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<東京怪談ノベル(シングル)>


     みせかけの詩

 
 ――人は、人であることに固執しようとする。
 動物的本能を厭い、理性ある行動をすべきだと自らに言い聞かせる。
 けれどその生き方にそぐわないものもいる。
 人間社会には適応できないものたち。
 彼らには、本能のままに生きることこそ、必要なのかもしれない……。
 

 赤から黒へ、そして白へと変化してゆく『賢者の石』。
 揺らぐ煙と頼りない灯火の中で、ラクスは献体にちらりと目をやった。
 今までの実験結果を踏まえると、社会不適合者であればあるほど、『新しい自分』に適応しやすい傾向にあることがわかる。
 更にそれは動物の持つ本能との関係も否定できないのだということも。
 ラクスは若干実験に変化を加えてみることにした。
 その変化は外見上の問題であり、その身体構造の問題である。
 それが、精神にどういう影響を与えるのか。
 今回の被験者は果たして、実験に耐えうる素材なのか。
 ひとかけらの不安と、胸に広がる期待。
 ガラス器具やカラフルな薬剤、粉末などを手際よく片付け、赤いものがついた医療用ナイフをすっと拭い、脇に置く。
 口元に僅かな笑みを浮かべながら、ラクスは彼女の目覚めを待った……。


 ぴくんと瞼が動き、うっすらとその目があけられる。
「……私」
 ぼんやりとした口調で小さくつぶやく。
「あのね、今、変な夢を見たの。死んでしまって……誰かに聞かれるの。生き返りたいか、って。人間には戻れなくても、生きていたいかって。だから、私……」
 まだ若干のあどけなさの残る、女性よりは少女といった方が近い年齢の彼女は、眠そうに目をこすりながら言った。
 母親か友人にでも語りかけているつもりなのだろうか。
「夢ではありませんよ」
 ラクスが答えると、彼女はいきなり目を覚ましたようで、勢いよく上半身を起こした。
「私……どうなったの?」
 言いながら、恐る恐る自分の顔に触れている。
 少し固めの毛並みを撫で、呆然とした様子でラクスを見る。
 突き出た鼻先も、耳の位置も、今までとはまるで違う。
 そう……その女性は、すでに人間という部類には見られなかった。
 黒と白の二色の毛並みに囲まれた身体。その顔は、明らかに動物のもので。
 ただ手足はすらりと伸びて二足歩行が可能になっている。
 指先も器用に動かせる5本指で人間らしい。
 身体に密着した着ぐるみでも身につけたかのような感じだった。
 ライオンの下肢に鷲の翼を持つものの、顔と胸元は女性そのものであるラクスとはまるで違う形の半獣である。
「……始熊猫って知っていますか? ジャイアントパンダの祖先です。肉食ですし、模様も多少違うようですけれど」
 ラクスは落ち着いた穏やかな口調で説明を始める。
 目元と頭、胸元から手首までを黒い毛で覆われ、足も黒い毛。顔の一部とお腹周り、そして尻尾だけが白い少女は、自分の身体をくまなく眺めてから。
「私が、それになったっていうこと……?」
 軽いため息と共にあっさりと尋ね返した。
「はい」
「――そっか。パンダ、ね。パンダなら……まだいいかな」
 自身が改造されたという事実よりも、どうやらどんな容姿になっていたかの方が大切らしい。
 そういえば今までの被験者たちも自分の姿の美醜にはやはり敏感だった。
 それは献体が皆女性であるせいもあるのかもしれないが、そうした傾向は非常に参考になるとラクスは思った。


 パンダの姿をした女性は、実験室から広いドームのような空間へと案内された。
 天井は高く、照明や空調が整っており、大きな木々が立ち並んでいる。
 小高い丘があり、川があり。花や果物もあり、小動物までいる。
 室内でありながら、山の中にいるような錯覚を受ける場所だった。
「私、ここで暮らすの?」
「はい」
「何をすればいいの?」
「お好きなように」
 ラクスの返答に、少女はふふ、と笑みを浮かべた。
「それじゃあ、ずっと遊んでいてもいいの?」
「構いませんよ。何か必要なものがあれば用意しますし」
 少女は聞いているのかいないのか、丘の上をたたっと駆け出し、踊るようにくるくるとまわった。
「……ここには、あなたと私しかいないの? その、人間……っていうか、しゃべれるような人って」
「はい……。どなたか、お友達が必要でしょうか」
「ううん、いい」
 意外にもキッパリと、少女は答えた。
 清々する、とでも言いたげだった。
「……それより、あなたのお名前はなんていうの? その姿ってあれでしょう、エジプトの方の……そう、スフィンクス。誰かに改造されたの? それとも自分で?」
 パッと表情を明るくして、なつくようにラクスに声をかけてくる。
「ラクス・コスミオンです。ラクスは生まれたときからスフィンクスですので、自分自身を献体にしたことも、勿論されたこともありません」
「生まれたときから? 本物ってことかぁ。へぇ、すごいなぁ。そうか、だから特殊な力を持ってるんだね」
 はしゃぐような口ぶりには、社会に適応できないという印象はなかった。
 しかし彼女は確かに、思ったはずなのだ。
 今のまま生き続けるのは嫌だ、だけど死にたくはないのだと……。
「私は、これからパンダ人間になってここで生きればいいんだよね。ラクスは、それで観察日記をつけるわけだね?」
 ところどころ引っかかるような言い方だか、大体間違ってはいないのでラクスは小さくうなずいて見せた。
「動物の本能と人間の理性との折り合い、そしてその身体や容姿が精神にどういう影響を与えるかなどについての考察を……」
「いいよ、難しいことはわかんないし。痛いことされるわけじゃないなら、全然オッケー」
 少女は明るく言って、水場に駆け出していった。
 二本足のままで足を川につけて、「うわ、魚がいる。これって本物の川の水なの?」と声をあげていた。
 今回の実験は中々にぎやかになりそうだと、ラクスは思った。


「……ねぇ、お腹すいたんだけど。ご飯って、何を食べればいいの?」
「何が食べたいのですか?」
「パンダって普通は笹とか竹だよねぇ。でも別にそんなのが食べたいわけでもないし、かといって今までみたいな料理が食べたいかっていうと、そういうわけでもないような……」
 動物としての本能よりも、今のところは人としての理性が勝っているようだった。
「好きなものを食べればいいのですよ。始熊猫って、肉食が主ですけれど一応は雑食ですし。人間だって、雑食でしょう?」
 ラクスとしては食べるものを指示して与えるよりも彼女自身が何を食べたいと思うかを知りたかった。
 ただ肉食の場合、注意しないとその嗜好に人間としての理性がついてゆけず苦しめられるはめになってしまうことも多いのだが……。
「……生魚食べるとかって、変じゃない? お刺身にしたりお醤油かけたりじゃなくて、鱗ついたままで食べるの。ちょっとおかしいかな」
「変じゃないですよ。パンダというのは熊に近い種ですし、熊はそうした食生活じゃないですか」
 ラクスの言葉に、ふんふん、とうなずいて川辺に歩いていく。
 どうやら、そんなことをするのが嫌だとか自分は人間なのだから食べたくない、というよりは他人からどう見られるかの方が気になっていたらしい。
 きっとラクスが「パンダは笹を食べるものだ」と言えば、おいしくなかろうが気が進むまいが、それを食べていたのではないだろうか。
 中々興味深い献体のように思えた。
 少女は、水遊びように川の水をバシャバシャとすくっている。
 あれほど派手にかきまわして果たして魚が獲れるのだろうかといぶかりながらも、ラクスはその様子を静かに見守った。
 狩りの勉強も必要だ。
 収穫がなければ、後で今日の分の食事を出してあげよう。


「パンダが元々肉食だったっていうのは聞いたことはあるけど、何だか不思議な感じがするね。どうして草食になったんだろう」
 結局、魚を獲ることができなかった少女は、ラクスの用意したものを食べながらそんなことをつぶやいた。
「食事に困らないように、ということらしいですよ。冬場でも竹は食べられますから、冬眠する必要もないようで。……熊の冬眠自体、無理やりなところがありますからね」
「でもなんか、あまり消化できないから常に食べ続けなくちゃいけないんだって聞いたけど」
「ええ、そうですよ。身体は肉食用なので腸の長さが短すぎるのです」
「……どうして、そこまでするのかな。不自然だよね」
 生魚にかじりつきながら、少女は吐き捨てた。
「生きるために自分に嘘ついて、無理をしてごまかして。そういうのって何か、バカみたいだよね」
 どこか遠い目をして、独り言のように言う。
 何か、思うところがあるらしい。
 それを聴くべきなのかどうか、ラクスは迷った。
 考え方や感情の動きはぜひとも知りたいが、プライベートなことを根掘り葉掘り尋ねるのは気が引ける。
「……それでは、今のあなたは自然な状態なのですね」
 ただ一言、穏やかな微笑みを浮かべて言った。
 すると、途端に少女はハッとしたような顔になり、その目からぽろぽろと涙を流した。
「え……っ、あ、あの。すみません。ラクスは何か、失礼なことを……っ」
 わたわたと慌てて、自身の瞳にも涙を滲ませながらラクスは叫んだ。
 だけどパンダの少女は、小さく首を横に振る。
「違うの。違う……私は、本当は、私の方が……」
 必死になって涙を拭いながら、何とかしゃべろうとする。
 少女の頭を、ラクスはおどおどしながらもそっと撫でた。
「不自然だったよ。ずっと、人に嫌われるのが怖くて、合わせてばかりいた。悩みなんかないよって、いつも笑って。嫌なことも率先してやって」
 それで、あんなにもはしゃいでいたのだ。
 不安など微塵も見せず、明るく……ラクスでさえ、それが演技であるとは見抜けなかったくらいに。
「生き物は全て、自分をよく見せようとします。より美しく、より強く魅せるフォルムや模様に進化してゆくのです。……パンダの模様だって、自然界では威嚇の意味があるのですよ」
 だからそれは、悪いことではない。間違ったことではないのだ。
「……それだけじゃないの。私、友達を見捨てたんだ。クラスで無視しようって言われて……嫌だって言ったら、私も同じことをされるってわかってたから」
 しかし少女の告白は、まだ続いていた。
 ラクスは静かに耳を傾ける。
「それで、それでそのコ、自殺しちゃったんだよ。私がかばってあげなかったから。私のせいで……」
「あなたのせいでは、ありませんよ」
「でも、大丈夫だよ。仇はとったから。ちゃんと、あのコは殺してあげたから……」
 少女の顔が、奇妙に歪むのをラクスは見た。
「――あのコ、ですか?」
「彼女を追いつめたコだよ。クラスのリーダーきどった生意気なヤツ。ずっと怖いと思ってたけど、そんなことない。泣いて叫んで、逃げ回ってたよ」
「……そう、なんですか」
「最初から、そうしていればよかったんだ。我慢なんかせずに闘っていれば……」
 生魚をかじる鋭い歯。白い毛が赤く濡れる。
 それをものともせず、少女は食事をしている。
 ――パンダは、おとなしい性質で人が近づけば逃げ出してしまう。
 だけど彼らは本来肉食獣であり、草食獣のフリをしているだけなのだ。
 肉が食べられないわけではない、食べることを忘れただけだ。
 牙を向ければ、いとも簡単に相手を殺すことだってできる。
 ただそれを知らないだけ。自分の持つ力を、狩るべき獲物を。
「……本当は、友達が欲しいかって言われたときに、あのコのことが頭に浮かんだんだよ。でも、合わせる顔なんてないから……」
 そもそも、昇天してしまった魂を呼び戻すことはラクスにはできないので、頼まれてもそれは無理だっただろう。
 しかしそれが心の底から人を想う気持ちであることを知ると、ラクスは驚きを隠せなかった。
 彼女は自らの手で人を殺したことに対しては罪の意識を感じていない。
 けれど間接的に死においやってしまったことに対しては、どうしようもない罪悪感を抱いているのだ。
 その違いが何によるものなのか、ラクスには不思議でならなかった。


 人は、食事のためでなく生き物を殺せる残虐性を持つ。
 しかしその中に人を想う気持ちがあって、優しさや痛みを同胞している。
 つかみきれない、はかりかねない。
 だからこそ、彼らはおもしろい――……。