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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【夜の海のチーコ】


〜OP〜

今日はチーコは四回殴られた。

一回目は、唄ってる時に笑ったから。
二回目は、お昼ご飯のパンくずを床に落としてしまったから。
三回目は、殴られた時に吐いた血で殴った人の手を汚してしまったから、
四回目は、何となく。

チーコは、南の海にある活火山を抱く小さな島で生まれた。
チーコは、その島では仲間達から「可愛いチーコ」と呼ばれていた。
友達思いのチーコ。
笑顔が素敵なチーコ。
可愛い、チーコ。

チーコは、ここでは、名前を呼ばれない。
ただ、「化け物」って人間はチーコの事を呼んだ。

それは突然の嵐だった。

チーコが住んでいた南の島に、ジェット船に乗った人間たちがやってきた。
誰かと喧嘩なんてした事のないチーコの仲間達は、みんな一編に殺されたり、捕まったりした。
チーコは捕まった側で、そのまま、「新宿」ってトコにある、あんまり性質の良くない店で見世物としてショーに出されていた。

チーコの種族は、皆歌が上手だった。
燃える様な、命を燃やすような、赤い、赤い、力強い、炎のような歌を歌った。
人間はチーコの歌を珍しがって、たくさんの人間の前で散々に歌わせた。

チーコは、10歳。
活火山がある、南の島で、毎日歌を歌って暮していた。
その日々は太陽みたいに暖かくって、海のように無限に続くと思ってた。

カフッ。

薄暗い小さな小部屋で、チーコは小さな口からたくさんの血を吐き出す。
此処に連れてこられて、もう一年になる。
チーコは、南の島の美しい空気の中でしか本来は生きられない生き物だった。

もう、永くない。
チーコは分っていた。
もう、私は、永くない。

目を閉じる。
おかあさんの顔
おとうさんの顔
友達の顔

チーコももうじきそちらに逝きます。
チーコは笑う。
怖くない。
怖くない。

ただ、恋をしてみたかった。

何度も、何度も、喉を震わせ、情熱的に歌った恋。

チーコは知らない。
恋を知らない。
チーコは知らない。
それが、どんなに幸せかを知らない。

突然、大きな音がチーコの鼓膜を震わせた。

「アァ!!」

声を上げて跳ね起きる。
すると、自分の顔を覗き込む黒い影にチーコは気付いた。
「ああ、間違いない」
男の人の声。
キンキンとした、鼓膜をやけに引っ掻く声。
パチパチと瞬いて、チーコは見上げた。
黒く長い髪が揺れていた。
何だか険しい顔。
南の島にたくさんいた、蜥蜴や、蛇にちょっと似ている。
けれど、彼らはこちらが乱暴をしなければ決して、牙をむく事のない大人しい生き物立ちチーコは知っていたので、チーコはちっとも怖くなかった。
恐る恐るといった手つきで、骨ばった硬い手が、チーコの体を抱き上げる。
煙草の匂いが、チーコの鼻腔を擽った。
「ひぅあぁ?」
喉を震わせ、だあれ?と問う。
「助けにきた」
思いの外優しい声だった。

チーコは、疑う事を知らない子だったので。
何度でもそれで騙されて呼ばれて笑って傍によって、何度も、何度も蹴り飛ばされるような子だったので、「ひぅふぁぅぅ!」と高い声を上げて笑って、しっかりとその胸にしがみ付いた。

夜の空の下、男はチーコを抱えて駆け出した。
長い髪が、漆黒のカーテンのように風に煽られ広がる。

きれいだな。

チーコは手を伸ばし、さらさらとした手触りに微笑んだ。

きれいだな。

夜のカーテン。
なんて、美しい帳。

「化け物が逃げたぞ!!」」
後ろの方から声が聞こえる。
チーコをたくさん殴った男たちの声だ。
「ひぁふぅ!」
叫んで後ろを指差し、気をつけてと叫ぶチーコの背中を分ってるよという風に優しく叩いて、髪の長い男は誰かを呼んだ。
「竜子!!」
るーこ?
首を傾げるチーコの耳に、闇を切り裂くエンジン音が聞こえてくる。
あれ、知ってる。
あれ、バイクってゆうんだ。
チーコの見張り役の男が読んでる雑誌に載ってたよ?

「誠!!」
女の人の声。
凛とした、強い声。
バイクに乗ったその女の人は金色の髪を靡かせて、チーコと男の前に急停止すると、慌てた様子でヘルメットを投げつけて「追手は?!」と問い掛けた。
「しこたまだ。 とっととずらかるぞ!」
そう誠と呼ばれた男は答え、宝物を抱くような手でチーコを抱き直し、るーこのバイクの後ろにまたがる。
「大丈夫。 怖くないから」
るーこが優しい声で言った。
「大丈夫。 行こう、チーコ」
誠が、チーコの名前を呼んでくれた。
「ひあぅぅふぅるるぅぅ!」
嬉しくって大声で笑う。
るーこのバイクが、夜闇の中を猛スピードで駆け出した。
神様だってきっと追いつけない。
大型バイクは、そうやってチーコを暗い部屋から攫っていった。

*******************************

「で?」
「匿って欲しい」
黒須の言葉に武彦は、はぁと溜息を吐き出した。
「この前は不良娘の捜索で、今度は…」とそこまで言ったところで、零が常に無い強い声で「お受けします」と勝手に返事をしてのける。
「おい…零!」
そう非難の声をあげる兄をキッと見据え、「受けるんです!! 絶対に」と殆ど悲鳴のような声で兄に詰め寄った。
「…まぁ、こっちとしては報酬さえ受け取れるんなら、別段構わないが」
そう言いながら、ひしっと小さな掌で黒須の服を掴んだまま膝の上で眠るチーコの顔を見つめる。
ステージに上げるからだろう。
顔にこそ傷はなかったが、体中痣だらけで、煙草を押し当てられた火傷の痕も点々とあった。
「…まだ…子供だぞ」
黒須の隣に座る竜子が軋む声で呻いた。
「…こいつ…まだ…子供なんだぞ」
自分だって世間じゃまだ、充分子ども扱いされる年齢の癖に、ぎゅっと握り拳を固めた、相変わらず派手な特攻服に身を包んだ女は「糞野郎共だ」と吐き捨て、「頼む」と律儀な声音で呟き、頭を下げてきた。
「…で? 何なんだ、この子を追って来てる奴らの正体は」
武彦が問えば、「アジア諸外国を縄張りに、麻薬の密売やら人身販売やら、まぁ後ろ暗い商売の業界で一気に伸し上がってきた新興のマフィアだよ」と黒須は答えた。
「で、そこのトップっつうのが、若干キてる趣味の持ち主でね。 人間と動物を掛け合わせて作るキメラの研究やら、人間外の珍種なんかを世界中から攫ってきてオークションに掛けたり、ショーに出したりするような、そういうえげつのねぇ商売もやってやがんのさ」
黒須の説明に、武彦はチーコの容貌をもう一度しげしげと眺めた。
チョコレート色の肌。
オレンジ色の髪。
鳥のような声。
小さな体は、人間の子供と変わりない形をしているが、唯一つだけ、大きな違い。
大きな、大きな一つの目。
チーコには目が一つしかなかった。
顔の真ん中に一つ、燃えるような太陽色の綺麗な目玉。
「ベイブが…俺達の上司がね、この子の事を見つけてさ、何とかしてやれってお達しが出たんだ。 たまに、そういう慈善事業めいた事をしたがる奴なんだが、今回はバックがやべぇ。 とにかく、三日間。 何とか、三日間あいつらからチーコを守ってやってくれ」
「何故三日間なんだ?」
そう問い掛ける武彦に、黒須はチーコを見下ろして、その唇に手を当て、彼女が確実に眠って居る事を確かめると、囁くような声で言う。
「保たない」
「……何がだ」
「チーコがだよ。 一年間、この汚れた街で引き絞るみたいにして生きてきた。 保たないんだ。 あと三日なんだ」
「それは…」
確かなのか?と問い掛けかけて、事務員が教えてくれた、彼らの上司と言う男が、全てを見通す力をある鏡により得ている事を思い出す。
「多分、俺達の住んでる城に連れてけば、多分危険に晒されないで済むんだろうが…そりゃあ、あんまりだろ? 最期位、外の世界で、楽しいもんばっかり見せてやりてぇんだ」
黒須の言葉に、武彦は溜息を吐き出して、零を横前で見れば、大きな目に既に涙を溜めていて、「兄さん…」と震える声で呼んでくる。
「あーーー、もう、分ったよ。 請け負うから、お前は泣くな、お前も!」
そうズビシと指差された竜子は、既に鼻水もだくだくに流していて「ううう、…だのむからなぁ?」と涙に濡れた声で告げてきた。

チーコを守るだけならともかく、その背後にあるマフィアまで相手にしなきゃならないとなると、かなり面倒な案件になるとひしひしと感じながら、武彦は二人の女の涙に負けて、この厄介な依頼を引き受ける事にした。


〜本編〜





初日。

「えぃぃ?」

首を傾げて舌足らずな声で名前を呼んでくれた。
「そう。 エリィ・ルー」
「るぅ!」
両手をあげてそう叫び、それから、エリィの白金の髪を掴む。
「あぅ…ひぃあぁうっひぃ」

K麒麟。

「うぁぅっひぁぁうぅ」

チーコを攫った組織の名前。

武彦から、この依頼への参加を求められた時、即座に彼女を攫った組織の名前に思い至った。
人間とは異なる種族を攫って、見世物にする等という悪趣味な振る舞いをする組織なんて一つしか思い当たらない。
人間と動物を人工的に合成し「キメラ」を作る実験を繰り返している、中国マフィア。
子供を攫い、動物と掛け合わせ珍奇な生き物として高く売り飛ばしたり、若い女性を改造して下種な趣味の金持ちに売りつけたり、人間の力を遥かに上回る獣人を作り兵隊として使ったり…。
チーコのように、どこかから異種族を強制的に連れてきては、言葉にできぬような残酷な実験を施したり、酷い扱いを行っているという話もエリィは耳にしている。

キメラは養殖で、チーコのような異種族は天然物。
彼らがオークション等で、そういう存在を競りに掛ける際に使っている言葉だ。

元はクスリの売買でのし上ってきた新興の組織が、首領の変わった趣味が高じて新たな主力商品を見出し、キメラを自分の組織の武力の底上げさせ、売り物にも仕立て上げて、めきめき勢力を伸ばしている。
組織の内部に研究室を持ち、優秀なキメラの開発チームを有しているらしい。
如何わしい新薬の開発も盛んらしく、マフィア特有の強行な面と、得体の知れない不気味な研究所としての両面を併せ持つマフィアに対して、エリィは嫌悪に似た畏怖の念を抱いていた。
言うなれば、子供がお化け屋敷に対して抱く感情と似ている。

訳が分からない。
無闇矢鱈におどろおどろしい。
得体が知れない。
だから、怖い。


「K麒麟」がここまで組織拡大できたのも、キメラの開発に成功した、一人の天才研究者の功績が大きいと言われていた。

Dr。
本名も何も分からないその男は、ある日突然K麒麟の幹部の座に収まり、アッと言う間に実質的ナンバー2に収まった。
とはいえ、実務や、組織の運営に関する事には一切関わらず、ひたすら研究施設に篭り、夜な夜な吐き気のするような実験や開発、キメラの製作に取り組んでいるらしい。

『俗に言う Mad Scientistって奴さ そんな奴がナンバー2になっちまう組織になんて 関わらない方がいいよ』

PCに送られてきたメールは、エリィの貴重な情報源の内の一つからだった。
それとなく、K麒麟について探っている事を伝えれば、即座に組織規模と、本拠地、内部構成等を教えてくれたが、正直、手が出る相手じゃない。
興信所としても、マフィア相手のドンパチやる気はないだろうし、とにかくチーコを守り抜く事こそが、エリィにとって第一優先すべき指名だった。

厄介な相手だ。

エリィは心中で唸った後、チーコが自分の首に捕まってきたのを感じて「なぁに? どうしたの?」と問い掛けた。
スンスンスンと、チーコは鼻を鳴らし、ふわんと笑って「えぃぃ、ひうぁぁ」とうっとりした声で言う。
今日は、耳の後ろに大好きな花の匂いがする香水をつけてきていた。
甘くてかすかな、押し付けがましくない香りの香水。
本来、匂いを覚えられる事を嫌い情報屋を生業にするものは、香水等を身に纏わないものだが、逆にエリィは意識的に様々な香水を使い分け、人に与える印象を惑わす事を心がけていた。

今日は、チーコに会うから、お花の香り。

ふわふわと真っ白な指先で、チーコのチョコレート色の頬をくすぐる。
「ひっぅ」
くすぐったそうに肩をすくめる仕草が可愛くて、チーコを膝の上に乗せたまま、暫くエリィは戯れた。

初めて顔を見た瞬間は、そりゃ、どうしてもドキッとしてしまった。
特徴を武彦から聞いてはいたが、人間の顔は「目二つ、鼻一つ、口一つ」と生まれたときから刷り込まれて生きている身としては、パッと見た瞬間、そのバランスを崩されると、やっぱり戸惑う。
だけど、こうやって抱きしめていると、もう、どうしようもなく可愛くて、きっと、黒麒麟の連中は、一度だってこの子を抱きしめなかったのだろうと思い、馬鹿な奴ら、こんなに幸せな気持ちになれるのにと思った。

(あーあ。 しょうがないよねー)

情報屋としてはまだ駆け出しのエリィに、どういうつもりで武彦が誘いを掛けたのかは分からない。

草間興信所。
人知を超えた変わった仕事ばかりをこなしている事務所だとは聞き及んでいたが、まさか自分がこんな風に関りを持つことになるとは思わなかった。

異種族の女の子を、マフィアから守る仕事。

興信所に来るまでは、9割方断わるつもりでいたのにチーコに会ってそんな気持ちは吹き飛んだ。
チーコの痩せた、でも、柔らかな体を一度ぎゅっと抱きしめる。
「絶対にエリィおねえちゃんが守ってあげるからね?」

そう耳元で囁けば、「あぅ!」とまたくすぐったそうに身を捩り、こんなに可愛いチーコが、そんな恐ろしい組織に捕まっていたと言う現実に、胸が潰れそうな痛みを覚えた。



金髪の少女が目を真っ赤にして、呆然と座っていた。
鼻をかみ過ぎたのだろう。
鼻の頭も真っ赤になっていて、何だか幼く見える。
男の陰惨な空気を中和するかの如く、感情を駄々漏れにしながら、今は泣き疲れのせいか、何だか呆けているようだった。
ただ、男が説明を終えた後、きっちりと「頼みます」と頭を下げてくる姿は真摯で、彼女や彼が、『チーコ』という少女を何故助けようとしているのかはさっぱり分らなかったけれど、何だか少女のその姿は信頼に値するような気がした。
そんな不思議な二人組みの男女は、男は黒須誠、女は城ヶ崎竜子といった。



「で、結局、お前らの上司っていうのは何者なんだ?」

涼やかな女性の声に黒須は、はぐらかすように首を傾げた。
問い掛けたのは、黒・冥月。
細身の黒いシャツに、後ろに深いスリットの入った黒のロングスカートを合わせ、窓際に立ちながら、
腰まである黒髪を、背中で揺らすその女性は、真っ白な紙にスッと美しく筆で引かれたような形をした睫の長い切れ長の目を閉じたまま、冷たい声で問う。

「おかしいだろう? 何の利益も見込めない。 誰が得するとも分からん。 ただのボランティアとは思えど、物騒な匂いもプンプンする。 善意のみで、このような件に首を突っ込む輩がいるとは考え難い。 目的は? お前達はどんな組織に所属してるんだ? そもそも、お前達自体は、何者なんだ?」

冥月のもっともな疑問に、黒須の視線が落ち着かなさげにあっちこっちする。
冥月の細い体は、華奢なのに鋼の強靭さを感じさせ、それでいてしなやかで柔軟な美しさを兼ね備えている。
身のこなしや、その眼差しから、尋常な者でない事が、エリィには如実に感じ取ることが出来た。

「あー…」だの、「うー…」だの呻く黒須に肩を竦め、冥月の攻撃の矛先は、この興信所の主人にも向けられた。

「大体、武彦も、武彦だ。 気安く受けるな。組織から逃げる事がどれ程困難か」
そう言いながら、自分のすぐ目の前にあるソファーに腰掛けている武彦を小突く。

「これほど得体が知れぬ連中の依頼等、本来ならば、蹴って然るべき案件だろう」

そう、彼の不用意さを責める冥月に「まぁまぁまぁ…」と笑いながら、この興信所の事務員だという、シュライン・エマが割って入り、「いいじゃないの。 とりあえず、とーぉぉぉっても胡散臭いけど、この二人の身元は私が証明するわ?」と胸を叩いた。
中性的で整った容姿は、同時に知的で、冷静な空気も醸し出しており、喋り口調の明快さや、明らかに頭の回転の速そうな会話内容から鑑みても、充分信用に値する人間だとエリィは判断する。
エマが請け負うならば、この依頼人二人も、決して身元の怪しい人間等ではないのだろうとエリィは確信を深めた。
エマが皆に協力を求める意味も含めて、「ほら、黒須さんって、こう見えても、穏やかな午後に近所の美味しいケーキ屋さんのシナモンロールを突きつつ、熱い薔薇の紅茶を啜ってるお茶の一時なんかだったら、夢見心地に、気紛れに、気の迷いで『まぁ、僅かにはいい人かも…』と思えなくもない人だから…ね?」等と、言葉を重ねるが、うん、これは、間違いなくフォローにはなってない。
黒髪も清らかに、透明感のある美しさを有した、美少女水鏡・千剣破が、黒曜石のような黒と、澄んだ海の如くの青のオッドアイを瞬かせ、横目で、黒須の様子を伺いつつ「えーと、黒須さんが既に涙目なんですけど、いいのか…な…?」と彼を指差した。
エマは、気安い口調から鑑みれる通り、前々からの知り合いなのか「ほら、黒須さんも、疑われてんのは、あなたのその、不気味さのみで構成されてるツラのせいなんだから、無理矢理、多分不可能だけど、その胡散臭い、87%成分がヤクザな顔にスマイルを浮かべて、みんなの信頼を勝ち取って?! はい、レッツ爽やかスマイル!」と言いつつ黒須を揺すった。
黒須の隣に座っていた美少年も同様の立場らしく、「駄目です。 エマさん、その人笑ったらもっと不気味だから!!」と、追い討ちの追加点を入れていて、咄嗟に黒須が目頭を手で押さえつつ「もう、いっそ、死ね!って俺は言われたほうが気が楽だよ」と呻いている。
「まぁ、僕も彼らの身元は保証しますから…」と魅力的な笑みを浮かべ、視線で皆を見回す美少年は蒼王・翼というらしい。
仕草も典雅で、見惚れるばかりのその姿に、認めたくなさの余り「美少年」呼ばわりをしているが、彼女はれっきとした「女性」らしく、それでも「お願いします。 協力してあげてください」等と彼女に言われれば、例え最初から協力するつもりだったエリィにしてみても、更に固く「命を掛けて頑張ります!!」宣言も辞さない覚悟を決めてしまう。
翼に完全に魅入られたエリィは、知らぬうちに大きな翠の目を瞬かせ、頬をピンク色に染めながら「はい…翼さんの為にも…協力させて下さい…」と両手を組み合わせて答えていた。
「わ、私も、何でもするわ…! 大したお手伝いは出来ないかもだけど、精一杯翼さんのお力のなれるよう努力するから…」
そう宣言するのは、大人しげな容貌の女性で、小動物めいた小作りな頬を高潮させて、目を星屑を入れたかのように輝かせている。
彼女も興信所の仕事は初めてらしい。
名前は歌川・百合子といった筈だ。
そんな二人の女性陣の様子に、負けてはおられぬとばかりに、千剣破も勢い込んで、「あたしも、翼さんの為に…!!」と言いかければ「いや、依頼人俺と竜子だから!!」ともっともなツッコミを黒須が入れてきて、ハッ!と三人揃って我に返らされた。

「あー…いや、エマさんが信用してるんなら、俺はもう、腹決めてたし、構わないぜ?」

そう言うのは、向・坂嵐という青年で、赤茶色の髪と、同じ色したキツ目の印象的な瞳の持ち主だった。
端正な顔立ちをしているのに、そんな事は、どうでも良いと言わんばかりの、気取りのない立ち居振る舞いが逆に好感度を上げていて、この人モテるんだろうなぁ…と、エリィは別事を考えてしまう。
モテるといえば…と、この面子の中でも圧倒的なまでの大人の色気を発散している兎月原正嗣という男性に目を向ければ、「俺も、チーコを守るっていう依頼を受ける事に異論はないよ」と微笑みながら答えた。
聞くものが皆、骨抜きになりそうなほどの甘い声に思わず、エリィの腰が砕けそうになる。
とろりと甘く、喉を焼くようなチョコレートボンボンのような声。
百合子の勤め先のオーナーだという兎月原は、声に負けず劣らずの甘い端正なマスクに、少し崩れた隙がありながらも、何処か野性味も感じさせる色っぽい笑みを浮かべたまま、「今回、初めて事務所の仕事を手伝わせて貰うのだが、ここの評判は聞き及んでいる。 中々優秀なスタッフが揃ってるようだし、お姫様を守るだなんて、中々風情がある仕事だ。 この興信所を通しての依頼なら、明かせぬ事情が諸々あるにせよ、そうそうおかしな事はないでしょ?」と余裕ありげな様子で言った。


皆の意思表明に、ついと黒須に目を向け、「良かったな。 皆お人好し揃いで」と冥月が口の端を持ち上げて言えば、黒須は小さく笑って「あんたも、そのお人好しの仲間じゃねぇか。 手伝ってくれるつもりなんだろ?」と確信を持った声で言う。
その黒須の言い様が気に入らなかったのか、冥月が眉間に皺を寄せ、「大体お前等の主は本当に独善だな。余命3日なら助けない方が幸せかも知れんだろう」と黒須を指差した。
「楽しく過して少しでも未練を残せば、死ぬのが余計辛いぞ。何も知らず死ぬ方が幸せな事もある」
黒須は、冥月の言葉に笑みを深め、「善か、悪かは分からねぇよ。 正しいか否かっつうのも、まぁ、難しいわな。 でも、やれっつうから、やるんだ」と自嘲気味の声で答える。
「お前の…主が言うからか?」
「ああ。 まぁ、しょうがねぇ」
そして首に嵌っている細い黒い輪にも見える首輪に指を引っ掛けた。
「チーコ…守ってやってくれよ。 あんた…相当の人と見た。 そんで、多分…」
小さな遮光眼鏡の奥に見える、細く険しい目がじいっと冥月の事を見据え「優しい人間だ」と、唐突な声で告げた。
冥月にしてみれば予想外の言葉だったのか、少しだけ後ずさり、コツンと窓枠に肩をぶつける。
「適任だろ? 俺が選んでんだ。 間違いない」
武彦がそう自信ありげに言うのを受けて、改めてエリィはメンツを見回す。

バラバラに見えた。
てんでばらばらで、咄嗟の団結力なんて見込めない面々。

少し不安に思いつつ、そうなのかしら?とエリィは首を傾げる。
聞いただけでも、中々厄介なこの依頼を、この面々で乗り越えられるのか、疑問を感じつつも、自分は自分にやれるだけの事をやろうと握りこぶしを固めた。

「…笑止。 私は、然程優しい人間ではない…が、先程まで申していた事も冗談だ。 守る。 依頼は依頼だ。 どのような者が頼みの筋であろうとも、守る。 チーコを」
冥月が淡々と述べるその声は自負に満ちており、彼女がそう宣言すると言う事は、その言葉どおりの結果を導くのであろうと人を納得させる力に満ちていた。
「それで、チーコを追っている組織の名は?」
そう冥月が問えば、黒須は「『K麒麟』…てぇんだそうだ。 生憎、こちとら、そんな裏社会にゃあ詳しくねぇから、怖い名前なのか何なのかはさっぱりなんだが、ベイブ…俺らの上司は『面倒だ』とは言ってたな」と答えた。

やっぱりね、とエリィは頷き、確かに「面倒な相手」である事を再認識する。
とりあえず、自分が有している情報網をフル活用して彼らの情報を手に入れておこうと考えるエリィの耳に、冥月の言葉が届いた。

「聞き覚えがある。 K麒麟ならば、ちょくちょく余りよくない場所で、その名を耳にするよ。 確かに、随分と最近は幅をきかせているみたいだ。 だとすると、竜子とやらが科してきた制限が、尚面倒に拍車をかけるな」と呟き、冥月は唇に指を這わせて思案気な表情を見せる。
「殺さないで…か」

そう、竜子が、皆に言ったのだ。
この依頼にあたって、チーコを守る為に、武力を行使する事は止む無いとしても、相手を絶対に殺さないで欲しいと。

それは、随分と甘い考え方だとは思った。
やらなければ、やられる世界もある。
誰かの命を守るという事は、それ相応の覚悟を決めなければならない。
だが、冷酷になりきれないエリィにしてみても、人を積極的に殺したいとは思えない。
むしろ、竜子の告げたその制限は、何処か物騒な匂いのするメンバーも入り混じるこの依頼において、「相手を殺さなくても良い」という安心感をエリィに与えた。

あたしも、まだまだ、甘い。

「勢いのあるマフィアは厄介だぞ。保身考えず無茶するからな」
そう言いながらチラリと窓の外に走らせる冥月の視線が険しさを増したような気がしたが、ついと室内に視線を戻す時には、もう、平静極まりない眼差しへと変化していた。

黒・冥月。
彼女の名とて、エリィは把握していた。
伝説級の凄腕の元・暗殺者だ。
噂ばかりが一人歩きする程の、実力者がシレっとした顔でここにいる。
草間興信所。

(うーん。 人材の揃い具合だったら、超一級じゃないの? ここ)

表情を変えぬよう気をつけつつも、そう瞠目する。
見回してみても、他の面々も身のこなしからして武道の達人である事をうかがわせたり、何かしら特殊な能力を持っているようだったりと、強者揃いのように見えた。
しかし一番驚くべきは、そんな人間が揃いも揃って…。

「ふぁぅっ!」

チーコの声が書斎から聞こえる。

彼女の為にここに雁首揃えている。
金にもならない、面倒ばかりの仕事に懸命になろうとしている。

(うん。 あたし、この興信所気に入った)
今回、初めて興信所の依頼に参加するエリィは心の中でそう呟いた。

「で、これからどうする?」
そう冥月が言えば、まず、エリィが手を上げて「旅、行こう、旅!!」と言う。
これは、ここに来る前から考えていた。
エリィの情報網を活用すれば、危険な目に合う事なくチーコに楽しい旅をさせてあげられる。
「安全を確保する意味でも、3日間移動を続けるってのは、アリだと思うの。 ルートの確保は任して置いて? これでも、あたし情報屋なの。 おいそれと、追跡なんてさせないわ! 旅行なら、色々見せてあげられて、チーコちゃんにも楽しい時間を過ごして貰えるしね?」
エリィの言葉に、翼も頷き、「それは良いかもしれない。 故郷の南の島まで連れて行ってあげれるのが一番だけど…」とそこで言葉を切り、「この人数での移動や、危険面、期間を考えると中々難しいかな。 だけど、そうだな、海…うん、海には連れてってあげたいね」と提案した。
「海、賛成。 そんで、水族館とか、どうかな? 館内、意外と薄暗いし、周りの人は水槽に気を取られてチーコの事もあんま気付かれないんじゃないかな。
まぁ、勿論パーカーとか着てフード被ってもらったりとかの多少の変装だか位は必要だろうけど。 南の海の生態を紹介するコーナーとか、水族館にはあるし、チーコにとっては嬉しいかも知れない。 あと、俺も海は絶対連れてってやりたいな。 そりゃ、チーコの故郷に比べたら全然劣るだろうけど…見せてやりたいと思う。 チーコに何か特別な事をしてやれる訳じゃないけどさ…一緒に色んなもの見て聞いて…感じて…、そう言う事してやれたら良いと思う」
考え、考えしながら、そう語る嵐の口調に、皆がそれぞれ頷いた。
三日間、然程特別な事は、エリィとて出来るとは思えない。
それでも、その「特別じゃない」事がきっと、チーコには特別になるのだ。
気負わず、それでも、チーコの事を幸せな気持ちで一杯にしてあげたい。
エマも「旅…いいわねぇ…。 じゃあ、宿泊所に一つアテがあるから、連絡入れておくわ。 古い神社でね、藤やツツジの名所なの。 きっと喜んでもらえるわ。 あと、移動手段も、一つ良いアテがあるから任せておいて」と、予想通りの頼りになりっぷりを、既に発揮していた。
百合子も「旅行なんて…嬉しい…。 しかも、女の子を守るための旅なんて、なんて、ロマンチックなんだろう!」と感激したような声を上げる。
兎月原は、ある程度方向性が固まったと見たのか「冥月さんは、何か?」と問えば、彼女は首を振り「任せる。 何処へでもついていく」とだけ答え、また窓の外へと視線を向けた。
「じゃあ、今度は、可愛いお嬢さん方にも聞かないとね」と兎月原が言いながら立ち上がれば「あ、あたしが行くー! ちょうど、みんなの参考に良いかと思って、旅行雑誌を持ってきていたのです!」と言いつつ、じゃーんと雑誌を一冊掲げてみせる。
「こっから、チーコちゃんに指差しで、何処行きたいのか選んでもらおうよ」と言うエリィ。
実は、チーコ、竜子、それに、もう一人今回の依頼のの参加者として呼ばれている飛鷹いずみは、書斎に控えて貰っていた。
というのも、あまり性質の良くない話(チーコの寿命について等)をどうしても話題にせざる得ない関係上、当人のチーコや、まだ子供のいずみには、話の内容を聞かせたくないという配慮から、竜子をお守り役としてつけて、書斎の方へと追いやったのだ。
とはいえ、竜子の子供っぽい言動と、明らかに年齢不相応な大人びた言語能力を見せていたいずみとでは、いずみが二人のお守りにも見えて、不満げに何度も振り返りながら書斎に引っ込んでいったいずみの可愛い顔を思い出し、誤魔化すのが大変そうだなぁとエリィは他人事のように思う。
彼女の追及は激しそうだと考えていると、千剣破も立ち上がり、「あたしも一緒に行く」とエリィに声を掛けてきた。
「旅行か…やばい、凄い楽しみなんだけど!」
「確かに、確かに!」
お互いに言い合いながら、何だかワクワク感も最高潮に達して、書斎のドアを二人は勢いよく開けた。
「ねぇ!!」
そう、まず第一声を発し、ポカンとこちらを見てくる三人に口々に声を掛ける。

「旅行だって! 旅行、旅行!」
「三人はどこに行きたい?」

千剣破は美しい黒髪を揺らしながら、白磁の如き肌を少し紅潮させて、「旅行、超っ! 久しぶりっ! どうしよう! 気合入り過ぎてきた! 何処行く? 何食べる? 何する?」と騒ぎ、はしゃぐ。
エリィもツインテールの髪をピョコン、ピョコンと跳ねさせ、光の粒を振り巻きながら、いずみ達の前に抱えていた旅行雑誌を広げた。
二人でキャッキャッと笑いあいながら、「温泉も入りたいね」やら、「美味しい物も食べたいね」等と言い合う。
視線を向ければ、楽しげな二人を見ている事こそが楽しそうに、笑いながら此方を見るチーコの顔が目に入った。

小さな体。
チョコレート色の肌。
オレンジ色の髪。
太陽色の綺麗な大きな一つだけの目玉。

確かに人間とは違う。
種族の違う生き物だろう。
だけど一つも分からない。
僅かだって理解できない。
エリィは、どうして、このチーコを虐めて喜ぶような人間が居るのか、少しも分からずに、にこにこと笑っている顔を見て、酷く切なくなった。

あと、三日なんて…。


「終わったのですか?」

いずみの問い掛けに、「うん、ま、大体ね?」と笑いながらエリィが答えた。
賢しそうな大きな目。
茶色のサラサラの髪を揺らして、ついと此方を見る目に思わず怯む。
愛らしいのに、内に眠る知能の高さを伺わせるその厳しい眼差しに、エリィは訳もなく心を動揺の波に晒された。
だが、当然竜子はそんなエリィの胸の内には構わずに、「旅行?! まじで?! うおお、やったぁ! あたいも最近旅行とか、とんとご無沙汰だったしな! ていうか、お前らは大丈夫なのかよ。 親とかは?」と、エリィと千剣破を交互に指差してくる。
咄嗟に「あ! 大丈夫、あたしの親はあたしの事信用してくれてるから」とエリィが笑って答える。
何だか、ここにいる時は、自分が普通の女の子であるかのように振舞いたくて、咄嗟に嘘を吐いてしまった。
千剣破は、エリィと違い、真実を述べているのだろう。
中々手強い両親なのか、「何が、何でも、許可貰うの! 絶対!」と気合の入った握り拳を見せる。
「うひぁぁぅ!」
千剣破を真似て、きゅっと拳を握ってみせるチーコの仕草が可愛くて、「応援してくれてるの? ありがとー!」と言いながら手を伸ばし、千剣破がその小さな体をぎゅうっと抱きしめた。

千剣破の、酷く天真爛漫で、幸福な家庭で育った事を如実に知らせる、素直で明るい立ち居振る舞いが少し羨ましかった。

「きゃぅ、きゃぅ!」とチーコの喜ぶ声を一頻り聞いた後、ひょいと、千剣破に抱きしめられたままのチーコに雑誌を見せ、「なぁ、なぁなあ、チーコは何処が良い?」と竜子が尋ねた。
千剣破が、両手を開けて解放すれば、チーコがトテトテと雑誌に近づき、顔がくっ付きそうな程近づけ眺めた後、今度はいずみを眺める。
ぺらぺらとページを捲った竜子が、ある箇所に目を止めて、「いずみとか、こういうトコ好きそうじゃねぇ?」と言った。
そこには、都内にある有名な科学館が掲載されていて、確かにいずみのような女の子は好きそうだと目を向ければ、「もう、何度も行って飽きました」とすげない返答を返していて、流石と思わず唸りそうになった。
「チーコには、汚れた環境は毒だとお伺いしています。 街から離れた自然の豊かな……南洋は無理でも海の綺麗なところが良いかと思います」と答える声に、千剣破が頷きつつ、手を叩きながら、「まだ少し早いけど暖かくなってきたし海は確かに良いかも!」と賛同の意を表してにっこりと笑いかけた。
「ね? チーコ。 海、好きでしょ?」と千剣破がチーコに問い掛ければ、チーコは笑って頷いて、「いゆぅみぃ、ふぃぁ?」と首を傾げている。
何となく、「いずみは?」と問い返されている気がすれば、いずみも同じ印象を受けたのか、「好きよ。 とっても」と微笑み返していた。
エリィは、「うん、うん、チーコちゃんも行きたいって言ってるし…」と頷いて、それから書斎の外に向かって「海は決定だよー! チーコちゃんも希望してるし、絶対に行くよー!」と応接間に集まっている面々に宣言する。

「うわぁい、海だよ! 海ー!」
そう嬉しげに言いながら振り返るエリィに対し、いずみはチーコへ向けていたものとは表情を一変させて冷たい目でじろっと睨み上げていた。

こ、こわひ。

小学生の眼差しとは思えぬ鋭さに、思わずエリィは震え上がる。
いずみが言外に非難しているのを感じ取り、「だってぇ…」とエリィは甘やかで、幼い顔立ちに困ったような顔を浮かべ、「えーと、凄く難しい話をしてたからね? つまんないと思うよ?」と誤魔化すつもりで言った。
千剣破も援護射撃とばかりに、「そうそう、聞いてても全然つまんないし、ね? ここでチーコちゃんや、竜子ちゃんとお喋りしてるほうが楽しいよ」と明らかに子供を誤魔化そうとする口調で告げる。
だが、きっとその口調が気に入らないのだろう。
いずみは益々表情を険しくすると、「私も、一興信所スタッフとして今回の案件に参加させて頂く所存ですから、全ての事情や、これからの対応をお伺いさせて頂きたいのです」と、丁寧な口調で斬り込んできた。

わぁ、この子ほんとに小学生?

大きな目をパチパチさせて、それから、今度は手をパチパチと打ち合わせるとエリィは、「すごおい! いずみちゃん、難しい言葉知ってるのねぇ」と呑気な声で褒めてしまう。
「な?! すげぇだろ! いずみは、天才なんだぜ?」とまるで我が事のように嬉しがる竜子に、いずみは呆れたような視線を向け、その後随分と大人びた溜息を吐いた。
「エリィさん、それに、千剣破さんも、私との間に然程の年齢差はないように見えるのですが?」
いずみの問いに、「えー? そんな事ないよ? あたし、17だもん」と答えて、「いずみよりは大人よ?」とエリィは胸を張った。
千剣破はエリィの答えに、「うわ! 偶然」と目を見開くと、「同い年、同い年!」とエリィの肩を叩く。
「マジで? 何か嬉しいんだけど!」
「あたしも!」
ちょっとした偶然に、透き通るような透明感のある白い肌をした千剣破と、純白のミルクめいた白い肌のエリィの頬が同時に軽い興奮にピンク色に染まる。
「えぃぃ? んひぅ!」
そんなはしゃぐエリィの袖を引いて、雑誌を覗いていたチーコが、あるページ字の写真を指差した。
「チーコちゃんはそこに行きたいの? どれどれどれ…」
そう言いながらエリィが旅行雑誌を覗きこみ、優しく目を細める。
「ここは…、潮岬…本州最南端の海ね…」
小さく呟くエリィを横目に、いずみが耐えかねたようにスタスタと勝手に書斎を出て行った。

慌てて、「あ、いずみちゃん? いずみちゃん!」と呼びかけるも、そんな千剣破の声も無視して、いずみは応接間の、ソファーにちょこんと腰掛ける。
「さ、話の続きをどうぞ?」
そう促すいずみに、黒須が困った顔になって、「いずみ? なんだ、退屈しちゃったのか?」と問うていた。




「ありゃりゃ」
千剣破が頬を指で掻く。
エリィも困り顔になりつつも、まぁ、随分我慢させたようだし、いいだろうと判断した。
彼女は、何だか、大人が考えている以上に、ちゃんと物事を正確に理解し、対処できるような気がする。
「中々、手強いね。 でも、あれだけ賢いんだったら、チーコちゃんのお友達として呼ばれただけじゃなく、きっと、チーコちゃんの心の支えになるよ」
エリィの言葉に千剣破は頷いて、振り返る。
エリィもつられて視線を向ければ、竜子の膝の上によじよじと上ったチーコがエマに貰ったらしい、ハート型の棒付きキャンディを咥えて、機嫌よさげに雑誌を覗き込んでいた。
チーコが咥えているのは、キャンディショップ、メリィのキャンディでパッケージの可愛さや、味の良さで、最近、女子小中学生を中心に、ちょっとしたブームになっていた。
エリィも、少々メリィに通うには年嵩になってはいるが、是非一度味わってみたいと思っているお菓子である。
(いーなー…)と羨みつつも、流石にチーコに「頂戴?」なんて言える訳もなく、「うう、また、今度行ってみよ」と心の中で呟いた。

竜子が、「ほら、ここも綺麗でいいな」等と雑誌を指差しつつチーコに語りかけているのを聞いて、エリィは竜子の向かいに座る。
チーコは、一つのページを食い入るように眺めていて「ここに行きたいの?」とエリィが問えば、何度も、何度も首を強く打ち振った。
「何処だ?」
竜子の問い掛けに「潮岬。 山口県にある、本州最南の海よ」とエリィが答えた。
「中々距離があるし、日帰りじゃ済みそうにないけど、大丈夫なんだよな?」
竜子の質問に、千剣破と揃って首を縦に振る。
「オッケ。 んじゃ、ここ行こう」と竜子が、栞代わりにポケットから、その外見に反した可愛い柄の櫛を取り出して挟み込んだ。
「いゆぅみぃ? いゆぅみぃ?」
チーコが不安げに問い掛けている。
「いずみちゃんも、きっと一緒に来てくれる…と思うんだけど…」
エリィが眉を下げれば、千剣破も「どんだけ大人びてても、まだ10歳だもんねぇ。 お父さん、お母さん許可してくれれば良いんだけど」と不安になる。
もう、完全にお友達になってるらしいチーコは、「いゆぅみぃ…ひぁうふぅぁっ!」と、彼女の同行を望んでいるようで、エリィも、一緒に旅に来て欲しいなぁと心から望んだ。
「しかし、あんたら、年若い癖して、中々物騒なとこ出入りしてんだね」と言われ、思わず辺りを見回して、ああ、物騒な場所とはここの事かと思い至った。
「あ、えーと、まぁ、社会勉強を兼ねて?」と千剣破が言えば、エリィも「そうそう、変わったバイトの方が刺激的だし」と頷きながら軽く答える。
「その、あたし、本職情報屋だから、こういう場所のバイトで顔を広げたいのも大きいの」というエリィに「へぇ」と竜子は感心して見せると「わたしも、家がちょっと、古い家で、稼業を継ぐ関係もあって、修行がてら?って感じ」と千剣破は言う。
「稼業?」
「うん。 実家神社なの。 で、あたしはそこの巫女ってわけ」
千剣破の説明に、「「ほえー」」と口を開く竜子と、エリィ。
チーコも遅れて「ほえ」と言い、それから「みお、みお?」と言いつつ、ペタペタと千剣破の腕を触ってくる。
「あ、あたいも、なんかご利益あるかなー?」
「あたしも、触る!」
二人でそう言いながら、千剣破に手を伸ばせば、彼女はぎょっとした顔を見せ、「いやいや、ご本尊じゃあるまいし、っていうか、触ってご利益とか、ご本尊でも滅多にないし…」と言いつつも、触られるに任せてくれた。
くすぐったさに身を竦めながら「竜子さんは、何処でこの興信所の事知ったの?」と千剣破が問い掛ける。
「翼さんや、エマさんと顔見知りだったみたいだし…」
「あ、あと、いずみちゃんとも、仲良しだよね?」
エリィと千剣破が問いを重ねれば、竜子は「ううん…」と一度唸り「や、隠す事じゃねぇんだけど、色々長くなっちまって面倒なんだよなぁ…」と頭を掻く。
「えっと、簡単に言えば、前に一回この事務所の…あたいは、特に零に世話になって、そいで、その後、千年王宮…あー、あたいの勤め先…? うん、まぁ、勤め先兼現住所にも、興信所に出入りしている連中に遊びに来て貰って、んで、色々助けて貰ったりとか、まぁ、そういう付き合いだ」

零とは、確か先ほど応接間にも一緒にいた、如何にも清楚な少女のことだろう。
確か武彦の妹だとか言っていた。

竜子の要領を得ない説明に益々好奇心を掻き立てられれば、「千年王宮って?」と千剣破が更に突っ込む。
「あー、うー…」と益々困った顔をして、それから「わぁった、また、遊びに来い! 説明難しいんだ。 一編見てもらえば分る!」と竜子は手を振って言った。
「わぁ! じゃあ、ぜひぜひ〜」
エリィは気楽な声を上げつつも結構本気で遊びに行きたい!とか考えてしまう。
千剣破も頷いて「約束ね!」と告げるのを聞いて、エリィは咄嗟に「チーコちゃんも、いつか一緒に行こうね!」と言いかける。
だが、その寸前で、エリィの喉は言葉を殺した。

ああ、そうか、チーコちゃんには、いつか…はない。

チーコは、竜子の胸の辺りに顔を埋めて、名残惜しげにキャンディを舐め終えていた。
「あう…」
残念そうに呟くチーコに、千剣破が水色の小さなキャンディを渡す。
「はい、チーコちゃん」
千剣破がくれたキャンディに、「ひやぅ!」と歓声をあげながら、口の中に放り込み、もごもごと口の中で美味しそうに転がし始めた。

「さて、そろそろ、みんなと合流する?」

そう言いながらエリィが立ち上がる。
竜子も、チーコの手を引いてソファーを立ち、千剣破が応接間に向かう扉を開けた。

応接間では、酷く切なげな、困ったような顔をしたいずみが立ち尽くしていた。

「いゆみぃ?」

心配げにチーコがいずみの名前を呼ぶ。
「いゆみぃ、あぉうぃ?」
そして、チーコがパタパタと手招いた。
チーコの声を聞いた瞬間、いずみの表情が一変した。
険しさの一片もない、優しい微笑み。

ああ、凄いな、いずみちゃんと、エリィは素直に感嘆する。
何一つの不安も、チーコに与えたくないのだ。
自分の役割を明確に把握し、自分に徹底させている。

「なぁに? チーコ」

穏やかな声でチーコに問い掛けつつ、パタパタとチーコの傍に走り寄ってくる。
エリィが開いた雑誌を見せ、写真に写るは、鮮やかな青い海と、崖の上に立つ白い灯台。
「あのな、チーコ、この、潮岬行きたいそうなんだよ。 あたいも、千剣破も、エリィも賛成なんだけど、山口県にあって、ちょっとばかり遠いんだ。 日帰り旅行じゃ済まないし、多分ニ泊三日位の日程になる。 今って、いずみ、GW中だっけ? チーコが、お前と行きたいって聞かないんだけどさぁ…、良かったら、いずみも付き合ってくれるか?」
竜子に問われて、間髪入れずに「もちろん」といずみが頷けば、チーコが嬉しげに「ひゃぁ!」と声をあげ、背後に並ぶエリィ達を交互に見上げてきた。
あんまり嬉しそうなものだから、思わず微笑み返す。
「良かったね、チーコちゃん」
エリィの台詞にチーコが頷いた。
「んじゃ、いずみも、お父さんと、お母さんに許可取らないとな?」
嵐の言葉にいずみが「はい」と素直に頷いた。
「他のメンツも、三日間は大丈夫なんだよな?」
そう彼が問い掛ければ、それぞれみんな頷いた。
「うん、あたしは大丈夫! んで、チーコちゃんの希望により、山口県の潮岬は、絶対、絶対行くの決定ね?」
エリィの書斎の扉の前に立ったままの呼びかけに、翼は頷きながら「じゃ、一旦解散かな? みんなそれぞれ用意があるだろうし…」と全員を見回す。

皆、異論はないのだろう。
ただ、何だか、みんな、少しだけ雰囲気がおかしい。
その違和感の正体は何?と聞かれると、エリィは端的に「不穏さだ」と答えるだろう。

妙に不穏で落ち着かない気配。

これはなんだ?

ふと視線を感じれば、冥月が此方を見ている。
眼差しで察した。

追っ手がもう、来ている。

どうやって此処が知れたのか?
いや、それを考えるより、チーコや戦闘に不慣れな者を此処から出してやるのが先決。
きっと、周囲はもう囲まれていると見るのが良いだろう。

さて、どうする?と悩めども、冥月が余りに余裕の佇まいなので、エリィは目配せを返しておいた。
何にしろ、彼女の指示に従うのが得策。
彼女が伝えたい事は理解したと言う事だけ伝え、エリィは流れに身を任せる事にする。


竜子も、チーコも何も疑問に思わない様子で「おやつ買う暇あるかな? チョコ買ってやる、あと、あと、ポテトチップスと…酢昆布も欲しいよな…」とか、「ひっぅあふぅうう!」と嬉しげに言い合っている。
「えーと」と翼が人数を数え、「11人か…結構な人数だな…」と呟いた。
「あれ? 零は?」
そう竜子が問い掛ければ、「今回は、兄さんの手伝いに専念して、情報収集の面から皆さんのお役に立とうと思うので、お留守番です」とサラリと答える。
それから、零はチーコの傍へとしゃがみこみ、「楽しい旅をね?」と微笑みかけた。
気丈な笑みは、悲しみの雫を一粒たりとも滲ませはせず、まるで、本当にただ、朗らかに旅立ちを見送る者の笑みそのものだった。

強い。

エリィは心中で唸る。
自分ならばどうだろう?
死出の旅。
見送れるか? あのように笑って。
分っていながら、それを微塵も感じさせない、零の笑顔。
彼女の気丈な笑みの為にも、チーコの幸福の為にも、エリィは、全力を持ってこの仕事に取り組む事を決意した。



「じゃあ、今から一時間後。 駅前のロータリーで集合な?」
腕を組み、今まで黙って事務所内でのやりとりを聞いていた武彦が総括するようにそう声を上げる。
「三日間分の旅行の用意だからな? でも、あんま荷物は多くすんなよ」
武彦の言葉に頷いて「移動手段は電車ですか?」といずみが問えば「いや、まぁ、それは見てのお楽しみだよ」と武彦は含みを持った台詞を言った。
そういえば、エマが用意してくれるんだっけ?と視線を送れば、彼女も何だか意味ありげな笑みを浮かべていてなんて喰えない興信所なんだろうと少し呆れる。
「いずみは、ご両親にちゃんと説明すんだぞ? 連絡先は…」
「あ、私の携帯番号教えておくわ」とエマは挙手し、「もし、必要だったら、お家に説明のためにお伺いしてもいいけど?」と心配そうに顔を覗きこんだ。
その気の回りように、思わず感心してしまう。
こうでなきゃ、興信所の事務員は務まらないのかと、妙に納得させられた。
「あ…大丈夫です。 そんなお手数かけられません」と丁寧に断りを入れるいずみに、百合子が目をパチリと開いていずみの顔を凝視する。
確かに、いずみは、ちょっとデキすぎだ。
言葉遣いとか、見習おうかしら?と考えて、二秒で「無理!」と答えが出る。
「じゃあ…エマ…よろしくな」
そう言われ、「任せて」とエマが頷けば、武彦は眩しいものを見るような目でチーコを見て「気をつけてな?」と優しく言った。
「あぅぃ!」
チーコが手を挙げ、大きな声で返事をする。
エリィは、そうか、武彦も、これがチーコと最期の別れなのかと気付き、何だか切なくなった。

ここで、武彦と零はチーコの為に出来るだけの事をしてくれる。
彼らにしか出来ない事を。

武彦には既に、PCアドレスを知らせてあった。
旅にはモバイルPCを持参し、出来るだけ密に情報をやりとりしてく約束をしている。

欲しい情報は、今回はルート情報が最優先だろう。
どの道が一番安全に行けるか。
綿密な相談の上で旅を続けたい。


「では、チーコ、いずみ、エマ、それに、竜子と…百合子も、途中まで兎月原に送ってもらえ」

冥月がそう告げた。
兎月原が微笑みながら立ち上がる。

名前を呼ばれてない。
事務所への襲撃に対応せよという事か。
チーコ達の護衛は…兎月原。

身のこなしから見て、かなりの腕前と見受けられる男に視線を走らせ「どうぞ、チーコを守って下さい」と心の底からお願いする。

立ち上がった面々と一緒に、エリィと同じく名前を呼ばれていない千剣破が事務所から出て行こうとしているのを「ちょっと…残って…」と留めておいた。

ぞろぞろとチーコ達と見送る為に零が出て行くのと入れ替わるかのように、一人の青年が現れた。

「ご…め…なさ…ぃ…! お…そくなった…っ!」

途切れ途切れの声。
赤く、長い髪が揺れている。

まるで、炎のような。


五降臨…時雨?
エリィは思わず息を呑む。

(嘘? 本物??)

冥月にも驚いたが、これまた、とんでも級の殺し屋の登場に、流石にエリィはじっとりと背中に汗を掻く。

(たかだか、興信所の筈なのに…一国の軍隊相手に出来るレベルの人材なんで、揃えちゃってる訳?!)

最近は滅多と依頼は受けないそうで、その姿を目にしたものすら、然程いないと言う噂だけが一人歩きする程の凄腕の殺し屋が、なんでか、のほほんとした風情で、興信所の玄関に立ち尽くしている。

チーコの肩が少し揺れた。

見上げていると首が痛くなるような高い背をした赤い髪の男はひょいとチーコの前にしゃがみこみ「チー…コ…?」と首を傾げた。
チーコがこくんと頷く。
すると、全身の力が抜けるような、人懐っこい笑みを浮かべて、チーコの空いている手を握り締め、ぶんぶんと振る。
「は…じめま…して、ボク…は…、五降臨…時雨。 時雨って…呼んで…ね?」
首を傾げてそう言いそれから、今から出て行く所と言わんばかりの様子のチーコ達を見て眉を下げると、まるで置いて行かれる子犬のような目をしながら「何処…か、行く…の…?」と問うてきた。
「はい、ちょっと山口県まで」
冷静な声でそう告げる百合子に、益々困ったような顔をして、「山口…県…?」と時雨が呟けば、「百合子…唐突にそれじゃあ、時雨さん困るだろ? えっと、チーコの事で来て下さった、興信所のスタッフの方ですよね?」と兎月原が問い、時雨が慌てて頷く。
そんな入り口での遣り取りを見かね、「時雨! こっち来い。 全部説明してやるから」と武彦が声を掛けた。
コクンと頷いて、それから忘れてた!と言う風に、時雨がポケットをごそごそと探り出す。
「こ…れ…」
そう言いながら差し出した掌には、色違いの、髪留めのが二つ。
セットになっているのだろう。
キラキラと光る、ピンクのプラスチックのハートと、赤いハートがついた髪留めに「可愛い」といずみがが呟けば、にこっと時雨は笑ってまずは、チーコの髪に一つ着けた。
「は…ふぃぅぅ…!」
びっくりしたような顔をして、時雨を見上げたチーコの頬が見る見る真っ赤になっていく。
「着ける…と、もっと……かわいい…」
時雨がそう褒めれば、チーコは真っ赤な顔のまま、「あぅ…ぅ…あぅ…」と何も返事が出来ず、まるで、時雨の目から逃げるかのように、エマの後ろに身を隠した。
「あぅぅひぅ…」
「あら、照れてるの?」
エマの言葉に、エリィも「可愛い」と胸中で呟いて、中々気の利くプレゼントを用意してきたものだと、時雨に対して感心した。
その後、いずみの髪にも手を伸ばし、時雨がもう一つ、ピンク色の髪飾りをつける。
「…うん…可愛い…」
そう言う時雨に、きっと髪留めはチーコのものだと勝手に思っていたらしいいずみは目を見開きながら彼を見上げれば「おそろい…友達…だから」と言って、にこにこと嬉しそうに笑った。
いずみは、手を伸ばして髪留めを触り、それから「ありがとう…ございます…」とお礼を言う。
そういう姿はやはり年相応の女の子で、なんだかエリィは安心した。
チーコがエマの後ろからひょこんと顔を出して「ぅぁぅぁあ!」と嬉しそうに自分の髪飾りを触った後、いずみのを指差した。
「そうね、色違いのお揃いね」
いずみは頷いてそう答え、「ああ、凄く似合ってる」と兎月原も蕩けるような声で褒めていた。

「では、参りますか」

そう言いながら扉の外を指し示す兎月原に頷き返し、チーコ達が事務所を後にする。


「さて…」

何処か物騒な声で冥月は声をあげ、「では、片付けの時間だ」と宣言した。
エリィは、体の筋を伸ばし、戦闘準備を整える。
「片付け??」
「何をだ??」
キョトンとした声を、嵐と千剣破が同時に上げた。

「お前達、どんな能力を持っている?」

冥月に指差され、千剣破が咄嗟に「み、水だったら、自由に扱えます」とどもりつつも答えた。
嵐は肩をすくめ「何も? ひけらかすような能力はねぇよ。 まぁ、バイクの運転には自信があるが、あとは少々、運動神経が人より良い位だ」と答える。
「分った。 では、自分の身は、おのおの自分で守るように」
乱暴な言葉。
「「はい?」」
声を揃えて問い掛ける嵐と、千剣破を無視して、今度は時雨に顔を向ける。
「何匹片付けた?」
さすがと言うべきか。
時雨は、既に、ここに来る途中で始末をつけてきてくれたのか。
だったら、チーコ達は、敵に襲われずに済んでいるかもしれないと、エリィは少し安堵する。
「五人…あ、ちょ…、ちょっと待って?」と、言いながら指折り数え始め、「えーと…えーと…多分、7人…」と時雨が心細い声で言えば、「上出来だ」と冥月は満足げに頷いた。
「では、残り、13名。 こちらは、7名。 楽勝だろう? 早い者勝ちだ」
そうやけに愉しげすると、突如、冥月はしゃがみこみ、自分の影に手を「突っ込んだ」。

「んあ?!」

驚きの声が上がる最中、冥月の影から一人の男がその白い手に引っ掴まれて、現れる。
そのまま胸倉を掴み上げ、「組織を潰されたくなければ引けとボスに伝えろ。 弱小でも“黒冥月”の名は知っているだろう」脅し、冥月は窓から放り出した。
「な?! ななな?! なっ?!」
冥月と窓の外を交互に指差す嵐に顔を向け、独り言のように、「まぁ、こうやって脅したとて、このまますごすごと帰るわけにも、行かないだろうしなぁ…」と何処か呑気な声で、冥月が言う。
直後、興信所の扉が蹴り飛ばされ、窓ガラスも派手に割られて、複数の男が飛び込んできた。

此処は乱戦状態になる。
此処よりも…と、エリィはわざと背後に視線を送り、二人ばかり相手を連れて、先程まで竜子や千剣破と雑談していた書斎に飛び込む。
扉を開けたニ、三歩進んだ直後、エリィは即座に振り返り、一人の男が本能的にたたらを踏んでつんのめるのを見逃さず、当身の要領で体をぶつけ、すぐ後ろに迫っていたもう一人の相手を巻き込み倒れるのを確認した後、容赦せずみぞおちの部分を踵に体重を込めて踏みつけた。

「ぐぇっ!」

蛙の潰れたような声を上げ、覆面を被った黒尽くめ男は、仰向けのまま吹き上げるように吐瀉物を撒き散らす。
エリィは顔を顰めると、悶絶している男を蹴り飛ばし、その下敷きになっていた男も同様に、鳩尾を踏みしめてやった。
そのまま、二人、悶絶し、胃の中の内容物を全て嘔吐し終えた所で、意識を失うのをきっちり見届ける。
エリィは首を傾げ「もうちょっと綺麗に始末付けたかったんだけどね…ま、草間さんには悪いけど、後片付け頑張ってもらおうっと!」と明るく呟くと、他の面々の戦況を気にしつつ書斎を後にした。

応接間に戻れば、既にカタはついていた。
皆、ぶっ倒れたり、目を回しているのを、武彦と黒須が手分けして縛り上げていっている。

「お ま え は 、分ってたなら説明するか、俺も一足先に、こっから出しておいてくれ!」
そう怒鳴る嵐の声など何処吹く風で「中々筋が良い」等と褒めていた冥月が「全て片付いたな」と頷けば「事務所内は滅茶苦茶だがな」と恨めしげな目で冥月を武彦がじとっと眺めた。
「私のせいじゃあるまいし、そのような目で見るな」と獣を追っ払うかの如く、しっしっと手を振った冥月が、「さて、追手はまだまだ掛かると見て良い。 私の名前の神通力で、準備にそこそこ時間はかけてくるだろうが、追いつかれれば戦闘は避けられないだろう。 まぁ、健闘を祈る」と他人事のように言う。

もしかしなくても、分った。

この人、あたし達の実力を測ったんだと、エリィは確信する。
多分自分ひとりでも片付けられたものを、ここに集まっている面子の能力や、実力を把握する為に、この狭い事務所内で、13名の刺客を叩かせたのだろう。

冥月は、軍師の如くの眼差しを皆に走らせ、にいっと嬉しげに笑う。
恐ろしい事に、ここにいる面々は皆、彼女が設けているハードルをクリアしてしまったらしい。

「武彦、後始末は大丈夫だな? 警察にでも任せれば良い。 この先の襲撃が心配なようなら、また別の人員でも呼んでおけ。 お前の知り合いならば、充分対応出来るだろうが…まぁ、もう、ここには来るまい」

そう予言めいた事を言う冥月に続いて、翼が肩を竦めて、「じゃ、僕達も一旦解散する事にしよう」と言った後、ついと冥月を振り返り、「我々はご信用いただけましたか?」と何処か皮肉げな調子で問うた。
冥月は、涼しげな顔で「想像以上だ。 翼も、凄まじいな、期待している」と笑って告げた。


「旅行〜♪ 旅行〜♪」
自然と鼻歌が出た。
友達も出来そうだし、海や水族館にも行ける。
色々危険は感じられるけど、チーコは可愛いし、やっぱりたくさんの人と一緒に旅に出るというシチュエーションにわくわくした。
モバイル型のパソコンを真っ先にパソコン用バッグに入れて玄関に置き、後は適当に鞄に着替えを詰め込む。
洗面用具等を入れた後、ハタと時計を見上げ「う…うう、ギリギリ?」と言いつつも、エリィはキッチンに飛び込んだ。

「今の時間帯から出発だったら、夕食用に、多分、お弁当あったら便利よね」

一人そう呟いて、冷蔵庫の中を慌てて覗く。
一人暮らしも長いので、作り置きのおかずやら、手作りソース等は常備冷凍庫に備えておいてある。
「だって…チーコに…美味しいもの食べて欲しいし…」
あと三日。
食事の総回数は残りたったの7回。
その7回とも、これまで食べた事もない位、美味しい物を食べて欲しい。

そうエリィは強く思うと、圧力鍋や、電子レンジなども駆使して、短時間で仕上げたとは思えないような量の凝ったお弁当おかずを、タッパーにしこたま詰め込み始めた。


12人分、しかも、男性や食べ盛りの子供の分もと思うと、どうしても大量に作らざる得ず、ずっしり重い紙袋を提げてエリィは自宅を後にした。
自分の荷物は、お気に入りの淡いピンクのトートバッグに入れて肩に掛けてある。
少々よろめきつつ、「うう、もうちょっと筋肉鍛えないとな…」なんてぼやき、冥月の女性らしいラインを失わず、それでいて強靭でしなやかな筋肉がついてそうだった冥月の体つきを羨ましく思う。
「あたし、どこもかしこも柔らかいんだよね〜」とふわふわと綿菓子のような手触りの自分の体つきに対して溜息を吐いた。
「あ、ちょっと時間やばめ?」と焦り気味に歩くエリィの目に、前を歩く竜子といずみ、それに百合子の姿が目に入った。

(よし、驚かせちゃおうっと!)と無邪気に企み、エリィは気配を消して近寄る。
だが、エリィ自身は無邪気な所業のつもりでも、れっきとした暗殺術の達人が「気配を消す」つうんだから、まぁ、前を歩く三人は間近に寄っても気付かない。
百合子が両手で拳を握り締め竜子に、「だから、今回はとっても心配!」と妙に力のこもった声で訴えている。
「心配?」
いずみが不思議そうに問い返せば、「だって、役立たずなんだもの、私」と口を尖らせた。
(百合子さんが役立たず? なんで??)
抱いた疑問は、そのまま口にも出てしまった。

「なんで?」

突然のエリィの呼びかけに、「うひゃあ!」と声を上げて三人が飛び上がる。
慌てて後ろを振り返る皆に、「やほ!」と片手を挙げてエリィは「驚かせちゃった? ごめん、ごめん!」と軽く詫びた。
竜子が自分の胸に手を当てて、「心臓が止まるかと思ったよ!」とエリィに文句をいうと、他二名も思いっきり同意してくる。
「んん、だって、そんなに皆がびっくりするなんて、思わなかったんだもん」
エリィは(本気で気配を消しすぎた!)と反省しつつ、そう言い訳し、「それよりも、百合子さんだよ。 なんで自分が役立たずなんて思うの?」と話題を転換する事にした。
エリィの質問に百合子は困った顔を見せる。
「え…? いや…だって…」と口の中でもごもごと何かを呟いた後、「な、何にも特技…とかないし…」と小さな声で言ってきた。
「私、勘違いしてたの。 なんか、皆さん凄い人達だったのね。 もっと、事務しか出来ない私でも、お手伝いできる事があると思ってたのになぁ。 でも…、あの、そういう仕事は必要とされてないみたいだし、事務所にいてお話聞いてても、なんだか私、場違いみたいで…」
ぶつぶつとした声でそこまで言って、弱ったように肩を竦める。
「だから、まるで、ダメ元で受けた有名大学に、そんな実力もないのにまぐれで入ってしまったみたいな、居心地の悪さだったわ。 普通の顔をしてあそこに座ってた自分が信じられないの。 三人とも、きっと何か、凄い能力とか持ってるんでしょ?」
百合子の問い掛けに、竜子とエリィ、それにいずみは顔を見合わせる。
「凄い…能力…うーん?」
エリィは首を傾げながら自分の手をグーパーと開け閉めしてみる。
「…ないよ」
エリィは、ふっとあどけない顔に静かな微笑を浮かべて、そう答えた。
「なーんにも凄くないっ。 あたしは普通の女の子だよ」
そう頷きながら言うエリィ。
まるで、祈るような、そうでありたいと願っているような口調になってしまう自分を少し嫌悪する。
「あ、でも、ちょーっとだけ運動神経が良いかな? ちょーっとだけよ」と笑って言って、(まぁ、嘘は吐いてないわよね? だって、影から敵をにょいーん!とか、水を自由に操るとかは出来ないもん)と心の内で呟いた。
「私も…そんなに凄くないです」
いずみも目を伏せ、冷静な声で答える。
「そりゃ、普通の人よりは変わった能力を持っているかもしれないけれど…でも、子ども扱いですし、役立たずは、私だって変わらない」
そう自嘲の口調で言ういずみに、「「「は?」」」と三人揃って口を開ける。
「いずみちゃんは凄いよ!」
「そうだよ、お前は凄いって」
「もう、逆に子供なのが凄いわよ」
三人に、一緒に声を合わせて言われ、びっくり眼で、「ありがとう」といずみは礼を言う。
「それっこそ、じゃあ、あたいは何?って話さね」
竜子が、「ひひっ」と笑って言った。
「知らねぇやな。 役に立つか、立たないかなんて。 そんな事考えてたら、なぁんも出来なくなっちまうよ」
竜子が手を伸ばし、百合子の頬を引っ張った。
「それに、百合子の笑顔は可愛い。 チーコだって、百合子が笑ってくれりゃあ嬉しいよ。 そいで充分じゃないのさ。 だろ?」
竜子の言葉にふにゃとした柔らかな肌触りの笑みを百合子は浮かべ、「そうね。 うん、やっぱり、出来るだけの事をやるだけよね」と言いながら「うん、うん」と何度も頷く。
「そうよ、やれるだけをやりましょう」
いずみも自分に言い聞かせるようにして呟いて、それから、ふいと視線を横に向ける。

「あ、あそこです」

そう指差したのは、真っ白な壁に、ピンクの三角屋根、ピンクの両開きの木の扉も可愛い小さなお店だった。
「あそこが、メリィ。 最近出来たんです。 キャンディショップ。 エマさんが下さったハートのキャンディはあすこで売ってたんですよ」
そう教えれば、「ふええ」とエリィは目を輝かせ「いーなぁ…」と言って、指を唇に持っていく。
「あれ、美味しそうと思ってたんだけど…三個しかなかったし…」
そうエリィが言えば、百合子も頷いて、「パッケージも可愛かったし…」と呟いて、それから同時に竜子を見上げた。
竜子は自分の腕に巻かれた、キャラクターの描かれてる、何だか可愛らしい腕時計を見て「はい! 集合場所までの時間を考えると余裕はあと五分だぞー!」と言い、「と、いう訳で各自、迅速に選ぶように!」と宣言し「突入!」とピッとメリィを指差す。
その瞬間、「おー!」と声をあげ、店に走り出す、エリィと百合子は二人並んで店に飛び込んだ。

その中は、女の子の夢をしこったま詰め込んだような作りになっていた。

「「「いらっしゃあいま〜〜しぃ〜〜!」」」

ふにゃふにゃとした音程で、店の人間と思わしき三人の若い女性が挨拶してくる。

店員の制服も、物凄く可愛い作りになっていて、太ももまでの短い裾が広がったフレアのピンクのスカートは、裾から白いレースが何段にもなって覗いていた。
上もレースがたっぷりあしらわれたドレスシャツを着ていて、大きな襟と、胸元をピンクと白のチェックの大きなリボンが愛らしい。
ガーターでつった白いストッキング地のハイソックスにはピンクのハートの模様が入っている。
三人ともみんなピンクのリボンで髪を結んだり、飾ったり。
まるで、フィギアのような非現実的な格好をして、ひらひらと裾を閃かせながら店員達が動き回っている。
店の中は、小学生や、中学生くらいの女の子達でごった返し、百合子とエリィはそんな面々に違和感なく馴染みながら、思い思いのお菓子を選び出した。
大きなゆっくり回るメリーゴーランドを模したようなケースに所狭しと並べられた色とりどりのお菓子たち。
「はい、あと三分」
そんな竜子の言葉に慌てて、お菓子を目に付く順に抱え込む。
竜子も手当たり次第に籠に放り込みながら、ふいにいずみの耳元にしゃがみ込み「五百円までだぞー?」
と囁いた。
いずみが慌てた様子で竜子を見上げれば「あたいの小学校の修学旅行の時の、お菓子の設定金額だ。 お姉様が奢ってやるよ。 だから、チーコの分も頼むな? あと、寝る前に喰うは禁止だぞー。 虫歯になっからな」と竜子が笑う。
「他の二人も、一緒の約束だかんな? 守ってくれりゃあ、あたいが買ってあげるよ」
そう竜子に言われ、咄嗟に百合子と顔を見合わせてブンブンと首を振る。
そして百合子が「だったら、私が一番年上なので、私が払うわ」と百合子は宣言した。
「嘘だ。 百合子みてぇな、ちんまいの、あたいより年上のわけないだろ?」
そう竜子が言えば「三十路前よ?」と百合子が物凄く冷静な声で言った。
思わず硬直する三人。
「え…うそ?」
余りに言動・見た目と年齢にギャップがある為に、目を剥きながら、エリィが指差せば「ぷくっ」と頬を膨らませ、「大人なの!! もう、29なの! 女性人の中ではきっと最年長なの! はい、だから、甘えて下さい!」と言いながら、三人のハートのケースを回収していく。
「あ、こ、これも!」
いずみがそう言いながら、最後に詰め込んだのは、書斎でチーコも舐めていたハートの棒付きキャンディで、チーコの分を含め、ちゃんと二人分二本握り締めている。
エリィもちゃっかり自分の籠に中に入れてあるそのキャンディを、にこっと笑って百合子は受け取ると、さっきのお返しとばかりに竜子のほっぺを摘み、レジにケースを並べた。
「あ、さっき、竜子さんが言ったお約束。 夜のお菓子は禁止!は私も賛成だから、守ってね?」と首を傾げられ、三人揃って大人しく頷く。
そのままほよほよとした口調で「なんか、『してやられた!』って感じだぜ」と竜子が言えば、百合子がハートのケースをそれぞれに渡し、自分は、ピンクと赤のハートが沢山散った、灰色の英字新聞柄の大きな紙袋を抱えて戻ってきた。
「あ、反則だ」
そうエリィが指差し、「いけないんだぁ! 500円越えてるでしょ?」と先生に言いつける子供のような声で言いつつ、百合子を覗き込めば、百合子はほよんと笑って「大人だから良いの」と答え、そのままスタスタと店の外へ歩き出した。
「キャラメルハニー味のポップコーンと、ピンクシュガーのハート型ラスク。 それに、ミントとシナモンのキャンディ。 ほんとに可愛くて目移りしちゃったわ。 五分間でお買い物なんて、絶対無理よ!皆さんにもお分けしようと思って買い込んだけど、男の人は苦手かしら?」
百合子が首を傾げれば「他の奴は知らねぇが、黒須は、そこそこイけんぜ?」と竜子が言う。
「ほんと? 良かった! じゃあ、お裾分けしようっと」
そうピョンと兎みたいに一度飛んでから言う仕草は、やはり少女にしか見えず、いずみと顔を見合わせて「ほんとに大人?」って首を傾げあった。

集合場所には、やっぱりちょっとだけ遅刻した。

「おせぇ!」
嵐に怒鳴られ、エリィ達は身を竦める。
彼は、バイクの性能の良さで知られている会社の看板を背負っている愛車を傍らに置いていた。
威圧感を感じる程の「デカイ」ボディは、デザイン性の高さにも定評があり、男が思う「カッコいいバイク」そのものの姿をしていたが、まぁ、そういうバイクの格好良さがエリィに通用するはずがない。
(こんな大きなもの、よく乗り回せるわね)
その程度の感想しか抱かないエリィであったが、竜子が目を輝かせ「かっけぇぇ!」と叫んだのには驚いた。
「やっぱ、CBシリーズは、長く続いてるだけあって、風格っつうの? 正統派の格好良さがあるよなぁ…! シビれるわ〜!」
竜子の言葉に嵐は嬉しげに笑って「何? お前、バイク好きなの?」と問い掛ける。
すると竜子はブンブンと頷いて、「これってさぁ、フルパワー化とか厄介だったか?」と問えば、「いや? 俺も自分でやったし、比較的簡単なほうだと思うぜ?」等と意味の分からない事を言い合う。
「一応、背後の警戒の為、俺はこれで追っかけるから」と言った後の、「後ろに乗りたいって奴いたら、乗っけてやるよ」いう嵐の台詞に、正直ちょっとぐらついた。

いや、バイクは怖い。
あの後ろに乗って、喜べる程の興味もない。

だが、嵐は、端正な顔立ちをしているし、仕草や言動が男っぽい所も魅力的だ。
バイクに跨る姿も、そりゃあ、そりゃあ様になるのだろうと想像できる。
そんな男の背中にしがみついて、ハイウェイを走り抜けていく…というのは、まぁ、それは、それで乙女の夢だ。
リリカル☆ドリームだ。

(これが…白馬…だったら、きっと迷わず乗りたいって言えたんだけど…)
そう肩を落とすエリィだが、冷静になってみれば、ハイウェイを白馬に乗って駆け抜けていく嵐は奇異だ。
咄嗟に脳内に思い浮かべて、白馬というイメージ故か、何故か白い歯を見せながら笑い、片手を挙げて走り去る嵐の図を想像し、目の前の無愛想な表情とのギャップにげんなりする。
大体、そんな嵐に、どんだけ男前だろうが近寄りたくないったら、近寄りたくない。

だが、竜子にとってはいずみにとっての魅力的とは全く別の意味で、嬉しい申し出だったのだろう。
「乗りたい!!」
そう元気よく手を挙げる竜子に「いいぜ? 乗れ、乗れ! エンジン音がさぁ、また、すうげぇ痺れるんだって!」と、嵐も自慢げに言っており、趣味の世界って、初対面間もない人間同士の息をこんなに合わせる事が出来るのかと、いずみは別視点から感心の念を抱いた。

「あぅ! いぅゅぅみぃ! えいぃ! ゆぃこぅ! るー!」

チーコの声が聞こえる。

振り返れば手を振るチーコが見え、いずみはまず、チーコに手を振り返し、それからハタと、彼女が乗っている乗り物の姿を見回した。

「これ…ですか?」

いずみが問えば「おう」と嵐が答える。
「俺も最初見て、驚いたっつうの」
そうしみじみ言う嵐の声を掻き消すように「か…かわいい!」とエリィが悲鳴のような声をあげ、見てのお楽しみと言われたわけがいずみは漸く分った。
「羊…バス?」
白い車体には羊の顔がペイントされ、横原の部分に「××幼稚園」としっかり幼稚園名が入っている。
エマがバスから降りつつ、にっこりと笑った。
「そう! 可愛いでしょ? 武彦さんが昔請け負った依頼でね、解決したのはいいけど、依頼者が報酬払えなくって、それで、代わりにってこれを置いて逃げちゃったのよ。 幼稚園の園長さんだったんだけど、経営が立ち行かなくて、潰れちゃったのね。 まぁ、正直、どうしたもんかなぁ?って思ってたんだけど、こんな場面で役に立つとは思わなかったわ」
そう言うエマに、ガクッと肩を落とした百合子が「ろ、ロマンが…ロードムービーのロマンが…」と虚ろに意味の分からない事を訴えてる。
「ろーどむーびぃ?」
「ろまん?」
エマと、エリィが同じ方向に首を傾げればぐっと握りこぶしで、百合子は必死に訴え始めた。
「だって、見ず知らずの若者同士が、一つの目的のために集い、車に乗って旅をするんですよ?! これぞ、ロードムービーの王道じゃないですか! な の に 幼稚園バス! しかも、羊! こんなんじゃ、こんなんじゃ…途中立ち寄った古ぼけたガソリンスタンドで、奇妙な風体の中年男を拾ったら、それが悪魔の殺人鬼一家の長兄で、そのまま、殺人鬼一家の家にお邪魔する事になって、凄惨な血の惨劇に巻き込まれることが出来ないわ!」
「やめて、いやに具体的! なんで、こっからホラー展開?」
そうエマが否定すれば、いずみも「そんな、悪魔のイケニエ的なものになる気はありませんっ!」と、カルトホラーの金字塔な映画を思い出して身震いする。
こんなに可愛いバスで旅行できるなんて!と喜んで、羊バスをペタペタ触って喜んでいたエリィも首を振って「普通がいいの! チェーンソーとか持って追い掛け回されたくないの! 普通の旅行がいいの!」と訴える。
「むぅ」と不満げな百合子が肩に掛けていた荷物を、嵐がひょいと取り上げていった。
「バス、運び込むぞ? そっちのデカイ荷物も貸しな」
そう言いながら手を出す嵐に「あ、そんな! すいません! あ、でも、これ、重くないし大丈夫です」とメリィの紙袋を抱えなおし、慌てて手を振る百合子に頷いた後、今度はいずみに手を差し出す。
「おら、貸しな?」
そう言いながらいずみから荷物を有無を言わせず手に取り、車内に運び込んでくれた嵐が、「じゃ、百合子さんの思う、正しいロードムービーの車って何?」と興味深げに尋ねた。
百合子はその問い掛けに、コクン、コクンと頷いて、「そりゃ、ロードムービーっていったら、古ぼけたワゴンか、四輪のごついオープンカーとか…それか、トラックとか…ですよ。 そういうのが、アメリカの西側の乾いた大地をぶっ飛ばすんですよ。 なのに、えー、よ、幼稚園バスって…」そう、項垂れる百合子に「だって、10人以上を一気に運ぶには、バスが一番なんですもの」と答えつつ、エマが「はい、乗って、乗って!」と促してくる。
チラリと視線を向ければ、嵐は自分のバイクに跨り、竜子にメットを渡していて、竜子は本気だったのだと、ちょっとびっくりした。

バスに乗り込みながら、「あの、大型の免許って…どなたが…」といずみが言いかけたところで、運転席には黒須が座っているのを見て、「ひっ」と音が出るほど息を呑んだ。
「ひっさしぶりだから、なんか、感覚掴むのに時間掛かりそうだな」なんて怖い事を言っているのを聞き、エリィの目が忙しなく瞬きを繰り返す。
「え?」
エリィが黒須を指差せば「一応、元都バスの運転手」とさらりと黒須が答えた。
「え、えええええ?!」
いずみが叫べば「ほら、同じ反応」とエマが言い、翼も「やっぱりな。 思ったとおりだ」と座席に座ったまま嬉しげな声をあげた。
「なんで、そんなに意外ぞ?」
そう呻くように言う黒須をまじまじまじと眺め、一歩下がって眺めた後、再び今度は近寄って凝視したいずみが、ポンと手を打ち、百合子を手招きする。
「あの、悪魔的なイケニエ展開は望めませんが、とりあえず、『妖怪蛇バス』です」
そう黒須を掌で指し示しながら言ってみれば、まず、百合子に「そんなのロードムービーじゃない! テキサスに、そんな妖怪いると思えない!」と喚かれ、「NO妖怪! 俺、超人間! ていうか、人生のうちで、『俺、超人間!』なんていう、台詞を言う機会に遭遇する自分が情けないわ!」と否定され、最後に時雨が「あ…、ああ…あ…、く…、黒須…さん…、あの…、な、生卵…あとで、あげる……から、食べな…いで…下さい…」と両手を握り合わせて真剣な顔をして懇願してくるのを、「うがぁ! なんで、興信所に集まる連中は! 俺の話が通じないんだー!」と喚き散らす。
その姿を見て、「ああ…なんだか、大変な人だなぁ…」と心中で呟きつつエリィは、道をガイドする為に、運転席の通路を挟んで隣の席に腰を下ろした。



さて、座席に着いて、まず、取り出したるは、モバイルPC。
ついで、エリィの趣味もあって、直接ペンでメモが書き込める紙出力の地図も取り出す。

「…まずは…神戸市の水族館までのルートが必要…と」

そう呟きつつPCに表示された地図は、普通の地図ではなく、地図上いたるところに白い小さな光が点滅している特殊な地図。
これは、以前エリィが別の仕事で作成した、「2008年決定版! 最新・夜逃げ専用マップ」だった。
気まずい所に借金をした人や、どうにもこうにも益体のない理由で、暴力団やら物騒な組織等から逃亡を図る人々が、うっかり追い込まれたり、逃亡途中で捕獲されたりしないように、日本中の裏家業組織の事務所やら溜まり場箇所等を分かり易く地図上に点滅させて表示している。
勿論隠し事務所やエリィの情報収集網の範囲外の危険箇所までは駆け出しの身ゆえ網羅は出来てないのだが、夜逃げ程度の用途にはこれで充分機能する、大変お役立ちな地図だった。
この地図に現在入っている限りの「K麒麟」の情報を流し込む。
依頼の話を聞いた時点で既にデータ化はしてあったので、程なく地図上に反映することが出来た。
一気に地図上の点滅箇所や、状況が変化する。

「ふむふむふむ…」

ピンク色の蛍光ペンを片手に地図を睨むエリィ。
「K麒麟」の息が掛かっていると思われる組織の事務所や、根城にしているような宿泊施設、貿易港の箇所が赤く点滅し始める。
ここに、今度は今乗っているバスの情報を入力し、バスが通れないような狭い道を選択しないように予め除き、赤い点滅箇所の多い箇所を「絶対に避けたい超危険エリア」、マフィアなどは横の繋がりが何処まで広がっているか見当がつかないので「K麒麟」と関りがないように見えていても警戒措置が必要と考え白い点滅が多い箇所を「出来るだけ避けたい危険エリア」と指定する。
最後に、現在の道路交通状況データを流し込み、目的地を入力してエンターを押せば、地図上に赤い一本の道筋が現われた。

「これが、ベストルート…と」

そう呟きながら、手元の紙地図にピンク色のペンでPCに記されている道筋をしっかりなぞる。

「んで…第二候補は?」

と言いつつベストルートが何らかの理由で避けねばならなくなった場合の別ルートを表示させ、今度は水色のペンで紙地図上に書き込んだ。

何度か、同じような事を繰り返し、とりあえずのルートマップを完成させる。

「我ながら、なんて便利なソフトちゃんなのかしら!」と、自作の「2008年決定版! 最新・夜逃げ専用マップ」を自分自身で誉めてみる。
仕事に使った後、信頼できる者のみにURLを配布する会員専用サイトにてダウンロード販売をしているのだが、これがもう、売れて売れて、エリィにとっては良い小遣い稼ぎになった。
勿論、道路やら事務所の所在など、刻一刻と変化していく為、年度毎にマイナーチェンジはさせていて、現在エリィのPCにダウンロードしてあるソフトは、つい先日データ更新したばかりの、ピッカピカの最新版なのである。

(タイミングも良かったし、これは幸先いいぞ〜)とエリィは心の中でガッツポーズを決めた。

これから、武彦からリアルタイムで入ってくる情報や、エリィ自身がモバイル端末や様々な手段で手に入れた情報を反映させる毎にベストルートも変わってくるだろうが、何にしろ現在最善と思われる道筋を確認して黒須の隣に立つ。

「黒須さん、バスでの運転中あたしが一番安全なルートを指示してくから、その通りに運転してくれる?」
そう頼めば、黒須は即座に頷いて「あんた情報屋だったよな。 頼りにしてる。 頼むよ」と素直な口調で告げてきた。


全員が無事揃い、バスは思ったよりも平和に出発を果たせた。

「あ、次のインターで高速に乗っちゃって?」
エリィの指示に頷いて、黒須はハンドルを切る。
本来ならば、高速は一本道なので追っ手に発見されてしまうと逃げ場がなくなってしまう関係上、あまり使いたくないのだが、何しろ三日と言う期限が切られている以上、有益に使える時間を増やす為にも、短縮できるところは短縮してしまいたい。
(ここらへんなら大丈夫でしょ)と、点滅箇所の少ない安全地帯である為に、そう判断したエリィは武彦からの道路情報データや現在の「K麒麟」東京本部事務所の様子などを記載したメールに目を通し、「黒須さん、暫らくは高速乗っかってられそう」と告げた。
チーコが奪われた事は、「K麒麟」にとってはそこそこ衝撃的な事らしかった。
勿論チーコは住民票も何もない、人間という種族にとっては「存在してない存在」だ。
失踪届なども出されてよう筈もなく、当然チーコの事を捜索している存在もないのだが、彼女のような種族を拉致してきて見世物にしていたという事実から芋づる式に「キメラ」の事まで世間に知れてしまったら、それはそれは大変な事態になるだろう。
何としてもチーコを取り戻し、こちらの口を封じたいはずだ。


だが、武彦から様子を窺うと、どうもマフィアお得意の人海戦術にて強引に追って来ようとしている気配もないらしい。
向こうも慎重にならざる得ないという事か。
こちらに、「黒・冥月」と「五降臨・時雨」がついているという情報は勿論伝わっているだろうし、それ相応の体勢を整えて追ってくるか、もしくは、このまま此方の動向を見守り、チーコの事を世間に公表するつもりがない事を察して見逃す心積りもあるかもしれない。

向こうだって、あの二人を相手にしてまで、チーコを取り戻したいかといえば、チーコ自身の価値をそれほど高く見てはいないだろう。
あくまで、畏れているのは情報の流出。
下手をすると組織ごと壊滅させられる可能性のある二人に、ちょっかいを掛けたいとは毛頭思っちゃいない筈。
何事もなく済ませられるのなら、きっと触らぬ神に祟りなしの精神で見逃してくれると思うのだが…。

「だけど、逆にいえば、涎を垂らしてスカウトにくる可能性もあり…と…」

何てったって、興信所の仕事なんかを、あの二人がしている状況がおかしいのだ。
実質フリーといっていい、超ド級の人材が二人も突然センサーに引っ掛かってきて、見逃しておける組織も少ないと推測できる。
社会の世相を反映して、そこそこ好景気が到来している裏業界。
特に組織拡大の真っ最中な組織なら、余計に優秀な人材は幾ら払っても欲しいに違いない。

「チーコちゃん目当てじゃなく…あの二人目当てで追いまわされる可能性も考慮しないとねぇ…」

そう言いながら、武彦が送ってくれた「東京本部」より「チーコ追跡」の為に放たれた追っ手の状況データを地図に流し込み、エリィは「あれ?」と首を傾げた。

何だか随分とおかしな光の分布図が出来上がって言る。
青い点滅で記された追っ手の分布状況は、都内を右往左往しているように見えた。

(公園…や、郊外…、あれ? なんか川原沿いとかに追っ手が向かってる…?)

何で、こんな見当外れの場所ばかり、追手は探っているのだろう?と疑問に思い、エリィは、ニ、三度瞬きをしてそれから、何か知ってやしないかと黒須に問い掛けた。

「黒須さん、ねぇねぇ、これ見て?」

料金支払い所手前。
そこそこ車が並んでおり、列の最後尾につけ停車した所を見計らって地図を黒須に見せる。

「この青い点々が現在の『K麒麟』の追っ手状況なんだけど…おかしくない? みんな都内の、それもおかしなところをウロウロしてるの。 こっちとしては助かるんだけど…なんか理由知ってる?」

そんなエリィの問いかけに、黒須は一瞬考え込み、それから「にやっ」と不気味に笑った。

「そりゃ、あの姐ちゃんの仕業だ」

そう言いながら後ろを指し示す黒須の指先には、チーコを抱え幸せそうな顔をして外を眺めているエマがいた。
「エマさんの?」
そうエリィが首を傾げれば「おう、実はチーコにゃ、体中に発信機が仕込まれてて、例え逃げ出しても、すぐ、あいつの後を追えるようになっていた。 んで、あの姐ちゃんが、その発信機を、全部チーコの体から取り去って、浅草寺の鳩にそれぞれ括りつけて来たんだよ」と黒須が説明してくれる。

ああ、だから、都内に、こんなに散らばってるんだ!と納得するエリィ。

なるほど、K麒麟の連中も、これは往生させられているだろう。
都内中に散らばった発信機の反応を、全部追っかけているのか。
(お気の毒〜)と心ない事を思いつつ、「やるなぁ…エマさん!」と痛快な気持ちでエリィが言えば、「滅茶苦茶性格悪いよな」と皮肉気な口調で黒須は言う。
そんな言い方して、あとでとっちめられても知らないんだから!と思いつつ、この先は暫く一本道となるので、一旦座席に戻るエリィ。
すると、先程まで話題にしていたエマに千剣破が、驚くべき問いかけを行っていた。

「チーコの言葉、もしかして分るんですか?」

エリィは思わず目を見開き、慌てて皆を振り返る。
(嘘? チーコちゃんの言葉を、エマさん分るっていうの??)
エマの顔を凝視すれば、彼女は、少し誇らしげな笑顔を浮かべて口を開いた。
「んふふ、自慢じゃないけど、このエマさんは言葉に関しちゃエキスパートよ?」
そう言いながら胸を張り、それから傍らにある鞄から大学ノートを一冊引っ張り出す。
ペラペラと開らいているので、背凭れに手を付き背筋を伸ばして覗き込めば、そこにはびっしりとメモ書きがしてあった。
急いで書いたのであろう走り書きの状態であるというのに、それがとても読みやすい字である事に驚く。

「チーコちゃんが住んでた島の位置をね、黒須さんに聞いてきてもらったの。 チーコちゃんが喋ってる言語が何処から伝わってきたものなのか知りたくてね? というのも、彼女の舌っていうのは、私達とちょっと作りが違って、長さがとても短いの。 喉の構造も違うようで、そもそも人間とは発声方法が違うと考えた方が良いみたい」
エマの言葉に聞き入れば、エマはノートをチーコの頭の上でペラペラ捲りながら喋り続ける。
「だから、彼女の言葉の音は、母音と、ハ行の音、それに時折カ行が入り混じる位で、とても限られてるわ。 これが歌となると、また発声手段が変わってくるみたいなんだけど、そこまでの仕組みはちょっと分からない。 何にしろ、チーコちゃんの種族は会話における音が限られるから、当然語彙も限られてくるのよ」
「つまり、コミニケーション手段が『言語』である事が向かない種族という訳ですね」
翼の言葉に、「その通り」とエマが頷けば「確かに、それなら別のコミニケーション手段が発達して然るべきなのかも知れない」といずみも呟く。
「チーコの様子を鑑みるに、チーコはとても知的レベルが高いと思うんです。 幼い所が目立ちますが、私のクラスメイトにもチーコのような無邪気な振る舞いが目立つ子も大勢おりますし、現に彼女は人間社会に連れてこられて一年程の時間の間に、こちらの仕草を真似できるほど理解し、言葉も殆ど耳で聞く限りはその意味を分かっているように見受けられます」
いずみの明晰な推測にエリィは、彼女の知能の異常な高さを流石に悟り、恐るべき子供だなぁと、今日一日で何度目かの感心の念をまた抱かされる。
チーコは自分の話だからか、眼を大きく見開きながら、エマといずみに交互に視線を走らせた。
「まぁ、…いずみちゃんから見れば、大概の子は幼く見えるだろうけど…でも、確かにチーコは賢いよ。 その、エマさんの言うように、発声に関しては種族や、器官の構造の違いから、僕達と同じような発声が出来ないから、チーコはチーコの種族の言葉で喋っているんだろうけど、もし発声器官が同じなら、きっと僕らの言葉をマスターしていたような気がする」
翼が唸るような声でそう言った。


「耳が、いいのだろうな…」


目を閉じ、眠っているかのように静かに座席に身を預けていた冥月がぼそりと呟く。
「歌を得意とするものは、大抵聴力に優れ、耳で聴くものへの理解力が高い。 チーコは、一年間人間社会で過ごし、耳にする言葉の、音程や、高低、台詞の強弱等から、瞬時にこちらの言っている事の大まかな意図を察し、反応をしているのだろう」
冥月の言葉に、通路を挟んで隣の席に座っていた翼が感嘆したような声で「賢いな、チーコ」と言えば、チーコが誇らしげな声で「ひぅぁう!」と声をあげる。
そんなチーコの頭を愛しげな手つきで撫で、「よいしょ」と掛け声かけつつ抱え直すと、「そうね、だからね、これだけ知的レベルが高く、喉の構造から見て『言語による会話コミニケーション』に向かない種族が、それでも何故『会話』によって、コミニケーションを交わしていたか…そこに私は着目したの」とエマはよく通る、ハスキーで耳障りの良い声で言った。
「ああ…確かに、それほど知的レベルが高ければ、自分達独自のコミニケーション方法を発達させていたとしてもおかしくないな」
兎月原が、鼓膜を直接舐るような、官能的な声で「それで、エマさんは、何故、チーコちゃんの種族が、それでも『会話』によるコミニケーションを発達させたんだと考えてるんです?」と問い掛ける。
茶色の髪に日の光が透けていて、これぞ「女にモテる男の見本」のような、美形ぶりに思わず見蕩れてしまう。
エマも、同じように蕩けた顔で兎月原に見惚れていたようだったが「ハッ」と気を取り直し、「あ…いやいや、あのね、つまり、言葉が『伝来』したんじゃないかな?と思ったのよ。 人間からね」と答える。
「…ああ! そうか。 それなら、納得です」
大きく頷くいずみ。
「チーコの住んでいる島に、難破した船の乗組員等が流れ着いた可能性はゼロとはいえない。 どういう海流が、島の周囲を囲んでいるのかは見当がつきませんが、人間という会話によるコミニケーションを主にしている種族が、チーコ達の祖先が住む島に流れ着き、『言葉』を伝え、それが、チーコの代にまで伝わったと考えるのが自然ですね」
「そう、その通り。 言葉が伝わったのがどの位の時期なのかは見当がつかないけど、推測だと、かなり昔の事だと思うの。 ほら、今の時代だったら、言葉を教えたりとか、そういう事の前に、世紀の大発見としてチーコちゃんの種族を世間に公表したりとか…」とそこまで言って、エマの表情が徐々に曇り、それから口を一度噤む。

つまり、今の時代に人間に発見されてしまったから、チーコ達の種族の、悲惨な現状があるのだ。
昔ならば、難破し、無人島に辿り着けば、そのまま通信手段もなく、救助も求められず、その島で生を終えるしかなかったのだろう。
きっと、昔、チーコの島に辿り着いた人間は、彼女たちの種族と仲良く暮したに違いない。
人を疑わず、すぐに誰にでも懐き、笑顔を向けるチーコを見ていてエリィは確信する。

「…そうすると、チーコちゃんの言葉にはルーツがあるという事ですよね? 地球上にある、何処かの国の言語が、彼女たちの言葉の成り立ちとなっているって事ですか?」

百合子が、空気を変えようとしてというよりも、全く場の空気読まないままに、素直に口を開いたといったような声音でそう自分の意見を述べる。
だが、彼女のほのほのとした声に、明らかにエマはほっとしたような表情を見せ、「そう! その通り! 私、こう見えても言語オタクでね? 黒須さんに、彼女の島の場所をベイブさんに聞いてきて貰ったのよ」と話の続きを始めた。
「で、先程まで述べていたような考察からチーコちゃんの祖先が人間とファーストコンタクトした時期を割り出してみると、航海技術が長期航海に耐えられるほど発達し、それでいて情報技術や、通信手段が今ほど栄えてない時代…。 そう考えてみると…大体15世紀中ごろから、17世紀中頃じゃないかな? と私は考えたわけ」と滔々と説明を続けるエマに、「大航海時代!」といずみが手を打った。
「だ…い…こうか…い?」
時雨がきょとんと首を傾げる。
「なんか…凄く…辛い…時代だった…とか?」
そう無邪気に問う時雨を見て、百合子が「ああ、それは、『大後悔でしょ』と突っ込んであげたいのだけども、突っ込んだら大火傷!って感じだから、何も言いたくないっていう、私の気持ち分って貰えます?!」と兎月原に訴えている。
「え…百合…子…火傷? あ…、大丈夫…? 大丈夫…?」
眉を下げ、心配そうに自分に手を伸ばしてくる時雨に、「いや、もう、あの、え、ええ、ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」と、最終的に謝っている百合子を見て、何だか気の毒な気持ちに陥りつつも、助けようもなく、エリィは同情の気持ちを込めて百合子を眺めた。


「大航海時代って言うのは、スペイン、ポルトガル等のヨーロッパ人が領土拡大や、当時は金と同じ重さの金と等価で取引されていた香辛料を求め、インドとの直接貿易の為に、アジア大陸、インド大陸、アメリカ大陸へと航海による海外進出を盛んに行っていた時代です」
いずみの説明に「…あ…うん」ととりあえず頷いた時雨は、眼をパチパチさせながらマジマジといずみの顔を凝視している。
翼が「本当に、君が小学生だっていうのが、信じられないよ。 見た目はそんなに可愛いのにね」という翼の台詞にエリィは賛同の意を表したかった。
「ああ、では、チーコの言語の元は…」
そう顎先に指を当てて、兎月原が「ヨーロッパ圏の言語」と言えば「そう、彼女の言葉のルーツは、ポルトガル語よ」とエマはにっこり笑ってノートを閉じた。
「言葉の元さえ分れば、言葉の響きや、選択されている音の強弱からも、チーコの言葉の意味が推察できる。 幸い、ポルトガル語なら習得済だし、彼女の言葉をこうやって書き留めて、翻訳しつつ、ちょと理解してこうとしてるの。 簡単な通訳くらいだったら出来ると思うわ」
そうエマが言うのを、出会ってから数時間でも、よくぞまぁ…と感嘆すれば、皆のその無言の驚きを理解したのか、「いや、まぁ、だから、えーと、言葉が好きなの。 趣味なの。 だからよ」とヒラヒラと手を振りながら、凄まじい事を何でもない事のように言って纏めた。

「エマさんって…ほんっと…尋常じゃないよね」
千剣破が心底の声で言えば、エマも心底の声で「いや、でも、私、ほら、みんなみたいに、『破壊光線!』とか『テレポーテーション!』とか出来ないから…」と否定する。
即座に、千剣破が「いや、幾らこのメンバーでも多分、誰も『破壊光線!』とか撃てないから。 『テレポーテーション』とかしないから」と、速攻否定し返した。
とはいえエリィとしては、先ほどの事務所内での攻防にて、『破壊光線』に近いことをやってのけられるメンバーが入り混じっているのを知っている為に、まぁ、何だかんだで「尋常」な人間の方が少ないよな、この車内と思い、改めて見回して「あ、いや、いないのか」と重ねて納得する。
ただ、自分自身の事は、当然省いて考えている訳で、他の面子からも「尋常じゃない」と自分が認識されている事など当然知らぬ気に、「まぁ、自分の事は自分では分からないもんだしな」なんて、まさしく己に当てはまるような事を、腕を組んで他人事のように冥月は考えていた。

「う、うう、なんか、凄い…だって、興信所の事務員さん…なんですよね?」

百合子が両手を組み合わせながら問う。
「ん? そうよ? もう、雑用ばっか! ていうか、ボランティアだし! 給料殆ど払ってくれないし!」
そう訴えるエマを、またパチパチと瞬きして眺め百合子は、「そんな…エマさんがボランティアだったら、私お金払って勤めさせて貰わないといけない」と呟いて、「あ、それはいいな」と兎月原が笑った。
「ま、エマさんは、ほら、ね?」
にやっと、笑う千剣破を、「何よう」とエマが睨んだ。
「ボランティアっていうかぁ…武彦さんをお手伝いしたいだけだもんね?」と首を傾げて言えば、ピッと片眉を上げて「からかわないのっ」と千剣破を叱り、ああ、武彦とエマの二人は恋人同士なんだと、そのやり取りで悟れた。


「う、うう、どうしよう、どうしよう」
突如、そわそわ、おどおどと周りを見回し、落ち着きをなくす百合子の様子に、車酔いでもしたのだろうか?と心配になり、「どしたの?」と、エリィは声を掛ける。
だが、気分が悪かったわけではないらしく、百合子は「えーと…」と言いつつ、自分の網棚の上にあげらている鞄をごそごそ探り出した。
「…事務員らしく…こんなものを作ってきたのですが……」
そう言いながら取り出したるは、十数ページ程の小冊子の束。

「あの…しおりです」
そう言いながら渡された冊子には、可愛い兎のイラストやら、今回参加するメンバーのミニイラストが描かれた表紙が付けられていて、「かわいい…」といずみが呟き、千剣破も、「きゃぁ!」と嬉しげな声をあげて、ページを捲りだした。
「ね、ね? この子があたしだよね?」
黒髪の女の子がニコと笑っているのを指差せば、百合子が恥ずかしげに頷いた。
「うあ、上手! ほら、時雨さんなんかもそっくり!」
指差す千剣破の指先を眺め「うわ…ボクだ!」と時雨も楽しげな声を上げる。

「旅行と言えば…しおりです!」
妙な力強さを持って断言する百合子から冊子を受け取った面々は、思い思いの表情で冊子を捲り始める。
早く自分も中身を見たくて、「頂戴、頂戴!」と両手を伸ばし、そう手を伸ばすエリィに、廊下側に座っていた冥月が黒須の分を含め二冊手渡してくれた。
何処となく百合子にも似た、可愛いキャラクター達が描かれた察しに、思わず笑みを零す。
「ほんと、凄い可愛いー!」と言いつつ、運転席に座り黒須に冊子を渡し、それからどれが黒須さんだろ…と捜してみた…。

(あ……)


何と言うのだろう。
如何にもファンシーなキャラ化されて描かれている面々の中に「え? ホラー漫画に出てくる妖怪ですか?」と問い掛けたくなるような、やけにリアルでおどろおどろしいタッチで描かれた男が一人いる。
エリィはそっと目を伏せ「…運転中は危ないから……ここに入れておくね?」と言いつつ、座席の後ろにある網の中にしおりを入れた。

もう、やけに黒須にそっくりだった事がまず哀しい。

(百合子さんって…百合子さんって…正直すぎる!!!)と、ふわふわと可愛らしい少女にしか見えない百合子を振り返り、何だか空恐ろしい気持ちになるエリィ。

チーコが、にこぉと笑って、自分の似顔絵の部分を指先で撫で「ゆぃこぉ! はぅぃぅ!」と百合子に満面の笑みを見せていた。
「注意事項とか…あと、スケジュールなんか書いてみました! 緊急の連絡先として、エマさんの携帯No書かせて貰ったんだけど…」
百合子の言葉にエマは大きく頷いた。
「オッケー! はぐれたり、迷子になったら、連絡頂戴ね?」
そう声を掛けるエマに、苦笑を浮かべる者もいれば、大真面目に頷くものもあり、「しおり」の登場に俄然盛り上がる旅行ムードに、何だかエリィは微笑ましくて和んでしまう。
ぺらぺらと読み込んでいけば、旅行の予定表なんかもあって、よくもまぁ、あの短時間にと百合子に対して感嘆の念を抱いた。
「わ、でも、これ、ほんとに便利。 メモ用紙にも出来るようになってるし…、凄い…あはは、嬉しい! これから行く場所の、見所とかも書いてある。 よく一時間で作れたわねぇ…」
感心したように言うエマは「凄いわよ、百合子さん」と心からの声で言い、エリィも、あれだけ、自分に何が出来るのか弱気な様子を見せておいて、これだけの事を懸命にやってきていた彼女に感心する。
百合子は嬉しげに「よかった、喜んでもらえて」と胸を撫で下ろし、にこっと幸せそうに笑った。

夕時。

高速のパーキングエリアで、夕食がてら休憩を挟む。
チーコの外見の特徴を考慮し、バスの中で夕食をとる事にした。
買出し班が、色々な物資を調達しに行っている間に、車内を食事が取りやすいよう座席を回したりして、調整を始める。
エリィは、紙袋からタッパーを取り出しつつ、(うう、他は完璧だけど…アスパラのベーコン巻きは出かけに急いで作ったから自信ないかも…)と顔を曇らせた。
味見はしたのだが、自分の舌だと自分好みの味かどうかで判定してしまい、客観的に美味しいかどうかどうかが分からない。
ふと視線を向ければ、黒須が運転席でエリィが書き込みをした地図を眺めている。
(おお、毒見係はっけーん!)と心の中で呟いて、ふと、傍にいた百合子にタッパーを翳して見せた。
「えへへ、見て見て?」
百合子に示せば、彼女は、中に、色とりどりのおかずがぎっしり詰められている様を見て、「わぁ!」と歓声をあげてくれる。
「凄い、凄い、凄い!」
「ありがと!」
褒められ、嬉しい気持ちで礼を言うエリィに「え? これ、出かけに作ってきたの?!」と百合子がびっくりしたように問うてきた。
「うん! といっても、出来合いのものばっかりだけどね」と謙遜し、それから、運転席で「うううん」と伸びをしていた黒須に一つ爪楊枝で差した、ベーコンのアスパラ巻きを差し出した。
「お一つ、どーぞ! ずっと運転ありがとう」
エリィは満面の笑みを浮かべて、黒須に言う。
そんなエリィの顔と、差し出された料理を交互に一度眺め、黒須は「おお、さんきゅ」と礼を述べて、彼女の手からつまようじを受け取った。
パクンと口の中に放り込み、むぐむぐと咀嚼する様をマジマジと眺める。
(美味しいかしら? どうかしら?)
そう思いつつ注視すれば、黒須は笑って「おお、旨い、旨い」と褒めてくれた。

やったぁ!と心の中で万歳し、やっぱり手作り料理を褒めて貰うって、すっごく嬉しいなぁと心から思う。

そして「ふいー」とエリィは安堵の息を吐き「あー、よかった。 それ、ちょっと味付け雑にやっちゃったもんで、自信なかったんだよね」と言いつつ、小さく舌を出した。
「おお、すげー、ナチュラルに、お前、俺を毒見役にしたな?」
そう黒須が半眼になって問えば「美味しかったから良いでしょ?」とエリィは無邪気に笑う。
バスの中に戻ってきた竜子が、「うわ、旨そう」と言いながら手を伸ばし、卵焼きを指先でつまんで口の中に放り込むと「おいひぃ!」と嬉しげに叫んだ。
チーコも走り寄ってきて、「あう! あう!」と手を伸ばすので「あとでみんなで食べれるのに」と言いつつも、エリィはから揚げを一つ、チーコに食べさせてあげる。
はぐはぐはぐと懸命に口を動かす姿が可愛くて、エリィが目を細めれば、百合子が「かわい…」と言いつつ、動いている頬を突つく。
するとチーコは、「ふぁぅ!」と声を上げて、百合子の指先をきゅっと握った。



「じゃ、じゃーん!」
エリィは、一足先に摘んだ人間の評判が良かったので、自信たっぷりの心境で、タッパーを机の上に並べだした。
「時間ないからさぁ、冷蔵庫の中のもの詰めて、あと、短時間で作れるものだけ作ってきたんだけど…」と言いつつ、バスの中央座席にエマが持ってきた、小さな折り畳み机の上に広げる。
中々しっかりした作りの机で、見るからに重そうだ。
女性一人の身でよく持って来れたものだと感心し、意外なエマの腕力にエリィは瞠目した。
チェックの可愛いランチョンマットを敷いた上に並べられた料理の数々は、とても短時間で揃えたとは思えない彩の良さと、明らかに凝った料理の数々で、 予め作り置いておいた料理の数々がこうやって脚光を浴びた事に対して、思わず口角が上がるような喜びを感じる。
「えへへ、そこのポテトサラダとかは、結構自信作」と言いつつ、薦めれば、箸を伸ばした面々が皆、ほくほくとして、しっとりとした舌触りに、幸せそうに崩れた笑顔を見せてくれのが何より嬉しかった。
「山菜おこわのおにぎりもあるからねー」と、エリィが言って差し出すのを受け取って、「へぇ、旨いもんだな」と黒須が褒えてくれるので、素直に「えへへへ」と笑い声を零し、それから、「こうやって大人数で食べるのって楽しいね」と、心から言う。
チーコが、片方の手におにぎり、片方の手にから揚げをさしたフォークを握り締めながら、「はぐはぐ」と懸命に口を動かす姿を見て、「はい、喉に詰まらせないようにね?」とエマが注意している。
魔法瓶に入れた、お味噌汁を啜りつつ、絶対に、ご飯は誰かと食べる方が美味しいと強く感じた。
一人で食べると、美味しいと言い合えないし、どんだけ上手に出来ても寂しい。
こんなにたくさんの人たちがエリィの料理を食べて笑顔になっている光景は、大きな声で「ばんざーい!」と叫びたくなるほど暖かで、幸せな光景で、エリィは自分の作った料理を食みながら、お腹より先に胸が一杯になるのを感じた。
空豆と明日葉の掻き揚げを食みつつ、「時間がたってもサクサクしてるのね。 また、コツ教えてよ」とエマはエリィに強請り、時雨がチーコに負けない位口いっぱいに食べ物を詰め込み、片手に握り締めた五平餅にもパクついている。
百合子は、ひたすら「美味しい、美味しい!」と感想を述べるしか出来なくて、同じように「美味しい」と言い続ける千剣破と顔を見合わせ、微笑み合いながら箸を進めて、それぞれ「このロールキャベツとか、もう、お店出せるよ」とか「この白和えもサイコー」と感想を述べ合っていた。
翼は、王子様のような外見の通り、気品のある声でエリィを「あなたみたいな方の恋人になる男性は世界一の幸せ者だ」と絶品の微笑みで褒めてくれて、兎月原も澄ました顔で、「ああ、願わくば、俺もその、世界一幸せになれる男候補に名乗り挙げたいものだ」なんて甘い声で告げてくる。

あたしのお婿さん候補、現在のナンバー1はあなたです!! と兎月原に真顔で告げかけて、いやいや、翼さんも捨て難いなどと無駄な煩悶をしてしまった。

だが、何故女性に生まれてしまったのだろう?と思う程の、ハンサムっぷりを発揮する翼と、甘いマスクに似合った甘い声で賞賛する兎月原の前に、冷静さを保てる女性がいようか? いや、いまい。(反語)
「ううう、やばい、照れすぎちゃう!」とエリィは両手で赤らむ頬を押さえて喚いた。
竜子と嵐も、バイクでの走行と言うのは体力を使うのか旺盛な食欲を見せ、ブロッコリーの塩茹でに、レモンの手作りドレッシングをかけたものを皿に山盛りに取りながら、「うめぇ…! 野菜って正直そんな好きじゃなかったんだけど、こうやって喰うとうめぇんだな」と感嘆の声を上げている。

竹の子のオーブン焼きや、菜の花とあさりを卵でとじたもの等春野菜をふんだんに使った料理の数々に舌鼓を打ち、サービスエリア名物のチープながらも、暖かで癖になるようなテイクアウトの品々も綺麗に平らげ、これまた最後に暖かな緑茶を啜って、大層賑やかな夕食を終える。

「んじゃ、嵐君、交代」

そう言いながら立ち上がったのはエマで「バイク疲れたでしょ? 鍵、貸して」と言いながら有無を言わさず差し出す手に、嵐は目を見開いたまま鍵を渡し、それから「はえ?!」と声を上げた。
「私、大型二輪の免許持ってるから、交代要員に数えてくれて良いわよ? お昼からずっと走り詰めでしょう。 休憩なさいな。 あ、運転技術は、結構折り紙付きだから大丈夫」と言うエマに、嵐は「いや、そこら辺は疑っちゃいないが…外結構風冷たくなってくる時間帯だし、女が体冷やしたらまずいだろ」と眉を寄せて言う。
エマは首を傾げ、ひらりと軽やかな大人の笑みを見せると、「あら。 優しいのね。 ありがと。 でも、ちゃんと、防寒用にダウンジャケットと革パン持ってきてるし、季節的にもそんなに冷え込まないから、心配しないで」と言い、肩にボストンバッグを提げて颯爽とバスを降りていく。
そんな格好の良い背中を皆で見送って、「あの人…なんでも出来るんだな」と呻く嵐に、「意外な特技発見よね」とエリィも頷いて、「要するに、暇人って事だろ?」と黒須が口を歪めて憎憎しげに言えば、竜子がその後頭部を思いっきり叩いた。
「姐御の悪口言うな! 命が惜しくないのか!」
竜子の物の言いに、時雨が「やっぱり…、どこかの…組の人だったんだ」と大きく頷く。
確かに肝の据わり方が尋常じゃないし、先程の背中には独特の迫力が感じられた。
百合子と、兎月原は「只者ではないと思っていたが…」「やっぱり、その筋の関係者だったのね。 なんで、じゃあ、興信所の事務員を?」と言い合っている。
エリィも、なんて良く出来た事務員なんだろうなんて思っていたが、「まさか何処かの姐さんだとは!」と目を見開く。
しかし、エマほど見事な人間ならば、とっくにもっと評判になっていたりして、エリィの耳にも届いている筈だろうに…と疑問に思う。
後ほど誤解は解けるのだが、その時エリィは、真剣にエマは何処かの筋の姐さんなのだと思い込んでいた。


二日目。


昨日は、夕食後、夜通し車を走らせる黒須と共にナビの為に徹夜をしたエリィ。
一番最短ルートを走れば、それこそとっくに目的地にも着いているのだろうが、刻一刻と変わる状況や、事態に合わせて、道を細かく変え、地元の人間も知らぬような道等も走って移動をしているせいか、かなり時間は掛かっていた。
K麒麟の連中も、流石にエマが行った陽動作戦がバレたのか、都内から県外へと追っ手を散らばらせている。
という事は、当然地方の支部や、K麒麟の息が掛かっている組織も、チーコを捜し始めているという訳で、これまで以上の警戒が必要となっていた。
「…眠たかったら眠っていいぞ?」
黒須にはそう言われたのだが、当然、眠ってる場合ではない。
首を打ち振り「ごめん、次の信号左に曲がってくれる?」というエリィに、黒須は苦笑いを見せると「はい、了解」と言いつつ危なげない手付きでハンドルを切った。

朝日が差し出す時間帯、エリィのメールボックスに一通のメールが届く。
情報源の一つからのメールで、開けば美しい海の画像と共に、『条件どおりの海発見!』という文面と、海の所在地が記されていた。
「でかした!」と眠っている人々を起こさぬよう小声で呟く。
実は、海へ行きたいチーコの為に、チーコが顔を隠さずとも遊べる、穴場中の穴場の海が水族館の近くにないのか捜していたのだ。
住所も、水族館から然程遠くはなく、エマが連絡を付けてくれている今日の宿泊所にも程近い。
添付されている海の写真は、見ているだけで心が透き通るような美しさで、エリィはここならきっとチーコにも喜んでもらえると確信する。
振り返れば
キラキラと目を輝かせながら、万華鏡を覗いているいずみと、チーコの姿が目に映った。
エリィが情報収集に夢中になってる間に起き出したらしい。

「わぁ…」

そう、微かな、それでも、驚嘆しような声をあげるいずみの姿に、今万華鏡を覗いている彼女の目に、どのような世界が映っているのだろうと興味深く思う。

「綺麗だろう」

低い声。
顔を向ければ、腕を組んだまま、眼を閉じていた冥月が、二人に顔を向けずに腕を組み「人から貰ったものなのだがな、暇を潰すのに丁度良い」と告げていた。
冥月があげたのか…と少し意外に思う。
彼女は、皆からも、チーコからも距離を置いているように見えたから。
だが、万華鏡を無邪気に覗いているチーコを見る表情は存外に穏やかで、「今兵庫を通過中だ。 神戸市にある水族館へと向かっている。 あと少しで、次の休憩所に着く。 そこで、洗面と朝食を済ませよう」と告げた言葉の柔らかさに、彼女を優しいと言った黒須の言葉は、的外れではなかったとエリィは確信した。



「うわぁ!」
エリィは歓声をあげて、水槽に張り付いた。
その隣に翼も立ち、「なんて美しいんだろう」とうっとりとした声で言う。

青い水槽の中を、鮮やかな色した熱帯魚が優雅に泳いでいる。
美しい珊瑚が彩る水槽内は、エリィの目を楽しませ、チーコもいちいち歓声を上げていた。

神戸市にある水族館。
チーコは、熱帯魚を熱心に見つめていた。
きっと、自身が住んでいた島の近くの海で、たくさん見かけた事だろう。
一つだけの大きな目が、吸い込まれるように熱帯魚を追っている。

水族館には、チーコ、竜子、嵐、百合子、翼、そしていずみというメンツで来ていた。
残ったメンバーは、それぞれ、買い出しなり、所用があるらしく、「楽しんでらっしゃい」と送り出され、少々申し訳ないような気がしつつも、有り難く言葉に甘えた。


今チーコが着ているのは、いずみからの借り物のピンクのパーカーで、目深に被れば、チーコの最大の特徴でもある一つ目が隠せて、大変重宝していた。
連休中とあって、そこそこ混み合ってはいたが、嵐が興信所にて「水族館なら、館内、意外と薄暗いし、周りの人は水槽に気を取られてチーコの事もあんま気付かれないんじゃないか」と予想したように、暗い館内では、髪や目を隠せばチーコは人間の子供と変わりなかった。


「ねぇ、あそこ! ビー玉が砂利の代わりに沈めてあるよ?」
エリィが、キラキラ眩しいくらいに綺麗な水槽を眺め感激しながら指を差す。
「おお。 すげぇな! でも、なんかちょっと派手じゃね?」と笑った竜子は、丸いマンボウの水槽に「うわ! マンボウだ! マンボウだ! 気持ち悪−!」と嬉しげな声をあげて走り寄り、大きくて無表情なマンボウがグルグル泳ぐ様子を無邪気な顔して眺めていた。
「気持ち悪うて…」と、苦笑するエリィは、様々な魚群や巨大魚、鮫やエイ等が泳ぐ巨大水槽の前に立ち尽くす。

色々な種類の魚が一緒に泳ぐその水槽は、水族館の目玉の一つでもあるらしかった。
マンボウの水槽の前から離れた竜子が銀色の魚群を指差して、「うおー! あのサンマの群れ美味そうー!」とのたまった。
思わずへたりと力が抜けて全身を水槽に預けてしまう。

「竜子さぁぁぁん…」と恨みがましげに名を呼べば、「んあ?」と、とっても間抜けな返事が返ってくる。
「美味しそうとかゆわない。 普通、女の子は、もっと…もっと…こう、ロマンのある事をゆう」と思わず、百合子のような事を言ってしまった。
「ロマン…どんなだよ??」
益々きょとんと首を傾げる竜子。
すると、翼がふいにエリィの隣に立ち、先程までの会話を聞いていたわけでもないだろうに、魚達の姿を眺めて、「本当に生きている宝石のようだ。 そういう意味では、エリィさんや、竜子さんと一緒ですね」とサラリとスーパー口説き文句を口にする。
竜子と二人並んで、頬をポッと染めてみる。
世界中の男性が翼のようならば、きっと、この世は女性にとって天国になるに違いないと思えども、この台詞をシレっというには、それ相応の容姿やら、身に纏う典雅な空気やらが必要になるわけで、そういう意味では、まぁ、世の男性には、何より勇気が足りないと言う理由で望むべくもない未来であろうと即座にエリィは諦める。
竜子を横目で眺め「ロマンって…こういう事よ?」と言えば、目を白黒させて、それから「あたいにゃ、一生無理だ」と明るく笑った。
そのうち、魚達の餌やりタイムになったのか、ダイビングスーツ姿の女性が水槽の中に現れ、エイや、魚たち、亀等も寄っていく。
「うわぁぁ!! 凄い、凄い!!」と三人それぞれ、注目し、「あのエイの口、ちょっと怖いと思ったけど、こうやって見ると可愛いね」とか「あの小さな魚達、みんな一斉に餌に群がってるよ」とか言い合い、楽しんだ。
竜子が「あ、あそこに、鮫がいる!」等と言いつつ駆けていく。
「子供みたい」とエリィが笑えば、「僕もそう思ってたとこ」と翼は言って、「お揃いですね」と首を傾げてエリィの顔を覗きこんだ。

必殺・ハンサム風林火山!!

いやいや、そんな技はないけど…と思いつつも顔が真っ赤になるのが止められない。
そんなエリィの様子をにこっと眺め、水槽に目を戻した翼に、熱い頬を両手で仰ぎつつ「あ、あの、でも、あのダイバーさん、凄く泳ぎが上手。 まるで人魚みたい!」と言ってみた。
すると、翼は微笑んで「ほんとだ」と言った後、ついとエリィの腕を掴み自分に引き寄せると、「ああ、エリィさん、僕から離れない方がいい。 そうじゃないと、人魚姫に間違われて、浚われちゃうからね」とウィンク付で言ってきた。

殺される!! 殺し文句に、マジな意味で殺される!!

頭が沸騰するような心地になりつつ、エリィは熱い顔を水槽に当てて冷やそうとする。
そのまま上目遣いに眺めれば、水槽の様子を興味深げに眺める翼の横顔が目に入り「なんで、この人女の子なんだろ…」と心底残念の余り、深い、深い溜息を吐いた。


「はーい、では最後にもう一度、ルーク君に盛大な拍手をお願いしまぁす」

明るいお姉さんの声に、百合子は力いっぱいの拍手を送り、チーコが歓声を上げながら大きく手を振った。
「面白かったねぇ!」
エリィの言葉に皆が頷く。
人目につかぬよう最後部座席で見たイルカショーは、それでも大迫力の出来映えだった。
計算してみせたり、可愛いポーズを見せたり、アクロバティックなジャンプをしてみせる姿に、チーコと同じく、いちいち感心し、力一杯拍手を送る。

楽しい。
凄く楽しい。

嵐の膝の上に乗ったチーコが「いふぅぁ、あぅひぉぅ!」と言いながら嵐の首根っこにしがみ付いた。
「おう。 俺も楽しかった、ありがとう」
嵐はそう言いながらチーコの背中を軽く叩いて、「さ、行くか」と立ち上がる。
「次は何処だっけ?」
「海! チーコちゃん、海だよ! 海!」
エリィの言葉に「ひぃあ!」と喜びの声を出し、チーコが、するんと嵐から滑りおりると、スキップする。
すると、チーコは足をもつれさせ、コロリと転んだ。
「大丈夫? 駄目よ、はしゃぎすぎ」
そう言いながらいずみが手を握って引っ張りあげる。

そして、チーコを覗いた顔が、一瞬、凍りついたように強張った。

「…チーコ?」


いずみが、震える声で問い掛ければ、慌てて顔を上げたチーコがにこっと微笑んで、チーコは慎重な足取りで歩き始めた。
その一連を眺め、エリィは一度大きく息を吸い、表情を変えないように気をつけつつも、いつでも彼女が倒れてもいいように、注意深くその様子を眺める。


さっきの、足の縺れ方はおかしかった。

まるで、急に足の力が抜けたように。
まるで、足の筋肉が、もう力尽きようとしているかのように。
まるで、もう、チーコには歩く力がないのだというように。

さっきの、足の縺れ方はおかしかった。


いずみが、優しく笑う。
「海、楽しみね」

嵐が、タッと軽く駆け寄り、チーコのもう片方の手を握った。
「そうだな。 凄く綺麗な海だそうだからな」
エリィが、「人がいない海を探したんだよ?」と笑い、翼が「黒須さん達が、バーベキューの用意をしてくれているらしい。 僕も腕を振るうから、期待しててよ」と言う。

気付かない振りをしていた。
誰の為にか、もう分からない。
強いて言うならば、自分の為に、気付かない振りをしていた。

「あ、なぁなぁなぁ! あそこプリクラあんぞ!」

竜子が先を指差し能天気な声を上げる。

正真正銘の能天気な声に、エリィは思わすつんのめる。
「ふわあ! ほんとだぁ! ね、ね! みんなで撮ろう?」
テテテテと音がしそうな走り方を見せ、百合子がみんなを手を振って呼んできた。
ピョンコ、ピョンコと癖なのか、その場で跳ねる百合子に、本当に女性陣最年長なのだろうか?と首を傾げつつ、カーテン内に突入し、勝手にお金を入れてフレームを選び出している竜子の隣に立った。
画面に並んでいるフレームは、水族館ならではといったものばかりで、海洋生物や、ラッコ、シャチ、ペンギンといったフレームが羅列され、エリィは、その可愛さに、いちいち歓声をあげたくなるような心地になる。
エリィが、事あるごとに友達と一緒に撮るプリクラは、竜子はさほど経験ないらしく、「えーと…あれ? どこ押すんだ??」と困った様子で首を傾げている。
「あ、代わって、代わって〜♪」
そう嬉しそうに竜子とボタン前の位置を交代してもらったエリィは、「何にしようかな〜♪」と鼻歌交じりにフレームを選びだした。
「あ、あのラッコ可愛い!」とエリィが言えば、百合子が「あざらしも、可愛いよ!」と訴えてくる。
「チーコはどれが良い?」と翼が問えば、じぃっと眺め、それから、先程凝視していた熱帯魚のフレームを指差した。
綺麗な色合いのフレームを「おっけー、じゃ、これにしよ」と言いながらエリィが選択する。
戸惑ったように遠巻きに眺めていた嵐を、竜子がぐいっとカーテン内に引っ張り込んで、「あい、みんな笑えよー!」という声の無邪気さに、エリィは思わず呆れる程に無防備な笑みを浮かべてしまった。
チーコがにいいっと人の形とは違う、鋭い形の歯をむき出しにして笑う。
カシャとカーテン内をフラッシュの光が満たす。

出来上がった写真は、みんな子供みたいに笑ってて、何だか切ないようにも見えて、それぞれの分を鋏で切り分けた後、百合子が作ったしおりに大事に、大事に貼り付けた。



「うひぁうぅ、はああぅふぃぃぅ!」
サクサクサクと軽い音を立てる白い砂。
裸足になったチーコが波打ち際ではしゃいでいる。
エリィは、翼やエマ達と一緒に、バーベキューの準備を進めていた。
ここへ来る途中で購入した食材達を素早く調理していく。
「えーと…味付けすんだからホイル…ホイル…」と捜すエマに翼が「はい、どうぞ」と渡していた。
「ありがと♪」
そう礼を述べるエマの声を聞きつつ、翼の手元を覗き込めば、イカやタコのぬめりを手際よく塩で取っている。

ハンサムな上、料理上手…。

余りに高得点ばかり叩き出す翼に、この人現実の人なのかしら?とまるで御伽噺の登場人物を眺めているような気持ちにさせられる。
「なになに? 翼さんは何作ってくれるの?」とエマが問えば「海鮮やきそばを作ろうかな?って。 子供って焼きそば好きでしょう?」と翼が答えた。
いかにも美味しそうな名称に「わぁい」と心の中で子供のような声をあげつつ、エマが準備を進めている、タラのホイル焼き包みへの期待も高める。
そういうエリィ自身も、たくさんの魚介類と野菜を大鍋に放り込み、ブイヤベースの作成に取り掛かっていて、一口スープの味を見て、その深い味わいににんまりとした笑みを浮かべると、「うん! このブイヤベースは、超自信作の予感!」と思わず独り言を呟いてしまった。
そしてエリィは、二人の作業風景を惚れ惚れと眺めつつ、これは、作るほうとしても楽しいけど、食べるほうとしても、かなり楽しい時間が待ってそう!と期待に胸を躍らせる。

爽やかな風が、三人の頬を撫で、普段はしなれぬ野外での調理への新鮮さも手伝って、彼女達は力いっぱい料理の腕を奮っていた。

皆手際が尋常でなく良いのもあって、サクサクサクッと料理が仕上がっていく。
串に差した野菜や肉を豪快に焼いたバーベキューもいい色になり始めて、翼が「ごはんだよー!」と皆を呼んだ。

お昼も少し回った時間帯。
お腹をぺこぺこに空かせた面々は、めいめい返事とも歓声ともつかぬ声を上げて、既に美味しそうな匂いが漂っている浜辺へと走ってきた。


エリィが情報を手に入れたこの浜辺は、情報提供者がメールに書いていた通り、観光客の姿も地元の人間の姿も見えず、チーコは姿を隠さずに、のびのびと振舞う事が出来ていた。

串に差した肉に齧りつきながら、熱かったのかチーコが「ひふひふ!」と息を大きく吐き出している。
「はい、どうぞ」と冷たい水を兎月原が差し出し、丁寧な手つきでチーコの口元をナプキンで拭ってあげていた。
「おいし?」
首を傾げて問う姿や、チーコが別のものに手を伸ばそうとすると、さっと皿を差し出す紳士ぶりに感心していると、エリィの心を読み取ったが如く、百合子が、とうもろこしに兎のように齧りつきながら、「まぁ、プロだしね」と言いつつ、うんうん頷く。
「プロ?」と首を傾げれば、「おもてなしのプロ」と分ったような分からないようなことを言い、「エリィちゃんにはまだ早いから、嵌るにはもう少ししてからね?」と、更に意味の分からない事を言われた。



予想通り、どれもこれも、本当に美味しい。
「エリィちゃんが作ってきてくれたお弁当に触発されちゃった」とエマが笑えば、「僕も張り切らせて貰いました」と翼が、優雅な手つきでスープをプラスチック皿に流し込む。
翼も、エマも、乏しい調理器具から、手早く見事なバーベキュー料理を作り上げており、エリィもお弁当作りで見せた腕前を思う存分披露出来て、皆、お腹が一杯になると、本当に野外料理の食後なのかと疑いたくなるほどの、満足感に満たされた。

その後、日暮れ前にここを発つという事で、浜辺で眠るもの、波打ち際で遊ぶもの、ビーチパラソルの影で本を読むもの等、それぞれ別れる。


エリィも、片づけの後は、クーラーボックス(これもエマ持参だそうだ。 咄嗟に『怪力』と慄いた事は、勿論内緒)から、よく冷えコーラを貰っていた。

水を自由に操る、千剣破が、能力を振るってくれて、エリィを海の上に立たせてくれた。

「えい」
そう言いながら千剣破が指を振るえば、波間から海水で出来た魚が、ポチャン、ポチャンと飛び上がってくる。
その可愛らしさと千剣破の能力の凄さに、「綺麗…! 凄い、凄い!」 と、エリィは手を打って喜び、彼女を賞賛した。
千剣破は得意げに笑い、「じゃ、今度は…」ともう少し力を込めて、今度は、小さなイルカを海水から作り出す。
チョコンと二人で並んで腰掛ければ、「キュウ」と水のイルカは鳴いて、くるくるくると走り出す。
浜辺を、時雨や、兎月原、嵐が並んで歩いている。
視線を奥へと向ければ、ビーチパラソルの下で、翼が文庫本を読み、黒須や冥月、エマ、百合子がなにやら談笑していた。

爽やかな風がエリィの髪を舞わせた。

平和な。
酷く平和な一時。

エリィは、「すっごい 楽しい!」と心から叫ぶ。
千剣破も、肩をエリィの肩にくっつけて、「あたしも!」と大声で叫んだ。

その後、浜辺に戻った二人は、今度はチーコと、いずみ、それから翼が何事かに夢中になっているのに目を止めて、傍へと走り寄った。
「何々? 何してるの?」
そう問えば、翼は「今から貝殻のネックレスを作ろうと思って」と優しい声音で答えてくれる。

「これがね、チーコの故郷の貝殻に似てるようなんです」と言いながら白い巻貝を翼が示して見せてくれたのは凄く綺麗な貝殻で、この貝殻で作るネックレスはさぞかし素敵だろうと思い、「へぇ、いいなぁ、チーコちゃん」とエリィは羨ましさを隠しきれない声で言った。
千剣破が、ポスンと堤防下の砂浜に腰を下ろし、それから「ううん」と伸びを一つした。
「ああ、気持ち良い日ねぇ。 チーコちゃんのお陰だよ。 こんな楽しい旅が出来たのは」
にこっと笑て心からの声でそう言う千剣破に、チーコは天真爛漫に微笑み返す。
「あ、見て、あそこ…」
ふと、思わず注目せずにはいられない光景を目にし、白金の髪を風に舞わせてつつ、エリィが砂浜を指差す。
白い彼女の指先には、竜子が座っていた。
海を見つめ微笑む彼女の横顔が、今まで見たどの顔とも違う、優しく、美しいものである事にエリィは目を見開く。
最初見た時驚かされた濃い目の化粧も、旅の途中であるせいか然程激しいものでなく、彼女の地顔が大変整っているものである事に、エリィは気付いた。

まるで、聖母めいた。

酷く近寄り難い程の微笑みを浮かべる彼女の膝に頭を乗せて、黒須が眠っていた。
昨日は夜通しバスを運転し続けた彼は、流石に疲れているのか、膝を曲げ、まるで胎児のように体を丸めて、呼吸すらしていないかのように静かに、静かに眠っていた。
風が。


黒須の長い髪を揺らし、竜子の一つに結んだポニーテイルを舞い上げた。

あの二人って、恋人同士なのかしら?
お似合いとは言い難いけど、何だか不思議な二人組よね…。
そう思えども、どうしてだろう。


あんなにくっついているのに。

何一つ触れ合ってない二人に見えた。


エリィは、何故だか、胸が痛くなって目を逸らせば、チーコが目を細めて二人の姿を眺めていて、「ああ」と、夢見るような溜息を吐いた。





翼が器用に空けてくれた穴に、チーコが四苦八苦しながらビーズを通している。
手先は然程器用でないのか、何度も貝殻を取り落としたり、ビーズを見失ったりしている姿に歯痒さを覚えど、エリィは決して手を出さない。

それは、いずみも千剣破も、それに翼も同じ気持ちで、チーコが懸命に取り組む様を、微笑みながら見守っている。
途中何度か、彼女は自分の髪に止められている髪留めを触っていた。

時雨に貰った髪留め。


赤い髪が日の光を受けて鮮やかに輝いていた。
長身の青年は、嵐や兎月原と談笑しつつ海辺を歩いている。
ふいと時雨が此方を見て、それから大きく手を振ってくる。
子供のような笑み。

チーコが、その笑顔を見返して、何だか困ったようにキョロキョロした後、翼の腕に顔をくっ付けた。
慌てて、エリィは大きく手を振り返し、見れば、千剣破も、いずみも振っている。
みんな同じような微笑を浮かべて時雨を眺め、それからチーコに視線を戻した。

そういう事かと思って、エリィはチーコの髪留めに視線を向ける。

ああ、そういう事か。

一生懸命作っているネックレスの長さは、小さなチーコには余りにも長すぎて、自分で使うものじゃないなんてことはすぐに分ってしまうのだ。
そして、素直なチーコを見ていると、誰に貝殻のネックレスをあげようとしているかという事も、勿論エリィにはお見通しなのである。


夕焼け空になり始めた頃、不器用な手つきで仕上げたネックレスを大事に、大事に、いずみが貸してあげたらしいポシェットに仕舞いこむ。
「さて、そろそろ…」と、エマがそこまで言いかけた所で顔を上げた。
「…望まざるお客さんが来ちゃったみたいね」と、軽い口調でエマが言うと、まるで、それまで消していた気配を全て解放するかのように冥月が立ち上がる。
ゆらりと彼女の周りが揺らいで見えるほどの、酷く剣呑な気配にエリィは身震いした。


堤防沿いに、黒塗りの車が数台バタバタと停まる。
降りてきた黒スーツ姿の男達に「お約束どおりね」といずみが冷めた声で呟いて、取り乱す事も一切なく、子供らしくもない感想に、やっぱりびっくりさせられた。

しかし…。
エリィは焦りにも似た気持ちで訝しむ。
今までのルートは完璧だった。
例え、追いかけてきていた車がいたとしても、絶対について来れぬような道筋を辿り、警戒に警戒を重ねて此処へ来たのだ。
100%尾けられていた可能性はない。
それに、もし、尾けられていたとしたら、曲者揃いの面々が気付かぬ筈もないだろう。
だとしたら、発信機?
そう思えど、チーコの体からは全て取り去ったという話しだし、エリィは駐車場に止まる毎に、バスの周りを不審なものがつけられていやしないか情報屋のサガで総点検していたのだ。
まったく意味が分からない。

どんな手段で此処が分ったのか?
地元に人間も知らぬような穴場の浜辺に、エリィ達が来ている事を分かる手段とは何なのだろう?
エリィが悩んでいる間にも、キビキビとした声で冥月は指示を出す。

「非戦闘員は、一旦バスへ避難だな。 いずみ、百合子、エマ、竜子バスへ。 嵐っ!」
まるで教師めいた口調で冥月が呼べば、嵐は肩を竦め「んだよ。 俺は、非戦闘員扱いで良いんだぜ?」と言う嵐に、にっと物騒な笑みを見せると、トンとその胸を掌で突き「ああ、非戦闘員扱いさ。 今回はな」と意味ありげに告げた。

「あいつらの狙いはチーコだ。 嵐、バイクで、チーコを連れて逃げろ。 向こうは、ざっと見ても30人強。 興信所での脅しが効いたか、私や時雨の名前が効いたのか、中々、手厚いおもてなし部隊を送り込んできてくれたようだ。 まぁ、それでも、私にしてみれば、馬鹿にしているとしか思えない、お粗末なもんだが…こちらとしても、彼女を守り、非戦闘員の安全を確保しつつ、あの人数を相手にするのは、そこそこ骨だ。 銃の使用も予想されるし、守りに徹するだけでなく、今回は、あいつら全員叩きのめし、どういう人間を相手にしているのか向こう側に知らしめたい。 何より、どうして此処が分ったのか、誰か一人捕縛して吐かせてもやりたいしな。 それだけの事をチーコに目を配りながらやってのけるより…」
「向こうの目当てである、チーコを安全な場所へと移動させる…って事か…」
翼が賢しげに呟けば、冥月が満足げに頷く。
「ああ。 出来るな?」
冥月の言葉に「俺は、ただの、一般市民なのに」と一度肩を落とすと、諦めたように「まぁ、チーコの為ならしょうがないな」と嵐は決心を付け、「活路は開いてくれよ?」と、皆に視線を走らせた。
「とうぜん…まかしといて…」と時雨が自信に満ちた声で言う。
「ぜったい…チーコに傷…付けさせないから…ね?」と首を傾げた時雨から、チーコは耳を真っ赤にさせつつ、ぷいと顔を背ける。
途端シュンとした顔になる時雨に(ああ、教えてあげたい!!! チーコの気持ちを教えてあげたいけど、それを言うわけにはいかない!)とエリィはもどかしさを感じた。


チーコをバイクの後ろに乗せた嵐が冥月を見て頷いた。

冥月は嵐に対し、不敵に微笑み返すと、翼に向かって「準備できたそうだ。 お前はどうだ?」と問う。
「いつでも、いいよ」
そう短く返事を返す翼に、冥月は「頼りにしているぞ」と声を掛け、ついと堤防前に雁首そろえる男達に向かって指を指した。

「やってしまえ」

笑いながら言う冥月に、同じく笑い返し、翼が、腕を軽やかに踊るかのように振るった。
その瞬間、強い風が巻き起こり、男達が面白いほどに、呆気なく将棋倒しのように倒れた。
それが合図であるかのように、嵐が一気にアクセルを全開にして走り出す。
翼が引き起こした風を追い風に換えて、嵐が猛スピードで駆け抜けていった。
タイヤを取られ易い砂浜を難なく突っ切ると、堤防に備え付けられた階段、その脇の手すりとして設けられているのであろう幅の酷く狭いコンクリートの急な坂を一気に駆け上がった。
思わずエリィはぎゅっと両手を握り合わせた。
竜子と百合子が声を揃えて叫ぶ声が聞こえる。

「いっけぇぇぇぇ!!」

するとその声援が届いたのか、見事に嵐の操るバイクは見事、坂をジャンプ台代わりに男達の頭を飛び越え道路の向こう側に着地すると「ひぅあぁはああぁぁぁ!」と何とも明るいチーコの笑い声を残して走り去って行った。

アクロバティックな技の成功に、思わず快哉を上げて飛び跳ねる。

倒れた男達が起き上がる前に、エリィが駆け出せば、兎月原、翼、黒須、時雨といった面々も、同じタイミングで詰め寄っていた。

とりあえず、殺傷力の高いナイフを抜くのは止めておいて、体術にて相手を失神させる事に決める。

まず、目の前に迫る男の単調な攻撃を軽く体を捻って避けると、そのまま半歩ほど踏み出し相手の側面に体を沿わせて襟首を掴み、その自然の勢いに任せてぐいっと後ろへ引っ張った。
当然、尻餅をつくようにして倒れゆく男のこめかみに、軽く肘をいれてやる。
一番脳を揺らす場所を狙って打った攻撃は、即効性を持って男を昏倒させた。
肘打ちの体勢のまま、体を低く沈ませれば、一気に走り寄って来た男達の無防備な膝の前まで体が落ちる。
そのまま、両手を地面につき、片方の足を折り曲げ、持ち前の体の柔らかさで持って、脛の部分を狙って、足を突き出すようにして一人の男を蹴りつけた。
脛は人体の内でも、攻撃されれば、かなりの激痛を引き起こす箇所の一つ。
為す術もなく前のめりに倒れる男に巻き込まれるように、その正面に立っていた男が阻まれ、その隙に素早く這って、男達の隙間から逃れると、背後に回りこめた男の後頭部に高く上げた踵を容赦なく振り下ろした。
ぶっ倒れる男が意識を失っている事を疑いもせず、脛を抱えて転がっている男の脇腹を鉄板を仕込んであるブーツの爪先で蹴り飛ばし、残った一人の男が掴みかかってくる懐に飛び込んで、喉元に手刀を叩き込む。
三人、あっという間に倒した後も、風のように掛けぬけ、足を止めないエリィは、舞うようにして、男達を次々と地に沈めていった。


他の面子も、鮮やかな手際で、相手の意識を奪っていっている。


突如、影の中から姿を現した冥月が、男の首を締め上げて、それからぐいと男達を見回した。

その瞬間、全ての者の影が拘束具と化して敵をはがいじめにする。

興信所にて影から敵を引っ張り出したのにもド肝を抜かれたが、影から影への移動や、影の具現化等、自由自在に影を操り、そりゃあ伝説にもなるわというような特技を目の前で披露されて、エリィはその実力に感嘆する。

「お好きにどうぞ?」と優雅ですらある口調でそう薦める冥月に皆頷いて、あとは、言葉どおり、好き勝手やらせて貰った。


その後は幾つか銃声やら怒号やら、まぁ物騒な騒ぎが暫らく続いたが、エリィから見れば、呆気ないほどに決着はついた。


「さて、一応問うが…この中で拷問が得意な者」


冥月のとんでもない台詞に、エマといずみを除く皆が一斉に黒須を見た。
こう、本能的にだが、「拷問得意そう!」という陰惨なイメージ=黒須という、ナツラルな流れでの視線の流れは本人いたくお気に召さなかったらしい。

「ていうか、お前ら見た目のイメージだけで、俺を判断するな!! なんだ、拷問得意そうなイメージの外見って! 嫌だ! そんなイメージ! 得意技、拷問です☆って自慢になんねぇ!」
そう怒鳴る黒須に「いや…見るからに…こう…陰湿系というか…」と翼が言えば、「うん、金融業とかで取立て屋になったら、相手の精神を破壊尽くすまで追い詰めそうな感じよね。 マムシの誠とか呼ばれてるイメージ」とエリィがVシネチックな事を言う。
「趣味とかも、自分を振った女性の写真にひたすら『怨』と書き続けるとかっぽいし…」と百合子がマジマジと黒須を見ながら言えば、「あと、嫌いな相手への攻撃方法が、靴に待ち針を仕込むとかそういう精神的にクるけど、セコイ感じなのね!」と千剣破は嬉しそうに断言した。
余りの言われようによろめく黒須に兎月原が笑顔で「総じて、身動き取れない相手に対しての攻撃が凡人の想像を絶するような陰険な手段を思いつきそうなイメージって事だな。 やったね! 黒須さん」とウィンクすらして告げるものだから、もう、ここまで固まってるんだし、事実で良いんじゃないか?
黒須は拷問が得意技で良いんじゃないか?という気にすらなってくる。
そんな馬鹿なやり取りの間、エマが、何か言いたげに、うずうずと体を揺らしていたが、頃合や良しと見計らったのか、とうとう黒須の前に庇うように立ちはだかり「みんなっ! 違うよ?! 黒須さんっ、そんな人じゃ…ないよ?!」と、首を大げさに振りつつ、児童劇団の道徳芝居で役者が見せそうな、妙に芝居がかった仕草で言う。
そして、くるりと振り返り、黒須をキラキラと見ると、「黒須さんは、ドMだもんね? そんな、拷問なんて、する側より、される側の時の方が幸福MAXだもんね☆」と超全開の笑顔で告げた。

あ、そっちのが、きもい。

心からの嫌悪に、思わず、エリィ、一歩二歩と後ずさる。
何てったって、エリィはまだ17歳。
しかも、純真極まりない、心の美しい少女なのだ。

(ああ、性癖で差別するのはよくない! よくないよ、エリィ! でも、でもでもでも!!)

どMの黒須という字面だけで嫌悪感を感じると、(気持ち悪いんだもん!)と、素直な気持ちで自分の感情を認め、エマの明るい宣言を真に受けて、「変質者には近寄っちゃ駄目です」という小学生並の危機感でもって、黒須から咄嗟に距離を置いた。

竜子が「正解!」と力強く親指を立て、「わぁ、更に気持ち悪い。 不気味。 傍に寄りたくない!」という表情を隠そうともせず周囲の輪が一歩分広がるのを黒須はがくりと項垂れ眺めると、エマを恨みがましげに見て、「お前 ほんと 俺を馬鹿にする時全力投球な!」と半眼になりつつ、唸るように言う。
そんな黒須に「てへ」と笑って見せると、「あー、すっきりした。 ほら、中々今回、黒須さんを虚仮にするゾ♪タイムがなかったもんだから、ストレス溜まってて」とエマは、肩をキリキリと回しつつ、爽快感に溢れる顔で言い放つ。
「そんなレギュラータイムを勝手に設けるなよ!」と怒鳴る黒須に、「次回をお楽しみに☆」とエマは笑顔で返し、更にもう一歩ほど後ずさった場所で「えーと、然程興味がないを越えて、むしろ地雷踏んだ感を噛み締めつつ、黒須さんの性癖についてはこれ以上何もお伺いしたくないので、話を先に進めてもらって宜しいでしょうか?」と丁寧な口調で兎月原がお願いすれば、道端に落ちている丸めたティッシュを眺めるような目で黒須を一瞥した後冥月は頷いて、「では、私も余り加減が分らんので、向いている方ではないのだが、ちょっと訊いてみるか」と、軽い口調で物騒な事を言って、足元に転がる縛り上げた男性を見下ろした。

エリィも、如何なる理由で、ここまで追跡されたのか、凄く気になる。
そりゃあ、まだ、駆け出しだが、今回はチーコの為に、必死になってルートを見つけ出したのだ。
何がいけなかったのか?
何処に油断があったのか、男の口から理由を聞いて、反省点にしたかった。

猿轡を噛まされ、縛り上げられた男は畏怖の眼差しで冥月を見上げるが「ただ口を割らせるだけなら、多分僕だと手間なくやれるよ」と翼が手を挙げた。
「おお、意外と拷問得意系?」と竜子の頓珍漢な問い掛けに、「得意・不得意の区別の仕方が分からない」と肩を落として見せた後、男の目の前に座りこみ翼はじいっとその瞳を覗き込む。

「さぁ、よく、見て。 僕の目を、ようく見て」

唆すような声。
男は翼の魅惑的な瞳に魅入られる。
ぱち、ぱち、ぱちと、三度瞬いた瞬間、男の全身が弛緩した。
猿轡を外し、翼は優しい声で問う。

「ねぇ、どうしてここの居場所が分ったの? チーコに取り付けられていた発信機は全て取り外したはずなのに」

魅入られたように熱っぽい瞳で翼を凝視する男が、翼が促すままに口を開いた。

「は、発信機は、まだ、ある」
軽く翼は目を見開き、「それは何処に?」と問い掛けた。

「それは…」

虚ろな口が、咳き込むようにして吐き出した。


「あの化け物の体に埋め込んである」


「ひゅっ」と鋭い音がして、その出所が分からないままエリィは自分の喉を抑えた。

ああ、あたしの声。

息を吸うと、ひゅうひゅう鳴った。

この男、なんて言ったの?

「肩甲骨の下を、麻酔なしで開いて、『Dr』が、発信機を埋め込んだ」

翼を熱心に見つめながら、他には何も世界はないという風に男はだらだらと言葉を零す。

「泣いていた。 大声で。 何を言っているか分らなかった。 気持ちの悪い 生き物。 一丁前に涙なんかを 零して。 触ってみたら、分る。 あの化け物の肉の下に、ゴツッとした膨らみがある。 触ると酷く痛がるから、面白がって…」

そこまで言った瞬間、竜子がその即頭部を思いっきり蹴飛ばした。
エリィは、口を両手で覆って、全身を震わせる。



麻酔 なしで 体の 中に あの 小さな体の中に


なんで? 痛い。 凄く 痛い。 なんで? 

そんな事が出来る生き物と、自分自身が同じ「人間」という種族である事に吐き気がする。


だって、何が楽しいかなんて、何一つも分からない。
後ろ暗い場所も、理不尽な情景も、一度も見た事ないなんて言わない。
言わないけど…。

それでも、じゃあ、そういう事態に直面しても、心が慣れきってて、何も思わないかっていったらそんな事はない。

痛い。
胸が痛い。


チーコの笑顔を思い出す。

どんな気持ちで。
どんな思いで。

あの子は笑ってくれているのだろう。


チーコ…。



蹲りかけて思いとどまる。
ここは膝を着く場所じゃない。
目が泳いだ。
自分だったらと思うと耐えられなかった。

竜子が息を荒げながら「くそっ、やっちまった! 子供の前で、やっちまった!」と髪の毛をくしゃっと掻き毟る。
「いずみ!」
名前を呼ばれ、「はい」と静かに返事する。

「今のあたいが言っても説得力ねぇけどな、自分が気に入らないからって、話し合いもせずに、すぐ暴力ふるって、相手を黙らせるのは、いけない事だかんな!」

そう荒い息の下に、困った気持ちを混じらせながら、竜子が言えば、いずみは静かに頷いて「肝に銘じます。 ただ、そのルールは、『話が通じる』相手のみに適用させていただきます」と冷静に返事し、竜子を益々困り顔にさせた。


「…殺すか?」

冥月が平坦な声で言った。

「ここにいる連中、皆同じ外道だ。 依頼主が望むなら、皆、証拠を残さず消してやる。 生きていても、チーコと同じ犠牲者が生まれるばかりだ。 子供が、弱いものが、抵抗する術を持たないものが、理不尽に殺され、虐げられ、泣かされる。 生かす事によって、失われる命が増える『生』もある殺すか? 私は躊躇わんぞ」

冥月の言葉に、日頃の人懐こい表情を一変させた時雨がカチャリと腰に提げている刀に物騒な音を鳴かせる。
エリィも、冷たい表情で銀色の幅広のナイフを鞘から抜く。


だって、こいつらはクズだ。

静かに、エリィは思う。


クズはゴミ箱に入れるのが、社会のルールじゃなかったっけ?


千剣破が青い顔をして、倒れている無数の男達を眺め回していた。
その全身に宿るは間違いなく殺意。

チーコの小さな体に発信機を埋め込んで、痛みに泣き喚く彼女を想像すると、この男達を生かす意味が一つも見つからない。

黒須は無表情で竜子を見る。
竜子は、黒須を横目で眺め、全てを委ねられている事を理解したかのように目を閉じて、それから自分が蹴り飛ばした男をもう一度見下ろした。


「殺さないで」


細い声。
見れば両手をぎゅっと握り締めて百合子が震える声で言った。


「殺さないで」

小鳥のような声に、エリィの肩が少し震えた。


竜子は「はっふっ」と大きく息を吐き出すと、「うん、殺さない」と答えた。
冥月は少し首を傾げ「甘いな、お前らは」とそれでも、何だか優しい声で言った。

「いいんだ。 甘くて。 その、あんたらからすれば、きっとこの仕事自体、凄く甘い仕事じゃないのかい? いや、知らないけど。 女の子守って、最期の三日間を楽しく過ごさせてやって欲しいだなんて…ああ、そう、ロマンチックだ。 ロマンチックじゃないか、なぁ、百合子」
そう言われて目を見開き、それから「ろ、ロマンよ。 そうよ、ロマンなの」と必死の声で言う。
「ゆ、夢見がちかもしれないけど、ねぇ、チーコには、ロマンが似合うわ。 あの子は、きっと、凄く辛い目に合って、ねぇ、それを、その最期までの間を幸せに過ごさせてやって欲しいなんて依頼は、本当に…本当に……甘い、甘い、砂糖菓子みたいにベタついた仕事で……でも、だから、いいのよ。 あの子に関わる時間全てがロマンチックであった方がいいのよ。 だって、女の子なんだもの。 チーコ、女の子なんだもの。 だから、似合わないわ、人殺しは。 倫理とかは分からないの。 道徳も、知らないわ。 安易なヒューマニズムなんて反吐が出る。 でも、綺麗ごとよ。 このお仕事は全部綺麗ごとなの…だ、だから…だから…」
言葉を捜しあぐねたように、自分の髪の毛に手をやり、ぎゅうっと引っ張って困り果てた顔をする百合子。

エリィは一度目を閉じて、チーコの笑顔を瞼の裏に思い描く。

あたしが もし この男達を殺したとして


あの子は笑ってくれるだろうか?

チーコは笑ってくれるだろうか?


途端、瞼の裏のチーコは哀しい哀しい顔をして、ポロポロと涙を零した。

いけない。
泣かないで、チーコ。


エリィは百合子に駆け寄ると、柔らかな、春の日差しのような微笑を浮かべて「分かった。 殺さない」と言った。
時雨も、ふしゅんと険しい空気を霧散させて、「チーコ達…無事…待ち合わせ場所…着けたかな?」と心配そうに呟く。
エマは、素早い手つきで携帯を操作し、まず、警察に通報の連絡を入れると、次に嵐に連絡を入れた。
「んー、どうも、まだ走行中みたいだけど、ちゃんと、安全が確認出来たら連絡入れるように言ってあるし、まぁ、嵐君の事だから大丈夫でしょ」
そう言い、冥月がバスに目を向ける。
「チーコの体に発信機が埋め込まれている以上、バスを捨てていく事も考えたが無意味か…」と呟いて、「まぁ、全滅の一報がいけば、次の追っ手の準備も慎重にならざる得ない。 こちらの実力は充分に分って貰えただろう。 そうそう、敵う相手ではない事もな。 油断をするわけにはいかないが、チーコの体から発信機を取り出すわけにもいくまい」と冥月は言い、皆一様に大きく頷く。

冥月は、乾いたような笑みを口の端に乗せ、それから竜子に視線を向けた。

「殺すという事は覚悟のいる事だ。 だが、生かす覚悟の方が厳しい事もある。 分っているな?」
冥月の言葉に竜子は静かに頷いた。
長い睫に縁取られた強い眼差しを見て、冥月は「ふん」と呆れたように溜息を吐くと、「あと…一日と少し…か。 守りきれるだろう?」と、他メンバーを見回す。
翼が肩を竦め「認めたくないですけど、武彦はベストメンバーを選んでます。 チーコを守り、幸福な気持ちで過ごさせるという事に関してはこれ異常ないほどのベストメンバーをね。 最初事務所に揃えられているメンツを見た時は…」とそこで言葉を切り、千剣破がその続きを引き取った。
「もう、バラッバラ!」
その台詞に、エリィも頷いて「どうなる事かって思ったけどね」と笑う。


間違いない。
これが最良で、最強。

興信所の主の名は伊達じゃないって事だ。

「行きましょう。 チーコの所に」

いずみが言う。
兎月原が、空を見上げ、「ああ…あんなに良い天気だったのに、曇ってきた。 急いだ方が良さそうだ」と典雅な声でそう告げた。




程なく、雨が降り始めた。



ひっそりとした畦道を抜け、バスが辿り着いたのは、エマが興信所ぐるみで懇意にしていると言う古い神社だった。
人里離れた場所にあるのだが、家屋も広くて情緒があり、一晩置いて貰うには最適な場所だと判断し、エマは先に連絡を取って、一晩の宿の許可を得ているらしい。

「んふふ、ここの神主さんは、凄いのよ? お歳も、お歳、ってまぁ、百年以上生きてる人とか、興信所じゃ、珍しくないんだけど、神社の建立からずっと、神社を守り続けている初代神主=現神主な人で、もう、本尊が神主?みたいな人なのよ。 確か、500歳だか、なんだったか…。 まぁ、もうじき、大祭があるとかで、此方にはいらっしゃらないんだけれども、チーコちゃん達と、私達が到着した際には、一時的に結界を開いて迎え入れてくれるよう頼んでおいてあるの。 普段は、神社自体、森が隠していておいそれとは見つからないし、例え、霊感のある人が見つけてしまったとしても、結界のせいで足は踏み入れられない。 発信機も、磁場の歪みのせいで、本来の機能は発揮できないし、寝込みを襲われる心配と、出掛けを急襲される心配もないわ。 まぁ、こよなく安全な場所であるっていうのは、私がこの場所を選んだ大きなポイントではあるんだけど…まさか…この場所を選択した事が、こういう意味でも役に立つとは思わなかったけどね」
残念そうなエマの言葉に、翼が気を取り直すような明るい声で、「流石にエマさんの人脈だ」と感嘆すれば、「んふふ。 ありがと」とエマは胸を張る。
山際にバスを停車し、山を開いて作られた木々に四方を覆われた階段を登る。
嵐から既に無事に待ち合わせ場所に辿り着いたという連絡は受けていたが、バイクが山際の大きな木の下に停車されているのを見つけると、何だかほっとしてしまった。

シトシトとした雨に身を打たれながら、ひんやりとした空気を掻き分け階段を登っていると、今から神域に足を踏み入れるのだという緊張感が全身を満たした。
神社も、酷く古い作りをしていて、ぬかるみに足を取られぬよう門をくぐれば、感嘆するしかない情景が広がっていた。

「わ…あ…」

「ね、綺麗でしょ? これを、チーコちゃんに見せたかったの」

そう言う得意げなエマの声に、エリィは大きく頷く。
藤の花弁がほろり、ほろほろと散っていた。
大気に充満する香りは、芳しく、雅やかでありながら、清涼。
初夏の匂いに、皆大きく息を吸い込む。

澄んでいる。

つつじの花が咲き乱れていた。
手入れそれ程されていない様が、しかし、だからこそに素朴で、自然の力強さも漂わせていて、美しい。

「お、来たな」


そう言いながら、本殿の玄関先から嵐が顔を出し、続いてチーコが「ふあゎぅふぅ!」と声を上げる。
「あらぁ、そうなの、良かったわねぇ」とエマが表情を緩ませて両手を広げれば、テテテテと駆け寄ろうとして、チーコは階段の途中でくたりと倒れるように転げ落ちた。

「っ!!」

咄嗟に、飛び出そうとしたエリィより早く、兎月原が掬い上げるような手つきでチーコを抱きとめ、抱き上げる。
「大丈夫かな? お姫様」
兎月原が蕩けるような声で問えば「ふぁふぅ!」と元気な返事をして、その首根っこに齧りついた。
チーコは笑っていて、エリィは、ほっと胸を撫で下ろす。
抱き上げられたまま「ひぃふぅあぅ、ふあぅ!」とチーコはエマに何事か告げた。

「バイクでここまで走ってくるの、凄い楽しかったって。 雨に降られなかった?」と聞くエマに「ああ、ギリギリ振り出す前に間に合った。 とりあえず勝手に上がらしてもらったけど、良かったんだよな」と嵐が問い返す。
「大丈夫、ちゃんと全部分って貰ってるから」
嵐の疑問に頷くエマ。
「あ、一応、風呂の用意だけしといたから」と嵐が言えば、エリィと千剣破は同時に歓声をあげた。
「海にいたから体がベタベタしてんのよねー! お風呂、嬉しい♪」
エリィがはしゃげば、「雨にも打たれたし、体あっためたいよねー!」と千剣破も嬉しげに言って、同時に「「嵐君、ありがとう」」と声を揃える。
すると、眩しいばかりの美少女二人のお礼の声に、嵐は、ちょっと照れたようにそっぽをむいて「どーいたしまして!」とぶっきらぼうに答えた。

「さ、じゃあ、夕食の支度をするわね。 男性陣、先、お風呂入っちゃって」とエマは手を叩けば、「あ、いや、まだ沸かしてない…」と嵐が言いかけたところで、チッチッチとエマが指を振り、「藤ちゃん、つつじちゃん、お願いね。 あとで、一曲歌ってあげるから」と声を上げる。

すると、そよそよそよと庭に植えられたつつじと藤が優しい音を立てて一斉に揺れた。

「ここの神主さんの式神ちゃん。 私も姿は見た事ないんだけど、私の歌を気に入ってくれてて、ここに来た時は歌の代わりに、神社内の色んな御用事も請け負ってくれるの。 そこそこ力のある子達だから、お風呂も、もう沸いてる筈よ。 広くて、10人くらいだったら一気に入れるお風呂だから、えーと…むさい時間をどうぞ、ごゆるりと〜」と何だか明らかに風呂に行く気力を殺ぐような事を言いつつ手を振るエマに、「じゃ、お言葉に甘えて」と黒須が頷き、男性陣は揃って風呂場に向かいかけ、「あ、チーコはレディだから、女性陣と一緒にね?」と言いつつ、兎月原が、チーコを廊下に下ろした。

にこっと兎月原に笑い返し、此方に走り寄ろうとしたチーコが再びこける。

「ふぁっ、うふぅうっ」

恥かしげに身を竦め、再び立ち上がろうとした時に、チーコの足がガクガクと痙攣した。



あれ?
笑顔のまま、エリィは固まる。

どうしたの? チーコ?
問おうとして声が出ない。

だって、昼間はあんなに元気にはしゃいでいたじゃない。
一緒に海で遊んだじゃない。
ネックレス作ってたじゃない。

好きな人に贈るネックレス作ってたじゃない。


「っ」

ああ、もう、チーコは立てないのだ。

一瞬の混乱。
いずみは走り寄ってチーコの腕を引き、まるで、さっき兎月原がそうして見せたように、チーコを抱き上げようとして、当然、出来ずに一緒に転ぶ。

助けたいのに。
チーコを、助けたいのに。

「あ、ごめ…け、怪我…ない?」
チーコの体を、世界中の全てから守ろうとして覆いかぶさるように抱きしめ、震える声で問い掛けた。
いずみの問い掛けに強張った顔で頷いて、途方に暮れたような顔をして辺りを見回し、それからチーコが初めて、泣きそうな顔を見せる。

怖いだろう。
怖いだろう。

この子は 明日 死ぬのだ。



また、ふと、圧倒的な悲しみの波に襲われて、エリィはよろめきかけた。

違う。
あの子は殺されるのだ。

人間に。

そうだ、殺すんじゃないか。
死ぬんじゃない。

殺すんじゃないか。
あいつらが。

もう、歩けないチーコ。
こんなに弱って、傷ついて、明日殺されるんだ。
チーコは、明日殺されるんだ。

どう言っていいのか分からず、自然と浮かびそうになる憐憫の表情を必死に殺した。

それでも、あの子が最期まで笑っていられるように。

それが、あたしの仕事だから。


「一緒。 チーコと私は一緒」

チーコが、不安に揺れる一つだけの大きな目でいずみを見上げる。
その額に自分の額をくっつけて、「一緒よ。 チーコ」といずみが言えば、チーコは小さな両手でいずみの頬を挟みこんだ。

「いぅお?」
「うん。 そう、一緒」

すると、チーコはまた、可愛く笑う。
翼が、チーコの体を抱き上げた。
「そうか。 チーコ、疲れちゃったのか。 じゃあ、少し休もう。 今日は一杯遊んだからね」
翼がそう言いながら歩き出す。
傍に走り寄れば、チーコはエリィの顔を見て「えへへ」と照れたように笑っていて、たまらないような気持ちになって、その頬を優しく撫でた。
「ひぅあぅ…」
気持ちよさげに目を閉じる、子供の顔に胸が痛む。

守りたいのに。

絶対に守りたいのに。

もう、無理なのか。

神様は無力だ。
こんな小さな子を救えない。

あたしも無力だ。
この子を笑顔にする事しか出来ない。




翼、エマと三人で、再び手早く、それでも丹精込めて作った絶品夕食を終え、そろそろお風呂に入ろうかと言う時間帯。
だが、女性陣は皆、時計を眺めて、動かなかった。
カタカタと、人形がお茶を運んでくる。
これも、どうも、「つつじ」と「藤」の仕業らしかった。

エリィ達は、食後のデザートとばかりに、メリィのお菓子を摘んでいて、一緒に行けなかった千剣破も、大量にみんなで分けられるものを購入していた百合子の相伴に預かっていた。
男性陣も、畳張りの同じ部屋で、寝転がったり、座ったりと思い思いの格好をしつつも時計を見上げている。

「おそくね?」

嵐の言葉に、百合子が頷いた。

「遅いわね」

時雨が皆の分のアイスを買いに出かけると言った時、チーコに一緒に行くように薦めたのはいずみで、それに賛同したのは、千剣破、エリィ、翼達だった。
チーコの気持ちを分ってしまったという事もあり、明日タイムリミットを迎えるというのに、照れてばかりいてロクに時雨と話も出来ていないチーコに二人きりの思い出を作ってあげたかった。
時雨も勿論嫌がる素振りなく、恥かしがるチーコを抱き上げ、雨の中傘を差して出て行ったのだが、遅くとも30分程で往復できるはずの近所の小さな駄菓子屋に向かった筈なのに、一時間経過した今も帰ってこない。
状況が状況だけに、かなり心配ではあるが、身の危険という意味では、時雨の実力を知るエリィとしては、然程心配はしていなかった。
時雨はおいそれと敵に襲われて、チーコを危険な目にあわせるような腕前ではない。
エマと、黒須と共に、迎えに行っている冥月も、そこら辺は心配していないらしく、ただ、体調の変化によって、チーコが苦しみ、立ち往生しているのか、他に何か問題があったのかと考え出すとエリィは不安で不安で、仕方がなかった。

気を紛らわせる為に、ハートの形をしたチョコレートを口に放り込む。


ガリガリと噛んでいる途中で、玄関先から待望のチーコの声が聞こえてきた。

「ひぅあぅっ!」

慌てて立ち上がれば、皆も一斉に飛び上がるように立っていて、慌てて玄関に向かう。

「おう?」

黒須の腕の中で、戸惑ったような声をあげるチーコの姿を見て、へたりこみたい程の安堵感を覚えた。

「…ごめんなさい」

しゅううんとしぼんだみたいな顔をして、時雨が小さな声で詫びてくる。

「アイス…溶けちゃった…」

そう言いながらビニール袋を差し出す時雨に「いや、それは良いから何があったんだよ」と嵐が問えば、黒須が「傘を野良猫にやっちまって、そんで、バス停で雨宿りしてたんだと」と肩をすくめて答える。
「そのうち…止むかなって…思ったんだけど…どんどん…強くなってきちゃって…しかも、ボク、寝ちゃって……」

とろとろとした喋り方に、エリィはどんどん全身の力が抜けていくのを自覚した。

「ま…いいや。 無事なら」

竜子の言葉に皆頷く。
「チーコ、体冷えたでしょう? お風呂行こうか?」
そう言いながらエマが黒須からチーコの身柄を受け取った。
身を屈めて靴を脱いでいた時雨の胸元から、しゃらりと貝殻のネックレスが滑り落ちた。

ああ、渡せたのだとエリィは安堵し、エマに抱かれて先を歩くチーコを見て、にっこり笑いかけてみせる。
チーコはが何を言いたいのか分ったのか、「ふひひ」と恥かしそうに笑うと、両手で顔を覆ってしまった。



お風呂は、凄く広くて、石造りにも関わらず、見た目にも温かみが合って、全身を浸すとふわぁっと疲労が溶け出て行くような心地になった。

「気持ち良いねぇ」

エリィが白い肌を惜しげもなく晒しながら、そう呟けば、千剣破も美しい肢体を湯に沈めくつろいだ表情を浮かべる。
湯をサッと体に浴びせた後に、湯船に足を差し込んでいる冥月も見惚れる程のプロポーションを有していて、見事なバランスを有したスレンダーな体をぐぐぐっと伸ばし、「ああ、いい湯だ」と満足げに呟いた。

驚くべきは竜子で、皆、素顔を見て呆気にとられていたのだが、化粧を落とした素顔といったら、眉こそないものの、息を呑むほどの美人っぷりで、「うひゃー! やぁぁっぱ、日本人は風呂だな! 風呂!!」等と情緒のない事を言っているのが信じられない程に、美麗な顔立ちを有していた。
肢体とて、「何で、黒須さんが好きぞ? 目を覚ませ!」と肩を掴んで揺すってやりたくなる程のプロポーションで、何が、凄いって、胸がでかい。
日頃、特攻服の下の晒しで抑えているせいで分らなかったが、かなり、こう、豊満と言って良い程の大きさを持っていて、ぷかりと湯に浮かばせながら、「エリィ! エリィ! こんだけ広いと、ここで泳げるな!」等といいつつ、「にしし」と笑って、実際に平泳ぎをしようとして、引っくり返っている姿を見ていると、この世の中にこれほど「黙っていれば…」と思わせる女性も少ないだろうとエリィは思った。

大体、なんであんなみょうちくりんな化粧をするのか一切想像つかないが、まぁ、この性格にはあの化粧は凄く似合っている。
まぁ、そういうものよね、なんてエリィが納得した所で、ガラリと、戸が開く音が聞こえて、チーコを抱いたエマと、翼、百合子が入ってきた。

振り返るエリィの目にまず飛び込んできたのは、醜い傷だらけのチーコの体。
見られまいとするかのように身を小さく小さく縮めるチーコの体は、火傷の痕や、痣、中には酷い切り傷のようなものも見えて、「ああ」と心の内でエリィは詠嘆した。
先ほどまで見ていた、千剣破の肌も、いずみの肌も、冥月の肌も、竜子の肌だって、傷一つない、珠のように美しい肌で、エリィとて勿論まだ、何処もかしこも柔らかで滑らかな肌をしていて、チーコは、まるで、他の人と違って、傷がたくさん残る自分の肌を恥じるように、見られまいと体を硬くしている。

畜生。

口汚い言葉。
滅多に思い浮かびやしない、そんな言葉がエリィの脳裏に思い浮かんだ。
奥歯をぎりっと噛み締める。

畜生。

竜子さんは殺さなかった。
その選択はきっと「正しい」。

殺さないほうが、きっと良い。

だけど、思う。
こんな事をチーコにする奴をあたしは決して許せないとも。

エマが掛け湯をしてあげると傷に染みるのか、身を竦めるチーコを「えいっ!て、一度お湯に浸かっちゃえば、すぐに慣れるからね?」と励ましつつ、エマがチーコを抱えてゆっくりとお湯に浸かる。

ぶるぶると身体を小刻みに震わせ、目をぎゅうっと閉じていたチーコが、息を小さく吐き出し、体の強張りを徐々に解いていくまで、誰もが息を詰めてチーコの事を見守っていた。

「はふぅ…」と小さく息を吐き出し、漸くゆっくりと体を弛緩させる。
「えらい、えらい。 凄いね、よく我慢したね」
エリィが気持ちを込めてそう言いチーコの頭を撫でた。
「ご褒美に、エリィおねーさんが、チーコちゃんの頭を洗って進ぜよう。 あたし、手先器用だから、超気持ちいいよ?」
明るい、心の染み入るようなエリィの笑みに、気持ちもほぐれたようにチーコが頷く。
千剣破も、おどけた声で「ええー? いいなー! じゃあ、あたしの髪も洗ってよ! ほら、ご褒美に!」と訴えてきて、半眼になったエリィは咄嗟に「何のご褒美?」と問い返した。
「えーと…可愛いご褒美?」とわざとらしい上目遣いで言う千剣破に「不可! 自分で洗いなさい」とエリィはきっぱり答え、そのほのぼのとしたやり取りに、チーコが「ふぁうふぅ」と、漸くいつもの笑い声をあげてくれた。
思わずエリィと顔を合わせて微笑みあう。

ああ、よかった。
チーコちゃんが笑った。

百合子が、ぽちゃんと肩まで浸かると、チーコの傷のこと等何にも目に入ってないような、呑気な口調で「はぁ…気持ちいい」としみじみ呟き、自分の太ももを撫でさすると、「ね? 正木さん」と語りかける。
「…正木さん?」
気になったように翼が問えば「ええ、人面疽の正木さん」と事も無げに答えて、ザバァと突然肉付きの薄い足を「えい」と高く掲げ太ももを指差した。
「この人」
そう言いながら示す先には、確かに人の顔に見えなくもない痣が一つ。
「これが正木さん。 今は大人しいけれど、私がピンチの時には的確なアドバイスをくれるの」
そう言って「よしよし」と痣を撫でる百合子を皆、マジマジと眺める。
そういう能力がある…としても、興信所には特殊な能力の持ち主が多く集っていると知っているエリィには、別段驚愕の事実って訳でもないのだが、なんだか、どう見たってただの「人の顔に見える」痣にしか見えない。

「おじさんなんだけど、大丈夫、今は眠ってるし、お風呂中はね、紳士だから目を瞑っててくれるの。 だから、皆の裸も見られたりしないから安心してね?」

そう言う百合子に、皆、曖昧に頷いたり首を傾げたり、それぞれ反応を見せたのだが、百合子が最初の頃にまるで自分が何の変哲もない普通の人間みたいな物の言いを思い出し、どこかだ!とエリィは少し憤慨した。
彼女が喋ると、それまでの流れなんか全然把握してないような、頓珍漢なのに憎めない言葉ばかり吐き出して、雰囲気も何もかもぶち壊しにされてしまうのだけど、逆にそれがありがたかった。
あまつさえ、チーコの太もも部分の痣を指して「あ、これ、私と御揃いじゃないかしら? ねぇ、喋ったりしない? きっと、この子も人面疽よ」等と言い出し、色々な意味での恐怖にチーコをピシリと固まらせる。
「よかったね! きっとピンチの時には助けてくれるわ☆」そう無邪気に言う百合子にブンブンと首を振り、助けを求めるようにいずみに視線を送るチーコに「大丈夫。 絶対、喋らないから」と請け負うと、「怖いことを、チーコに吹き込まないで下さい!」といずみが百合子に注意した。
「えー? ロマンなのにぃ」
そう口を尖らせ言う百合子に、エマも、翼も「ぷっ」と噴き出し、「百合子さんに掛かると、みんなロマンになるんだね」と翼が面白そうに言った。
チーコは、そんなみんなの様子に先ほどまで見せていた固い態度を取り払い、自分の体の傷跡も、恥ずかしそうに隠すそぶりもいつの間にか見せなくなった。



寝床に布団を敷いて、皆で並んで眠った。
やはり身体を伸ばせて眠れるのはありがたく、前日徹夜でナビした事も手伝って、外のしとしととした雨音と、芳しい藤の香にぼんやりとした酩酊感を覚えながら、いつの間にかエリィは、夢も見ない眠りについていた。



最終日

「うひゃあああ!!」

無闇矢鱈な大声をあげて竜子が走り出した。
時雨もつられたように「わぁぁぁ!!!」と大声を上げて、案の定パフンと途中で転ぶ。
強い風が吹き渡っていた。

「まぁ、本物の砂漠には及ばないけど、やっぱ、ここはここで、奇景って感じで風情があるわね」
エマが風にあおられる髪を抑えながら言う。

そう、ここはかの有名な、鳥取県にある「鳥取砂丘」。
連休中という事もあってか、観光地らしく、ラクダなんぞに乗って砂丘を横断している人もあり、歓声をあげてはしゃぐ子供の姿もそこらかしこにあり、深々と大きめのパーカーを着て、フードを被り、顔を隠しているチーコも同い年位の子供達の声に何処となく嬉しげに聞いているように見えた。


今朝方は、それまで見せていた旺盛な食欲も衰えて、折角エリィ達が腕によりを掛けて作った朝食を殆ど残していた。
体調も酷く悪そうで、昼過ぎ頃まで眠らせて、少し顔色が良くなったのを見計り、神社を後にしてきた。

つつじと、藤の花に見送られ、心地良い神社を後にした一行が、ここを訪れたのは、エリィがパラパラと道を確認する為に捲っていたガイドブックを、布団の中から覗き込んでいたチーコが、砂丘のページに差し掛かった所、どうしても見たいとエマに訴えたからだ。
そのガイドブック一杯に広がっていたのは、夕日が沈み行く砂丘で、たくさんの子供達が駆け回る写真。
何かの砂丘にてイベントが行われた時の写真らしい。
母親に手を引かれ走る子供達の写真を見て、行きたいと願うチーコに、エマは二つ返事で了承し、他の者とて誰も反対しなかった。

チーコの為の旅なのに、自分の体調の事を含め、しきりに申し訳なさそうな顔をするチーコが、何だか健気で仕方がない。
エマはしゃがみこみ、自分の膝の間にチーコを抱え、その髪をゆっくりと撫でている。
百合子は、それでも平和な顔をして、小さな声で「月の砂漠」を唄っていた。
エマも小さな声で、囁くように百合子と合わせて唄う。
小鳥のように澄んだ可愛い声した百合子と、落ち着いた優しい声音で唄うエマは、強い風の中で、それでもかすかな歌声をチーコの耳にありったけの愛情を込めて注いでいた。
チーコは、余り持ち上がらなくなった腕で、それでもおぼつかない手つきで、冥月に貰った万華鏡を覗いていた。
いずみは、エマの膝に頬をくっつけて、二人の歌声に耳を澄ませていた。

昨日まで元気に見えていたのに、病の進行の仕方も人間とは異なるのか、肌の色艶も良くなくて、呼吸も微かに荒い。

苦しいのかな? チーコ。

虚ろな眼差しが彷徨って、エリィを認めると、弱弱しく微笑んだ。
何も悪い事してないのに、どうして苦しい思いをして、寂しい思いをして、その上、チーコは子供のままで死んでいくのだろう。

だが、現実は残酷で、時は間違いなく流れていて、少しずつ日は暮れていく。



時雨が子供達を連れて、チーコの元へとやってきた。
どうも、子供に酷く好かれる性質のようで、腕や足元に纏わりつく子供達を柔らかな笑みを浮かべて見下ろしている。
身長の高い時雨と、小さな子供達の影が、砂丘に長く伸びていた。
まるで、ハーメルンのようだとエリィは思う。
茜色に染まりだした空の下で、優しいハーメルンは子供達を、チーコに引き合わせた。
ガイドブックの写真を見ていたチーコの目は、憧れの眼差しで、きっと、時雨はチーコのあの目に込められた希望を読み取って、彼らをここへ導いたのだろう。
一瞬、エリィは「大丈夫かな?」と、どうしたって普通の人間の子供の姿とは違うチーコと子供達を会わせる事に不安を抱いた。
だが、時雨がいるなら大丈夫。
何だか、子供の扱いに関しては、時雨の右に出るものはいないような気がしたのだ。

自分の事を好奇心一杯で覗き込んでくる、実際の子供たちの姿に、チーコは一瞬身構えるも、時雨が言い含めてあるのか、子供達は驚いた目でチーコを眺めるも騒ぎ立てはしない。
チーコの姿をマジマジと眺めながらも、そのうちの一人の女の子が、素直な声で、「かわいい」とチーコを評した。
夕闇の赤い色が濃くなっていく。
チーコはおっかなびっくりの表情で、子供達に手を伸ばした。
一人の子供がチーコの掌を握った。
「かわいいね。 名前は、なんていうの?」

チーコは、震える声で答えた。

「チーコ」

はっきりとした発音で、何度も、何度も、皆が呼んでくれた自分の名を、大事に、大事に呟いた。

「チーコ…いう」
「チーコ。 可愛い名前」

子供達がさざめき、チーコに笑いかけた。

「かおりー! そろそろ行くよー!」
「聡、何処行ったの?」
「あら? 翠? 翠?」

砂丘のそこらかしこから、子供を呼ぶ母親の声が聞こえてきた。

「あ、呼んでる! じゃあね、チーコちゃん!」
女の子が一人手を振り、砂丘を越えて行ったのを切っ掛けに、子供達は皆それぞれ、母親の元へ帰っていく。

チーコは小さく手を振って、それから甘えるようにエマの胸に顔を埋めた。
ポンポンと頭を優しくエマは叩く。

「ひぃぅあぅ…」
エマが頬を、チーコの頭にくっつけて、「なぁに?」と聞いた。

「ふぅあぅぃぅう……」

エリィは、喉の奥が痛んだ。
時雨が、夕日に目を向ける。
海の波が、ザブザブとした音を立てた。

「……もうじき、……日が沈む。 ボク達も…行こう」

頷いて、立ち上がった時だった。


突如背筋を襲う寒気。
 
振り返れば、砂丘の上にずらりと男達が並んでいた。
皆、手に物騒なものを持っている。
タッと、素早い動きで駆け寄ってきたのは冥月。
流石と言うべきか、チーコの元にすぐ駆け寄れる位置で待機していたらしい。

「思ったよりも早かったな。 追いついてくるのが」

舌打ちせんばかりの表情で、そう呟くと、ひょいとエマからチーコを取り上げた。

「私の傍にいろ。 大丈夫だ。 絶対に傷つけはさせない」

冥月の言葉に、チーコが頷く。
「いずみは、時雨の傍に…」
「大丈夫です」
冥月の言葉をいずみが遮る。

「一応、自分の身は自分で守れますし…」
視線を向ければ、前回を遥かに超える人数が待機していて、いずみがきゅうっと目を細めた。

「あの人達…人間じゃない」

いずみの言葉に「いい目だ」と冥月は褒めると、「キメラだ」と呟いた。

「キメラ?」
「人間と、動物を掛け合わせてある。 あの、悪い奴らのお得意技らしい。 とうとう、相手も本気を出してきた」
そう唸るように言って、それから、「大丈夫なんだな?」と念を押す。
「ええ、足手まといにだけはならぬよう自衛に努めます」
いずみの頑なな表情に、冥月はしょうがないという風に溜息を吐けば「私も、これは、守られ役ではいられないわ。 サポート程度だけど、協力も出来ると思う」と、エマが強い目で告げる。
百合子はもじもじと「わ、私も…」と何か言いかければ、冥月は「百合子は、私と共にチーコを守れ。 抱いていてやってくれ」と、チーコをその腕に預けた。
細い腕で、おっかなびっくり、不器用にチーコを抱く百合子に一瞬不安を覚えども、今はそういう事態ではない。

「夜になれば…」

え?とエリィは首を傾げて、冥月を見る。

「夜になれば、私一人で全て片をつけられる。 闇は私の領域だ。 何が起こったのか分らぬ内に、皆地に沈めて見せよう。 だが、今は無理だ。 影を操って、あいつらを拘束するのは可能だと思うのだが、これがただの先発隊で、後からまた別部隊を送られてくる可能性がないわけではない。 今、この様子をまた、別場所から眺めているものがないとも言い切れぬしな。 こちらの能力を悟られれば、何某かの対抗策を練ってこないとは限らない。 向こうは、こちらを遥かに凌ぐ組織力と、資金を持っている。 この仕事が終わった後の事を考えると、はったりを効かせ続ける為にも、私の能力は、まだ、悟られない方が良いだろう。 まぁ、幸い…」

そこまで言って周囲を見回せば、異様な雰囲気を察したのか、観光客等は姿を消していて、「…周りを気にせず、思いっきりやれる。 夜まで保つか?」の問い掛けに、翼と、時雨が同時に片眉を上げた。

「冥月さん、こう見えても、僕は荒事も得意中の得意でね。 特に女性を守る時には、自分でも想像のつかないほどの力を振るえるんだ」

にぃと翼は美しくも凶暴な笑みを浮かべて見せると、「夜までなんて、長すぎる。 まぁ、見てて下さい」と冥月に宣言した。

時雨も、「大丈夫…夜になる前に…ここを出られるように…するからね?」とチーコに語りかけ、それからツイと同時に敵を睨んだ。
首をクキクキと鳴らしながら「ううん。 あんまり、暴力とか得意じゃないんだけどな」と呟いて、兎月原は柔軟を始める。
エリィは夕日の輝きを受け、キメラ相手では、多分これを使わざる得ないだろうと覚悟を決めて、赤く光るナイフを抜いて、「さて、チーコちゃん、あんまり待たせられないしね」と静かに呟いた。
黒須と竜子は一度視線を合わせ、ぽんと竜子が黒須の背中を叩いて「んじゃ、いってらっしゃい」と気軽な調子で言い、それから、冥月に向かって「あたいも、あんたの傍にいさせてくれ」と告げた。
「了解した」と、冥月は頷き、嵐が何か言いかけるより早く、「バイクで、かき回してやれ」と指示を下す。
ガクリと肩を落とし、「ほんと、俺、ただの素人なんだけど?」と問う嵐に、冥月がシレっとした顔で「いや、素人にしておくには勿体無い度胸と身体能力を持っている。 励め」等と、嵐の師匠と見紛うばかりの励ましの言葉を口にした。

千剣破が海へと向かって歩き出すと、「いずみちゃん、あなたの目であたしをサポートして」と声を掛けた。
海の水を使って、遠距離から近接戦の面々をサポートするつもりだろう。
先ほどの様子を見ても、かなり目が良いいずみの協力を得て、力を振るってくれるらしい。
だが、彼女の強張った表情が、なんだか少し気になった。
ピンと張った糸が、今にも切れそうな風情に見えたから、いずみも、一瞬気遣わしげに、千剣破を見上げたが、その視線に余裕をなくした、彼女は気付かなかった。

「日があるうちは、私はチーコの守りに徹する。 任せたぞ」

冥月が、そう告げると、一際強い風が吹いた。

「チーコを苦しめた連中だ。 死なない程度にしか、手加減はしてやらない」

翼が剣呑な宣言をするのを合図に、それは始まった。

向こうの人数は、圧倒的に多数。
だが、個人個人の実力は、比べるまでもなく此方の方が上。
人数押しで来る向こうの攻撃を少ない人数で、どれだけ押し留められるのかが鍵になってきていた。

冥月の体の傍に、ぴったりと百合子が身を寄せて、チーコを抱きながら戦況を見守っている。
冥月は表情を変えず、腕を組んだまま微動だにしない。
千剣破は、海の水を硬球に変えて、一気に敵に降り注がせていた。
痛みに怯むものや、当たり所が悪く、一撃で昏倒するものもいる。

エリィは持ち前の俊敏さで、どんどん相手を失神させていくが、何にしろ数が多く、そして、今回は今までと比べ物にならない程相手がタフだった。

酷く手の長い、顔にまで獣毛が生えた男がエリィを捕まえようと躍起になって手を伸ばしてくる。
その間隙を縫い、鳩尾にナイフの柄を叩き込み、後ろに蹴り飛ばすと、背後に迫っていた全身硬そうな灰色の皮膚に覆われた大男の膝に躊躇なくナイフを突き立てた。
如何にも、打撃が効かなそうな相手には、足を攻撃して行動不能に陥らせていく。

身体能力が、獣の特徴を備えることで、飛躍的にアップしているらしい面々は、マジマジと眺めたい程、エリィの好奇心を掻き立てたが、今は、そんな余裕はない。
「殺してはならない」の制約は、名うての実力者達にとっては、少々面倒なものらしく、それぞれ手加減の程に苦慮しているようだった。
接近戦を得意としているらしい、兎月原は、確実に一人一人に当身や、急所への攻撃を仕掛け、意識を奪っていっている。
嵐は、冥月の言葉どおり、バイクで敵が固まっている場所に突っ込み、散らしたり、タイヤを使って巻き上げた砂によって、視界をさえぎったりしていた。

振り返れば、夕日が徐々に沈み始めていた。
冥月の時間が近づいてきている。
負傷者や、深刻な重症を負う者もなく、冥月の言葉を信じれば、これにて決着が着くのだろうか?と思われた矢先の事だった。

冥月が、もう少し戦況が見渡せるような、高台へと移動を始めた。

強い風が吹いた。

チーコが万華鏡を落とした。


コロコロコロと、万華鏡が転がっていく。

その刹那、もがく様に百合子の腕を抜け出したチーコが、その後を追った。


「っ! チーコ!!!!」

初めて、冥月が声を荒げた。


コロコロコロ、冥月に貰った万華鏡が砂漠を転がっていく。

トテトテと、もう歩けぬ足で、それでもよたよたと、チーコが必死に追った。
慌てて、冥月がチーコに走り寄るより早く、四つん這いになって人間ではありえない速さでチーコに走り寄ってきた男が、まるで、サッカーのボールを蹴るみたいに思いっきり、チーコを蹴っ飛ばした。

「ヒュゥッ」と喉の奥が狭まる。

悲鳴が喉の奥で暴れていた。

チーコが玩具みたいに吹っ飛ぶ。
砂の上を、二三度バウンドして、ごろごろと体を転がしたチーコ。


「逃げて!!! チーコ、逃げてぇぇぇぇ!!!」


いずみが叫んでいる。
自分に飛び掛ってきた、全身を虎のような毛皮で覆われた男を、視線も向けないまま蹴り飛ばした。


もし、目の前で、チーコが無残に殺されたら…


彼女を守りきれなかった自分を、自分は一生許せないだろう。

それは、圧倒的な恐怖心。

チーコは、動かぬ足を砂の上でもがかせ、そして、腕で這いずるようにして、それでも、万華鏡を追った。
ずるずると這い手を伸ばす先に、万華鏡が触れるか否かの間際、横たわるチーコの体を、先程チーコを蹴り飛ばした男が思いっきり踏みつけた。

「うぐぅはぅっぅっ!!!」

悲鳴とも喚き声ともつかない声。
エリィの頭が真っ白になる。



幸せな気持ちだけで一杯にして、幸せな時間を過ごさせてあげる筈だったのに。

やばい
喚きたい
喚き散らしたい

怒りに任せて、周りの奴ら、全部殺しちゃいたい


だって


だって


チーコが!

チーコが!!!




「チーコ!!!!」


絶叫に似た、それは、紛れもない咆哮だった。

百合子が夢中な様子で、チーコの上に覆いかぶさる。
竜子が、そんなチーコと百合子の前に、彼女達を全ての脅威から守るかのごとく立ちはだかった。

あれが彼女たちの覚悟。
殺さなかった彼女たちの命がけの覚悟。


稲光が聞こえた。
酷く凶暴で荒れ狂うその音に、全てのものが一瞬、空へと視線を向け、そして、海の様子に瞠目した。

真っ黒な海。
荒れるなんてものじゃない、それは、異常な姿だった。

千剣破の様子が明らかにおかしかった。

彼女の仕業か?

千剣破の周りを黒い水が取り囲む。
海の色は、黒炭を流し込んだような漆黒。
海から巨大な水の竜巻が幾つも立ち上がっていた。
真っ黒な海。

酷く禍々しい、その姿。

「あ…ああっ、あっ…!! 許せない…許せない…許せないっ!!!!!!!!!」

目を見開いたまま、千剣破が強い声で繰り返し叫ぶ。
ビリビリと周囲の空気が震えていた。
空に暗雲が立ちこめ、稲光の音が聞こえてくる。


黒い水を身に纏い、真っ白な頬を更に白くさせ、爛々とした目で敵を見据えている。


酷く恐ろしく、酷く神々しく、酷く美しく、そして酷く危うい。

髪の毛が風に舞い上がる。
普段より赤く色づく唇が、きゅうっと引き結ばれる。

皆が、海の様子、そして千剣破の様子を凝視していた。

敵の男達の中には、明らかに危険なこの状況に既に逃げ始めたものもいる。


「いずみ…、千剣破を止めろ!」

冥月が叫んでいる。

冥月が焦っている。
その事をもってしても、今の危機状況が如実に把握できた。

チーコだけでも、守らないと!と焼け付くような危機感に焦るエリィであったが、それよりも早く、いずみが、突然ぐいと手を伸ばし、千剣破の胸倉を掴むと、下に引き寄せ、その頬を思いっきり張り飛ばした。

「うわ」

その容赦ない一撃を見て、思わずエリィは自分の頬を抑えて痛そうに呻いてしまう。


「しっかりなさい!!!!」

凛とした声で、いずみが千剣破を叱る声が聞こえてきた。

「泣いているでしょう! チーコが泣いているでしょう! 今、あなたは、誰のために力を振るおうとしているの?! それは、誰を守る為の力なの?! 正気に戻りなさい! 泣かさないで、チーコを! 千剣破さん! 泣かさないで!!」



チーコの泣き声。


万華鏡を抱きながら、チーコが泣いている。



いけない。
チーコ、泣かないで。
泣かないで。



幸せな気持ちで。
幸せな気持ちで…。


嗚呼、そうだ。
あたしは、その為に、ここにいるんだ。



いずみの言葉に徐々に千剣破の焦点が結ばれる。
海が徐々に静まり始めた。
ほっと、安心したところで、チーコに慌てて視線を送れば、黒須が竜子を鋭い爪で切り裂こうとしていた男を叩き伏せ、時雨がチーコを抱きかかえようと手を伸ばしていた。

千剣破が呼んだ暗雲も、霧散し、その下の茜色の空が、夜の闇を濃くし始めている。

冥月が、明らかに身に纏う空気を冷たく、凍りつかせながら敵に向かって歩き出し始めていた。
手には黒い刀を持っている。

あとは決着の時を待つだけと、目の前の敵を叩き伏せながら、心を落ち着かせるのエリィの耳に、一発の鋭い銃弾の音が届いた。


ドラマみたいな、偽者みたいな銃弾の音。


音のするほうに目を向ければ、まるで壁になるみたいに、チーコや竜子達を守る為両手を広げている黒須がゆっくりと倒れる姿が目に入った。


まるで、世界中の速度が、スローモーションになったように見えた。


黒須…さん?

衝撃を受け立ち竦む。

黒須さんが…撃たれた…。


「あ、やばい」

酷く軽い口調でエマがいう声が聞こえ、思わず視線を向ける。

特殊な「声」による攻撃で、千剣破からは別方向からの、遠距離射撃を行ってくれていたエマが、とっとっとと、軽い足取りで走り寄ってきていた。
夢中になっていて気付かなかったが、自分の周囲の敵をあらかた片付けてしまっていた事に、自分でもちょっと驚く。


「久しぶりに、見ちゃうかも。 見ちゃうかも」

そう呟くエマに、「な、何を?」とエリィは問い掛けた。

「怪奇。 蛇男」


真面目な口調で言うエマに「「蛇男??」」と、周りにいた面々が一斉に首を傾げた。
疑問に翻弄されるエリィの目に、驚くべき光景が映った。
夜闇の下、「あ、っ、っつぅっ、ち、畜生っ!!」と黒須が叫び、蹲った次の刹那には、彼の姿が、下半身大蛇の姿へと変わっていた。


濡れた輝きを見せる黒い鱗に覆われた大蛇の尻尾がのたくっている。
6.7メートルはあるだろうか?
その長く、丸太のように太い下半身をくねらせながら、蹲る黒須の姿に、咄嗟に生理的な嫌悪感を感じて鳥肌を立たせる。
どういう事かも見当がつかず、ただただ、黒須の姿に魅入られた。

怖い。
気持ち悪い。
不気味でしょうがない。

だから、目が離せない。

何が、どうなって、こういう姿になってしまったのか。
それとも、元からこういう生き物だったのか。
醜い。
それは、酷く醜い姿だった。

エリィは驚愕を禁じえない。
想像以上の、真実だった。

着ていたスーツは無残に破かれ「今回は、この姿になんねぇで済むって、踏んでたのに!」と悔しげに喚く。

エマを除く全ての面々が、硬直していた。
硬直…せざる得ないだろう、この姿には。


「う、うううっううぅぅぅ!!」

エリィは、背筋を這い上がる生理的嫌悪感に唸り声をあげ、ぎゅうっと握りこぶしをしたあと、耐え切れないように目を逸らす。
嘔吐感が込み上げる。
なんて、醜い!!
そう思えど、そういう風に思う自分も、凄く嫌で、どうすれば良いか分からずに涙目になる。
咄嗟に唇から、吐き気混じりの言葉が零れ落ちた。
「き、気持ち悪いよう…」かなりの本気声で、エリィは呻く。


「な、んな、なっ! なんなんだ! あれ!」

ずびし!と黒須を指差し嵐が喚けば、エマは一瞬の逡巡の後、随分老成した虚ろな眼差しを見せると「…呪われた蛇一族の末裔なの、黒須さん」と限りなく棒読みな声でそう告げた。
普通ならば、光の速さで「嘘だよね?」と気付ける、好い加減具合最高潮なエマの台詞なれど、状況が状況だけに、皆一様に「蛇、一族…」と、恐ろしげに呟く。

(人間の姿の時から、ちょっと蛇っぽいって思ってたけど…ほんとに、体の半分が蛇なんて!!)

そう戦慄を覚えつつ、それでも優しいエリィは、命に別状がないのなら良かったと安堵した瞬間、ふと、嫌な気配を感じて、砂丘の上に視線を向けた。


そこには、今、この場にいるどの男たちとも雰囲気の違う二人の男が立っていた。

一人は仕立ての良いダブルのスーツを着こなした長身の男で、他の粗野な雰囲気を身に纏う男たちとは一線を画する威圧感を有している。
派手な色に染めた少し眺めの髪を、鬣のように後ろへ流して風に舞わせている。
顔立ちは端正で、精悍でありながら、後ろ暗い、ヒリヒリとした危険を感じさせる危険味も含んでおり、全身から「只者でない」空気を発散していた。
今回の一群を率いている幹部らしい、体格の逞しい男が、腰を低くしながら、追従するような様子で何か鬣の男に伝えている。
その隣に立つのは、男と対照的に身長も低く、青白い顔をした細い男で、白衣を風になびかせながら、脇に立つ男達のやり取りなど一切無関心といったように、戦況を凝視していた。

Dr。

K麒麟を、飛躍的に強大な組織へと仕立て上げたマッドサイエンスト。

まさしくと言った風貌に間違いないと確信する。

ぎょろぎょろと目ばかり大きく、銀縁の眼鏡の中で彷徨っている視線が、黒須を捉えると、ギラギラとした輝きに満ち始めた。

こんな人間と、動物を掛け合わせたキメラを作ったり、チーコのような子を攫ってくる人達だもの。
黒須のような人間に興味を持つのも不思議はないと思いながらも、Drの視線の狂気的な有り様に怖気を奮う。

(黒須さん、変な目のつけられ方をしなければいいけど…)と思えど、今は、先の事を考えている余裕はないと、エリィは現状の把握に意識を集中させようとする。

だが、そんな必要は一切なかった。

夕日が完全に沈みきり、あたりは夜闇に包まれる。

「待たせたな」


低い声。


無慈悲な夜の女神。


黒冥月が動き出す。

「じゃあ、終わりを、始めようか」

黒いロングスカートが風に揺れる。
髪を高く結った冥月が両手を広げた。

チーコへの狼藉を目の当たりにした面々も、その怒りを力に換えて、敵方を睨み据えている。



夜が来るという事。
それは、「冥月によって、全て片がつく」という事と同意語でもあった。




思わぬ時間を取られたせいで、山口県に到達する頃には、夜明けが近付いて来ていた。

砂丘の上に見た男達は、冥月に尋ねど「取り逃した」らしく、悔しさの欠片もなく「つくづき逃げ足の早い連中だ」と呟いた。


チーコの蹴られた傷跡は、もう微塵も見当たらない。
千剣破の水の力によって、傷を癒したのだ。
疲れきった様子の千剣破ではあったが、最後の力を振り絞り、チーコを癒す姿を見て、エリィは心底、彼女にはこういう力の使い方の方が似合うと感じた。
チーコの蹴られた時の記憶は、翼の「事象の操作」という恐るべき能力によって消されていた。

「本当は、タイムパラドックスを引き起こしかねない、使ってはいけない力なんだけどね…これ位なら、大丈夫だろう…」と言って翼が新たに作り上げた事象は「蹴られた際に、チーコは意識を失い、砂丘で暴力に晒された記憶は、ショックで消えてしまった」というもの。
傷跡もなく、記憶もないチーコは、まさか自分が恐ろしい目に合っていただなんて事も、すっかり知らぬ気に、穏やかな様子でエマの腕の中でじっとしていて、エリィは心から安心した。

良かった。
不幸せな思い出は、三日間の間一つだってチーコの中に残したくなかったから、本当に良かった。





潮岬…本州最南端の海。


その海を一望できる、灯台の上に立ち、チーコが夜の海を眺めていた。

もうじき、夜が明ける。

チーコは、自分を抱いていたエマの腕を優しく叩き降ろしてくれるようにと頼んだ。


ここが彼女にとっての、最期の地。


見上げれば満天の星空があって、皆息を殺してチーコを眺めた。


チーコは、自分の運命全て分っているかのように微笑んで、一礼する。

キラキラキラと、夜闇を引き裂くように、流れ星が落ちていった。



唐突に、何の予備動作もなく、その喉からチーコは、燃えるような、熱く、熱く、力強い声を出した。



「会わなければ よかったと

思う私を 許してください」


それは紛れもなく、人の、日本語の、エリィ達が使う言葉の 歌。






会わなければ よかったと

思う私を 許してください


闇の中で 息絶えていれば

生きたいと願わずにいられたのでしょう


優しくされて

優しくされて


私は死ぬのが怖くなった

優しくされて

優しくされて


私はとうとう恋をした


幸せです
不幸せです

嬉しいです
寂しいのです

抱きしめて
触らないで

全部嘘です
全てが真実


あなたが 好き





チーコが手を延べる。
視線の先には時雨がいる。





あなたが 好き


好きじゃない
嫌い

だから 泣かないで
笑っていて
私が いなくなっても 笑っていて


真実

あなたが 好き

だから 笑っていて

私が いなくなっても 幸せになって

私の事を忘れてください


いやだ

私の事を忘れないで

うそ

わすれていいの

だから

幸せになって 幸せになって

好き 好き 好き 好き さようなら



「あなたに あえて よかった と おもう わたしを ゆるしてください」


炎の歌。
命を燃やす歌。

夜が明け始める。

チーコの指先が、髪が、炎に変わり始めた。


その全てを燃やすかのように、チーコが唄う。

最期の歌。

時雨が、転げるように、チーコに走り寄り、その体を抱いた。


「チーコ!!!」


幸せになって


「チーーコ!!」


幸せになって

「いやだ…いやだよ…チーコ…一緒に…故郷…見に行こうって言った…約束した…嘘つき…チーコの…うそつき…あっ、ああっ、うああっ、わああっあああああっ!!!」


慟哭。

自分の全身が炎に包まれるのも構わずに時雨はチーコを強く抱きしめた。
一緒に燃えてしまうんじゃないだろうか?と心配になった。
赤い髪が、体が、何もかもが炎に包まれて、時雨は夜闇の中で、チーコを抱いて燃えていた。


キラキラと炎に包まれ、光の粒が二人の周りを舞う。

ああ、あれは万華鏡の光の欠片。

焼けた万華鏡の中から、光が舞い上がり二人の周りをひらひら飛んでいる。


チーコは最期の瞬間エリィを見た。

エリィは、うまく笑えずに、泣くことも出来ずに、どうしていいか分らなくなる自分に戸惑う。
そんなエリィにチーコは言った。


「また いっしょに あそんで」



あっ!

喉が焼ける。

あっ!

鼓膜が燃える。

爆発的な悲しみに襲われ、エリィは体を折り曲げた。

先の約束を 命の終わりの間際に強請られた。

エリィは、頷く。

何遍でも、何十偏でも頷く。


また いっしょに あそぼう


朝日差す海。
目を射るほどの輝きが海面一杯を満たす。




その瞬間、チーコの体は全て炎と化して、消え果てた。



時雨が喚く。
声にならない声で。

赤い髪が炎のように揺れていた。



そして、眩い光の中真っ黒な影の塊になって、時雨は長身を折り曲げ蹲ると、唇を押さえ、耳を押さえ、目すら閉じて、全て、全て記憶にあるチーコの全てを、何処にも逃さないかのように、じっとそうやって、じっと、蹲り続けた。

まるで、両手を組み合わせていないのに、その姿は祈りに見えた。

酷く敬虔な祈りに見えた。


神様は、呆れる程に無力で、チーコの命を救えはしなかったけど、それでも最期彼女は笑っていたから、笑っていたから……

エリィは、祈りの代わりに、自分の体を抱きしめる。


いとしいチーコ。


ばいばい チーコ


夜明けの海が、エリィの目を射た。



鼓膜を焼かれるような歌だった

恋の歌

チーコちゃん

生きたね

精一杯生きたね

あたしも 生きるよ

あなたの歌を胸に抱いて

あたしは 生きるよ


ばいばい チーコ
夜の海のチーコ

あなたの事は忘れない
あなたの歌をあたしは忘れない




fin

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1271/ 飛鷹・いずみ   / 女性 / 10歳 / 小学生】
【3446/ 水鏡・千剣破  / 女性 / 17歳 / 女子高生(竜の姫巫女)】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【7520/ 歌川・百合子/ 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2778/ 黒・冥月 / 女性 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【5588/ エリィ・ルー / 女性 / 17歳 / 情報屋】
【1564/ 五降臨・時雨  / 男性 / 25歳 / 殺し屋(?)/もはやフリーター】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】



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■         ライター通信          ■
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出来上がりが遅くなりまして、大変申し訳有りませんでした。

本当に、長い、長い物語にお付き合いくださいましてありがとう御座います。
三日間、参加してくださった皆様も楽しいときが過ごせていたら幸いです。
チーコは皆様のお陰で、幸福な気持ちでこの世に手を振ることが出来ました。
彼女の最期の歌を是非、忘れないでいてください。
夜の海のチーコ。

終幕で御座います。

尚、momiziのウェブゲームは、登場人物全ての方、それぞれの視点に即した物語となっております。
お暇なときにでも、他のウェブゲームにもお目通し頂けると新たな真実や、自分のPCが他PCにどう思われていたのかを、知る事が出来るかと思います。

それでは、momiziでした。