいと目を逸らす。
「チーコちゃんと読んでらっしゃい、ね?」
にっこりと笑うエマに、いずみは「結構です」とぴしゃりとお返事。
するとエマは、「そうよねぇ…」と言いつつショボンと肩を落としてみせる。
「いずみちゃん、本たくさん読んでるから、私の翻訳の出来栄えが如何なものか意見聞きたかったんだけどなぁ」と残念そうに言いつつ、鞄の中に本を仕舞うエマに「また、後で読ませてください」と、いずみが慌てて言い添えていた。

もう、てこでも動かないぞ!と決意の滲んだ顔でソファーに座るいずみ。
百合子がパクパクと口を開け閉めして、いずみに何か言おうとするが、「ひゅぅ」と小さく息を吸い込んだまま、何も言わずに口を閉じた。
そのまま、じいっといずみを凝視する百合子に、いずみは居心地悪げに身じろぎする。
「あ…あの…?」
そう問うようにして、声をかければ、百合子は、まるで自分が初めていずみを凝視していた事に気付いたかのように目をパチクリと見開き、見開いたまま首を傾げる。
「いくつですか?」
唐突な問い掛け。
当然のように、いずみは戸惑う仕草を見せる。
「…百合子。 ほら、いずみちゃんがびっくりしてる…し、出来るだけ脈絡を付けて喋るように言ったよね?」
そう、諌めるように言われれば、ふわふわと目で兎月原を見て、むぅと唇を尖らせた。
だが、質問の答えを諦める気はないのか、霞がかかったような眼差しのまま「で、いくつですか?」と再度問い掛けている。
「あ…10歳です…」
いずみの答えに驚き、「へぇ…」と一言だけ呟いて、それから「若い」と唸るように百合子は感想を述べた。


いずみは、余りに言葉のタイミングを掴みかねる会話のテンポに、言葉に詰まってしまったようで、その間にも「だって、皆さん気になってたと思うんです。 いずみさんと、初対面の方も多いんですよね? 私含め。 あんまりにも大人っぽい事を言うもんだから…10歳って、小学四年生位?」とまた、独特のテンポで言葉を重ね、百合子は兎月原に顔を向ける。
つまりさっきの言葉は、兎月原の「脈絡なく喋るな」という注意への反論だったのかと気付くが、なんて、脈絡のない…と冥月も目を白黒させずにはいられなかった。
「あ、そうです」といずみが答えれば、「そう…」と、まるで自分の世界に閉じこもっているかのような声で囁くと、また凝視するようにいずみを眺める。
そして「…聞かない方がいいですよ?」と小さな声で忠告するように言った。
うんうんうんと自分の言葉に頷くような仕草を見せて、百合子はまたも言葉を重ねる。
「あんまり、良い話はしてなかったもの」



それでも頑なな表情をしているいずみに、もう、ここまで望んでいるのなら教えてやろうと思いつつ、静かな声で「覚悟はあるのか」と涼やかに冥月は問い掛けた。
窓際に立ち、長い睫をした薄い瞼を閉じたまま、冥月は更に冷たい声で問いを重ねる。

「いずみ…といったな? お前に覚悟はあるのかと聞いている」

いずみは、緊張感を身に纏わせながら、それでもきっぱりとした声で、「出来てます」と答えた。
「何のだ?」
「全てを知る…です」
「…哀しい事もか?」
いずみは頷く。
「辛い事もか? 怖い事もか?」
重ねられる問いかけに、コクンコクンと頷くいずみ。

「大人と対等に扱うという事で良いんだな?」

冥月はいずみの意思を確認すると、無表情に口を開いた。


「チーコは三日後死ぬんだそうだ」


「冥月さん!」
非難じみた声をエマがあげた。

いずみが、言葉を失い立ち尽くす。

「知りたいと本人が言っている。 知る意思がある者が、知らぬまま他の者が把握していた悲劇に直面すれば、知らされなかった悲しみも合わせて、余計に辛い。 覚悟はあるといった。 だから、伝えた。 知ったからこそ出来る事もある」

冥月は、厳しい声音でいずみに告げた。

「考えろ。 いずみ。 知りたがったのはお前だ。 だから、知った以上、私たちと一緒に考えてくれ。 圧倒的な事実に際して、それでも自分が何を出来るのか」

いずみは目を見開いたまま、小さく体を震わせている。

ショックだったのだろう。
随分と仲良くなっているように見えた、チーコといずみ。


「うぃひぁぁははぁあ!」

無邪気な笑い声が書斎から聞こえてきて、いずみがびくりと肩を震わせた。

可哀想だとは思うが、彼女が欲した事実だ。
伝えた事に、一切の後悔はない。
現実は、時として、残酷で、どうしようもない姿を眼前に晒す。

死ぬんだそうだよ。 チーコは。

だからこそ、出来ることを。
だからこそ、彼女の為にありったけの幸福を。

冥月はそう決めていて、きっといずみも、同じ決心を抱くだろうことを確信していた。

「どう…しよう…も、ないんですか?」
いずみが掠れた声で言った。
「ど…うしようもないなんて事は、ないと思うんです。 そんな、ねぇ、だって、チーコは…」

いずみが拳をぎゅうっと握り締める。

「チーコは、子供じゃないですか。 子供が死ぬなんて…そんなの、おかしい…」

いずみの言葉に、皆一様に口を引き結ぶ。

ふいに突きつけられた言葉に響きに、間違いなく冥月は、戸惑った。

少し、麻痺していたのもある。
冥月は、この日本に渡ってくる前に、たくさん過酷な運命に翻弄される人々を見てきたので。
組織に理不尽に命を奪われる人々を見てきたので。

一切の咎なく、苦しみぬいて死ぬ子供を幾人も、幾人も目の当たりにしてきたので。

なんだか、この悲劇を悲劇として捉えるアンテナが麻痺していて、そこを強く揺さぶられた気がしていた。

理不尽だけど、命の終わりの訪れは、誰にも測る事は出来ず、皆一様に、唐突に失われる命を眼前にすれば「理不尽」だと呟くのだろう。

そもそも、命の存在そのものが、理不尽の果てに存在するものなのかもしれない。

いずみが、皆の視線に立ち竦み、どんどん顔を赤くしていった。
うろたえたように視線を彷徨わせ、無理矢理捻り出したような冷静な声で「…だから、良い大人が雁首そろえて、3日しか保たないとかいきなり泣き言を言ってないでベイブさんに泣きつくなり何か手が無いか尽くしてからにしましょうよ。 彼女の命を諦めるのは」とまるで憎まれ口のように皆の顔を見回しながら言い放つ。

ベイブ?
聞きなれぬ名に一瞬首を傾げかけ、そういえば黒須が己の上司の名として口にしていたっけと思い出す。

「ベイブ(赤ん坊)」

ふざけた名だとは思ったが、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。

誰も、いずみの目から目を背けなかった。
誰も、彼女を言いくるめようとはしなかった。

「いゆみぃ?」

チーコの声を聞いた瞬間、いずみの表情が一変した。
険しさの一片もない、優しい微笑み。

ああ、凄い。
やはり、出来た子だ。
冥月は素直に感嘆する。
何一つの不安も、チーコに与えたくないのだ。
自分の役割を明確に把握し、自分に徹底させている。

「なぁに? チーコ」

穏やかな声でチーコに問い掛けつつ、パタパタとチーコに走り寄っていく。
エリィが開いた雑誌を見せ、写真に写るは、鮮やかな青い海と、崖の上に立つ白い灯台。
「あのな、チーコ、この、潮岬行きたいそうなんだよ。 あたいも、千剣破も、エリィも賛成なんだけど、山口県にあって、ちょっとばかり遠いんだ。 日帰り旅行じゃ済まないし、多分ニ泊三日位の日程になる。 今って、いずみ、GW中だっけ? チーコが、お前と行きたいって聞かないんだけどさぁ…、良かったら、いずみも付き合ってくれるか?」
竜子に問われて、間髪入れずに「もちろん」といずみが頷けば、チーコが嬉しげに「ひゃぁ!」と声をあげ、背後に並ぶ千剣破達を交互に見上げてきた。
あんまり嬉しそうなものだから、思わず微笑み返す。
「良かったね、チーコちゃん」
エリィの台詞にチーコが頷いた。
「んじゃ、いずみも、お父さんと、お母さんに許可取らないとな?」
嵐の言葉にいずみが「はい」と素直に頷く。
「他のメンツも、三日間は大丈夫なんだよな?」
そう彼が問い掛ければ、それぞれみんな頷いた。
「うん、あたしは大丈夫! んで、チーコちゃんの希望により、山口県の潮岬は、絶対、絶対行くの決定ね?」
エリィの書斎の扉の前に立ったままの呼びかけに、翼は頷きながら「じゃ、一旦解散かな? みんなそれぞれ用意があるだろうし…」と全員を見回す。

皆、異論はないのだろう。


冥月が素早く視線を走らせる。

エリィ、翼、そして黒須誠。

ここに留まるようにという意思を乗せた眼差しは、窓の外にある不穏な気配を既に察していたらしい面々には、正確に伝わったらしい。
それぞれ微かに頷いて、(中々ハイレベルな面々だ)と、このメンバーを選出した武彦に感謝の念を抱く。

別段、冥月一人で片付く相手だったが、この先どんどん過酷さを増すだろう追っ手の事を考えると、ここらで一つ実力試しと行きたかった。

ふいに、外の戦力分布図に大きな変化がある事を冥月は察した。

道沿いに待機していた男達の気配が瞬く間に消えていった。
(…なんだ?)
一瞬訝しげに視線を彷徨わせ、唐突に絶たれた気配の行方を追って、影へ自分の意識を集中させるも、彼らがどうなったのか、咄嗟には分からない。

(誰かが…彼らを倒した)

それが一番しっくりくる回答だった。
殺されてはいないようだが、どうも意識を失っているように見える。
一体誰が…?

竜子やチーコ達が「おやつ買う暇あるかな? チョコ買ってやる、あと、あと、ポテトチップスと…酢昆布も欲しいよな…」とか、「ひっぅあふぅうう!」と嬉しげに言い合っている。
「えーと」と翼が人数を数え、「11人か…結構な人数だな…」と呟いた。
「あれ? 零は?」
そう竜子が問い掛ければ、「今回は、兄さんの手伝いに専念して、情報収集の面から皆さんのお役に立とうと思うので、お留守番です」とサラリと答える。
それから、零はチーコの傍へとしゃがみこみ、「楽しい旅をね?」と微笑みかけた。
気丈な笑みは、悲しみの雫を一粒たりとも滲ませはせず、まるで、本当にただ、朗らかに旅立ちを見送る者の笑みそのものだった。

強い。

冥月は心中で唸る。
死出の旅。
そう知りながらそれを微塵も感じさせない、零の笑顔。
彼女の気丈な笑みの為にも、チーコの幸福の為にも、冥月は、全力を持ってこの仕事に取り組む事を決意した。

「じゃあ、今から一時間後。 駅前のロータリーで集合な?」
腕を組み、今まで黙って事務所内でのやりとりを聞いていた武彦が総括するようにそう声を上げる。
「三日間分の旅行の用意だからな? でも、あんま荷物は多くすんなよ」
武彦の言葉に頷いて「移動手段は電車ですか?」といずみが問えば「いや、まぁ、それは見てのお楽しみだよ」と武彦は含みを持った台詞を言った。
そういえば、エマが用意してくれるんだっけ?と視線を送れば、彼女も何だか意味ありげな笑みを浮かべていて、なんて喰えない興信所なんだろうと少し呆れる。
「いずみは、ご両親にちゃんと説明すんだぞ? 連絡先は…」
「あ、私の携帯番号教えておくわ」とエマは挙手し、「もし、必要だったら、お家に説明のためにお伺いしてもいいけど?」と心配そうに顔を覗きこんだ。
その気の回りように、思わず感心すれば、「あ…大丈夫です。 そんなお手数かけられません」と丁寧に断りを入れるいずみに、冥月は再び目をパチリと開いていずみの顔を凝視する。
やはり、いずみは、ちょっとデキすぎだ。
言葉遣いとかが、大人びすぎている。
これで大人の女性になったらどうなるのだろうと、少し背筋が寒くなった。
「じゃあ…エマ…よろしくな」
そう言われ、「任せて」とエマが頷けば、武彦は眩しいものを見るような目でチーコを見て「気をつけてな?」と優しく言った。
「あぅぃ!」
チーコが手を挙げ、大きな声で返事をする。
冥月は、そうか、武彦も、これがチーコと最期の別れなのかと気付き、何だか切なくなった。

ここで、武彦と零はチーコの為に出来るだけの事をしてくれる。
彼らにしか出来ない事を。


「では、チーコ、いずみ、エマ、それに、竜子と…百合子も、途中まで兎月原に送ってもらえ」

冥月がそう告げた。
兎月原が微笑みながら立ち上がる。

頼んだぞという意思を乗せて、その背中を見れば、ぞろぞろとチーコ達と見送る為に零が出て行くのと入れ替わるかのように、一人の青年が現れた。

「ご…め…なさ…ぃ…! お…そくなった…っ!」

途切れ途切れの声。
赤く、長い髪が揺れている。

まるで、炎のような。

五降臨時雨。

業界でも、最早伝説級の実力を持つ、冥月と同じく元組織付の「始末屋」。
滅多に仕事を請けはしないが、殺しの腕にかけては神業級。
前回顔を合わせた際には、日本での業界分布図にまだ詳しくなかった事もあり、彼があの「魔人」だとは気付けなかった。

まぁ、気付けなかったのは、冥月の情報不足が原因と言うよりは…。

ほけほけとした時雨の表情を眺め、一つ溜息。

天然としか言いようのない性格が、伝え聞いている恐ろしげなイメージとのギャップが激しく、まさか、この五降臨時雨と、殺し屋五降臨時雨が同一人物等と気付けなかったという方が大きい。


そうか、彼かと、冥月は察する。
先ほど、外で待機していた男達の気配を絶った張本人。
きっと、道すがら不穏な連中に気付き始末を付けてきてくれたのだろう。

なんとも心強い味方の登場に、冥月は密かに安堵し、随分と今回の件は武彦の気を遣ってくれていると、賞賛の眼差しを送る。




見上げていると首が痛くなるような高い背をした時雨はひょいとチーコの前にしゃがみこみ「チー…コ…?」と首を傾げた。
チーコがこくんと頷く。
すると、全身の力が抜けるような、人懐っこい笑みを浮かべて、チーコの空いている手を握り締めて、ぶんぶんと振る。
「は…じめま…して、ボク…は…、五降臨…時雨。 時雨って…呼んで…ね?」
首を傾げてそう言いそれから、今から出て行く所と言わんばかりの様子のチーコ達を見て眉を下げると、まるで置いて行かれる子犬のような目をしながら「何処…か、行く…の…?」と問いかける。
「はい、ちょっと山口県まで」
冷静な声でそう告げる百合子に、益々困ったような顔をして、「山口…県…?」と時雨が呟けば、「百合子…唐突にそれじゃあ、時雨さん困るだろ? えっと、チーコの事で来て下さった、興信所のスタッフの方ですよね?」と兎月原が問い、時雨が慌てて頷く。
そんな入り口での遣り取りを見かね、「時雨! こっち来い。 全部説明してやるから」と武彦が声を掛けた。
コクンと頷いて、それから忘れてた!と言う風に、時雨がポケットをごそごそと探り出す。
「こ…れ…」
そう言いながら差し出した掌には、色違いの、髪留めのが二つ。
セットになっているのだろう。
キラキラと光る、ピンクのプラスチックのハートと、赤いハートがついた髪留めに「可愛い」といずみがが呟けば、にこっと時雨は笑ってまずは、チーコの髪に一つ着けた。
「は…ふぃぅぅ…!」
びっくりしたような顔をして、時雨を見上げたチーコの頬が見る見る真っ赤になっていく。
「着ける…と、もっと……かわいい…」
時雨がそう褒めれば、チーコは真っ赤な顔のまま、「あぅ…ぅ…あぅ…」と何も返事が出来ず、まるで、時雨の目から逃げるかのように、エマの後ろに身を隠した。
「あぅぅひぅ…」
「あら、照れてるの?」
エマが愉しげに笑う。
その後、いずみの髪にも手を伸ばし、時雨がもう一つ、ピンク色の髪飾りをつける。
「…うん…可愛い…」
そう言う時雨に、きっと髪留めはチーコのものだと勝手に思っていたらしいいずみは目を見開きながら彼を見上げれば「おそろい…友達…だから」と言って、にこにこと嬉しそうに笑った。
いずみは、手を伸ばして髪留めを触り、それから「ありがとう…ございます…」とお礼を言う。
そういう姿はやはり年相応の女の子で、なんだか冥月は安心した。
チーコがエマの後ろからひょこんと顔を出して「ぅぁぅぁあ!」と嬉しそうに自分の髪飾りを触った後、いずみのを指差した。
「そうね、色違いのお揃いね」
いずみは頷いてそう答え、「ああ、凄く似合ってる」と兎月原も蕩けるような声で褒めていた。


「では、参りますか」

そう言いながら扉の外を指し示す兎月原に頷き返し、チーコ達が事務所を後にする。


「さて…」

非戦闘員が事務所を後にするのを見送ると、何処か物騒な声で冥月は声をあげ、「では、片付けの時間だ」と宣言した。

「片付け??」
「何をだ??」
キョトンとした声を、嵐と千剣破は同時に上げる。


「お前達、どんな能力を持っている?」

冥月に指差させば、千剣破「み、水だったら、自由に扱えます」とどもりつつも答えた。
嵐は肩をすくめ「何も? ひけらかすような能力はねぇよ。 まぁ、バイクの運転には自信があるが、あとは少々、運動神経が人より良い位だ」と答える。

うんうんと頷いて、まぁ、大丈夫だろうと大雑把に判断すると、「分った。 では、自分の身は、おのおの自分で守るように」とだけ告げておく。
乱暴な言葉。
「「はい?」」
声を揃えて問い掛けてくる嵐と、千剣破を無視して、今度は時雨に顔を向ける。
「何匹片付けた?」
時雨の戦果を問えば、彼は冥月がここへ来るまでの彼の活躍を察している事に驚く素振りも見せず、「五人…あ、ちょ…、ちょっと待って?」と、言いながら指折り数え始めた。
「えーと…えーと…多分、7人…」と時雨が心細い声で言えば、「上出来だ」と冥月は満足げに頷く。

総勢20人だったから…。

「では、残り、13名。 こちらは、7名。 楽勝だろう? 早い者勝ちだ」

そう宣言し、、冥月はこれ以上の説明は無用としゃがみこみ、自分の影に手を「突っ込んだ」。

「んあ?!」

声を上げる者を無視し、冥月は影から一人の男を白い手に引っ掴まえて、引きずり出す。
そのまま胸倉を掴み上げ、「組織を潰されたくなければ引けとボスに伝えろ。 弱小でも“黒冥月”の名は知っているだろう」脅し、冥月は窓から放り出した。
「な?! ななな?! なっ?!」
冥月と窓の外を交互に指差す嵐に顔を向け、独り言のように、「まぁ、こうやって脅したとて、このまますごすごと帰るわけにも、行かないだろうしなぁ…」と何処か呑気な声で、冥月は言う。
直後、興信所の扉が蹴り飛ばされ、窓ガラスも派手に割られて、複数の男が飛び込んできた。

「ちょっ!! おまっ! なぁつ?!」

何か言いかけて、相手の攻撃を咄嗟にしゃがんでかわした嵐に「おお、凄い、凄い」と拍手を送る。
「冥月! なんで…! 俺が…残ってんだよ!」
流石に、この狭い事務所内で銃を使用すれば、自分の仲間にも当たるという事や近隣の人間の通報は免れないと気付く頭はあるのか、ナイフや直接攻撃を持って、こちらの鎮圧に掛かってくる覆面を被った男たちを、冥月は無感動に眺める。

彼女は、今回「一緒に行くメンバー」の実力や、能力を把握する為にも腕を組んだまま、一切手を出さない構えを見せていた。
影を使って、一人一人の能力を、じっくりと理解していく。

「ちょ…くそっ!」

背を逸らし、幅広のナイフの斬撃を辛うじて交わした嵐が、相手がつんのめったのを見逃さず、「ちっくしょ!」と言いながら、咄嗟に机の上にあった花瓶を持ち上げ、相手の頭を殴りつけていた。

全くの素人と言う割には筋が良い…と感心しつつ、視線を今度は黒須に向ける。
黒須は、骨の在り処すら疑うような体の捻じ曲げ方をして相手の攻撃をかわすと、しなやかな手付きで相手に巻きつくようにして捉え、体を寄せて、鞘に入った黒い小太刀のようなもので、相手の鳩尾をついていた。
危なげのないそのスタイルに、メンツの中でも殊更未知数だった黒須に対しても、とりあえずの安心感を覚える。
どうも、世間ずれした「一般人」っぽさを有しているようにも見えた黒須が果たして、こういう修羅場にどういう対応を見せるのか、推し量りたいというのも、冥月の中には明確な意図としてあったのだが、思った以上に情報が収拾できた事に満足した。

エリィや、千剣破も充分以上の力を持っていて、翼などはちょっと舌を巻くほどの実力者だった。

ついと指を振るい、強い風を起こして相手を机に叩きつけて意識を失わせた翼が、「ふう」と息を吐き出し、事務所内を見回す。
「とりあえず、起き上がってる奴はこれでいないんじゃないかな?」
そう言うのを聞いて冥月は頷くと、「さて、では、こいつらが目覚めても動けないような処置だけは行っておこう」と言い、武彦にロープを用意させた。
武彦と黒須が男達を手分けして縛り上げていっている。

「お ま え は 、分ってたなら説明するか、俺も一足先に、こっから出しておいてくれ!」
そう怒鳴ってくる嵐の声など何処吹く風で「中々筋が良い」等と褒めると、心底嫌な顔をされる。
冥月が「全て片付いたな」と頷けば「事務所内は滅茶苦茶だがな」と恨めしげな目で冥月を武彦がじとっと眺めてきた。
「私のせいじゃあるまいし、そのような目で見るな」と獣を追っ払うかの如く、しっしっと手を振った冥月は(まぁ、ここを戦闘の場としないで済む方法も幾つかあったのだが、面倒だったしな)と心の中で嘯いて、「さて、追手はまだまだ掛かると見て良い。 私の名前の神通力で、準備にそこそこ時間はかけてくるだろうが、追いつかれれば戦闘は避けられないだろう。 健闘を祈る」と他人事のように言う。
そして、想像以上の強者揃いである面々に、冥月は軍師の如くの眼差しを走らせると、にいっと嬉しげに笑ってみせた。


「武彦、後始末は大丈夫だな? 警察にでも任せれば良い。 この先の襲撃が心配なようなら、また別の人員でも呼んでおけ。 お前の知り合いならば、充分対応出来るだろうが…まぁ、もう、ここには来るまい」

チーコの確保が目的なら、あからさまなまでに彼女が不在のこの事務所に何か用があるとは考え難い。
口封じも何も、武彦とて、裏の業界ではそこそこ知れた名前だ。
彼が抱えるスタッフの実力とて、得体が知れない分彼らにとっては脅威だろう。
勿論、冥月もその脅威の算段内に含んではくれるのだろうが、武彦がよほど派手な行動をしでかさない限り、多分彼に対して危険が及ぶとは思えない、
報復活動とて、チーコの件を片付けてから向こうとて行ってくるだろうし、まぁ、そんな気が起こらぬほどに、今回の旅の要所要所で相手を脅しつけておこう。
そこまで考えを巡らせていると、翼が肩を竦めて、「じゃ、僕達も一旦解散する事にしよう」と言い、そして、ついと冥月を振り返り、「我々はご信用いただけましたか?」と何処か皮肉げな調子で問うた。
ああ、やはり、冥月が彼らの実力を推し量る為に、この戦闘を仕組んだ事はバレているかと内心舌を出しつつ、冥月は、涼しげな顔で「想像以上だ。 翼も、凄まじいな。 期待している」と笑って告げた。


準備と言っても、影に何でも入れてあるし、いつでも身一つで何処でも行けるようにしているので、然程の用意もなく集合場所へ向かう。

辿り着いたその場所には、変わったバスが駐車してあった。

「羊…バス?」

思わず、冥月が口をポカンと開ける。
白い車体には羊の顔がペイントされ、横原の部分に「××幼稚園」としっかり幼稚園名が入っている。
黒須がバスから降りつつ、「よう。 来たな」と片手を挙げると、頭を掻きながら言った


「幼稚園からの払い下げらしい。 興信所が昔請け負った依頼を、解決したのはいいが、依頼者が報酬払えなくって、それで、代わりにってこれを置いて逃げたんだとよ。 依頼主が幼稚園の園長だったそうだが、経営が立ち行かなくて、潰れちまったんだとさ」

なんとも目立つ外観だが…冥月は肩を竦め「まぁ、だが、このバスに、まさか、殺し屋やら、物騒な面々やらが乗り込んでいるとは思うまい」と判断すると、「誰が運転するんだ?」と黒須に問い掛ける。
バスを運転するには、当然大型免許が必要なわけで…と思いつつ聞いてみれば、何でもない事のように、「んあ? いや、俺だけど」と返答が帰ってきた。
黒須の答えに目を剥いて、「ひっさしぶりだから、なんか、感覚掴むのに時間掛かりそうだな」なんて怖い事を言っているのを聞き、冗談ではないのだと悟ると、冥月は思い切り疑いの篭った声で「大丈夫なのか?」と問うてしまう。

陰険・陰惨・得体が知れない・不気味。
咄嗟にそれだけ並べ立てられる容姿を有した黒須が、運転手のバス…。

なんだか、無意味に「妖怪バス」などと言う、ファンシーなんだか、怖いんだか掴み損ねるような名称が思い浮かんだ。
物凄く、本能的に、「バスの運転席に座っている黒須」っつう図が怖い。

「は? 俺、一応、元都バスの運転手だぜ?」とさらりと黒須に答えられ、先程の興信所での手馴れた敵への対応から、一般人のように見られるという評価を、ころりと「やはり何処かの組関係者か」と変動させたと言うのに、これで、またも全く分らなくなった。

都バスの運転手が、なんでマフィアの構成員と対等以上に渡り合えるんだ。
マジマジと眺めてしまう冥月に「なんだよ」と黒須が問い返すも、まぁ、この件が終われば、再び会う事があるかどうかすら怪しい相手では在るし、今はチーコを守る事に専念すれば良いかと思い直し、様々な謎を放置して「いや、乗り込むぞ」と一声声を掛けて車内へと足を踏み入れた。



全員が無事揃い、バスは思ったよりも平和に出発を果たせた。

流れるように後ろに過ぎ去っていく景色にチーコが歓声を上げていた。
チーコを膝に乗せたエマがその頭を撫でながら鼻歌を歌っている。 ハスキーな声が優しく、穏やかな旋律を奏でるのが心地よくて、冥月が視線を向ければ、エマは少女のように微笑んで「楽しいね」と斜め向かいに座るいずみに言っていた。
青い空がどこまでも続いていて、初夏の日の光が優しく窓から差し込んでくる。
「ぁううぃぅぅ?」
「ああ…あれは、つつじ。 綺麗でしょ? もっとたくさん咲いてるとこにも連れてってあげるからね?」
「ひぅうあぃぃぃー!」
「ああ、はいはい、じゃあ、なんの歌が良いかしら?」
明らかにスムースに会話を交わしているエマに驚けば、千剣破が「チーコちゃんの言葉、もしかして分るんですか?」と、問い掛ける。
「んふふ、自慢じゃないけど、このエマさんは言葉に関しちゃエキスパートよ?」
そう言いながら胸を張り、それから傍らにある鞄から大学ノートを一冊引っ張り出した。
ペラペラと開いて見せてくれると、そこにはびっしりとメモ書きがしてあって、急いで書いたのであろう走り書きの状態であるというのに、それがとても読みやすい字である事にまず驚いた。

「チーコちゃんが住んでた島の位置をね、黒須さんに聞いてきてもらったの。 チーコちゃんが喋ってる言語が何処から伝わってきたものなのか知りたくてね? というのも、彼女の舌っていうのは、私達とちょっと作りが違って、長さがとても短いの。 喉の構造も違うようで、そもそも人間とは発声方法が違うと考えた方が良いみたい」
エマの言葉に聞き入れば、エマはノートをチーコの頭の上でペラペラ捲りながら喋り続ける。
「だから、彼女の言葉の音は、母音と、ハ行の音、それに時折カ行が入り混じる位で、とても限られてるわ。 これが歌となると、また発声手段が変わってくるみたいなんだけど、そこまでの仕組みはちょっと分からない。 何にしろ、チーコちゃんの種族は会話における音が限られるから、当然語彙も限られてくるのよ」
「つまり、コミニケーション手段が『言語』である事が向かない種族という訳ですね」
翼の言葉に、「その通り」とエマが頷けば「確かに、それなら別のコミニケーション手段が発達して然るべきなのかも知れない」といずみも呟く。
「チーコの様子を鑑みるに、チーコはとても知的レベルが高いと思うんです。 幼い所が目立ちますが、私のクラスメイトにもチーコのような無邪気な振る舞いが目立つ子も大勢おりますし、現に彼女は人間社会に連れてこられて一年程の時間の間に、こちらの仕草を真似できるほど理解し、言葉も殆ど耳で聞く限りはその意味を分かっているように見受けられます」
いずみの明晰な推測に冥月は、彼女の知能の異常な高さを悟り、恐るべき子供だなと、今日一日で何度目かの感心の念をまた抱かされる。
チーコは自分の話だからか、眼を大きく見開きながら、エマといずみに交互に視線を走らせた。
「まぁ、…いずみちゃんから見れば、大概の子は幼く見えるだろうけど…でも、確かにチーコは賢いよ。 その、エマさんの言うように、発声に関しては種族や、器官の構造の違いから、僕達と同じような発声が出来ないから、チーコはチーコの種族の言葉で喋っているんだろうけど、もし発声器官が同じなら、きっと僕らの言葉をマスターしていたような気がする」
翼が唸るような声でそう言った。


「耳が、いいのだろうな…」


目を閉じ、眠っているかのように静かに座席に身を預けていた冥月はぼそりと自分の推測を述べる。
「歌を得意とするものは、大抵聴力に優れ、耳で聴くものへの理解力が高い。 チーコは、一年間人間社会で過ごし、耳にする言葉の、音程や、高低、台詞の強弱等から、瞬時にこちらの言っている事の大まかな意図を察し、反応をしているのだろう」
冥月の言葉に、翼が感嘆したような声で「賢いな、チーコ」と言えば、チーコが誇らしげな声で「ひぅぁう!」と声をあげる。
そんなチーコの頭を愛しげな手つきで撫で、「よいしょ」と掛け声かけつつ抱え直すと、「そうね、だからね、これだけ知的レベルが高く、喉の構造から見て『言語による会話コミニケーション』に向かない種族が、それでも何故『会話』によって、コミニケーションを交わしていたか…そこに私は着目したの」とエマはよく通る、ハスキーで耳障りの良い声で言った。
「ああ…確かに、それほど知的レベルが高ければ、自分達独自のコミニケーション方法を発達させていたとしてもおかしくないな」
兎月原が、鼓膜を直接舐るような、官能的な声で「それで、エマさんは、何故、チーコの種族が、それでも『会話』によるコミニケーションを発達させたんだと考えてるんです?」と問い掛ける。


茶色の髪に日の光が透けていて、これぞ「女にモテる男の見本」のような、美形ぶりに冥月は、「声どころか容貌も甘ったるい」と視線を逸らした。
エマは、蕩けた顔で兎月原に見惚れていたようだったが「ハッ」と気を取り直し、「あ…いやいや、あのね、つまり、言葉が『伝来』したんじゃないかな?と思ったのよ。 人間からね」と答える。
「…ああ! そうか。 それなら、納得です」
大きく頷くいずみ。
「チーコの住んでいる島に、難破した船の乗組員等が流れ着いた可能性はゼロとはいえない。 どういう海流が、島の周囲を囲んでいるのかは見当がつきませんが、人間という会話によるコミニケーションを主にしている種族が、チーコ達の祖先が住む島に流れ着き、『言葉』を伝え、それが、チーコの代にまで伝わったと考えるのが自然ですね」
「そう、その通り。 言葉が伝わったのがどの位の時期なのかは見当がつかないけど、推測だと、かなり昔の事だと思うの。 ほら、今の時代だったら、言葉を教えたりとか、そういう事の前に、世紀の大発見としてチーコちゃんの種族を世間に公表したりとか…」とそこまで言って、エマの表情が徐々に曇り、それから口を一度噤む。

つまり、今の時代に人間に発見されてしまったから、チーコ達の種族の、悲惨な現状があるのだ。
昔ならば、難破し、無人島に辿り着けば、そのまま通信手段もなく、救助も求められず、その島で生を終えるしかなかったのだろう。
きっと、昔、チーコの島に辿り着いた人間は、彼女たちの種族と仲良く暮したに違いない。
人を疑わず、すぐに誰にでも懐き、笑顔を向けるチーコを見ていて冥月は確信する。



「…そうすると、チーコちゃんの言葉にはルーツがあるという事ですよね? 地球上にある、何処かの国の言語が、彼女たちの言葉の成り立ちとなっているって事ですか?」

百合子が、空気を変えようとしてというよりも、全く場の空気読まないままに、素直に口を開いたといったような声音でそう自分の意見を述べる。
だが、彼女のほのほのとした声に、明らかにエマはほっとしたような表情を見せ、「そう! その通り! 私、こう見えても言語オタクでね? 黒須さんに、彼女の島の場所をベイブさんに聞いてきて貰ったのよ」と話の続きを始めた。
「で、先程まで述べていたような考察からチーコちゃんの祖先が人間とファーストコンタクトした時期を割り出してみると、航海技術が長期航海に耐えられるほど発達し、それでいて情報技術や、通信手段が今ほど栄えてない時代…。 そう考えてみると…大体15世紀中ごろから、17世紀中頃じゃないかな? と私は考えたわけ」と滔々と説明を続けるエマに、「大航海時代!」といずみが手を打った。
「だ…い…こうか…い?」
時雨がきょとんと首を傾げる。
「なんか…凄く…辛い…時代だった…とか?」
そう無邪気に問う時雨を見て、百合子が「ああ、それは、『大後悔でしょ』と突っ込んであげたいのだけども、突っ込んだら大火傷!って感じだから、何も言いたくないっていう、私の気持ち分って貰えます?!」と兎月原に訴えている。
「え…百合…子…火傷? あ…、大丈夫…? 大丈夫…?」
眉を下げ、心配そうに自分に手を伸ばしてくる時雨に、「いや、もう、あの、え、ええ、ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」と、最終的に謝っている百合子を見て、何だか気の毒な気持ちに陥りつつも、助けようもなく、冥月は同情の気持ちを込めて百合子を眺めた。


「大航海時代って言うのは、スペイン、ポルトガル等のヨーロッパ人が領土拡大や、当時は金と同じ重さの金と等価で取引されていた香辛料を求め、インドとの直接貿易の為に、アジア大陸、インド大陸、アメリカ大陸へと航海による海外進出を盛んに行っていた時代です」
いずみの説明に「…あ…うん」ととりあえず頷いた時雨は、眼をパチパチさせながらマジマジといずみの顔を凝視している。
翼が「本当に、君が小学生だっていうのが、信じられないよ。 見た目はそんなに可愛いのにね」という翼の台詞に冥月は賛同の意を表したかった。
「ああ、では、チーコの言語の元は…」
そう顎先に指を当てて、兎月原が「ヨーロッパ圏の言語」と言えば「そう、彼女の言葉のルーツは、ポルトガル語よ」とエマはにっこり笑ってノートを閉じた。
「言葉の元さえ分れば、言葉の響きや、選択されている音の強弱からも、チーコの言葉の意味が推察できる。 幸い、ポルトガル語なら習得済だし、彼女の言葉をこうやって書き留めて、翻訳しつつ、ちょと理解してこうとしてるの。 簡単な通訳くらいだったら出来ると思うわ」
そうエマが言うのを、出会ってから数時間でも、よくぞまぁ…と感嘆すれば、皆のその無言の驚きを理解したのか、「いや、まぁ、だから、えーと、言葉が好きなの。 趣味なの。 だからよ」とヒラヒラと手を振りながら、凄まじい事を何でもない事のように言って纏めた。

「エマさんって…ほんっと…尋常じゃないよね」
千剣破が心底の声で言えば、エマも心底の声で「いや、でも、私、ほら、みんなみたいに、『破壊光線!』とか『テレポーテーション!』とか出来ないから…」と否定する。
即座に、千剣破が「いや、幾らこのメンバーでも多分、誰も『破壊光線!』とか撃てないから。 『テレポーテーション』とかしないから」と、速攻否定し返した。
とはいえ冥月としては、先ほどの事務所内での攻防にて、『破壊光線』に近いことをやってのけられるメンバーが入り混じっているのを知っている為に、まぁ、何だかんだで「尋常」な人間の方が少ないよな、この車内と思い、改めて見回して「あ、いや、いないのか」と重ねて納得する。
ただ、自分自身の事は、当然省いて考えている訳で、他の面子からも「尋常じゃない」と自分が認識されている事など当然知らぬ気に、「まぁ、自分の事は自分では分からないものだしな」なんて、まさしく己に当てはまるような事を、腕を組んで他人事のように冥月は考えていた。

「う、うう、なんか、凄い…だって、興信所の事務員さん…なんですよね?」

百合子が両手を組み合わせながら問う。
「ん? そうよ? もう、雑用ばっか! ていうか、ボランティアだし! 給料殆ど払ってくれないし!」
そう訴えるエマを、またパチパチと瞬きして眺め百合子は、「そんな…エマさんがボランティアだったら、私お金払って勤めさせて貰わないといけない」と呟いて、「あ、それはいいな」と兎月原が笑った。
「ま、エマさんは、ほら、ね?」
にやっと、笑う千剣破を、「何よう」とエマが睨んでくる。
「ボランティアっていうかぁ…武彦さんをお手伝いしたいだけだもんね?」と首を傾げて言えば、ピッと片眉を上げて「からかわないのっ」と千剣破は怒られた。
「う、うう、どうしよう、どうしよう」
おどおどと見回す百合子の様子に「どしたの?」と、黒須のすぐ近くに座って道をナビ係をしていたエリィが振り返り、百合子は「えーと…」と言いつつ、自分の網棚の上にあげらている鞄をごそごそ探り出す。
「…事務員らしく…こんなものを作ってきたのですが……」
そう言いながら取り出したるは、十数ページ程の小冊子の束。

「あの…しおりです」
そう言いながら渡された冊子には、可愛い兎のイラストやら、今回参加するメンバーのミニイラストが描かれた表紙が付けられていて、「かわいい…」といずみが呟き、千剣破も、「きゃぁ!」と嬉しげな声をあげて、ページを捲りだした。
「ね、ね? この子があたしだよね?」
黒髪の女の子がニコと笑っているのを指差せば、百合子が恥ずかしげに頷いた。
「うあ、上手! ほら、時雨さんなんかもそっくり!」
指差す千剣破の指先を眺め「うわ…ボクだ!」と時雨も楽しげな声を上げる。

「旅行と言えば…しおりです!」
妙な力強さを持って断言する百合子から冊子を受け取った面々は、思い思いの表情で冊子を捲り始める。
「頂戴、頂戴!」
そう手を伸ばすエリィに、廊下側に座っていた冥月が手渡せば、「ほんと、凄い可愛いー!」と言いつつ、運転席に座り黒須に冊子を手渡していた。
にこぉと笑って、自分の似顔絵の部分を指先で撫で「ゆぃこぉ! はぅぃぅ!」と百合子に満面の笑みを見せる。
「注意事項とか…あと、スケジュールなんか書いてみました! 緊急の連絡先として、エマさんの携帯No書かせて貰ったんだけど…」
「オッケー! はぐれたり、迷子になったら、連絡頂戴ね?」
そう声を掛けるエマに、苦笑を浮かべる者もいれば、大真面目に頷くものもあり、「しおり」の登場に俄然盛り上がる旅行ムードに、何だか冥月は微笑ましくて和んでしまう。
ぺらぺらと読み込んでいけば、旅行の予定表なんかもあって、よくもまぁ、あの短時間にと百合子に対して感嘆の念を抱いた。
「わ、でも、これ、ほんとに便利。 メモ用紙にも出来るようになってるし…、凄い…あはは、嬉しい! これから行く場所の、見所とかも書いてある。 よく一時間で作れたわねぇ…」
感心したように言うエマは「凄いわよ、百合子さん」と心からの声で言い、冥月も、あれだけ、自分に何が出来るのか弱気な様子を見せておいて、これだけの事を懸命にやってきていた彼女に感心する。
百合子は嬉しげに「よかった、喜んでもらえて」と胸を撫で下ろし、にこっと幸せそうに笑った。



夕時。

高速のパーキングエリアで、夕食がてら休憩を挟む。
チーコの外見の特徴を考慮し、車内で休憩をとる事にした。

買出し班が、色々な物資を調達しに行っている間に、車内を食事が取りやすいよう座席を回したりして、調整を始める。
エマが、バスの横原にある荷物置き場から、車内に簡易机を運び込もうとしているのを手伝う為に手を伸ばす。
「重いわよ?」と言われるものの、彼女が一人で運んで来れたものだからと油断して請け負えば、想像以上の重さに一瞬よろけた。

「大丈夫?!」

そう驚いたように問われて頷き返しつつも、よくもまぁ、これを一人で…と驚嘆する。

他にも色々なセッティングを行っているうちに、買出し班も戻ってきて、みんなでお待ちかねの夕食タイムと相成った。



「じゃ、じゃーん!」
エリィがそう言いながら、大きな紙袋から幾つかのタッパーを取り出した。
「時間ないからさぁ、冷蔵庫の中のもの詰めて、あと、短時間で作れるものだけ作ってきたんだけど…」と言いつつ、バスの中央座席にエマが持ってきた、小さな折り畳み机の上に広げる。
チェックの可愛いランチョンマットを敷いた上に並べられた料理の数々は、とても短時間で揃えたとは思えない彩の良さと、明らかに凝った料理の数々で、「えへへ、そこのポテトサラダとかは、結構自信作」と言いつつ、薦められるままに箸を伸ばせば、ほくほくとして、しっとりとした舌触りに、思わず目を細める。
「山菜おこわのおにぎりもあるからねー」と、エリィが言って差し出すのを受け取って、「へぇ、旨いもんだな」と黒須が褒めれば、「えへへへ」と嬉しそうに笑って、それから、「こうやって大人数で食べるのって楽しいね」と、気持ちの篭った声で言った。
チーコが、片方の手におにぎり、片方の手にから揚げをさしたフォークを握り締めながら、「はぐはぐ」と懸命に口を動かす姿を見て、「はい、喉に詰まらせないようにね?」とエマが注意している。
魔法瓶に入れてきたという、お味噌汁を啜りつつ、ああ、確かに、ご飯は誰かと食べる方が美味しいと強く感じた。
一人で食べるご飯よりも、たくさんの人と一緒に食べたほうが美味しい。
空豆と明日葉の掻き揚げを食みつつ、「時間がたってもサクサクしてるのね。 また、コツ教えてよ」とエマがエリィに強請り、時雨がチーコに負けない位口いっぱいに食べ物を詰め込み、片手に握り締めた五平餅にもパクついている。
百合子と千剣破は、ひたすら「美味しい、美味しい!」と感想を言い合い、それぞれ「このロールキャベツとか、もう、お店出せるよ」とか「この白和えもサイコー」と感想を述べ合っていた。
翼は、流石と言うべきかエリィを「あなたみたいな方の恋人になる男性は世界一の幸せ者だ」と絶品の微笑みで褒めており、そうなると当然のように兎月原が澄ました顔で、「ああ、願わくば、俺もその、世界一幸せになれる男候補に名乗り挙げたいものだ」なんて甘い声で告げている。
何故女性に生まれてしまったのだろう?と思う程の、ハンサムっぷりを発揮する翼と、甘いマスクに似合った甘い声で賞賛する兎月原の前に、頬を染め、へにょへにょと身をくねらせながら、「ううう、やばい、照れすぎちゃう!」とエリィは喚く。
竜子と嵐も、バイクでの走行と言うのは体力を使うのか旺盛な食欲を見せ、ブロッコリーの塩茹でに、レモンの手作りドレッシングをかけたものを皿に山盛りに取りながら、「うめぇ…! 野菜って正直そんな好きじゃなかったんだけど、こうやって喰うとうめぇんだな」と感嘆の声を上げている。

竹の子のオーブン焼きや、菜の花とあさりを卵でとじたもの等春野菜をふんだんに使った料理の数々に舌鼓を打ち、サービスエリア名物のチープながらも、暖かで癖になるようなテイクアウトの品々も綺麗に平らげ、これまた最後に暖かな緑茶を啜って、大層賑やかな夕食を終える。


「んじゃ、嵐君、交代」



そう言いながら立ち上がったのはエマで「バイク疲れたでしょ? 鍵、貸して」と言いながら有無を言わさず差し出す手に、嵐は目を見開いたまま鍵を渡し、それから「はえ?!」と声を上げた。
「私、大型二輪の免許持ってるから、交代要員に数えてくれて良いわよ? お昼からずっと走り詰めでしょう。 休憩なさいな。 あ、運転技術は、結構折り紙付きだから大丈夫」と言うエマに、嵐は「いや、そこら辺は疑っちゃいないが…外結構風冷たくなってくる時間帯だし、女が体冷やしたらまずいだろ」と眉を寄せて言う。
エマは首を傾げ、ひらりと軽やかな大人の笑みを見せると、「あら。 優しいのね。 ありがと。 でも、ちゃんと、防寒用にダウンジャケットと革パン持ってきてるし、季節的にもそんなに冷え込まないから、心配しないで」と言い、肩にボストンバッグを提げて颯爽とバスを降りていく。
そんな格好の良い背中を皆で見送って、「あの人…なんでも出来るんだな」と呻く嵐に、「意外な特技発見よね」とエリィも頷いて、「要するに、暇人って事だろ?」と黒須が口を歪めて憎憎しげに言えば、竜子がその後頭部を思いっきり叩いた。
「姐御の悪口言うな! 命が惜しくないのか!」
竜子の物の言いに、「いや、その筋の人じゃあるまいに…」と思えども、うっかり時雨が「やっぱり…、どこかの…組の人だったんだ」と大きく頷いていたりして、確かに肝の据わり方は尋常じゃないが…と冥月は頭痛すら感じ始める。
百合子と、兎月原も「只者ではないと思っていたが…」「やっぱり、その筋の関係者だったのね。 なんで、じゃあ、興信所の事務員を?」と話し合い始めており、心の中で「エマ、すまん」と呟いて、冥月は面倒臭さに負けて、この誤解を解く努力を放棄した。



二日目。


夜通し見張り番として起きていた冥月は、穏やかに眠る面々を見回し、時計を見上げる。
現在五時をちょっとまわったところ。
まだ、眠らせておいてもいいだろうと判断し、再び座席に背中を預けようとする彼女の眼に、チーコの姿が目に入った。
一足先に目覚めてしまったのか、退屈そうに足を揺らしている。

(ふむ)

冥月は顎に指を当て、それから、「ああ、そういえばいいものがあった」と思いたると、倉庫代わりにもなる影から一つ、黒塗りの美しい装飾が施された万華鏡を取り出した。

昔、こちらへ移って来たばかりの頃、フリーの仕事の報酬で受け取った品だった。
聞くところによれば、かなり歴史的にも価値がある貴重な品だと言う事だが、然程興味のない品故、売るアテも見つからないままに、影の中に放りっぱなしにしていたものを、彼女にあげる事にした。

「とんとん」と、影を使って彼女の肩を叩き、振り返るチーコを手招きする。

そろそろと傍によってきたチーコに、にこりともせずに「やる」といって、万華鏡を渡した。
戸惑ったように首を傾げるチーコに「覗いてみろ」といいながら、その穴を指示す。
俯いたまま覗こうとするチーコに、「いや、顔を、そう、天井の方に向けるんだ」と説明すると、チーコは大きな目に万華鏡を当てたまま天井を見上げ、かすかな感嘆の声をあげた。

「ひあぅっ!」

極彩色の美しい世界に夢中になるチーコに「危ないから自分の席に座って見ろ」と優しい声で冥月は言う。

そのまま、自分の座席に腰掛けて、くるくるくると回しながら、じいっと万華鏡を覗いているチーコを眺めていると、いずみも起き出して、彼女の隣に腰掛けた。


そのまま、一緒に覗きだす二人に、「綺麗だろう」と声を掛ける。

頬を紅潮させながら同時に頷く二人に、思わず微笑を浮かべた。

「人から貰ったものなのだがな、暇を潰すのに丁度良い」と告げる。
そして、穏やかな声で、「今兵庫を通過中だ。 神戸市にある水族館へと向かっている。 あと少しで、次の休憩所に着く。 そこで、洗面と朝食を済ませよう」と言えば、再び二人は揃って頷いた。




嵐の提案によって訪れた水族館。
別段一緒に館内を巡って楽しむつもり等はなかったのだが、水族館に駐車してから、ほんの数分後、彼女の影が不穏な気配を感知した。

このバスを追ってきたというよりは、別の指針があるような走行の様子を訝しみつつ、千剣破と時雨を駐車場に、兎月原とエマ、黒須を水族館で入り口に向かわせ、残りの者達に館内を楽しんできて貰う。
どうも一緒に水族館に行きたかった者もいるようだったが、仕方がない。



広い駐車場。
連休中とあって、どこもかしこも一杯だが、バスを停めた第二駐車場という名の広場には、まだまだ、駐車場スペースの空きがある。


つまり、それだけ、自由に動けるスペースがあるという事だ。

何処の水族館でもそうだが、こういった施設は海の傍に建てられる。
水を自由に操れるという千剣破は、堤防の前に立ち、海をバックに此方を援護射撃してもらうことにした。
探ってみるに、まだ、偵察隊といった程の人数の追っ手だが、放置しておくと後々面倒そうだ。
少人数が相手だし人目につかないうち、ここで素早く叩いておこうと考えていた。
時雨が冥月の隣に立ち、哀しそうな顔で「お魚…イルカ…アシカ……ペンギンさん…♪」と唄っている。
「また、自分で行けばいいだろう」
そう呆れたように言えば、「あう…だって…お金…」と言いつつ、自分の財布を見せてこようとするので「いい。 侘しい気持ちになるのが分っているから見たくない」と徹底的に拒否しておいた。

大体、唸るほどの大金を即座に手に入れられるほどの力を持ちながら、それを行使しないのは、この性格によるのだろうと、冥月は考える。
とはいえ、仕事の選り好みが激しい冥月も、同じ事が言えるわけで、結局は似た者同士かと思いかけ、隣で口をあけて「あ…、カモメさん…」等と、空を見上げている時雨の姿を見て「いや、絶対似てない」と即座に己の考えを否定した。

少々目立つ外見やら、力の発現の仕方をするので、
人目につかないとこで敵と対峙したほうが良いと判断しての、こちらの面子であったが、どうにもこうにも緊張感に欠ける。
そろそろ欠伸の一つも出ようかというタイミングで、、黒塗りの車が数台駐車場に滑り込んできた。
威圧感のある車のフォルムに、「如何にもだな」とそのセンスのなさを内心で嘲笑う。
こいつらの目当ては、まぁ、自分だろう。
派手に名乗った事もあり冥月は淡々と自覚する。

実際、このバスの前で、チーコ達を待ち伏せるにしても、こんな連中がたむろしていたら目立って仕方がない。
初めから身を隠すつもり等なく、むしろ、本当に「冥月」がここにいるのかを確かめにきているようにも見え、「やれやれ。 面倒な事だ」と肩を竦めた。

黒塗りの車から降りたのは、粗野な風貌の酷く体格の良い男だった。

バラバラと後に続く男たちも似たり寄ったりの風貌だが、この男が放つ、凶暴な雰囲気が一際際立って感じられる。

「お前が、黒冥月か」

大きな口をにいっと開き、男は何処か好色そうな口調でそう言った。

大きな顎。
あの顔立ち。
噂には聞いている。
K麒麟の幹部の一人だ。
とんでもなく凶暴で、女子供にとて容赦ない悪辣な手腕で知られた名を持っていた筈。

「そうだ。 お前は…『犀牛』か?」

冥月が問い掛ければ、肩を震わせて笑うと「かの有名な冥月殿に名前を知って貰ってるとは、光栄の至りだな」と、荒い声で言った。

「それに、そっちは、五降臨時雨か。 おいおい、もう、廃業したんじゃなかったのか? 伝説めいた伝聞ばかりが一人歩きしているせいで、この目で実際に拝むまでは、実在すら信じられなかったぜ。 で、そんな二人が雁首揃えて、軍隊でも相手にするつもりかよ」

『犀牛』の揶揄に、時雨は一言も答えず、じいっと相手を睨み据える。

「ま、いいやな。 俺にとっちゃあ、そんだけのメンツがここにいるって事のが大事だ。 どんだけの金で雇われてるかしんねぇが、お前さん二人が揃って、化け物のクソガキのお守りもないだろう。 気味の悪いあんな生き物の護衛なんつうつまらん事をなんでやってんだ? ヤキがまわったにしちゃあ、あんまりにもお粗末な仕事じゃねぇか。 俺ぁ、うちのトコのボスに頼まれて、お前らスカウトに来てんだよ。 言い値通り支払ってやるし、女だろうが、クスリだろうが、なんだって好きなようにヤらせてやるさ。 悪い事は言わねぇ、こっちへつきな」

『犀牛』の言葉に時雨が、静かな、だが怒りの篭った声で言った。

「チーコを…馬鹿にするな…」

長大な剣を軽い動作で構え、「竜子と…約束したから…殺しはしないけど……あんまり……酷い事を言うと…我慢できなくなっちゃうよ?」と幼い口調だからこそ、怖気を奮うような事を言う。

冥月も、余りに馬鹿馬鹿しい誘いを一笑に付し、そんな誘いでぐらつくと評価されている事に腹を立てる。
気負いのない様子で相手に向かって構えると「金では、この冥月の魂は買えない。 況や、貴様らのような薄汚い連中に売れるものなど、もとより、持ち合わせておらぬわ」と涼しげに告げ、次の瞬間、瞬く間に、男達は「自分の影」によって拘束した。

即座に「千剣破!」と名前を呼び、彼女の援護射撃を乞う。

水の固いつぶてが男達に降り注いだ。

自分自身、動けぬ相手を地に沈めようと詰め寄りかけた時だった。
人間にはありえないスピードで冥月の傍に寄り、腕を引き掴んだ『犀牛』が、一度冥月の体を上から下まで舐めるように眺めまわすと「いい女だ。 俺の女にならねぇか?」と厭らしく笑う。
目を見開き、その拘束を跳ね除けようとした瞬間には彼は傍におらず、「あいつ、キメラか!」とK麒麟の得意技、動物との融合にて出来上がった怪人である事を確信したときには、戦況不利と判断したのか車に乗って立ち去っていた。
「ちっ」と悔しげに舌打ちする。

次々に剣の峰部分や、柄の部分で急所を殴りつけ、相手を昏倒させながら、時雨が「つまんない…」と余りの呆気なさに肩を落とす。

全て倒したのを確認すると、冥月は肩を怒らせて、
「あの野郎、私に俺の女になれ等と言ってきやがった」と不快気に唸った。
何故か、千剣破と時雨と顔を見合わせる。
そして「勇気あるね」と千剣破が呟いて、時雨がコクコクと頷くのを、横目で確認すると、ギロリと冥月が睨み据えて黙らせた。



「で、どういう事なのよ」
エマがバス車内で唸るように言う。
「どうして、私たちの後をこんなに正確に追ってこれるわけ?」
男たちの中の一人を締め上げてみるも、下っ端だったせいで、要領を得た回答を得る事は出来ず、バス内を総ざらえした所で、盗聴器や、発信機等こちらの行方を追うに有効なものは何も見つからなかった。
実は、エマが事前にチーコの身に纏っていた衣服や、髪、歯の間等に仕込まれていた発信機等は事前に取り去っており、車のナンバー等を把握されたのかと思えど、K麒麟の仕事の下請け等を行うような小さな組に所属しているという男は、ただ、この水族館に向かい冥月達を襲うように指示されただけで、他は何も知らないという。
そもそも、こちらが「バスで移動している事」すら知らなかったというのだから訳が分からない。
事務所でK麒麟について調べ、情報を流してくれている武彦や零も、彼らがどのような情報網によって、こちらの動向を把握しているか想像すらつかないようで、とりあえず、東京で分る限りの事は随時連絡を入れてくれるそうだ。
今でも、黒須には組織そのものの情報を、エリィには道路情報等を伝えてくれているそうで、気付いてはいなかったが、武彦達は、武彦達で協力をしてくれているのだと知ると、やはり心強く思う。
とりあえず車を変えようかと悩んだが、「このバスの存在自体知らなかった訳だし、そういう問題で此方の所在を把握されているわけではなさそうだ」という冥月は判断し、とりあえずは、今の移動方法を続ける事にした。

(さて、何が指針となって私達は追われているのか? 何にしろ、今日中にもう一度位は襲撃がありそうだ)

そう思いつつも、水族館から満面の笑みで出てくる面々を見止めると、おいそれとそんな気持ちを顔に出すわけにはいかず、冥月はいつもの無表情で皆を出迎えた。



「うひぁうぅ、はああぅふぃぃぅ!」
サクサクサクと軽い音を立てる白い砂。
裸足になったチーコが波打ち際ではしゃいでいる。
千剣破や、嵐、いずみと一緒に海で遊んでいるチーコを目を細めて眺めつつ「長閑だわ〜」と百合子がのんびりとした声で呟いていた。
兎月原が、まるっきり猫か犬かを眺めるような目で百合子を眺めている事には気付かないようで、ほやほやほやと、日光の温度にぬくぬくと和んでいる。
冥月は堤防側に油断なく視線を走らせつつ、簡易チェアに腰掛けていた。
真っ黒な衣裳は、初夏の海にはそぐわないものであったが、風にたなびく黒髪を鬱陶しげに片手で押さえる。
露になる細い首筋。
ネックレスの金色の鎖が、巻きついていて、そのしなやかさを強調していた。
じいと此方を見る兎月原の視線に気付き、「何だ?」と訝しげに振り返る冥月に、「いえ。 絵になるなと思って」と如才なく兎月原は答えてくる。
眉を寄せた冥月は「からかうな」と兎月原を叱った。
「いやいや。 本当に。 目が洗われるようだ」と甘い声で言う兎月原に一度ブルリと身を震わせ「お前の声は、甘ったる過ぎる」と訳の分からない文句を冥月は言う。
「…こうやって見ると、ごくごく華奢でか弱げな女性に見えるんだけどね」と、そのしなやかな後姿に兎月原が目を細めれば、「お前も、ただのナンパ男だ」と手酷い言葉を返した。
そして、冥月は更に言葉を重ねる。
「相当デキるだろう?」
愉しげな冥月の声に首を傾げ「あなたのような人に誉められる程の腕は持ってないな」と兎月原も平然と答えてきた。
「くっ」と冥月は喉の奥で笑うと、「ご謙遜をと言った所だ」と皮肉気に言って、「それにしたって、何ともおかしな依頼だ」と肩を竦めた。
「黒須と…竜子…、どこかの組織に属しているのなら、そういう匂いがするものだが、どうにも二人とも群れに属している人間には見えない。 黒須は人間離れした気配を身に纏っているし、逆に竜子は素人同然…依頼人も謎だらけながら、あの二人の上司とか言うベイブという名の者の事とてさっぱり分からん。 そこそこ、様々な裏組織には詳しいつもりなのだが、情報屋であるエリィとて、耳にしたことのない名だという」
「…蛇」
「ん?」
「黒須さんは、蛇の血が混じってるそうだ」
兎月原が意味の分からない事を言った。

蛇?
爬虫類の蛇か?

咄嗟に「なんだ、それは? 蛇と人間の間に生まれたとでもいうのか?」と冥月は嘲笑うような形に唇を曲げる。
そして、「まぁ、だが…」と呟き、「ここに揃う者は皆異能者か…。 そもそも、人間であるかすら危うい者も、ちらほら混じっている。 そう言う意味では、蛇の血が混じる男など、別段驚嘆に値するものではない…か」と独り言めいた声音で呟いた。
「…冥月さんも、人間離れした力を持ってるの?」
百合子がいっそ無邪気なほどの声で口を挟んできた。
冥月は「さぁて、それは、見る人間が判断することだ」と嘯く。
「私が人間の範疇か否か。 最早私にも分からないよ」
冥月の答えに、そよ…と百合子は笑って、「強いのね、冥月さんは」と穏やかな声で言った。
どう答えればいいのか分からずに戸惑えば、そこに彼女は問いを重ねる。
「強い事って冥月さんにとって幸せな事?」
冥月は表情を変えないまま、「分からん」と呟いた。
「強ければ、全てを守れると思っていたが……守り損ねたものもある」
胸に提げられるロケットを握り締め「…そういう時は虚しかったよ。 己の力が」と淡々とした声で言った。

強いとは一体何なのか。
いまだ冥月には分からない。
時々、自分が呆れる程に弱く思えて、そういう時は虚ろな気持ちに苛まれた。
本当に大事なものが守れずに、何が強さか…。

「私は…弱いわ…」
百合子は呟いた。
「弱いから、色々諦めたり、守り損ねたり、立ち止まっちゃったり…まぁ、散々ね。 失う前に手に入れられないの」
クスリと笑って、横目で冥月を眺めると「『強いから』何かを失ったって事はないの?」と、吐き出した。
百合子のその言葉に一度だけ、一度だけ冥月は肩を震わせた。
何だか、心の一番奥底に鋭く切り込まれたような気持ちがした。
髪を潮風に舞い上げると、顎を上げて空を眺める。
そして、冥月は、にこりともせずに、「そもそも、何も持ってはいなかった。 況や、失うものなど何もない」と無表情な声で答え、百合子を見つめた。
真昼の月のような顔だった。
冷たく、儚い顔だった。

百合子は、寂しげに「そう」と笑って、冥月と同じように空を眺めた。

兎月原が、堪えきれないといった様子で、百合子の頭に手を伸ばし、鷲掴むようにして自分の肩へと引き寄せている。

一瞬、「誰か」と思った。

誰か、私の頭を抱いてくれと、私もああやって支えてくれと、望みかけた。

私に弱音を吐かせてくれと祈った。

ロケットを握り締める。

強く。
強く。

もう、いない。


あの人は いない。

茫洋とした百合子の眼差しが青空を見ている。
「兎月原さん」
「なんだ?」
「お腹空いた」

ポカンとした声で百合子が言う。

冥月は一瞬きょとんとして、それから小さな声で少しだけ笑った。
兎月原も、何だかふっと肩の力が抜けて、程なく「ごはんだよー!」という声が聞こえてきた。
「バーベキュー!! いい具合だよ!」
翼が金色の髪を風に遊ばせながら呼んでくる。



お昼も少し回った時間帯。
お腹をぺこぺこに空かせた面々は、めいめい返事とも歓声ともつかぬ声を上げて、既に美味しそうな匂いが漂っている浜辺へと走っていった。


エリィが見つけてくれた浜辺は、彼女が言っていた通り、観光客の姿も地元の人間の姿も見えず、チーコは姿を隠さずに、のびのびと振舞う事が出来ていた。

串に差した肉に齧りつきながら、熱かったのかチーコが「ひふひふ!」と息を大きく吐き出している。
「はい、どうぞ」と冷たい水を兎月原が差し出し、丁寧な手つきでチーコの口元をナプキンで拭ってあげていた。
「おいし?」
首を傾げて問う姿や、チーコが別のものに手を伸ばそうとすると、さっと皿を差し出す紳士ぶりに感心していると、冥月の心を読み取ったが如く、百合子が、とうもろこしに兎のように齧りつきながら、「まぁ、プロだしね」と言いつつ、うんうん頷く。
「プロ?」と首を傾げれば、「おもてなしのプロ」と分ったような分からないようなことを言い、「冥月さんは、きっと嵌らないよ」と、更に意味の分からない事を言われた。



料理上手のメンツが揃っているからか、どれもこれも、本当に美味しい。
バーベキューの他にも、タラのホイル包み焼きに、海鮮塩焼きそば、ブイヤベースのスープまで、「エリィちゃんが作ってきてくれたお弁当に触発されちゃった」とエマが笑い「僕も張り切らせて貰いました」と翼が、優雅な手つきでスープをプラスチック皿に流し込む。
翼も、エマも、乏しい調理器具から、手早く見事なバーベキュー料理を作り上げており、エリィもお弁当作りで見せてくれた腕前を思う存分披露してくれていて、皆、お腹が一杯になると、本当に野外料理の食後なのかと疑いたくなるほどの、満足感に満たされた。

その後、日暮れ前にここを発つという事で、浜辺で眠るもの、波打ち際で遊ぶもの、ビーチパラソルの影で本を読むもの等、それぞれ別れる。

冥月も、片づけを手伝った後は、クーラーボックス(これもエマ持参だそうだ。 咄嗟に『怪力』と慄いた事は、勿論内緒)から、よく冷えた烏龍茶のペットボトルを取り出し、再び堤防を警戒する事にした。

だが、ふいにエマが声を掛けてくる。
「冥月さんも、おいでよ」と手招きされ、一瞬断わりかけるも、何だか、今は人の声を聞いていたい気分で、周囲に不穏な気配がないのを確認すると、頷いて、傍へと足を運んだ。

エマと、百合子、それに黒須が座っている。

「うふふ。 でも、ほんとチーコちゃんのお陰で楽しい旅が出来て、ありがとう!って感じよね」
そうにこにこというエマに冥月は肩を竦め、「呑気なものだな…」と言った後、ふっと表情を緩めると「だが、まぁ、皆が皆ピリピリしていてはチーコも楽しくなかろう」と答えて、浜辺でいずみとならんで座っているチーコに視線を送った。
今は二人肩を寄せ合って、一つの万華鏡をのぞいている。

「…気に入ってるみたいよ?」

エマが冥月に言えば、「それは何より」とクールに冥月は答えはしたが、何だかちょっと自分でも意外な位嬉しくて、あげて良かったと心から思った。
「…三日間…短すぎだわ」
百合子が寂しげに言えば、黒須はチーコの背中を見て「楽しんでくれてりゃあいいんだけどな」と呟いた。
「…やっぱ、どうしようもない事は、どうしようもないんだな」
黒須の言葉に、いずみが事務所で喚いた言葉を思い出す。


「良い大人が雁首そろえて、3日しか保たないとかいきなり泣き言を言ってないでベイブさんに泣きつくなり何か手が無いか尽くしてからにしましょうよ」


「ベイブさんっていう人は…」
百合子の口から出たその名前に、異様に体をびくつかせた黒須が、百合子にキョドった目を向ける。

「凄い力の持ち主なんですか?」
「んあ? え? ベイブがか? あー、どうなんだろう?」
咄嗟にエマに視線を向ける黒須に、エマが「なんで、私を見るのよ」と唸りつつも「いや…凄いっちゃあ、凄すぎるくらい凄いんだろうケド……」とそこまで言って口を噤み、「…まぁ、不便な人よね」と言って頷いた。

エマは、ベイブとも顔見知りなのかと少々驚いていると、百合子が「不便って?」と問いを重ねる。
するとエマからは「ううん、何ていうか、夢の世界に住んでるみたいな人なのよ」と、珍しく要領の得ない言葉が返ってきた。
「異世界みたいなものか? その、空間が違う…とか」
冥月が言えば、「ああ、そういう感じだ」と黒須が頷く。
「だから、何処の情報網にも引っかかってこないのか…」
では、この世界の住人ではないと言うことかと、自身亜空間を扱う人間として然程引っ掛かりを覚えずに飲み込むと、どうりで聞いた事のない名の筈だと深く納得する。
「あ、じゃあ、『発狂運輸』つったら分かるか?」と黒須が問われ、冥月は目を見開いた。
「…発狂」
「運輸…?」
百合子とエマが交互に声を上げた。
随分とアヴァンギャルドな運輸会社名だが、そこなら聞き覚えがあるし、何度か活用した事もある。
エマが訝しげな声をあげたので、どうも、この中では一番黒須と付き合いの長そうな、エマも知らぬことなのかと察する。
冥月は頷きながら、「ああ、あの妙ちくりんな『裏社会御用達配達会社』。 あすこに関わりのある人間なのか? そのベイブとやらは」と、驚きを隠せない口調で問うた。
「…おお、関係も何も、オーナーだぜ。 確か」
黒須の答えに、思わずヒュウ♪と口笛を吹いてしまった。
それは、それは、なんて意外なつながり。
「本当か? へぇ。 じゃあ、『発狂運輸』の殺人お届けサービススタッフから、『花龍』が抜けたという噂が事実か?」
ずっと気になっていた事を問えば、物騒な名前の連呼に、エマと百合子、二人並んで目をパチクリさせていて、黒須は「ああ…なんか、ベイブがそういや言ってたな。 ナンバー1が行方不明になったって」と答えてくれた。
「ほんとに、詳しいのな。 そういう業界については」と黒須は肩をすくめる。
「え…えーと…?」
そうエマが首を傾げるので黒須は「いや、なんか、ベイブがこっちでやってる、まぁ、会社みてぇなもんだよ。 一応、こうやって興信所に依頼したり、何かの際に人がいるようになった時に困らないよう現金を手に入れる手段を持っておいた方が良いって理由らしいが、多分退屈だからってだけだぜ? んで、あんま、こう、普通の配達会社には頼めないような、後ろ暗いものとかを配達してくれるっつうんで、組やら、色んな組織から、個人まで重宝してくれて、幅広くサービスを提供してるってわけよ」と説明を行った。
「その…殺人お届けサービスは?」
エマの恐々とした問い掛けに「字のまんま。 殺し屋を、相手宅に配達して、『死』をお届けしますっていうサービス」と黒須は何でもないような声で答え、「花龍は、一番仕事の出来た大陸から出稼ぎに来ているスタッフらしいが、今は行方知れず。 殺られたっつう訳でもなさそうだし、ほんとに消息を絶たれちまってて、後を追いようがないんだと」と肩を竦めた。
「白雪さんに聞いても分からないの?」
エマが新しい名前を口にする。
「白雪?」と百合子が問えば「ベイブさんに仕えてる、何でも見通す力を持ってる女の子よ」とエマは答え、そんな便利な人間が手元にいるとは…と、若干ベイブを羨んだ。
黒須は首を振ると「かなり、今は不確定要素ばかりの状況にいるらしくて、どうしても存在が掴めないらしい」と答えた。
「…何にしろ、だから、そっちのねーさんが言ってた通りさ」
黒須に指し示された冥月が「ん?」と疑問符を口にする。

「独善で、まぁ、偽善だ」

黒須の自重めいた言葉の響きに、冥月は、自分が興信所にて口にした台詞を思い出し、「あれは、冗談だと言っただろう」と答えた。
「いや、でも的を得てんだよ。 だって、考えても見ろよ。 殺し屋雇ったり、えげつない物の配達を請け負う会社のオーナーが、今はチーコを助けようとしてんだぜ? 逆に言えば、チーコを南の島から連れ去ってきたような組織の手助けだって、何度もやっちまってるのかも知れない。 何にしろ、ベイブのやってる事で、酷い目にあったやつや、命を取られた奴だってたくさんいるんだろう」
黒須は皮肉気な笑みを浮かべた。

「狂ってんだよ。 そもそも」

自分の首に嵌っている、黒い輪に手を這わせる。

「矛盾だ。 だが、そこに疑問を感じない。 俺の上司ってのは、そういう奴だよ。 おかしいんだ。 頭が」

淡々と語る口調に百合子が、ぼんやりと「じゃあ、何故、それでもその、ベイブって人の下で働いてるの?」と問い掛ける。
エマが何か言いかけて、口を噤み、黒須は遮光眼鏡の下にある険しく、陰惨な目を眇めると、「…どうしても、見つけ出さなきゃいけない奴がいて、そいつに会う為」と端的に答える。
冥月は、然程興味はないながらも、話の流れから何気ない口調で問うた。

「それはどういう奴なんだ?」

「俺の嫁さん殺した奴」

ああ。


冥月は、黒須を初めて、真正面から眺めた。

私と同じだ。

彼は復讐者なのか。
私は復讐者『だった』。

何だか、それで、全て冥月は納得したし、彼について、何かを知りたいという気持ちも失せ果てた。

愛するものを殺された復讐者。

それで、もう充分で、後は何も知らなくてもいいし、何も知りたくないとも思った。

冥月は、自分の胸元に提げられたロケットを握り締めると、「へえ…」と小さく呟いて、「会えると良いな」と、無表情な声で言う。

本当はどちらがいいかは分らなかった。
会ったとて、復讐を果たしたとて、虚しいだけだよとは、口にする事は出来なかった。

「ま、だから、俺も狂ってんのかもな」という黒須に「だったら、私も同じだな」と冥月は言う。
「私も、そこそこ今までに色々あったもんだから、チーコみたいな身の上の子供はゴマンと見てきたよ。 九龍城って知ってるかい?」
冥月の言葉にエマが「ええ。 何処の国の法も及ばない、無法地帯。 中国大陸からの流民のスラム街よね。 アジアンカオスの象徴だった場所よ」と答える。
「今はもう、取り壊され、あの場所に住んでいた不法滞在者や犯罪の逃亡者等は強制退去させられているが、私は昔、仕事の関係上、何度もあの場所に足を運んだ事がある」
冥月の言葉に「へぇ。 歴史の生き証人みてぇなもんだな」と黒須が言えば、「さて、生き証人になれる色々見聞きしたわけではない」と冥月は答え、それから、ふいと遠い目をした。
「あそこは、阿片窟にもなっててな、九龍城に住む女が妊娠した際は、母親が重度の中毒者だった為に、その赤子もドラッグベイビーとして生まれてくるケースが非常に多かった。 低体重や脳萎縮・臓器奇形、五体満足に生まれても、生まれながらに情緒不安定。 母親の腹の中にいる時から麻薬漬にされて、生まれた場所も阿片窟。 娼館に売られる子やら、盗みを親に強制される子…まぁ、有り体に言えば、地獄だ」

冥月の語る言葉の凄みに、皆が黙り込む。

「私は何も出来なかった。 その時は、私も子供と言って良い年齢でな。 自分の身の上を殊更幸福だとは思えなかったが…それでも、その地獄を目の当たりにする度に、自分で自分の道を切り開ける力を持てた事を神に感謝したよ。 どうしようもない。 誰も手の施しようがない。 理不尽で、暴力的な、残酷でしかない現実。 無力だった。 私の力なんざ、その子達の誰も救えるもんじゃなかった。 人を、たくさん殺せます。 素早く息の根を止められます。 狙った獲物は逃しません」

冥月は「ふっ」と端麗な顔に、寂しい笑みを刷く。

「それで、目の前で苦しむ子供の誰を救えよう。 重病の痛みに泣き、親に捨てられ売り飛ばされる子供たちの絶望を、どうやって癒せるというんだ。 無力だ。 百合子。 私は、その時、圧倒的に無力だった」

ついと百合子に顔を向ける。

私は弱いよ。

先ほどの会話を思い出していた。

今、明確に彼女に告げていた。

私も弱いよ。

「…こんな仕事は嫌いだよ。 あの時の私の無力さを思い起こさせる。 お前の上司が狂ってて、お前も狂ってるというのなら、私も一緒だ」
冥月は、黒須に向かって穏やかに言う。
「矛盾だ。 この手をしこたま血に濡らしておいて、それでも、チーコを救いたいって考えてる。 だけど、こんな仕事で私が何か出来る事があるのなら、そのどれ一つだって、私は厭わずやりたいと思うんだ。 チーコを、三日間、なんとしても守り抜く」

冥月が、美しい位の凛とした声で言った。

「それが…あの時私が救えなかった子供達に対する、せめてもの罪滅ぼしだ」 



再び、簡易チェアに腰掛、堤防を監視する。


浜辺に視線を向ければ、眠る黒須の事を覗き込んでいる竜子の姿があった。
昨日は夜通しバスを運転し続けた彼は、流石に疲れているのか、膝を曲げ、まるで胎児のように体を丸めて、呼吸すらしていないかのように静かに、静かに眠っている。
竜子は、そんな黒須の頭を、そーっと、そうっと持ち上げて、自分の膝の上に置いた。
優しい手付きで、ポンポンとその体を宥めるように叩く。
そして、愛おしくて仕方がないといったように彼女の掌が、黒須の頬を一度撫でた。
海を見つめ微笑む彼女の横顔が、今まで見たどの顔とも違う、優しく、美しいものである事に冥月は目を見開く。
最初見た時驚かされた濃い目の化粧も、旅の途中であるせいか然程激しいものでなく、彼女の地顔が大変整っているものである事に、冥月は気付いた。

まるで、聖母めいた。

酷く近寄り難い程の微笑みを浮かべる竜子に息を呑んだ。
黒須も、瞼を閉じた、無防備な寝顔は起きている時の険しさを微塵も感じさせず、何だか不安になるほどに幼い。



風が。


黒須の長い髪を揺らし、竜子の一つに結んだポニーテイルを舞い上げた。

あの二人は、恋人同士なのだろうか?
お似合いとは言い難いけど、何だか不思議な二人組みだよな…。
そう思えども、どうしてだろう。


あんなにくっついているのに。

何一つ触れ合ってない二人に見えた。


冥月は、何故だか、胸が痛くなって目を逸らした。




夕焼け空になり始めた頃、皆はそれぞれ帰り支度を初め、冥月も発つ準備を整える。

「さて、そろそろ…」と、エマがそこまで言いかけた所で顔を上げた。
「…望まざるお客さんが来ちゃったみたいね」と、軽い口調でエマが言う。

やはり、もう一度あったか…と予想通りの襲撃に、冥月は立ち上がる。
ゆらりと彼女の周りが揺らいで見えるほどの、酷く剣呑な気配。


堤防沿いに、黒塗りの車が数台バタバタと停まる。
降りてきた黒スーツ姿の男達に「お約束どおりね」といずみが冷めた声で呟いて、取り乱す事も一切なく、子供らしくもない感想に、やっぱりびっくりさせられた。
キビキビとした声で冥月は指示を出す。

「非戦闘員は、一旦バスへ避難だな。 いずみ、百合子、エマ、竜子バスへ。 嵐っ!」
まるで教師めいた口調で冥月が呼べば、嵐は肩を竦め「んだよ。 俺は、非戦闘員扱いで良いんだぜ?」と言う嵐に、にっと物騒な笑みを見せると、トンとその胸を掌で突き「ああ、非戦闘員扱いさ。 今回はな」と意味ありげに告げた。

「あいつらの狙いはチーコだ。 嵐、バイクで、チーコを連れて逃げろ。 向こうは、ざっと見ても30人強。 興信所での脅しが効いたか、私や時雨の名前が効いたのか、中々、手厚いおもてなし部隊を送り込んできてくれたようだ。 まぁ、それでも、私にしてみれば、馬鹿にしているとしか思えない、お粗末なもんだが…こちらとしても、彼女を守り、非戦闘員の安全を確保しつつ、あの人数を相手にするのは、そこそこ骨だ。 銃の使用も予想されるし、守りに徹するだけでなく、今回は、あいつら全員叩きのめし、どういう人間を相手にしているのか向こう側に知らしめたい。 何より、どうして此処が分ったのか、誰か一人捕縛して吐かせてもやりたいしな。 それだけの事をチーコに目を配りながらやってのけるより…」
「向こうの目当てである、チーコを安全な場所へと移動させる…って事か…」
翼が賢しげに呟けば、冥月が満足げに頷く。
「ああ。 出来るな?」
冥月の言葉に「俺は、ただの、一般市民なのに」と一度肩を落とすと、諦めたように「まぁ、チーコの為ならしょうがないな」と嵐は決心を付け、「活路は開いてくれよ?」と、皆に視線を走らせた。
「とうぜん…まかしといて…」と時雨が自信に満ちた声で言う。
「ぜったい…チーコに傷…付けさせないから…ね?」と首を傾げた時雨から、チーコは耳を真っ赤にさせつつ、ぷいと顔を背ける。
途端シュンとした顔になる時雨に(嫌われたのか?)と首を傾げ、チーコが耳まで真っ赤になっているのを見て「ほう」と小さく口に出して呟いた。
(むしろ、特別に好いているわけか)と冥月にしては珍しく、チーコの気持ちなんぞを察してみる。
ならば、落ち込む事なんてないのにと思えども、場に満ちている緊張感は流石に逼迫していて、まぁ、そういう事態ではないなと、頭を切り替えた。


準備が整ったのだろう。
チーコをバイクの後ろに乗せた嵐が冥月を見て頷いた。


冥月は嵐に対し、不敵に微笑み返すと、翼に向かって「準備できたそうだ。 お前はどうだ?」と問う。
「いつでも、いいよ」
そう短く返事を返す翼に、冥月は「頼りにしているぞ」と声を掛け、ついと堤防前に雁首そろえる男達に向かって指を指した。

「やってしまえ」

笑いながら言う冥月に、同じく笑い返し、翼が、腕を軽やかに踊るかのように振るった。
その瞬間、強い風が巻き起こり、男達が面白いほどに、呆気なく将棋倒しのように倒れた。

翼が起こした風を合図に、嵐が一気にアクセルを全開にして走り出す。

翼が引き起こした風を追い風に換えて、嵐が猛スピードで駆け抜けていった。
タイヤを取られ易い砂浜を難なく突っ切ると、堤防に備え付けられた階段、その脇の手すりとして設けられているのであろう幅の酷く狭いコンクリートの急な坂を一気に駆け上がった。
思わずニヤリと笑ってしまう。
竜子と百合子が声を揃えて叫ぶ声が聞こえる。

「いっけぇぇぇぇ!!」

するとその声援が届いたのか、見事に嵐の操るバイクは見事、坂をジャンプ台代わりに男達の頭を飛び越え道路の向こう側に着地すると「ひぅあぁはああぁぁぁ!」と何とも明るいチーコの笑い声を残して走り去って行った。

アクロバティックな技の成功に、思わず心が熱くなる。
倒れた男達が起き上がる前に、皆は相手に詰め寄っていた。
上々だと、その判断力を賞賛する。

皆、鮮やかな手際で、相手の意識を奪っていっている。
千剣破が、海の水で作った針を車に降り注がせ、その移動力を奪ったのを確認すると、冥月は一歩足を踏み出し、相手の影へと移動した。

即座に、敵の影の中から姿を現した冥月が、男の首を締め上げて、それからぐいと男達を見回す。

その瞬間、全ての者の影が拘束具と化して敵をはがいじめにした。

「お好きにどうぞ?」と優雅ですらある口調でそう薦める冥月に皆頷いて、あとは、言葉どおり、好き勝手やらせて貰った。


その後は幾つか銃声やら怒号やら、まぁ物騒な騒ぎが暫らく続いたが、冥月から見れば、呆気ないほどに決着はついた。



「さて、一応問うが…この中で拷問が得意な者」


冥月のとんでもない台詞に、エマといずみを除く皆が一斉に黒須を見た。
こう、本能的にだが、「拷問得意そう!」という陰惨なイメージ=黒須という、ナツラルな流れでの視線の流れは本人いたくお気に召さなかったらしい。

「ていうか、お前ら見た目のイメージだけで、俺を判断するな!! なんだ、拷問得意そうなイメージの外見って! 嫌だ! そんなイメージ! 得意技、拷問です☆って自慢になんねぇ!」
そう怒鳴る黒須に「いや…見るからに…こう…陰湿系というか…」と翼が言えば、「うん、金融業とかで取立て屋になったら、相手の精神を破壊尽くすまで追い詰めそうな感じよね。 マムシの誠とか呼ばれてるイメージ」とエリィがVシネチックな事を言う。
「趣味とかも、自分を振った女性の写真にひたすら『怨』と書き続けるとかっぽいし…」と百合子がマジマジと黒須を見ながら言えば、何だか楽しげな口調で「あと、嫌いな相手への攻撃方法が、靴に待ち針を仕込むとかそういう精神的にクるけど、セコイ感じなのね!」と千剣破は嬉しそうに断言した。
余りの言われようによろめく黒須に兎月原が笑顔で「総じて、身動き取れない相手に対しての攻撃が凡人の想像を絶するような陰険な手段を思いつきそうなイメージって事だな。 やったね! 黒須さん」とウィンクをしつつ総括すれば、もう、ここまで固まってるんだし、事実で良いんじゃないか?
黒須は拷問が得意技で良いんじゃないか?という気にすらなってくる。
そんな馬鹿なやり取りの間、エマが、何か言いたげに、うずうずと体を揺らしていたが、頃合や良しと見計らったのか、とうとう黒須の前に庇うように立ちはだかり「みんなっ! 違うよ?! 黒須さんっ、そんな人じゃ…ないよ?!」と、首を大げさに振りつつ、児童劇団の道徳芝居で役者が見せそうな、妙に芝居がかった仕草で言う。
そして、くるりと振り返り、黒須をキラキラと見ると、「黒須さんは、ドMだもんね? そんな、拷問なんて、する側より、される側の時の方が幸福MAXだもんね☆」と超全開の笑顔で告げた。

あ、そっちのが、きもい。

心からの嫌悪に、思わず、冥月、一歩二歩と後ずさる。
アブノーマルな趣味に等一切理解を示せない冥月。
まぁ、性癖は人それぞれだし、好きにやればいいとは思うものの、もう、それが黒須相手となると、不快天がMAXを越えるのは、如何な理由によるものか?
何にしろムカムカする。
ドMの黒須という字面だけで、ムカムカする。
竜子が「正解!」と力強く親指を立て、「わぁ、更に気持ち悪い。 不気味。 傍に寄りたくない!」という表情を隠そうともせず周囲の輪が一歩分広がるのを黒須はがくりと項垂れ眺めると、エマを恨みがましげに見て、「お前 ほんと 俺を馬鹿にする時全力投球な!」と半眼になりつつ、唸るように言う。
そんな黒須に「てへ」と笑って見せると、「あー、すっきりした。 ほら、中々今回、黒須さんを虚仮にするゾ♪タイムがなかったもんだから、ストレス溜まってて」とエマは、肩をキリキリと回しつつ、爽快感に溢れる顔で言い放つ。
「そんなレギュラータイムを勝手に設けるなよ!」と怒鳴る黒須に、「次回をお楽しみに☆」とエマは笑顔で返し、更にもう一歩ほど後ずさった場所で「えーと、然程興味がないを越えて、むしろ地雷踏んだ感を噛み締めつつ、黒須さんの性癖についてはこれ以上何もお伺いしたくないので、話を先に進めてもらって宜しいでしょうか?」と丁寧な口調で兎月原がお願いすれば、道端に落ちている丸めたティッシュを眺めるような目で黒須を一瞥した後冥月は頷いて、他に適役者がいないのなら致し方ないと、「では、私も余り加減が分らんので、向いている方ではないのだが、ちょっと訊いてみるか」と、軽い口調で物騒な事を言って、足元に転がる縛り上げた男性を見下ろした。

先ほど水族館襲撃の際に問い質した男よりも、身なりから鑑みても、まだ、何かを知っていそうに見える。

猿轡を噛まされ、縛り上げられた男は畏怖の眼差しで冥月を見上げてくるが「ただ口を割らせるだけなら、多分僕だと手間なくやれるよ」と翼が手を挙げた。
「おお、意外と拷問得意系?」と竜子の頓珍漢な問い掛けに、「得意・不得意の区別の仕方が分からない」と肩を落として見せた後、男の目の前に座りこみ翼はじいっとその瞳を覗き込む。

「さぁ、よく、見て。 僕の目を、ようく見て」

唆すような声。
男は翼の魅惑的な瞳に魅入られる。
ぱち、ぱち、ぱちと、三度瞬いた瞬間、男の全身が弛緩した。
猿轡を外し、翼は優しい声で問う。

「ねぇ、どうしてここの居場所が分ったの? チーコに取り付けられていた発信機は全て取り外したはずなのに」

魅入られたように熱っぽい瞳で翼を凝視する男が、翼が促すままに口を開いた。

「は、発信機は、まだ、ある」
軽く翼は目を見開き、「それは何処に?」と問い掛けた。

「それは…」

虚ろな口が、咳き込むようにして吐き出した。


「あの化け物の体に埋め込んである」


ふっと、言葉の意味が判らずに、脳髄に言葉が届いた瞬間、何より不快感が込み上げた。

この男、なんて言った?

「肩甲骨の下を、麻酔なしで開いて、『Dr』が、発信機を埋め込んだ」

翼を熱心に見つめながら、他には何も世界はないという風に男はだらだらと言葉を零す。

「泣いていた。 大声で。 何を言っているか分らなかった。 気持ちの悪い 生き物。 一丁前に涙なんかを 零して。 触ってみたら、分る。 あの化け物の肉の下に、ゴツッとした膨らみがある。 触ると酷く痛がるから、面白がって…」

そこまで言った瞬間、竜子がその即頭部を思いっきり蹴飛ばした。
冥月は、どんどんと自分の気持ちの温度が冷えていくのを冷静に察する。


麻酔 なしで 体の 中に あの 小さな体の中に


それは余りに非道じゃないか。
それは余りに人の道に外れた行いじゃないか。 

そんな事が出来る生き物と、自分自身が同じ「人間」という種族である事に吐き気がする。

殺してしまおうか。

酷く優しい位の感情で、そう思った。
生きてても、しょうがないだろう。
こんな連中。

殺してしまおうか。

チーコの体に、そんなものを埋め込むなんて事、許されるはずがない。


チーコ。

彼女の笑顔が目に浮かぶ。

許さないっていう事で示せる優しさもあるだろう?

竜子が息を荒げながら「くそっ、やっちまった! 子供の前で、やっちまった!」と髪の毛をくしゃっと掻き毟る。
「いずみ!」
名前を呼ばれ、いずみが「はい」と静かに返事する。

「今のあたいが言っても説得力ねぇけどな、自分が気に入らないからって、話し合いもせずに、すぐ暴力ふるって、相手を黙らせるのは、いけない事だかんな!」

そう荒い息の下に、困った気持ちを混じらせながら、竜子が言えば、いずみは静かに頷いて「肝に銘じます。 ただ、そのルールは、『話が通じる』相手のみに適用させていただきます」と冷静に返事し、竜子を益々困り顔にさせていた。


いずみが言う通り、話なんて通じる連中だろうか?


こいつらは、クズだ。



「…殺すか?」

冥月は平坦な声で提案した。
平坦だからこそ、本気だった。

「ここにいる連中、皆同じ外道だ。 依頼主が望むなら、皆、証拠を残さず消してやる。 生きていても、チーコと同じ犠牲者が生まれるばかりだ。 子供が、弱いものが、抵抗する術を持たないものが、理不尽に殺され、虐げられ、泣かされる。 生かす事によって、失われる命が増える『生』もある。 殺すか? 私は躊躇わんぞ」

冥月の言葉に、日頃の人懐こい表情を一変させた時雨がカチャリと腰に提げている刀に物騒な音を鳴かせる。
エリィも、冷たい表情で銀色の幅広のナイフを鞘から抜いた。

千剣破は青ざめながら、倒れている無数の男達を眺め回していた。

黒須は無表情で竜子を見る。
竜子は、黒須を横目で眺め、全てを委ねられている事を理解したかのように目を閉じて、それから自分が蹴り飛ばした男をもう一度見下ろした。


「殺さないで」


細い声。
見れば両手をぎゅっと握り締めて百合子が震える声で言った。

「殺さないで」

やはり…お前は……。
風に吹かれながら、冥月は百合子を見る。

やはりお前は…。

自分とは全く正反対の生き物に見えて、冥月には百合子は酷く眩しかった。



竜子は「はっふっ」と大きく息を吐き出すと、「うん、殺さない」と答えた。
冥月は少し首を傾げ「甘いな、お前らは」とそれでも、何だか優しい声で言った。

「いいんだ。 甘くて。 その、あんたらからすれば、きっとこの仕事自体、凄く甘い仕事じゃないのかい? いや、知らないけど。 女の子守って、最期の三日間を楽しく過ごさせてやって欲しいだなんて…ああ、そう、ロマンチックだ。 ロマンチックじゃないか、なぁ、百合子」
そう言われて目を見開き、それから「ろ、ロマンよ。 そうよ、ロマンなの」と百合子は必死の声で言う。
「ゆ、夢見がちかもしれないけど、ねぇ、チーコには、ロマンが似合うわ。 あの子は、きっと、凄く辛い目に合って、ねぇ、それを、その最期までの間を幸せに過ごさせてやって欲しいなんて依頼は、本当に…本当に……甘い、甘い、砂糖菓子みたいにベタついた仕事で……でも、だから、いいのよ。 あの子に関わる時間全てがロマンチックであった方がいいのよ。 だって、女の子なんだもの。 チーコ、女の子なんだもの。 だから、似合わないわ、人殺しは。 倫理とかは分からないの。 道徳も、知らないわ。 安易なヒューマニズムなんて反吐が出る。 でも、綺麗ごとよ。 このお仕事は全部綺麗ごとなの…だ、だから…だから…」
言葉を捜しあぐねたように、自分の髪の毛に手をやり、ぎゅうっと引っ張って困り果てた顔をする百合子にエリィは駆け寄ると、柔らかな、春の日差しのような微笑を浮かべて「分かった。 殺さない」と言った。
時雨も、ふしゅんと険しい空気を霧散させて、「チーコ達…無事…待ち合わせ場所…着けたかな?」と心配そうに呟く。
エマが素早い手つきで携帯を操作し、まず、警察に通報の連絡を入れると、次に嵐に連絡を入れた。
「んー、どうも、まだ走行中みたいだけど、ちゃんと、安全が確認出来たら連絡入れるように言ってあるし、まぁ、嵐君の事だから大丈夫でしょ」
そうエマが言い、冥月がバスに目を向ける。
「チーコの体に発信機が埋め込まれている以上、バスを捨てていく事も考えたが無意味か…」と呟いて、「まぁ、全滅の一報がいけば、次の追っ手の準備も慎重にならざる得ない。 こちらの実力は充分に分って貰えただろう。 そうそう、敵う相手ではない事もな。 油断をするわけにはいかないが、チーコの体から発信機を取り出すわけにもいくまい」と冥月は言い、皆一様に大きく頷く。

結局、彼らは司法の手に委ねる事になった。
ただ、冥月は、こういう連中が、「まともに裁かれる」事のない現実を知っていて、思わず乾いた笑みを浮かべてしまう。
K麒麟なら、警察OB等にもツテがあったし、幾らでも手を回せるルートもある。
何人が真っ当に刑に服すのか…。

だが、口にしても詮無い事と思い、それから竜子に視線を向けた。

「殺すという事は覚悟のいる事だ。 だが、生かす覚悟の方が厳しい事もある。 分っているな?」
冥月の言葉に竜子は静かに頷いた。
長い睫に縁取られた強い眼差しを見て、冥月は、彼女は彼女なりの信念を持っての決断なのだと納得すると、「ふん」と呆れたように溜息を吐く。

そして、「あと…一日と少し…か。 守りきれるだろう?」と、他メンバーを見回した。
翼が肩を竦め「認めたくないですけど、武彦はベストメンバーを選んでます。 チーコを守り、幸福な気持ちで過ごさせるという事に関してはこれ以上ないほどのベストメンバーをね。 最初事務所に揃えられているメンツを見た時は…」とそこで言葉を切り、千剣破がその続きを引き取った。
「もう、バラッバラ!」
その、エリィも頷いて「どうなる事かって思ったけどね」と笑う。



これが最良で、最強。


興信所の主の名は伊達じゃないって事だ。


「行きましょう。 チーコの所に」

いずみが言う。
兎月原が、空を見上げ、「ああ…あんなに良い天気だったのに、曇ってきた。 急いだ方が良さそうだ」と典雅な声でそう告げた。


程なく、雨が降り始めた。

ひっそりとした畦道を抜け、バスが辿り着いたのは、エマが興信所ぐるみで懇意にしていると言う古い神社だった。
人里離れた場所にあるのだが、家屋も広くて情緒があり、一晩置いて貰うには最適な場所だと判断し、エマは先に連絡を取って、一晩の宿の許可を得ているらしい。

「んふふ、ここの神主さんは、凄いのよ? お歳も、お歳、ってまぁ、百年以上生きてる人とか、興信所じゃ、珍しくないんだけど、神社の建立からずっと、神社を守り続けている初代神主=現神主な人で、もう、本尊が神主?みたいな人なのよ。 確か、500歳だか、なんだったか…。 まぁ、もうじき、大祭があるとかで、此方にはいらっしゃらないんだけれども、チーコちゃん達と、私達が到着した際には、一時的に結界を開いて迎え入れてくれるよう頼んでおいてあるの。 普段は、神社自体、森が隠していておいそれとは見つからないし、例え、霊感のある人が見つけてしまったとしても、結界のせいで足は踏み入れられない。 発信機も、磁場の歪みのせいで、本来の機能は発揮できないし、寝込みを襲われる心配と、出掛けを急襲される心配もないわ。 まぁ、こよなく安全な場所であるっていうのは、私がこの場所を選んだ大きなポイントではあるんだけど…まさか…この場所を選択した事が、こういう意味でも役に立つとは思わなかったけどね」
残念そうなエマの言葉に、翼が気を取り直すような明るい声で、「流石にエマさんの人脈だ」と感嘆すれば、「んふふ。 ありがと」とエマは胸を張る。
山際にバスを停車し、山を開いて作られた木々に四方を覆われた階段を登る。
嵐から既に無事に待ち合わせ場所に辿り着いたという連絡は受けていたが、バイクが山際の大きな木の下に停車されているのを見つけると、自分が単独行動を指示した手前、何だかほっとしてしまった。

シトシトとした雨に身を打たれながら、ひんやりとした空気を掻き分け階段を登っていると、今から神域に足を踏み入れるのだという緊張感が全身を満たした。
神社は、酷く古い作りをしていて、ぬかるみに足を取られぬよう門をくぐれば、感嘆するしかない情景が広がっていた。

「わ…あ…」

「ね、綺麗でしょ? これを、チーコちゃんに見せたかったの」

そう言う得意げなエマの声に、冥月は頷く。
藤の花弁がほろり、ほろほろと散っていた。
大気に充満する香りは、芳しく、雅やかでありながら、清涼。
初夏の匂いに、皆大きく息を吸い込む。

澄んでいる。

つつじの花が咲き乱れていた。
手入れそれ程されていない様が、しかし、だからこそに素朴で、自然の力強さも漂わせていて、美しい。

「お、来たな」


そう言いながら、本殿の玄関先から嵐が顔を出し、続いてチーコが「ふあゎぅふぅ!」と声を上げる。
「あらぁ、そうなの、良かったわねぇ」とエマが表情を緩ませて両手を広げれば、テテテテと駆け寄ろうとして、チーコは階段の途中でくたりと倒れるように転げ落ちた。

「っ!!」

咄嗟に、飛び出そうとした冥月より早く、兎月原が掬い上げるような手つきでチーコを抱きとめ、抱き上げる。
「大丈夫かな? お姫様」
兎月原が蕩けるような声で問えば「ふぁふぅ!」と元気な返事をして、その首根っこに齧りついた。
チーコは笑っていて、百合子は、ほっと胸を撫で下ろす。
抱き上げられたまま「ひぃふぅあぅ、ふあぅ!」とチーコはエマに何事か告げた。


「バイクでここまで走ってくるの、凄い楽しかったって。 雨に降られなかった?」と聞くエマに「ああ、ギリギリ振り出す前に間に合った。 とりあえず勝手に上がらしてもらったけど、良かったんだよな」と嵐が問い返す。
「大丈夫、ちゃんと全部分って貰ってるから」
嵐の疑問に頷くエマ。
「あ、一応、風呂の用意だけしといたから」と嵐が言えば、エリィと千剣破は同時に歓声をあげた。
「海にいたから体がベタベタしてんのよねー! お風呂、嬉しい♪」
エリィがはしゃげば、「雨にも打たれたし、体あっためたいよねー!」と千剣破も嬉しげに言って、同時に「「嵐君、ありがとう」」と声を揃える。
眩しいばかりの美少女二人のお礼の声に、嵐は、ちょっと照れたようにそっぽをむいて「どーいたしまして!」とぶっきらぼうに答えた。

「さ、じゃあ、夕食の支度をするわね。 男性陣、先、お風呂入っちゃって」とエマは手を叩けば、「あ、いや、まだ沸かしてない…」と嵐が言いかけたところで、チッチッチとエマが指を振り、「藤ちゃん、つつじちゃん、お願いね。 あとで、一曲歌ってあげるから」と声を上げる。

すると、そよそよそよと庭に植えられたつつじと藤が優しい音を立てて一斉に揺れた。

「ここの神主さんの式神ちゃん。 私も姿は見た事ないんだけど、私の歌を気に入ってくれてて、ここに来た時は歌の代わりに、神社内の色んな御用事も請け負ってくれるの。 そこそこ力のある子達だから、お風呂も、もう沸いてる筈よ。 広くて、10人くらいだったら一気に入れるお風呂だから、えーと…むさい時間をどうぞ、ごゆるりと〜」と何だか明らかに風呂に行く気力を殺ぐような事を言いつつ手を振るエマに、「じゃ、お言葉に甘えて」と黒須が頷き、男性陣は揃って風呂場に向かいかける。
だが、腕の中にいるチーコの顔を覗きこみ、兎月原は「あ、チーコはレディだから、女性陣と一緒にね?」と言いつつ、チーコを廊下に下ろした。

にこっと兎月原に笑い返し、此方に走り寄ろうとしたチーコが再びこける。

「ふぁっ、うふぅうっ」

恥かしげに身を竦め、再び立ち上がろうとした時に、チーコの足がガクガクと痙攣した。

あれ?
冥月はその様子を眺めたまま固まる。

どうした? チーコ。
問おうとして声が出ない。

だって、昼間はあんなに元気にはしゃいでいたじゃないか。
海で遊んでいたじゃないか。


「っ」



ああ、もう、チーコは立てないのだ。

一瞬の混乱。

だが、すぐに冥月は冷静さを取り戻す。
分かっていた事だ。
何もかも。

いずみが走り寄ってチーコの腕を引き、まるで、さっき兎月原がそうして見せたように、チーコを抱き上げようとして、当然、出来ずに一緒に転ぶ。
一瞬打ちひしがれたような顔をいずみは見せた。
自分の無力さを嘆く顔。

子供が見せるには余りにも哀しい顔。

助けたいのに。
チーコを、助けたいのに。

「あ、ごめ…け、怪我…ない?」
チーコの体を、世界中の全てから守ろうとしてるかのように覆いかぶさるように抱きしめ、震える声でいずみが問い掛けた。
チーコは強張った顔で頷いて、途方に暮れたような顔をして辺りを見回し、それからチーコが初めて、泣きそうな顔を見せる。

怖いだろう。
怖いだろう。

この子は 明日 死ぬのだ。



覚悟はとうに出来ていた。
最期まで守り抜く。
それだけだ。

それが私の仕事だ。


チーコの髪をふわふわと撫でて、いずみが「転んじゃったね。 私も一緒。 今日は疲れたからしょうがないね」と穏やかな声で言った。

「一緒。 チーコと私は一緒」

チーコが、不安に揺れる一つだけの大きな目でいずみを見上げる。
その額に自分の額をくっつけて、「一緒よ。 チーコ」といずみが言えば、チーコは小さな両手でいずみの頬を挟みこんだ。

「いぅお?」
「うん。 そう、一緒」

すると、チーコはまた、可愛く笑う。
翼が、チーコの体を抱き上げた。
「そうか。 チーコ、疲れちゃったのか。 じゃあ、少し休もう。 今日は一杯遊んだからね」
翼がそう言いながら歩き出す。
傍に走り寄れば、チーコは冥月の顔を見て「えへへ」と照れたように笑っていて、たまらないような気持ちになって、冥月は目を伏せた。




「何処まで行ったのかしら?」

エマが不安げに傘を差しつつ、視線をキョロキョロさせている。
「落ち着け、多分、途中の道の何処かにいるだろ?」

冥月はそう言いながらも、自分の気持ちが若干不安に苛まれているのを悟らずにはいられなかった。

夕食後、時雨がチーコと二人で、皆の分のアイスを買いに出かけていた。
どうも、女性陣のセッティングらしいのだが、残り時間が少ない悲しい現実を思うと、せめて二人きりの時間を過ごさせてあげたいと思うのは冥月も同じで、何もいわずに送り出してあげた、
時雨も勿論嫌がる素振りなく、恥かしがるチーコを抱き上げ、雨の中傘を差して出て行ったのだが、遅くとも30分程で往復できるはずの近所の小さな駄菓子屋に向かった筈なのに、一時間経過した今も帰ってこない。
状況が状況だけに、かなり心配ではあるが、身の危険と言う意味では、時雨の実力を重々承知している冥月としては、然程心配はしていなかった。
時雨はおいそれと敵に襲われて、チーコを危険な目にあわせるような腕前ではない。
ただ、体調の変化によって、チーコが苦しみ、立ち往生しているのか、他に何か問題が合ったのかと考え出すと不安の種は尽きない。

雨はシトシトと降り続いていた。

傘を差し、黒須とエマと共に、迎えに出た冥月は影を使って二人の居場所を探る。

「ああ…大丈夫だ…。 ここの角を曲がれば…」

そう誘導すると、そこにはバス亭があって、チーコの小さな小さな膝に、狭いベンチの上で窮屈そうに体を折り曲げた時雨が頭を乗せて眠っていた。
チーコが小さな手で、ふわふわと時雨の頭を撫でている。


海辺での竜子の様子を思い出した。
膝の上に黒須の頭を乗せていた竜子。
もしかしたら、あれを真似して?と思い至り、冥月は何だか、チーコが可愛らしくて仕方がなくなる。

「っ…チーコちゃん!」

そう名前を呼びながら駆け寄るエマを見て「ふあぁう!」と嬉しげにチーコは手を伸ばした。
黒須も「人騒がせな」と唸りつつ、軽い足取りで二人の元へ向かう。

冥月は一歩離れた場所でそんな様子を眺めていた。

「どうしたの? 傘は? ていうか、時雨君、なんで寝てるの?!」

エマの問い掛けに、時雨が漸く目を覚まし、目を擦り擦り、「あのね…猫の家族が…雨で困ってたから…あげたんだけど…濡れると…チーコが風ひくと思って…雨宿りしてたら……寝た」と、途切れ途切れの声で言う。
がくうと目に見えて肩を落とした黒須とエマ。

「まぁ…無事ならいいや」

そういいつつ、黒須がチーコを抱き上げた。
エマは、一つ傘を時雨に渡し、「入れてー!」と言いつつ、冥月の隣に飛び込んでくる。

彼女の無邪気な様子に、少し呆れれば、「冥月さんも心配してたでしょ?」と此方を見上げて、大人びた目で言ってきた。
冥月が答えないでいれば、「私さ、武彦さんがこのメンバーを選んだ理由の一番大きなポイントはそこだと思うな」と一人頷く。
「どういう意味だ?」
「つまり、チーコちゃんの為に、一生懸命になれるかどうか?って事よ」
そうエマは言って黒須に抱かれて、その髪を引っ張り遊んでいるチーコの頬に指を伸ばすと「みんなの事、チーコちゃん大好きだもんね?」と問い掛けた。
チーコは当然と言う風に「ふぁぅ!」と大きく返事した。



神社に帰り着くと、皆、よほど不安だったのか一斉に走り出てきた。
「おう?」

黒須の腕の中で、戸惑ったような声をあげるチーコの姿を見て一様に安堵の表情を浮かべる。
エマの言う通りかもな…とその様子を眺めて思えば、「…ごめんなさい」と、しゅううんとしぼんだみたいな顔をして、時雨が小さな声で詫びた。

「アイス…溶けちゃった…」

そう言いながらビニール袋を差し出す時雨に「いや、それは良いから何があったんだよ」と嵐が問えば、黒須が「傘を野良猫にやっちまって、そんで、バス停で雨宿りしてたんだと」と肩をすくめて答える。
「そのうち…止むかなって…思ったんだけど…どんどん…強くなってきちゃって…しかも、ボク、寝ちゃって……」

とろとろとした喋り方に、皆がどんどん気力をなくしていくのが目に見えて分る。
「ま…いいや。 無事なら」

竜子の言葉に皆頷く。
「チーコ、体冷えたでしょう? お風呂行こうか?」
そう言いながらエマが黒須からチーコの身柄を受け取った。


風呂は、凄く広くて、石造りにも関わらず、見た目にも温かみが合って、全身を浸すとふわぁっと疲労が溶け出て行くような心地になった。

「気持ち良いねぇ」

エリィが白い肌を惜しげもなく晒しながら、そう呟くのに同意しつつ、千剣破も美しい肢体を湯に沈めくつろいだ表情を浮かべる。
湯をサッと体に浴びせた後に、湯船に足を差し込んだ冥月も見惚れる程のプロポーションを有していて、見事なバランスを有したスレンダーな体をぐぐぐっと伸ばし、「ああ、いい湯だ」と満足げに呟いた。

驚くべきは竜子で、皆、素顔を見て呆気にとられていたのだが、化粧を落とした素顔といったら、眉こそないものの、息を呑むほどの美人っぷりで、「うひゃー! やぁぁっぱ、日本人は風呂だな! 風呂!!」等と情緒のない事を言っているのが信じられない程に、美麗な顔立ちを有していた。
肢体とて、「何で、黒須さんが好きぞ? 目を覚ませ!」と肩を掴んで揺すってやりたくなる程のプロポーションで、何が、凄いって、胸がでかい。
日頃、特攻服の下の晒しで抑えているせいで分らなかったが、かなり、こう、豊満と言って良い程の大きさを持っていて、ぷかりと湯に浮かばせながら、「冥月さんも、こうやって見るとやっぱ女なんだな」等といらん事を言う姿を見ていると、この世の中にこれほど「黙っていれば…」と思わせる女性も少ないだろうと冥月は思った。

大体、なんであんなみょうちくりんな化粧をするのか一切想像つかないが、まぁ、この性格にはあの化粧は凄く似合っている。
まぁ、そういうものか、なんて冥月が納得した所で、ガラリと、戸が開く音が聞こえて、チーコを抱いたエマと、翼、百合子が入ってきた。

振り返る冥月の目にまず飛び込んできたのは、醜い傷だらけのチーコの体。
見られまいとするかのように身を小さく小さく縮めるチーコの体は、火傷の痕や、痣、中には酷い切り傷のようなものも見えて、「ああ」と心の内で冥月は詠嘆した。
先ほどまで見ていた、エリィの肌も、いずみの肌も千剣破の肌も、竜子の肌だって、傷一つない、珠のように美しい肌で、冥月とて勿論、何処もかしこも柔らかで滑らかな肌をしていて、チーコは、まるで、他の人と違って、傷がたくさん残る自分の肌を恥じるように、見られまいと体を硬くしている。

畜生。

口汚い言葉。
滅多に思い浮かびやしない、そんな言葉が冥月の脳裏に思い浮かんだ。
奥歯をぎりっと噛み締める。

畜生。

竜子は殺さなかった。
その選択はきっと「正しい」。

殺さないほうが、正しい事は正しいのだろう

だけど、思う。
やはり、私には許す優しさより、許さない優しさの方が似合う…と。

エマが掛け湯をしてあげると傷に染みるのか、身を竦めるチーコを「えいっ!て、一度お湯に浸かっちゃえば、すぐに慣れるからね?」と励ましつつ、エマがチーコを抱えてゆっくりとお湯に浸かる。

ぶるぶると身体を小刻みに震わせ、目をぎゅうっと閉じていたチーコが、息を小さく吐き出し、体の強張りを徐々に解いていくまで、誰もが息を詰めてチーコの事を見守っていた。

「はふぅ…」と小さく息を吐き出し、漸くゆっくりと体を弛緩させる。
「えらい、えらい。 凄いね、よく我慢したね」
エリィが気持ちを込めた声でそう言いチーコの頭を撫でた。
「ご褒美に、エリィおねーさんが、チーコちゃんの頭を洗って進ぜよう。 あたし、手先器用だから、超気持ちいいよ?」
明るい、心の染み入るようなエリィの笑みに、気持ちもほぐれたようにチーコが頷く。
千剣破も、おどけた声で「ええー? いいなー! じゃあ、あたしの髪も洗ってよ! ほら、ご褒美に!」と訴えて、半眼になったエリィに「何のご褒美?」と問い返される。
「えーと…可愛いご褒美?」とわざとらしい上目遣いで言う千剣破に「不可! 自分で洗いなさい」とエリィはきっぱり答え、そのほのぼのとしたやり取りに、チーコが「ふぁうふぅ」と、漸くいつもの笑い声をあげてくれた。

ああ、よかった。
チーコが笑った。

百合子が、ぽちゃんと肩まで浸かると、チーコの傷のこと等何にも目に入ってないような、呑気な口調で「はぁ…気持ちいい」としみじみ呟き、自分の太ももを撫でさすると、「ね? 正木さん」と語りかける。
「…正木さん?」
気になったように翼が問えば「ええ、人面疽の正木さん」と事も無げに答えて、ザバァと突然肉付きの薄い足を「えい」と高く掲げ太ももを指差した。
「この人」
そう言いながら示す先には、確かに人の顔に見えなくもない痣が一つ。
「これが正木さん。 今は大人しいけれど、私がピンチの時には的確なアドバイスをくれるの」
そう言って「よしよし」と痣を撫でる百合子を皆、マジマジと眺める。
そういう能力がある…としても、自身含め興信所のとんでもない面々を見てきた冥月にすれば、別段驚愕の事実って訳でもないのだが、なんだか、どう見たってただの「人の顔に見える」痣にしか見えない。

「おじさんなんだけど、大丈夫、今は眠ってるし、お風呂中はね、紳士だから目を瞑っててくれるの。 だから、皆の裸も見られたりしないから安心してね?」

そう言う百合子に、皆、曖昧に頷いたり首を傾げたり、それぞれ反応を見せたのだが、百合子が最初の頃にまるで自分が何の変哲もない普通の人間みたいな物の言いを思い出し、どこかだ!と冥月は少し憤慨した。
彼女が喋ると、それまでの流れなんか全然把握してないような、頓珍漢なのに憎めない言葉ばかり吐き出して、雰囲気も何もかもぶち壊しにされてしまうのだけど、逆にそれがありがたかった。
あまつさえ、チーコの太もも部分の痣を指して「あ、これ、私と御揃いじゃないかしら? ねぇ、喋ったりしない? きっと、この子も人面疽よ」等と言い出し、色々な意味での恐怖にチーコをピシリと固まらせる。
「よかったね! きっとピンチの時には助けてくれるわ☆」そう無邪気に言う百合子にブンブンと首を振り、助けを求めるようにいずみに視線を送るチーコに「大丈夫。 絶対、喋らないから」と請け負うと、「怖いことを、チーコに吹き込まないで下さい!」といずみは百合子に注意した。
「えー? ロマンなのにぃ」
そう口を尖らせ言う百合子に、エマも、翼も「ぷっ」と噴き出し、「百合子さんに掛かると、みんなロマンになるんだね」と翼が面白そうに言った。
チーコは、そんなみんなの様子に先ほどまで見せていた固い態度を取り払い、自分の体の傷跡も、恥ずかしそうに隠すそぶりもいつの間にか見せなくなった。



夜。
幾ら安全が保証されているとはいえ、念には念をと言う事で不寝番を行う冥月が、縁側へと足を向ければ黒須とエマ、それに黒須に抱かれたチーコが並んで座っていた。

芳しい藤の香り。

シトシトとした雨に打たれた、その庭の風景は絶景としか言いようのない、美しい姿を見せてくれている。



「…言いなさいよ」

エマが、泣きそうな声で黒須に訴えていた。

冥月はマズイ所に来てしまったかと息を潜めて闇に姿を隠す。

目を凝らせば、黒須の腕から血が零れていた。
冥月は目を見開き、何者かに襲われたのかと辺りを警戒する。
されど、そんな気配は微塵もなくて、そチーコの口の回りが血で汚れている事に気付くと、その場にしゃがみこんで、「ああ…」と微かに息を吐き出した。


赤い血が、薄闇の静かで清らかな神社の風景の中でぎょっとするほどショッキングな色合いに見えた。

チーコは ずっと笑ってて

一度だって泣かなくて

全く平気な素振りで

それでも


それでも あの子は 怖かったんだな

「ああ」

冥月は両手で自分の顔を覆った。

黒須の腕を噛んでいるチーコの姿が脳裏に浮かぶ。

ストレス。 当然感じて然るべきものだ。
自分の体に次々と起こる不調。
迫る死。
足が動かないだけではない。
何処か傷む場所だってあるはず。
怖いだろう。
思い通りにならない自分の体。
当る相手もおらず、彼女は黒須にそのストレスをぶつけたのだ。

それが、あの傷跡。



黒須の腕に残る、酷い噛み傷。



「あんたは!」

エマが、叫ぶような声で言う。

「素直になんなさいよ! 黙って! 馬鹿じゃないの? 馬鹿じゃないの?! 誰も見てないわよ。 こんなとこで、一人で格好つけて! 私だって……私だって幾らでも噛まれたいっていうのよ…。 チーコちゃんが、それで楽になるなら、全部ぶつけて欲しいって思うわよ! 私ねぇ! 自己犠牲って一番嫌いなの! 一人だけ痛い目にあって、それで誰かが救われればそれでいいなんて、馬鹿な考えよ! あんたの事を大事に思う人間がすぐ傍にいるのを知ってるでしょ?! だ…だ…れも、気付かないじゃない…。 どうしたらいいのよ…。 黒須さん…ねぇ…黒須さん……」

エマが黒須の肩を掴んで揺すった。

「…あんた 生き難いでしょう? そんなんじゃ…生き難いでしょう? 色んな人に嫌われて、第一印象で偏見持たれて、私だって一緒よ。 最初は気持ち悪かった。 そんなの嘘は吐けないわ? でもさぁ…でもさぁ…、私、そこそこ付き合い長いつもりよ。 色々言い合って、浅草だって楽しかったじゃない? 武彦さんだって、信頼できる人だって分ってくれてるんでしょ? 友達だと思ってる。 私、結構、黒須さんの事困ってたら助けてあげたいって思う位には、友達だって思ってる。 竜子ちゃんだって可愛いの。 痛い思いをしていたら、手を差し伸べたいって思うのは、甘い考え? お節介?」

黒須がゆっくりと首を振った。

「…ありがてぇよ。 姐ちゃんが、そうやって色々…」とそこまで言った瞬間、エマが黒須の肩をまた揺すった。

「名前を呼んで!」

黒須が、体を震わせ俯く。

「名前を、呼んで。 ねぇ。 黒須さん。 私の事、一度だって、名前で呼んでくれた事ないね? 信用できない? もしくは、そこまで近づくのが怖い? 大丈夫。 もう、私は大丈夫。 蛇なんて怖くないもの。 友達でしょ? 私は、あなたを裏切らない。 信用して。 信用してよ…」

エマがそこまで言って唇を噛む。

「ねぇ、知ってる? 私の名前はシュライン・エマっていうのよ?」

黒須が恐ろしい言葉を口にするかのように唇を震わせて、掠れた声で「エマ」と呼んだ。
エマは怒った顔のまま「何よ。 黒須さん」と言葉を返した。

チーコが手を伸ばし、泣きながらエマの腰に抱きつく。

「ひあぅぅぁぅ…うぁあっぅっはぁっぅ…」

涙声に首を振り、その体をエマは全身を使って抱きしめると「違うわ。 チーコちゃん。 あなたは何にも悪くないの。 大好きよ。 大好き。 大きな声を出してごめんね? エマは、チーコちゃんがすっごく好き。 大好き。 可愛いチーコちゃん。 本当に、本当に、会えて良かった。 大好きよ。 ずっと一緒。 ね? ずっと一緒」そう耳に囁き、何度も何度も背中を撫でる。

いつしか雨は止んでいた。
月明かりの下、雨に濡れたつつじや、藤の花々が淡い光を放ち咲き誇っている。


それは、染みるように、ただ呆然と受け入れるしかないほどに、美しい、美しい情景だった。

「ああ…これが、あなたと見たかったの」

エマが言った。

チーコが庭をじっと見ていた。
黒須は、少し溜息をついて、それから「ありがとう」とエマに告げた。




「運ぶの手伝ってくれ」

黒須に声を掛けられて、気付いていたのかと闇の中から立ち上がる。
コトンと抱き合って眠るエマと、チーコの姿を眺め、
冥月は少し笑った。

「最強だな」
「だろ?」

黒須は呆れたように言う。
腕から流れ出る血に目をやって「いつからだ?」と問い掛ければ、素直な口調で「初日から」と答えた。

「そうか…気付かなかった」
「いや、あんたは別の事に気を張っていてくれたから…」
黒須の言葉に首を振り、「チーコは辛かったんだな」と項垂れる。
「だが、エマの言う通りだ。 お前、生き難いだろう?」
冥月の言葉に「生き易いよりゃ、楽なんでね。 俺にとっては」と黒須は答え、存外に不器用な男の背中を見下ろして「馬鹿な奴だ」と冥月は呆れたように言った。

そのまま、冥月はエマを抱き上げ、黒須がチーコを抱えて、皆が眠る座敷へと運ぶ。
空いている布団に横たえれば、エマが幸せそうに笑って寝返りを打った。

「敵わないって思うよ。 実際エマには」

冥月は黒須に言う。
黒須も、大きく頷いて、「あんたがそう言うなら、ほんとに最強だ」と笑った。



最終日



「うひゃあああ!!」

無闇矢鱈な大声をあげて竜子が走り出した。
時雨もつられたように「わぁぁぁ!!!」と大声を上げて、案の定パフンと途中で転ぶ。
強い風が吹き渡っていた。

「まぁ、本物の砂漠には及ばないけど、やっぱ、ここはここで、奇景って感じで風情があるわね」
エマが風にあおられる髪を抑えながら言う。

そう、ここはかの有名な、鳥取県にある「鳥取砂丘」。
連休中という事もあってか、観光地らしく、ラクダなんぞに乗って砂丘を横断している人もあり、歓声をあげてはしゃぐ子供の姿もそこらかしこにあり、深々と大きめのパーカーを着て、フードを被り、顔を隠しているチーコも同い年位の子供達の声に何処となく嬉しげに聞いているように見えた。


今朝方は、それまで見せていた旺盛な食欲も衰えて、折角エマ達が腕によりを掛けて作った朝食を殆ど残していた。
体調も酷く悪そうで、昼過ぎ頃まで眠らせて、少し顔色が良くなったのを見計り、神社を後にしてきた。

つつじと、藤の花に見送られ、心地良い神社を後にした一行が、ここを訪れたのは、エリィがパラパラと道を確認する為に捲っていたガイドブックを、布団の中から覗き込んでいたチーコが、砂丘のページに差し掛かった所、どうしても見たいとエマに訴えたからだ。
そのガイドブック一杯に広がっていたのは、夕日が沈み行く砂丘で、たくさんの子供達が駆け回る写真。
何かの砂丘にてイベントが行われた時の写真らしい。
母親に手を引かれ走る子供達の写真を見て、行きたいと願うチーコに、エマは二つ返事で了承し、他の者とて誰も反対しなかった。

チーコの為の旅なのに、自分の体調の事を含め、しきりに申し訳なさそうな顔をするチーコが、何だか健気で仕方がない。
エマはしゃがみこみ、自分の膝の間にチーコを抱え、その髪をゆっくりと撫でている。
百合子は、それでも平和な顔をして、小さな声で「月の砂漠」を唄っていた。
エマも小さな声で、囁くように百合子と合わせて唄う。
小鳥のように澄んだ可愛い声した百合子と、落ち着いた優しい声音で唄うエマは、強い風の中で、それでもかすかな歌声をチーコの耳にありったけの愛情を込めて注いでいた。
チーコは、余り持ち上がらなくなった腕で、それでもおぼつかない手つきで、冥月に貰った万華鏡を覗いていた。
いずみは、エマの膝に頬をくっつけて、二人の歌声に耳を澄ませていた。

昨日まで元気に見えていたのに、病の進行の仕方も人間とは異なるのか、肌の色艶も良くなくて、呼吸も微かに荒い。

苦しいのだろう。

冥月は、切なく思う。
命の終わりの時が近付いていた。

だが、現実は残酷で、時は間違いなく流れていて、少しずつ日は暮れていく。



時雨が子供達を連れて、チーコの元へとやってきた。
どうも、子供に酷く好かれる性質のようで、腕や足元に纏わりつく子供達を柔らかな笑みを浮かべて見下ろしている。
身長の高い時雨と、小さな子供達の影が、砂丘に長く伸びていた。
まるで、ハーメルンのようだと冥月は思う。
茜色に染まりだした空の下で、優しいハーメルンは子供達を、チーコに引き合わせた。

ガイドブックの写真を見ていたチーコの目は、憧れの眼差しで、きっと、時雨はチーコのあの目に込められた希望を読み取って、彼らをここへ導いたのだろう。
一瞬、冥月は「大丈夫か?」と、どうしたって普通の人間の子供の姿とは違うチーコと子供達を会わせる事に不安を抱いた。
だが、時雨がいるなら大丈夫。
何だか、子供の扱いに関しては、時雨の右に出るものはいないような気がしたのだ。

自分の事を好奇心一杯で覗き込んでくる、実際の子供たちの姿に、チーコは一瞬身構えるも、時雨が言い含めてあるのか、子供達は驚いた目でチーコを眺めるも騒ぎ立てはしない。
チーコの姿をマジマジと眺めながらも、そのうちの一人の女の子が、素直な声で、「かわいい」とチーコを評した。
夕闇の赤い色が濃くなっていく。
チーコはおっかなびっくりの表情で、子供達に手を伸ばした。
一人の子供がチーコの掌を握った。
「かわいいね。 名前は、なんていうの?」

チーコは、震える声で答えた。

「チーコ」

はっきりとした発音で、何度も、何度も、皆が呼んでくれた自分の名を、大事に、大事に呟いた。

「チーコ…いう」
「チーコ。 可愛い名前」

子供達がさざめき、チーコに笑いかけた。

「かおりー! そろそろ行くよー!」
「聡、何処行ったの?」
「あら? 翠? 翠?」

砂丘のそこらかしこから、子供を呼ぶ母親の声が聞こえてきた。

「あ、呼んでる! じゃあね、チーコちゃん!」
女の子が一人手を振り、砂丘を越えて行ったのを切っ掛けに、子供達は皆それぞれ、母親の元へ帰っていく。

チーコは小さく手を振って、それから甘えるようにエマの胸に顔を埋めた。
ポンポンと頭を優しくエマは叩く。

「ひぃぅあぅ…」
エマが頬を、チーコの頭にくっつけて、「なぁに?」と聞いた。

「ふぅあぅぃぅう……」

冥月は、喉の奥が痛んだ。
時雨が、夕日に目を向ける。
海の波が、ザブザブとした音を立てた。

「……もうじき、……日が沈む。 ボク達も…行こう」

頷いて、立ち上がった時だった。


突如背筋を襲う寒気。


 
振り返れば、砂丘の上にずらりと男達が並んでいた。
皆、手に物騒なものを持っている。
チーコの元にすぐ駆け寄れる位置で待機していた冥月は、タッと、素早い動きで駆け寄った。

「思ったよりも早かったな。 追いついてくるのが」

舌打ちせんばかりの表情で、そう呟くと、ひょいとエマからチーコを取り上げる。

「私の傍にいろ。 大丈夫だ。 絶対に傷つけはさせない」

武彦には黙っていたが、自分の影内なら間違いなく安全を保証できる。
自分の傍以上に、鉄壁の守りが果たせる場所もない筈だ。
「いずみは、時雨の傍に…」と指示を出せば、それを遮るようにして「大丈夫です」と、いずみは言った。

「一応、自分の身は自分で守れますし…」
視線を向ければ、前回を遥かに超える人数が待機していて、いずみがきゅうっと目を細めた。

「あの人達…人間じゃない」

いずみの言葉に「いい目だ」と冥月は褒めると、「キメラだ」と呟く。

水族館で合間見えた、『犀牛』と同じ生き物。
影に探らせて確信を得ていた。
奴さん最終兵器を投入してきたか。

「キメラ?」
「人間と、動物を掛け合わせてある。 あの、悪い奴らのお得意技らしい。 とうとう、相手も本気を出してきた」
そう唸るように言って、それから、「大丈夫なんだな?」と念を押す。
「ええ、足手まといにだけはならぬよう自衛に努めます」
いずみの頑なな表情に、冥月はしょうがないという風に溜息を吐けば「私も、これは、守られ役ではいられないわ。 サポート程度だけど、協力も出来ると思う」と、エマが強い目で告げてくる。
言い出したらきかなそうな二人に、正直、戦力は幾らあっても無駄にはならなそうな現状を踏まえて、ありがたく頷いた。
百合子も、もじもじと「わ、私も…」と何か言いかけるも、戦闘に対して、何ら有効な能力を持たないと察している百合子に、冥月は「百合子は、私と共にチーコを守れ。 抱いていてやってくれ」と、チーコをその腕に預けておく。
細い腕で、おっかなびっくり、不器用にチーコを抱く百合子に一瞬不安を覚えども、今はそういう事態ではない。
「夜になれば、私一人で全て片をつけられる。 闇は私の領域だ。 何が起こったのか分らぬ内に、皆地に沈めて見せよう。 だが、今は無理だ。 影を操って、あいつらを拘束するのは可能だと思うのだが、これがただの先発隊で、後からまた別部隊を送られてくる可能性がないわけではない。 今、この様子をまた、別場所から眺めているものがないとも言い切れぬしな。 こちらの能力を悟られれば、何某かの対抗策を練ってこないとは限らない。 向こうは、こちらを遥かに凌ぐ組織力と、資金を持っている。 この仕事が終わった後の事を考えると、はったりを効かせ続ける為にも、私の能力は、まだ、悟られない方が良いだろう。 まぁ、幸い…」

そこまで言って周囲を見回せば、異様な雰囲気を察したのか、観光客等は姿を消していて、「…周りを気にせず、思いっきりやれる。 夜まで保つか?」の問い掛けに、翼と、時雨が同時に片眉を上げた。

「冥月さん、こう見えても、僕は荒事も得意中の得意でね。 特に女性を守る時には、自分でも想像のつかないほどの力を振るえるんだ」

にぃと翼は美しくも凶暴な笑みを浮かべて見せると、「夜までなんて、長すぎる。 まぁ、見てて下さい」と冥月に宣言した。

時雨も、「大丈夫…夜になる前に…ここを出られるように…するからね?」とチーコに語りかけ、それからツイと同時に敵を睨んだ。

まぁ、確かに、彼らには失礼な言葉だったかと、少し反省する。
今回は、守るべき対象も多いせいか、冥月にしては珍しい程に、司令塔の役割を負ってチームプレーに徹していたが、一度たりとも歯痒さを感じる事無くここまでこれた。
それだけ、皆が、優秀だという事だ。
誰かに頼るのも悪くないと、冥月は心中で嘯く。

「ううん。 あんまり、暴力とか得意じゃないんだけどな」と呟いて、兎月原が柔軟を始めた。
エリィが夕日の輝きを受け、赤く光るナイフを抜いて、「さて、チーコちゃん、あんまり待たせられないしね」と静かに呟く。
黒須と竜子は一度視線を合わせ、ぽんと竜子が黒須の背中を叩いて「んじゃ、いってらっしゃい」と気軽な調子で言い、それから、冥月に向かって「あたいも、あんたの傍にいさせてくれ」と告げた。
「了解した」と、冥月は頷き、嵐が何か言いかけるより早く、「バイクで、かき回してやれ」と指示を下す。
ガクリと肩を落とし、「ほんと、俺、ただの素人なんだけど?」と問う嵐に、冥月がシレっとした顔で「いや、素人にしておくには勿体無い度胸と身体能力を持っている。 励め」等と、嵐の師匠と見紛うばかりの励ましの言葉を口にした。

千剣破が海へと向かって歩き出すと、「いずみちゃん、あなたの目であたしをサポートして」と声を掛けた。
先ほどの様子を見ても、かなり目が良いいずみの協力を得て、力を振るってくれるらしい。
だが、彼女の強張った表情が、なんだか少し気になった。
ピンと張った糸が、今にも切れそうな風情に見えたから、いずみも、一瞬気遣わしげに、千剣破を見上げたが、その視線に余裕をなくした、彼女は気付かなかった。

「日があるうちは、私はチーコの守りに徹する。 任せたぞ」

冥月が、そう告げると、一際強い風が吹いた。

「チーコを苦しめた連中だ。 死なない程度にしか、手加減はしてやらない」

翼が剣呑な宣言をするのを合図に、それは始まった。

向こうの人数は、圧倒的に多数。
だが、個人個人の実力は、比べるまでもなく此方の方が上。
人数押しで来る向こうの攻撃を少ない人数で、どれだけ押し留められるのかが鍵になってきていた。

冥月の体の傍に、ぴったりと百合子が身を寄せて、チーコを抱きながら戦況を見守っている。

冥月は表情を変えず、腕を組んだまま微動だにしない。
千剣破は、海の水を硬球に変えて、一気に敵に降り注がせていた。
痛みに怯むものや、当たり所が悪く、一撃で昏倒するものもいる。

「殺してはならない」の制約は、名うての実力者達にとっては、少々面倒なものらしく、それぞれ手加減の程に苦慮しているようだった。
接近戦を得意としているらしい、エリィや兎月原は、確実に一人一人に当身や、急所への攻撃を仕掛け、意識を奪っていっている。
嵐は、冥月の言葉どおり、バイクで敵が固まっている場所に突っ込み、散らしたり、タイヤを使って巻き上げた砂によって、視界をさえぎったりしていた。

振り返れば、夕日が徐々に沈み始めていた。
冥月の時間が近づいてきている。

ジリジリするような気持ちを押さえ込みながら、まだだ…と自分に言い聞かせた。
大丈夫。
彼らは、強い。

負傷者や、深刻な重症を負う者もなく、自分の出番が来れば…と待ち望みつつ、冥月が、もう少し戦況が見渡せるような、高台へと移動を始めた時だった。

強い風が吹いた。

チーコが万華鏡を落とした。


コロコロコロと、万華鏡が転がっていく。


「あぅ!! ひぁぅ!!」


チーコはもがき、百合子の決して力強いとは言えぬ腕から抜け出した。

冥月は目を見開く。

自分の万華鏡を必死に追うチーコの姿が一瞬信じられなかった。


チーコが、サクサクサクと足音を立てて、万華鏡の後を追っていく。


「っ! チーコ!!!!」

初めて、冥月が声を荒げた。


コロコロコロ、冥月に貰った万華鏡が転がり、チーコも転げるようにして走っていた。

トテトテと、もう歩けぬ足で、それでもよたよたと、チーコが必死に万華鏡を追った。

呆然が百合子がチーコを眺め、それから、悲鳴のような声をあげて、走りだす。
竜子も怒鳴るようにしてチーコの名を呼び、その後を追って行った。
思わず、常にない大声で叫ぶ。
「っ! 馬鹿者! 動くな!」
だが二人は気付かぬように走っていく。


安全な 冥月の影のうちから飛び出して。

「っ!!」

馬鹿が! 馬鹿が、馬鹿が、馬鹿が!
だから嫌なんだ、ああいう手合いは!
殺さないという!
守れという!
優しい事ばかり言って、肝心なときには、こうやって足を引っ張る。

甘いことばかり言って、こんなに! こんな風に!

私の事を心配させて!


同じく彼女達を追いかけた冥月の前に、複数の男達が走り寄る。

「邪魔を! するな!」

苛立ち紛れに叫び、影の力を行使して、叩き伏せようとするも、流石に一筋縄でいく相手でもなく、焦りの気持ちも手伝って、思ったより手間取ってしまう。


二人がチーコに追いつくより早く、四つん這いになって人間ではありえない速さでチーコに走り寄ってきた男が、まるで、サッカーのボールを蹴るみたいに思いっきり、チーコを蹴っ飛ばした。

「ヒュゥッ」と喉の奥が狭まる。
チーコが玩具みたいに吹っ飛ぶ。
砂の上を、二三度バウンドして、ごろごろと体を転がしたチーコ。


「逃げて!!! チーコ、逃げてぇぇぇぇ!!!」


いずみが叫んでいる。


もし、目の前で、チーコが無残に殺されたら…


彼女を守りきれなかった自分を、自分は一生許せないだろう。

それは、圧倒的な恐怖心。

チーコは、動かぬ足を砂の上でもがかせ、そして、腕で這いずるようにして、それでも、万華鏡を追った。

冥月は喚き散らしたい気持ちになった。


そんなものはどうでも良いんだと。
人を殺して得た報酬なんだと。
大事にしなくて良い。
お前の身の方がよっぽど大事なんだと。


万華鏡を受け取った時の、チーコの笑顔を思い出す。


泣きそうだ。

冥月は自分の感情に怯んだ。

私、泣きそうだ。


ずるずると這い手を伸ばす先に、万華鏡が触れるか否かの間際、横たわるチーコの体を、先程チーコを蹴り飛ばした男が思いっきり踏みつけた。

「うぐぅはぅっぅっ!!!」

悲鳴とも喚き声ともつかない声。


幸せな気持ちだけで一杯にして、幸せな時間を過ごさせてあげる筈だったのに。


「チーコ!!!!」


絶叫に似た、それは、紛れもない咆哮だった。

百合子が夢中な様子で、チーコの上に覆いかぶさる。
竜子が、そんなチーコと百合子の前に、彼女達を全ての脅威から守るかのごとく立ちはだかった。

あれが彼女たちの覚悟。
殺さなかった彼女たちの命がけの覚悟。


稲光が聞こえた。
酷く凶暴で荒れ狂うその音に、全てのものが一瞬、空へと視線を向け、そして、海の様子に瞠目した。

真っ黒な海。
荒れるなんてものじゃない、それは、異常な姿だった。

千剣破の様子が明らかにおかしかった。

彼女の仕業か?

千剣破の周りを黒い水が取り囲む。
海の色は、黒炭を流し込んだような漆黒。
海から巨大な水の竜巻が幾つも立ち上がっていた。
真っ黒な海。

酷く禍々しい、その姿。

「あ…ああっ、あっ…!! 許せない…許せない…許せないっ!!!!!!!!!」

目を見開いたまま、千剣破が強い声で繰り返し叫ぶ。
ビリビリと周囲の空気が震えていた。
空に暗雲が立ちこめ、稲光の音が聞こえてくる。


黒い水を身に纏い、真っ白な頬を更に白くさせ、爛々とした目で敵を見据えている。


酷く恐ろしく、酷く神々しく、酷く美しく、そして酷く危うい。

髪の毛が風に舞い上がる。
普段より赤く色づく唇が、きゅうっと引き結ばれる。

皆が、海の様子、そして千剣破の様子を凝視していた。

敵の男達の中には、明らかに危険なこの状況に既に逃げ始めたものもいる。


「いずみ…、千剣破を止めろ!」

冥月が、漸く自分の進行を阻害した敵を全て昏倒させ、咄嗟に叫んだ。


千剣破は、とんでもない力を呼び覚まそうとしている。

それは人知を超えた力。
誰にも抑えようのない脅威。
今ここで振るわれたら、皆一たまりもない!


いずみが、冥月の言葉に応えるように、突然ぐいと手を伸ばし、千剣破の胸倉を掴むと、下に引き寄せ、その頬を思いっきり張り飛ばした。

「うわ」
冥月は自分で指示しておきながら、いずみの容赦ない張り手の様子に、思わず自分の頬に痛みを感じる。

「しっかりなさい!!!!」

凛とした声で、いずみが千剣破を叱る声が聞こえてきた。

「泣いているでしょう! チーコが泣いているでしょう! 今、あなたは、誰のために力を振るおうとしているの?! それは、誰を守る為の力なの?! 正気に戻りなさい! 泣かさないで、チーコを! 千剣破さん! 泣かさないで!!」



チーコの泣き声。


万華鏡を抱きながら、百合子の腕の中でチーコが泣いている。



いけない。
チーコ、泣かないで。
泣かないで。



幸せな気持ちで。
幸せな気持ちで…。


いずみの言葉に徐々に千剣破の焦点が結ばれる。
海が徐々に静まり始めた。
千剣破が呼んだ暗雲も、霧散し、その下の茜色の空が、夜の闇を濃くし始めている。
視線をチーコに向ければ、黒須が竜子を鋭い爪で切り裂こうとしていた男を叩き伏せていた。
「無事か?!」
黒須の問い掛けに百合子が頷き、手を伸ばす時雨に抱きしめていたチーコを渡した。

「ああ…よかった…」とその無事な姿に時雨が微笑み、ついで「百合子…さんも…お竜…さんも無事で…よかった…」と安堵に満ちた声で言う。

「っ…行くぞ…」

そんな時雨の肩を叩き、黒須が百合子と竜子を促して、とりあえずこの場を離れようとした瞬間、一発の鋭い銃弾の音が砂丘に響き渡った。


ドラマみたいな、偽者みたいな銃弾の音。


音のするほうに目を向ければ、まるで壁になるみたいに、チーコや竜子達を守る為両手を広げている黒須がゆっくりと倒れる姿が目に入った。


まるで、世界中の速度が、スローモーションになったように見えた。


黒須?

「黒須さんっ!!!」


冥月はその光景を把握するのに、暫くの時間を有した。

黒須が撃たれた。

「ちぃっ」

激しい舌打ちをして駆け寄る寸前、「あ、やばい」と、酷く軽い口調で竜子がいう声が聞こえ、思わず視線を向ける。


「夜来てるしな…いや、それで助かったんだけど…助かったんだけど…」

そこまで言って、困ったように周囲を見回す。
「あんまな、気持ちの良いもんじゃないから……じっと見ないほうが良いぞ?」
竜子がそう言うのに、思わず首を傾げた。

言ってる意味が分からない。
説明を求めようとする前に、竜子が、少しだけ愉快気に口を開いた。

「怪奇。 蛇男のお出ましだ」


「「蛇男??」」と、百合子と時雨が揃って首を傾げた。
疑問に翻弄される冥月の目に、驚くべき光景が映った。
夜闇の下、「あ、っ、っつぅっ、ち、畜生っ!!」と黒須が叫び、蹲った次の刹那には、彼の姿が、下半身大蛇の姿へと変わっていた。


濡れた輝きを見せる黒い鱗に覆われた大蛇の尻尾がのたくっている。
6.7メートルはあるだろうか?
その長く、丸太のように太い下半身をくねらせながら、蹲る黒須の姿に、咄嗟に生理的な嫌悪感を感じて鳥肌を立たせる。
どういう事かも見当がつかず、ただただ、黒須の姿に魅入られた。

生理的嫌悪感を掻き立てられるその姿。
気持ち悪い。
不気味でしょうがない。

だから、目が離せない。

何が、どうなって、こういう姿になってしまったのか。
それとも、元からこういう生き物だったのか。
醜い。
それは、酷く醜い姿だった。

兎月原の言っていた、蛇の血が混じってるとは、こういう事か。

冥月は驚愕を禁じえない。
想像以上の、真実だった。

着ていたスーツは無残に破かれ「今回は、この姿になんねぇで済むって、踏んでたのに!」と悔しげに喚く。

竜子を除く全ての面々が、硬直していた。
硬直…せざる得ないだろう、この姿には。


「な…、なん…、な…! なに…?! あれ…!」

ずびし!と黒須を指差し時雨が問えば、竜子は一瞬の困惑の表情を浮かべた後、随分老成した虚ろな眼差しを見せると「…呪われた蛇一族の末裔なんだ。 黒須は」と限りなく棒読みな声でそう告げた。
普通ならば、光の速さで「嘘だよね?」と気付ける、好い加減具合最高潮な竜子の台詞なれど、天然ぼけ二人組百合子と時雨は即座に頷いている。
冥月も、彼らの素直さを見習いたいものだと思いつつも、まぁ、正直わけが知りたいとは然程思えなかったので、どうでも良いと放置した。
まあ、命に別状がないのなら良かったと思った瞬間、ふと、嫌な気配を感じて、砂丘の上に視線を向けた。


そこには、今、この場にいるどの男たちとも雰囲気の違う二人の男が立っていた。

一人は仕立ての良いダブルのスーツを着こなした長身の男で、他の粗野な雰囲気を身に纏う男たちとは一線を画する威圧感を有している。
派手な色に染めた少し眺めの髪を、鬣のように後ろへ流して風に舞わせている。
顔立ちは端正で、精悍でありながら、後ろ暗い、ヒリヒリとした危険を感じさせる危険味も含んでおり、『犀牛』、追従するような様子で何か鬣の男に伝えているのを見て確信した。

あいつが、K麒麟の首領か。

その隣に立つのは、首領と対照的に身長も低く、青白い顔をした細い男で、白衣を風になびかせながら、脇に立つ男達のやり取りなど一切無関心といったように、戦況を凝視していた。

Dr。

チーコに発信機を埋め込んだ男。

浜辺で、翼によって得られた情報を思い出し、まさしくと言った風貌に間違いないと確信する。

ぎょろぎょろと目ばかり大きく、銀縁の眼鏡の中で彷徨っている視線が、黒須を捉えると、ギラギラとした輝きに満ち始めた。

こんな人間と、動物を掛け合わせたキメラを作ったり、チーコのような子を攫ってくる人達だもの。
黒須のような人間に興味を持つのも不思議はないと思いながらも、Drと呼ばれている男の視線の狂気的な有り様に怖気を奮う。

(黒須が変な目のつけられ方をしなければいいが…)と思えど、今は、先の事を考えている時ではない。

夕日が完全に沈みきり、あたりは夜闇に包まれる。

「待たせたな」


低い声。


無慈悲な夜の女神。


黒冥月が動き出す。

「じゃあ、終わりを、始めようか」

黒いロングスカートが風に揺れる。
髪を高く結った冥月が両手を広げた。


容赦はしないつもりだった。

特に…『犀牛』には。

夜が来るという事。
それは、「冥月によって、全て片がつく」という事と同意語でもあった。


闇が、一斉に男達を蹂躙し始める。
意識なんて、一秒だって保たせてやらなかった。。
冥月は、その中で、正確に一人の男の気配を追う。


見つけた。

闇に潜り込み、冥月はその男の影から姿を現す。

そこは車の中で、また、一人で逃げ出そうとしてたのかと、その卑怯さを冥月は嘲笑う。

「…冥月?!」

名を呼ばせる間を与えたことすら厭わしかった。


「お前は 許してやらない」


竜子、悪いな。 約束を破るよ。
だけど、しょうがないんだ。
私はそういう女なんだ。

許してやらない事でしか、チーコに優しくしてやれないんだ。
こいつを生かしておくと、たくさんのチーコが生まれるんだ。

私が血で汚れるよ。

私だけが死の匂いを抱いていけばいいよ。
黒須が一人でチーコに噛まれていたように、私は私で一人ぼっちで請け負わなきゃいけない役目がこの仕事にはあるんだ。



お前は綺麗なままでいろ。

こんな事でチーコは汚れないから。
私だけが汚れればいいから。



「さよなら」


冥月は、『犀牛』の襟首を引き掴んで影の中に引きずり込む。

ほんの数秒の沈黙。


次の瞬間、皆の下に戻っていた冥月の手は血で真っ赤に汚れていて、竜子が走り寄る前に、慌てて影の倉庫から取り出した布で手を拭った。


『犀牛』の姿は、それ以降誰も見ることはなかった。





思わぬ時間を取られたせいで、山口県に到達する頃には、夜明けが近付いて来ていた。

砂丘の上に見た男達の行方を尋ねてくる者もいたが、全て「取り逃した」と答えておいた。
「つくづき逃げ足の早い連中だ」と呟く冥月ではあったが、実際、首領とDrの行方を追い損ねたのは少し悔しい。

チーコの蹴られた傷跡は、もう微塵も見当たらない。
千剣破の水の力によって、傷を癒したのだ。
疲れきった様子の千剣破ではあったが、最後の力を振り絞り、チーコを癒す姿を見て、冥月は心底、彼女にはこういう力の使い方の方が似合うと感じた。
チーコの蹴られた時の記憶は、翼の「事象の操作」という恐るべき能力によって消されていた。

「本当は、タイムパラドックスを引き起こしかねない、使ってはいけない力なんだけどね…これ位なら、大丈夫だろう…」と言って翼が新たに作り上げた事象は「蹴られた際に、チーコは意識を失い、砂丘で暴力に晒された記憶は、ショックで消えてしまった」というもの。
傷跡もなく、記憶もないチーコは、まさか自分が恐ろしい目に合っていただなんて事も、すっかり知らぬ気に、穏やかな様子でエマの腕の中でじっとしていて、冥月は心から安心した。

良かった。
不幸せな思い出は、三日間の間一つだってチーコの中に残したくなかったから、本当に良かった。





潮岬…本州最南端の海。


その海を一望できる、灯台の上に立ち、チーコが夜の海を眺めていた。

もうじき、夜が明ける。

チーコは、自分を抱いていたエマの腕を優しく叩き降ろしてくれるようにと頼んだ。


ここが彼女にとっての、最期の地。


見上げれば満天の星空があって、皆息を殺してチーコを眺めた。


チーコは、自分の運命全て分っているかのように微笑んで、一礼する。

キラキラキラと、夜闇を引き裂くように、流れ星が落ちていった。



唐突に、何の予備動作もなく、その喉からチーコは、燃えるような、熱く、熱く、力強い声を出した。



「会わなければ よかったと

思う私を 許してください」


それは紛れもなく、人の、日本語の、冥月達が使う言葉の 歌。






会わなければ よかったと

思う私を 許してください


闇の中で 息絶えていれば

生きたいと願わずにいられたのでしょう


優しくされて

優しくされて


私は死ぬのが怖くなった

優しくされて

優しくされて


私はとうとう恋をした


幸せです
不幸せです

嬉しいです
寂しいのです

抱きしめて
触らないで

全部嘘です
全てが真実


あなたが 好き





チーコが手を延べる。
視線の先には時雨がいる。





あなたが 好き


好きじゃない
嫌い

だから 泣かないで
笑っていて
私が いなくなっても 笑っていて


真実

あなたが 好き

だから 笑っていて

私が いなくなっても 幸せになって

私の事を忘れてください


いやだ

私の事を忘れないで

うそ

わすれていいの

だから

幸せになって 幸せになって

好き 好き 好き 好き さようなら



「あなたに あえて よかった と おもう わたしを ゆるしてください」


炎の歌。
命を燃やす歌。

夜が明け始める。

チーコの指先が、髪が、炎に変わり始めた。


その全てを燃やすかのように、チーコが唄う。

最期の歌。

時雨が、転げるように、チーコに走り寄り、その体を抱いた。


「チーコ!!!」


幸せになって


「チーーコ!!」


幸せになって

「いやだ…いやだよ…チーコ…一緒に…故郷…見に行こうって言った…約束した…嘘つき…チーコの…うそつき…あっ、ああっ、うああっ、わああっあああああっ!!!」


慟哭。

自分の全身が炎に包まれるのも構わずに時雨はチーコを強く抱きしめた。
一緒に燃えてしまうんじゃないだろうか?と心配になった。
赤い髪が、体が、何もかもが炎に包まれて、時雨は夜闇の中で、チーコを抱いて燃えていた。


キラキラと炎に包まれ、光の粒が二人の周りを舞う。

ああ、あれは万華鏡の光の欠片。

焼けた万華鏡の中から、光が舞い上がり二人の周りをひらひら飛んでいる。


チーコは最期の瞬間冥月を見た。

冥月は咄嗟にロケットを握って、それから、微かに囁いた。

「いい歌だ…。 又今度聞かせてくれ」

叶わない約束を強請った。

チーコは優しい子だったので。
こくんと一度頷いた。

傍に寄り、その頭を優しく撫でる。
炎が、熱く、熱く、冥月の掌を焼いた。

朝日差す海。
目を射るほどの輝きが海面一杯を満たす。




その瞬間、チーコの体は全て炎と化して、消え果てた。



時雨が喚く。
声にならない声で。

赤い髪が炎のように揺れていた。



そして、眩い光の中真っ黒な影の塊になって、時雨は長身を折り曲げ蹲ると、唇を押さえ、耳を押さえ、目すら閉じて、全て、全て記憶にあるチーコの全てを、何処にも逃さないかのように、じっとそうやって、じっと、蹲り続けた。

まるで、両手を組み合わせていないのに、その姿は祈りに見えた。

酷く敬虔な祈りに見えた。


神様は、呆れる程に無力で、チーコの命を救えはしなかったけど、それでも最期彼女は頷いてくれたから。
また、今度歌を聞かせてくれると約束してくれたから。


冥月は、祈りの代わりに、踵を返して歩き出す。



ばいばい チーコ


私はお前を殺した連中を許さない旅に出る。

それが、私の優しさだから。




ばいばい チーコ
夜の海のチーコ

あなたの事は忘れない
あなたの歌を私は忘れない




fin

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1271/ 飛鷹・いずみ   / 女性 / 10歳 / 小学生】
【3446/ 水鏡・千剣破  / 女性 / 17歳 / 女子高生(竜の姫巫女)】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【7520/ 歌川・百合子/ 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2778/ 黒・冥月 / 女性 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【5588/ エリィ・ルー / 女性 / 17歳 / 情報屋】
【1564/ 五降臨・時雨  / 男性 / 25歳 / 殺し屋(?)/もはやフリーター】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】



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■         ライター通信          ■
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出来上がりが大変遅くなりまして誠に申し訳有りませんでした。

本当に、長い、長い物語にお付き合いくださいましてありがとう御座います。
三日間、参加してくださった皆様も楽しいときが過ごせていたら幸いです。
チーコは皆様のお陰で、幸福な気持ちでこの世に手を振ることが出来ました。
彼女の最期の歌を是非、忘れないでいてください。
夜の海のチーコ。

終幕で御座います。

尚、momiziのウェブゲームは、登場人物全ての方、それぞれの視点に即した物語となっております。
お暇なときにでも、他のウェブゲームにもお目通し頂けると新たな真実や、自分のPCが他PCにどう思われていたのかを、知る事が出来るかと思います。

それでは、momiziでした。