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<東京怪談ノベル(シングル)>


   犬であることを認めた少女


 しわだらけの温かい手が、髪の毛をそっと撫でる。
 みなもは絨毯の上に転がって、それに身を任せた。
 ゆったりと流れる時間は、かけがえのないもののように思えた。
 ……例えそれが、犬としての生活であったとしても。


 みなもという少女は、ある日を境に周囲から犬としか認知されなくなってしまった。
 鏡を見れば今までどおりの自分が見えるし、手も足も今までに動き、きちんと二本足で立っている。
 なのに、他の人から見れば犬……それも大型の白い犬に見えているというのだから不思議である。
 言葉も普通にしゃべっているはずなのだが、伝わりはしない。
 かといって、犬の言葉がわかるわけでもない。
 一度は保健所に連れていかれて、トラウマになるほどの悪夢を見たこともある。人という人全てを憎み、恨んだ時期もある。
 だけど……今はもう、そんなことはない。
 この家では犬とはいえ、大切な家族の一員として扱われているのだから。


「すごいんだよ、うちの犬。散歩では絶対にトイレしないんだ。でね、家に帰ってちゃんとトイレでするんだよ。ドアも鍵も閉めるし、水だって流すんだから」
「えー、うっそだぁ!」
 自慢げに語る少年に、否定の声があがる。
 同い年の少年たちが集まり、漫画を散らかしながら語り合っているところだ。
「そんな犬、いるわけないじゃん」
「本当だもん。頭がいいんだから」
 必死になって反論する少年に、傍を通りがかったみなもは複雑な気持ちになった。
 本当は、足の悪いおばあさんに変わって、お菓子や飲み物でも持ってきてあげたいところだった。
 現に自分にはそれができる。
 だけど……その状況が、他の人の目にはどう映っているのだろうか。
 そう考えると、下手に人間らしい動きをすることもできない。
 不思議なものだな、とみなもは思った。
 今までは、自分は普通の犬でないことを伝えたかった。
 本当は人間なのだとわかって欲しかった。
 なのに今は、自ら犬として振舞おうとしている。
 それだけ、この生活が大切だということなのだろう。


「わんちゃん、今日は私と散歩に行きましょうか」
 あまり足がよくないおばあさんが、みなもにそう声をかけた。
「走ったりはできないけれどね、お散歩するくらいならできますよ」
 不安そうな表情を感じ取ったのか、笑ってみなもの頭を撫でる。
 みなもはそれに笑顔でうなずき、おばあさんの歩調に合わせてゆっくりと足を勧める。
 首輪とリードをつけられるのにはいまだになれないけど、散歩の時間は好きだった。
 ゆっくりと近所をまわっていく。それは少年と出かけるときも同じ。
 無理に引っ張ることも引っ張られることもない。
 大きい、可愛い、利口そう、と色んな人たちに声をかけられ、頭を撫でられる。
 散歩中の犬に出くわして、吠えられることもあれば興味深そうにふんふん、と鼻をつきつけられることもある。
 思わず犬の頭を撫でてやると、主たちから笑い声が漏れる。
「おたくのわんちゃんは、まるで自分を人間だと思っているみたいですね」
 そこでまた、トイレの話題などが蒸し返される。
 ――思い込んでいるんじゃなくて、本当にそうなんだもの。
 みなもはそう思うが、時折不安になることもあった。
 もしかしたら、本当に思い込んでいるだけなんだろうか。
 人間だった頃の記憶は、自分が捏造したただの夢で、本当は最初から、犬でしかなかったんじゃないだろうか。
 浮かぶ考えを、慌てて否定する。
 そんなはずない。
 だって自分はこの5本の指でものをつかんだり、細かい作業をすることができる。
 犬のはずがないんだ……。
 ほっとすると同時に寂しさを覚える。
 人間でも、犬でもない。
 自分は一体何者なのだろうか、と。


「見て。夕焼けが綺麗ねぇ」
 公園のベンチに腰をかけ、のんびりした口調で空を見上げるおばあさん。
 みなももその横に座ってそれに倣う。
 学校に行かなくなって、誰にも言葉が通じなくなって。
 何気ない生活の1つ1つが愛しく感じるようになった。
 人間として暮らしていた頃、平穏に感謝することがあっただろうか。
 虫の音に耳を澄ませて、刻一刻と表情を変える空に感動を覚えて。
 午睡の心地のよさや、風が頬を撫でる感触。
 向けられる笑顔や、頭を撫でる手。
「きっと、おばあさんがいたからですね。それと、あのコ……2人がいたから、あたしは」
 みなものつぶやきは、やはりおばあさんの耳に届いてはいないようだった。
「お腹がすいたの? そろそろ、おうちに戻りましょうか」
 頭を撫でて優しく語りかけてくる。
「……はい」
 それでも、構わない。
 言葉なんてなくても、気持ちはきっと通じていると信じられるから。
 夕暮れの中、立ち上がっておばあさんの後に従う。
 細い道をゆっくり、ゆっくりと歩いていく。
 そのときだった。
 見知った顔が目に止まり、みなもは思わず硬直した。
 次の瞬間、思わず駆け出しそうになってしまう。
「――お父さん!」
 それは、紛れもない父の姿だった。
「お父さん、お父さん……っ」
 両手を伸ばして、リードがピンと張る限界まで歩み寄る。
 だけど父親は少し驚いたような顔をしてからその頭を撫でただけだった。
「すいませんねぇ……普段はおとなしいコなんですけど」
 申し訳なさそうに謝るおばあさんに、笑みと会釈を返す。
「お父さん、わからないの? あたしのこと、わからないの……!?」
 力の限りに声を張り上げるのは久しぶりで、裏返った上にかすれてしまった。
 すがりつくこともできず、肩口を抱えられて引きとめられる。
 首輪を無理やり引っ張られるような真似はされず、だからこそ、その優しい手を振り払うことはできなかった。
「――あたしよ。みなもよ……気づいて、お父さん……っ」
 立ち尽くしたまま、涙だけがこぼれていく。
 今の幸せに感謝しながらも、犬としての生活に満足しながらも、どうしても忘れることのできなかった思い出。
 その背中が、ゆっくりと遠ざかっていくのをなす術もなく見守った。


「どうしたの、なんか元気ないね」
 居間の絨毯で寝そべっているみなもの頭を撫でながら、少年が心配そうに声をかける。
 それに、おばあさんが先ほどの出来事を説明する。
「……もしかしたら、昔の飼い主だったのかもしれないねぇ」
 ぽつりとつぶやく声には、憐憫があった。
「帰りたいのかな、そこに」
 少年はすねたように口を尖らせる。
 ――わからない。
 だけど、家に帰ったところで今のままでは……結局、犬として飼われることになるだけ。
 娘に戻れるわけじゃない。
 だとしたら、あたしは……。
「そうだ、ばあちゃん。あのね……」
 少年は何か思いついたように立ち上がり、おばあさんの元に駆け寄って耳打ちをする。
「それはどうだろうねぇ。あのコが気に入るかどうか……」
「でも、ちょっとは元気が出るかもしんないじゃん」
 その言葉を耳にしながら、みなもはそっと目を閉じた。
 自分の姿を見ることなく寝転んでいると、本当に完全な犬になってしまったように感じる。
 そう、思った方がいいのかもしれない。
 人間だった頃の自分はもう死んだのだと。
 自分の生きる場所は、ここなのだと……。


 翌日、少年はいつものように学校には出かけなかった。
 みなもはカレンダーを見て、土曜日で休みなのだと気がつく。
 彼の友人が大きな犬を連れて家に遊びに来た。
 真っ白で大きなグレートピレニーズ。
 はたから見える自分の姿というのは、もしかしたらこんな感じなのだろうかと思いながらその頭を撫でてやる。
 大きな犬は、尻尾を振って頬をなめてくる。
「わぁ、気に入ったみたいだよ」
「仲良くしてくれるといいんだけど」
 少年たちが、わくわくしたような目でこっちを見ている。
「……え?」
 何となく不穏なものを感じて、みなもは辺りを見渡した。
「お見合い成功だね」
「いいお婿さん見つかってよかったね」
 ――お見合い? お婿さん?
 そ、それって……。
 みなもは硬直し、おばあさんの姿を探す。
「こらこら、まだわからないでしょう。わんちゃんたちだって、同じ犬種なら誰でもいいってわけじゃないのよ」
 そうそう、とうなずきながら慌てておばあさんの背中に隠れる。
 ……一体何を考えているのかと思ったら、まさかお見合いだとは。
 犬として生きていこうと覚悟しかけたものの、さすがにそこまでは考えていなかったので驚いてしまった。
「ごめんなさい。びっくりさせちゃった? ……でも、だんなさんがいたらもう、寂しくないと思って」
 少年は申し訳なさそうな顔をして、おばあさんの後ろに隠れたままのみなもに声をかける。
「それに、子供ができたらね。ずっとここにいてくれるでしょ。帰りたいなんて、思わなくなるでしょ。……だから」
 真剣な表情をしてうつむく姿に、みなもは思わず微笑んでしまった。
 幼い少年が、必死にその頭を悩ませて考えてくれたのだ。
 みなもが寂しくならないように。彼女と一緒にいられるように。
 その気持ちは嬉しかった。
「……ありがとう。でも、大丈夫だよ。あたしは、どこにもいかないから……」
 みなもはそう言って、少年をきゅっと抱きしめた。
 人間だった頃、大切に思っていた家族がいた。
 だけど今の自分には……犬になってしまった自分には、一番の家族はこの人たちなのだ。
 犬が、生んでくれた親よりも飼い主に尽くすように……。