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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【夜の海のチーコ】


〜OP〜

今日はチーコは四回殴られた。

一回目は、唄ってる時に笑ったから。
二回目は、お昼ご飯のパンくずを床に落としてしまったから。
三回目は、殴られた時に吐いた血で殴った人の手を汚してしまったから、
四回目は、何となく。

チーコは、南の海にある活火山を抱く小さな島で生まれた。
チーコは、その島では仲間達から「可愛いチーコ」と呼ばれていた。
友達思いのチーコ。
笑顔が素敵なチーコ。
可愛い、チーコ。

チーコは、ここでは、名前を呼ばれない。
ただ、「化け物」って人間はチーコの事を呼んだ。

それは突然の嵐だった。

チーコが住んでいた南の島に、ジェット船に乗った人間たちがやってきた。
誰かと喧嘩なんてした事のないチーコの仲間達は、みんな一編に殺されたり、捕まったりした。
チーコは捕まった側で、そのまま、「新宿」ってトコにある、あんまり性質の良くない店で見世物としてショーに出されていた。

チーコの種族は、皆歌が上手だった。
燃える様な、命を燃やすような、赤い、赤い、力強い、炎のような歌を歌った。
人間はチーコの歌を珍しがって、たくさんの人間の前で散々に歌わせた。

チーコは、10歳。
活火山がある、南の島で、毎日歌を歌って暮していた。
その日々は太陽みたいに暖かくって、海のように無限に続くと思ってた。

カフッ。

薄暗い小さな小部屋で、チーコは小さな口からたくさんの血を吐き出す。
此処に連れてこられて、もう一年になる。
チーコは、南の島の美しい空気の中でしか本来は生きられない生き物だった。

もう、永くない。
チーコは分っていた。
もう、私は、永くない。

目を閉じる。
おかあさんの顔
おとうさんの顔
友達の顔

チーコももうじきそちらに逝きます。
チーコは笑う。
怖くない。
怖くない。

ただ、恋をしてみたかった。

何度も、何度も、喉を震わせ、情熱的に歌った恋。

チーコは知らない。
恋を知らない。
チーコは知らない。
それが、どんなに幸せかを知らない。

突然、大きな音がチーコの鼓膜を震わせた。

「アァ!!」

声を上げて跳ね起きる。
すると、自分の顔を覗き込む黒い影にチーコは気付いた。
「ああ、間違いない」
男の人の声。
キンキンとした、鼓膜をやけに引っ掻く声。
パチパチと瞬いて、チーコは見上げた。
黒く長い髪が揺れていた。
何だか険しい顔。
南の島にたくさんいた、蜥蜴や、蛇にちょっと似ている。
けれど、彼らはこちらが乱暴をしなければ決して、牙をむく事のない大人しい生き物立ちチーコは知っていたので、チーコはちっとも怖くなかった。
恐る恐るといった手つきで、骨ばった硬い手が、チーコの体を抱き上げる。
煙草の匂いが、チーコの鼻腔を擽った。
「ひぅあぁ?」
喉を震わせ、だあれ?と問う。
「助けにきた」
思いの外優しい声だった。

チーコは、疑う事を知らない子だったので。
何度でもそれで騙されて呼ばれて笑って傍によって、何度も、何度も蹴り飛ばされるような子だったので、「ひぅふぁぅぅ!」と高い声を上げて笑って、しっかりとその胸にしがみ付いた。

夜の空の下、男はチーコを抱えて駆け出した。
長い髪が、漆黒のカーテンのように風に煽られ広がる。

きれいだな。

チーコは手を伸ばし、さらさらとした手触りに微笑んだ。

きれいだな。

夜のカーテン。
なんて、美しい帳。

「化け物が逃げたぞ!!」」
後ろの方から声が聞こえる。
チーコをたくさん殴った男たちの声だ。
「ひぁふぅ!」
叫んで後ろを指差し、気をつけてと叫ぶチーコの背中を分ってるよという風に優しく叩いて、髪の長い男は誰かを呼んだ。
「竜子!!」
るーこ?
首を傾げるチーコの耳に、闇を切り裂くエンジン音が聞こえてくる。
あれ、知ってる。
あれ、バイクってゆうんだ。
チーコの見張り役の男が読んでる雑誌に載ってたよ?

「誠!!」
女の人の声。
凛とした、強い声。
バイクに乗ったその女の人は金色の髪を靡かせて、チーコと男の前に急停止すると、慌てた様子でヘルメットを投げつけて「追手は?!」と問い掛けた。
「しこたまだ。 とっととずらかるぞ!」
そう誠と呼ばれた男は答え、宝物を抱くような手でチーコを抱き直し、るーこのバイクの後ろにまたがる。
「大丈夫。 怖くないから」
るーこが優しい声で言った。
「大丈夫。 行こう、チーコ」
誠が、チーコの名前を呼んでくれた。
「ひあぅぅふぅるるぅぅ!」
嬉しくって大声で笑う。
るーこのバイクが、夜闇の中を猛スピードで駆け出した。
神様だってきっと追いつけない。
大型バイクは、そうやってチーコを暗い部屋から攫っていった。

*******************************

「で?」
「匿って欲しい」
黒須の言葉に武彦は、はぁと溜息を吐き出した。
「この前は不良娘の捜索で、今度は…」とそこまで言ったところで、零が常に無い強い声で「お受けします」と勝手に返事をしてのける。
「おい…零!」
そう非難の声をあげる兄をキッと見据え、「受けるんです!! 絶対に」と殆ど悲鳴のような声で兄に詰め寄った。
「…まぁ、こっちとしては報酬さえ受け取れるんなら、別段構わないが」
そう言いながら、ひしっと小さな掌で黒須の服を掴んだまま膝の上で眠るチーコの顔を見つめる。
ステージに上げるからだろう。
顔にこそ傷はなかったが、体中痣だらけで、煙草を押し当てられた火傷の痕も点々とあった。
「…まだ…子供だぞ」
黒須の隣に座る竜子が軋む声で呻いた。
「…こいつ…まだ…子供なんだぞ」
自分だって世間じゃまだ、充分子ども扱いされる年齢の癖に、ぎゅっと握り拳を固めた、相変わらず派手な特攻服に身を包んだ女は「糞野郎共だ」と吐き捨て、「頼む」と律儀な声音で呟き、頭を下げてきた。
「…で? 何なんだ、この子を追って来てる奴らの正体は」
武彦が問えば、「アジア諸外国を縄張りに、麻薬の密売やら人身販売やら、まぁ後ろ暗い商売の業界で一気に伸し上がってきた新興のマフィアだよ」と黒須は答えた。
「で、そこのトップっつうのが、若干キてる趣味の持ち主でね。 人間と動物を掛け合わせて作るキメラの研究やら、人間外の珍種なんかを世界中から攫ってきてオークションに掛けたり、ショーに出したりするような、そういうえげつのねぇ商売もやってやがんのさ」
黒須の説明に、武彦はチーコの容貌をもう一度しげしげと眺めた。
チョコレート色の肌。
オレンジ色の髪。
鳥のような声。
小さな体は、人間の子供と変わりない形をしているが、唯一つだけ、大きな違い。
大きな、大きな一つの目。
チーコには目が一つしかなかった。
顔の真ん中に一つ、燃えるような太陽色の綺麗な目玉。
「ベイブが…俺達の上司がね、この子の事を見つけてさ、何とかしてやれってお達しが出たんだ。 たまに、そういう慈善事業めいた事をしたがる奴なんだが、今回はバックがやべぇ。 とにかく、三日間。 何とか、三日間あいつらからチーコを守ってやってくれ」
「何故三日間なんだ?」
そう問い掛ける武彦に、黒須はチーコを見下ろして、その唇に手を当て、彼女が確実に眠って居る事を確かめると、囁くような声で言う。
「保たない」
「……何がだ」
「チーコがだよ。 一年間、この汚れた街で引き絞るみたいにして生きてきた。 保たないんだ。 あと三日なんだ」
「それは…」
確かなのか?と問い掛けかけて、事務員が教えてくれた、彼らの上司と言う男が、全てを見通す力をある鏡により得ている事を思い出す。
「多分、俺達の住んでる城に連れてけば、多分危険に晒されないで済むんだろうが…そりゃあ、あんまりだろ? 最期位、外の世界で、楽しいもんばっかり見せてやりてぇんだ」
黒須の言葉に、武彦は溜息を吐き出して、零を横前で見れば、大きな目に既に涙を溜めていて、「兄さん…」と震える声で呼んでくる。
「あーーー、もう、分ったよ。 請け負うから、お前は泣くな、お前も!」
そうズビシと指差された竜子は、既に鼻水もだくだくに流していて「ううう、…だのむからなぁ?」と涙に濡れた声で告げてきた。

チーコを守るだけならともかく、その背後にあるマフィアまで相手にしなきゃならないとなると、かなり面倒な案件になるとひしひしと感じながら、武彦は二人の女の涙に負けて、この厄介な依頼を引き受ける事にした。


〜本編〜



初日。

「チーコちゃん! チーコちゃん! ほら、おせんべ! これをね〜、歩きながら食べるのが、超トレンド! 今、若者の間で大流行なのよ?」
思いっきりの笑顔でそういいつつ、焼き立ての煎餅をチーコに手渡すシュライン・エマに、武彦と黒須が声を揃えて「なんで、そんな嘘を吐くんだ」と突っ込んできた。
竜子が、エマの言葉に頷きつつ「あ、見たことあるっす! あたい、竹下通りで女子こーせーたちが『煎餅とか超キてんだけどぉ』『かなり、美味しいんだけどぉ』って言い合いながら、煎餅食いつつ歩いてたの見たっす!」と援護射撃をしてくるも、「そんな奴はいないね!」と黒須に一刀両断されていた。
チーコが、はぐはぐと焼きたてのお煎餅を食べる姿に目を細め、堪えきれずに抱きついて、「ああんv おいし? おいし? 火傷しないでね? ふーふーしてあげよっか?」とエマは顔を近づけ、蕩けきった声で言う。
目深に被ったフード。
瞳の色素の薄さを心配したが、元より日差しの強い南の島の住人だったからか、太陽の光に対して辛そうな様子はなかったので、こうやって外に連れ出していた。

ここは浅草、浅草寺。

所謂お年寄りの原宿ではあるが、若干年齢の割に渋い趣味の持ち主であるエマにとっては、心から落ち着ける場所でもある。

相変わらずの人ごみの中、はぐれぬようにチーコの手を引いて歩く。
折角だから、こういう古くからのお寺を見せてあげたいと願ったエマに、武彦や、黒須達も賛同してくれた。
「あ、あれ、可愛くないっすか?」
エマの袖を引いて竜子が示すのは、藍染の手ぬぐいで、それこそエマ位の年齢の普通のOL等にそう言えども理解は得られなかったであろうが、エマは大きく頷き「可愛い!」と叫ぶ。
人混みでは、チーコの事を気に止める人は皆無で、雷門の先にある仲見世を無事抜けて、本堂にてお賽銭をあげた後は、煙を浴びた部分を良くしてくれる線香が奉られている所へと足を向けた。
「とりあえず、頭に浴びろ。 お前=線香っつうくらい匂いが染み付くまで、頭に浴びろ」と黒須が竜子に言うのを聞いて、武彦とエマは同じタイミングで「じゃあ、人相の悪い黒須さんは是非顔面に浴びなさい。 最早線香で顔を焼く勢いで煙を顔に浴びなさい」と告げる。
「だったら、姐ちゃんは口にでも浴びろ。 その口の悪さを直せ。 んで、探偵さんは財布でも煙の中につけておけ。 金運が良くなんじゃねぇの?」
黒須の言葉に、「何を!」とむかついて睨めば向こうも負けじと睨み返してくる。
かなり醜い言い争いを、ありがたい線香前で繰り広げていると、煙さにむせたチーコが「けほけほ」と可愛く咳き込んだ。

依頼内容を聞いた時、まず、最初にエマが望んだのは、チーコの体に発信機や、所在を探られるような装置が取り付けられてないかベイブに聞いてきて欲しいと言う事だった。
ああいった手合いは、人の命と家畜の命を区別しない。
衛星等で追われるようなものが取り付けられてないかとベイブに問うて来て貰えば、白雪が「体中のいたるところに仕掛けられております」とばっちり返答してくれて、出るわ、出るわ、じゃらじゃらと。
衣服や髪の隙間、果ては奥歯にまで仕込まれていた。
「ここの所在は知られちまったって事か?」と頭を抱える武彦に、エマが妙案を授ける。
つまり、そうやって入手した発信機を、それぞれ自分勝手に動く生き物に仕込んでしまえば、きっと向こうは行方が分らず混乱し、時間稼ぎになると考えたのである。
という事で、エマがその発信機達の仕込み先に選んだのが…。

「鳩?」

「そう」

浅草寺から事務所に帰宅し、召集したメンバーを待つ間、エマは竜子と黒須に自分が思いついた案を披露する。
「私、ほら、結構声が特殊でしょ?」
そう言えば、二人は同時に頷いて「この前の時の、ベイブの真似とか凄かったもんな」と竜子が感心したように言う。
「そうそう。 ああいうのは、何も人間ばかりじゃなくて、音の出るものなら、何でも私模写できるの。 でね、さっき浅草寺行ったのは、何も、煎餅が食べたかったりしただけじゃなくて…」
「鳩!」
黒須が手を打ち、「そんな事まで考えてたのか…」と呆れたように言うものだから、ふふんと胸を張って「策士と言いなさい」とエマは笑った。
つまり、神社にはつきものの鳩の大群。
あの鳩達を、エマは「鳩の声」を模写して呼び寄せ、その足に、小さな発信機をそれぞれ括りつけたのだ。
寝床は浅草寺の鳩なれど、それぞれ日中は色んなところを飛び回る。
せいぜい振り回されるが良いさとエマは心の内で嘯いて、「さぁて、じゃあ、次は、みんなと相談して、これからどうするかを決めないとね」と呟いた。




「で、結局、お前らの上司っていうのは何者なんだ?」

黒・冥月に問い掛けに、黒須ははぐらかすように首を傾げた。
その態度は、隠していると言うよりは、明らかに面倒くさがっているように見え、冥月が中々難しい助成である事を知っているエマは、ハラハラと見守ってしまう。
窓際に立ちながら、腰まである黒髪を、背中で揺らし、真っ白な紙にスッと美しく筆で引かれたような形をした睫の長い切れ長の目を閉じたまま、冥月は更に冷たい声で問いかけた。

「おかしいだろう? 何の利益も見込めない。 誰が得するとも分からん。 ただのボランティアとは思えど、物騒な匂いもプンプンする。 善意のみで、このような件に首を突っ込む輩がいるとは考え難い。 目的は? お前達はどんな組織に所属してるんだ? そもそも、お前達自体は、何者なんだ?」

冥月の矢継ぎ早の質問に、黒須の視線が落ち着かなさげにあっちこっちする。
「あー…」だの、「うー…」だの呻く黒須に肩を竦めれば、冥月の攻撃の矛先は、武彦にも向けられた。

「大体、武彦も、武彦だ。 気安く受けるな。組織から逃げる事がどれ程困難か」
そう言いながら、自分のすぐ目の前にあるソファーに腰掛けている武彦を小突く。

「これほど得体が知れぬ連中の依頼等、本来ならば、蹴って然るべき案件だろう」

そう、彼の不用意さを責める冥月に「まぁまぁまぁ…」と笑いながら、何とか話を円滑に進めさせるためにもエマは割って入った。
「いいじゃないの。 とりあえず、とーぉぉぉっても胡散臭いけど、この二人の身元は私が証明するわ?」と胸を叩く。
そしてエマは皆に協力を求める意味も含めて、「ほら、黒須さんって、こう見えても、穏やかな午後に近所の美味しいケーキ屋さんのシナモンロールを突きつつ、熱い薔薇の紅茶を啜ってるお茶の一時なんかだったら、夢見心地に、気紛れに、気の迷いで『まぁ、僅かにはいい人かも…』と思えなくもない人だから…ね?」等と、言葉を重ねるが、うん、これは、間違いなくフォローにはなってない。
黒髪も清らかに、透明感のある美しさを有した、美少女水鏡・千剣破が、黒曜石のような黒と、澄んだ海の如くの青のオッドアイを瞬かせ、横目で、黒須の様子を伺いつつ「えーと、黒須さんが既に涙目なんですけど、いいのか…な…?」と彼を指差した。
だが、そんな千剣破の言葉にも躊躇せず、「ほら、黒須さんも、疑われてんのは、あなたのその、不気味さのみで構成されてるツラのせいなんだから、無理矢理、多分不可能だけど、その胡散臭い、87%成分がヤクザな顔にスマイルを浮かべて、みんなの信頼を勝ち取って?! はい、レッツ爽やかスマイル!」と言いつつ黒須を揺する。
黒須の隣に座っていた一見美少年にしか見えない少女蒼王・翼も同様の立場で、「駄目です。 エマさん、その人笑ったらもっと不気味だから!!」と、追い討ちの追加点を入れていて、咄嗟に黒須が目頭を手で押さえつつ「もう、いっそ、死ね!って俺は言われたほうが気が楽だよ」と呻いていた。
仕草も典雅で、見惚れるばかりのその姿に、女性と知りつつも惑わされる者も多く、「お願いします。 協力してあげてください」等と翼に言われれば、眩暈もののお願いになってしまう。
まず、今回興信所の仕事には初参加となる白金の髪も美しく、マシュマロのような色合いの柔らかそうな白肌も愛らしいエリィ・ルーという少女が、大きな翠の目を瞬かせ、頬をピンク色に染めながら「はい…翼さんの為にも…協力させて下さい…」と両手を組み合わせて答える。
「わ、私も、何でもするわ…! 大したお手伝いは出来ないかもだけど、精一杯翼さんのお力のなれるよう努力するから…」と、そう宣言するのは、大人しげな容貌の女性で、小動物めいた小作りな頬を紅潮させて、目を星屑を入れたかのように輝かせていた。
彼女も今回興信所の仕事に初参加してくれる、歌川・百合子という女性らしい。
そんな二人の女性陣の様子に、負けてはおられぬと言わんばかりに、千剣破も勢い込んで、「あたしも、翼さんの為に…!!」と言いかければ「いや、依頼人俺と竜子だから!!」ともっともなツッコミを、絶妙のタイミングで黒須が入れた。


「あー…いや、エマさんが信用してるんなら、俺はもう、腹決めてたし、構わないぜ?」

そう言うのは、向坂・嵐。
赤茶色の髪と、同じ色したキツ目の印象的な瞳の持ち主で、端正な顔立ちをしているのに、そんな事は、どうでも良いと言わんばかりの、気取りのない立ち居振る舞いが逆に好感度を抱かせる。
そして、今回の面子の中でも圧倒的なまでの大人の色気を発散している、エリィ、百合子と同じく今回初対面の兎月原・正嗣という男性に目を向ければ、「俺も、チーコを守るっていう依頼を受ける事に異論はないよ」と微笑みながら答えた。
聞くものが皆、骨抜きになりそうなほどの甘い声に思わず、エマの腰が砕けそうになる。
とろりと甘く、喉を焼くようなチョコレートボンボンのような声。
百合子の勤め先のオーナーだという兎月原は、声に負けず劣らずの甘い端正なマスクに、少し崩れた隙がありながらも、何処か野性味も感じさせる色っぽい笑みを浮かべたまま、「今回、初めて事務所の仕事を手伝わせて貰うのだが、ここの評判は聞き及んでいる。 中々優秀なスタッフが揃ってるようだし、お姫様を守るだなんて、中々風情がある仕事だ。 この興信所を通しての依頼なら、明かせぬ事情が諸々あるにせよ、そうそうおかしな事はないでしょ?」と余裕ありげな様子で言った。


皆の意思表明に、ついと黒須に目を向け、「良かったな。 皆お人好し揃いで」と冥月が口の端を持ち上げて言えば、黒須は小さく笑って「あんたも、そのお人好しの仲間じゃねぇか。 手伝ってくれるつもりなんだろ?」と確信を持った声で言う。
その黒須の言い様が気に入らなかったのか、冥月が眉間に皺を寄せ、「大体お前等の主は本当に独善だな。余命3日なら助けない方が幸せかも知れんだろう」と黒須を指差した。
「楽しく過して少しでも未練を残せば、死ぬのが余計辛いぞ。何も知らず死ぬ方が幸せな事もある」
黒須は、冥月の言葉に笑みを深め、「善か、悪かは分からねぇよ。 正しいか否かっつうのも、まぁ、難しいわな。 でも、やれっつうから、やるんだ」と自嘲気味の声で答える。
「お前の…主が言うからか?」
「ああ。 まぁ、しょうがねぇ」
そして首に嵌っている細い黒い輪にも見える首輪に指を引っ掛けた。
「チーコ…守ってやってくれよ。 あんた…相当の人と見た。 そんで、多分…」
小さな遮光眼鏡の奥に見える、細く険しい目がじいっと冥月の事を見据え「優しい人間だ」と、唐突な声で告げた。
冥月にしてみれば予想外の言葉だったのか、少しだけ後ずさり、コツンと窓枠に肩をぶつける。
「適任だろ? 俺が選んでんだ。 間違いない」
武彦がそう自信ありげに言うのを受けて、改めてエマはメンツを見回す。

バラバラに見えた。
てんでばらばらで、だけど、ここに長年勤めたエマなら分る。
うん、大丈夫。
このメンバーなら、大丈夫。


「…笑止。 私は、然程優しい人間ではない…が、先程まで申していた事も冗談だ。 守る。 依頼は依頼だ。 どのような者が頼みの筋であろうとも、守る。 チーコを」
冥月が淡々と述べるその声は自負に満ちており、彼女がそう宣言すると言う事は、その言葉どおりの結果を導くのであろうと人を納得させる力に満ちていた。
「それで、チーコを追っている組織の名は?」
そう冥月が問えば、黒須は「『K麒麟』…てぇんだそうだ。 生憎、こちとら、そんな裏社会にゃあ詳しくねぇから、怖い名前なのか何なのかはさっぱりなんだが、ベイブ…俺らの上司は『面倒だ』とは言ってたな」と答えた。
麒麟。
中国の伝説の獣。
「聞き覚えがある。 K麒麟ならば、ちょくちょく余りよくない場所で、その名を耳にするよ。 確かに、随分と最近は幅をきかせているみたいだ。 だとすると、竜子とやらが科してきた制限が、尚面倒に拍車をかけるな」と呟き、冥月は唇に指を這わせて思案気な表情を見せる。
「殺さないで…か」

そう、竜子が、皆に言ったのだ。
この依頼にあたって、チーコを守る為に、武力を行使する事は止む無いとしても、相手を絶対に殺さないで欲しいと。

エマにしてみても、人が殺されるなんて事は、出来る限り避けたい事態だった。
むしろ、竜子の告げたその制限は、何処か物騒な匂いのするメンバーも入り混じるこの依頼において、「誰も殺されないし、殺さない」という安心感をエマに与えた。

「勢いのあるマフィアは厄介だぞ。保身考えず無茶するからな」
そう言いながら冥月チラリと窓の外に走らせる視線が険しさを増したような気がしたが、ついと室内に視線を戻す時には、もう、平静極まりない眼差しへと変化していた。

「で、これからどうする?」
そう冥月が言えば、まず、エリィが手を上げて「旅、行こう、旅!!」と言った。
「安全を確保する意味でも、3日間移動を続けるってのは、アリだと思うの。 ルートの確保は任しておいて? これでも、あたし情報屋なの。 おいそれと、追跡なんてさせないわ! 旅行なら、色々見せてあげられて、チーコちゃんにも楽しい時間を過ごして貰えるしね?」
エリィの言葉に、翼も頷き、「それは良いかもしれない。 故郷の南の島まで連れて行ってあげれるのが一番だけど…」とそこで言葉を切り、「この人数での移動や、危険面、期間を考えると中々難しいかな。 だけど、そうだな、海…うん、海には連れてってあげたいね」と提案した。
「海、賛成。 そんで、水族館とか、どうかな? 館内、意外と薄暗いし、周りの人は水槽に気を取られてチーコの事もあんま気付かれないんじゃないかな。 まぁ、勿論パーカーとか着てフード被ってもらったりとかの多少の変装だか位は必要だろうけど。 南の海の生態を紹介するコーナーとか、水族館にはあるし、チーコにとっては嬉しいかも知れない。 あと、俺も海は絶対連れてってやりたいな。 そりゃ、チーコの故郷に比べたら全然劣るだろうけど…見せてやりたいと思う。 チーコに何か特別な事を
してやれる訳じゃないけどさ…一緒に色んなもの見て聞いて…感じて…、そう言う事してやれたら良いと思う」
考え、考えしながら、そう語る嵐の口調に、皆がそれぞれ頷いた。
三日間、然程特別な事は、エマとて出来るとは思えない。
それでも、その「特別じゃない」事がきっと、チーコには特別になるのだ。
気負わず、それでも、チーコの事を幸せな気持ちで一杯にしてあげたい。
エマは、みんなで旅に出ると言う言葉の響きにワクワクして、「旅…いいわねぇ…。 じゃあ、宿泊所に一つアテがあるから、連絡入れておくわ。 古い神社でね、藤やツツジの名所なの。 きっと喜んでもらえるわ。 あと、移動手段も、一つ良いアテがあるから任せておいて」と、頼りになりっぷりを、発揮しておいた。
移動手段というのは、既に黒須と話は取りまとめていて、実は、バスの用意が一つある。
黒須が大型の免許を持っているという事で選んだ移動手段であったが、なんと、彼が元・都バスの運転手だったという過去には流石にド肝を抜かれた。
(ううん、黒須さんの運転するバスっていう言葉の響きが無闇矢鱈に不吉だけど、ま、大丈夫でしょ)と頷き、頭の中で旅になるなら、どんな準備がいるのか考え始める。
百合子も「旅行なんて…嬉しい…。 しかも、女の子を守るための旅なんて、なんて、ロマンチックなんだろう!」と感激したような声を上げた。
兎月原は、ある程度方向性が固まったと見たのか「冥月さんは、何か?」と問えば、彼女は首を振り「任せる。 何処へでもついていく」とだけ答え、また窓の外へと視線を向けた。
「じゃあ、今度は、可愛いお嬢さん方にも聞かないとね」と兎月原が言いながら立ち上がれば「あ、あたしが行くー! ちょうど、みんなの参考に良いかと思って、旅行雑誌を持ってきていたのです!」と言いつつ、じゃーんと雑誌を一冊掲げてみせる。
「こっから、チーコちゃんに指差しで、何処行きたいのか選んでもらおうよ」と言うエリィ。
実は、チーコ、竜子、それに、もう一人今回の依頼のの参加者として呼ばれている飛鷹・いずみは、別室に控えて貰っていた。
というのも、あまり性質の良くない話(チーコの寿命について等)をどうしても話題にせざる得ない関係上、当人のチーコや、まだ、子供のいずみには、話の内容を聞かせたくないという配慮から、竜子をお守り役としてつけて、書斎の方へと追いやったのだ。
とはいえ、竜子の子供っぽい言動と、明らかに年齢不相応に大人びているいずみとでは、いずみが二人のお守りにも見えて、不満げに何度も振り返りながら書斎に引っ込んでいったいずみの可愛い顔を思い出し、誤魔化すのが大変そうだなぁとエマは他人事のように思う。
後ほど苛烈を極めるであろう、いずみの追及は避わすのが大変そうだと考えていると、千剣破が立ち上がり、「あたしも一緒に行く」とエリィに声を掛ける。
「旅行か…やばい、凄い楽しみなんだけど!」
「確かに、確かに!」
二人は、どちらも人目を惹く美少女ではあったが、千剣破は和装のよく似合いそうな日本美人であり、エリィは対照的にレースやリボンがよく似合いそうな西洋人形めいた愛らしい容貌をしていた。
そんな少女達がキャッキャッと笑う姿は、大変、大変愛らしく、思わずエマも表情を緩めた。

「だけど…私、ここの興信所のお仕事って言ったら、もっと、おどろおどろしいものとか、ホラーなものばかりだと思ってたわ」
百合子がおっとりとした声で、興信所を見回しつつ、そう言った。
「えーと…ここのって、一応ですけど、どういう意味です?」と零が問えば、「えー? だって、ここは、『怪奇探偵事務所』なんでしょ?」と百合子が言い、それから「素敵よね…怪奇…」と呟く。
思わず頭痛を堪えるような表情を見せ、額に手をやった武彦が、うんうんうんと頷きつつ、「いや、色々誤解があるようだが…一応、今回初参加の君達にははっきり伝えておきたい。 違いますから!」ときっぱり、すっきり宣言した。
エマも、初参加者にはっきり、興信所の世間からの評価を口にされ、遠い目をしつつ、「そうなのよね…なぁんでか、こう、超常ってる現象系の依頼ばっかが舞い込むんだけど…一応ね? 普通の興信所なのよね。 建前は」と呻き、「もう、でも、今更後戻りは出来ない感じがしますよね」と零が総括するように呟く。
「ええ? 素敵じゃないですか! 怪奇探偵! あれでしょ? ゾンビとかと戦うんですよね? あと、ゾンビとかに襲われたり。 ゾンビとかに感染したり。 ゾンビと一緒に閉じ込められたり!! ああ、なんてロマンなんでしょ!」
そう感極まったように百合子が言うのを、呆然と眺め、翼が「え? なんで、ゾンビ推し?」と問い掛けていた。
「いや、彼女、B級ホラーが大好きで…」と兎月原が説明すれば、ブンブンブンと手を振って、「ちゃんと、他の映画も好きだよう! あの、えっと、宇宙人モノとか、ジェイソンとかも、可愛いと思うし…」と兎月原に訴える。

全部、ホラーやんけ。
しかも、B級の代表選手やんけという周囲の突っ込みの空気に気付かず、兎月原に「はいはい」と頭を撫でられて、「えへへ」と百合子は、幼く笑う。
そんな二人の様子を見て、武彦が兎月原と百合子を交互に指差して「あんたら二人は恋人同士か、何かなのか?」と問うていた。
百合子はキョトンとした後、即座に「ぶっぶー! 違います。 私と兎月原さんは、あくまで、雇用主と雇われスタッフの関係なの」ときっぱり答える。
「まぁ、俺にとっては手のかかる妹みたいな存在です」と言って、兎月原が百合子の柔らかな頬を指先でピン!と弾くと、百合子は「あうち!」と呻いた。


そんな会話の最中、書斎から千剣破に「あ、いずみちゃん? いずみちゃん!」と呼びかけられているのも無視して、いずみが応接間の、ソファーにちょこんと腰掛ける。
ぐっと唇を引き結んだ表情は「私は、書斎に追いやられた事を怒ってます!」という気持ちを如実に映していて、その素直さにエマは思わず眉を下げた。
「さ、話の続きをどうぞ?」
そう促すいずみに、黒須が困った顔になって、「いずみ? なんだ、退屈しちゃったのか?」と問う。
そんな黒須を「キッ」と一睨みすると、「いえ、のけものにされるのが、我慢ならないだけです」ときっぱり答えた。
ジトッとしたいずみの眼差しに耐えかねたように視線を逸らす黒須の代わりに今度はエマが「あ、いずみちゃん、いずみちゃん、ほら、これ面白いのよ? 絵が凄く綺麗で…」と言いながら、イギリスの児童書を鞄から取り出す。
油絵で描かれているらしい可愛いキャラクターが表紙一杯に描かれているその絵本は、いずみの目にも大層魅力的だったらしく、一瞬身を乗り出せど、すぐさま、ソファーに身を沈めて、ふいと目を逸らす。
「チーコちゃんと読んでらっしゃい、ね?」
にっこりと笑うエマに、いずみは「結構です」とぴしゃりとお返事。
するとエマは、「そうよねぇ…」と言いつつショボンと肩を落としてみせる。
「いずみちゃん、本たくさん読んでるから、私の翻訳の出来栄えが如何なものか意見聞きたかったんだけどなぁ」と残念そうに言いつつ、鞄の中に本を仕舞うエマに「また、後で読ませてください」と、いずみが慌てて言い添えてくれた。

もう、てこでも動かないぞ!と決意の滲んだ顔でソファーに座るいずみ。
百合子がパクパクと口を開け閉めして、いずみに何か言おうとするが、「ひゅぅ」と小さく息を吸い込んだまま、何も言わずに口を閉じた。
そのまま、じいっといずみを凝視する百合子に、いずみは居心地悪げに身じろぎする。
「あ…あの…?」
そう問うようにして、声をかければ百合子は、まるで自分が初めていずみを凝視していた事に気付いたかのように目をパチクリと見開き、見開いたまま首を傾げる。
「いくつですか?」
唐突な問い掛け。
当然のように、いずみは戸惑う仕草を見せる。
「…百合子。 ほら、いずみちゃんがびっくりしてる…し、出来るだけ脈絡を付けて喋るように言ったよね?」
そう、諌めるように言われれば、ふわふわと目で兎月原を見て、むぅと唇を尖らせた。
だが、質問の答えを諦める気はないのか、霞がかかったような眼差しのまま「で、いくつですか?」と再度問い掛けている。
「あ…10歳です…」
いずみの答えに驚き、「へぇ…」と一言だけ呟いて、それから「若い」と唸るように百合子は感想を述べた。

いずみは、余りに言葉のタイミングを掴みかねる会話のテンポに、言葉に詰まってしまったようで、その間にも「だって、皆さん気になってたと思うんです。 いずみさんと、初対面の方も多いんですよね? 私含め。 あんまりにも大人っぽい事を言うもんだから…10歳って、小学四年生位?」とまた、独特のテンポで言葉を重ね、百合子は兎月原に顔を向ける。
つまりさっきの言葉は、兎月原の「脈絡なく喋るな」という注意への反論だったのかと気付くが、なんて、脈絡のない…とエマも目を白黒させずにはいられなかった。
「あ、そうです」といずみが答えれば、「そう…」と、まるで自分の世界に閉じこもっているかのような声で囁くと、また凝視するようにいずみを眺める。
そして「…聞かない方がいいですよ?」と小さな声で忠告するように言った。
うんうんうんと自分の言葉に頷くような仕草を見せて、百合子はまたも言葉を重ねる。
「あんまり、良い話はしてなかったもの」


静かな声で「覚悟はあるのか」と涼やかに冥月が問い掛けた。
窓際に立ち、長い睫をした薄い瞼を閉じたまま、冥月は更に冷たい声で問いを重ねる。

「いずみ…といったな? お前に覚悟はあるのかと聞いている」

いずみは、緊張感を身に纏わせながら、それでもきっぱりとした声で、「出来てます」と答えた。
「何のだ?」
「全てを知る…です」
「…哀しい事もか?」
いずみは頷く。
「辛い事もか? 怖い事もか?」
重ねられる問いかけに、コクンコクンと頷くいずみ。
エマは嫌な予感がして、冥月に顔を向けて、じっと眺める。

「大人と対等に扱うという事で良いんだな?」

冥月はいずみの意思を確認すると、無表情に口を開いた。


「チーコは三日後死ぬんだそうだ」


「冥月さん!」
非難の意思をこめた声をエマはあげた。


「知りたいと本人が言っている。 知る意思がある者が、知らぬまま他の者が把握していた悲劇に直面すれば、知らされなかった悲しみも合わせて、余計に辛い。 覚悟はあるといった。 だから、伝えた。 知ったからこそ出来る事もある」

冥月は、厳しい声音でいずみに告げた。

「考えろ。 いずみ。 知りたがったのはお前だ。 だから、知った以上、私たちと一緒に考えてくれ。 圧倒的な事実に際して、それでも自分が何を出来るのか」

いずみは目を見開いたまま、小さく体を震わせている。

ショックだったのだろう。
随分と仲良くなっているように見えた、チーコといずみ。


「うぃひぁぁははぁあ!」

無邪気な笑い声が書斎から聞こえてきて、いずみがびくりと肩を震わせた。

可哀想だとは思うが、冥月の言う通り、彼女が欲した事実だ。
現実は、時として、残酷で、どうしようもない姿を眼前に晒す。

死ぬんだそうよ。 チーコは。

だからこそ、出来ることを。
だからこそ、彼女の為にありったけの幸福を。

エマはそう決めていて、きっといずみも、同じ決心を抱くだろうことを確信していた。

「どう…しよう…も、ないんですか?」
いずみが掠れた声で言った。
「ど…うしようもないなんて事は、ないと思うんです。 そんな、ねぇ、だって、チーコは…」

いずみが拳をぎゅうっと握り締める。

「チーコは、子供じゃないですか。 子供が死ぬなんて…そんなの、おかしい…」

いずみの言葉に、皆一様に口を引き結ぶ。

ふいに突きつけられた言葉に響きに、間違いなくエマは、戸惑った。

たった10年。
それも、理不尽で、あまりにも暴虐な運命に翻弄された命。

三日後には、ない命。

理不尽だけど、命の終わりの訪れは、誰にも測る事は出来ず、皆一様に、唐突に失われる命を眼前にすれば「理不尽」だと呟くのだろう。

そもそも、命の存在そのものが、理不尽の果てに存在するものなのかもしれない。
いずみが、皆の視線に立ち竦み、どんどん顔を赤くしていった。
うろたえたように視線を彷徨わせ、無理矢理捻り出したような冷静な声で「…だから、良い大人が雁首そろえて、3日しか保たないとかいきなり泣き言を言ってないでベイブさんに泣きつくなり何か手が無いか尽くしてからにしましょうよ。 彼女の命を諦めるのは」とまるで憎まれ口のように皆の顔を見回しながら言い放つ。

誰も、いずみの目から目を背けなかった。
誰も、彼女を言いくるめようとはしなかった。

「いゆみぃ?」

チーコの声を聞いた瞬間、いずみの表情が一変した。
険しさの一片もない、優しい微笑み。

ああ、凄いな、いずみちゃんは…と、エマは素直に感嘆する。
何一つの不安も、チーコに与えたくないのだ。
自分の役割を明確に把握し、自分に徹底させている。

「なぁに? チーコ」

穏やかな声でチーコに問い掛けつつ、パタパタとチーコに走り寄っていく。
エリィが開いた雑誌を見せ、写真に写るは、鮮やかな青い海と、崖の上に立つ白い灯台。
「あのな、チーコ、この、潮岬行きたいそうなんだよ。 あたいも、千剣破も、エリィも賛成なんだけど、山口県にあって、ちょっとばかり遠いんだ。 日帰り旅行じゃ済まないし、多分ニ泊三日位の日程になる。 今って、いずみ、GW中だっけ? チーコが、お前と行きたいって聞かないんだけどさぁ…、良かったら、いずみも付き合ってくれるか?」
竜子に問われて、間髪入れずに「もちろん」といずみが頷けば、チーコが嬉しげに「ひゃぁ!」と声をあげ、背後に並ぶ千剣破達を交互に見上げていた。
「良かったね、チーコちゃん」
エリィの台詞にチーコが頷いた。
「んじゃ、いずみも、お父さんと、お母さんに許可取らないとな?」
嵐の言葉にいずみが「はい」と素直に頷く。
「他のメンツも、三日間は大丈夫なんだよな?」
そう彼が問い掛ければ、それぞれみんな頷いた。
「うん、あたしは大丈夫! んで、チーコちゃんの希望により、山口県の潮岬は、絶対、絶対行くの決定ね?」
エリィの書斎の扉の前に立ったままの呼びかけに、翼は頷きながら「じゃ、一旦解散かな? みんなそれぞれ用意があるだろうし…」と全員を見回す。

皆、異論はないのだろう。

竜子やチーコ達が「おやつ買う暇あるかな? チョコ買ってやる、あと、あと、ポテトチップスと…酢昆布も欲しいよな…」とか、「ひっぅあふぅうう!」と嬉しげに言い合っている。
「えーと」と翼が人数を数え、「11人か…結構な人数だな…」と呟いた。
「あれ? 零は?」
そう竜子が問い掛ければ、「今回は、兄さんの手伝いに専念して、情報収集の面から皆さんのお役に立とうと思うので、お留守番です」とサラリと答える。
それから、零はチーコの傍へとしゃがみこみ、「楽しい旅をね?」と微笑みかけた。
気丈な笑みは、悲しみの雫を一粒たりとも滲ませはせず、まるで、本当にただ、朗らかに旅立ちを見送る者の笑みそのものだった。

強い。

エマは心中で唸る。
死出の旅。
そう知りながらそれを微塵も感じさせない、零の笑顔。
彼女の気丈な笑みの為にも、チーコの幸福の為にも、エマは、全力を持ってこの仕事に取り組む事を決意した。

「じゃあ、今から一時間後。 駅前のロータリーで集合な?」
腕を組み、今まで黙って事務所内でのやりとりを聞いていた武彦が総括するようにそう声を上げる。
「三日間分の旅行の用意だからな? でも、あんま荷物は多くすんなよ」
武彦の言葉に頷いて「移動手段は電車ですか?」といずみが問えば「いや、まぁ、それは見てのお楽しみだよ」と武彦は含みを持った台詞を言った。
皆がエマに視線を送ってくるので、エマも含みを持った笑みを浮かべる。

あのバス見たらみんな驚くだろうな、と考えると、唇の端がどうしてもむずむずしてしまった。

「いずみは、ご両親にちゃんと説明すんだぞ? 連絡先は…」
「あ、私の携帯番号教えておくわ」とエマは挙手し、「もし、必要だったら、お家に説明のためにお伺いしてもいいけど?」と心配そうに顔を覗きこんだ。
だが、いずみは「あ…大丈夫です。 そんなお手数かけられません」と丁寧に断りを入れてきて、百合子が目をパチリと開いていずみの顔を凝視する。
確かに、いずみは、ちょっとデキすぎだ。
言葉遣いとかが、大人びすぎている。
今の時点でこれほど聡いのだから、大人の女性になったら、きっとスーパーキャリアウーマンとかになるに違いないと、ちょっと楽しみに思う。
「じゃあ…エマ…よろしくな」
そう言われ、「任せて」とエマが頷けば、武彦は眩しいものを見るような目でチーコを見て「気をつけてな?」と優しく言った。
「あぅぃ!」
チーコが手を挙げ、大きな声で返事をする。
エマは、そうか、武彦も、これがチーコと最期の別れなのかと気付き、何だか切なくなった。

ここで、武彦と零はチーコの為に出来るだけの事をしてくれる。
彼らにしか出来ない事を。

「では、チーコ、いずみ、エマ、それに、竜子と…百合子も、途中まで兎月原に送ってもらえ」

冥月がそう告げた。
兎月原が微笑みながら立ち上がる。

他の面々が何故事務所に残るのか気にならないでもなかったが、色々と話し合いたい事もあるのだろうと判断して、大人しくソファーから降りる。
残る面子と、事務所を出て行かされる者達との差異が何なのか、何だか、物騒な面々が残ってる側には多いけど?と首を傾げつつも、言われるままに出口へ向かった。
「さぁ、レディ達?」と言いつつ扉を先に立って開けてくれる兎月原に、いずみとチーコが「ありがとうございます」「あぅぅぃ!」と二人揃ってお礼を言う姿に目を細めつつ、「あ、私も送ってきます」と零も、その後に続き、皆で事務所の外へと足を踏み出しかけた時だった。


「ご…め…なさ…ぃ…! お…そくなった…っ!」

途切れ途切れの声。
赤く、長い髪が揺れている。



鮮やかな印象を与える、青年が一人、扉の外に立っていた。

まるで、炎のような。

見上げていると首が痛くなるような高い背をした赤い髪の男はひょいとしゃがみこみ「チー…コ…?」と首を傾げた。
チーコがこくんと頷く。
すると、全身の力が抜けるような、人懐っこい笑みを浮かべて、チーコの空いている手を握り締めて、ぶんぶんと振る。
「は…じめま…して、ボク…は…、五降臨…時雨。 時雨って…呼んで…ね?」
首を傾げてそう言いそれから、今から出て行く所と言わんばかりの様子のエマ達を見て眉を下げると、まるで置いて行かれる子犬のような目をしながら「何処…か、行く…の…?」と問いかける。
「はい、ちょっと山口県まで」
冷静な声でそう告げる百合子に、益々困ったような顔をして、「山口…県…?」と時雨が呟けば、「百合子…唐突にそれじゃあ、時雨さん困るだろ? えっと、チーコの事で来て下さった、興信所のスタッフの方ですよね?」と兎月原が問い、時雨が慌てて頷く。
そんな入り口での遣り取りを見かね、「時雨! こっち来い。 全部説明してやるから」と武彦が声を掛けた。
コクンと頷いて、それから忘れてた!という風に、時雨がポケットをごそごそと探り出す。
「こ…れ…」
そう言いながら差し出した掌には、色違いの、髪留めのが二つ。
セットになっているのだろう。
キラキラと光る、ピンクのプラスチックのハートと、赤いハートがついた髪留めに「可愛い」といずみが呟けば、にこっと時雨は笑ってまずは、チーコの髪に一つ着けた。
「は…ふぃぅぅ…!」
びっくりしたような顔をして、時雨を見上げたチーコの頬が見る見る真っ赤になっていく。
「着ける…と、もっと……かわいい…」
時雨がそう褒めれば、チーコは真っ赤な顔のまま、「あぅ…ぅ…あぅ…」と何も返事が出来ず、まるで、時雨の目から逃げるかのように、エマの後ろに身を隠した。
「あぅぅひぅ…」
「あら、照れてるの?」
エマの言葉に、チーコが益々身を縮める。
時雨はいずみの髪にも手を伸ばし、もう一つ、ピンク色の髪飾りをつける。
「…うん…可愛い…」
そう言う時雨に、きっと髪留めはチーコのものだと勝手に思っていたのであろういずみが、心底驚いたように彼を見上げれば「おそろい…友達…だから」と言って、にこにこと嬉しそうに笑った。
いずみが、手を伸ばして髪留めを触り、それから「ありがとう…ございます…」とお礼を言う。
そういう姿はやはり年相応の女の子で、なんだかエマは安心した。
チーコがエマの後ろからひょこんと顔を出して「ぅぁぅぁあ!」と嬉しそうに自分の髪飾りを触った後、いずみのを指差した。
「そうね、色違いのお揃いね」
いずみは頷いてそう答え、「ああ、凄く似合ってる」と兎月原は蕩けるような声で彼女達を褒めた。

「では、参りますか」


そう言いながら扉の外を指し示す兎月原に頷き返し、皆はそれぞれ、自宅へと慌しい旅の準備をしに向かった。

ふうふうと大きな荷物を背負って歩く。
エマの背負った大きな、大きなリュックには、折りたたみ机やら、簡易チェアー、果てはビーチパラソルまで入っている。

ちょっとした夜逃げ状態。

ふっと、エマは虚ろに笑い、「だって…海…とか、絶対、野外で食事…のがチーコちゃん…楽しいし…」と自分に言い聞かせる。
チーコが嬉しげに笑いながら海で、バーベキューを頬張ってる姿を思い浮かべると、それだけで幸せな気持ちになって、エマは荷物の重さを忘れられた。

私、相当、チーコちゃんに参っちゃってるみたい。

普段は旅行の際は荷物を最小限に纏めるエマだが、今回ばかりは仕方がない。
役に立ちそうなものを手当たり次第放り込んで背負って歩くエマに救いの手が差し伸べられた。


「だ、大丈夫ですか?!」

慌てたような声が掛けられる。
振り返る余裕もなく、声のみで千剣破が相手だと確信したエマは、「…あ、千剣破ちゃん…。 いや、ちょっと…色々、バーベキューの為の道具とか、家にある…役に立ちそうなものを纏めたら、こ、こんな事に…」と答えた。
すると、ひょいひょいと、彼女の背負っている荷物が取り上げられ、嘘? 千剣破が?と驚けば、「潰れちゃうよ…?」と、心配そうな声でそう言いながら、エマの荷物の大部分を軽々と時雨が背負ってくれている。
体が軽くなったエマは、「ふー」と息を吐き出して「ありがと。 時雨君」と心から礼を言った。
「エマ…は、飼い主だから…ペットが助けるのは…当然…」
そうニコニコと言う時雨に、ぎょっとして、千剣破が、一歩、二歩、三歩と後ずさる。

「エマさん…前から只者ではないとは思っていたけど…やっぱり、若いツバメが…」

そう言う千剣破に「違う!! ていうか、やっぱりって何?! ねぇ、千剣破ちゃんの私へのイメージって何?!」とエマが渾身の声で訴え、そのまま返す刀で「あんたも、誤解を招く事を言わない!」と飛び上がり、その額を見事に打ち据えた。

集合場所には、一台のバスが停まっていた。

「じゃん! 可愛いでしょう?」
そうバスを指し示すエマに、ポカンとした顔をしてしまう千剣破と、時雨。

白い車体には羊の顔がペイントされ、横原の部分に「××幼稚園」としっかり幼稚園名が入っている。

「可愛い!」と千剣破が声を上げれば、時雨も「…うわぁ」と茫洋としていながらも、嬉しげな声を上げた。
「ね? 可愛いでしょ? 武彦さんが昔請け負った依頼でね、解決したのはいいけど、依頼者が報酬払えなくって、それで、代わりにってこれを置いて逃げちゃったのよ。 幼稚園の園長さんだったんだけど、経営が立ち行かなくて、潰れちゃったのね。 まぁ、正直、どうしたもんかなぁ?って思ってたんだけど、こんな場面で役に立つとは思わなかったわ」
エマが、得意げにそう言ってる最中、「おお、来たか」と、声を上げつつ、嵐がバイクを引きながら現れる。
「なんか、チーコが喜びそうなバスだよな」と言えば、時雨と千剣破は同時に頷いた。
嵐は、バイクの性能の良さで知られている会社の看板を背負っている大型バイクを傍らに置いていた。
威圧感を感じる程の「デカイ」ボディは、デザイン性の高さにも定評があり、男が思う「カッコいいバイク」そのものの姿をしていた。
(いいなぁ…一回転がさせてくれないかしら?)
何気に大型ニ輪免許持ちのエマは、自分の体がうずうずするのを感じた。
「咄嗟に小回りも利くし。色々と便利だろうしな」という嵐の台詞に、頷いて、それから「後ろ乗りたかったら乗せてやるぜ?」と声を掛けられ、正直、ちょっとぐらついた。

嵐は、端正な顔立ちをしているし、仕草や言動が男っぽい所も魅力的だ。
バイクに跨る姿も、そりゃあ、そりゃあ様になるのだろうと想像できる。
そんな男の背中にしがみついて、ハイウェイを走り抜けていく…というのは、まぁ、それは、それで乙女の夢だ。
リリカル☆ドリームだ。

(ま、王子様は白馬が定番なんだけど…)
そう一瞬考えて、ハイウェイを白馬に乗って駆け抜けていく嵐を脳内に思い浮かべて、がっくりきた。
白馬と言うイメージ故か、何故か白い歯を見せながら笑い、片手を挙げて走り去る嵐の図を想像し、目の前の無愛想な表情とのギャップにげんなりする。
大体、そんな嵐に、どんだけ男前だろうが近寄りたくないったら、近寄りたくない。

後ろに乗せてもらおうものなら、運転したくてたまらなくなる自分を想像し、あえて挙手は控えておいた。

時雨も、「ボク…体…大きいから…」とシュンと肩を落としつつも、ペタペタとバイクをさわり、ほわわんとした声で「かぁっこう…いいねぇ…」と呟いている。

「あぅ! ぃはぅゃぅ! えぁ! あゃぃ!」

チーコの声が聞こえる。

振り返れば手を振るチーコが見え、エマはチーコに手を振り返した。


バスに乗り込みながら、「で、誰が運転…」と千剣破が言いかけたところで、運転席には黒須が座っているのを見て、「ひっ」と音が出るほど息を呑んだ。

「なんだ、その反応は」と睨む黒須に千剣破は、ぶんぶんと意味なく首を振っている。
「え?」
嵐が黒須を指差せば「一応、元都バスの運転手」とさらりと黒須が答えた。
「…え…、ええ…ええ…え?!」
時雨が切れ切れに叫べば「ほら、思ったとおりの反応」とエマは嬉しくなる。
先に乗り込んでいた翼が「多分、皆一緒の反応ですよ」と座席に座ったまま嬉しげな声をあげた。
「何でだよ」
そう呻くように言う黒須をまじまじまじと眺め、一歩下がって眺めた後、再び今度は近寄って凝視して、千剣破は深々と溜息を吐き出す。
「ヤクザじゃなかったんですね…」
千剣破の呟きに、嵐と、時雨も同時に頷いて、「もう、逆に物凄い意外すぎるな」と嵐が言えば「無意味に…不吉な外見…過ぎる」と、時雨も余計な一言を付け加えた。
「う る せ ぇ! とっとと、乗れ!」
そう怒鳴られ「はーい」と返事をして、エマは時雨に手伝って貰いつつ荷物を積み込み、嵐は自分のバイクのメンテナンスの為にバスを降りた。

その後、後から来たいずみ・エリィ・百合子・竜子を出迎える為にバスを再度降りる。
彼女たちも一様にバスの外観に驚いていて、エマはこういう反応が見たかったのよ!と思いつつニコニコとバスの由来を説明した。
しかし、何故だか百合子がバスの姿に相当がっかりしたらしく、しょぼんと肩を落としている。
「ろ、ロマンが…ロードムービーのロマンが…」と虚ろに意味の分からない事を訴えてる彼女に、エマとエリィは同じ方向に首を傾げた。
「ろーどむーびぃ?」
「ろまん?」
ぐっと握りこぶしで、百合子は必死に訴え始める。
「だって、見ず知らずの若者同士が、一つの目的のために集い、車に乗って旅をするんですよ?! これぞ、ロードムービーの王道じゃないですか! な の に 幼稚園バス! しかも、羊! こんなんじゃ、こんなんじゃ…途中立ち寄った古ぼけたガソリンスタンドで、奇妙な風体の中年男を拾ったら、それが悪魔の殺人鬼一家の長兄で、そのまま、殺人鬼一家の家にお邪魔する事になって、凄惨な血の惨劇に巻き込まれることが出来ないわ!」
「やめて、いやに具体的! なんで、こっからホラー展開?」
そうエマが否定すれば、いずみも「そんな、悪魔のイケニエ的なものになる気はありませんっ!」と、カルトホラーの金字塔な映画を思い出して身震いする。
羊バスをペタペタ触って喜んでいたエリィも首を振って「普通がいいの! チェーンソーとか持って追い掛け回されたくないの! 普通の旅行がいいの!」と訴えており、「むぅ」と不満げな百合子が肩に掛けていた荷物を、嵐がひょいと取り上げていった。
「バス、運び込むぞ? そっちのデカイ荷物も貸しな」
そう言いながら手を出す嵐に「あ、そんな! すいません! あ、でも、これ、重くないし大丈夫です」と大きな紙袋を抱えなおし、慌てて手を振る百合子に頷いた後、今度はいずみに手を差し出す。
「おら、貸しな?」
そう言いながらいずみから荷物を有無を言わせず手に取り、車内に運び込んでくれた嵐が、「じゃ、百合子さんの思う、正しいロードムービーの車って何?」と興味深げに尋ねた。
百合子はその問い掛けに、コクン、コクンと頷いて、「そりゃ、ロードムービーっていったら、古ぼけたワゴンか、四輪のごついオープンカーとか…それか、トラックとか…ですよ。 そういうのが、アメリカの西側の乾いた大地をぶっ飛ばすんですよ。 なのに、えー、よ、幼稚園バスって…」そう、項垂れる百合子に「だって、10人以上を一気に運ぶには、バスが一番なんですもの」と答えつつ、エマが「はい、乗って、乗って!」と促す。
嵐は自分のバイクに跨り、竜子にメットを渡していて、竜子は嵐の誘いに乗ったのかと、少し意外に思った。



全員が無事揃い、バスは思ったよりも平和に出発を果たせた。

流れるように後ろに過ぎ去っていく景色にチーコが歓声を上げていた。
チーコを膝に乗せたエマはその頭を撫でながら鼻歌を歌う。 ハスキーな声が優しく、穏やかな旋律を奏でるのが心地よくて、エマは少女のように微笑んで「楽しいね」といずみに言った。
青い空がどこまでも続いていて、初夏の日の光が優しく窓から差し込んでくる。
「ぁううぃぅぅ?(あれはなんてお花?)」
「ああ…あれは、つつじ。 綺麗でしょ? もっとたくさん咲いてるとこにも連れてってあげるからね?」
「ひぅうあぃぃぃー!(ねぇ、お歌を歌って)」
「ああ、はいはい、じゃあ、なんの歌が良いかしら?」
明らかにスムースに会話を交わしているエマに、千剣破が「チーコの言葉、もしかして分るんですか?」と、問い掛けてくる。
「んふふ、自慢じゃないけど、このエマさんは言葉に関しちゃエキスパートよ?」
そう言いながら胸を張り、それから傍らにある鞄から大学ノートを一冊引っ張り出した。
ペラペラと開いて見せてくれると、そこにはびっしりとメモ書きがしてあって、急いで書いたのであろう走り書きの状態であるというのに、それがとても読みやすい字である事にまず驚いた。

「チーコちゃんが住んでた島の位置をね、黒須さんに聞いてきてもらったの。 チーコちゃんが喋ってる言語が何処から伝わってきたものなのか知りたくてね? というのも、彼女の舌っていうのは、私達とちょっと作りが違って、長さがとても短いの。 喉の構造も違うようで、そもそも人間とは発声方法が違うと考えた方が良いみたい」
エマの言葉に聞き入れば、エマはノートをチーコの頭の上でペラペラ捲りながら喋り続ける。
「だから、彼女の言葉の音は、母音と、ハ行の音、それに時折カ行が入り混じる位で、とても限られてるわ。 これが歌となると、また発声手段が変わってくるみたいなんだけど、そこまでの仕組みはちょっと分からない。 何にしろ、チーコちゃんの種族は会話における音が限られるから、当然語彙も限られてくるのよ」
「つまり、コミニケーション手段が『言語』である事が向かない種族という訳ですね」
翼の言葉に、「その通り」とエマが頷けば「確かに、それなら別のコミニケーション手段が発達して然るべきなのかも知れない」といずみも呟く。
「チーコの様子を鑑みるに、チーコはとても知的レベルが高いと思うんです。 幼い所が目立ちますが、私のクラスメイトにもチーコのような無邪気な振る舞いが目立つ子も大勢おりますし、現に彼女は人間社会に連れてこられて一年程の時間の間に、こちらの仕草を真似できるほど理解し、言葉も殆ど耳で聞く限りはその意味を分かっているように見受けられます」
いずみの明晰な推測にエマは流石いずみちゃんと、嬉しくなる。
チーコは自分の話だからか、眼を大きく見開きながら、エマといずみに交互に視線を走らせた。
「まぁ、…いずみちゃんから見れば、大概の子は幼く見えるだろうけど…でも、確かにチーコは賢いよ。 その、エマさんの言うように、発声に関しては種族や、器官の構造の違いから、僕達と同じような発声が出来ないから、チーコはチーコの種族の言葉で喋っているんだろうけど、もし発声器官が同じなら、きっと僕らの言葉をマスターしていたような気がする」
翼が唸るような声でそう言った。


「耳が、いいのだろうな…」


目を閉じ、眠っているかのように静かに座席に身を預けていた冥月はぼそりと口を開く。
「歌を得意とするものは、大抵聴力に優れ、耳で聴くものへの理解力が高い。 チーコは、一年間人間社会で過ごし、耳にする言葉の、音程や、高低、台詞の強弱等から、瞬時にこちらの言っている事の大まかな意図を察し、反応をしているのだろう」
冥月の言葉に、通路を挟んで隣の席に座っていた翼が感嘆したような声で「賢いな、チーコ」と言えば、チーコが誇らしげな声で「ひぅぁう!(えへへ!)」と声をあげる。
そんなチーコの頭を愛しげな手つきで撫で、「よいしょ」と掛け声かけつつ抱え直すと、「そうね、だからね、これだけ知的レベルが高く、喉の構造から見て『言語による会話コミニケーション』に向かない種族が、それでも何故『会話』によって、コミニケーションを交わしていたか…そこに私は着目したの」とエマはよく通る、ハスキーで耳障りの良い声で言った。
「ああ…確かに、それほど知的レベルが高ければ、自分達独自のコミニケーション方法を発達させていたとしてもおかしくないな」
兎月原が、鼓膜を直接舐るような、官能的な声で「それで、エマさんは、何故、チーコの種族が、それでも『会話』によるコミニケーションを発達させたんだと考えてるんです?」と問い掛けてくる。
茶色の髪に日の光が透けていて、これぞ「女にモテる男の見本」のような、美形ぶりに思わず見惚れてしまいつつ、「ハッ」と気を取り直し、「あ…いやいや、あのね、つまり、言葉が『伝来』したんじゃないかな?と思ったのよ。 人間からね」と答える。
「…ああ! そうか。 それなら、納得です」
大きく頷くいずみ。
「チーコの住んでいる島に、難破した船の乗組員等が流れ着いた可能性はゼロとはいえない。 どういう海流が、島の周囲を囲んでいるのかは見当がつきませんが、人間という会話によるコミニケーションを主にしている種族が、チーコ達の祖先が住む島に流れ着き、『言葉』を伝え、それが、チーコの代にまで伝わったと考えるのが自然ですね」
「そう、その通り。 言葉が伝わったのがどの位の時期なのかは見当がつかないけど、推測だと、かなり昔の事だと思うの。 ほら、今の時代だったら、言葉を教えたりとか、そういう事の前に、世紀の大発見としてチーコちゃんの種族を世間に公表したりとか…」とそこまで言って、エマは、ある事に思い至って表情を曇らせ、一度口をつぐんだ。

つまり、今の時代に人間に発見されてしまったから、チーコ達の種族の、悲惨な現状があるのだ。
昔ならば、難破し、無人島に辿り着けば、そのまま通信手段もなく、救助も求められず、その島で生を終えるしかなかったのだろう。
きっと、昔、チーコの島に辿り着いた人間は、彼女たちの種族と仲良く暮したに違いない。
人を疑わず、すぐに誰にでも懐き、笑顔を向けるチーコを見ていてエマは確信する。



「…そうすると、チーコちゃんの言葉にはルーツがあるという事ですよね? 地球上にある、何処かの国の言語が、彼女たちの言葉の成り立ちとなっているって事ですか?」

百合子が、空気を変えようとしてというよりも、全く場の空気読まないままに、素直に口を開いたといったような声音でそう自分の意見を述べる。
だが、彼女のほのほのとした声に、空気が和み、エマは助かったと心から彼女に感謝して、「そう! その通り! 私、こう見えても言語オタクでね? 黒須さんに、彼女の島の場所をベイブさんに聞いてきて貰ったのよ」と話の続きを始めた。
「で、先程まで述べていたような考察からチーコちゃんの祖先が人間とファーストコンタクトした時期を割り出してみると、航海技術が長期航海に耐えられるほど発達し、それでいて情報技術や、通信手段が今ほど栄えてない時代…。 そう考えてみると…大体15世紀中ごろから、17世紀中頃じゃないかな? と私は考えたわけ」と滔々と説明を続けるエマに、「大航海時代!」といずみが手を打った。
「だ…い…こうか…い?」
時雨がきょとんと首を傾げる。
「なんか…凄く…辛い…時代だった…とか?」
そう無邪気に問う時雨を見て、百合子が「ああ、それは、『大後悔でしょ』と突っ込んであげたいのだけども、突っ込んだら大火傷!って感じだから、何も言いたくないっていう、私の気持ち分って貰えます?!」と兎月原に訴えている。
「え…百合…子…火傷? あ…、大丈夫…? 大丈夫…?」
眉を下げ、心配そうに自分に手を伸ばしてくる時雨に、「いや、もう、あの、え、ええ、ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」と、最終的に謝っている百合子を見て、何だか気の毒な気持ちに陥りつつも、助けようもなく、エマは同情の気持ちを込めて百合子を眺めた。


「大航海時代って言うのは、スペイン、ポルトガル等のヨーロッパ人が領土拡大や、当時は金と同じ重さの金と等価で取引されていた香辛料を求め、インドとの直接貿易の為に、アジア大陸、インド大陸、アメリカ大陸へと航海による海外進出を盛んに行っていた時代です」
いずみの説明に「…あ…うん」ととりあえず頷いた時雨は、眼をパチパチさせながらマジマジといずみの顔を凝視している。
翼が「本当に、君が小学生だっていうのが、信じられないよ。 見た目はそんなに可愛いのにね」という翼の台詞にエマは賛同の意を表したかった。
「ああ、では、チーコの言語の元は…」
そう顎先に指を当てて、兎月原が「ヨーロッパ圏の言語」と言えば「そう、彼女の言葉のルーツは、ポルトガル語よ」とエマはにっこり笑ってノートを閉じた。
「言葉の元さえ分れば、言葉の響きや、選択されている音の強弱からも、チーコの言葉の意味が推察できる。 幸い、ポルトガル語なら習得済だし、彼女の言葉をこうやって書き留めて、翻訳しつつ、ちょと理解してこうとしてるの。 簡単な通訳くらいだったら出来ると思うわ」
そうエマが言うと、皆は、無言のまま目を見開いてエマを凝視してくる。

あら、やだ。
大げさに捉えられちゃったかしら?とビクついて、「いや、まぁ、だから、えーと、言葉が好きなの。 趣味なの。 だからよ」とヒラヒラと手を振りながら、凄まじい事を何でもない事のように言ってエマは纏めた。

「エマさんって…ほんっと…尋常じゃないよね」
千剣破が心底からの声で言えば、エマも心底の声で「いや、でも、私、ほら、みんなみたいに、『破壊光線!』とか『テレポーテーション!』とか出来ないから…」と否定する。
即座に、千剣破が「いや、幾らこのメンバーでも多分、誰も『破壊光線!』とか撃てないから。 『テレポーテーション』とかしないから」と、速攻否定され返してしまった。
とはいえエマとしては、『破壊光線』に近いことをやってのけられるメンバーが入り混じっているのを知っている為に、まぁ、何だかんだで「尋常」な人間の方が少ないよね、この車内と思い、改めて見回して「あ、いや、いないのか」と重ねて納得する。
ただ、自分自身の事は、当然省いて考えている訳で、他の面子からも「尋常じゃない」と自分が認識されている事など当然知らぬ気に、「まぁ、自分の事は自分では分からないものだしね」なんて、まさしく己に当てはまるような事を、腕を組んで他人事のようにエマは考えていた。

「う、うう、なんか、凄い…だって、興信所の事務員さん…なんですよね?」

百合子が両手を組み合わせながら問うてくる。
「ん? そうよ? もう、雑用ばっか! ていうか、ボランティアだし! 給料殆ど払ってくれないし!」
力いっぱい頷いて、そう強く訴えるエマを、またパチパチと瞬きして眺め百合子は、「そんな…エマさんがボランティアだったら、私お金払って勤めさせて貰わないといけない」と呟いて、「あ、それはいいな」と兎月原に笑われた。
「ま、エマさんは、ほら、ね?」
にやっと、笑う千剣破を、「何よう」とエマは睨む。
「ボランティアっていうかぁ…武彦さんをお手伝いしたいだけだもんね?」と首を傾げて言われ、ピッと片眉を上げて「からかわないのっ」と怒っておいた。
「う、うう、どうしよう、どうしよう」
おどおどと見回す百合子の様子に「どしたの?」と、黒須のすぐ近くに座って道をナビ係をしていたエリィが振り返り、百合子は「えーと…」と言いつつ、自分の網棚の上にあげらている鞄をごそごそ探り出す。
「…事務員らしく…こんなものを作ってきたのですが……」
そう言いながら取り出したるは、十数ページ程の小冊子の束。

「あの…しおりです」
そう言いながら渡された冊子には、可愛い兎のイラストやら、今回参加するメンバーのミニイラストが描かれた表紙が付けられていて、「かわいい…」といずみが呟き、千剣破も、「きゃぁ!」と嬉しげな声をあげて、ページを捲りだした。
「ね、ね? この子があたしだよね?」
黒髪の女の子がニコと笑っているのを指差せば、百合子が恥ずかしげに頷いた。
「うあ、上手! ほら、時雨さんなんかもそっくり!」
指差す千剣破の指先を眺め「うわ…ボクだ!」と時雨も楽しげな声を上げる。

「旅行と言えば…しおりです!」
妙な力強さを持って断言する百合子から冊子を受け取った面々は、思い思いの表情で冊子を捲り始める。
「頂戴、頂戴!」
そう手を伸ばすエリィに、廊下側に座っていた冥月が手渡せば、「ほんと、凄い可愛いー!」と言いつつ、運転席に座り黒須に冊子を手渡していた。
にこぉと笑って、自分の似顔絵の部分を指先で撫で「ゆぃこぉ! はぅぃぅ!」と百合子に満面の笑みを見せる。
「注意事項とか…あと、スケジュールなんか書いてみました! 緊急の連絡先として、エマさんの携帯No書かせて貰ったんだけど…」
「オッケー! はぐれたり、迷子になったら、連絡頂戴ね?」
そう声を掛けるエマに、苦笑を浮かべる者もいれば、大真面目に頷くものもあり、「しおり」の登場に俄然盛り上がる旅行ムードに、何だかエマは微笑ましくて和んでしまう。
ぺらぺらと読み込んでいけば、旅行の予定表なんかもあって、よくもまぁ、あの短時間にと百合子に対して感嘆の念を抱いた。
「わ、でも、これ、ほんとに便利。 メモ用紙にも出来るようになってるし…、凄い…あはは、嬉しい! これから行く場所の、見所とかも書いてある。 よく一時間で作れたわねぇ…」
そう感心して言うエマは「凄いわよ、百合子さん」と心からの声で言い、あれだけ、自分に何が出来るのか弱気な様子を見せておいて、これだけの事を懸命にやってきていた彼女に感心する。
百合子は嬉しげに「よかった、喜んでもらえて」と胸を撫で下ろし、にこっと幸せそうに笑った。



夕時。

高速のパーキングエリアで、夕食がてら休憩を挟む。
チーコの外見の特徴を考慮し、車内で休憩をとる事にした。

買出し班が、色々な物資を調達しに行っている間に、車内を食事が取りやすいよう座席を回したりして、調整を始める。
エマは、バスの横原にある荷物置き場から、車内に簡易机を運び込もうとしていると、手伝ってくれる者が何人かいて、「重いわよ?」と注意を促した。
どうも、エマが一人で運んで来れたものだからと油断して請け負ってしまうらしく、皆、想像以上の重さに一瞬よろける。

「大丈夫?!」

そう驚いたように問いかければ、頷き返しつつも、皆内心彼女の怪力に驚いている事に、エマは気付かなかった。
他にも色々なセッティングを行っているうちに、買出し班も戻ってきて、みんなでお待ちかねの夕食タイムと相成った。



「じゃ、じゃーん!」
エリィがそう言いながら、大きな紙袋から幾つかのタッパーを取り出した。
「時間ないからさぁ、冷蔵庫の中のもの詰めて、あと、短時間で作れるものだけ作ってきたんだけど…」と言いつつ、バスの中央座席にエマが持ってきた、小さな折り畳み机の上に広げる。
チェックの可愛いランチョンマットを敷いた上に並べられた料理の数々は、とても短時間で揃えたとは思えない彩の良さと、明らかに凝った料理の数々で、「えへへ、そこのポテトサラダとかは、結構自信作」と言いつつ、薦められるままに箸を伸ばせば、ほくほくとして、しっとりとした舌触りに、思わず目を細める。
「山菜おこわのおにぎりもあるからねー」と、エリィが言って差し出すのを受け取って、「へぇ、旨いもんだな」と黒須が褒めれば、「えへへへ」と嬉しそうに笑って、それから、「こうやって大人数で食べるのって楽しいね」と、気持ちの篭った声で言った。
チーコが、片方の手におにぎり、片方の手にから揚げをさしたフォークを握り締めながら、「はぐはぐ」と懸命に口を動かす姿を見て、「はい、喉に詰まらせないようにね?」とエマは注意する。
魔法瓶に入れてきたという、お味噌汁を啜りつつ、ああ、確かに、ご飯は誰かと食べる方が美味しいと強く感じた。
一人で食べるご飯よりも、たくさんの人と一緒に食べたほうが美味しい。
空豆と明日葉の掻き揚げを食みつつ、「時間がたってもサクサクしてるのね。 また、コツ教えてよ」とエマはエリィに強請り、時雨がチーコに負けない位口いっぱいに食べ物を詰め込み、片手に握り締めた五平餅にもパクついている。
百合子が、ひたすら「美味しい、美味しい!」と感想を述べていて、同じように「美味しい」と言い続ける千剣破と顔を見合わせ、微笑み合いながら箸を進めて、それぞれ「このロールキャベツとか、もう、お店出せるよ」とか「この白和えもサイコー」と感想を述べ合っていた。
翼は、流石と言うべきかエリィを「あなたみたいな方の恋人になる男性は世界一の幸せ者だ」と絶品の微笑みで褒めており、そうなると当然のように兎月原が澄ました顔で、「ああ、願わくば、俺もその、世界一幸せになれる男候補に名乗り挙げたいものだ」なんて甘い声で告げている。
何故女性に生まれてしまったのだろう?と思う程の、ハンサムっぷりを発揮する翼と、甘いマスクに似合った甘い声で賞賛する兎月原の前に、頬を染め、へにょへにょと身をくねらせながら、「ううう、やばい、照れすぎちゃう!」とエリィは喚く。
竜子と嵐も、バイクでの走行と言うのは体力を使うのか、旺盛な食欲を見せ、ブロッコリーの塩茹でに、レモンの手作りドレッシングをかけたものを皿に山盛りに取りながら、「うめぇ…! 野菜って正直そんな好きじゃなかったんだけど、こうやって喰うとうめぇんだな」と感嘆の声を上げていた。

竹の子のオーブン焼きや、菜の花とあさりを卵でとじたもの等春野菜をふんだんに使った料理の数々に舌鼓を打ち、サービスエリア名物のチープながらも、暖かで癖になるようなテイクアウトの品々も綺麗に平らげ、これまた最後に暖かな緑茶を啜って、大層賑やかな夕食を終える。


「んじゃ、嵐君、交代」

そう言いながら立ち上がったのはエマで「バイク疲れたでしょ? 鍵、貸して」と言いながら有無を言わさず差し出す手に、嵐は目を見開いたまま鍵を渡し、それから「はえ?!」と声を上げた。
そんなに驚かなくてもと呆れつつ、「私、大型二輪の免許持ってるから、交代要員に数えてくれて良いわよ? お昼からずっと走り詰めでしょう。 休憩なさいな。 あ、運転技術は、結構折り紙付きだから大丈夫」と言うエマに、嵐は「いや、そこら辺は疑っちゃいないが…外結構風冷たくなってくる時間帯だし、女が体冷やしたらまずいだろ」と眉を寄せて言う。

いや、単純に私が乗りたいだけだし、と心の中で思い、それに、嵐一人にバイクで後を追わせ続けるのは忍びなく思う気持ちも確かで、エマは首を傾げ、ひらりと軽やかな大人の笑みを見せると、「あら。 優しいのね。 ありがと。 でも、ちゃんと、防寒用にダウンジャケットと革パン持ってきてるし、季節的にもそんなに冷え込まないから、心配しないで」と言い、肩にボストンバッグを提げて颯爽とバスを降りていく。

外に出ると、夕闇入り混じりの風がエマの頬を優しく撫で、「いいツーリングが出来そうね」と一人呟いて、着替えの為にトイレに向かった。


二日目。


その後、夜中までバイクでバスの後ろを走り、その後は竜子と交代して眠りについたエマ。
バイクから、パーキングにてバスに乗り換えた後は、兎月原と少し談笑して、バスタオルをタオルケットの代わりに掛けて、ぐっすりとした睡眠を取った。
「ふあ」とあくびをしながら身を起こすと、キラキラと目を輝かせながら、万華鏡を覗いているいずみと、チーコの姿が目に映った。


「わぁ…」

そう、微かな、それでも、驚嘆しような声をあげるいずみの姿に、今万華鏡を覗いている彼女の目に、どのような世界が映っているのだろうと興味深く思う。

「綺麗だろう」

低い声。
顔を向ければ、腕を組んだまま、眼を閉じていた冥月が、二人に顔を向けずに腕を組み「人から貰ったものなのだがな、暇を潰すのに丁度良い」と告げていた。
冥月があげたのか…と少し意外に思う。
彼女は、皆からも、チーコからも距離を置いているように見えたから。
だが、万華鏡を無邪気に覗いているチーコを見る表情は存外に穏やかで、「今兵庫を通過中だ。 神戸市にある水族館へと向かっている。 あと少しで、次の休憩所に着く。 そこで、洗面と朝食を済ませよう」と告げた言葉の柔らかさに、彼女を優しいと言った黒須は中々鋭いと、心の中で褒めてあげた。




嵐の提案によって訪れた水族館。

実はチーコと一緒に館内めぐりたかったのだが、「追手がある。 黒須、兎月原、エマは水族館出入り口を固めてくれ」という冥月の言葉を受けて、三人は水族館の入り口に向かっていた。

館内図をチケット売り場にて手に入れてきたエマは、「裏口等もあるようだけど、いずれも職員用ので、そこから侵入しようとするとスタッフに必ず目に付くようになってるわ。 向こうも騒ぎも起こしたくないでしょうから、水族館内に侵入してチーコちゃんを狙うなら、必ずここを通るはず」と断言し、両入り口脇に立つ。
連休中とあって、人の出入りが激しく、見逃す事がないかと不安だったが、それは、杞憂に終わった。

「向こうに二人。 こっちに…一人。 あ、あそこにも、二人…」

明らかに家族連れや、カップルたちとは違う雰囲気のスーツ姿の男達。

黒須と兎月原が目配せしあってるのを確認し、黒須がエマの傍へと走り寄ってきた。

「ここじゃ、人が多すぎる。 あいつら、誘導するぞ」

黒須に言われて頷くと、エマは、ドキドキする心臓をなだめ、一人の男に近付いた。

近寄ってくるエマを険しい目で眺めてくる男にエマは余裕のある笑みを見せながら「私の用件分かってるわよね」と言う。
男はにやっとエマを眺め回し「おねぇちゃん、怪我したくなかったら、止めときな」と笑われる。
エマは一瞬イラつくものの、ここは強気に出てもしょうがないと考え、「騒ぐわよ」と低い声で告げた。

「このまま、強行突破しようとしたら、大声で喚き散らして警察呼ぶわよ。 それって、そっちにとってもマズイんじゃないの?」

エマの言葉に、男は怯み、それから「どうしろっていうんだ?」と聞いてくる。

「だから、人目のつかないところで、お話しましょ?って誘ってあげてんじゃない。 あと、ついてきてよ」

そうエマが言い、先に立って歩き出せば、好色そうな笑みを浮かべてついてくる男の気配がして、エマは鳥肌を立てつつも(もう、ぼっこぼこにしちゃんだから! 黒須さんが)と心の中で強気だか、弱気だか分んない事を吐き捨てた。
物陰に引っ張り込めば、後はあっと言う間だった。
黒須に最初の打ち合わせで、耳を塞がせておいたエマが、まず可聴音域ギリギリの、人を最も不快にさせる声を発し、相手の平衡感覚を狂わせ、よろめかせたところで、黒須が三人、瞬く間にのしていく。
二人、何をやったのか分からない速度で昏倒させた後、三人目の男も、しなやかな仕草で男の懐に潜り込んだ黒須が、そのみぞおちに拳を埋めて決着を付ける寸前で、兎月原の姿を見止めたエマは、喉に手を当てながら「そっちは終わったの?」と言いつつヒラヒラと空いている方の手を振った。
「ええ。 こちらも済んだみたいだな」という兎月原に、視線を戻せば、三人目の男も白目を剥いてくれている。
「さて、どうしましょ? 兎月原さんがカタつけてくれた人達と一纏めにして、ここらへんに転がしておく? 勿論、警察には連絡してね」と言いつつ、エマはポケットを探り、「ああ、やっぱり持ってた」と言いつつ銃を取り出す。
「貰ってもいいけど…扱いきれないものは、持たぬが吉ね」と一人呟き、すぐ警察の目につくよう、倒れている男の手に握らせると、予め用意しておいた、ビニール紐を使って、二人の男を一緒くたにぐるぐると縛り始めた。
「あ、手伝う、手伝う」と言いつつ、エマからビニール紐を取り上げる黒須にならって、兎月原も、男たちを縛り上げるのに尽力する。
ベンチに座らせていた男たちも一緒のように縛って転がすと、一仕事を終えた充実感のようなものに、三人揃って「ふう」と額の汗を拭いた。
「向こうは大丈夫かしら?」と駐車場の方向を見る。
向こうにも、追手は掛かっているに違いない。
とはいえ、冥月、時雨が揃っている以上、まぁ、心配するのが野暮ってものだろう。
「うう、喉渇いた! ジュース買ってきてあげる」
そういうエマに「あ、じゃあ、俺、何かスポーツ飲料を」と兎月原が言えば「俺は、アイスコーヒー」と黒須も続き「了解」と言って、エマは駆け出した。

自動販売機の前に立ちながら、それにしても…とエマは思考する。

発信機、間違いなく全部取り外した筈だ。
バスが追われている?と考えども、こういう仕事で使うものなので、ちゃんと「クリーニング」はしてあって、身元は分からないようにしてある。
何故、こんなにすぐ追いつかれたのか?
エマは疑問を抱きつつ、自販機のボタンを力いっぱい押した。


その後、再び入口脇に待機し、不審な者が侵入しないか監視すれども、冥月達が残りは皆片付けてくれたのか、その後は襲撃者の姿も見かけず、無事水族館内を巡り終えたとの知らせを受けて、エマ達もバスへと戻った。


「で、どういう事なのよ」
エマがバス車内で唸るように言う。
「どうして、私たちの後をこんなに正確に追ってこれるわけ?」

全部、発信機は外した筈なのに。

冥月達が男たちの中の一人を締め上げてみるも、下っ端だったせいで、要領を得た回答を得る事は出来ず、バス内を総ざらえした所で、盗聴器や、発信機等こちらの行方を追うに有効なものは何も見つからなかったそうだ。
車のナンバー等を把握されたのかと思えど、K麒麟の仕事の下請け等を行うような小さな組に所属しているという男は、ただ、この水族館に向かいエマ達を襲うように指示されただけで、他は何も知らないという。
そもそも、こちらが「バスで移動している事」すら知らなかったというのだから訳が分からない。
事務所でK麒麟について調べ、情報を流してくれている武彦や零も、彼らがどのような情報網によって、こちらの動向を把握しているか想像すらつかないようで、とりあえず、東京で分る限りの事は随時連絡を入れてくれるそうだ。
今でも、黒須には組織そのものの情報を、エリィには道路情報等を伝えてくれていて、なんだかんだで、武彦達は、武彦達で協力をしてくれているのだと知ると、やはり心強く思う。
とりあえず車を変えようかと悩んだが、「このバスの存在自体知らなかった訳だし、そういう問題で此方の所在を把握されているわけではなさそうだ」という冥月の言葉によってとりあえずは、今の移動方法を続ける事にした。

(何にしろ、どうやって追ってきているのかは、把握したいわ)

そう不安に思いつつも、水族館から満面の笑みで出てくる面々を見止めると、おいそれとそんな気持ちを顔に出すわけにはいかず、エマは明るい笑顔を咄嗟に装い、小さく手を振って皆を出迎えた。



「うひぁうぅ、はああぅふぃぃぅ!」
サクサクサクと軽い音を立てる白い砂。
裸足になったチーコが波打ち際ではしゃいでいる。
エマは、翼やエリィ達と一緒に、バーベキューの準備を進めていた。
ここへ来る途中で購入した食材達を素早く調理していく。
「えーと…味付けすんだからホイル…ホイル…」と捜すエマに翼が「はい、どうぞ」と渡してくれる。
「ありがと♪」
そう礼を述べつつ翼の手元を覗き込めば、イカやタコのぬめりを手際よく塩で取っていて、「なになに? 翼さんは何作ってくれるの?」と問えば「海鮮やきそばを作ろうかな?って。 子供って焼きそば好きでしょう?」と翼が答えた。
いかにも美味しそうな名称に「わぁい」と子供のような声をあげつつ、エマもタラのホイル焼き包みの準備を進める。
エリィも、たくさんの魚介類と野菜を大なべに放り込み、ブイヤベースの作成に取り掛かっていて、「うん! このブイヤベースは、超自信作の予感!」と期待出来そうな台詞を口にしていた。
エマは、二人の作業風景を惚れ惚れと眺めつつ、これは、作るほうとしても楽しいけど、食べるほうとしても、かなり楽しい時間が待ってそう!と期待に胸を躍らせる。

爽やかな風が、三人の頬を撫で、普段はしなれぬ野外での調理への新鮮さも手伝って、彼女達は力いっぱい料理の腕を奮っていた。

皆手際が尋常でなく良いのもあって、サクサクサクッと料理が仕上がっていく。
串に差した野菜や肉を豪快に焼いたバーベキューもいい色になり始めて、翼が「ごはんだよー!」と皆を呼んだ。

お昼も少し回った時間帯。
お腹をぺこぺこに空かせた面々は、めいめい返事とも歓声ともつかぬ声を上げて、既に美味しそうな匂いが漂っている浜辺へと走ってきた。


エリィが見つけてくれた浜辺は、彼女が言っていた通り、観光客の姿も地元の人間の姿も見えず、チーコは姿を隠さずに、のびのびと振舞う事が出来ていた。

串に差した肉に齧りつきながら、熱かったのかチーコが「ひふひふ!」と息を大きく吐き出している。
「はい、どうぞ」と冷たい水を兎月原が差し出し、丁寧な手つきでチーコの口元をナプキンで拭ってあげていた。
「おいし?」
首を傾げて問う姿や、チーコが別のものに手を伸ばそうとすると、さっと皿を差し出す紳士ぶりに感心していると、エマの心を読み取ったが如く、百合子が、とうもろこしに兎のように齧りつきながら、「まぁ、プロだしね」と言いつつ、うんうん頷く。
「プロ?」と首を傾げれば、「おもてなしのプロ」と分ったような分からないようなことを言い、「エマさんは、きっと嵌らないよ」と、更に意味の分からない事を言われた。

予想通り、どれもこれも、本当に美味しい。
「エリィちゃんが作ってきてくれたお弁当に触発されちゃった」とエマが笑えば、「僕も張り切らせて貰いました」と翼が、優雅な手つきでスープをプラスチック皿に流し込む。
翼も、エマも、乏しい調理器具から、手早く見事なバーベキュー料理を作り上げており、エリィもお弁当作りで見せてくれた腕前を思う存分披露してくれていて、皆、お腹が一杯になると、本当に野外料理の食後なのかと疑いたくなるほどの、満足感に満たされた。

その後、日暮れ前にここを発つという事で、浜辺で眠るもの、波打ち際で遊ぶもの、ビーチパラソルの影で本を読むもの等、それぞれ別れる。

片づけを済ませた後は、浜辺でのんびり日光浴をする事にした。

同じく日光浴中なのか、いつも以上にぼんやりとした表情で浜辺に座っている百合子に、「隣良い?」と声を掛けて、エマは座る。
喉の渇きを覚え、背後に入る黒須を振り返りつつ、「あ、黒須さん! 黒須さん!! 私、食後のアイスコーヒーが飲みたーい!」とエマが大声を出せば「依頼人をコキ使うって、どんな職員だよ」とブチブチ言いつつも律儀に氷を浮かべたコーヒーをエマに手渡してくれた。
堤防の傍に座っている冥月にも、「冥月さんも、おいでよ」とエマが手招きすれば、何かを言いかけた後に頷いて、傍に来る。
「うふふ。 でも、ほんとチーコちゃんのお陰で楽しい旅が出来て、ありがとう!って感じよね」
そうにこにこと言うエマに冥月は肩を竦め、「呑気なものだな…」と言った後、ふっと表情を緩めると「だが、まぁ、皆が皆ピリピリしていてはチーコも楽しくなかろう」と答えて、浜辺でいずみとならんで座っているチーコに視線を送った。
今は二人肩を寄せ合って、一つの万華鏡をのぞいている。
あれは、冥月のあげた万華鏡。

「…気に入ってるみたいよ?」

エマが冥月に言えば、「それは何より」とクールに冥月は答える。
「…三日間…短すぎだわ」
百合子が寂しげに言えば、黒須はチーコの背中を見て「楽しんでくれてりゃあいいんだけどな」と呟いた。
「…やっぱ、どうしようもない事は、どうしようもないんだな」
黒須の言葉に、いずみが事務所で喚いた言葉を思い出す。

「良い大人が雁首そろえて、3日しか保たないとかいきなり泣き言を言ってないでベイブさんに泣きつくなり何か手が無いか尽くしてからにしましょうよ」

「ベイブさんっていう人は…」
百合子の口から出たその名前に、異様に体をびくつかせた黒須が、百合子にキョドった目を向ける。

「凄い力の持ち主なんですか?」
「んあ? え? ベイブがか? あー、どうなんだろう?」
咄嗟にエマに視線を向ける黒須に、エマが「なんで、私を見るのよ」と唸りつつも「いや…凄いっちゃあ、凄すぎるくらい凄いんだろうケド……」とそこまで言って口を噤み、「…まぁ、不便な人よね」と言って頷いた。

エマは、虚ろな王様の顔を思い浮かべつつ、「ううん、何ていうか、夢の世界に住んでるみたいな人なのよ」と要領の得ない言葉を口にする。
「異世界みたいなものか? その、空間が違う…とか」
冥月が言えば、「ああ、そういう感じだ」と黒須が頷いた。
「だから、何処の情報網にも引っかかってこないのか…」
冥月の呟きに「あ、じゃあ、『発狂運輸』つったら分かるか?」と黒須が問う。
「…発狂」
「運輸…?」

随分とアヴァンギャルドな運輸会社名だと思いつつ、百合子と交互に訝しげな声をあげる。
冥月は聞き覚えがあったのか「ああ、あの妙ちくりんな『裏社会御用達配達会社』。 あすこに関わりのある人間なのか? そのベイブとやらは」と、驚いたような口調で言った。
「…おお、関係も何も、オーナーだぜ。 確か」
黒須の答えに、ヒュウ♪と口笛を吹き、意外そうに冥月は笑う。
「本当か? へぇ。 じゃあ、『発狂運輸』の殺人お届けサービススタッフから、『花龍』が抜けたという噂が事実か?」
物騒な名前の連呼に、エマと百合子、二人並んで目をパチクリさせていたのだが、黒須は「ああ…なんか、ベイブがそういや言ってたな。 ナンバー1が行方不明になったって」と答えて、「ほんとに、詳しいのな。 そういう業界については」と黒須は肩をすくめる。
「え…えーと…?」
そう話についていけずにエマが首を傾げれば黒須は「いや、なんか、ベイブがこっちでやってる、まぁ、会社みてぇなもんだよ。 一応、こうやって興信所に依頼したし、何かの際に人がいるようになった時に困らないよう現金を手に入れる手段を持っておいた方が良いって理由らしいが、多分退屈だからってだけだぜ? んで、あんま、こう、普通の配達会社には頼めないような、後ろ暗いものとかを配達してくれるっつうんで、組やら、色んな組織から、個人まで重宝してくれて、幅広くサービスを提供してるってわけよ」と説明してくれた。

「その…殺人お届けサービスは?」
エマの恐々とした問い掛けに「字のまんま。 殺し屋を、相手宅に配達して、『死』をお届けしますっていうサービス」と黒須は何でもないような声で答え、「花龍は、一番仕事の出来た大陸から出稼ぎに来ているスタッフらしいが、今は行方知れず。 殺られたっつう訳でもなさそうだし、ほんとに消息を絶たれちまってて、後を追いようがないんだと」と肩を竦めた。
なんか…えーと、かなり、これは殺伐とした話じゃないのか?と思いつつも、どうにも興味深くて耳を済ませずにはいられない。
「白雪さんに聞いても分からないの?」
エマは、真っ白な嫉妬深い女の顔を脳裏に浮かべる。
「白雪?」と百合子が問えば「ベイブさんに仕えてる、何でも見通す力を持ってる女の子よ」とエマは答えた。
黒須は首を振ると「かなり、今は不確定要素ばかりの状況にいるらしくて、どうしても存在が掴めないらしい」と答えてくる。
そうか、やはり彼女にも分らない事もあるのねと、エマは少し安心した。
「…何にしろ、だから、そっちのねーさんが言ってた通りさ」
黒須に指し示された冥月が「ん?」と疑問符を口にする。

「独善で、まぁ、偽善だ」

黒須の自重めいた言葉の響きに、冥月は、自分が興信所にて口にした台詞を思い出したのだろう「あれは、冗談だと言っただろう」と答えた。
「いや、でも的を得てんだよ。 だって、考えても見ろよ。 殺し屋雇ったり、えげつない物の配達を請け負う会社のオーナーが、今はチーコを助けようとしてんだぜ? 逆に言えば、チーコを南の島から連れ去ってきたような組織の手助けだって、何度もやっちまってるのかも知れない。 何にしろ、ベイブのやってる事で、酷い目にあったやつや、命を取られた奴だってたくさんいるんだろう」
黒須は皮肉気な笑みを浮かべた。

「狂ってんだよ。 そもそも」

自分の首に嵌っている、黒い輪に手を這わせる。

「矛盾だ。 だが、そこに疑問を感じない。 俺の上司ってのは、そういう奴だよ。 おかしいんだ。 頭が」

淡々と語る口調に百合子が、ぼんやりと「じゃあ、何故、それでもその、ベイブって人の下で働いてるの?」と問い掛ける。
エマは黒須の理由、霧華の事を言うべきか、否か迷いかけ、自分が言うべきことではないと口を噤んだ。
黒須は遮光眼鏡の下にある険しく、陰惨な目を眇めると、「…どうしても、見つけ出さなきゃいけない奴がいて、そいつに会う為」と端的に答える。
冥月が何気ない口調で問うた。

「それはどういう奴なんだ?」

「俺の嫁さん殺した奴」

それは余りに乾いた声だったので「まだ、それほどまでに憎いのか」と悲しくなった。
復讐は、どんな形にしろ虚しいって、エマは何度も何度も、興信所の仕事で目の当たりにしてきたので、何だか、そういう虚しさを黒須に味わって欲しくなって胸が痛くなった。
冥月は、自分の胸元に提げられたロケットを握り締めると、「へえ…」と小さく呟いて、「会えると良いな」と、無表情な声で言った。
「ま、だから、俺も狂ってんのかもな」という黒須に「だったら、私も同じだな」と冥月が言う。
「私も、そこそこ今までに色々あったもんだから、チーコみたいな身の上の子供はゴマンと見てきたよ。 九龍城って知ってるかい?」
冥月の言葉にエマが「ええ。 何処の国の法も及ばない、無法地帯。 中国大陸からの流民のスラム街よね。 アジアンカオスの象徴だった場所よ」と答える。
「今はもう、取り壊され、あの場所に住んでいた不法滞在者や犯罪の逃亡者等は強制退去させられているが、私は昔、仕事の関係上、何度もあの場所に足を運んだ事がある」
冥月の言葉に「へぇ。 歴史の生き証人みてぇなもんだな」と黒須が言えば、「さて、生き証人になれる色々見聞きしたわけではない」と冥月は答え、それから、ふいと遠い目をした。
「あそこは、阿片窟にもなっててな、九龍城に住む女が妊娠した際は、母親が重度の中毒者だった為に、その赤子もドラッグベイビーとして生まれてくるケースが非常に多かった。 低体重や脳萎縮・臓器奇形、五体満足に生まれても、生まれながらに情緒不安定。 母親の腹の中にいる時から麻薬漬にされて、生まれた場所も阿片窟。 娼館に売られる子やら、盗みを親に強制される子…まぁ、有り体に言えば、地獄だ」

冥月の語る言葉の凄みに、エマの背筋がすうっと冷えた。

「私は何も出来なかった。 その時は、私も子供と言って良い年齢でな。 自分の身の上を殊更幸福だとは思えなかったが…それでも、その地獄を目の当たりにする度に、自分で自分の道を切り開ける力を持てた事を神に感謝したよ。 どうしようもない。 誰も手の施しようがない。 理不尽で、暴力的な、残酷でしかない現実。 無力だった。 私の力なんざ、その子達の誰も救えるもんじゃなかった。 人を、たくさん殺せます。 素早く息の根を止められます。 狙った獲物は逃しません」

冥月は「ふっ」と端麗な顔に、寂しい笑みを刷く。

「それで、目の前で苦しむ子供の誰を救えよう。 重病の痛みに泣き、親に捨てられ売り飛ばされる子供たちの絶望を、どうやって癒せるというんだ。 無力だ。 百合子。 私は、その時、圧倒的に無力だった」

ついと顔を向けられて、百合子が青ざめながら硬直していた。
そのまま彼女が倒れるんじゃないかと心配になる程の顔色で、エマは注意深く百合子を見つめる。
冥月の言葉は確かに衝撃的だった。
絶望を知る者の顔をしていて、きっと、彼女は自分には到底想像のつかない多くの理不尽さを目の当たりにしてきたのだろうと思った。

「…こんな仕事は嫌いだよ。 あの時の私の無力さを思い起こさせる。 お前の上司が狂ってて、お前も狂ってるというのなら、私も一緒だ」
冥月は、黒須に向かって穏やかに言う。
「矛盾だ。 この手をしこたま血に濡らしておいて、それでも、チーコを救いたいって考えてる。 だけど、こんな仕事で私が何か出来る事があるのなら、そのどれ一つだって、私は厭わずやりたいと思うんだ。 チーコを、三日間、なんとしても守り抜く」

冥月が、美しい位の凛とした声で言った。

「それが…あの時私が救えなかった子供達に対する、せめてもの罪滅ぼしだ」 



膝を抱え、暫く風に吹かれていた。
百合子も隣に座って、一緒にじいっと海を眺める。

「ねぇ…百合子さん」
「はい」
「私、ちょっと落ち込んじゃった」

エマの声は、いつになく弱ってしまっている。
エマはじっとチーコを見つめていた。
チーコの周りには、千剣破や、いずみ、エリィに翼といった美しい少女達が、微笑み合いながら輪になって座っていた。
心躍る程に愛らしいその情景に、エマの目の淵に涙が滲んだ。
チーコが輪の中心で必死に指先を動かしていた。
何かを作っているのだろうか?


「今の私たちの生活からは、想像のつかないような過酷な現実を生きる子供達がいるって事は、知識としては知ってたの。 だけど、冥月さんのように現実に見てきた人から話を聞くとやっぱりショックね」

エマがしょぼんと肩を落とす。

「私は時々勘違いしちゃうの。 興信所を通して、色んな人に感謝されたりしてきたせいね。 私自身を時々正義の味方みたいに考えちゃう。 だけど…そう、無力よ。 私も。 だって、どうしてあげたら良いか分からないもの。 そういう子供達に対してね。 どうしようもない事しか分からないもの」
エマが落ち込んでいると、百合子は「よしよし」と口に出して、その頭を撫でてくれた。
確か、百合子さん、私より年上なのよね、なんて上目遣いで見れば、優しい甘やかすような表情で、エマの頭を撫で続ける。

「よしよし。 エマちゃん。 元気出して? 今出来ることをやるの。 やれる事を精一杯やるの。 私達は、チーコちゃんに会えたじゃない。 チーコちゃんの為に出来ることをやる。 冥月さんがそうであるように、みんながそうであるように、きっとチーコを守る事、笑顔にする事は、きっと、少しだけでも、今よりも良い結果に繋がると思うの。 その、子供達にとってもね?」

百合子が慰めてくれるので、エマは甘えるようにコトンと百合子の肩に頭を乗せた。

「そうね。 きっと、そうよね」

エマはそう呟いて、ふと浜辺で珍しいものを目にし、「あら、まぁ」と小さく呟いてしまう。


「あそこ見て?」

美しいエマの指先には、眠る黒須の事を覗き込んでいる竜子の姿があった。
昨日は夜通しバスを運転し続けた彼は、流石に疲れているのか、膝を曲げ、まるで胎児のように体を丸めて、呼吸すらしていないかのように静かに、静かに眠っている。
竜子は、そんな黒須の頭を、そーっと、そうっと持ち上げて、自分の膝の上に置いた。
優しい手付きで、ポンポンとその体を宥めるように叩く。
そして、愛おしくて仕方がないといったように彼女の掌が、黒須の頬を一度撫でた。
海を見つめ微笑む彼女の横顔が、今まで見たどの顔とも違う、優しく、美しいものである事にエマは目を見開く。
最初見た時驚かされた濃い目の化粧も、旅の途中であるせいか然程激しいものでなく、彼女の地顔が大変整っているものである事に、エマは気付いた。

まるで、聖母めいた。

酷く近寄り難い程の微笑みを浮かべる竜子に息を呑んだ。
黒須も、瞼を閉じた、無防備な寝顔は起きている時の険しさを微塵も感じさせず、何だか不安になるほどに幼い。



風が。


黒須の長い髪を揺らし、竜子の一つに結んだポニーテイルを舞い上げた。

竜子ちゃん、幸せそう。
そう、思いながらも、どうしてだろう。


あんなにくっついているのに。

何一つ触れ合ってない二人に見えた。


エマは、何故だか、胸が痛くなって目を逸らした。



夕焼け空になり始めた頃、皆はそれぞれ帰り支度を初め、エマも発つ準備を整える。

「さて、そろそろ…」と、エマはそこまで言いかけた所で不穏な気配を察して顔を上げた。
「…望まざるお客さんが来ちゃったみたいね」と、あえて軽い口調でエマは言う。

まるで、それまで消していた気配を全て解放するかのように冥月が立ち上がる。
ゆらりと彼女の周りが揺らいで見えるほどの、酷く剣呑な気配にエマは身震いした。


堤防沿いに、黒塗りの車が数台バタバタと停まる。
降りてきた黒スーツ姿の男達に「お約束どおりね」といずみが冷めた声で呟いて、取り乱す事も一切なく、子供らしくもない感想に、やっぱりびっくりさせられた。

首を傾げれば、キビキビとした声で冥月が言った。

「非戦闘員は、一旦バスへ避難だな。 いずみ、百合子、エマ、竜子バスへ。 嵐っ!」
まるで教師めいた口調で冥月が呼べば、嵐は肩を竦め「んだよ。 俺は、非戦闘員扱いで良いんだぜ?」と言う嵐に、にっと物騒な笑みを見せると、トンとその胸を掌で突き「ああ、非戦闘員扱いさ。 今回はな」と意味ありげに告げた。

「あいつらの狙いはチーコだ。 嵐、バイクで、チーコを連れて逃げろ。 向こうは、ざっと見ても30人強。 興信所での脅しが効いたか、私や時雨の名前が効いたのか、中々、手厚いおもてなし部隊を送り込んできてくれたようだ。 まぁ、それでも、私にしてみれば、馬鹿にしているとしか思えない、お粗末なもんだが…こちらとしても、彼女を守り、非戦闘員の安全を確保しつつ、あの人数を相手にするのは、そこそこ骨だ。 銃の使用も予想されるし、守りに徹するだけでなく、今回は、あいつら全員叩きのめし、どういう人間を相手にしているのか向こう側に知らしめたい。 何より、どうして此処が分ったのか、誰か一人捕縛して吐かせてもやりたいしな。 それだけの事をチーコに目を配りながらやってのけるより…」
「向こうの目当てである、チーコを安全な場所へと移動させる…って事か…」
翼が賢しげに呟けば、冥月が満足げに頷く。
「ああ。 出来るな?」
冥月の言葉に「俺は、ただの、一般市民なのに」と一度肩を落とすと、諦めたように「まぁ、チーコの為ならしょうがないな」と嵐は決心を付け、「活路は開いてくれよ?」と、皆に視線を走らせた。
「とうぜん…まかしといて…」と時雨が自信に満ちた声で言う。
「ぜったい…チーコに傷…付けさせないから…ね?」と首を傾げた時雨から、チーコは耳を真っ赤にさせつつ、ぷいと顔を背ける。
途端シュンとした顔になる時雨に(あらら、嫌われちゃったのかしら?)と首を傾げ、チーコが耳まで真っ赤になっているのを見て「ははーん」と小さく口に出して呟いた。
(むしろ、凄く好きになっちゃったのね)とエマは、チーコの気持ちなんぞを察してみる。
だったら、落ち込む事なんてないのにと思えども、場に満ちている緊張感は流石に逼迫していて、そういう事を口に出せる雰囲気でない事にがっかりした。

冥月に「戦闘要員」とされてるらしい面子を見回してみる。
時雨、翼、エリィ、千剣破、黒須に、兎月原…そして、冥月。

流石と言うべきか、皆名うての実力者達である事は間違いない。
冥月がチーコを守るという事に対して、厳しいまでに自分に使命を科しているのは知っている。
それは他のメンツにも言える事で、そして、そういう彼女が何の疑いもなく戦闘員として数えている面々、いわば、同じ戦場に立てると判断した面々において、ここで心配や不安を感じるのは無駄にしかならないのだろう。
ここにいたって足手まといにしかならないのだろうと冷静に判断し、大人しく荒事のプロ達に任せてバスへと避難しようとすると、いずみがエマに声を掛けてきた。
「エマさん。 いらないバスタオルありませんか?」
問い掛けの意味も分からず、エマはポカンとしたが、いずみの決然とした表情を見て、慌てて頷くとタオルを取りに行くべく、バスの中へと飛び込んだ。


エマがタオルを裂いて作った丈夫なヒモで、バイクにまたがった嵐に、チーコの身体をしっかりと括り付けた。

いずみ曰くだが、水族館でにて、不自然なチーコの足のもつれを見せたらしい。
そのもつれは、考えたくはないが、チーコの全身の筋肉が衰え始めている可能性が高いそうで、しっかりしがみ付こうとしても、腕の力が入らず、走行中に転落する事も考えられる。
そのような事態を防ぐ為にも、いずみはチーコの身体を嵐の身体に固定して出発させるべきだと提案した。

彼女の慧眼に感謝しつつ、タオルを裂いて作ったロープを兎月原に渡す。

向こうもこちらの出方を窺っているのか、堤防の向こうからこちらを威嚇するように大人数がこちらを睨み据えているだけの膠着状態に陥っている。
向こうの方が明らかに人数が多く、力押しで来てもおかしくないのにも関らず、手を出しあぐねている様子なのは砂浜に立ち、じっと男達を眺めている時雨と冥月の力が大きいのだろう。

今のうちにと気が急くのを落ち着かせながら、エマはチーコに笑いかける。
不安げな表情をすれば怖がらせる事に繋がると思い、必死に笑みを浮かべながら「きっと、凄く速いからて、チーコちゃんびっくりするわよ」と朗らかに言ってあげた。
腰と胸の部分二箇所を、兎月原がしっかりと括る。
「苦しくないか?」
まずチーコの顔を覗き込んでそう問い、彼女が頷くのを確認すると、余裕のある甘い笑みを浮かべた。
「いいかい? チーコ。 俺の大事なお姫様。 君が乗っているのは魔法のバイクだ。 嵐は、君を守るナイトで、魔法のバイクを操る事に掛けては、他に並ぶ者のいない名手だ。 誰も追いつけない。 この世の誰も。 彼の背中にしがみついている間は、君にも魔法が掛かるんだ。 悪い奴なんか、指先だって掠められやしないさ。 だから、お姫様。 君はただ、安心して、このアトラクションを楽しんでいればいい。 どこのテーマパークにもないよ。 君だけの為の特別なイベントだ。 楽しんでおいで。 君を他の男に任せるのは、正直悔しいけどね…」
そうまるで、まさに魔法を掛けるが如く呪文めいた声でチーコの耳に直接蜜のような声音を流し込めば、チーコはコクン、コクンと言われるがままに、恍惚の表情で頷きを繰り返す。
催眠術に掛かっているかのようにも見えるチーコにそこまで言った後、ふいにそっと唇を寄せて、チーコの頬に口付けた。
「これが、俺からの魔法。 これで、君は無敵だ」

パチクリと目を開き、頬をぽーっと染めて頷くチーコに頷き返して兎月原は立ち上がると、「頼んだぞ」と嵐に告げてその背中をポンと叩き、悪党達と対峙する為に砂浜へと向かう。

兎月原の呪文が効いたのか、にこにこと出発をせっつくように嵐の背中に、コンコンと額をぶつけるチーコをエマが感心して眺め「流石すぎるわ」と呟く。
準備が全て整った嵐は冥月に向かって頷いて見せた。
冥月は不敵に微笑み返すと、翼に向かって何事か告げ、ついと堤防前に雁首そろえる男達に向かって指を指す。
翼が、腕を軽やかに踊るかのように振るった。
その瞬間、強い風が巻き起こり、男達が面白いほどに、呆気なく将棋倒しのように倒れた。
それが合図であるかのように「振り落とされんなよ?」とチーコに一声掛けて、嵐がアクセルを全開にして走り出す。
タイヤを取られ易い砂浜を難なく突っ切ると、堤防に備え付けられた階段、その脇の手すりとして設けられているのであろう幅の酷く狭いコンクリートの急な坂を一気に駆け上がった。
竜子と声を揃えて叫ぶ。

「いっけぇぇぇぇ!!」

するとその声援が届いたのか、見事に嵐の操るバイクは見事、坂をジャンプ台代わりに男達の頭を飛び越え道路の向こう側に着地すると「ひぅあぁはああぁぁぁ!」と何とも明るいチーコの笑い声を残して走り去って行った。


アクロバティックな技の成功に、竜子やいずみ、百合子と手を取り合って喜ぶ。
倒れた男達が起き上がり、バイクに向かって銃を構えれば撃ち放すより先にいつの間にか彼らに詰め寄っていた、翼やエリィ、時雨、兎月原、黒須達が彼らを地に沈めて行った。
車で追おうとする者には、千剣破が「さっせないよー」と宣言して、海水で作り上げた水の鋭い針を、車に向かって降り注がせる。
すると、たちまち車は穴だらけになり、ただの鉄の塊に成り果てた。
冥月が、全ての仕上がりに満足しているという風に微笑みながら頷いて、それから敵に向かって一歩踏み出す。


その後は幾つか銃声やら怒号やら、まぁ物騒な騒ぎが暫らく続いたが、エマから見れば、呆気ないほどに決着はついた。



「さて、一応問うが…この中で拷問が得意な者」


冥月のとんでもない台詞に、エマといずみを除く皆が一斉に黒須を見た。
黒須の性癖を知っているエマとしては、(あ、違うのに)ともどかしく思う。
「ていうか、お前ら見た目のイメージだけで、俺を判断するな!! なんだ、拷問得意そうなイメージの外見って! 嫌だ! そんなイメージ! 得意技、拷問です☆って自慢になんねぇ!」
そう怒鳴る黒須に「いや…見るからに…こう…陰湿系というか…」と翼が言えば、「うん、金融業とかで取立て屋になったら、相手の精神を破壊尽くすまで追い詰めそうな感じよね。 マムシの誠とか呼ばれてるイメージ」とエリィがVシネチックな事を言う。
「趣味とかも、自分を振った女性の写真にひたすら『怨』と書き続けるとかっぽいし…」と百合子がマジマジと黒須を見ながら言えば、「あと、嫌いな相手への攻撃方法が、靴に待ち針を仕込むとかそういう精神的にクるけど、セコイ感じなのね!」と千剣破が嬉しそうに断言した。
余りの言われようによろめく黒須に兎月原が笑顔で「総じて、身動き取れない相手に対しての攻撃が凡人の想像を絶するような陰険な手段を思いつきそうなイメージって事です。 やったね! 黒須さん」とウィンクすらして告げるものだから、エマのもどかしさも限界に達しようとしていた。
会話が途切れ、頃合や良しと見計らい、エマはわざとらしく黒須の前に庇うように立ちはだかると、「みんなっ! 違うよ?! 黒須さんっ、そんな人じゃ…ないよ?!」と、首を大げさに振りつつ、児童劇団の道徳芝居で役者が見せそうな、妙に芝居がかった仕草で言いながら、くるりと振り返り、黒須をキラキラと見ると、「黒須さんは、ドMだもんね? そんな、拷問なんて、する側より、される側の時の方が幸福MAXだもんね☆」と超全開の笑顔で告げる。
竜子が「正解!」と力強く親指を立て、「わぁ、そっちの方が更に気持ち悪い。 不気味。 傍に寄りたくない!」という表情を隠そうともせず周囲の輪が一歩分広がるのを黒須はがくりと項垂れ眺めると、エマを恨みがましげに見て、「お前 ほんと 俺を馬鹿にする時全力投球な!」と半眼になりつつ、唸るように言ってきた。
そんな黒須に「てへ」と笑って見せると、「あー、すっきりした。 ほら、中々今回、黒須さんを虚仮にするゾ♪タイムがなかったもんだから、ストレス溜まってて」とエマは、肩をキリキリと回しつつ、爽快感に溢れる顔で言い放つ。
「そんなレギュラータイムを勝手に設けるなよ!」と怒鳴る黒須に、「次回をお楽しみに☆」とエマは笑顔で返し、更にもう一歩ほど後ずさった場所で「えーと、然程興味がないを越えて、むしろ地雷踏んだ感を噛み締めつつ、黒須さんの性癖についてはこれ以上何もお伺いしたくないので、話を先に進めてもらって宜しいでしょうか?」と丁寧な口調で兎月原がお願いすれば、道端に落ちている丸めたティッシュを眺めるような目で黒須を一瞥した後冥月は頷いて、「では、私も余り加減が分らんので、向いている方ではないのだが、ちょっと訊いてみるか」と、軽い口調で物騒な事を言って、足元に転がる縛り上げた男性を見下ろした。
猿轡を噛まされ、縛り上げられた男は畏怖の眼差しで冥月を見上げるが「ただ口を割らせるだけなら、多分僕だと手間なくやれるよ」と翼が手を挙げる。
「おお、意外と拷問得意系?」と竜子の頓珍漢な問い掛けに、「得意・不得意の区別の仕方が分からない」と肩を落として見せた後、男の目の前に座りこみ翼はじいっとその瞳を覗き込む。

「さぁ、よく、見て。 僕の目を、ようく見て」

唆すような声。
男は翼の魅惑的な瞳に魅入られる。
ぱち、ぱち、ぱちと、三度瞬いた瞬間、男の全身が弛緩した。
猿轡を外し、翼は優しい声で問う。

「ねぇ、どうしてここの居場所が分ったの? チーコに取り付けられていた発信機は全て取り外したはずなのに」


魅入られたように熱っぽい瞳で翼を凝視する男が、翼が促すままに口を開いた。

「は、発信機は、まだ、ある」
軽く翼は目を見開き、「それは何処に?」と問い掛けた。

「それは…」

虚ろな口が、咳き込むようにして吐き出した。


「あの化け物の体に埋め込んである」


「ひゅっ」と鋭い音がして、その出所が分からないままエマは自分の喉を抑えた。

ああ、私の声。

息を吸うと、ひゅうひゅう鳴った。

この男、なんて言ったの?

「肩甲骨の下を、麻酔なしで開いて、『Dr』が、発信機を埋め込んだ」

翼を熱心に見つめながら、他には何も世界はないという風に男はだらだらと言葉を零す。

「泣いていた。 大声で。 何を言っているか分らなかった。 気持ちの悪い 生き物。 一丁前に涙なんかを 零して。 触ってみたら、分る。 あの化け物の肉の下に、ゴツッとした膨らみがある。 触ると酷く痛がるから、面白がって…」

そこまで言った瞬間、竜子がその即頭部を思いっきり蹴飛ばした。
エマは、口を両手で覆って、全身を震わせる。


一瞬、疑いはしたのだ。
チーコの「体内」に発信機が埋め込まれている可能性を。
だが、奥歯に仕込まれたものを見つけた時に、そこで油断した。
これ以上はもうないと思ったし、やはり、子供の体にそのような非道な所業が行える者がいる筈ないと言う、思い込みもあった。



麻酔 なしで 体の 中に あの 小さな体の中に

だから 見つからない 発信機

チーコ の体の中に

そんな!
そんな!! そんな!!


痛い きっと 凄く 痛い どうしたら ねぇ どうしたら……人間は許してもらえる?



チーコ!!


蹲りかけて思いとどまる。
ここは膝を着く場所じゃない。
目が泳いだ。
自分だったらと思うと耐えられなかった。

竜子が息を荒げながら「くそっ、やっちまった! 子供の前で、やっちまった!」と髪の毛をくしゃっと掻き毟る。
「いずみ!」
名前を呼ばれ、「はい」と静かに返事する。

「今のあたいが言っても説得力ねぇけどな、自分が気に入らないからって、話し合いもせずに、すぐ暴力ふるって、相手を黙らせるのは、いけない事だかんな!」

そう荒い息の下に、困った気持ちを混じらせながら、竜子が言えば、いずみは静かに頷いて「肝に銘じます。 ただ、そのルールは、『話が通じる』相手のみに適用させていただきます」と冷静に返事し、竜子を益々困り顔にさせた。


「…殺すか?」

冥月が平坦な声で言った。

「ここにいる連中、皆同じ外道だ。 依頼主が望むなら、皆、証拠を残さず消してやる。 生きていても、チーコと同じ犠牲者が生まれるばかりだ。 子供が、弱いものが、抵抗する術を持たないものが、理不尽に殺され、虐げられ、泣かされる。 生かす事によって、失われる命が増える『生』もある殺すか? 私は躊躇わんぞ」

冥月の言葉に、日頃の人懐こい表情を一変させた時雨がカチャリと腰に提げている刀に物騒な音を鳴かせる。
エリィも、冷たい表情で銀色の幅広のナイフを鞘から抜いた。

千剣破が青い顔をして、倒れている無数の男達を眺め回していた。
その全身に宿るは間違いなく殺意。
危ういとエマは思った。
でも、チーコの小さな体に発信機を埋め込んで、痛みに泣き喚く彼女を想像すると、この男達を生かす意味が一つも見つからずに、エマは少し混乱した。

黒須は無表情で竜子を見る。
竜子は、黒須を横目で眺め、全てを委ねられている事を理解したかのように目を閉じて、それから自分が蹴り飛ばした男をもう一度見下ろした。


「殺さないで」


細い声。
見れば両手をぎゅっと握り締めて百合子が震える声で言った。
「殺さないで」

竜子は「はっふっ」と大きく息を吐き出すと、「うん、殺さない」と答えた。
冥月は少し首を傾げ「甘いな、お前らは」とそれでも、何だか優しい声で言った。

「いいんだ。 甘くて。 その、あんたらからすれば、きっとこの仕事自体、凄く甘い仕事じゃないのかい? いや、知らないけど。 女の子守って、最期の三日間を楽しく過ごさせてやって欲しいだなんて…ああ、そう、ロマンチックだ。 ロマンチックじゃないか、なぁ、百合子」
そう言われて目を見開き、それから「ろ、ロマンよ。 そうよ、ロマンなの」と必死の声で言う。
「ゆ、夢見がちかもしれないけど、ねぇ、チーコには、ロマンが似合うわ。 あの子は、きっと、凄く辛い目に合って、ねぇ、それを、その最期までの間を幸せに過ごさせてやって欲しいなんて依頼は、本当に…本当に……甘い、甘い、砂糖菓子みたいにベタついた仕事で……でも、だから、いいのよ。 あの子に関わる時間全てがロマンチックであった方がいいのよ。 だって、女の子なんだもの。 チーコ、女の子なんだもの。 だから、似合わないわ、人殺しは。 倫理とかは分からないの。 道徳も、知らないわ。 安易なヒューマニズムなんて反吐が出る。 でも、綺麗ごとよ。 このお仕事は全部綺麗ごとなの…だ、だから…だから…」
言葉を捜しあぐねたように、自分の髪の毛に手をやり、ぎゅうっと引っ張って困り果てた顔をする百合子にエリィは駆け寄ると、柔らかな、春の日差しのような微笑を浮かべて「分かった。 殺さない」と言った。
時雨も、ふしゅんと険しい空気を霧散させて、「チーコ達…無事…待ち合わせ場所…着けたかな?」と心配そうに呟く。
エマは、何とか頭を切り替えて、素早い手つきで携帯を操作し、まず、警察に通報の連絡を入れると、次に嵐に連絡を入れた。
「んー、どうも、まだ走行中みたいだけど、ちゃんと、安全が確認出来たら連絡入れるように言ってあるし、まぁ、嵐君の事だから大丈夫でしょ」
そう言い、冥月がバスに目を向ける。
「チーコの体に発信機が埋め込まれている以上、バスを捨てていく事も考えたが無意味か…」と呟いて、「まぁ、全滅の一報がいけば、次の追っ手の準備も慎重にならざる得ない。 こちらの実力派充分に分って貰えただろう。 そうそう、敵う相手ではない事もな。 油断をするわけにはいかないが、チーコの体から発信機を取り出すわけにもいくまい」と冥月は言い、皆一様に大きく頷く。

冥月は、乾いたような笑みを口の端に乗せ、それから竜子に視線を向けた。

「殺すという事は覚悟のいる事だ。 だが、生かす覚悟の方が厳しい事もある。 分っているな?」
冥月の言葉に竜子は静かに頷いた。
長い睫に縁取られた強い眼差しを見て、冥月は「ふん」と呆れたように溜息を吐くと、「あと…一日と少し…か。 守りきれるだろう?」と、他メンバーを見回す。
翼が肩を竦め「認めたくないですけど、武彦はベストメンバーを選んでます。 チーコを守り、幸福な気持ちで過ごさせるという事に関してはこれ異常ないほどのベストメンバーをね。 最初事務所に揃えられているメンツを見た時は…」とそこで言葉を切り、千剣破がその続きを引き取った。
「もう、バラッバラ!」
その台詞に、エリィも頷いて「どうなる事かって思ったけどね」と笑う。


間違いない。
これが最良で、最強。


興信所の主の名は伊達じゃないのよ。
エマは、自分の恋人を誇らしく思った。


「行きましょう。 チーコの所に」

いずみが言う。
兎月原が、空を見上げ、「ああ…あんなに良い天気だったのに、曇ってきた。 急いだ方が良さそうだ」と典雅な声でそう告げた。




程なく、雨が降り始めた。

ひっそりとした畦道を抜け、バスが辿り着いたのは、エマが興信所ぐるみで懇意にしている古い神社だった。
人里離れた場所にあるのだが、家屋も広くて情緒があり、一晩置いて貰うには最適な場所だと判断し、エマは先に連絡を取って、一晩の宿の許可を得ていた。

「んふふ、ここの神主さんは、凄いのよ? お歳も、お歳、ってまぁ、百年以上生きてる人とか、興信所じゃ、珍しくないんだけど、神社の建立からずっと、神社を守り続けている初代神主=現神主な人で、もう、本尊が神主?みたいな人なのよ。 確か、500歳だか、なんだったか…。 まぁ、もうじき、大祭があるとかで、此方にはいらっしゃらないんだけれども、チーコちゃん達と、私達が到着した際には、一時的に結界を開いて迎え入れてくれるよう頼んでおいてあるの。 普段は、神社自体、森が隠していておいそれとは見つからないし、例え、霊感のある人が見つけてしまったとしても、結界のせいで足は踏み入れられない。 発信機も、磁場の歪みのせいで、本来の機能は発揮できないし、寝込みを襲われる心配と、出掛けを急襲される心配もないわ。 まぁ、こよなく安全な場所であるっていうのは、私がこの場所を選んだ大きなポイントではあるんだけど…まさか…この場所を選択した事が、こういう意味でも役に立つとは思わなかったけどね」
残念そうなエマの言葉に、翼が気を取り直すような明るい声で、「流石にエマさんの人脈だ」と感嘆すれば、「んふふ。 ありがと」とエマは胸を張る。
山際にバスを停車し、山を開いて作られた木々に四方を覆われた階段を登る。
嵐から既に無事に待ち合わせ場所に辿り着いたという連絡は受けていたが、バイクが山際の大きな木の下に停車されているのを見つけると、何だかほっとしてしまった。

シトシトとした雨に身を打たれながら、ひんやりとした空気を掻き分け階段を登っていると、今から神域に足を踏み入れるのだという緊張感が全身を満たした。
神社は、酷く古い作りをしていて、ぬかるみに足を取られぬよう門をくぐれば、感嘆するしかない情景が広がっていた。

「わ…あ…」

「ね、綺麗でしょ? これを、チーコちゃんに見せたかったの」

そう言う得意げなエマの声に、皆がうなずく。
藤の花弁がほろり、ほろほろと散っていた。
大気に充満する香りは、芳しく、雅やかでありながら、清涼。
初夏の匂いに、皆大きく息を吸い込む。

澄んでいる。

つつじの花が咲き乱れていた。
手入れそれ程されていない様が、しかし、だからこそに素朴で、自然の力強さも漂わせていて、美しい。

「お、来たな」


そう言いながら、本殿の玄関先から嵐が顔を出し、続いてチーコが「ふあゎぅふぅ!(風が気持ちよかったよ)」と声をあげる。
「あらぁ、そうなの、良かったわねぇ」とエマが表情を緩ませて両手を広げれば、テテテテと駆け寄ろうとして、チーコは階段の途中でくたりと倒れるように転げ落ちた。

「っ!!」

咄嗟に、飛び出そうとしたエマより早く、兎月原が掬い上げるような手つきでチーコを抱きとめ、抱き上げる。
「大丈夫かな? お姫様」
兎月原が蕩けるような声で問えば「ふぁふぅ!(ありがとう)」と元気な返事をして、その首根っこに齧りついた。
チーコは笑っていて、エマは、ほっと胸を撫で下ろす。
抱き上げられたまま「ひぃふぅあぅ、ふあぅ!(凄く早くて、凄く楽しかった)」とチーコはエマに告げた。


「バイクでここまで走ってくるの、凄い楽しかったって。 雨に降られなかった?」と聞くエマに「ああ、ギリギリ振り出す前に間に合った。 とりあえず勝手に上がらしてもらったけど、良かったんだよな」と嵐が問い返す。
「大丈夫、ちゃんと全部分って貰ってるから」
嵐の疑問に頷くエマ。
「あ、一応、風呂の用意だけしといたから」と嵐が言えば、エリィと千剣破は同時に歓声をあげた。
「海にいたから体がベタベタしてんのよねー! お風呂、嬉しい♪」
エリィがはしゃげば、「雨にも打たれたし、体あっためたいよねー!」と千剣破も嬉しげに言って、同時に「「嵐君、ありがとう」」と声を揃える。
眩しいばかりの美少女二人のお礼の声に、嵐は、ちょっと照れたようにそっぽをむいて「どーいたしまして!」とぶっきらぼうに答えた。

「さ、じゃあ、夕食の支度をするわね。 男性陣、先、お風呂入っちゃって」とエマは手を叩けば、「あ、いや、まだ沸かしてない…」と嵐が言いかけたところで、チッチッチとエマが指を振り、「藤ちゃん、つつじちゃん、お願いね。 あとで、一曲歌ってあげるから」と声を上げる。

すると、そよそよそよと庭に植えられたつつじと藤が優しい音を立てて一斉に揺れた。
おお、今年も元気そうとエマは微笑む。
なんてったって、ここは、不思議神社。
これ位は何の造作もない事だ。

「ここの神主さんの式神ちゃん。 私も姿は見た事ないんだけど、私の歌を気に入ってくれてて、ここに来た時は歌の代わりに、神社内の色んな御用事も請け負ってくれるの。 そこそこ力のある子達だから、お風呂も、もう沸いてる筈よ。 広くて、10人くらいだったら一気に入れるお風呂だから、えーと…むさい時間をどうぞ、ごゆるりと〜」と何だか明らかに風呂に行く気力を殺ぐような事を言いつつ手を振るエマに、「じゃ、お言葉に甘えて」と黒須が頷き、男性陣は揃って風呂場に向かいかける。
だが、腕の中にいるチーコの顔を覗きこみ、兎月原が「あ、チーコはレディだから、女性陣と一緒にね?」と言いつつ、チーコを廊下に下ろした。

にこっと兎月原に笑い返し、此方に走り寄ろうとしたチーコが再びこける。

「ふぁっ、うふぅうっ(こけちゃった。 恥かしい)」

恥かしげに身を竦め、再び立ち上がろうとした時に、チーコの足がガクガクと痙攣した。

あれ?
エマはその様子を眺めたまま固まる。

どうした? チーコ。
問おうとして声が出ない。

だって、昼間はあんなに元気にはしゃいでいたじゃない。
海で遊んでいたじゃない。


「っ」


一瞬の混乱。
いずみが走り寄ってチーコの腕を引き、まるで、さっき兎月原がそうして見せたように、チーコを抱き上げようとして、当然、出来ずに一緒に転ぶ。
一瞬打ちひしがれたような顔をいずみは見せた。
自分の無力さを嘆く顔。

子供が見せるには余りにも哀しい顔。

助けたいのに。
チーコを、助けたいのに。

「あ、ごめ…け、怪我…ない?」
チーコの体を、世界中の全てから守ろうとしてるかのように覆いかぶさるように抱きしめ、震える声でいずみが問い掛けた。
チーコは強張った顔で頷いて、途方に暮れたような顔をして辺りを見回し、それからチーコが初めて、泣きそうな顔を見せる。

怖いだろう。
怖いだろう。

この子は 明日 死ぬのだ。

また、ふと、圧倒的な悲しみの波に襲われて、エマはよろめきかけた。

違う。
あの子は殺されるのだ。

人間に。

そうだ、殺すんじゃないか。
死ぬんじゃない。

殺すんじゃないか。
あいつらが。

もう、歩けないチーコ。
こんなに弱って、傷ついて、明日殺されるんだ。
チーコは、明日殺されるんだ。

どう言っていいのか分からず、自然と浮かびそうになる憐憫の表情を必死に殺した。

もし身代わりになれるなら。
神様、あの子の苦しみを全部私に下さい。

エマは心底祈る。

痛い思いも、辛い思いも、何もかも、私に下さい、と。



チーコの髪をふわふわと撫でて、いずみが「転んじゃったね。 私も一緒。 今日は疲れたからしょうがないね」と穏やかな声で言った。

「一緒。 チーコと私は一緒」

チーコが、不安に揺れる一つだけの大きな目でいずみを見上げる。
その額に自分の額をくっつけて、「一緒よ。 チーコ」といずみが言えば、チーコは小さな両手でいずみの頬を挟みこんだ。

「いぅお?(一緒?)」
「うん。 そう、一緒」

すると、チーコはまた、可愛く笑う。
翼が、チーコの体を抱き上げた。
「そうか。 チーコ、疲れちゃったのか。 じゃあ、少し休もう。 今日は一杯遊んだからね」
翼がそう言いながら歩き出す。
傍に走り寄れば、チーコはエマの顔を見て「えへへ」と照れたように笑っていて、たまらないような気持ちになって、その頬を優しく撫でた。
「ひぅあぅ…」
気持ちよさげに目を閉じる、子供の顔に胸が痛んだ。





「何処まで行ったのかしら?」

エマは傘を差しつつ、不安の余り視線をキョロキョロさせた。
「落ち着け、多分、途中の道の何処かにいるだろ?」

冥月も、そう言いながらも、声に不安の色が入り混じっている。

時雨がチーコと二人で、皆の分のアイスを買いに出かけていた。
どうも、女性陣のセッティングらしいのだが、残り時間が少ない悲しい現実を思うと、せめて二人きりの時間を過ごさせてあげたいと思うのはエマも同じで、笑顔で送り出してあげた、
時雨も勿論嫌がる素振りなく、恥かしがるチーコを抱き上げ、雨の中傘を差して出て行ったのだが、遅くとも30分程で往復できるはずの近所の小さな駄菓子屋に向かった筈なのに、一時間経過した今も帰ってこない。
状況が状況だけに、かなり心配ではあるが、身の危険と言う意味では、時雨の実力を重々承知しているエマとしては、然程心配はしていなかった。
時雨はおいそれと敵に襲われて、チーコを危険な目にあわせるような腕前ではない。
ただ、体調の変化によって、チーコが苦しみ、立ち往生しているのか、他に何か問題が合ったのかと考え出すと不安の種は尽きない。

雨はシトシトと降り続いていた。

傘を差し、黒須と冥月と共に、迎えに出たエマは、冥月が影で探ってくれた二人の居場所に誘導されつつ足を速める。

「ああ…大丈夫だ…。 ここの角を曲がれば…」

そういう冥月の言葉に従うと、そこにはバス亭があって、チーコの小さな小さな膝に、狭いベンチの上で窮屈そうに体を折り曲げた時雨が頭を乗せて眠っていた。
チーコが小さな手で、ふわふわと時雨の頭を撫でている。


海辺での竜子の様子を思い出した。
膝の上に黒須の頭を乗せていた竜子。
もしかしたら、あれを真似して?と思い至り、エマは何だか、チーコが可愛らしくて仕方がなくなる。

「っ…チーコちゃん!」

堪えきれず、そう名前を呼びながら駆け寄るエマを見て「ふあぁう!(お迎えきてくれたの?)」と嬉しげにチーコは手を伸ばしてきた。
黒須も「人騒がせな」と唸りつつ、軽い足取りで二人の元へ向かう。

「どうしたの? 傘は? ていうか、時雨君、なんで寝てるの?!」

エマの問い掛けに、時雨が漸く目を覚まし、目を擦り擦り、「あのね…猫の家族が…雨で困ってたから…あげたんだけど…濡れると…チーコが風ひくと思って…雨宿りしてたら……寝た」と、途切れ途切れの声で言う。
がくうと目に見えて肩を落とした黒須とエマ。

「まぁ…無事ならいいや」

そういいつつ、黒須がチーコを抱き上げた。
エマは、一つ傘を時雨に渡し、「入れてー!」と言いつつ、冥月の隣に飛び込む。

少し呆れたように此方を見る冥月に、「冥月さんも心配してたでしょ?」と大人びた目で問うてみた。

(何気に、冥月さんがチーコにメロメロなのは、分っちゃってるんだから)

そう思いつつ、冥月を見つめども、彼女は返答を返さない。
エマは勝手に、それが肯定の返事だと判断し、「私さ、武彦さんがこのメンバーを選んだ理由の一番大きなポイントはそこだと思うな」と一人頷く。
「どういう意味だ?」
「つまり、チーコちゃんの為に、一生懸命になれるかどうか?って事よ」
そうエマは言って黒須に抱かれて、その髪を引っ張り遊んでいるチーコの頬に指を伸ばすと「みんなの事、チーコちゃん大好きだもんね?」と問い掛けた。
チーコは当然と言う風に「ふぁぅ!(うん!)」と大きく返事した。

神社に帰り着くと、皆、よほど不安だったのか一斉に走り出てきた。



「おう?(え?)」

黒須の腕の中で、戸惑ったような声をあげるチーコの姿を見て一様に安どの表情を浮かべる。
みんな、チーコちゃんにメロメロねと、嬉しくなれば、「…ごめんなさい」と、しゅううんとしぼんだみたいな顔をして、時雨が小さな声で詫びた。

「アイス…溶けちゃった…」

そう言いながらビニール袋を差し出す時雨に「いや、それは良いから何があったんだよ」と嵐が問えば、黒須が「傘を野良猫にやっちまって、そんで、バス停で雨宿りしてたんだと」と肩をすくめて答える。
「そのうち…止むかなって…思ったんだけど…どんどん…強くなってきちゃって…しかも、ボク、寝ちゃって……」

とろとろとした喋り方に、皆がどんどん気力をなくしていくのが目に見えて分る。
「ま…いいや。 無事なら」

竜子の言葉に皆頷く。
「チーコ、体冷えたでしょう? お風呂行こうか?」
そう言いながらエマが黒須からチーコの身柄を受け取った。



「チーコちゃんのパジャマは、これでいいかな?」
そう言いながら、いずみから借りたTシャツをチーコに見せれば、チーコは浮かない顔で俯いていた。

「どうしたの?」と問えば「うぁうふう…(お風呂行きたくない)」とチーコが言う。
「あら? どうして気持ち良いわよ?」
エマがそう言えば、チーコは俯いて、いきなり、ぼろぼろぼろっと涙を零すと、自分の体を抱きしめた。
突然の涙に、動揺し、焦りを感じるエマ。
「うはぁうっぃあう…(だって、私の体、汚いもん)」
チーコの言葉に、エマは「え?」と首を傾げる。
「あうぅふうっふあぁう(恥かしいし、見られたくない)」
その言葉に、咄嗟に返す言葉が見つからず、エマは、視線を彷徨わせた。
「…汚い…って…誰が言ったの?」
自然と震える声。
この感情の源は怒りだ。
「あはぅふうぃぅっぅはぁぅ…(わたしのこと つかまえてた人たち 傷だらけで 汚いって)」

全員、クズだ。

エマは確信し、チーコの体を抱きしめる。

「ひぃあぅふぅぁふあぅっ」

耳元で囁いた。

チーコが目を見開いてエマを見上げた。
「あぅ?(どうして?)」

「まだ、この言葉だけ。 ちょっと、発音が難しいからね」

そうエマが言えば、首を振ってチーコはぎゅうっとエマに抱きつく。

「可愛いチーコ」

そうやって、彼女の言葉で言ってあげた。
汚いなんていうやつが汚い。

こんなに可愛い子を、どうしてそんな風に言えるのか。

翼が「チーコ?」と言いながら、部屋を覗き込んでくる。

「どうしたんです?」と聞かれてエマは笑うと「うん? ちょっとね…」と眉を下げて見せた。
「お風呂がね…嫌なのよね…」
エマが呟けば、翼はチーコを覗き込み「どうして?」と問う。
綺麗な翼の顔を間近にして、恥らうように目を伏せた後、「あぅひぅふあぅっ…(だって、わたし 傷だらけだもん)」と答えた。
「傷がね…一杯あるから…ちょっと恥かしいのよね?」
エマがそう言えば翼は、即座に、チーコが嫌がる理由を全て察したのだろう。
チーコの目を覗きこみ、「恥かしくないよ? なんで? チーコ。 君は僕が見てきたレディ達の中でも特別キュートで、素敵だ。 大好きだよ、チーコ。 何も恥かしい所なんて君にはない。 完璧で、可愛くて、最高だよ」と言い募る。
翼の魔法をかけるような言葉に、チーコはくらくらと頬を上気させ、それから「一緒にお風呂、行こう?」と問い掛けられると、こくりと素直に頷いた。

兎月原といい、翼といい…と、エマはつくづく感嘆させられる。
何より、チーコがころっと、女殺しの台詞に引っかかるのが可愛いやら、腹立たしいやらで、「ま、王子様が沢山いるのはいいことよ」と、エマは自分を納得させた。


脱衣所で百合子と一緒になった。
チーコの赤く腫れた目を見咎め、「どうしたの?」と問い掛けてくる。
チーコが「ひぅふぁ(なんでもない)」と少し元気のない声で答え、エマが「えーと、ちょっとね…」と言いながら曖昧な笑みを浮かべる。
そして、優しい手つきでチーコの服をエマが脱がせれば、目に入るのは、醜い傷だらけのチーコの体。
見られまいとするかのように身を小さく小さく縮めるチーコの体は、火傷の痕や、痣、中には酷い切り傷のようなものも見えて、「ああ」と心の内でエマは詠嘆した。

畜生。

口汚い言葉。
滅多に思い浮かびやしない、そんな言葉がエマの脳裏に思い浮かんだ。
奥歯をぎりっと噛み締める。

畜生。

これが彼女を見舞った理不尽の証。
チーコは女の子で、恋をしていて、まだ10歳で…。

ぐるぐるぐると言葉が頭を駆け巡る。

酷く心臓が痛い。

エマはチーコを抱きかかえると、「お風呂凄く素敵よ?」と言いながら、浴室へ足を踏み入れた。


お風呂は、凄く広くて、石造りにも関わらず、見た目にも温かみが合って、全身を浸すとふわぁっと疲労が溶け出て行くような心地になった。

エリィが白い肌を惜しげもなく晒し、千剣破も美しい肢体を湯に沈めくつろいだ表情を浮かべている。
冥月も見惚れる程のプロポーションを有していて、見事なバランスを有したスレンダーな体をぐぐぐっと伸ばしていた。

驚くべきは竜子で、化粧を落とした素顔といったら、眉こそないものの、息を呑むほどの美人っぷりで、「うひゃー! やぁぁっぱ、日本人は風呂だな! 風呂!!」等と情緒のない事を言っているのが信じられない程に、美麗な顔立ちを有していた。
肢体とて、「何で、黒須さんが好きぞ? 目を覚ませ!」と肩を掴んで揺すってやりたくなる程のプロポーションで、何が、凄いって、胸がでかい。
日頃、特攻服の下の晒しで抑えているせいで分らなかったが、かなり、こう、豊満と言って良い程の大きさを持っていて、ぷかりと湯に浮かばせながら、「姐御! 姐御!! ささ、こちらへどうぞ! 特等席を用意しております!」等と言ってくる姿を見ていると、この世の中にこれほど「黙っていれば…」と思わせる女性も少ないだろうとエマは思った。

大体、なんであんなみょうちくりんな化粧をするのか一切想像つかないが、まぁ、この性格にはあの化粧は凄く似合っている。
まぁ、そういうものよね、エマはとりあえず納得する。



チーコは、傷口にお湯が染みるのか、じいっと体を硬くしている。

「えいっ!て、一度お湯に浸かっちゃえば、すぐに慣れるからね?」と励ましてはいたものの、彼女を今襲っている激痛を思うと、胸が潰れそうだった。

ぶるぶると身体を小刻みに震わせ、目をぎゅうっと閉じていたチーコが、息を小さく吐き出し、体の強張りを徐々に解いていくまで、誰もが息を詰めてチーコの事を見守った。

「はふぅ…」と小さく息を吐き出し、漸くゆっくりと体を弛緩させる。
「えらい、えらい。 凄いね、よく我慢したね」
エリィが気持ちを込めた声でそう言いチーコの頭を撫でた。
「ご褒美に、エリィおねーさんが、チーコちゃんの頭を洗って進ぜよう。 あたし、手先器用だから、超気持ちいいよ?」
明るい、心の染み入るようなエリィの笑みに、気持ちもほぐれたようにチーコが頷く。
千剣破がおどけた声で「ええー? いいなー! じゃあ、あたしの髪も洗ってよ! ほら、ご褒美に!」と訴えて、半眼になったエリィに「何のご褒美?」と問い返される。
「えーと…可愛いご褒美?」とわざとらしい上目遣いで言う千剣破に「不可! 自分で洗いなさい」とエリィはきっぱり答え、そのほのぼのとしたやり取りに、チーコが「ふぁうふぅ」と、漸くいつもの笑い声をあげてくれた。

ああ、よかった。
チーコちゃんが笑った。


百合子が、ぽちゃんと肩まで浸かると、チーコの傷のこと等何にも目に入ってないような、呑気な口調で「はぁ…気持ちいい」としみじみ呟き、自分の太ももを撫でさすると、「ね? 正木さん」と語りかける。
「…正木さん?」
気になったように翼が問えば「ええ、人面疽の正木さん」と事も無げに答えて、ザバァと突然肉付きの薄い足を「えい」と高く掲げ太ももを指差した。
「この人」
そう言いながら示す先には、確かに人の顔に見えなくもない痣が一つ。
「これが正木さん。 今は大人しいけれど、私がピンチの時には的確なアドバイスをくれるの」
そう言って「よしよし」と痣を撫でる百合子を皆、マジマジと眺める。
そういう能力がある…としても、興信所のとんでもない面々を見てきたいずみにすれば、別段驚愕の事実って訳でもないのだが、なんだか、どう見たってただの「人の顔に見える」痣にしか見えない。

「おじさんなんだけど、大丈夫、今は眠ってるし、お風呂中はね、紳士だから目を瞑っててくれるの。 だから、皆の裸も見られたりしないから安心してね?」

そう言う百合子に、皆、曖昧に頷いたり首を傾げたり、それぞれ反応を見せたのだが、百合子が最初の頃にまるで自分が何の変哲もない普通の人間みたいな物の言いを思い出し、どこかだ!とエマは少し憤慨した。
彼女が喋ると、それまでの流れなんか全然把握してないような、頓珍漢なのに憎めない言葉ばかり吐き出して、雰囲気も何もかもぶち壊しにされてしまうのだけど、逆にそれがありがたかった。
あまつさえ、チーコの太もも部分の痣を指して「あ、これ、私と御揃いじゃないかしら? ねぇ、喋ったりしない? きっと、この子も人面疽よ」等と言い出し、色々な意味での恐怖にチーコをピシリと固まらせる。
「よかったね! きっとピンチの時には助けてくれるわ☆」そう無邪気に言う百合子にブンブンと首を振り、助けを求めるよういずみを見るチーコに「大丈夫。 絶対、喋らないから」と請け負うと、「怖いことを、チーコに吹き込まないで下さい!」といずみは百合子に注意する。
「えー? ロマンなのにぃ」
そう口を尖らせ言う百合子に、エマも、翼も「ぷっ」と噴き出し、「百合子さんに掛かると、みんなロマンになるんだね」と翼が面白そうに言った。
チーコは、そんなみんなの様子に先ほどまで見せていた固い態度を取り払い、自分の体の傷跡も、恥ずかしそうに隠すそぶりもいつの間にか見せなくなった。




夜。
藤とツツジとの約束を果たすべく、エマは傘を差し庭に立って微かな声で唄っていた。

芳しい藤の香り。

シトシトとした雨に打たれた、その庭の風景は絶景としか言いようのない、美しい姿を見せてくれている。
約束を果たしたエマに、藤とツツジが満足したという風に揺れたので「さて、寝ようかな」と縁側に引き返しかけて、目に入る光景に立ち竦む。


黒須が静かな顔で庭を眺めていた。
遮光眼鏡を外していて、黄色の目が爛々と光って見える。
あんまり、平然とした顔をしているので、それがなんだか怖かった。



だって、黒須の胡坐の上に収まりながら、その腕を、チーコが強く噛んでいる。




赤い血が、薄闇の静かで清らかな神社の風景の中でぎょっとするほどショッキングな色合いに見えた。

点々と床に血を零しながら、自分の腕を噛むチーコの頭を黒須はゆっくりと撫でている。

チーコは無心になって黒須の腕を噛んでいて、その表情を見て、エマは全てを察した。


だって 知らなかった


チーコは ずっと笑ってて

泣き顔だって今日初めて見せてくれて


全く平気な素振りで

それでも


それでも あの子は 怖かったんだな。

「ああ」

エマは両手で自分の顔を覆った。



ストレス。 当然感じて然るべきものだ。
自分の体に次々と起こる不調。
迫る死。
足が動かないだけではない。
何処か傷む場所だってあるはず。
怖いだろう。
思い通りにならない自分の体。
当る相手もおらず、彼女は黒須にそのストレスをぶつけたのだ。

それが、あの傷跡。



黒須の腕に残る、酷い噛み傷。


黒須は いつから 彼女に噛まれ続けていたのだろう

ゆっくりと、チーコを驚かさぬように、二人の前に足を進めた。

チーコがハッと目を見開いて、慌てて黒須の腕から唇を離す。

チーコの口の周りは血で真っ赤になっていて、黒須の腕には、チーコの人間のものではない鋭い歯で空けられた穴が点々と穿たれていた。


「…まだ寝てなかったのか」

黒須の言葉にエマは頷く。

「……ここね、昔一度武彦さんと来たの」

唐突にエマは話し始めた。

「その時は、まだ、付き合い始めたばっかりでね、色々不安で仕方がなかった。 興信所にはね、毎日入れ替わり立ち変わり色んな人が来て、その中には当然綺麗な女性も一杯いたわ。 みんな華やかで、魅力的で、色っぽくて、その中には、武彦さんの事を好きになる子だって当然いた。 モテるのよ、武彦さん。 面倒見いいしね」

自分でも何の話をしているのか分からない。
混乱する自分を落ち着ける為にも、エマは喋り続ける。

「私は、自分の何処を魅力的に思って武彦さんが私を選んでくれたのか分らなかった。 私、色気ないし、口だって、ほら達者でしょ? 生意気で、男勝りで、デリカシーとか、時々ないし…どうして? どうして?って。 でも、好きなの。 武彦さんの事、凄い好きなの。 だから、武彦さんは、私が多分、ちょっと人より賢かったり、目端が利くところを、そういう知的な部分を好んでくれてるんだって、肩肘張って、武彦さんとの会話も、出来るだけセンスのある言葉を返そうって躍起になって、彼の役に立つ女であろうって必死になって……」

エマは一つ溜息を吐いた。

「そんな時にね、ここに来たの。 ここの神主さんの招待で。 渋滞に巻き込まれてね、到着したのは夜中だった。 くったくたになって、一歩足を踏み入れたら、この庭でしょ? 月明かりの下の、ツツジや藤を見たらね、凄く無防備になってただ、ただ、子供みたいな声で『綺麗ね』って言っちゃったの。 もっと、それまでの私だったら色んな形容詞とか美辞麗句を使っていただろうに、それだけしか言えなかったの。 そうしたら、可愛いって」
エマは少し微笑む。
「あいつが?」
「そう。 可愛いって、そういう風に素直な感想を言っちゃった私が可愛いって、何も無理しなくていいって言ってくれて…」

エマは手を伸ばして、黒須の腕を掴んだ。

「だから見せたかったの。 月明かりの下のこの庭を。 チーコにも…あなたにもよ…黒須さん…」

涙が自然と浮かんだ。

「…言いなさいよ」

エマは、堪えきれず、泣きそうな声で黒須に訴えた。

「あんたは!」

エマが、叫ぶような声で言う。

「素直になんなさいよ! 黙って! 馬鹿じゃないの? 馬鹿じゃないの?! 誰も見てないわよ。 こんなとこで、一人で格好つけて! 私だって……私だって幾らでも噛まれたいっていうのよ…。 チーコちゃんが、それで楽になるなら、全部ぶつけて欲しいって思うわよ! 私ねぇ! 自己犠牲って一番嫌いなの! 一人だけ痛い目にあって、それで誰かが救われればそれでいいなんて、馬鹿な考えよ! あんたの事を大事に思う人間がすぐ傍にいるのを知ってるでしょ?! だ…だ…れも、気付かないじゃない…。 どうしたらいいのよ…。 黒須さん…ねぇ…黒須さん……」

エマが黒須の肩を掴んで揺すった。

「…あんた 生き難いでしょう? そんなんじゃ…生き難いでしょう? 色んな人に嫌われて、第一印象で偏見持たれて、私だって一緒よ。 最初は気持ち悪かった。 そんなの嘘は吐けないわ? でもさぁ…でもさぁ…、私、そこそこ付き合い長いつもりよ。 色々言い合って、浅草だって楽しかったじゃない? 武彦さんだって、信頼できる人だって分ってくれてるんでしょ? 友達だと思ってる。 私、結構、黒須さんの事困ってたら助けてあげたいって思う位には、友達だって思ってる。 竜子ちゃんだって可愛いの。 痛い思いをしていたら、手を差し伸べたいって思うのは、甘い考え? お節介?」

黒須がゆっくりと首を振った。

「…ありがてぇよ。 姐ちゃんが、そうやって色々…」とそこまで言った瞬間、エマが黒須の肩をまた揺すった。

「名前を呼んで!」

黒須が、体を震わせ俯く。

「名前を、呼んで。 ねぇ。 黒須さん。 私の事、一度だって、名前で呼んでくれた事ないね? 信用できない? もしくは、そこまで近づくのが怖い? 大丈夫。 もう、私は大丈夫。 蛇なんて怖くないもの。 友達でしょ? 私は、あなたを裏切らない。 信用して。 信用してよ…」

ずっと気付いてたんだ。
この人、私の名前を呼ばないって。

何が、怖いの?
何が、怖いのよ、黒須さん。

エマは悔しくて唇を噛む。

「ねぇ、知ってる? 私の名前はシュライン・エマっていうのよ?」

黒須が恐ろしい言葉を口にするかのように唇を震わせて、掠れた声で「エマ」と呼んだ。

初めて呼ばれた名前は、想像以上に誇らしい気持ちをエマに齎した。

コンチクショウ。
参ったか、この黒須誠め!

エマは怒った顔のまま「何よ。 黒須さん」と言葉を返す。

チーコが手を伸ばし、泣きながらエマの腰に抱きつく。

「ひあぅぅぁぅ…うぁあっぅっはぁっぅ…(ごめんなさい! わたし ごめんなさい!)」

涙声に首を振り、血に汚れることなんてお構いなしで、その体をエマは全身を使って抱きしめると「違うわ。 チーコちゃん。 あなたは何にも悪くないの。 大好きよ。 大好き。 大きな声を出してごめんね? エマは、チーコちゃんがすっごく好き。 大好き。 可愛いチーコちゃん。 本当に、本当に、会えて良かった。 大好きよ。 ずっと一緒。 ね? ずっと一緒」そう耳に囁き、何度も何度も背中を撫でる。

いつしか雨は止んでいた。
月明かりの下、雨に濡れたつつじや、藤の花々が淡い光を放ち咲き誇っている。

「ああ…これが、あなたと見たかったの」

エマが言った。

チーコが庭をじっと見ていた。
黒須は、少し溜息をついて、それから「ありがとう」とエマに告げた。


どうやら、そのまま縁側でチーコを抱きしめたまま眠ってしまったらしいエマは、翌日早朝、痛みにうなされるチーコの声で目を覚ました。

頬を枕にくっつけたまま、チーコを抱きしめ、心から祈るように、全身を捧げるように、魂を込めて、子守唄を微かに歌う。

彼女の痛みが消え去る為ならば、私は何だって出来る。

エマは確信する。


何だって出来るのに、私は唄うことしか出来ない。

そのことが、哀しくて、悔しくて、虚しくて仕方がなかった。



最終日



「うひゃあああ!!」

無闇矢鱈な大声をあげて竜子が走り出した。
時雨もつられたように「わぁぁぁ!!!」と大声を上げて、案の定パフンと途中で転ぶ。
強い風が吹き渡っていた。

「まぁ、本物の砂漠には及ばないけど、やっぱ、ここはここで、奇景って感じで風情があるわね」
エマが風にあおられる髪を抑えながら言う。

そう、ここはかの有名な、鳥取県にある「鳥取砂丘」。
連休中という事もあってか、観光地らしく、ラクダなんぞに乗って砂丘を横断している人もあり、歓声をあげてはしゃぐ子供の姿もそこらかしこにあり、深々と大きめのパーカーを着て、フードを被り、顔を隠しているチーコも同い年位の子供達の声に何処となく嬉しげに聞いているように見えた。


今朝方は、それまで見せていた旺盛な食欲も衰えて、折角エマ達が腕によりを掛けて作った朝食を殆ど残していた。
体調も酷く悪そうで、昼過ぎ頃まで眠らせて、少し顔色が良くなったのを見計り、神社を後にしてきた。

つつじと、藤の花に見送られ、心地良い神社を後にした一行が、ここを訪れたのは、エリィがパラパラと道を確認する為に捲っていたガイドブックを、布団の中から覗き込んでいたチーコが、砂丘のページに差し掛かった所、どうしても見たいとエマに訴えたからだ。
そのガイドブック一杯に広がっていたのは、夕日が沈み行く砂丘で、たくさんの子供達が駆け回る写真。
何かの砂丘にてイベントが行われた時の写真らしい。
母親に手を引かれ走る子供達の写真を見て、行きたいと願うチーコに、エマは二つ返事で了承し、他の者とて誰も反対しなかった。

チーコの為の旅なのに、自分の体調の事を含め、しきりに申し訳なさそうな顔をするチーコが、何だか健気で仕方がない。
エマはしゃがみこみ、自分の膝の間にチーコを抱え、その髪をゆっくりと撫でる。
百合子は、それでも平和な顔をして、小さな声で「月の砂漠」を唄っていた。
エマも小さな声で、囁くように百合子と合わせて唄い出す。
小鳥のように澄んだ可愛い声した百合子と、落ち着いた優しい声音で唄うエマは、強い風の中で、それでもかすかな歌声をチーコの耳にありったけの愛情を込めて注いでいた。
チーコは、余り持ち上がらなくなった腕で、それでもおぼつかない手つきで、冥月に貰った万華鏡を覗いていた。
いずみは、エマの膝に頬をくっつけて、二人の歌声に耳を澄ませていた。

昨日まで元気に見えていたのに、病の進行の仕方も人間とは異なるのか、肌の色艶も良くなくて、呼吸も微かに荒い。

苦しいのだろう。

エマは、切なく思う。
命の終わりの時が近付いていた。

だが、現実は残酷で、時は間違いなく流れていて、少しずつ日は暮れていく。



時雨が子供達を連れて、チーコの元へとやってきた。
どうも、子供に酷く好かれる性質のようで、腕や足元に纏わりつく子供達を柔らかな笑みを浮かべて見下ろしている。
身長の高い時雨と、小さな子供達の影が、砂丘に長く伸びていた。
まるで、ハーメルンのようだとエマは思う。
茜色に染まりだした空の下で、優しいハーメルンは子供達を、チーコに引き合わせた。

ガイドブックの写真を見ていたチーコの目は、憧れの眼差しで、きっと、時雨はチーコのあの目に込められた希望を読み取って、彼らをここへ導いたのだろう。
一瞬、エマは「大丈夫か?」と、どうしたって普通の人間の子供の姿とは違うチーコと子供達を会わせる事に不安を抱いた。
だが、時雨がいるなら大丈夫。
何だか、子供の扱いに関しては、時雨の右に出るものはいないような気がしたのだ。

自分の事を好奇心一杯で覗き込んでくる、実際の子供たちの姿に、チーコは一瞬身構えるも、時雨が言い含めてあるのか、子供達は驚いた目でチーコを眺めるも騒ぎ立てはしない。
チーコの姿をマジマジと眺めながらも、そのうちの一人の女の子が、素直な声で、「かわいい」とチーコを評した。
夕闇の赤い色が濃くなっていく。
チーコはおっかなびっくりの表情で、子供達に手を伸ばした。
一人の子供がチーコの掌を握った。
「かわいいね。 名前は、なんていうの?」

チーコは、震える声で答えた。

「チーコ」

はっきりとした発音で、何度も、何度も、皆が呼んでくれた自分の名を、大事に、大事に呟いた。

「チーコ…いう」
「チーコ。 可愛い名前」

子供達がさざめき、チーコに笑いかけた。

「かおりー! そろそろ行くよー!」
「聡、何処行ったの?」
「あら? 翠? 翠?」

砂丘のそこらかしこから、子供を呼ぶ母親の声が聞こえてきた。

「あ、呼んでる! じゃあね、チーコちゃん!」
女の子が一人手を振り、砂丘を越えて行ったのを切っ掛けに、子供達は皆それぞれ、母親の元へ帰っていく。

チーコは小さく手を振って、それから甘えるようにエマの胸に顔を埋めた。
ポンポンと頭を優しくエマは叩く。

「ひぃぅあぅ…(お母さん…)」
チーコの言葉に、エマは持ちうる限りの愛情を込め、頬を、チーコの頭にくっつけて、「なぁに?」と聞いた。

「ふぅあぅぃぅう……(わたし…死にたくない…)」


込み上げる涙を必死で堪える。

私から、この子を取り上げないでと、何度も何度もエマは祈った。

お願いだから。
神様。

私からチーコを奪わないで。

時雨が、夕日に目を向ける。
海の波が、ザブザブとした音を立てた。

「……もうじき、……日が沈む。 ボク達も…行こう」

頷いて、立ち上がった時だった。


突如背筋を襲う寒気。


 
振り返れば、砂丘の上にずらりと男達が並んでいた。
皆、手に物騒なものを持っている。

タッと、素早い動きで駆け寄ってきたのは冥月。
流石と言うべきか、チーコの元にすぐ駆け寄れる位置で待機していたらしい。

「思ったよりも早かったな。 追いついてくるのが」

舌打ちせんばかりの表情で、そう呟くと、ひょいとエマからチーコを取り上げた。

「私の傍にいろ。 大丈夫だ。 絶対に傷つけはさせない」

冥月の言葉に、チーコが頷く。
「いずみは、時雨の傍に…」
「大丈夫です」
冥月の言葉をいずみが遮る。

「一応、自分の身は自分で守れますし…」
視線を向ければ、前回を遥かに超える人数が待機していて、いずみがきゅうっと目を細めた。

「あの人達…人間じゃない」

いずみの言葉に「いい目だ」と冥月は褒めると、「キメラだ」と呟いた。

「キメラ?」
「人間と、動物を掛け合わせてある。 あの、悪い奴らのお得意技らしい。 とうとう、相手も本気を出してきた」
そう唸るように言って、それから、「大丈夫なんだな?」と念を押す。
「ええ、足手まといにだけはならぬよう自衛に努めます」
いずみの頑なな表情に、冥月はしょうがないという風に溜息を吐けば「私も、これは、守られ役ではいられないわ。 サポート程度だけど、協力も出来ると思う」と、エマも強い目で告げる。
百合子はもじもじと「わ、私も…」と何か言いかければ、「百合子は、私と共にチーコを守れ。 抱いていてやってくれ」と、チーコをその腕に預けた。
細い腕で、おっかなびっくり、不器用にチーコを抱く百合子に一瞬不安を覚えども、今はそういう事態ではない。
「夜になれば…」

え?とエマは首を傾げて、冥月を見る。

「夜になれば、私一人で全て片をつけられる。 闇は私の領域だ。 何が起こったのか分らぬ内に、皆地に沈めて見せよう。 だが、今は無理だ。 影を操って、あいつらを拘束するのは可能だと思うのだが、これがただの先発隊で、後からまた別部隊を送られてくる可能性がないわけではない。 今、この様子をまた、別場所から眺めているものがないとも言い切れぬしな。 こちらの能力を悟られれば、何某かの対抗策を練ってこないとは限らない。 向こうは、こちらを遥かに凌ぐ組織力と、資金を持っている。 この仕事が終わった後の事を考えると、はったりを効かせ続ける為にも、私の能力は、まだ、悟られない方が良いだろう。 まぁ、幸い…」

そこまで言って周囲を見回せば、異様な雰囲気を察したのか、観光客等は姿を消していて、「…周りを気にせず、思いっきりやれる。 夜まで保つか?」の問い掛けに、翼と、時雨が同時に片眉を上げた。

「冥月さん、こう見えても、僕は荒事も得意中の得意でね。 特に女性を守る時には、自分でも想像のつかないほどの力を振るえるんだ」

にぃと翼は美しくも凶暴な笑みを浮かべて見せると、「夜までなんて、長すぎる。 まぁ、見てて下さい」と冥月に宣言した。
時雨も、「大丈夫…夜になる前に…ここを出られるように…するからね?」とチーコに語りかけ、それからツイと同時に敵を睨んだ。
首をクキクキと鳴らしながら「ううん。 あんまり、暴力とか得意じゃないんだけどな」と言いつつ、兎月原が柔軟を始め、エリィが夕日の輝きを受け、赤く光るナイフを抜いて、「さて、チーコちゃん、あんまり待たせられないしね」と静かに呟く。
黒須と竜子は一度視線を合わせ、ぽんと竜子が黒須の背中を叩いて「んじゃ、いってらっしゃい」と気軽な調子で言い、それから、冥月に向かって「あたいも、あんたの傍にいさせてくれ」と告げた。
「了解した」と、冥月は頷き、嵐が何か言いかけるより早く、「バイクで、かき回してやれ」と指示を下す。
ガクリと肩を落とし、「ほんと、俺、ただの素人なんだけど?」と問う嵐に、冥月がシレっとした顔で「いや、素人にしておくには勿体無い度胸と身体能力を持っている。 励め」等と、嵐の師匠と見紛うばかりの励ましの言葉を口にする。




「いずみちゃん、あなたの目であたしをサポートして」と声を掛けた。
海の水を使って、遠距離から近接戦の面々をサポートするつもりだろう。
かなり目が良いいずみの協力を得て、力を振るってくれるらしい。
だが、彼女の強張った表情が、なんだか少し気になった。
ピンと張った糸が、今にも切れそうな風情に見えたから、いずみも、一瞬気遣わしげに、千剣破を見上げたが、その視線に余裕をなくした、彼女は気付かなかった。



「日があるうちは、私はチーコの守りに徹する。 任せたぞ」

冥月が、そう告げると、一際強い風が吹いた。

「チーコを苦しめた連中だ。 死なない程度にしか、手加減はしてやらない」

翼が剣呑な宣言をするのを合図に、それは始まった。

向こうの人数は、圧倒的に多数。
だが、個人個人の実力は、比べるまでもなく此方の方が上。
人数押しで来る向こうの攻撃を少ない人数で、どれだけ押し留められるのかが鍵になってきていた。

冥月の体の傍に、ぴったりと百合子が身を寄せて、チーコを抱きながら戦況を見守っている。

冥月は表情を変えず、腕を組んだまま微動だにしない。
千剣破は、海の水を硬球に変えて、一気に敵に降り注がせていた。
痛みに怯むものや、当たり所が悪く、一撃で昏倒するものもいる。

「殺してはならない」の制約は、名うての実力者達にとっては、少々面倒なものらしく、それぞれ手加減の程に苦慮しているようだった。
接近戦を得意としているらしい、エリィや兎月原は、確実に一人一人に当身や、急所への攻撃を仕掛け、意識を奪っていっている。
嵐は、冥月の言葉どおり、バイクで敵が固まっている場所に突っ込み、散らしたり、タイヤを使って巻き上げた砂によって、視界をさえぎったりしていた。

エマは、声を凝縮させ相手にぶつけ攻撃を加えていく。
ただ、風が強い為に、思うように力が震えず、かなりもどかしい思いを味合わされた。

振り返れば、夕日が徐々に沈み始めていた。
冥月の時間が近づいてきている。
負傷者や、深刻な重症を負う者もなく、冥月の言葉を信じれば、これにて決着が着くのだろうか?と思われた矢先の事だった。

冥月が、もう少し戦況が見渡せるような、高台へと移動を始めた。

強い風が吹いた。

チーコが万華鏡を落とした。


コロコロコロと、万華鏡が転がっていく。

その刹那、もがく様に百合子の腕を抜け出したチーコが、その後を追った。


「っ! チーコ!!!!」

初めて、冥月が声を荒げた。


コロコロコロ、冥月に貰った万華鏡が砂漠を転がっていく。

トテトテと、もう歩けぬ足で、それでもよたよたと、チーコが必死に追った。
慌てて、冥月がチーコに走り寄るより早く、四つん這いになって人間ではありえない速さでチーコに走り寄ってきた男が、まるで、サッカーのボールを蹴るみたいに思いっきり、チーコを蹴っ飛ばした。

「ヒュゥッ」と喉の奥が狭まる。
エマは、眩暈のようなものに襲われ全身が凍りついた。


チーコが玩具みたいに吹っ飛ぶ。
砂の上を、二三度バウンドして、ごろごろと体を転がしたチーコ。
もし、目の前で、チーコが無残に殺されたら…


多分、私、一生立ち直れない。


だが、チーコは、動かぬ足を砂の上でもがかせ、そして、腕で這いずるようにして、それでも、万華鏡を追った。
ずるずると這い手を伸ばす先に、万華鏡が触れるか否かの間際、横たわるチーコの体を、先程チーコを蹴り飛ばした男が思いっきり踏みつけた。

「うぐぅはぅっぅっ!!!」

悲鳴とも喚き声ともつかない声。

エマの頭が真っ白になった。




「チィーーーーコーーー!!!!!!」



喉を潰すような大声で、エマは叫ぶ。


やめて!!
チーコを傷つけないで!!!

もうこれ以上、泣かせないで!!


助けようとする冥月の周りを、数人の男が取り囲んだ。
その間を抜けて、百合子が転がるようにチーコの上に覆い被さり、竜子が再びチーコの上に迫る男の前に立ちはだかる。


エマは、全身から冷や汗が吹き出るのを感じ、意識を集中して、竜子に迫る男を声で吹き飛ばそうとする。
だが、冷静さを取り戻せず、巧く声が出ない。

早く! 早く!! 早く!!!

そう己をせかすエマの耳に、稲光が聞こえた。
酷く凶暴で荒れ狂うその音に、全てのものが一瞬、空へと視線を向け、そして、海の様子に瞠目した。

真っ黒な海。
荒れるなんてものじゃない、それは、異常な姿だった。

千剣破の様子が明らかにおかしかった。

彼女の仕業?

千剣破の周りを黒い水が取り囲む。
海の色は、黒炭を流し込んだような漆黒。
海から巨大な水の竜巻が幾つも立ち上がっていた。
真っ黒な海。

酷く禍々しい、その姿。

「あ…ああっ、あっ…!! 許せない…許せない…許せないっ!!!!!!!!!」

目を見開いたまま、千剣破が強い声で繰り返し叫ぶ。
ビリビリと周囲の空気が震えていた。
空に暗雲が立ちこめ、稲光の音が聞こえてくる。


黒い水を身に纏い、真っ白な頬を更に白くさせ、爛々とした目で敵を見据えている。


酷く恐ろしく、酷く神々しく、酷く美しく、そして酷く危うい。

髪の毛が風に舞い上がる。
普段より赤く色づく唇が、きゅうっと引き結ばれる。

皆が、海の様子、そして千剣破の様子を凝視していた。

敵の男達の中には、明らかに危険なこの状況に既に逃げ始めたものもいる。


ぞわぞわぞわと、異常な気配に、エマの本能が危険を察し、警鐘を鳴らしていた。


「いずみ…、千剣破を止めろ!」

冥月が叫んでいる。

冥月が焦っている。
その事をもってしても、今の危機状況が如実に把握できた。

竜子とチーコだけでも、守らないと!と焼け付くような危機感に焦るエマであったが、それよりも早く、いずみが、突然ぐいと手を伸ばし、千剣破の胸倉を掴むと、下に引き寄せ、その頬を思いっきり張り飛ばした。

「うわ」

その手加減のない様子に、咄嗟に頬を抑えてしまう。


「しっかりなさい!!!!」

凛とした声で、いずみが千剣破を叱る声が聞こえてきた。

「泣いているでしょう! チーコが泣いているでしょう! 今、あなたは、誰のために力を振るおうとしているの?! それは、誰を守る為の力なの?! 正気に戻りなさい! 泣かさないで、チーコを! 千剣破さん! 泣かさないで!!」



チーコの泣き声。


万華鏡を抱きながら、チーコが泣いている。



いけない。
チーコ、泣かないで。
泣かないで。



幸せな気持ちで。
幸せな気持ちで…。


嗚呼、そうだ。
私は、その為に、ここにいるんだ。



いずみの言葉に徐々に千剣破の焦点が結ばれる。
海が徐々に静まり始めた。
ほっと、安心したところで、チーコに慌てて視線を送れば、黒須が竜子を鋭い爪で切り裂こうとしていた男を叩き伏せ、時雨がチーコを抱きかかえようと手を伸ばしていた。

千剣破が呼んだ暗雲も、霧散し、その下の茜色の空が、夜の闇を濃くし始めている。

冥月が、明らかに身に纏う空気を冷たく、凍りつかせながら敵に向かって歩き出し始めていた。
手には黒い刀を持っている。

あとは決着の時を待つだけと、へたりこみそうな程、安堵するエマの耳に、一発の鋭い銃弾の音が届いた。


ドラマみたいな、偽者みたいな銃弾の音。


音のするほうに目を向ければ、まるで壁になるみたいに、チーコや竜子達を守る為両手を広げている黒須がゆっくりと倒れる姿が目に入った。


まるで、世界中の速度が、スローモーションになったように見えた。

空を見れば、既に夜。

と…言う事は…。
とっとっとと、あらかた敵を片付けた地点まで降り立ち、黒須の様子を凝視した。

「あ、やばい」

そして、酷く軽い口調でエマは呟く。



「久しぶりに、見ちゃうかも。 見ちゃうかも」

そう呟くエマに、「な、何を?」とエリィが問い掛けてきた。

「怪奇。 蛇男」


真面目な口調で言うエマに「「蛇男??」」と、周りにいた面々が一斉に首を傾げた。
夜闇の下、「あ、っ、っつぅっ、ち、畜生っ!!」と黒須が叫び、蹲った次の刹那には、彼の姿が、下半身大蛇の姿へと変化する。


着ていたスーツは無残に破かれ「今回は、この姿になんねぇで済むって、踏んでたのに!」と悔しげに喚く。

エマを除く全ての面々が、硬直していた。
硬直…せざる得ないだろう、この姿には。


「う、うううっううぅぅぅ!!」

エリィが唸り声をあげ、ぎゅうっと握りこぶしをしたあと、耐え切れないように目を逸らす。
脂汗が滲む額に「大丈夫かな?」と不安になれば、
「き、気持ち悪いよう…」かなりの本気声で、エリィが呻いた。
女の子なら、そういう反応も致し方ないと思いつつ、エマは「ま、だから、第一印象最悪なのはしょうがないっちゃあ、しょうがないよね」とその不憫さに同情する。

「な、んな、なっ! なんなんだ! あれ!」

ずびし!と黒須を指差し嵐が喚けば、エマは一瞬の逡巡の後、説明するの超めんどい!の自分の心の声に従って、随分老成した虚ろな眼差しを見せると「…呪われた蛇一族の末裔なの、黒須さん」と限りなく棒読みな声でそう告げた。
普通ならば、光の速さで「嘘だよね?」と気付ける、好い加減具合最高潮なエマの台詞なれど、状況が状況だけに、皆一様に「蛇、一族…」と、恐ろしげに呟いてくる。
素直な人たちって好き☆と思いつつ、、ふと、嫌な気配を感じて、砂丘の上に視線を向けた。


そこには、今、この場にいるどの男たちとも雰囲気の違う二人の男が立っていた。

一人は仕立ての良いダブルのスーツを着こなした長身の男で、他の粗野な雰囲気を身に纏う男たちとは一線を画する威圧感を有している。
派手な色に染めた少し眺めの髪を、鬣のように後ろへ流して風に舞わせている。
顔立ちは端正で、精悍でありながら、後ろ暗い、ヒリヒリとした危険を感じさせる危険味も含んでおり、全身から「只者でない」空気を発散していた。
今回の一群を率いている幹部らしい、体格の逞しい男が、腰を低くしながら、追従するような様子で何か鬣の男に伝えている。
その隣に立つのは、男と対照的に身長も低く、青白い顔をした細い男で、白衣を風になびかせながら、脇に立つ男達のやり取りなど一切無関心といったように、戦況を凝視していた。

Dr。

チーコに発信機を埋め込んだ男。

浜辺で、翼によって得られた情報を思い出し、まさしくと言った風貌に間違いないと確信する。

ぎょろぎょろと目ばかり大きく、銀縁の眼鏡の中で彷徨っている視線が、黒須を捉えると、ギラギラとした輝きに満ち始めた。

こんな人間と、動物を掛け合わせたキメラを作ったり、チーコのような子を攫ってくる人達だもの。
黒須のような人間に興味を持つのも不思議はないと思いながらも、Drと呼ばれている男の視線の狂気的な有り様に怖気を奮う。

(黒須さん、変な目のつけられ方をしなければいいけど?)と思えど、千年王宮の住人でもある黒須には、おいそれと及ぶ危険もあるまいと考え、エマは現状の把握に意識を集中させようとする。

だが、そんな必要は一切なかった。

夕日が完全に沈みきり、あたりは夜闇に包まれる。

「待たせたな」


低い声。


無慈悲な夜の女神。


黒冥月が動き出す。

「じゃあ、終わりを、始めようか」

黒いロングスカートが風に揺れる。
髪を高く結った冥月が両手を広げた。

チーコへの狼藉を目の当たりにした面々も、その怒りを力に換えて、敵方を睨み据えている。



夜が来るという事。
それは、「冥月によって、全て片がつく」という事と同意語でもあった。



思わぬ時間を取られたせいで、山口県に到達する頃には、夜明けが近付いて来ていた。

砂丘の上に見た男達は、冥月に尋ねど「取り逃した」らしく、悔しさの欠片もなく「つくづき逃げ足の早い連中だ」と呟いた。

チーコの蹴られた傷跡は、もう微塵も見当たらない。
千剣破の水の力によって、傷を癒したのだ。
疲れきった様子の千剣破ではあったが、最後の力を振り絞り、チーコを癒す姿を見て、エマは心底、彼女にはこういう力の使い方の方が似合うと感じた。
チーコの蹴られた時の記憶は、翼の「事象の操作」という恐るべき能力によって消されていた。

「本当は、タイムパラドックスを引き起こしかねない、使ってはいけない力なんだけどね…これ位なら、大丈夫だろう…」と言って翼が新たに作り上げた事象は「蹴られた際に、チーコは意識を失い、砂丘で暴力に晒された記憶は、ショックで消えてしまった」というもの。
傷跡もなく、記憶もないチーコは、まさか自分が恐ろしい目に合っていただなんて事も、すっかり知らぬ気に、穏やかな様子でエマの腕の中でじっとしていて、その暖かみにエマは心から安堵した。

良かった。
不幸せな思い出は、三日間の間一つだってチーコの中に残したくなかったから、本当に良かった。





潮岬…本州最南端の海。


その海を一望できる、灯台の上に立ち、チーコが夜の海を眺めていた。

もうじき、夜が明ける。

チーコは、自分を抱いていたエマの腕を優しく叩き降ろしてくれるようにと頼んだ。


ここが彼女にとっての、最期の地。


見上げれば満天の星空があって、皆息を殺してチーコを眺めた。


チーコは、自分の運命全て分っているかのように微笑んで、一礼する。

キラキラキラと、夜闇を引き裂くように、流れ星が落ちていった。



唐突に、何の予備動作もなく、その喉からチーコは、燃えるような、熱く、熱く、力強い声を出した。



「会わなければ よかったと

思う私を 許してください」


それは紛れもなく、人の、日本語の、エマ達が使う言葉の 歌。






会わなければ よかったと

思う私を 許してください


闇の中で 息絶えていれば

生きたいと願わずにいられたのでしょう


優しくされて

優しくされて


私は死ぬのが怖くなった

優しくされて

優しくされて


私はとうとう恋をした


幸せです
不幸せです

嬉しいです
寂しいのです

抱きしめて
触らないで

全部嘘です
全てが真実


あなたが 好き





チーコが手を延べる。
視線の先には時雨がいる。





あなたが 好き


好きじゃない
嫌い

だから 泣かないで
笑っていて
私が いなくなっても 笑っていて


真実

あなたが 好き

だから 笑っていて

私が いなくなっても 幸せになって

私の事を忘れてください


いやだ

私の事を忘れないで

うそ

わすれていいの

だから

幸せになって 幸せになって

好き 好き 好き 好き さようなら



「あなたに あえて よかった と おもう わたしを ゆるしてください」


炎の歌。
命を燃やす歌。

夜が明け始める。

チーコの指先が、髪が、炎に変わり始めた。


その全てを燃やすかのように、チーコが唄う。

最期の歌。

時雨が、転げるように、チーコに走り寄り、その体を抱いた。


「チーコ!!!」


幸せになって


「チーーコ!!」


幸せになって

「いやだ…いやだよ…チーコ…一緒に…故郷…見に行こうって言った…約束した…嘘つき…チーコの…うそつき…あっ、ああっ、うああっ、わああっあああああっ!!!」


慟哭。

自分の全身が炎に包まれるのも構わずに時雨はチーコを強く抱きしめた。
一緒に燃えてしまうんじゃないだろうか?と心配になった。
赤い髪が、体が、何もかもが炎に包まれて、時雨は夜闇の中で、チーコを抱いて燃えていた。


キラキラと炎に包まれ、光の粒が二人の周りを舞う。

ああ、あれは万華鏡の光の欠片。

焼けた万華鏡の中から、光が舞い上がり二人の周りをひらひら飛んでいる。


チーコは最期の瞬間エマを見た。


「お か あ さ ん」

チーコがエマを呼んだ。

エマは、全身が引き裂かれるような痛みを覚えた。
子供を失う母の気持ちを間違いなくエマは味わっていた。

地獄のような。

地獄のような。


それでもチーコが笑うから、エマは涙を零しながらも笑い返した。

「あ り が と う」

鼓膜を焼くような、この言葉。
一生覚えて生きていこうとエマは自分に約束する。




朝日差す海。
目を射るほどの輝きが海面一杯を満たす。




その瞬間、チーコの体は全て炎と化して、消え果てた。



時雨が喚く。
声にならない声で。

赤い髪が炎のように揺れていた。



そして、眩い光の中真っ黒な影の塊になって、時雨は長身を折り曲げ蹲ると、唇を押さえ、耳を押さえ、目すら閉じて、全て、全て記憶にあるチーコの全てを、何処にも逃さないかのように、じっとそうやって、じっと、蹲り続けた。

まるで、両手を組み合わせていないのに、その姿は祈りに見えた。

酷く敬虔な祈りに見えた。


神様は、呆れる程に無力で、チーコの命を救えはしなかったけど、それでも最期彼女は笑ってくれたから。


エマは、祈りの代わりに、歌を口ずさむ。

彼女への子守唄。

もう、何一つ痛い思いをしなくていいよと言い聞かせ、エマはレクイエムを唄い続けた。



ばいばい チーコ

私の娘よ

愛している

本当よ

愛している


大事な、大事な 私のチーコ


夜の海のチーコ

あなたの事は忘れない
あなたの歌を私は忘れない




fin

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1271/ 飛鷹・いずみ   / 女性 / 10歳 / 小学生】
【3446/ 水鏡・千剣破  / 女性 / 17歳 / 女子高生(竜の姫巫女)】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【7520/ 歌川・百合子/ 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2778/ 黒・冥月 / 女性 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【5588/ エリィ・ルー / 女性 / 17歳 / 情報屋】
【1564/ 五降臨・時雨  / 男性 / 25歳 / 殺し屋(?)/もはやフリーター】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】



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■         ライター通信          ■
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出来上がりが大変遅くなりまして誠に申し訳有りませんでした。

本当に、長い、長い物語にお付き合いくださいましてありがとう御座います。
三日間、参加してくださった皆様も楽しいときが過ごせていたら幸いです。
チーコは皆様のお陰で、幸福な気持ちでこの世に手を振ることが出来ました。
彼女の最期の歌を是非、忘れないでいてください。
夜の海のチーコ。

終幕で御座います。

尚、momiziのウェブゲームは、登場人物全ての方、それぞれの視点に即した物語となっております。
お暇なときにでも、他のウェブゲームにもお目通し頂けると新たな真実や、自分のPCが他PCにどう思われていたのかを、知る事が出来るかと思います。

それでは、momiziでした。