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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【夜の海のチーコ】


〜OP〜

今日はチーコは四回殴られた。

一回目は、唄ってる時に笑ったから。
二回目は、お昼ご飯のパンくずを床に落としてしまったから。
三回目は、殴られた時に吐いた血で殴った人の手を汚してしまったから、
四回目は、何となく。

チーコは、南の海にある活火山を抱く小さな島で生まれた。
チーコは、その島では仲間達から「可愛いチーコ」と呼ばれていた。
友達思いのチーコ。
笑顔が素敵なチーコ。
可愛い、チーコ。

チーコは、ここでは、名前を呼ばれない。
ただ、「化け物」って人間はチーコの事を呼んだ。

それは突然の嵐だった。

チーコが住んでいた南の島に、ジェット船に乗った人間たちがやってきた。
誰かと喧嘩なんてした事のないチーコの仲間達は、みんな一編に殺されたり、捕まったりした。
チーコは捕まった側で、そのまま、「新宿」ってトコにある、あんまり性質の良くない店で見世物としてショーに出されていた。

チーコの種族は、皆歌が上手だった。
燃える様な、命を燃やすような、赤い、赤い、力強い、炎のような歌を歌った。
人間はチーコの歌を珍しがって、たくさんの人間の前で散々に歌わせた。

チーコは、10歳。
活火山がある、南の島で、毎日歌を歌って暮していた。
その日々は太陽みたいに暖かくって、海のように無限に続くと思ってた。

カフッ。

薄暗い小さな小部屋で、チーコは小さな口からたくさんの血を吐き出す。
此処に連れてこられて、もう一年になる。
チーコは、南の島の美しい空気の中でしか本来は生きられない生き物だった。

もう、永くない。
チーコは分っていた。
もう、私は、永くない。

目を閉じる。
おかあさんの顔
おとうさんの顔
友達の顔

チーコももうじきそちらに逝きます。
チーコは笑う。
怖くない。
怖くない。

ただ、恋をしてみたかった。

何度も、何度も、喉を震わせ、情熱的に歌った恋。

チーコは知らない。
恋を知らない。
チーコは知らない。
それが、どんなに幸せかを知らない。

突然、大きな音がチーコの鼓膜を震わせた。

「アァ!!」

声を上げて跳ね起きる。
すると、自分の顔を覗き込む黒い影にチーコは気付いた。
「ああ、間違いない」
男の人の声。
キンキンとした、鼓膜をやけに引っ掻く声。
パチパチと瞬いて、チーコは見上げた。
黒く長い髪が揺れていた。
何だか険しい顔。
南の島にたくさんいた、蜥蜴や、蛇にちょっと似ている。
けれど、彼らはこちらが乱暴をしなければ決して、牙をむく事のない大人しい生き物立ちチーコは知っていたので、チーコはちっとも怖くなかった。
恐る恐るといった手つきで、骨ばった硬い手が、チーコの体を抱き上げる。
煙草の匂いが、チーコの鼻腔を擽った。
「ひぅあぁ?」
喉を震わせ、だあれ?と問う。
「助けにきた」
思いの外優しい声だった。

チーコは、疑う事を知らない子だったので。
何度でもそれで騙されて呼ばれて笑って傍によって、何度も、何度も蹴り飛ばされるような子だったので、「ひぅふぁぅぅ!」と高い声を上げて笑って、しっかりとその胸にしがみ付いた。

夜の空の下、男はチーコを抱えて駆け出した。
長い髪が、漆黒のカーテンのように風に煽られ広がる。

きれいだな。

チーコは手を伸ばし、さらさらとした手触りに微笑んだ。

きれいだな。

夜のカーテン。
なんて、美しい帳。

「化け物が逃げたぞ!!」」
後ろの方から声が聞こえる。
チーコをたくさん殴った男たちの声だ。
「ひぁふぅ!」
叫んで後ろを指差し、気をつけてと叫ぶチーコの背中を分ってるよという風に優しく叩いて、髪の長い男は誰かを呼んだ。
「竜子!!」
るーこ?
首を傾げるチーコの耳に、闇を切り裂くエンジン音が聞こえてくる。
あれ、知ってる。
あれ、バイクってゆうんだ。
チーコの見張り役の男が読んでる雑誌に載ってたよ?

「誠!!」
女の人の声。
凛とした、強い声。
バイクに乗ったその女の人は金色の髪を靡かせて、チーコと男の前に急停止すると、慌てた様子でヘルメットを投げつけて「追手は?!」と問い掛けた。
「しこたまだ。 とっととずらかるぞ!」
そう誠と呼ばれた男は答え、宝物を抱くような手でチーコを抱き直し、るーこのバイクの後ろにまたがる。
「大丈夫。 怖くないから」
るーこが優しい声で言った。
「大丈夫。 行こう、チーコ」
誠が、チーコの名前を呼んでくれた。
「ひあぅぅふぅるるぅぅ!」
嬉しくって大声で笑う。
るーこのバイクが、夜闇の中を猛スピードで駆け出した。
神様だってきっと追いつけない。
大型バイクは、そうやってチーコを暗い部屋から攫っていった。

*******************************

「で?」
「匿って欲しい」
黒須の言葉に武彦は、はぁと溜息を吐き出した。
「この前は不良娘の捜索で、今度は…」とそこまで言ったところで、零が常に無い強い声で「お受けします」と勝手に返事をしてのける。
「おい…零!」
そう非難の声をあげる兄をキッと見据え、「受けるんです!! 絶対に」と殆ど悲鳴のような声で兄に詰め寄った。
「…まぁ、こっちとしては報酬さえ受け取れるんなら、別段構わないが」
そう言いながら、ひしっと小さな掌で黒須の服を掴んだまま膝の上で眠るチーコの顔を見つめる。
ステージに上げるからだろう。
顔にこそ傷はなかったが、体中痣だらけで、煙草を押し当てられた火傷の痕も点々とあった。
「…まだ…子供だぞ」
黒須の隣に座る竜子が軋む声で呻いた。
「…こいつ…まだ…子供なんだぞ」
自分だって世間じゃまだ、充分子ども扱いされる年齢の癖に、ぎゅっと握り拳を固めた、相変わらず派手な特攻服に身を包んだ女は「糞野郎共だ」と吐き捨て、「頼む」と律儀な声音で呟き、頭を下げてきた。
「…で? 何なんだ、この子を追って来てる奴らの正体は」
武彦が問えば、「アジア諸外国を縄張りに、麻薬の密売やら人身販売やら、まぁ後ろ暗い商売の業界で一気に伸し上がってきた新興のマフィアだよ」と黒須は答えた。
「で、そこのトップっつうのが、若干キてる趣味の持ち主でね。 人間と動物を掛け合わせて作るキメラの研究やら、人間外の珍種なんかを世界中から攫ってきてオークションに掛けたり、ショーに出したりするような、そういうえげつのねぇ商売もやってやがんのさ」
黒須の説明に、武彦はチーコの容貌をもう一度しげしげと眺めた。
チョコレート色の肌。
オレンジ色の髪。
鳥のような声。
小さな体は、人間の子供と変わりない形をしているが、唯一つだけ、大きな違い。
大きな、大きな一つの目。
チーコには目が一つしかなかった。
顔の真ん中に一つ、燃えるような太陽色の綺麗な目玉。
「ベイブが…俺達の上司がね、この子の事を見つけてさ、何とかしてやれってお達しが出たんだ。 たまに、そういう慈善事業めいた事をしたがる奴なんだが、今回はバックがやべぇ。 とにかく、三日間。 何とか、三日間あいつらからチーコを守ってやってくれ」
「何故三日間なんだ?」
そう問い掛ける武彦に、黒須はチーコを見下ろして、その唇に手を当て、彼女が確実に眠って居る事を確かめると、囁くような声で言う。
「保たない」
「……何がだ」
「チーコがだよ。 一年間、この汚れた街で引き絞るみたいにして生きてきた。 保たないんだ。 あと三日なんだ」
「それは…」
確かなのか?と問い掛けかけて、事務員が教えてくれた、彼らの上司と言う男が、全てを見通す力をある鏡により得ている事を思い出す。
「多分、俺達の住んでる城に連れてけば、多分危険に晒されないで済むんだろうが…そりゃあ、あんまりだろ? 最期位、外の世界で、楽しいもんばっかり見せてやりてぇんだ」
黒須の言葉に、武彦は溜息を吐き出して、零を横前で見れば、大きな目に既に涙を溜めていて、「兄さん…」と震える声で呼んでくる。
「あーーー、もう、分ったよ。 請け負うから、お前は泣くな、お前も!」
そうズビシと指差された竜子は、既に鼻水もだくだくに流していて「ううう、…だのむからなぁ?」と涙に濡れた声で告げてきた。

チーコを守るだけならともかく、その背後にあるマフィアまで相手にしなきゃならないとなると、かなり面倒な案件になるとひしひしと感じながら、武彦は二人の女の涙に負けて、この厄介な依頼を引き受ける事にした。




〜本編〜




初日。


「えーと…えーと……」

露天商の若い男は露骨に顔を顰めている。
黒い布の上に広げられているのは、チャチなアクセサリー達。

「…えーと……あ、うん…よし…これにする」

そう言いながら、五降臨・時雨の指先が摘み上げたのは赤とピンクが二つセットになった、可愛いハートの髪留めで、かれこれ30分以上悩みに悩み抜き、乏しい財布の中からなけなしのお金を出して買ったそれを、ポケットに大事に仕舞いこむと、時雨はスキップせんばかりの足取りで、興信所へと向かいだした。

武彦に召集をかけられた時、毎度毎度の「超金欠」状態という危機的状況に瀕していた時雨は、諸手をあげて喜んだ。
時折、興信所で請け負う依頼によって入る報酬は、時雨にとっては貴重な収入源であり(はりきって…こなして…ちゃんと…報酬貰わなきゃ…)と意気込む時雨に伝えられたのは、悪い奴らに捕まっていた一つ目の女の子を三日巻守って欲しいという内容。
詳しい事は事務所で話すと言われていたが、時雨は、お金もない癖に、女の子ならきっと喜ぶと思って、長い長い時間を掛けて、髪留めを一つ選んでいたのだ。

「一つ目…って…、どんなかな?」

首を傾げながらも、子供が大好きな時雨は、早く会いたくて仕方ない。
子供と一緒の仕事なんて、きっと楽しいに違いない!と思い、興信所に辿り着く道すがら、鼻歌なんかを歌っていた時雨は、なんだか不穏な気配が首筋を焼くのを感じて、「あれ…?」と小さく呟いた。

道の真ん中で立ち止まり、首を傾げて1・2・3秒。

「うん…悪い奴!」

それは、驚異的なまでの勘の鋭さから得られる確信に似た、直感だった。
その瞬間、時雨の姿が消えた。

いや、消えたように見えた。

秒速200m。

リミッターが掛かっている状態でも、人間のスピードを遥かに凌駕した速度で動ける時雨は、次の瞬間には建物の影に隠れていたスーツ姿の男を昏倒させている。

もう一人傍らにいた男が腰を抜かしているので、「興信所に…、何の…御用…?」と問い掛ければ、「ひぃ…っ」と悲鳴をあげるばかりで、話にならない。
溜息を吐き、しゃがみ込んで、「興信所…ずっと…見てる。 チーコに…何か…用事?」と、もう一度問えば、回答より先に銃を突然撃ち放そうとしてきた。

(あーあ…。 こんな…危ないもの…持ってたら…怒られる…のに)

そう思いつつ、男が引き金を引くより早く撃鉄部分に指を挟みこみ、発砲を防ぐと、そのまま拳で軽く額を打てば、男は脳震盪を起こしてぶっ倒れた。
薄暗い裏道から、数人男が走り出てくる。
みんな銃を構えていたが、撃つのは躊躇しているようだった。
当然だ。
発砲音なんかがあれば、通報は免れない。
だか、時雨はそんな事までは、考えを及ばせず、唯々(あー…みんな…危ないもの…持ってる…)としか思わずに、彼らが銃口を自分に向けるので、突っ切るようにして一気に詰め寄り、みんな叩き伏せておいた。

(こんな…危ないもの持って…興信所の事を見張ってる…なんて…やっぱり…悪い奴ら…だった)と、うんうんと頷きつつ、路地を出て、ふと公園に設置されている大きな時計を眺めれば、時刻は集合遅刻をとっくに越えている。

(や…ヤバイ! 遅刻…! 減給…! 生活困難…! ……餓 死 !)

顔色を変えて、事務所に一気に駆ける時雨。


慌てて、事務所の扉を開け、第一声まず、大きな声できちんと謝った。

「ご…め…なさ…ぃ…! お…そくなった…っ!」


頭を下げ、顔を上げれば、そこにはポカンとした面々がいる。
ふと足元を見れば、オレンジ色の髪をした、一つ目の小さな小さな女の子が時雨を見上げていた。

(ああ…やっぱり…可愛い…!)

時雨は自然と満面の笑みを浮かべ、ひょいとしゃがみ込むと、「チー…コ…?」と武彦から聞いていた名前を呼びつつ首を傾げた。
チーコがこくんと頷く。
にっこりと時雨は笑いかけ、その手を握り締めて、ぶんぶんと振る。
「は…じめま…して、ボク…は…、五降臨…時雨。 時雨って…呼んで…ね?」
首を傾げてそう言った後、ふと、皆が、今から出て行く所と言わんばかりの様子なのに気付いて、眉を下げると、まるで置いて行かれる子犬のような目をしながら「何処…か、行く…の…?」と問うた。

(遅刻…したから…仲間外れ…?)

自分で言った「仲間外れ」という言葉の寂しさに、なんだか哀しい気持ちになる。

「はい、ちょっと山口県まで」

小動物的な雰囲気の、小柄で大人しげな顔立ちの女性が、冷静な声でそう告げてきたので、時雨は困ったような顔になり、「山口…県…?」と呟いた。

(それ…どこ…?)

時雨は、頭の中に「?」マークを一杯浮かべる。
「百合子…唐突にそれじゃあ、時雨さん困るだろ? えっと、チーコの事で来て下さった、興信所のスタッフの方ですよね?」と、とろりと甘く、喉を焼くようなチョコレートボンボンのような声で問い掛けられた。
男は、声に負けず劣らずの甘い端正なマスクに、少し崩れた隙がありながらも、何処か野性味も感じさせる色っぽい顔立ちをしていて、思わずしゃがみこんだまま「ほえー」と口を空けて見惚れた後で、時雨は慌てて頷く。
そんな入り口での遣り取りを見かね、「時雨! こっち来い。 全部説明してやるから」と武彦が声を掛けてきた。
コクンと頷いて、はっ!と思い出し、時雨はポケットをごそごそと探り出って、先程買ったばかりの髪留めを取り出す。
「こ…れ…」
そう言いながら差し出せば、チーコの隣に立っていた、これまた小柄で可愛らしい女の子が「可愛い」と呟いた。
にこっと時雨は笑ってまずは、チーコの髪に一つ着けた。
「は…ふぃぅぅ…!」
びっくりしたような顔をして、時雨を見上げたチーコの頬が見る見る真っ赤になっていく。
「着ける…と、もっと……かわいい…」
時雨がそう褒めれば、チーコは真っ赤な顔のまま、「あぅ…ぅ…あぅ…」と何も返事が出来ず、まるで、時雨の目から逃げるかのように、エマの後ろに身を隠す。

(気に入って…くれたのかな…?)

不安になれども、「あぅぅひぅ…」とうめくような声をあげるチーコに、興信所の事務員のシュライン・エマが「あら、照れてるの?」と声を掛けたので、(そうか…照れてるのか…)と時雨は理解した。


もう一つの髪留めは、チーコの隣に立っていた女の子にあげる事にする。
茶色のさらさらの髪に手を伸ばし、ピンク色の髪飾りをつけて、じっと眺め、「…うん…可愛い…」と心からの声で言った。
実際、 その女の子は凄く賢そうで、凄く可愛くて、凄く髪留めも似合った。
(チーコも…、この子も…お姫様…みたい…)
自分が選んだ髪留めが、とっても二人に似合った事に、時雨は至極満足する。
きっと髪留めはチーコのものだと勝手に思っていたのであろう女の子が、心底驚いたように時雨を見上げてくるので、さっきまでチーコと女の子が手を繋いでいた事に気付いていた時雨は。「おそろい…友達…だから」と、にこにこと嬉しそうに笑えば、女の子が手を伸ばして髪留めを触り、それから「ありがとう…ございます…」と、やっぱり照れた表情を浮かべつつ、嬉しそうにお礼を言ってくれた。

チーコがエマの後ろからひょこんと顔を出して「ぅぁぅぁあ!」と嬉しそうに自分の髪飾りを触った後、女の子の赤い髪留めを指差した。
「そうね、色違いのお揃いね」
女の子は頷いてそう答え、「ああ、凄く似合ってる」と、チョコレートの声をした男の人は、蕩けるような声で彼女達を褒めた。

時雨は、喜んでもらえたようなので、もう、それで、本当に嬉しくて、嬉しくて、二人の女の子が可愛くて仕方がなくなる。

(山口…県…、ボクも…連れてって…貰えるかな…?)

そう不安になりつつ、立ち上がれば、「では、参りますか」 と、チョコレートの声の男の人が、扉の外を指し示す。

そして玄関前にいた人達は、みんな出て行ってしまった。

(あう…置いて…かれた…?)

そう思えど、興信所の中にもまだ人は残っている。
見回せば、見覚えがある顔もあった。

黒・冥月。
細身の黒いシャツに、後ろに深いスリットの入った黒のロングスカートを合わせ、窓際に立ちながら、腰まである黒髪を、背中で揺らすその女性は、真っ白な紙にスッと美しく筆で引かれたような形をした睫の長い切れ長の目を閉じたまま、微動だにせず佇んでいる。

(あとは…みんな…知らないや…)

人見知り傾向もある時雨は、少し不安になり、こそこそと武彦に近寄ると、「ね、ね…今回の…お仕事一緒にやる人…達を…紹介して…?」と強請った。
武彦は、頷き、まず、事務所内にいる面々を紹介してくれる。

まず、金髪の凄く、凄く綺麗な顔をした美少年。
振る舞いも優雅で、どう見たって男の人にしか見えないが、性別はれっきとした女性だという蒼王・翼。

次に、黒髪も清らかに、透明感のある美しさを有した、黒曜石のような黒と、澄んだ海の如くの青のオッドアイの美少女は水鏡・千剣破。

ツインテールにした白金の髪も美しく、マシュマロのような色合いの柔らかそうな白肌も愛らしい少女がエリィ・ルー。

赤茶色の髪と、同じ色したキツ目の印象的な瞳の持ち主で、端正な顔立ちをしているのに、そんな事は、どうでも良いと言わんばかりの、気取りのない立ち居振る舞いが逆にかっこいい青年、向坂・嵐。

そして、今回の仕事の依頼人でもある、ゾッとするほど長く美しい黒髪と、不気味で爬虫類めいた、得体の知れない容貌のギャップ激しい中年男性、黒須・誠。

「覚えたかー?」

武彦に言われて、目を白黒させながら、何度も何度も指折り数えて、頼りなく頷く。

「んじゃ、今、この事務所を出て行った奴らの紹介な?」と言われ、泣きそうになりつつ頷けば、武彦は噛んで含めるような口調で説明してくれた。

チョコレートのような声をした、凄くかっこいい大人の男の人は兎月原・正嗣。

時雨をポカンとさせた、大人しそうな小動物っぽい女の人。
あの人は、兎月原の下で事務員の仕事をやってる歌川・百合子。

赤い髪留めをあげた、賢そうで、可愛い女の子は、飛鷹・いずみ。

そして、彼らの背後に立っていた、金髪で、ド派手な赤い特攻服を着込み、染めたと一目で分るような金髪をポニーテイルにしていた化粧の濃い女の人は、もう一人の依頼人城ヶ崎・竜子。

「エマと、冥月は分るよな?」

そう言われて、うんうんと子供のように頷けば、「うし。 じゃあ、まぁ…おいおい覚えてけ」と武彦に言われ「山口県…一緒に行っても良いの?」と目を輝かせた。
「当然。 お前の力が必要なんだよ。 駅前のロータリーで待ち合わせって事になってる。 あと、一応、今回の件の詳細をだなぁ…」と武彦が説明を始めるより早く「さて…」と、何処か物騒な声で冥月は声をあげ、「では、片付けの時間だ」と宣言した。

(お片…付け?)と疑問符を浮かべる時雨は、「あ」と口を開け放し、「また…、悪い奴らの…気配」と一人呟く。
興信所の外にいる。
さっきやっつけた奴らと、同じような匂いがした。

「片付け??」
「何をだ??」
キョトンとした声を、嵐と千剣破が同時に上げた。

「お前達、どんな能力を持っている?」

冥月に指差され、千剣破が「み、水だったら、自由に扱えます」とどもりつつも答えた。
嵐は肩をすくめ「何も? ひけらかすような能力はねぇよ。 まぁ、バイクの運転には自信があるが、あとは少々、運動神経が人より良い位だ」と答える。
「分った。 では、自分の身は、おのおの自分で守るように」
乱暴な言葉。
「「はい?」」
声を揃えて問い掛ける嵐と、千剣破を無視して、今度は時雨に顔を向けてくる。
「何匹片付けた?」
一瞬きょとんとした後、此処に来る途中で叩きのめした、興信所を見張ってた、銃を持ってる悪い奴らの事だと気付いた時雨は、(えーと…?)と困った。
(両手の…指を越えたら…数えられなく…なっちゃう)と、思いつつも頭の中に男達を思い浮かべ、「五人…あ、ちょ…、ちょっと待って?」と、言いながら指折り数え始めた。
(大丈夫…。 両手の…指の数よりは…少ない…)と一人、一人丁寧に数え、「えーと…えーと…多分、7人…」と時雨が心細い声で言えば、「上出来だ」と冥月は満足げに頷いた。
「では、残り、13名。 こちらは、7名。 楽勝だろう? 早い者勝ちだ」
そう宣言すると冥界はしゃがみこみ、自分の影に手を「突っ込んだ」。

「んあ?!」

驚きの声が上がる最中、冥月の影から一人の男がその白い手に引っ掴まれて、現れる。
そのまま胸倉を掴み上げ、「組織を潰されたくなければ引けとボスに伝えろ。 弱小でも“黒冥月”の名は知っているだろう」と脅し、冥月は窓から放り出した。
「な?! ななな?! なっ?!」
冥月と窓の外を交互に指差す嵐に顔を向け、独り言のように、「まぁ、こうやって脅したとて、このまますごすごと帰るわけにも、行かないだろうしなぁ…」と何処か呑気な声で、冥月が言う。
直後、興信所の扉が蹴り飛ばされ、窓ガラスも派手に割られて、複数の男が飛び込んできた。

ここだと、狭すぎる。

人並み外れて身長の高い時雨は、乱戦状態に陥る応接間から咄嗟に敵の襟首を両手に一人ずつ掴んで事務所の外に飛び出すと、「お掃除…♪」と言いつつ、二人纏めて階段の下へ蹴り落とした。
二人一緒くたになって階段を転がり落ちるのを眺めた後、まだ意識を失ってないのを見ると「じゃーんぷ…♪」と言いつつ、階段の上から下へと男達に向かって飛び降りる。
綺麗に膝をみぞおちに入れてやれば一人は白目を向いてそのまま意識を失い、もう一人も軽く首筋を時雨に叩かれて呆気なく意識を失った。

「ここに…置いておいちゃ…迷惑が…かかるよね…?」とぶつぶつ言って、男たち二人を小粋に両脇に抱え込み、事務所の応接間へと運び込んで転がす。

応接間に戻れば、既にカタはついていた。
皆、ぶっ倒れたり、目を回しているのを、武彦と黒須が手分けして縛り上げていっている。

「お ま え は 、分ってたなら説明するか、俺も一足先に、こっから出しておいてくれ!」
そう怒鳴る嵐の声など何処吹く風で「中々筋が良い」等と褒めていた冥月が「全て片付いたな」と頷けば「事務所内は滅茶苦茶だがな」と恨めしげな目で冥月を武彦がじとっと眺めた。
「私のせいじゃあるまいし、そのような目で見るな」と獣を追っ払うかの如く、しっしっと手を振った冥月が、「さて、追手はまだまだ掛かると見て良い。 私の名前の神通力で、準備にそこそこ時間はかけてくるだろうが、追いつかれれば戦闘は避けられないだろう。 まぁ、健闘を祈る」と他人事のように言う。

冥月は、軍師の如くの眼差しを皆に走らせ、にいっと嬉しげに笑う。

「武彦、後始末は大丈夫だな? 警察にでも任せれば良い。 この先の襲撃が心配なようなら、また別の人員でも呼んでおけ。 お前の知り合いならば、充分対応出来るだろうが…まぁ、もう、ここには来るまい」

そう予言めいた事を言う冥月に続いて、翼が肩を竦めて、「じゃ、僕達も一旦解散する事にしよう」と言った後、ついと冥月を振り返り、「我々はご信用いただけましたか?」と何処か皮肉げな調子で問うた。
冥月は、涼しげな顔で「想像以上だ。 翼も、凄まじいな、期待している」と笑って告げた。

みんながそれぞれ事務所を出て行くのを見送って、時雨は、これからどうしたら良いのだろう?と首を傾げる。

「えーと…集合場所…に行けば良いの?」と、時雨が問えば、泣きそうな顔で事務所の後片付けをしていた武彦が「ああ、そうだよ! 今から一時間後に全員集合だとさ!」と怒鳴るように告げられて、時雨は思わず肩を竦めた。


別に何も用意もないし、山口県が遠い場所にあるのかどうかも分からない。

まぁ、行けば、チーコを守る仕事が始まって、三日間守り通せばいいのだと思うと「それだけ…分ってたら…良いか…」と呟き、それから「あ! 人の…名前も!」と思い至った。
武彦が教えてくれた特徴と名前を、必死に思い出そうとする。

そんな時雨の視界に、エマの姿が引っ掛かり、「あ!」と声をあげて走り寄ろうとして思わず硬直した。
エマは彼女の身体よりも大きくみえる、とてつもない荷物を背負って歩いていた。

(な…、何?! 亀…?! 亀の…物真似??)

そんなわきゃないのだが、真剣に、悩みつつエマの後姿を見ていると、たっと、エマに走り寄り声を掛ける黒髪の女の子がいた。

(えーと…えーと…、確か…千剣破)


「だ、大丈夫ですか?!」とエマに驚いたように声を掛けていて、エマは振り返る余力もないのか、切れ切れの声で答えを返した。
「…あ、千剣破ちゃん…。 いや、ちょっと…色々、バーベキューの為の道具とか、家にある…役に立ちそうなものを纏めたら、こ、こんな事に…」と言うエマを助けるべく、傍に走り寄った時雨は、ひょいひょいと、彼女の背負っている荷物が取り上げる。
「潰れちゃうよ…?」
心配そうな声でそう言いながら、エマの荷物の大部分を軽々と背負うと、「ふー」と息を吐き出して「ありがと。 時雨君」とエマが礼を言ってくれた。
「エマ…は、飼い主だから…ペットが助けるのは…当然…」
そうニコニコと言う時雨に、ぎょっとして、思わず、一歩、二歩、三歩と後ずさる千剣破。

「エマさん…前から只者ではないとは思っていたけど…やっぱり、若いツバメが…」

そう言う千剣破に「違う!! ていうか、やっぱりって何?! ねぇ、千剣破ちゃんの私へのイメージって何?!」とエマが渾身の声で訴え、そのまま返す刀で「あんたも、誤解を招く事を言わない!」と飛び上がり、時雨の額を見事に打ち据えてきた。

集合場所には、一台のバスが停まっていた。

「じゃん! 可愛いでしょう?」
そうバスを指し示すエマに、ポカンとした顔をしてしまう千剣破と、時雨。

白い車体には羊の顔がペイントされ、横原の部分に「××幼稚園」としっかり幼稚園名が入っている。

「可愛い!」と、そう千剣破が声を上げれば、時雨も「…うわぁ」とそのファンシーな愛らしさに、(こ、…これに…乗れるの?)とワクワクして、嬉しげな声を上げた。
「ね? 可愛いでしょ? 武彦さんが昔請け負った依頼でね、解決したのはいいけど、依頼者が報酬払えなくって、それで、代わりにってこれを置いて逃げちゃったのよ。 幼稚園の園長さんだったんだけど、経営が立ち行かなくて、潰れちゃったのね。 まぁ、正直、どうしたもんかなぁ?って思ってたんだけど、こんな場面で役に立つとは思わなかったわ」
エマが、得意げにそう言ってる最中、「おお、来たか」と、声を上げつつ、赤茶色の髪をした、確か嵐という青年がバイクを引きながら現れる。
「なんか、チーコが喜びそうなバスだよな」と言えば、時雨と千剣破は同時に頷いた。
嵐は、バイクの性能の良さで知られている会社の看板を背負っている大型バイクを傍らに置いていた。
威圧感を感じる程の「デカイ」ボディは、デザイン性の高さにも定評があり、男が思う「カッコいいバイク」そのものの姿をしていたが、まぁ、そういう風に言語化して、その格好良さを認識するのではなく、少年が特撮ヒーローを見てときめくのと同じ感性で、そのバイクを心底格好言いと時雨は思った。
「咄嗟に小回りも利くし。色々と便利だろうしな」とバイクで来た説明を嵐はすると、「後ろ乗りたかったら乗せてやるぜ?」と皆に言う。

(乗 り た い !)


きっと、ビュンビュン風を切って走り、凄く気持ち言いのだろう。
時雨が走る時は風を感じるような状況じゃなかったり、そんなものを感じれるような速度じゃなかったりして、余計にバイクに憧れる。
だが、どうしてもネックは、自分の高身長。
どうも、嵐と二人乗りすると、彼の運転の邪魔をしてしまいそうな気がして仕方がない。
時雨は、「ボク…体…大きいから…」とシュンと肩を落としつつも、諦めきれずにペタペタとバイクをさわり、ほわわんとした声で「かぁっこう…いいねぇ…」と呟いた。

「あぅ! ぃはぅゃぅ! えぁ! あゃぃ!」

チーコの声が聞こえる。

振り返れば手を振るチーコが見え、時雨はチーコに手を振り返した。
だが、どうも、先程、チーコが叫んでいた人の名らしき面々の中に自分の名前がなかったような気がしてならない。
思わず、チーコをじっと見つめれば、途端顔を真っ赤にして、ふいっと顔を背けてきた。

ピアノの不協和音が大音量で鳴らされたような衝撃を受けて時雨はよろめく。

(き…嫌われ…てる…。 ボク…嫌われ…てる)

こう見えても、子供モテ率100%
ベビーシッターのプロ、時雨が、こんな風な対応を子供にされたのは初めてで、ショックの余り膝を抱えて座り込みたくなった。
だが、こんなところで図体のでかい男がそんな所業に及べば、まず、鬱陶しいし、あと鬱陶しいし、ついでに鬱陶しいよね☆って事を重々自覚して、時雨は項垂れながらバスに乗り込む。

千剣破が「で、誰が運転…」と言いかけたところで、運転席には黒須が座っているのを見て、「ひっ」と音が出るほど息を呑んだ。

真っ黒な髪が背中に流れ落ちてる姿も、険しい眼差しのままだらしなく運転席に腰掛けてるのも、何もかもが、何処となく不吉だ。
依頼人って言ってたけど、得体が知れないにも程がある。
佇まいが、不気味すぎるせいで、もう、何の根拠もなく、時雨は物凄く不安な気持ちになった。
ぶらり 地獄への道行き紀行とか咄嗟に勝手なタイトルが思い浮かぶくらい不安だ。
無闇矢鱈に不吉な容姿をしているせいで、真っ当な運転をしてくれるとは思えない男が、何故か運転席にいる。

千剣破の目が、くるくると忙しなく瞬きを繰り返す。
「え?」
嵐が黒須を指差せば「一応、元都バスの運転手」とさらりと黒須が答えた。
余りと言えば、余りに予想外の職業に時雨は、先程まで抱えていたチーコ★ショック!を忘れて叫ぶ。
「…え…、ええ…ええ…え?!」
時雨の叫び声を聞いて、「ほら、思ったとおりの反応」とエマが嬉しげに言った。
先に乗り込んでいた美少年にしか見えない少女、翼が「多分、皆一緒の反応ですよ」と座席に座ったまま嬉しげな声をあげる。
「何でだよ」
そう呻くように言う黒須をまじまじまじと眺め、一歩下がって眺めた後、再び今度は近寄って凝視して、千剣破は深々と溜息を吐き出す。
「ヤクザじゃなかったんですね…」
千剣破の呟きに、嵐と、時雨も同時に頷いて、「もう、逆に物凄い意外すぎるな」と嵐が言えば「無意味に…不吉な外見…過ぎる」と、時雨も余計な一言を付け加えた。
「う る せ ぇ! とっとと、乗れ!」
そう怒鳴られ「はーい」と返事をして千剣破が席に着き、時雨はエマの荷物の積み込みの手伝いに、嵐は自分のバイクのメンテナンスの為にバスを降りた。

荷物も無事、全部詰め込み、席に座ってエマに抱っこされてるチーコの様子を横目で眺めていれば、次に、竜子、エリィ、いずみ、百合子の女性四人組がバスに乗り込んできた。
彼女たちもやはり運転席に座る黒須の姿に慄き、過去は飛ばすの運転手をやっていたという事実に、さらに驚く。
いずみが大真面目な様子で、百合子に対して黒須を掌で指示し、「『妖怪蛇バス』です」 なんて、紹介していた。

(蛇…バス?! 黒須さんは…蛇なの?!)
そう身震いしつつ、もし、頭から丸呑みされたら…と怖い想像に、眩暈を感じる。
とにかく食べられないようにしないと、と心底真剣に考えて、時雨は「…、ああ…あ…、く…、黒須…さん…、あの…、な、生卵…あとで、あげる……から、食べな…いで…下さい…」と貢物を約束しつつ、両手を握り合わせて真剣な顔をして懇願した。

黒須はそんな時雨を目を剥いて眺めると、「うがぁ! なんで、興信所に集まる連中は! 俺の話が通じないんだー!」と喚き散らした。




全員が無事揃い、バスは思ったよりも平和に出発を果たせた。

流れるように後ろに過ぎ去っていく景色にチーコが歓声を上げていた。
チーコを膝に乗せたエマがその頭を撫でながら鼻歌を歌っている。 ハスキーな声が優しく、穏やかな旋律を奏でるのが心地よくて、時雨が視線を向ければ、エマは少女のように微笑んで「楽しいね」と千剣破の真向かいに座る赤いハートの髪留めをあげた少女、いずみに言っていた。
青い空がどこまでも続いていて、初夏の日の光が優しく窓から差し込んでくる。
「ぁううぃぅぅ?」
「ああ…あれは、つつじ。 綺麗でしょ? もっとたくさん咲いてるとこにも連れてってあげるからね?」
「ひぅうあぃぃぃー!」
「ああ、はいはい、じゃあ、なんの歌が良いかしら?」
明らかにスムースに会話を交わしているエマに驚けば、千剣破が「チーコちゃんの言葉、もしかして分るんですか?」と、問い掛ける。
「んふふ、自慢じゃないけど、このエマさんは言葉に関しちゃエキスパートよ?」
そう言いながら胸を張り、それから傍らにある鞄から大学ノートを一冊引っ張り出した。
ペラペラと開いて見せてくれると、そこにはびっしりとメモ書きがしてあって、急いで書いたのであろう走り書きの状態であるというのに、それがとても読みやすい字である事にまず驚いた。

「チーコちゃんが住んでた島の位置をね、黒須さんに聞いてきてもらったの。 チーコちゃんが喋ってる言語が何処から伝わってきたものなのか知りたくてね? というのも、彼女の舌っていうのは、私達とちょっと作りが違って、長さがとても短いの。 喉の構造も違うようで、そもそも人間とは発声方法が違うと考えた方が良いみたい」
エマの言葉の意味は正直1/10も分からないが、エマの声が時雨は大好きなので、うっとりと聞き入る。
エマはノートをチーコの頭の上でペラペラ捲りながら説明を続けた。
「だから、彼女の言葉の音は、母音と、ハ行の音、それに時折カ行が入り混じる位で、とても限られてるわ。 これが歌となると、また発声手段が変わってくるみたいなんだけど、そこまでの仕組みはちょっと分からない。 何にしろ、チーコちゃんの種族は会話における音が限られるから、当然語彙も限られてくるのよ」
「つまり、コミニケーション手段が『言語』である事が向かない種族という訳ですね」
翼の言葉に、「その通り」とエマが頷けば「確かに、それなら別のコミニケーション手段が発達して然るべきなのかも知れない」といずみも呟く。
「チーコの様子を鑑みるに、チーコはとても知的レベルが高いと思うんです。 幼い所が目立ちますが、私のクラスメイトにもチーコのような無邪気な振る舞いが目立つ子も大勢おりますし、現に彼女は人間社会に連れてこられて一年程の時間の間に、こちらの仕草を真似できるほど理解し、言葉も殆ど耳で聞く限りはその意味を分かっているように見受けられます」
いずみの言葉が時雨には外国語か何かにしか聞こえない事に驚き、あんなに小さいのに凄く賢い!と感心する。
チーコは自分の話だからか、眼を大きく見開きながら、エマといずみに交互に視線を走らせた。
「まぁ、…いずみちゃんから見れば、大概の子は幼く見えるだろうけど…でも、確かにチーコは賢いよ。 その、エマさんの言うように、発声に関しては種族や、器官の構造の違いから、僕達と同じような発声が出来ないから、チーコはチーコの種族の言葉で喋っているんだろうけど、もし発声器官が同じなら、きっと僕らの言葉をマスターしていたような気がする」
翼が唸るような声でそう言った。


「耳が、いいのだろうな…」


目を閉じ、眠っているかのように静かに座席に身を預けていた冥月がぼそりと呟く。
「歌を得意とするものは、大抵聴力に優れ、耳で聴くものへの理解力が高い。 チーコは、一年間人間社会で過ごし、耳にする言葉の、音程や、高低、台詞の強弱等から、瞬時にこちらの言っている事の大まかな意図を察し、反応をしているのだろう」
冥月の言葉に、通路を挟んで隣の席に座っていた翼が感嘆したような声で「賢いな、チーコ」と言えば、チーコが誇らしげな声で「ひぅぁう!」と声をあげる。
そんなチーコの頭を愛しげな手つきで撫で、「よいしょ」と掛け声かけつつ抱え直すと、「そうね、だからね、これだけ知的レベルが高く、喉の構造から見て『言語による会話コミニケーション』に向かない種族が、それでも何故『会話』によって、コミニケーションを交わしていたか…そこに私は着目したの」とエマはよく通る、ハスキーで耳障りの良い声で言った。
「ああ…確かに、それほど知的レベルが高ければ、自分達独自のコミニケーション方法を発達させていたとしてもおかしくないな」
兎月原は、鼓膜を直接舐るような、官能的な声で「それで、エマさんは、何故、チーコの種族が、それでも『会話』によるコミニケーションを発達させたんだと考えてるんです?」と問い掛ける。
エマは、蕩けた顔で兎月原に一瞬見惚れたようだったが「ハッ」と気を取り直し、「あ…いやいや、あのね、つまり、言葉が『伝来』したんじゃないかな?と思ったのよ。 人間からね」と答える。
「…ああ! そうか。 それなら、納得です」
大きく頷くいずみ。
「チーコの住んでいる島に、難破した船の乗組員等が流れ着いた可能性はゼロとはいえない。 どういう海流が、島の周囲を囲んでいるのかは見当がつきませんが、人間という会話によるコミニケーションを主にしている種族が、チーコ達の祖先が住む島に流れ着き、『言葉』を伝え、それが、チーコの代にまで伝わったと考えるのが自然ですね」
「そう、その通り。 言葉が伝わったのがどの位の時期なのかは見当がつかないけど、推測だと、かなり昔の事だと思うの。 ほら、今の時代だったら、言葉を教えたりとか、そういう事の前に、世紀の大発見としてチーコの種族を世間に公表したりとか…」とそこまで言って、エマの表情が徐々に曇り、それから口を一度噤む。
一瞬重たい沈黙が落ちた。

つまり、今の時代に人間に発見されてしまったから、チーコ達の種族の、悲惨な現状があるのだ。
昔ならば、難破し、無人島に辿り着けば、そのまま通信手段もなく、救助も求められず、その島で生を終えるしかなかったのだろう。
きっと、昔、チーコの島に辿り着いた人間は、彼女たちの種族と仲良く暮したに違いない。

だが、時雨には、先程までの会話内容がちんぷんかんぷんだったので、なんで、皆が急に黙りこくったのかすら、全く分らなかった。

「…そうすると、チーコちゃんの言葉にはルーツがあるという事ですよね? 地球上にある、何処かの国の言語が、彼女たちの言葉の成り立ちとなっているって事ですか?」

百合子が、空気を変えようとしてというよりも、全く場の空気読まないままに、素直に口を開いたといったような声音でそう自分の意見を述べる。
だが、彼女のほのほのとした声に、明らかにエマはほっとしたような表情を見せ、「そう! その通り! 私、こう見えても言語オタクでね? 黒須さんに、彼女の島の場所をベイブさんに聞いてきて貰ったのよ」と話の続きを始めた。
「で、先程まで述べていたような考察からチーコちゃんの祖先が人間とファーストコンタクトした時期を割り出してみると、航海技術が長期航海に耐えられるほど発達し、それでいて情報技術や、通信手段が今ほど栄えてない時代…。 そう考えてみると…大体15世紀中ごろから、17世紀中頃じゃないかな? と私は考えたわけ」と滔々と説明を続けるエマに、「大航海時代!」といずみが手を打った。
「だ…い…こうか…い?」
何だか面白い名前に、時雨がきょとんと首を傾げる。
「なんか…凄く…辛い…時代だった…とか?」
そう無邪気に問えば、百合子が「ああ、それは、『大後悔でしょ』と突っ込んであげたいのだけども、突っ込んだら大火傷!って感じだから、何も言いたくないっていう、私の気持ち分って貰えます?!」と兎月原に訴えている。
(…火傷?!)と、時雨はびっくりし、百合子の小柄な体を慌てて眺め回した。
「え…百合…子…火傷? あ…、大丈夫…? 大丈夫…?」
眉を下げ、心配の余り百合子に手を伸せば、百合子は泣きそうな顔になって、「いや、もう、あの、え、ええ、ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」と、一生懸命謝ってくる。
何で謝られてるのか一切分らず、ポカンとした後、でも、百合子は火傷をしてないようだという事だけ分ると、時雨はほっと胸を撫で下ろした。

「大航海時代って言うのは、スペイン、ポルトガル等のヨーロッパ人が領土拡大や、当時は金と同じ重さの金と等価で取引されていた香辛料を求め、インドとの直接貿易の為に、アジア大陸、インド大陸、アメリカ大陸へと航海による海外進出を盛んに行っていた時代です」
いずみが説明してくれるも、またも意味分らずで、これ以上彼女に説明を求めるのも悪いし…と、「…あ…うん」ととりあえず頷いておく。
そして時雨は、眼をパチパチさせながらマジマジといずみの顔を凝視した。

なんで…、こんなに…小さいのに…色んな…言葉を…知ってるのかな?

翼が「本当に、君が小学生だっていうのが、信じられないよ。 見た目はそんなに可愛いのにね」という翼の台詞に時雨は大きく賛同の意を表したかった。
「ああ、では、チーコの言語の元は…」
そう顎先に指を当てて、兎月原が「ヨーロッパ圏の言語」と言えば「そう、彼女の言葉のルーツは、ポルトガル語よ」とエマはにっこり笑ってノートを閉じた。
「言葉の元さえ分れば、言葉の響きや、選択されている音の強弱からも、チーコの言葉の意味が推察できる。 幸い、ポルトガル語なら習得済だし、彼女の言葉をこうやって書き留めて、翻訳しつつ、ちょと理解してこうとしてるの。 簡単な通訳くらいだったら出来ると思うわ」
そうエマが言うのを、時雨は、とにかく「チーコの言葉をエマは分る」という事だけ理解する。
出会ってから数時間でも、よくぞまぁ…と感嘆すれば、皆のその無言の驚きを理解したのか、「いや、まぁ、だから、えーと、言葉が好きなの。 趣味なの。 だからよ」とヒラヒラと手を振りながら、凄まじい事を何でもない事のように言って纏めた。

「エマさんって…ほんっと…尋常じゃないよね」
千剣破が心底の声で言えば、エマも心底の声で「いや、でも、私、ほら、みんなみたいに、『破壊光線!』とか『テレポーテーション!』とか出来ないから…」と否定する。
だが千剣破は「いや、幾らこのメンバーでも多分、誰も『破壊光線!』とか撃てないから。 『テレポーテーション』とかしないから」と、速攻否定し返した。
とはいえ時雨としては、『破壊光線』に近いことをやってのけられるメンバーを、興信所で何人も見てきてて、千剣破は水を自由に操れるとか言ってたし、冥月も影が操れるし、テレポーテーションも出来る人がいるかもしれない、なんて、夢一杯な事を考える。

「う、うう、なんか、凄い…だって、興信所の事務員さん…なんですよね?」

百合子が両手を組み合わせながら問う。
「ん? そうよ? もう、雑用ばっか! ていうか、ボランティアだし! 給料殆ど払ってくれないし!」
そう訴えるエマを、またパチパチと瞬きして眺め百合子は、「そんな…エマさんがボランティアだったら、私お金払って勤めさせて貰わないといけない」と呟くものだから、「あ、それはいいな」と兎月原がからかった。
「ま、エマさんは、ほら、ね?」
にやっと、笑う千剣破を、「何よう」とエマが睨んでいる。
「ボランティアっていうかぁ…武彦さんをお手伝いしたいだけだもんね?」と首を傾げて言えば、ピッと片眉を上げて「からかわないのっ」と千剣破を叱る。
「う、うう、どうしよう、どうしよう」
おどおどと見回す百合子の様子に「どしたの?」と、黒須のすぐ近くに座って道をナビ係をしていたエリィが振り返り、百合子は「えーと…」と言いつつ、自分の網棚の上にあげらている鞄をごそごそ探り出した。
「…事務員らしく…こんなものを作ってきたのですが……」
そう言いながら取り出したるは、十数ページ程の小冊子の束。
「あの…しおりです」
そう言いながら渡された冊子には、可愛い兎のイラストやら、今回参加するメンバーのミニイラストが描かれた表紙が付けられていて、「かわいい…」といずみが呟き、千剣破も、「きゃぁ!」と嬉しげな声をあげて、ページを捲りだした。
「ね、ね? この子があたしだよね?」
黒髪の女の子がニコと笑っているのを千剣破が指差せば、百合子が恥ずかしげに頷いた。
「うあ、上手! ほら、時雨さんなんかもそっくり!」
指差す千剣破の指先を眺め「うわ…ボクだ!」と時雨は感激してしまう。
赤い髪の小さな男の子は、にこっと笑っていて、時雨はイラストにそっくりの笑顔を浮かべた。

「旅行と言えば…しおりです!」
妙な力強さを持って断言する百合子から冊子を受け取った面々は、思い思いの表情で冊子を捲り始める。
「頂戴、頂戴!」
そう手を伸ばすエリィに、廊下側に座っている冥月が手渡せば、「ほんと、凄い可愛いー!」と言いつつ、運転席に座り黒須に冊子を手渡していた。
にこぉと笑って、自分の似顔絵の部分を指先で撫で「ゆぃこぉ! はぅぃぅ!」と百合子に満面の笑みを見せる。
「注意事項とか…あと、スケジュールなんか書いてみました! 緊急の連絡先として、エマさんの携帯No書かせて貰ったんだけど…」
「オッケー! はぐれたり、迷子になったら、連絡頂戴ね?」
そう声を掛けるエマに、苦笑を浮かべる者もいれば、大真面目に頷くものもあり、「しおり」の登場に俄然盛り上がる旅行ムードに、こういうの…良いなと、時雨は心から思う。
ぺらぺらと読み込んでいけば、旅行の予定表なんかもあって、これから自分が何処へ行くのか、時雨は漸く知ることが出来た。
「わ、でも、これ、ほんとに便利。 メモ用紙にも出来るようになってるし…、凄い…あはは、嬉しい! これから行く場所の、見所とかも書いてある。 よく一時間で作れたわねぇ…」
感心したように言うエマは「凄いわよ、百合子さん」と心からの声で百合子を褒める。
百合子は嬉しげに「よかった、喜んでもらえて」と胸を撫で下ろし、にこっと幸せそうに笑った。




夕時。

高速のパーキングエリアで、夕食がてら休憩を挟む。
チーコの外見の特徴を考慮し、バスの中で夕食をとる事にして、いずみと千剣破、それに時雨が買出し班を請け負った。
他にも、慌てて出発したせいで、色々揃ってない物なども一緒に買う為にバスを降りる。
バイクで後ろから追ってきていた嵐は、バスのすぐ傍に愛車を停車させていた。
彼の後ろに羨ましくも乗せてもらっていた、依頼人でもある金髪の特攻服少女竜子が、ヘルメットを脱いでいる。
「うひー、気持ち良かったぞー!」
竜子がばさばさと犬のように金色の髪を振りながら、嵐と並んで歩いてきた。
「やっぱ、いいな、バイクって!」
そう言う竜子に「当然」と嵐が済ました顔で告げて、それから「うし、じゃあ、次、いずみ行ってみるか?」と聞いていた。
「結構です」そう一刀両断し、いずみは「バスで皆さんお待ちですよ?」と声を掛ける。
「今から、買い出し?」
嵐が首を傾げ、休憩エリアにならぶ店舗を指差す。
「そう。 ペットボトルとか、タオルとか…役に立ちそうなものをね、買い出しに行こうと思って…」と千剣破が言えば、「荷物になりそうだし、男手もうちょっとあった方がいいだろ」と言いつつ、「俺も行くわ」と嵐は言った。
「竜子は体冷えたろ? 先バス戻ってな」
そう言う嵐に「あんがと。 大丈夫だけど、ちっと誠達とも相談したい事があっから、戻るわ」と言いつつ手を振る。



四人でサービスエリアの店舗にて、手分けして色々買い込んだ。
「明日まで夜通し走るんだよな。 だったら、夜食っぽいのも、買っとくか?」
「あ、水! これ、大きなの多目に買おう!」
「えーと…、こういう、歯ブラシセット…チーコに良いんじゃないですか?」
「…ね…ね…、良い匂い…!五平餅…五平餅…!」
実は、エリィが夕食にと弁当を詰めてきてくれており、一緒に食べられるようなものと、日持ちがしそうなものをチョイスする。
たちまち、嵐と時雨が持ってくれていた籠は一杯になった。
「手伝おっか?」と千剣破に言われるものの、「おお、ありがとう。 でも、大丈夫だから」と嵐は答え、時雨も両手一杯に荷物を抱えて平気な顔で先を行く。
彼がご機嫌なのは、店先でじいいいっと眺めていた五平餅をきちんと人数分購入したからで、「餅…餅…お味噌の…餅♪」と唄いながら「早く…バスで…ご飯にしよう♪」と、身軽にクルンと三人を振り返り、それからパタパタと走り出した。

背後で、まるで犬のようだなどと三人に言われている事には気付かず「美味しい…ごはんが…いーっぱい♪ 腹…破裂するまで…食い溜めて…やる♪」と何だか侘しい歌を歌い(ていうか、人間の死に方の中で、腹破裂しってかなり嫌な死に方だよね?)このお仕事に参加してよかったな〜と心から思った。
何しろ、バスの中は雨に降られても、風に吹かれても平気だし、食べ物はたくさんあるし、みんなといるから寂しくない。

あとは、早くチーコと仲良くならなくちゃ!と握り拳を心の中で固めるも、地面に何もない場所で、足を縺れさせ、コロンと転んでしまった。

抱えていた荷物が散乱し、「あう…、あう…あ、めろんぱん…あ、あんぱん…あ、お水も…」と、一つ一つ確かめつつ、焦って拾い集める時雨にいずみが慌てて走り寄り「大丈夫ですか?」と問うてくる。
優しいな…♪と嬉しく重い「こくん」と頷けば、厳しい顔を見せ、いずみが「めっ」と、時雨を睨みつけてきた。
「前を見て歩いてください」と注意され、まさに「犬の躾」ボイスで言われた台詞に、しゅんと項垂れて「はい…気をつけます…」と良い子なお返事をする時雨。

年齢差15歳。
慎重差に至っては、頭何個分?という位、多大な差があるいずみが、時雨を叱る様はどうにも、千剣破と嵐の笑いのツボを刺激したらしく「ぶはっ」「くすっ」と噴き出されてしまった。
その後、荷物をきちんと袋に収めなおすと、「さ、みんなが待ってるから、行こ?」と千剣破がバスを指差した。



バス車内。

「じゃ、じゃーん!」
エリィがそう言いながら、大きな紙袋から幾つかのタッパーを取り出した。
「時間ないからさぁ、冷蔵庫の中のもの詰めて、あと、短時間で作れるものだけ作ってきたんだけど…」と言いつつ、バスの中央座席にエマが持ってきたという、小さな折り畳み机の上に広げる。
途中までとはいえ、女性一人の身でよく持って来れたものだと感心し、意外なエマの腕力に時雨は瞠目した。
チェックの可愛いランチョンマットを敷いた上に並べられた料理の数々は、とても短時間で揃えたとは思えない彩の良さと、明らかに凝った料理の数々で、「えへへ、そこのポテトサラダとかは、結構自信作」と言いつつ、薦められるままに箸を伸ばせば、ほくほくとして、しっとりとした舌触りに、ふにゅと崩れた笑顔になる。
「山菜おこわのおにぎりもあるからねー」と、エリィが言って差し出すのを受け取って、「へぇ、旨いもんだな」と黒須が褒めれば、「えへへへ」と嬉しそうに笑って、それから、「こうやって大人数で食べるのって楽しいね」と、気持ちの篭った声で言った。
チーコが、片方の手におにぎり、片方の手にから揚げをさしたフォークを握り締めながら、「はぐはぐ」と懸命に口を動かす姿を見て、「はい、喉に詰まらせないようにね?」とエマが注意している。
魔法瓶に入れてきたという、お味噌汁を啜りつつ、ああ、確かに、ご飯は誰かと食べる方が美味しいと強く感じた。
一人で食べるご飯よりも、たくさんの人と一緒に食べたほうが美味しい。
空豆と明日葉の掻き揚げを食みつつ、「時間がたってもサクサクしてるのね。 また、コツ教えてよ」とエマがエリィに強請り、時雨はチーコに負けない位口いっぱいに食べ物を詰め込み、片手に握り締めた五平餅にもパクついている。
千剣破は、ひたすら「美味しい、美味しい!」と嬉しそうに、百合子と言い合いながら箸を進めていて、「このロールキャベツとか、もう、お店出せるよ」と感激していた。
翼は、やっぱり男の人なんじゃ…?と疑いたくなる位、エリィを「あなたみたいな方の恋人になる男性は世界一の幸せ者だ」と絶品の微笑みで褒めており、そうなると当然のように兎月原が澄ました顔で、「ああ、願わくば、俺もその、世界一幸せになれる男候補に名乗り挙げたいものだ」なんて甘い声で告げている。
何故女性に生まれてしまったのだろう?と思う程の、ハンサムっぷりを発揮する翼と、甘いマスクに似合った甘い声で賞賛する兎月原の前に、頬を染め、へにょへにょと身をくねらせながら、「ううう、やばい、照れすぎちゃう!」とエリィは喚いていた。
竜子と嵐も、バイクでの走行と言うのは体力を使うのか旺盛な食欲を見せ、ブロッコリーの塩茹でに、レモンの手作りドレッシングをかけたものを皿に山盛りに取りながら、「うめぇ…! 野菜って正直そんな好きじゃなかったんだけど、こうやって喰うとうめぇんだな」と感嘆の声を上げている。

竹の子のオーブン焼きや、菜の花とあさりを卵でとじたもの等春野菜をふんだんに使った料理の数々に舌鼓を打ち、サービスエリア名物のチープながらも、暖かで癖になるようなテイクアウトの品々も綺麗に平らげ、これまた最後に暖かな緑茶を啜って、大層賑やかな夕食を終える。

「んじゃ、嵐君、交代」

そう言いながら立ち上がったのはエマで「バイク疲れたでしょ? 鍵、貸して」と言いながら有無を言わさず差し出す手に、嵐は目を見開いたまま鍵を渡し、それから「はえ?!」と声を上げた。
「私、大型二輪の免許持ってるから、交代要員に数えてくれて良いわよ? お昼からずっと走り詰めでしょう。 休憩なさいな。 あ、運転技術は、結構折り紙付きだから大丈夫」と言うエマに、嵐は「いや、そこら辺は疑っちゃいないが…外結構風冷たくなってくる時間帯だし、女が体冷やしたらまずいだろ」と眉を寄せて言う。
エマは首を傾げ、ひらりと軽やかな大人の笑みを見せると、「あら。 優しいのね。 ありがと。 でも、ちゃんと、防寒用にダウンジャケットと革パン持ってきてるし、季節的にもそんなに冷え込まないから、心配しないで」と言い、肩にボストンバッグを提げて颯爽とバスを降りていく。
そんな格好の良い背中を皆で見送って、「あの人…なんでも出来るんだな」と呻く嵐に、「意外な特技発見よね」とエリィも頷いて、「要するに、暇人って事だろ?」と黒須が口を歪めて憎憎しげに言えば、竜子がその後頭部を思いっきり叩いた。
「姐御の悪口言うな! 命が惜しくないのか!」
竜子の物の言いに、うっかり時雨は「やっぱり…、どこかの…組の人だったんだ」と大きく頷いてしまう。
確かに肝の据わり方は尋常じゃないと思っていたが、流石エマと、感心すれば、百合子と、兎月原も「只者ではないと思っていたが…」「やっぱり、その筋の関係者だったのね。 なんで、じゃあ、興信所の事務員を?」と話し合い始めていた。



二日目。

昨日は、ぼんやり星空を眺めたりして、夜通しバスで過ごすという体験に興奮して眠れないかと思ったが、疲れていたのかいつの間にか眠りこけていた時雨。
バスタオルをタオルケットの代わりに掛けられていて、「ふあ」とあくびをしながら身を起こすと、キラキラと目を輝かせながら、万華鏡を覗いているいずみと、チーコの姿が目に映った。

「わぁ…」

そう、微かな、それでも、驚嘆しような声をあげるいずみの姿に、今万華鏡を覗いている彼女の目に、どのような世界が映っているのだろうと興味深く思う。

「綺麗だろう」

低い声。
顔を向ければ、腕を組んだまま、眼を閉じていた冥月が、二人に顔を向けずに腕を組み「人から貰ったものなのだがな、暇を潰すのに丁度良い」と告げていた。
冥月があげたのか…と少し意外に思う。
彼女は、皆からも、チーコからも距離を置いているように見えたから。
だが、万華鏡を無邪気に覗いているチーコを見る表情は存外に穏やかで、「今兵庫を通過中だ。 神戸市にある水族館へと向かっている。 あと少しで、次の休憩所に着く。 そこで、洗面と朝食を済ませよう」と告げた言葉の柔らかさに、冥月は優しい人だな…と時雨は思った。



さて、嵐が行こうと提案したらしい水族館。
凄く、凄く、すごおおおく楽しそうで、みんなと一緒にめぐりたかったのだけれども…。

「追手がある。 時雨は、残れ」

という冥月の指示により、あえなく居残りを余儀なくされた。
広い駐車場。
連休中とあって、どこもかしこも一杯だが、バスを停めた第二駐車場という名の広場には、まだまだ、駐車場スペースの空きがある。


つまり、それだけ、自由に動けるスペースがあるという事だ。


何処の水族館でもそうだが、こういった施設は海の傍に建てられる。
水を自由に操れる千剣破は、堤防の前に立ち、海をバックに此方を援護射撃してくれるらしい。
時雨は冥月の隣に立ち、哀しそうな顔で「お魚…イルカ…アシカ……ペンギンさん…♪」と物悲しいリズムで歌を唄う。
「また、自分で行けばいいだろう」
そう呆れたように冥月に言われるので、「あう…だって…お金…」と言いつつ、自分の財布中身がどれだけ乏しいかを見せてあげようとした。
だが、断固とした口調で「いい。 侘しい気持ちになるのが分っているから見たくない」と徹底的に拒否してさて、しょぼんと肩を落とす。

このなんとも呑気なやり取りをしている二人が、どちらも伝説級の力の持ち主だとは、誰が気付けるというのだろう。

ふよふよと空を飛んでく白い鳥を見上げ、口を開けて「あ…、カモメさん…」等と呟く。
いつになったら、「追手」さんは来るんだろう…?と、そろそろ欠伸の一つも出ようかというタイミングで、黒塗りの車が数台駐車場に滑り込んできた。
(おお…悪い奴が…乗ってるぽい…車…)とまず、その外見で判断する。


黒塗りの車から降りたのは、粗野な風貌の酷く体格の良い男だった。

バラバラと後に続く男たちも似たり寄ったりの風貌だが、この男が放つ、凶暴な雰囲気が一際際立って感じられる。

「お前が、黒冥月か」

大きな口をにいっと開き、男は何処か好色そうな口調で冥月にそう言った。

「そうだ。 お前は…『犀牛』か?」

冥月が問い返せば、肩を震わせて笑うと「かの有名な冥月殿に名前を知って貰ってるとは、光栄の至りだな」と、荒い声で言った。

「それに、そっちは、五降臨時雨か」
そう名前を呼ばれて、びっくりする。
あれ…? ボクも…ちょっと…有名人?と少し嬉しくなれば、呆れたような口調で男は言葉を続けた。
「おいおい、もう、廃業したんじゃなかったのか? 伝説めいた伝聞ばかりが一人歩きしているせいで、この目で実際に拝むまでは、実在すら信じられなかったぜ。 で、そんな二人が雁首揃えて、軍隊でも相手にするつもりかよ」

『犀牛』の揶揄に、時雨は一言も答えず、じいっと相手を睨み据える。
なぜなら、男が何を言っているのか分らなかったからだ。
廃業も何も、時雨は「殺し」の依頼を滅多に受けないだけで、本人も自分の本職は「ベビーシッター」だと思い込んでいるから始末が悪い。

「ま、いいやな。 俺にとっちゃあ、そんだけのメンツがここにいるって事のが大事だ。 どんだけの金で雇われてるかしんねぇが、お前さん二人が揃って、化け物のクソガキのお守りもないだろう。 気味の悪いあんな生き物の護衛なんつうつまらん事をなんでやってんだ? ヤキがまわったにしちゃあ、あんまりにもお粗末な仕事じゃねぇか。 俺ぁ、うちのトコのボスに頼まれて、お前らスカウトに来てんだよ。 言い値通り支払ってやるし、女だろうが、クスリだろうが、なんだって好きなようにヤらせてやるさ。 悪い事は言わねぇ、こっちへつきな」

『犀牛』の言葉に時雨は、怒りの導火線に、火がともったのを感じた。
静かな、怒りの篭った声で言う。

「チーコを…馬鹿にするな…」

長大な剣を軽い動作で構え、「竜子と…約束したから…殺しはしないけど……あんまり……酷い事を言うと…我慢できなくなっちゃうよ?」と幼い口調だからこそ、怖気を奮うような事を言う。

そう、昨日、エリィが作ってくれたお弁当を食べている最中に竜子に言われたのだ。
この仕事中は「人殺し禁止」と。
時雨も積極的に人を殺したい性質じゃないし、チーコを虐めた奴らだから、藁のように殺してやろうとも思ったけど、逆に、そうやって刺激して、チーコを危ない目にあわせる事になってはいけないと、少し撒く位で勘弁してやろうと思ってたのに、まぁ、どうも相手はよっぽど痛い目に合いたいらしい。

冥月も、余りに馬鹿馬鹿しい誘いを一笑に付すと、
気負いのない様子で相手に向かって構え「金では、この冥月の魂は買えない。 況や、貴様らのような薄汚い連中に売れるものなど、もとより、持ち合わせておらぬわ」と涼しげに告げ、次の瞬間、瞬く間に、男達は「冥月の影」によって拘束した。

彼女は、影を自由に支配し、操ることが出来る。
即座に「千剣破!」と名前を呼び、冥月は彼女の援護射撃を乞うた。

水の固いつぶてが男達に降り注いだ。

時雨も敵に詰め寄り、次々に剣の峰部分や、柄の部分で急所を殴りつけ、相手を昏倒させながら、動かない相手を倒す呆気なさに、時雨は「つまんない…」と肩を落とす。
こんなんじゃ、運動にもならない。

全て倒したのを確認すると、冥月は肩を怒らせて、「あの野郎、私に俺の女になれ等と言ってきやがった」と不快気に唸った。
思わず、時雨と千剣破は顔を見合わせる。

女になれ…って…付き合って…下さい…って事…だよね?

思わず、冥月と『犀牛』が腕を組んでデートしている所を思い浮かべ、余りの釣り合いの取れなさに眩暈を感じた。
あんな、脳みそまで筋肉で出来ていそうな『犀牛』などと、冥月が付き合う筈がない。
大体、告白は、男ならもっとちゃんと、ロマンチックな場所で、誠意を持って行うべきだ。
「勇気あるね」と千剣破が呟いて、時雨がコクコクと頷くのを、ギロリと冥月が睨み据えてきた。



「で、どういう事なのよ」
エマがバス車内で唸るように言う。
「どうして、私たちの後をこんなに正確に追ってこれるわけ?」
男たちの中の一人を締め上げてみるも、下っ端だったせいで、要領を得た回答を得る事は出来ず、バス内を総ざらえした所で、盗聴器や、発信機等こちらの行方を追うに有効なものは何も見つからなかった。
実は、エマが事前にチーコの身に纏っていた衣服や、髪、歯の間等に仕込まれていた発信機等は事前に取り去っており、車のナンバー等を把握されたのかと思えど、K麒麟の仕事の下請け等を行うような小さな組に所属しているという男は、ただ、この水族館に向かい冥月達を襲うように指示されただけで、他は何も知らないという。
そもそも、こちらが「バスで移動している事」すら知らなかったというのだから訳が分からない。
事務所でK麒麟について調べ、情報を流してくれている武彦や零も、彼らがどのような情報網によって、こちらの動向を把握しているか想像すらつかないようで、とりあえず、東京で分る限りの事は随時連絡を入れてくれるそうだ。
今でも、黒須には組織そのものの情報を、エリィには道路情報等を伝えてくれているそうで、気付いてはいなかったが、武彦達は、武彦達で協力をしてくれているのだと知ると、やはり心強く思う。
とりあえず車を変えようかと悩んだが、「このバスの存在自体知らなかった訳だし、そういう問題で此方の所在を把握されているわけではなさそうだ」という冥月の言葉によってとりあえずは、今の移動方法を続ける事にした。

なんで、敵が此処が分ったのか?

難しい話は理解できずとも、その根源的な問題に対して、時雨も不安を感じつつ、水族館から満面の笑みで出てくる面々を見止めると、おいそれとそんな気持ちを顔に出すわけにはいかず、時雨はいつもの笑顔で皆を出迎えた。



「うひぁうぅ、はああぅふぃぃぅ!」
サクサクサクと軽い音を立てる白い砂。
裸足になったチーコが波打ち際ではしゃいでいる。

千剣破が、海水をスケートリンクのように変え、その上で嵐やいずみ、チーコが遊んでいた。
(いーなー…)
指先を咥えて眺めていると、チーコが三人から離れた場所でステンと転んだ。

「あ…」

チーコがバタバタと不器用にもがき、凄く悲しげな顔をする。
(巧く…起き上がれないの…かな?)

時雨は、慌てて駆け寄ろうとして海の上に足を踏み出し、いつもの感覚でぼちゃんと足が海に沈むと思えば、そのままツルンと勢いよく滑り、時雨は盛大に尻餅をついた。

「う…ひゃあ!」

そう声をあげ、強かに打ちつけた尻を撫でつつ立ち上がれば、ポカンとした顔でチーコがこちらを見ている。
多分千剣破の力がここまで及んでいるのだろう。
今度は慎重に海の上に足を乗せ、時雨は滑るようにチーコの傍へと寄った。
そのままチーコを助け起こし「大丈夫…?」と尋ねる。
チーコは顔を赤くして、俯くと、何も返事をしてくれなかった。
時雨は困って握ったままの手を揺する。
「痛く…ない…?」
チーコは、ぶっきらぼうに一度頷いた。
「海で…遊ぶの楽しい…?」
またも、チーコはこくんと頷く。
「…ボクも…海が好きだから…みんなと…来れて嬉しい…な…」
とろとろと言う時雨をチーコは初めて眩しげに見上げ、小さな声で「ひぁぅ…」と呟いた。

そうか…チーコも…海が好き…なのか…。

「一緒だ…」

そういえば、最初に依頼の話を聞いた時、武彦が言っていた。
チーコは南の島から来たんだって。

「…チーコ…キミの住んでる島の海も…綺麗だった…?」
時雨が問えば、チーコは一瞬遠い、遠い遥か彼方、故郷を思う眼差しを見せ、それから静かに頷いた。

時雨は思い浮かべる。

温かな、長閑な島の風景。
美しい砂浜をチーコが駆けている。
極彩色の熱帯の花々が咲くその島で、チーコが太陽のように笑う姿を。

「…行きたい…な」
時雨は呟いた。
「チーコの…故郷……一緒に行きたいな…」

三日間守り通せと言う依頼だという事は、きっと三日後にチーコの両親か仲間が迎えにくるのだろう。
その時一緒に連れてって?って頼んでみようか。
暖かな島なら、野宿だって平気だし、何よりそこにはチーコがいる。
にこにこと「ねぇ…一緒に行こうか…チーコ」と言う時雨をまじまじと眺め、突然チーコは時雨の手を振り払うと、踵を返し、まるで逃げるようにして駆け出した。

「…チーコ?」

手を伸ばし名前を呼ぶも、波の音にかき消され、時雨は呆然とその小さな背中を見送る。

「やっぱり…嫌われて…る…」

悲しい声で呟く時雨の耳に、「ごはんだよー!」という声が聞こえてきた。
「バーベキュー!! いい具合だよ!」
翼が金色の髪を風に遊ばせながら呼んでくる。

お昼も少し回った時間帯。
お腹をぺこぺこに空かせた面々は、めいめい返事とも歓声ともつかぬ声を上げて、既に美味しそうな匂いが漂っている浜辺へと走っていく。

時雨はそんな中肩を落とし、「…なんで?」と困惑しながら、首を傾げていた。

エリィが見つけてくれた浜辺は、彼女が言っていた通り、観光客の姿も地元の人間の姿も見えず、チーコは姿を隠さずに、のびのびと振舞う事が出来ていた。
串に差した肉に齧りつきながら、熱かったのかチーコが「ひふひふ!」と息を大きく吐き出している。
「はい、どうぞ」と冷たい水を兎月原が差し出し、丁寧な手つきでチーコの口元をナプキンで拭ってあげていた。
「おいし?」
首を傾げて問う姿や、チーコが別のものに手を伸ばそうとすると、さっと皿を差し出す紳士ぶりに感心していると、時雨の心を読み取ったが如く、百合子が、とうもろこしに兎のように齧りつきながら、「まぁ、プロだしね」と言いつつ、うんうん頷く。
「プロ?」と首を傾げれば、「おもてなしのプロ」と分ったような分からないようなことを言い、「時雨さんには関係のない商売よ」と更に意味の分からない事を言われた。


料理上手のメンツが揃っているからか、どれもこれも、本当に美味しい。
バーベキューの他にも、タラのホイル包み焼きに、海鮮塩焼きそば、ブイヤベースのスープまで、「エリィちゃんが作ってきてくれたお弁当に触発されちゃった」とエマが笑い「僕も張り切らせて貰いました」と翼が、優雅な手つきでスープをプラスチック皿に流し込む。
翼も、エマも、乏しい調理器具から、手早く見事なバーベキュー料理を作り上げており、エリィもお弁当作りで見せてくれた腕前を思う存分披露してくれていて、皆、お腹が一杯になると、本当に野外料理の食後なのかと疑いたくなるほどの、満足感に満たされた。

その後、日暮れ前にここを発つという事で、浜辺で眠るもの、波打ち際で遊ぶもの、ビーチパラソルの影で本を読むもの等、それぞれ別れる。

時雨も、片づけを手伝った後は、クーラーボックス(これもエマ持参だそうだ。 咄嗟に『怪力』と慄いた事は、勿論内緒)から、よく冷えたコーラを取り出し浜辺を歩く事にした。

嵐と並んで歩いていると、先を歩く兎月原の姿が見えた。
波の音が耳に心地良い。
「…なぁ、時雨。 あのおっさ…あー、兎月原さんってさぁ…なんか…妖しい商売やってそうな気がしねぇ?」
嵐に問い掛けられ、ほわほわと波打ち際をたゆたうワカメを眺めて「おいしそう…」等と呟いていた時雨は首を傾げ「え…えーと…えーと……」と眉を顰めると、それから、「あやしい…って…こう…あの、前の客の残した食べ物を…次のお客さんにも…使いまわして出すような…お仕事の事?」と先日公園のくず入れから入手した新聞に書かれていた情報を交えつつ聞いてみる。

嵐は思わず「それ、『あやしい』違い! っていうか、意外な時事ネタにちょっと驚いたんだけど、時事ネタってほんとにリアルタイムでしか理解して貰えないから、止めてほしい!」と、突っ込まれてしまった。
「あう…じゃあ…妖しいって…何?」
首をきょとんと傾げる仕草に嵐が一つ溜息を吐く。
「あー…なんつうの、夜の匂いっつうの? 水商売っぽい匂いがすんだよ」
そう嵐に言われ、咄嗟に意味を掴みかね、先ほど海で遊んでいたチーコ達の様子を思い出すと「水……お水? だったら…、千剣破の方が…、上手だよ? 水と…仲良しだもん…」とにこっと笑って言う。
すると嵐は脱力し尽くした様子を見せ、「ま、折角だし、ちょっと話聞いてみようぜ?」と言いつつ、兎月原を追いかけた。
時雨も慌てて後を追う。

嵐は頭の後ろで手を組んで、独り言のように言った。
「…なぁんか、バイトだっつうのに、そんな気しねぇのな。 今回は」
煙草を咥え、風に髪を遊ばせつつ目を細めて呟く嵐の横顔は、ちょっとかっこよく、(煙草…吸えたら…かっこよく…なれるのかな…?)と時雨は考える。
「…ボクも…なんか…凄く楽しい」
そうふにゃふにゃと、柔らかい笑みを浮かべ「おいしいもの…一杯食べれるし…♪」と唄うように時雨は嵐の言葉に同意した。
「チーコも…楽しそう…。 それが…一番嬉しいな」
おっとりとした口調でそう言葉を重ねれば、兎月原も頷いて、「ま、王子様候補としては、それが一番大事だよな」と嘯いた。

「王子様…?」
「候補?」

嵐と時雨がそう首を傾げれば、むしろ、その疑問符が疑問!と言わんばかりの顔をして、「当たり前だろうが」と言いつつ、兎月原が二人の顔を交互に眺めてくる。
兎月原の視線に怯んで見合わせる二人に、「はい、今回のお仕事の主旨は?」と兎月原は問い掛けてきた。
いきなりの先生口調に驚きつつ、時雨と二人、それぞれ、答えらしきものを口にする。
「えーと、チーコを守る事」
「それから…チーコに…楽しい時間を…過ごしてもらうこと」
「はい正解。 女の子を楽しませて、その上守るなんていうのは、王子様の仕事だろ?」
兎月原の断言に、思わず、「ああ…ええっと…」と悩みつつも、そのまま、押し切られるように二人は曖昧に頷いてみせた。
兎月原は、「という事で、目標としては、翼さん辺りを目指して、ちょっと頑張ってみようか」と言われ、バス内での女性に対する華麗な言動を思い出して、時雨は青くなる。
そして、嵐と揃って首を打ち振り「「あの人は、無理!!」と声を揃えて訴えた。
「す…水族館でとか、凄かったんだぜ? ナチュラル・ボーン気障! 殺し文句のオンパレード。 死ぬ! 俺が言ったら、自分自身が殺される!」
「あ…あんなの…は、恥かしすぎる…! 世界中で…多分翼さんか…それこそ、兎月原さんしか許されない…! 犯罪! 逮捕!! そして…即 処 刑!」
必死に言い募る二人の姿に、兎月原は驚きの表情を見せる。
まぁ、兎月原も大概気障な男なので、この「無理!」な気持ち加減等分からないに違いない。
「大体…ボク…なんか…チーコに嫌われてるし…。 もう…王子様失格…」
先ほどのチーコの様子を思い出し、しょぼんと、しょぼくれる時雨。
「ボク…いつもは…子供には…凄く好かれるのに…」と時雨は益々項垂れる。
「あー…多分そんな事ないと思うぞ?」
嵐がそう言いながら、ポンと時雨の背中を叩き励ましてくれた。
「そうそう、もっと、こう、時雨君から積極的に接触を持つというのもアリだと思うな」と兎月原もアドバイスしてくれて、なんて優しい二人なんだろうと時雨は感動した。

「あ…あそこ…」

時雨が、ふいに浜辺を指差す。

しなやかな時雨の指先には、竜子が座る姿があった。
海を見つめ微笑む彼女の横顔が、今まで見たどの顔とも違う、優しく、美しいものである事に嵐は目を見開く。
最初見た時驚かされた濃い目の化粧も、旅の途中であるせいか然程激しいものでなく、彼女の地顔が大変整っているものである事に、時雨は気付いた。

まるで、聖母めいた。

酷く近寄り難い程の微笑みを浮かべる彼女の膝に頭を乗せて、黒須が眠っていた。
昨日は夜通しバスを運転し続けたらしい彼は、流石に疲れているのか、膝を曲げ、まるで胎児のように体を丸めて、呼吸すらしていないかのように静かに、静かに眠っていた。

瞼を閉じた、無防備な寝顔は起きている時の険しさを微塵も感じさせず、何だか不安になるほどに幼い。



風が。


黒須の長い髪を揺らし、竜子の一つに結んだポニーテイルを舞い上げた。

あの二人は、恋人同士なのだろうか?
お似合いとは言い難いけど、何だか不思議な二人組…。
そう思えども、どうしてだろう。


あんなにくっついているのに。

何一つ触れ合ってない二人に見えた。


時雨は、何故だか、胸が痛くなって目を逸らした。


竜子達が座っている更に奥。
堤防付近では、チーコ達女性陣が座って、何かに取り組んでいた。
美しい少女達が、微笑み合いながら輪になって座っている姿は、それだけで心がときめく程に愛らしい。
チーコが輪の中心で必死に指先を動かしていた。
何かを作っているのだろうか?

「あ…こっち見た…」
ふと、チーコと目が合った。
時雨は、咄嗟に大きく手を振る。
子供のような笑みを浮かべたまま、ぶんぶん!と夢中で手を振る時雨を見て、何だか困ったようにキョロキョロした後、翼の腕に顔をくっ付けた。

その態度が、時雨は悲しくて、悲しくて「あう…うう…」と犬のような声を出す。


慌てた様子で、千剣破やエリィ、いずみ達が大きく手を振り返してきた。

きっと、チーコに嫌われた自分を可哀想に思っているに違いない。
時雨はそう確信し、若干涙目になりつつ、「う、うう…ボク…何かいけない事したかな…?」と、ブチブチと呟いてしまう。

突然、時雨は兎月原に脛を蹴られ、鋭い痛みに抗議の声をあげようとしたが、物凄い目で睨まれて「あうう…」と言葉を飲み込む。

やっぱ、何かいけないことをしてたんだ…と、意味も分からないまま素直に反省した。

そして脛を掌でさすりながら「泣きっ面に…蜂…」と時雨は珍しくことわざを正しい意味で口にする。
チーコを横目で窺えば、翼達に満面の笑みで笑いかけていて、ああ…ボクにもああやって笑ってくれたらいいのに…と心底願った。



夕焼け空になり始めた頃、皆はそれぞれ帰り支度を初め、時雨も発つ準備を整える。

「さて、そろそろ…」と、エマがそこまで言いかけた所で顔を上げた。
「…望まざるお客さんが来ちゃったみたいね」と、軽い口調でエマが言うと、まるで、それまで消していた気配を全て解放するかのように冥月が立ち上がる。
ゆらりと彼女の周りが揺らいで見えるほどの、酷く剣呑な気配に時雨は、本能的に頭を戦闘モードへと切換えた。


堤防沿いに、黒塗りの車が数台バタバタと停まる。
降りてきた黒スーツ姿の男達に「お約束どおりね」といずみが冷めた声で呟いて、取り乱す事も一切なく、子供らしくもない感想に、ちょっとびっくりする。

キビキビとした声で冥月が言った。

「非戦闘員は、一旦バスへ避難だな。 いずみ、百合子、エマ、竜子バスへ。 嵐っ!」
まるで教師めいた口調で冥月で呼ばれ、肩を竦め「んだよ。 俺は、非戦闘員扱いで良いんだぜ?」と言う嵐に、にっと物騒な笑みを見せると、トンとその胸を掌で突き「ああ、非戦闘員扱いさ。 今回はな」と意味ありげに告げてきた。

「あいつらの狙いはチーコだ。 嵐、バイクで、チーコを連れて逃げろ。 向こうは、ざっと見ても30人強。 興信所での脅しが効いたか、私や時雨の名前が効いたのか、中々、手厚いおもてなし部隊を送り込んできてくれたようだ。 まぁ、それでも、私にしてみれば、馬鹿にしているとしか思えない、お粗末なもんだが…こちらとしても、彼女を守り、非戦闘員の安全を確保しつつ、あの人数を相手にするのは、そこそこ骨だ。 銃の使用も予想されるし、守りに徹するだけでなく、今回は、あいつら全員叩きのめし、どういう人間を相手にしているのか向こう側に知らしめたい。 何より、どうして此処が分ったのか、誰か一人捕縛して吐かせてもやりたいしな。 それだけの事をチーコに目を配りながらやってのけるより…」
「向こうの目当てである、チーコを安全な場所へと移動させる…って事か…」
翼が賢しげに呟けば、冥月が満足げに頷く。
「ああ。 出来るな?」

冥月の言葉に「俺は、ただの、一般市民なのに」と一度肩を落とすと、諦めたように「まぁ、チーコの為ならしょうがないな」と嵐は決心を付け、「活路は開いてくれよ?」と、皆に視線を走らせた。
時雨はここで、チーコにカッコイイとこを見せて、少しでも好かれようと「とうぜん…まかしといて…」と自信に満ちた声で言う。
「ぜったい…チーコに傷…付けさせないから…ね?」と首を傾げた時雨から、チーコは耳を真っ赤にさせつつ、ぷいと顔を背けてしまって、時雨があげた髪留めの輝きが時雨の目を射た。
やっぱりつれないチーコの態度に、途端にシュンとした顔になる時雨。

とぼとぼと浜辺を歩き冥月の隣に並んで、つと顔を上げる。
そこには、先ほどまでの情けない顔の時雨はおらず、殺し屋として恐れられている「五降臨時雨」の顔があった。
口を引き結べば、端麗で酷く整った迫力のある顔立ちをしている時雨がツ…ツツと堤防の上に立つ男達を殺気を込めて睨めば、それだけで何人かが怯んだように後ずさる。

チーコをバイクの後ろに乗せた嵐が冥月を見て頷いた。

冥月は嵐に対し、不敵に微笑み返すと、翼に向かって「準備できたそうだ。 お前はどうだ?」と問う。
「いつでも、いいよ」
そう短く返事を返す翼に、冥月は「頼りにしているぞ」と声を掛け、ついと堤防前に雁首そろえる男達に向かって指を指した。

「やってしまえ」

笑いながら言う冥月に、同じく笑い返し、翼が、腕を軽やかに踊るかのように振るった。
その瞬間、強い風が巻き起こり、男達が面白いほどに、呆気なく将棋倒しのように倒れた。
それが合図であるかのように、嵐が一気にアクセルを全開にして走り出す。
翼が引き起こした風を追い風に換えて、嵐が猛スピードで駆け抜けていった。
タイヤを取られ易い砂浜を難なく突っ切ると、堤防に備え付けられた階段、その脇の手すりとして設けられているのであろう幅の酷く狭いコンクリートの急な坂を一気に駆け上がっる。
思わず時雨は固唾を飲んだ。
竜子と百合子が声を揃えて叫ぶ声が聞こえる。

「いっけぇぇぇぇ!!」

するとその声援が届いたのか、見事に嵐の操るバイクは見事、坂をジャンプ台代わりに男達の頭を飛び越え道路の向こう側に着地すると「ひぅあぁはああぁぁぁ!」と何とも明るいチーコの笑い声を残して走り去って行った。

アクロバティックな技の成功に、思わず「かーーーっこいいいーーーーー!!!!」と叫ぶ。
ヒーローみたいだ、嵐。
感激のあまり、パチパチパチと大きな拍手をした時雨は、一瞬でまた、身に纏う空気を剣呑なものへ変えると、一気に敵陣へと突っ込んだ。

兎月原、翼、黒須、エリィといった面々も、同じタイミングで的に詰め寄っていく。

とりあえず、殺傷力の高い剣を振るうのはやめておいて、目にもとまらぬ速さで、トン、トン、トンと三人の男にほぼ同時に衝掌を喰らわす。

冗談みたいに吹っ飛ぶ男達を見送る事もなく、背後に回りこんだ男の首筋に手刀を、ついで何が起こってるのか理解できずに銃を構えたまま、立ち尽くしている男の脇腹に軽く蹴りを喰らわした。

(手加減…しないと…ちぎれちゃう…♪ 手・足・首が…ちぎれちゃう…♪ お腹には…トンネル…開通だ…♪)

頭の中で物騒な歌を唄う。


他の面子も、鮮やかな手際で、相手の意識を奪っていっている。


突如、影の中から姿を現した冥月が、男の首を締め上げて、それからぐいと男達を見回した。

その瞬間、全ての者の影が拘束具と化して敵をはがいじめにする。

「お好きにどうぞ?」と優雅ですらある口調でそう薦める冥月に皆頷いて、あとは、言葉どおり、好き勝手やらせて貰った。


その後は幾つか銃声やら怒号やら、まぁ物騒な騒ぎが暫らく続いたが、エリィから見れば、呆気ないほどに決着はついた。


「さて、一応問うが…この中で拷問が得意な者」


冥月のとんでもない台詞に、エマといずみを除く皆が一斉に黒須を見た。
こう、本能的にだが、「拷問得意そう!」という陰惨なイメージ=黒須という、ナツラルな流れでの視線の流れは本人いたくお気に召さなかったらしい。

「ていうか、お前ら見た目のイメージだけで、俺を判断するな!! なんだ、拷問得意そうなイメージの外見って! 嫌だ! そんなイメージ! 得意技、拷問です☆って自慢になんねぇ!」
そう怒鳴る黒須に「いや…見るからに…こう…陰湿系というか…」と翼が言えば、「うん、金融業とかで取立て屋になったら、相手の精神を破壊尽くすまで追い詰めそうな感じよね。 マムシの誠とか呼ばれてるイメージ」とエリィがVシネチックな事を言う。
「趣味とかも、自分を振った女性の写真にひたすら『怨』と書き続けるとかっぽいし…」と百合子がマジマジと黒須を見ながら言えば、「あと、嫌いな相手への攻撃方法が、靴に待ち針を仕込むとかそういう精神的にクるけど、セコイ感じなのね!」と千剣破は嬉しそうに断言した。
余りの言われようによろめく黒須に兎月原が笑顔で「総じて、身動き取れない相手に対しての攻撃が凡人の想像を絶するような陰険な手段を思いつきそうなイメージって事だな。 やったね! 黒須さん」とウィンクすらして告げるものだから、もう、ここまで固まってるんだし、事実で良いんじゃないか?
黒須は拷問が得意技で良いんじゃないか?という流れが皆の間に出来上がる。
そんな馬鹿なやり取りの間、エマが、何か言いたげに、うずうずと体を揺らしていたが、頃合や良しと見計らったのか、とうとう黒須の前に庇うように立ちはだかり「みんなっ! 違うよ?! 黒須さんっ、そんな人じゃ…ないよ?!」と、首を大げさに振りつつ、児童劇団の道徳芝居で役者が見せそうな、妙に芝居がかった仕草で言う。
そして、くるりと振り返り、黒須をキラキラと見ると、「黒須さんは、ドMだもんね? そんな、拷問なんて、する側より、される側の時の方が幸福MAXだもんね☆」と超全開の笑顔で告げた。

ド…エム????


言葉の意味も分からずに、時雨は目をパチパチと瞬かせる。

だが、竜子が「正解!」と力強く親指を立てれば、皆が更に一歩黒須から遠ざかり、ド・エムって何か不吉な呪文とかそういうのなのかも知れないと判断して、時雨も慌てて皆に倣った。
黒須はがくりと項垂れ眺めると、エマを恨みがましげに見て、「お前 ほんと 俺を馬鹿にする時全力投球な!」と半眼になりつつ、唸るように言う。
そんな黒須に「てへ」と笑って見せると、「あー、すっきりした。 ほら、中々今回、黒須さんを虚仮にするゾ♪タイムがなかったもんだから、ストレス溜まってて」とエマは、肩をキリキリと回しつつ、爽快感に溢れる顔で言い放つ。
「そんなレギュラータイムを勝手に設けるなよ!」と怒鳴る黒須に、「次回をお楽しみに☆」とエマは笑顔で返し、更にもう一歩ほど後ずさった場所で「えーと、然程興味がないを越えて、むしろ地雷踏んだ感を噛み締めつつ、黒須さんの性癖についてはこれ以上何もお伺いしたくないので、話を先に進めてもらって宜しいでしょうか?」と丁寧な口調で兎月原がお願いすれば、道端に落ちている丸めたティッシュを眺めるような目で黒須を一瞥した後冥月は頷いて、「では、私も余り加減が分らんので、向いている方ではないのだが、ちょっと訊いてみるか」と、軽い口調で物騒な事を言って、足元に転がる縛り上げた男性を見下ろした。

猿轡を噛まされ、縛り上げられた男は畏怖の眼差しで冥月を見上げるが「ただ口を割らせるだけなら、多分僕だと手間なくやれるよ」と翼が手を挙げた。
「おお、意外と拷問得意系?」と竜子の頓珍漢な問い掛けに、「得意・不得意の区別の仕方が分からない」と肩を落として見せた後、男の目の前に座りこみ翼はじいっとその瞳を覗き込む。

「さぁ、よく、見て。 僕の目を、ようく見て」

唆すような声。
男は翼の魅惑的な瞳に魅入られる。
ぱち、ぱち、ぱちと、三度瞬いた瞬間、男の全身が弛緩した。
猿轡を外し、翼は優しい声で問う。

「ねぇ、どうしてここの居場所が分ったの? チーコに取り付けられていた発信機は全て取り外したはずなのに」

魅入られたように熱っぽい瞳で翼を凝視する男が、翼が促すままに口を開いた。

「は、発信機は、まだ、ある」
軽く翼は目を見開き、「それは何処に?」と問い掛けた。

「それは…」

虚ろな口が、咳き込むようにして吐き出した。


「あの化け物の体に埋め込んである」

いつもは、みんなの喋ってる事が分からない事が多い時雨だけど。

この時だけは分かった。

ようく分かってしまった事が、吐き気がするほど辛かった。


「肩甲骨の下を、麻酔なしで開いて、『Dr』が、発信機を埋め込んだ」

翼を熱心に見つめながら、他には何も世界はないという風に男はだらだらと言葉を零す。

「泣いていた。 大声で。 何を言っているか分らなかった。 気持ちの悪い 生き物。 一丁前に涙なんかを 零して。 触ってみたら、分る。 あの化け物の肉の下に、ゴツッとした膨らみがある。 触ると酷く痛がるから、面白がって…」

そこまで言った瞬間、竜子がその即頭部を思いっきり蹴飛ばした。
あと一秒竜子が男を蹴るのが遅ければ、男の命はなかった。

時雨が剣の柄を手をかけて、引き抜く寸前だったので。
男は竜子に命を救われた。

死ねば良いと思った。
燃やしてしまおうと望んだ。

チーコが随分痛い思いをさせられて、その姿を笑っている奴がいる。

燃やして灰にしてしまおうと心に決めて、倒れている男達を眺め回す。

これだけたくさんの燃料があればさぞかし盛大な炎となろう。


麻酔 なしで 体の 中に あの 小さな体の中に


なんで? 痛い。 凄く 痛い。 なんで? 

そんな事が出来る生き物と、自分自身が同じ「人間」という種族である事に吐き気がする。

殺したいと、心から望んだ。

竜子が息を荒げながら「くそっ、やっちまった! 子供の前で、やっちまった!」と髪の毛をくしゃっと掻き毟る。
「いずみ!」
名前を呼ばれ、「はい」と静かに返事する。

「今のあたいが言っても説得力ねぇけどな、自分が気に入らないからって、話し合いもせずに、すぐ暴力ふるって、相手を黙らせるのは、いけない事だかんな!」

そう荒い息の下に、困った気持ちを混じらせながら、竜子が言えば、いずみは静かに頷いて「肝に銘じます。 ただ、そのルールは、『話が通じる』相手のみに適用させていただきます」と冷静に返事し、竜子を益々困り顔にさせた。


「…殺すか?」

冥月が平坦な声で言った。

「ここにいる連中、皆同じ外道だ。 依頼主が望むなら、皆、証拠を残さず消してやる。 生きていても、チーコと同じ犠牲者が生まれるばかりだ。 子供が、弱いものが、抵抗する術を持たないものが、理不尽に殺され、虐げられ、泣かされる。 生かす事によって、失われる命が増える『生』もある殺すか? 私は躊躇わんぞ」

冥月の言葉に、日頃の人懐こい表情を一変させた時雨がカチャリと腰に提げている刀に物騒な音を鳴かせる。

エリィも、冷たい表情で銀色の幅広のナイフを鞘から抜く。


千剣破が青い顔をして、倒れている無数の男達を眺め回していた。
その全身に宿るは間違いなく殺意。

チーコの小さな体に異物を埋め込んで、痛みに泣き喚く彼女を想像すると、この男達を生かす意味が一つも見つからない。

黒須は無表情で竜子を見る。
竜子は、黒須を横目で眺め、全てを委ねられている事を理解したかのように目を閉じて、それから自分が蹴り飛ばした男をもう一度見下ろした。


「殺さないで」


細い声。
見れば両手をぎゅっと握り締めて百合子が震える声で言った。


「殺さないで」

時雨は目を見開いた。

どうして…と、問いかけようとして、百合子の顔を見て、何も言えなくなった。

だって、子供みたいな顔をしてるから。

子供みたいな顔をして、泣きそうな声でお願いしてくるから。


子供のお願い事を、一度だって断れたことのない時雨が、百合子の望みを無下にする事等出来るはずもなかったのである。

竜子は「はっふっ」と大きく息を吐き出すと、「うん、殺さない」と答えた。
冥月は少し首を傾げ「甘いな、お前らは」とそれでも、何だか優しい声で言った。

「いいんだ。 甘くて。 その、あんたらからすれば、きっとこの仕事自体、凄く甘い仕事じゃないのかい? いや、知らないけど。 女の子守って、最後の三日間を楽しく過ごさせてやって欲しいだなんて…ああ、そう、ロマンチックだ。 ロマンチックじゃないか、なぁ、百合子」
そう言われて目を見開き、それから「ろ、ロマンよ。 そうよ、ロマンなの」と必死の声で言う。
「ゆ、夢見がちかもしれないけど、ねぇ、チーコには、ロマンが似合うわ。 あの子は、きっと、凄く辛い目に合って、ねぇ、それを、その最後までの間を幸せに過ごさせてやって欲しいなんて依頼は、本当に…本当に……甘い、甘い、砂糖菓子みたいにベタついた仕事で……でも、だから、いいのよ。 あの子に関わる時間全てがロマンチックであった方がいいのよ。 だって、女の子なんだもの。 チーコ、女の子なんだもの。 だから、似合わないわ、人殺しは。 倫理とかは分からないの。 道徳も、知らないわ。 安易なヒューマニズムなんて反吐が出る。 でも、綺麗ごとよ。 このお仕事は全部綺麗ごとなの…だ、だから…だから…」
言葉を捜しあぐねたように、自分の髪の毛に手をやり、ぎゅうっと引っ張って困り果てた顔をする百合子。
エリィは百合子に駆け寄ると、柔らかな、春の日差しのような微笑を浮かべて「分かった。 殺さない」と言った。
時雨は、ふしゅんと息を吐き、険しい空気を霧散させて、「チーコ達…無事…待ち合わせ場所…着けたかな?」と、既に別の事で頭を一杯にした。

エマは、素早い手つきで携帯を操作し、まず、警察に通報の連絡を入れると、次に嵐に連絡を入れた。
「んー、どうも、まだ走行中みたいだけど、ちゃんと、安全が確認出来たら連絡入れるように言ってあるし、まぁ、嵐君の事だから大丈夫でしょ」
そう言い、冥月がバスに目を向ける。
「チーコの体に発信機が埋め込まれている以上、バスを捨てていく事も考えたが無意味か…」と呟いて、「まぁ、全滅の一報がいけば、次の追っ手の準備も慎重にならざる得ない。 こちらの実力は充分に分って貰えただろう。 そうそう、敵う相手ではない事もな。 油断をするわけにはいかないが、チーコの体から発信機を取り出すわけにもいくまい」と冥月は言い、皆一様に大きく頷く。

冥月は、乾いたような笑みを口の端に乗せ、それから竜子に視線を向けた。

「殺すという事は覚悟のいる事だ。 だが、生かす覚悟の方が厳しい事もある。 分っているな?」
冥月の言葉に竜子は静かに頷いた。
長い睫に縁取られた強い眼差しを見て、冥月は「ふん」と呆れたように溜息を吐くと、「あと…一日と少し…か。 守りきれるだろう?」と、他メンバーを見回す。
翼が肩を竦め「認めたくないですけど、武彦はベストメンバーを選んでます。 チーコを守り、幸福な気持ちで過ごさせるという事に関してはこれ異常ないほどのベストメンバーをね。 最初事務所に揃えられているメンツを見た時は…」とそこで言葉を切り、千剣破がその続きを引き取った。
「もう、バラッバラ!」
その台詞に、エリィも頷いて「どうなる事かって思ったけどね」と笑う。


間違いない。
これが最良で、最強。

興信所の主の名は伊達じゃないって事だ。

「行きましょう。 チーコの所に」

いずみが言う。
兎月原が、空を見上げ、「ああ…あんなに良い天気だったのに、曇ってきた。 急いだ方が良さそうだ」と典雅な声でそう告げた。




程なく、雨が降り始めた。



ひっそりとした畦道を抜け、バスが辿り着いたのは、エマが興信所ぐるみで懇意にしていると言う古い神社だった。
人里離れた場所にあるのだが、家屋も広くて情緒があり、一晩置いて貰うには最適な場所だと判断し、エマは先に連絡を取って、一晩の宿の許可を得ているらしい。

「んふふ、ここの神主さんは、凄いのよ? お歳も、お歳、ってまぁ、百年以上生きてる人とか、興信所じゃ、珍しくないんだけど、神社の建立からずっと、神社を守り続けている初代神主=現神主な人で、もう、本尊が神主?みたいな人なのよ。 確か、500歳だか、なんだったか…。 まぁ、もうじき、大祭があるとかで、此方にはいらっしゃらないんだけれども、チーコちゃん達と、私達が到着した際には、一時的に結界を開いて迎え入れてくれるよう頼んでおいてあるの。 普段は、神社自体、森が隠していておいそれとは見つからないし、例え、霊感のある人が見つけてしまったとしても、結界のせいで足は踏み入れられない。 発信機も、磁場の歪みのせいで、本来の機能は発揮できないし、寝込みを襲われる心配と、出掛けを急襲される心配もないわ。 まぁ、こよなく安全な場所であるっていうのは、私がこの場所を選んだ大きなポイントではあるんだけど…まさか…この場所を選択した事が、こういう意味でも役に立つとは思わなかったけどね」
残念そうなエマの言葉に、翼が気を取り直すような明るい声で、「流石にエマさんの人脈だ」と感嘆すれば、「んふふ。 ありがと」とエマは胸を張る。
山際にバスを停車し、山を開いて作られた木々に四方を覆われた階段を登る。
嵐から既に無事に待ち合わせ場所に辿り着いたという連絡は受けていたが、バイクが山際の大きな木の下に停車されているのを見つけると、何だかほっとしてしまった。

シトシトとした雨に身を打たれながら、ひんやりとした空気を掻き分け階段を登っていると、今から神域に足を踏み入れるのだという緊張感が全身を満たした。
神社も、酷く古い作りをしていて、ぬかるみに足を取られぬよう門をくぐれば、感嘆するしかない情景が広がっていた。

「わ…あ…」

「ね、綺麗でしょ? これを、チーコちゃんに見せたかったの」

そう言う得意げなエマの声に、時雨は大きく頷く。
藤の花弁がほろり、ほろほろと散っていた。
大気に充満する香りは、芳しく、雅やかでありながら、清涼。
初夏の匂いに、皆大きく息を吸い込む。

澄んでいる。

つつじの花が咲き乱れていた。
手入れそれ程されていない様が、しかし、だからこそに素朴で、自然の力強さも漂わせていて、美しい。

「お、来たな」


そう言いながら、本殿の玄関先から嵐が顔を出し、続いてチーコが「ふあゎぅふぅ!」と声を上げる。
「あらぁ、そうなの、良かったわねぇ」とエマが表情を緩ませて両手を広げれば、テテテテと駆け寄ろうとして、チーコは階段の途中でくたりと倒れるように転げ落ちた。

「っ!!」

咄嗟に、飛び出そうとした時雨より早く、兎月原が掬い上げるような手つきでチーコを抱きとめ、抱き上げる。
「大丈夫かな? お姫様」
兎月原が蕩けるような声で問えば「ふぁふぅ!」と元気な返事をして、その首根っこに齧りついた。
チーコは笑っていて、時雨は、ほっと胸を撫で下ろす。
抱き上げられたまま「ひぃふぅあぅ、ふあぅ!」とチーコはエマに何事か告げた。

「バイクでここまで走ってくるの、凄い楽しかったって。 雨に降られなかった?」と聞くエマに「ああ、ギリギリ振り出す前に間に合った。 とりあえず勝手に上がらしてもらったけど、良かったんだよな」と嵐が問い返す。
「大丈夫、ちゃんと全部分って貰ってるから」
嵐の疑問に頷くエマ。
「あ、一応、風呂の用意だけしといたから」と嵐が言えば、エリィと千剣破は同時に歓声をあげた。
「海にいたから体がベタベタしてんのよねー! お風呂、嬉しい♪」
エリィがはしゃげば、「雨にも打たれたし、体あっためたいよねー!」と千剣破も嬉しげに言って、同時に「「嵐君、ありがとう」」と声を揃える。
すると、眩しいばかりの美少女二人のお礼の声に、嵐は、ちょっと照れたようにそっぽをむいて「どーいたしまして!」とぶっきらぼうに答えた。

「さ、じゃあ、夕食の支度をするわね。 男性陣、先、お風呂入っちゃって」とエマは手を叩けば、「あ、いや、まだ沸かしてない…」と嵐が言いかけたところで、チッチッチとエマが指を振り、「藤ちゃん、つつじちゃん、お願いね。 あとで、一曲歌ってあげるから」と声を上げる。

すると、そよそよそよと庭に植えられたつつじと藤が優しい音を立てて一斉に揺れた。

「ここの神主さんの式神ちゃん。 私も姿は見た事ないんだけど、私の歌を気に入ってくれてて、ここに来た時は歌の代わりに、神社内の色んな御用事も請け負ってくれるの。 そこそこ力のある子達だから、お風呂も、もう沸いてる筈よ。 広くて、10人くらいだったら一気に入れるお風呂だから、えーと…むさい時間をどうぞ、ごゆるりと〜」と何だか明らかに風呂に行く気力を殺ぐような事を言いつつ手を振るエマに、「じゃ、お言葉に甘えて」と黒須が頷き、男性陣は揃って風呂場に向かいかけ、「あ、チーコはレディだから、女性陣と一緒にね?」と言いつつ、兎月原が、チーコを廊下に下ろした。

にこっと兎月原に笑い返し、女の子達に向かって走って行こうとしたチーコが再びこける。

「ふぁっ、うふぅうっ」

恥かしげに身を竦め、再び立ち上がろうとした時に、チーコの足がガクガクと痙攣した。



あれ?
笑顔のまま、時雨は固まる。

どうしたの? チーコ?
意味が分らず、首を捻ったまま、「足が…痺れた…のかな?」と考える。

いずみが走り寄ってチーコの腕を引き、まるで、さっき兎月原がそうして見せたように、チーコを抱き上げようとして、当然、出来ずに一緒に転ぶ。

益々きょとんとする時雨。

いずみ…どうしたんだろう?

いつもは…冷静なのに…。
あんなに…焦って…。


「あ、ごめ…け、怪我…ない?」
チーコの体を、世界中の全てから守ろうとして覆いかぶさるように抱きしめ、震える声で問い掛けた。
いずみの問い掛けに強張った顔で頷いて、途方に暮れたような顔をして辺りを見回し、それからチーコが、泣きそうな顔を見せる。


時雨は分らなかった。
何一つ分らなかった。
ただ、いずみも、チーコも哀しそうな顔をしていて、どうやって二人を笑わせてあげて良いかも分からなかった。

「一緒。 チーコと私は一緒」

いずみが優しい声で言った。
時雨は、何も分からない癖に、その穏やか極まりない子供の声に圧倒されて一歩後ずさった。

どんな、強敵を目の前にしても、一歩も引かない時雨が引いた。

チーコが、不安に揺れる一つだけの大きな目でいずみを見上げる。
その額に自分の額をくっつけて、「一緒よ。 チーコ」といずみが言えば、チーコは小さな両手でいずみの頬を挟みこんだ。

「いぅお?」
「うん。 そう、一緒」

すると、チーコはまた、可愛く笑う。
翼が、チーコの体を抱き上げた。
「そうか。 チーコ、疲れちゃったのか。 じゃあ、少し休もう。 今日は一杯遊んだからね」
翼がそう言いながら歩き出す。
時雨は、なんだ、チーコは疲れたのかと、それでももう歩けなくなったのかと頷いて、それから、なんで自分の心臓が、こんなにドキドキしているのか、こんなに不安に苛まれているのか分からないままに、ペタペタとお風呂に向かった。



「どれが…いい?」
抱きかかえたチーコが、指を差したイチゴのアイスを籠に入れる。

「ボクは…これにしよ♪」

最中アイスを選び取り、「ひぃ、ふぅ、みぃ…」と三回数え直して、みんなの分のアイスが籠に入っているのを確認する。

「チーコ…他に何か欲しいもの…ない?」と時雨が問えば、チーコは小さく首を振る。

「ちゃんと…掴まって…ないと…、落っこっちゃうよ?」
そっと添えるようにして肩を掴んでいるチーコの小さな掌を引いて、自分の首に腕を回させると、時雨はアイスが入った籠をレジに出した。


雨は、まだ止まない。

風呂上り、みんなで凄くおいしい夕食を食べた。
女の子達が、デザートにアイスを食べたいと言い出して、いずみが時雨とチーコにおつかいに行ってきてくれないか?と頼んできた。
子供のお願いだし、そもそも、時雨もアイスは大好きだったので二つ返事で頷いて、俯くチーコを抱きかかえて神社近くの駄菓子屋までやってきたのだ。

アイスの袋を提げ、駄菓子屋を出て、ポテポテと歩く。
鼻歌を歌いながら、チーコの顔を時々覗けば、硬い表情でじっと硬直していた。

時雨は思わず溜息を吐きそうになる。
子供にここまで、懐かれなかった経験もなくて、何処がこんなに嫌われているのか、時雨は思わず考え込む。

(背が…大きい…から、怖い…のかな? それ…とも…顔? 顔…怖いかな…、あと、あげた…髪留め…が、チーコの…趣味じゃない…とか?)

そう思えど、チーコは毎朝エマにせがんで髪留めをちゃんとつけてくれていて、時々、掌で触って、そこにちゃんと留まっている事を確認し、にこっと笑う姿を見ているので、そんな筈はないと時雨は考える。

ほてほてと、二人黙りこくったまま暫く歩いていると、突然、時雨の足元を何か小さな生き物が駆け抜けた。

「う…あ…!」と、思わず転びかけ、今はチーコを抱いているからと、辛うじて踏みとどまる。
「ひあっ…うはぁっ!」
チーコが、時雨の腕の中で、道端を指差した。
そこには、猫がいて先ほど足元を駆け抜けていったのは、あの猫かと時雨は納得する。

「にゃぁ…にゃぅ…にゃぁ…」

時雨は、猫に話しかけた。
動物とお喋り出来る時雨にとって、こういう旅先にて出会う動物と、交流を深めるのも、中々楽しい事だったりする。


「ぅにゃぁっ…にゃぁっ…んにゃ…」

猫が答えた。
時雨はその返答に、ううんと困ってしまう。
「ね…ね…チーコ…あのね…あのね…あの…猫さん…今…凄く困ってて…助けて…あげてもいいかな?」
そうチーコに聞けば、チーコは即座に頷いた。

猫に導かれるままに、時雨は川原へとやってきた。

「ああ…確かに…危ない……」

雨のせいで、増量している川原の岸に、まだ生まれたばかりと見られる子猫が数匹、小さな声で鳴いていた。
川が氾濫でもすれば、流されてしまうような危ない状況だ。
時雨は、抱えているチーコにも手伝って貰いつつ、猫を慌てて川原の外へと避難させた。
母猫が足元に纏わり付き、体を時雨の足にこすり付けてくる。
「にゃあ…にゃぅ…うにゃあ…」
しきりに礼を述べる母猫に気にしないでと告げた後、川原から少しはなれた場所にある野原の大きな木の下に猫達を置いた。
雨足はどんどん強くなっていた。
チーコと顔を見合わせて「いい…?」と時雨が聞けば、チーコは時雨が何を言いたいのか分ったのだろう。
コクンと頷いてくれた。



古ぼけたバス停。
トタンの屋根が備え付けてある、朽ちかけのバス停にて、二人は並んで座って雨宿りをしていた。

時雨の手には、エマに持たせてもらった傘はなく、時雨はもなかアイスを、チーコはイチゴのアイスを並んで食べる
結局傘は、猫達にあげてきてしまっていた。
途中までチーコを抱えて走ったのだが、このままではチーコに風邪をひかせてしまうと焦った時雨は、目に入ったバス停に慌てて飛び込んだのだ。
いつものスピードを出して走っても良いのだが、それでは時雨ほど丈夫でないチーコの体に何か悪影響を与える可能性がある。
ただでさえ、酷く疲れているらしいチーコに無理を強いたくなかった。

「おいしい…」
にこにことそう言えば、チーコはそんな時雨の顔を横目で見てくる。

「…一口…食べる…?」

そう言いながら口元にアイスを差し出してあげれば、チーコは首を振って、それから俯いた。

時雨はまた弱ってしまって、パクパクパクっと食べ終えると、体を曲げて俯いているチーコの顔を覗きこむ。

すると突然ぐいっと、乱暴なくらいの手付きで、チーコはジャラリと音のする何かを時雨に押し付けてきた。

「……?」

咄嗟に掌で受け止めて、目の前に掲げてみれば、それは貝殻のネックレス。

「…チーコ?」

目の前に提げたまま首を傾げ、「ああ…、海辺で…作ってたのは…これ…かぁ…」と呟くと、それにしたってチーコには長すぎやしないか?と益々不思議に思った。

「ふあぅっ!」

短くチーコが何かを言う。

「え?」


「ふあぅっ! ひあっ!」

そう言いながら、こちらに背を向けるチーコ。

もしかして……?

「ボクに…くれるの…?」

首を傾げたまま問えば、コクンと一度だけ頷いた。
目を見開き、時雨は、どうしようと、あんまりにも嬉しくて一度立ち上がり、座り、もう一度立ち上がって、ソワソワと落ち着きなく歩き回り、それからもう一度ベンチに座って、くるんとチーコの方を向く。

貝殻のネックレスは、チーコが余り器用じゃないのか、ところどころ欠けていて、ビーズもちぐはぐについていて、全然綺麗なネックレスじゃなかった。
貝殻も、きっと何処の浜辺にも落ちているようなやつで、何も知らない人が見れば、全く価値のないガラクタに見えただろう。

でも、時雨は知っていた。

このネックレスは、どんな宝物よりも美しくって、キラキラしている事を。

そっと優しい手付きで、自分の首に提げる。

「チーコ…チーコ…どう?」

トントンとチーコの肩を人差し指で叩く。
振り返ったチーコは、顔を真っ赤にしていて、「ふ…あっ…ううう…ぁう…」と言いつつ、それでも、微かに微笑んでくれた。

時雨は、あんまり嬉しいものだから、震えるくらいの声で「ありがとう。 チーコ」と礼を言う。
一生懸命作ってくれたんだろう。
浜辺で。
時雨の事を考えて。

そう思うと、もう、胸が一杯になって、時雨は笑うしか出来なくて、そんな時雨を見て、チーコはまた、俯いた。

そのまま、貝殻のネックレスを何度も、何度も触ったり、にこにこと眺めたりしているうちに、雨も、小降りになり始める。
そろそろみんなの所へ帰ろうと思うのだが、目の前に広がる田んぼののどかな風景や、シトシトとした穏やかな雨音に時雨の瞼がとろんと重くなり始めた。

「あのね…チーコ…」

夢見心地のような気分で、時雨は喋る。

「チーコは…嫌がったけど…ボク…本当に…チーコの故郷に…行ってみたいんだよ…?」

チーコは黙って時雨の言葉を聞いている。

「南の…島で…チーコと…一緒に…遊べたら…きっと…凄く楽しい…と思うんだ…」

俯いたまま顔をあげないチーコに、時雨はそれでも言葉を降り注ぎ続けた。

「…チーコが…大人に…なって…今日の日の…事とか…この旅の…事とか……このボクの…言葉を覚えていて…くれたら…ねぇ…チーコ…ボクの事…キミの…島に招待…してよ…。 遊びに行く……から…」

時雨がそう言うとチーコは、肩を一度震わせた。

「ねぇ…チーコ…。 キミは…大人になったら…どんな…女の子に…なるんだろうね…? 今でも…充分…可愛いけど…きっと…もっと…綺麗になって……綺麗になって……ボクは…もう…おじさんで……ねぇ…チーコ……それでも…ボクと…遊んでくれる?」


その時、時雨は何も知らなかったので…。


何も知らなかったので…。


チーコがこくんと頷いた、そのたった一度の頷きが、彼女のどんな気持ちの上になされた肯定だったのか、知る由なんてなかった。


時雨は、ふわふわと目を半分閉じながら笑うと、「じゃあ…約束…」と言いながら小指を差し出す。
チーコは、一度大きな目で、たった一つしかない目で、怖がるみたいに、喜ぶみたいに、何もかもをごちゃまぜにしたような感情を滲ませた目で、それでも震えながら小指を差し出して……



絶対に 破ってしまう 約束を   した



小さな小指が自分の指に絡んで、「ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼん のーます♪」と時雨は唄う。


「ゆーび きーった♪」



時雨は知らない。
その時、チーコが針を千本飲む程の苦しみを味わっていた事を。

時雨は知らない。
その時、チーコは薔薇の花束を千本贈られるに等しい幸福を味わっていた事を。


時雨は知らない。



時雨は何も知らない。



彼女の命の炎が 明日消えてしまう事も

大人になったチーコはいない

チーコは大人になれない







そのまま、うとうとうとと眠ってしまった時雨。

なんだか、ふあふあとした官職のものが優しく自分の頭を撫でてくれていて、気持ち良くって、ふふふっと笑ってしまう。
だが、そんな時雨の眠りは、エマの声によって破られた。

「っ…チーコちゃん!」

まるで、お母さんが迷子の子供を見つけた時のような声で、エマがチーコを呼ぶ声がする。
ハッと目を覚ませば、時雨がチーコの膝の上に頭を乗せて、眠りこけてしまっていた。

(あ…どうしよう…チーコ…重くなかったかな?)と心配してチーコの顔を見ようとするが、それより早くエマが、チーコの体を抱きしめている。

「どうしたの? 傘は? ていうか、時雨君、なんで寝てるの?!」

エマの問い掛けに、時雨は、目を擦り擦り、「あのね…猫の家族が…雨で困ってたから…あげたんだけど…濡れると…チーコが風ひくと思って…雨宿りしてたら……寝た」と、途切れ途切れの声で言う。
がくうと目に見えて肩を落とした黒須とエマ。

「まぁ…無事ならいいや」

そういいつつ、黒須がチーコを抱き上げた。
エマは、一つ傘を時雨に渡し、「入れてー!」と言いつつ、冥月の隣に飛び込んでいく。
傍らに置いたままのアイスの袋を目にした時雨は、「ハッ!」として、中身を覗けば、みんな無残に解けてしまっていて「あ…ああ…あ…ま…また…怒られる…脛…蹴られる」とガタガタと震えた。




神社に帰り着くと、皆、よほどチーコが心配だったのか一斉に走り出てきた。

「おう?」

黒須の腕の中で、戸惑ったような声をあげるチーコの姿を見て一様に安堵の表情を浮かべる。
だが、時雨は、持ち前の亜空間ボケを発揮して(み…みんな、こんなに…アイスを…楽しみに…してたんだ…)と勘違いすると、みんなに責められる事を覚悟して、「…ごめんなさい」と、時雨は小さな声で詫びた。

「アイス…溶けちゃった…」

そう言いながらビニール袋を差し出す時雨に「いや、それは良いから何があったんだよ」と嵐が問うてくれば、黒須が「傘を野良猫にやっちまって、そんで、バス停で雨宿りしてたんだと」と肩をすくめて答える。
「そのうち…止むかなって…思ったんだけど…どんどん…強くなってきちゃって…しかも、ボク、寝ちゃって……」

とろとろとした喋り方に、皆がどんどん気力をなくしていくのが目に見えて分る。
「ま…いいや。 無事なら」

竜子の言葉に皆頷く。
「チーコ、体冷えたでしょう? お風呂行こうか?」
そう言いながらエマが黒須からチーコの身柄を受け取った。

身を屈めて靴を脱いでいた時雨の胸元から、しゃらりと貝殻のネックレスが滑り落ちた。

時雨は、何かで傷つけてはいけないと、再度、大事そうに服の中に仕舞いこむ。
兎月原と、嵐が不思議そうに眺めてくるので、(ボクも…ちゃんと…王子様候補…だったよ?)と、ちょっと自慢に思い、「えへへ」と嬉しそうに笑って「チーコに…貰った…」と時雨は言った。
兎月原が「良かったな」と一緒に喜んでくれる。
嵐も、嬉しげに笑って、「頑張って作ったろうから、大事にしてやれよ?」と言ってくれて、やっぱり、この二人は凄く優しいと、時雨は感激した。



その夜は、寝床に布団を敷いて、皆で並んで眠った。
やはり身体を伸ばせて眠れるのはありがたく、外のしとしととした雨音と、芳しい藤の香にぼんやりとした酩酊感を覚えながら、いつの間にか時雨は、夢も見ない眠りについていた。




最終日


「うひゃあああ!!」

無闇矢鱈な大声をあげて竜子が走り出した。
時雨も思わずつられてしまい、「わぁぁぁ!!!」と大声を上げて走り出し、直後にパフンと転んだ。
強い風が吹き渡っていた。

「まぁ、本物の砂漠には及ばないけど、やっぱ、ここはここで、奇景って感じで風情があるわね」
エマが風にあおられる髪を抑えながら言う。

そう、ここはかの有名な、鳥取県にある「鳥取砂丘」。
連休中という事もあってか、観光地らしく、ラクダなんぞに乗って砂丘を横断している人もあり、歓声をあげてはしゃぐ子供の姿もそこらかしこにあり、深々と大きめのパーカーを着て、フードを被り、顔を隠しているチーコも同い年位の子供達の声に何処となく嬉しげに聞いているように見えた。


今朝方は、それまで見せていた旺盛な食欲も衰えて、折角エリィ達が腕によりを掛けて作った朝食を殆ど残していた。
体調も酷く悪そうで、昼過ぎ頃まで眠らせて、少し顔色が良くなったのを見計り、神社を後にしてきた。

つつじと、藤の花に見送られ、心地良い神社を後にした一行が、ここを訪れたのは、エリィがパラパラと道を確認する為に捲っていたガイドブックを、布団の中から覗き込んでいたチーコが、砂丘のページに差し掛かった所、どうしても見たいとエマに訴えたからだ。
そのガイドブック一杯に広がっていたのは、夕日が沈み行く砂丘で、たくさんの子供達が駆け回る写真。
何かの砂丘にてイベントが行われた時の写真らしい。
母親に手を引かれ走る子供達の写真を見て、行きたいと願うチーコに、エマは二つ返事で了承し、他の者とて誰も反対しなかった。

チーコの為の旅なのに、自分の体調の事を含め、しきりに申し訳なさそうな顔をするチーコが、何だか健気で仕方がない。

どうして急にこんなに体調が悪くなったのか。
やっぱり旅のせいで疲れているのか、時雨は心底心配しつつ、砂丘の上に立つ。

たくさんの子供達が走り回っている情景に目を細めれば、そのうちの一人が時雨を見上げた。

大きく手を振ってみれば、その子は手を降り返す。
そのうち、一緒くたになって遊んでいた子供達が皆、時雨に向かって手を降り始め、時雨は、「えーい!」と掛け声を上げて砂丘を駆け下り、勢いがつきすぎて、やっぱり前のめりに転んだ。

パタンと倒れている時雨の周りを子供達が取り囲む。

「だいじょうぶー?」
「うわー、すごい、髪の毛が真っ赤だよー?」
「あ、ピクピクしてるー」

口々に言い合う子供達の声を聞きながら、ぱふっと起き上がり、顔についた砂を払う。

「こん…にちわ…!」

そう挨拶をすれば、子供たちは顔を見合わせ、それから口々に「こんにちわー!」と挨拶を返してきた。

「みんな…友達…なの?」と聞けば、首を降り、家族旅行に訪れた、この砂丘で会って、一緒に遊んでるだけだと言う。

「ふうん…」と小さく呟いて、それから時雨は今朝のチーコの様子を思い浮かべた。

子供達が遊んでいる写真を羨ましそうに眺めてタチーコ。

子供達と少しでも会わせてあげたい。
時雨は、少し考えてから身を屈め、一人一人の子供達の顔を見回すと、「ね? お願いが…あるんだけど…いいかな?」と人差し指を立てて首を傾げた。




チーコが一つ目の女の子だと言う事。
髪の毛がオレンジ色だという事。
人間の言葉は喋れないと言う事。
でも、とっても、とっても、とってもいい子だと言う事。


時雨は、子供達に事前にそれだけ伝えておいた。

「凄く…優しくて…可愛いんだ…。 少しだけ…お話して…くれないかな…?」

そう時雨が頼めば、持ち前の子供モテパワーを発揮して子供たちは時雨の後をついて歩いてきてくれた。
お父さんと、お母さんが心配してはいけないから、ほんのちょっとの間だけ。



エマがしゃがみこみ、自分の膝の間にチーコを抱え、その髪をゆっくりと撫でていた。
百合子は、長閑な顔をして、小さな声で「月の砂漠」を唄っていた。
エマも小さな声で、囁くように百合子と合わせて唄っている。
小鳥のように澄んだ可愛い声した百合子と、落ち着いた優しい声音で唄うエマは、強い風の中で、それでも微かな歌声をチーコの耳にありったけの愛情を込めて注いでいた。
チーコは、余り持ち上がらなくなった腕で、それでもおぼつかない手つきで、冥月に貰った万華鏡を覗いていた。
いずみは、エマの膝に頬をくっつけて、二人の歌声に耳を澄ませていた。

あんまりにも弱っているから、病院につれっていってあげたいと時雨は思うけど、彼女を受け入れてくれる病院が何処にあるのかと悩んでしまう。
だけど、武彦のところには色んな人が出入りしてるから、彼女の事を診てあげる事の出来る人もいるんじゃないかな?って時雨は考えた。

苦しいのかな? チーコ。

虚ろな眼差しが彷徨って、時雨を見つけた。

時雨は子供達を連れて、チーコの元へと導く。
時雨は腕や足元に纏わりつく子供達を柔らかな笑みを浮かべて見下ろす。
身長の高い時雨と、小さな子供達の影が、砂丘に長く伸びていた。
茜色に染まりだした空の下で、優しいハーメルンは子供達を、チーコに引き合わせた。

自分の事を好奇心一杯で覗き込んでくる、実際の子供たちの姿に、チーコは一瞬身構えるも、子供達は驚いた目でチーコを眺めるも、ちゃんと事前にチーコの特徴について伝えておいたおかげで、騒ぎ立てはしない。
チーコの姿をマジマジと眺めながらも、そのうちの一人の女の子が、素直な声で、「かわいい」とチーコを評した。
夕闇の赤い色が濃くなっていく。
チーコはおっかなびっくりの表情で、子供達に手を伸ばした。
一人の子供がチーコの掌を握った。
「かわいいね。 名前は、なんていうの?」

チーコは、震える声で答えた。

「チーコ」

はっきりとした発音で、何度も、何度も、皆が呼んでくれた自分の名を、大事に、大事に呟いた。

「チーコ…いう」
「チーコ。 可愛い名前」

子供達がさざめき、チーコに笑いかけた。

「かおりー! そろそろ行くよー!」
「聡、何処行ったの?」
「あら? 翠? 翠?」

砂丘のそこらかしこから、子供を呼ぶ母親の声が聞こえてきた。

「あ、呼んでる! じゃあね、チーコちゃん!」
女の子が一人手を振り、砂丘を越えて行ったのを切っ掛けに、子供達は皆それぞれ、母親の元へ帰っていく。

チーコは小さく手を振って、それから甘えるようにエマの胸に顔を埋めた。
ポンポンと頭を優しくエマは叩く。

「ひぃぅあぅ…」
エマが頬を、チーコの頭にくっつけて、「なぁに?」と聞いた。

「ふぅあぅぃぅう……」

チーコが時雨を見上げて、柔らかな笑みを浮かべる。
よかった…、よろこんでくれたみたい…と思えど、何だか胸が痛くなって、時雨はその痛みが不思議で、胸に手を当てた。
時雨は、夕日に目を向ける。
海の波が、ザブザブとした音を立てた。
日が暮れ始めていた。

「……もうじき、……日が沈む。 ボク達も…行こう」

皆が頷いて、立ち上がった時だった。


突如背筋を襲う寒気。
 
振り返れば、砂丘の上にずらりと男達が並んでいた。
皆、手に物騒なものを持っている。
タッと、素早い動きで駆け寄ってきたのは冥月。
流石と言うべきか、チーコの元にすぐ駆け寄れる位置で待機していたらしい。

「思ったよりも早かったな。 追いついてくるのが」

舌打ちせんばかりの表情で、そう呟くと、ひょいとエマからチーコを取り上げた。

「私の傍にいろ。 大丈夫だ。 絶対に傷つけはさせない」

冥月の言葉に、チーコが頷く。
「いずみは、時雨の傍に…」
「大丈夫です」
冥月の言葉をいずみが遮る。

「一応、自分の身は自分で守れますし…」
視線を向ければ、前回を遥かに超える人数が待機していて、いずみがきゅうっと目を細めた。

「あの人達…人間じゃない」

いずみの言葉に「いい目だ」と冥月は褒めると、「キメラだ」と呟いた。

「キメラ?」
「人間と、動物を掛け合わせてある。 あの、悪い奴らのお得意技らしい。 とうとう、相手も本気を出してきた」
そう唸るように言って、それから、「大丈夫なんだな?」と念を押す。
「ええ、足手まといにだけはならぬよう自衛に努めます」
いずみの頑なな表情に、冥月はしょうがないという風に溜息を吐けば「私も、これは、守られ役ではいられないわ。 サポート程度だけど、協力も出来ると思う」と、エマが強い目で告げる。
百合子はもじもじと「わ、私も…」と何か言いかければ、冥月は「百合子は、私と共にチーコを守れ。 抱いていてやってくれ」と、チーコをその腕に預けた。
細い腕で、おっかなびっくり、不器用にチーコを抱く百合子に一瞬不安を覚えども、今はそういう事態ではない。

「夜になれば…」

え?とエリィは首を傾げて、冥月を見る。

「夜になれば、私一人で全て片をつけられる。 闇は私の領域だ。 何が起こったのか分らぬ内に、皆地に沈めて見せよう。 だが、今は無理だ。 影を操って、あいつらを拘束するのは可能だと思うのだが、これがただの先発隊で、後からまた別部隊を送られてくる可能性がないわけではない。 今、この様子をまた、別場所から眺めているものがないとも言い切れぬしな。 こちらの能力を悟られれば、何某かの対抗策を練ってこないとは限らない。 向こうは、こちらを遥かに凌ぐ組織力と、資金を持っている。 この仕事が終わった後の事を考えると、はったりを効かせ続ける為にも、私の能力は、まだ、悟られない方が良いだろう。 まぁ、幸い…」

そこまで言って周囲を見回せば、異様な雰囲気を察したのか、観光客等は姿を消していて、「…周りを気にせず、思いっきりやれる。 夜まで保つか?」の問い掛けに、翼と、時雨は同時に片眉を上げた。

「冥月さん、こう見えても、僕は荒事も得意中の得意でね。 特に女性を守る時には、自分でも想像のつかないほどの力を振るえるんだ」

にぃと翼は美しくも凶暴な笑みを浮かべて見せると、「夜までなんて、長すぎる。 まぁ、見てて下さい」と冥月に宣言した。

時雨も、「大丈夫…夜になる前に…ここを出られるように…するからね?」とチーコに語りかけ、それからツイと敵を睨んだ。
首をクキクキと鳴らしながら「ううん。 あんまり、暴力とか得意じゃないんだけどな」と呟いて、兎月原は柔軟を始める。
エリィは夕日の輝きを受け、赤く光るナイフを抜いて、「さて、チーコちゃん、あんまり待たせられないしね」と静かに呟いた。
黒須と竜子は一度視線を合わせ、ぽんと竜子が黒須の背中を叩いて「んじゃ、いってらっしゃい」と気軽な調子で言い、それから、冥月に向かって「あたいも、あんたの傍にいさせてくれ」と告げた。
「了解した」と、冥月は頷き、嵐が何か言いかけるより早く、「バイクで、かき回してやれ」と指示を下す。
ガクリと肩を落とし、「ほんと、俺、ただの素人なんだけど?」と問う嵐に、冥月がシレっとした顔で「いや、素人にしておくには勿体無い度胸と身体能力を持っている。 励め」等と、嵐の師匠と見紛うばかりの励ましの言葉を口にした。

千剣破が海へと向かって歩き出すと、「いずみちゃん、あなたの目であたしをサポートして」と声を掛けた。
海の水を使って、遠距離から近接戦の面々をサポートするつもりだろう。
先ほどの様子を見ても、かなり目が良いいずみの協力を得て、力を振るってくれるらしい。
だが、彼女の強張った表情が、なんだか少し気になった。
ピンと張った糸が、今にも切れそうな風情に見えたから、いずみも、一瞬気遣わしげに、千剣破を見上げたが、その視線に余裕をなくした、彼女は気付かなかった。

「日があるうちは、私はチーコの守りに徹する。 任せたぞ」

冥月が、そう告げると、一際強い風が吹いた。

「チーコを苦しめた連中だ。 死なない程度にしか、手加減はしてやらない」

翼が剣呑な宣言をするのを合図に、それは始まった。

向こうの人数は、圧倒的に多数。
だが、個人個人の実力は、比べるまでもなく此方の方が上。
人数押しで来る向こうの攻撃を少ない人数で、どれだけ押し留められるのかが鍵になってきていた。

冥月の体の傍に、ぴったりと百合子が身を寄せて、チーコを抱きながら戦況を見守っている。
冥月は表情を変えず、腕を組んだまま微動だにしない。
千剣破は、海の水を硬球に変えて、一気に敵に降り注がせていた。
痛みに怯むものや、当たり所が悪く、一撃で昏倒するものもいる。

時雨は、人外のスピードで駆け回り、相手をどんどん昏倒させていこうとするが、「殺す」のならば、簡単なのに、人間より大分丈夫に改造されているキメラ相手だと、何処まで手加減すれば良いのか、加減が全く分からない。
強く打ち据えすぎれば殺してしまいそうだし、だからといって手加減しすぎると失神に至らず、しつこく攻撃を仕掛けてきたりして、相当時雨を苛々させる。
今も、後頭部をある程度の力で殴りつけた、白い斑点の浮いた灰褐色の肌をした、顔じゅうが毛だらけの男が、人間相手ならば昏倒させている筈の攻撃に耐え、振り向き様にその鋭いつめで時雨を引き裂こうとしてきた。
こちらに銃を向けている男の気配もし、高速で動いて、弾を避けつつ、面倒臭さに舌打ちをする。
何とか、首根っこを掴んで、地面に叩きつけ、その後頭部に踵を落として意識を失わせると、銃をこちらに向かって撃ち放してきている男へ向かって走り寄り、少々力を込めて殴り倒した。
身体能力が、獣の特徴を備えることで、飛躍的にアップしているらしい面々は、マジマジと眺めたい程、時雨の好奇心を掻き立てたが、今は、そんな余裕はない。
「殺してはならない」の制約は、名うての実力者達にとっては、少々面倒なものらしく、それぞれ手加減の程に苦慮しているようだった。
接近戦を得意としているらしい、エリィや兎月原は、確実に一人一人に当身や、急所への攻撃を仕掛け、意識を奪っていっている。
嵐は、冥月の言葉どおり、バイクで敵が固まっている場所に突っ込み、散らしたり、タイヤを使って巻き上げた砂によって、視界をさえぎったりしていた。

振り返れば、夕日が徐々に沈み始めていた。
冥月の時間が近づいてきている。
負傷者や、深刻な重症を負う者もなく、冥月の言葉を信じれば、これにて決着が着くのだろうか?と思われた矢先の事だった。

冥月が、もう少し戦況が見渡せるような、高台へと移動を始めた。

強い風が吹いた。

チーコが万華鏡を落とした。


コロコロコロと、万華鏡が転がっていく。

その刹那、もがく様に百合子の腕を抜け出したチーコが、その後を追った。


「っ! チーコ!!!!」

初めて、冥月が声を荒げた。


コロコロコロ、冥月に貰った万華鏡が砂漠を転がっていく。

トテトテと、もう歩けぬ足で、それでもよたよたと、チーコが必死に追った。
慌てて、冥月がチーコに走り寄るより早く、四つん這いになって人間ではありえない速さでチーコに走り寄ってきた男が、まるで、サッカーのボールを蹴るみたいに思いっきり、チーコを蹴っ飛ばした。

時雨の目の前が真っ暗になった。

チーコが玩具みたいに吹っ飛ぶ。
砂の上を、二三度バウンドして、ごろごろと体を転がしたチーコ。


「逃げて!!! チーコ、逃げてぇぇぇぇ!!!」


いずみが叫んでいる。
自分に飛び掛ってきた、鋭い牙をむき出しにした赤い目をした男を、視線も向けずに叩き伏せた。


もし、目の前で、チーコが無残に殺されたら…



ボク 頭が おかしくなるかも しれない


チーコは、動かぬ足を砂の上でもがかせ、そして、腕で這いずるようにして、それでも、万華鏡を追った。
ずるずると這い手を伸ばす先に、万華鏡が触れるか否かの間際、横たわるチーコの体を、先程チーコを蹴り飛ばした男が思いっきり踏みつけた。

「うぐぅはぅっぅっ!!!」

悲鳴とも喚き声ともつかない声。


プツッと何処かが切れるような音がする


チーコを 踏んだ

あいつ チーコを 踏んだ



チーコは 優しくて 笑顔が可愛くて

ボクに貝殻のネックレスをくれて

故郷の南の島に招待してくれるって約束してくれて


あいつ チーコを 踏んだ




「チィーーーコーーーーー!!!!」


絶叫に似た、それは、紛れもない咆哮だった。

百合子が夢中な様子で、チーコの上に覆いかぶさる。
竜子が、そんなチーコと百合子の前に、彼女達を全ての脅威から守るかのごとく立ちはだかった。

あれが彼女たちの覚悟。
殺さなかった彼女たちの命がけの覚悟。


稲光が聞こえた。
酷く凶暴で荒れ狂うその音に、全てのものが一瞬、空へと視線を向け、そして、海の様子に瞠目した。

真っ黒な海。
荒れるなんてものじゃない、それは、異常な姿だった。

千剣破の様子が明らかにおかしかった。

彼女の仕業か?

千剣破の周りを黒い水が取り囲む。
海の色は、黒炭を流し込んだような漆黒。
海から巨大な水の竜巻が幾つも立ち上がっていた。
真っ黒な海。

酷く禍々しい、その姿。

「あ…ああっ、あっ…!! 許せない…許せない…許せないっ!!!!!!!!!」

目を見開いたまま、千剣破が強い声で繰り返し叫ぶ。
ビリビリと周囲の空気が震えていた。
空に暗雲が立ちこめ、稲光の音が聞こえてくる。


黒い水を身に纏い、真っ白な頬を更に白くさせ、爛々とした目で敵を見据えている。


酷く恐ろしく、酷く神々しく、酷く美しく、そして酷く危うい。

髪の毛が風に舞い上がる。
普段より赤く色づく唇が、きゅうっと引き結ばれる。

皆が、海の様子、そして千剣破の様子を凝視していた。

敵の男達の中には、明らかに危険なこの状況に既に逃げ始めたものもいる。


「いずみ…、千剣破を止めろ!」

冥月が叫んでいる。

冥月が焦っている。
その事をもってしても、今の危機状況が如実に把握できた。

チーコだけでも、守らないと!と焼け付くような危機感に時雨は、たっとチーコに駆け寄る。
いずみが、突然ぐいと手を伸ばし、千剣破の胸倉を掴むと、下に引き寄せ、その頬を思いっきり張り飛ばした。

「うわ」

その容赦ない一撃を見て、思わず時雨は自分の頬を抑えて痛そうに呻いてしまう。


「しっかりなさい!!!!」

凛とした声で、いずみが千剣破を叱る声が聞こえてきた。

「泣いているでしょう! チーコが泣いているでしょう! 今、あなたは、誰のために力を振るおうとしているの?! それは、誰を守る為の力なの?! 正気に戻りなさい! 泣かさないで、チーコを! 千剣破さん! 泣かさないで!!」



チーコの泣き声。


万華鏡を抱きながら、チーコが泣いている。



守らなきゃ…!
チーコを…守らなきゃ……!!!



いずみの言葉に徐々に千剣破の焦点が結ばれる。
海が徐々に静まり始めた。
咄嗟に、容赦なく竜子に襲い掛かる敵を切り捨てようとする。

だが、それより早く鋭い爪の男を叩き伏せていて「無事か?!」と、竜子達に問い掛ける。
黒須の問い掛けに百合子が頷き、手を伸ばす時雨に抱きしめていたチーコを渡した。

腕の中でチーコが、ガタガタと震えていた。

唇から血が零れている。
眩暈を覚えて、時雨は詫びた。

「怪我…させた…ごめん…」
そういいながらも、あわや命の危険に晒されたチーコが無事である事に、「ああ…よかった…」時雨は微笑み、ついで「百合子…さんも…お竜…さんも無事で…よかった…」と心から安堵する。

「っ…行くぞ…」

そんな時雨の肩を叩き、黒須が百合子と竜子を促して、とりあえずこの場を離れようとした瞬間、一発の鋭い銃弾の音が砂丘に響き渡った。


ドラマみたいな、偽者みたいな銃弾の音。


音のするほうに目を向ければ、まるで壁になるみたいに、チーコや竜子達を守る為両手を広げている黒須がゆっくりと倒れる姿が目に入った。


まるで、世界中の速度が、スローモーションになったように見えた。


黒須さんが…撃たれた…?!
衝撃を受けて息を呑む。

慌てて駆け寄る寸前、「あ、やばい」と、酷く軽い口調で竜子がいう声が聞こえ、思わず視線を向ける。


「夜来てるしな…いや、それで助かったんだけど…助かったんだけど…」

そこまで言って、困ったように周囲を見回す。
「あんまな、気持ちの良いもんじゃないから……じっと見ないほうが良いぞ?」
竜子がそう言うのに、思わず首を傾げた。

言ってる意味が分からない。
説明を求めようとする前に、竜子が、少しだけ愉快気に口を開いた。

「怪奇。 蛇男のお出ましだ」


「「蛇男??」」と、百合子と時雨は揃って首を傾げた。
疑問に翻弄される冥月の目に、驚くべき光景が映った。
夜闇の下、「あ、っ、っつぅっ、ち、畜生っ!!」と黒須が叫び、蹲った次の刹那には、彼の姿が、下半身大蛇の姿へと変わっていた。


濡れた輝きを見せる黒い鱗に覆われた大蛇の尻尾がのたくっている。
6.7メートルはあるだろうか?
その長く、丸太のように太い下半身をくねらせながら、蹲る黒須の姿に、咄嗟に生理的な嫌悪感を感じて鳥肌を立たせる。
どういう事かも見当がつかず、ただただ、黒須の姿に魅入られた。

生理的嫌悪感を掻き立てられるその姿。
気持ち悪い。
不気味でしょうがない。

だから、目が離せない。

何が、どうなって、こういう姿になってしまったのか。
それとも、元からこういう生き物だったのか。
醜い。
それは、酷く醜い姿だった。

着ていたスーツは無残に破かれ「今回は、この姿になんねぇで済むって、踏んでたのに!」と悔しげに喚く。

竜子を除く全ての面々が、硬直していた。
硬直…せざる得ないだろう、この姿には。


「な…、なん…、な…! なに…?! あれ…!」

ずびし!と黒須を指差し時雨が問えば、竜子は一瞬の困惑の表情を浮かべた後、随分老成した虚ろな眼差しを見せると「…呪われた蛇一族の末裔なんだ。 黒須は」と限りなく棒読みな声でそう告げた。
普通ならば、光の速さで「嘘だよね?」と気付ける、好い加減具合最高潮な竜子の台詞なれど、天然ぼけ二人組百合子と時雨は即座に頷き、時雨は「蛇…一族…」とかなりシリアスな声音で呟いた。
(お…恐ろしい…)と、やっぱり後で、生卵を貢いで、丸呑みは止めて貰おうと心に決める。

だが、まあ、命に別状がないのなら良かったと思った瞬間、ふと、嫌な気配を感じて、砂丘の上に視線を向けた。


そこには、今、この場にいるどの男たちとも雰囲気の違う二人の男が立っていた。

一人は仕立ての良いダブルのスーツを着こなした長身の男で、他の粗野な雰囲気を身に纏う男たちとは一線を画する威圧感を有している。
派手な色に染めた少し眺めの髪を、鬣のように後ろへ流して風に舞わせている。
顔立ちは端正で、精悍でありながら、後ろ暗い、ヒリヒリとした危険を感じさせる危険味も含んでおり、『犀牛』、追従するような様子で何か鬣の男に伝えているのを見て確信した。

あいつが…、悪い奴らの…親玉か…。

その隣に立つのは、首領と対照的に身長も低く、青白い顔をした細い男で、白衣を風になびかせながら、脇に立つ男達のやり取りなど一切無関心といったように、戦況を凝視していた。

Dr。

チーコに発信機を埋め込んだ男。

浜辺で、翼によって得られた情報を思い出し、まさしくと言った風貌に間違いないと確信する。

ぎょろぎょろと目ばかり大きく、銀縁の眼鏡の中で彷徨っている視線が、黒須を捉えると、ギラギラとした輝きに満ち始めた。

こんな人間と、動物を掛け合わせたキメラを作ったり、チーコのような子を攫ってくる人達だもの。
黒須のような人間に興味を持つのも不思議はないと思いながらも、Drと呼ばれている男の視線の狂気的な有り様に怖気を奮う。

(黒須さん…大丈夫かな…?)と思えど、今は、先の事を考えている時ではない。

夕日が完全に沈みきり、あたりは夜闇に包まれる。

「待たせたな」


低い声。


無慈悲な夜の女神。


黒冥月が動き出す。

「じゃあ、終わりを、始めようか」

黒いロングスカートが風に揺れる。
髪を高く結った冥月が両手を広げた。

夜が来るという事。
それは、「冥月によって、全て片がつく」という事と同意語でもあった。






思わぬ時間を取られたせいで、山口県に到達する頃には、夜明けが近付いて来ていた。

砂丘の上に見た男達は、冥月に尋ねど「取り逃した」らしく、悔しさの欠片もなく「つくづき逃げ足の早い連中だ」と呟いた。

チーコの蹴られた傷跡は、もう微塵も見当たらない。
千剣破の水の力によって、傷を癒したのだ。
疲れきった様子の千剣破ではあったが、最後の力を振り絞り、チーコを癒す姿を見て、時雨は心底、彼女にはこういう力の使い方の方が似合うと感じた。
チーコの蹴られた時の記憶は、翼の「事象の操作」という恐るべき能力によって消されていた。

「本当は、タイムパラドックスを引き起こしかねない、使ってはいけない力なんだけどね…これ位なら、大丈夫だろう…」と言って翼が新たに作り上げた事象は「蹴られた際に、チーコは意識を失い、砂丘で暴力に晒された記憶は、ショックで消えてしまった」というもの。
傷跡もなく、記憶もないチーコは、まさか自分が恐ろしい目に合っていただなんて事も、すっかり知らぬ気に、穏やかな様子でエマの腕の中でじっとしていて、時雨は心から安心した。

良かった。
不幸せな思い出は、三日間の間一つだってチーコの中に残したくなかったから、本当に良かった。





潮岬…本州最南端の海。


その海を一望できる、灯台の上に立ち、チーコが夜の海を眺めていた。

もうじき、夜が明ける。

チーコは、自分を抱いていたエマの腕を優しく叩き降ろしてくれるようにと頼んだ。


これで、依頼のあった三日間の護衛期間が終わるわけだが、一体何があるのだろう?
ここにどんな目的があったのだろうと、時雨は興味深く思う。


見上げれば満天の星空があって、皆息を殺してチーコを眺めた。


チーコは、大人びた微笑みを浮かべて、一礼する。

キラキラキラと、夜闇を引き裂くように、流れ星が落ちていった。



唐突に、何の予備動作もなく、その喉からチーコは、燃えるような、熱く、熱く、力強い声を出した。



「会わなければ よかったと

思う私を 許してください」


それは紛れもなく、人の、日本語の、時雨達が使う言葉の 歌。






会わなければ よかったと

思う私を 許してください


闇の中で 息絶えていれば

生きたいと願わずにいられたのでしょう


優しくされて

優しくされて


私は死ぬのが怖くなった

優しくされて

優しくされて


私はとうとう恋をした


幸せです
不幸せです

嬉しいです
寂しいのです

抱きしめて
触らないで

全部嘘です
全てが真実


あなたが 好き





チーコが手を延べる。
視線の先には時雨がいる。

炎のような 歌だった。

時雨は目を見開いて、その燃えるような、熱い、熱い、熱い歌に鼓膜が焼かれるような心地がした。


差し伸べた指先が 炎に変わっていた。


チー…コ…?






あなたが 好き


好きじゃない
嫌い

だから 泣かないで
笑っていて
私が いなくなっても 笑っていて


真実

あなたが 好き

だから 笑っていて

私が いなくなっても 幸せになって

私の事を忘れてください


いやだ

私の事を忘れないで

うそ

わすれていいの

だから

幸せになって 幸せになって

好き 好き 好き 好き さようなら



「あなたに あえて よかった と おもう わたしを ゆるしてください」


炎の歌。
命を燃やす歌。

夜が明け始める。

チーコの指先が、髪が、炎に変わり始めた。


その全てを燃やすかのように、チーコが唄う。

最期の歌。





三日間、武彦は守れと言った。

三日目に何があるかなんて、時雨は知らなかった。

守れば良いと思ってた。
守り抜けば、チーコは安全な場所で、幸せに暮らしていくと思ってた。

勝手な思い込みだった。


哀しい結末なんて、微塵も想像していなかった。


チーコが言うんだ。


あなたが 好きって。



時雨は、転げるように、チーコに走り寄り、その体を抱いた。


「チーコ!!!」


幸せになって


「チーーコ!!」


幸せになって

「いやだ…いやだよ…チーコ…一緒に…故郷…見に行こうって言った…約束した…嘘つき…チーコの…うそつき…あっ、ああっ、うああっ、わああっあああああっ!!!」


慟哭。

自分の全身が炎に包まれるのも構わずに時雨はチーコを強く抱きしめた。
一緒に燃えてしまいたかった。

知らなかった。
何も知らなかった。

彼女が死んでしまうだなんて知らなかった。

知らなかった。

約束を強請った。

大人の彼女を想った。


何も なかった


彼女には 未来なんて なかった

チーコが 死ぬ

ボクを好きだと言って死ぬ


赤い髪が、体が、何もかもが炎に包まれて、時雨は夜闇の中で、チーコを抱いて燃えていた。


キラキラと炎に包まれ、光の粒が二人の周りを舞う。

ああ、あれは万華鏡の光の欠片。

焼けた万華鏡の中から、光が舞い上がり二人の周りをひらひら飛んでいる。


「し…ぐれ…」

チーコが時雨の名前を呼ぶ。

「好き」

「うん」

「すき」

「うん」

だいすき


涙が、止まらない。


顔を見る。

赤い炎と化しゆくチーコは、朝日を浴びながらやっと満面の笑みを時雨に見せてくれた。

「あ り が と う」


時雨はこれほど美しい女を知らないと思った

世界中の男に教えてやりたかった


こんなに美しい女がいると

その子は自分を好きなんだと

胸を張って自慢してやりたかった


…神様 …ねぇ …神様

お願い…です

あと…少しだけ


あと…少しだけ…チーコを…ボクの…傍に留めて…置いて…ください
この…お願いを…きいくれたら…ボクも…一緒に炎に…なっても…構いません

体が動かなくなって…惨めな死に方をしても…良いです…

どんなみっともないことも…どんな苦しみにも…耐えて見せます…

だから…あと少しだけ…この子を…ボクの…傍においてくれてたら…


ボクは チーコを誰よりも 世界中の どんな 女の子よりも 幸せにして ずっと ずっと ずっと 笑って いられるように

ずっと ずっと ずっと … … …!




朝日差す海。
目を射るほどの輝きが海面一杯を満たす。




その瞬間、チーコの体は全て炎と化して、消え果てた。



時雨が喚く。
声にならない声で。


激痛。
胸が張り裂けるように痛む。

こんな痛みは耐えられないと思った。


約束をした。

南の島。

チーコの故郷。

ねえ…、チーコ…。
あの…指きりの時に…、キミが…感じていた…痛みは…、今のボクの…痛みと…同じかな?

同じかな…、チーコ?


叶えられない約束をさせた。

ない未来を夢見た。

残酷だった

時雨は、残酷だった


会いたいと思った


今、チーコに会いたいと思った




赤い髪が炎のように揺れていた。



そして、眩い光の中真っ黒な影の塊になって、時雨は長身を折り曲げ蹲ると、唇を押さえ、耳を押さえ、目すら閉じて、全て、全て記憶にあるチーコの全てを、何処にも逃さないかのようにして、全部自分の中に閉じ込めて、じっとそうやって、じっと、蹲り続けた。

まるで、両手を組み合わせていないのに、その姿は祈りに見えた。

酷く敬虔な祈りに見えた。

チーコ…

胸に提げられたネックレスが熱い


掌で握り締める。


耳の奥に彼女の歌が木霊した。

時雨は小さく唇を開く。


「しあわせに なって」

それは 祈りの歌。


ボクも…ずっと願ってたんだよ?
チーコ。


しあわせになって チーコ。



叶わない 願いだった。



神様は、呆れる程に無力で、チーコの命を救えはしなかった。


痛む胸に身を捩り、地面に爪を立てて時雨は泣く。


ばいばい チーコ


今、会いたいんだ

でも 
キミは もういないから

しあわせになってと キミが言うから


時雨はかすかに唄う
最期の歌を

チーコの歌を

ばいばい チーコ
夜の海のチーコ

あなたの事は忘れない
あなたの歌をボクは忘れない




fin

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1271/ 飛鷹・いずみ   / 女性 / 10歳 / 小学生】
【3446/ 水鏡・千剣破  / 女性 / 17歳 / 女子高生(竜の姫巫女)】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【7520/ 歌川・百合子/ 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2778/ 黒・冥月 / 女性 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【5588/ エリィ・ルー / 女性 / 17歳 / 情報屋】
【1564/ 五降臨・時雨  / 男性 / 25歳 / 殺し屋(?)/もはやフリーター】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】



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■         ライター通信          ■
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出来上がりが大変遅くなりまして誠に申し訳有りませんでした。

本当に、長い、長い物語にお付き合いくださいましてありがとう御座いました。
三日間、参加してくださった皆様も楽しいときが過ごせていたら幸いです。
チーコは皆様のお陰で、幸福な気持ちでこの世に手を振ることが出来ました。
彼女の最期の歌を是非、忘れないでいてください。
夜の海のチーコ。

終幕で御座います。

尚、momiziのウェブゲームは、登場人物全ての方、それぞれの視点に即した物語となっております。
お暇なときにでも、他のウェブゲームにもお目通し頂けると新たな真実や、自分のPCが他PCにどう思われていたのかを、知る事が出来るかと思います。

それでは、momiziでした。