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狂乱の夜想曲 発生
その日、興信所を訪れた男性は懐から名刺を取り出すと恭しく草間・武彦に差し出した。
彼の名前は瀬川・俊樹(せがわ・としき)。職業は映画監督、年の頃は30代半ばほどだった。
「草間探偵は、狂乱の夜想曲と言う映画をご存知ですか?」
「いいえ」
唐突に切り出され、武彦はやや口篭りながらも否定すると、名刺に落としたままだった四川を上げた。
「何年も前に途中まで撮影された映画です」
「途中まで、と言いますと?」
「テープだけを残して、監督、出演者、その場にいた全員が突如として消えてしまったのです」
そこまで言われて初めて、武彦はどこかで聞いた話だという事に気づいた。
最後まで撮ってはいけない映画があると言ってはしゃいでいたのは‥‥おそらく、瀬名・雫だろう。
「脚本家は菅野・忠興(すがの・ただおき)。狂乱の夜想曲を書き上げた次の日に失踪した、あの謎多き脚本家です」
「それで、その狂乱の夜想曲がどうかしたのですか?」
「撮りたいと思うんです。私が、最後まで」
「どうしてまた?」
「狂乱の夜想曲を途中まで撮影した監督と言うのが私の父なんです」
「志半ばで消えた父の後を引き継ぎたいと?」
「あるいは超えたいのかも知れませんね。 父の事がなくとも、狂乱の夜想曲は魅力的な作品です。ぜひ私の手で世に出したい」
俊樹は暫し口を閉ざすと、あるいは‥‥と言って目を細めた。
「知りたいのでしょうね。父が何故消えたのか、狂乱の夜想曲に何があるのか」
「‥‥依頼内容は何です? 撮影クルーの捜索、脚本家の調査、それとも撮影中に事故が起こらないように見張る、ですか?」
「テスト撮影での出演を依頼したいんです」
「と言うと?」
「どこの事務所も、何かあっては大変だからと俳優の出演を許可してくれませんでした。しかし、一度テスト撮影をして何もなかったということを証明できれば、OKが出るかも知れません」
「そうは言っても、演技がまともに出来るような連中を呼べるかどうかは‥‥」
「私は、撮影クルーが消えた原因は屋敷と台本にあると思っているんです。菅野・忠興に縁のあるあの古い豪華な屋敷と台本が重なって初めて、何かが起きるのだと思います。あの台本どおりに動いて初めて‥‥いや、“狂乱の夜想曲を撮影すると言う台本”通りに動いて初めて、何かが起きると思うんです」
「‥‥演技力については、あまり期待しないで下さい」
「受けていただけるんですか?」
武彦は紫煙を吐き出しながら、ゆっくりと首を縦に振った。
☆ No-∞ ☆
穏やかな春の日を思わせる、ヴァイオリンの柔らかな旋律。冷たく硬いながらも軽やかで魅力的なピアノの音色。陽だまりのような、明るく伸びやかなフルートの音色。高く力強く、官能的なまでに艶っぽい歌声と、天使のように透き通った歌声。 その全てが合わさって、初めて完璧な音楽と言える。他のどれでもない、世界にたった一つしかない五つが揃って初めて時計の針は回りだす。
観客席のざわめきが一瞬にして消え、幻想的なまでに美しい音に魅了される。凍り付いていた時間が溶け、旋律と共に流れ出す。生きている喜びが胸いっぱいに広がり、日々の憂鬱さが薄れて行く。 初めて息をしているかのような錯覚、生きていると実感できる幸せ。
私達の帰る場所はここだ。 心のうちで誰かがそう叫ぶ。
私達はこの中でしか生きられない。 この音の海の中でしか息が出来ない。
永遠に続く曲があれば良い。永遠に消えない音色があれば良い。
そうすれば ―――――
★ Kv-0 ★
ケヴィン・トリックロンドは興信所のソファーにダラリと腰掛けると、零が出してくれた駄菓子をニコニコしながらほうばった。
「やっぱり駄菓子は1丁目の駄菓子屋さんのが一番だよね。なんと言っても、駄菓子屋さんの名前が良い!最初はなんて書いてあるのか分からなかったけど、今ならちゃんと読めるよ。“ひばり”って読むんだよね」
「違う。うぐいすって読むんだ」
「ケヴィンさん、ひばりは“雲雀”って書くんです。うぐいすは“鶯”です」
零が武彦のデスクの上に乗っていたメモ帳を一枚千切り、丁寧な文字で二つの漢字を書く。 ケヴィンの知っている駄菓子屋さんの名前は勿論後者の漢字だったのだが、彼は狐につままれたような顔をして目をパチクリしただけで首を傾げた。
「これは“くもすずめ”だよ」
「ひばりって読むんです」
「だって、“くも”に“すずめ”でしょう?」
「田舎が“た”と“しゃ”って読まないのと同じだ。第一、“くもすずめ”って何だ」
「雲みたいな雀? あっ!雲の雀!」
「そんな滅多に見られないような雲の形にわざわざ名前なんてつけるか」
武彦の言い分ももっともだ。積乱雲や入道雲なみに雀の形の雲が頻繁に空を漂うのならばともかく、雀形の雲は滅多に見られるものではない。せいぜい、「あ、あの雲少し雀に似てるかも」と言う穏やかな昼下がりに偶々発見するくらいだろう。
「そんなんで高校の教師が務まるのか?」
「僕が教えてるのは英語だもん」
「‥‥‥大の大人が“だもん”とか言うな」
(ケヴィンさんは本当に漢字が読めないんでしょうか? それとも‥‥‥)
二人の言い争いを部屋の隅で黙って聞いていた零が、ボンヤリとそんな事を考える。 ケヴィンほど頭の良さそうな人が、鶯と雲雀を勘違いしたりするだろうか。もしかして、彼なりのお茶目なジョークなのではないか。
零のそんな思考は、控えめなノックの音にかき消された。
☆ S-0 ☆
シュライン・エマは外で遅めの昼食をとった後で、一旦自宅に戻った。 依頼完了の報告にのために興信所に行かなくてはならないのだが、夏間近のこの季節、外を少し歩いただけで汗が出た。ウォータープルーフで汗や水に強いとは言え、お化粧もやや崩れてきている。シャワーを浴びるまではしないが、お化粧直しと着替えくらいはしたい。
お化粧をやり直し、ピシッとしたワイシャツに袖を通す。髪を綺麗に纏め、報告書の確認をした後でグルリと部屋の中を見渡し、何か忘れ物はないかと頭の中で一つ一つ確認をした後で外へ出る。
むっとした気温、高い湿度、ジワジワと熱せられる肌はアスファルトの照り返しもあって、さながらオーブンにでもいれられたかのようだった。
(これで雨でも降ってくれれば少しは涼しくなるんだろうけれど‥‥‥)
空は真っ青で、色々な形をした雲がボンヤリと漂っているだけだった。 アイスクリームのような形の雲、リボンのような形の雲、猫のような形の雲、鳥のような形をした雲は、大きさから言って雀だろうか。
空を見上げていたせいで、地面に視線を下げた時にオレンジ色の残像がアスファルトの上を移動した。 ドアに鍵を掛け、日傘を開くと上空からの紫外線を防ぐ。
閑静な住宅街を抜け、繁華街に差し掛かる。今日も賑やかな、けれどどこか気だるげな空気が流れる中を歩いていた時、シュラインの耳に聴いたことのある歌声が届いた。 美しく、どこまでも澄んだ声は天性のもので、少しも狂わない音程はまるで楽器のようだった。
(これって確か、“ひとひら”よね)
思わず足を止め、歌声に聞き入る。 もう何十年も前に出された曲だと言うのに、今もなお色褪せる事のない美しい曲だった。
花弁、ひとひら、舞い落ちる
クルリ、クルリ、風に揺れて
過ぎ去る時を、歌に託す
遠ざかる過去を、筆に託す
忘れないで、あの日の事を
忘れないで、咲き誇っていたあの日の事を
透き通った高音は、子供と大人の丁度中間にあるような、曖昧でいて心地良い声質だった。
(確か、これを歌っていたのって‥‥‥)
記憶の引き出しを開ける。 初めて聞いた時、これほど綺麗な声で歌を歌う人がいるのかと衝撃を覚えた。あの時の感覚を思い出す。 腕に鳥肌が立つような、背筋がゾクリとするような、天才と言う言葉が真っ先に脳裏に浮かんだ。
(そうだわ、桜川・理緒って子だったわ)
桜川・理緒(さくらがわ・りお) ――― 天使の歌声を持つとされた歌姫。 彼女の天から与えられた才能は、既に天に返されている ―――――
★ M-0 ★
草間興信所からのメールをじっくりと読むと、樋口・真帆は机の上に広げられた文房具を手早く筆箱の中に入れるとロッカーに走った。 このまま興信所に直接行くにあたり、不要な荷物はあまり持って行きたくない。予習の必要のない教科書は極力ロッカーの中に入れ、復習の必要を感じる教科についてはノートだけを鞄の中に入れる。
自分ではテキパキと動いているつもりでも、人よりも三つはテンポが遅れていると言うマイペースでゆったりな真帆のこと、この教科書はいるかな?このノートはどうかな? 即断が出来ずにじっくりと考える、その時間が既にテキパキとは程遠いものだった。
「どうしたの、真帆。そんなに急いで」
何時も一緒にいるお友達は、真帆のそんなノンビリペースのテキパキでも急いでいると理解してくれた。
「ちょっと用事が入っちゃって」
「バイト?」
「うーん、そう、かなぁ」
「そっかー。今日、皆で新しく出来たカフェに行こうかって話ししてたんだけど、真帆が来れないんじゃな‥‥‥」
「皆で行って来なよ。で、美味しかったらまた一緒に行こう?」
「あーっ!真帆、あたし達で毒味させるつもりだなー!?」
バレタ? と、そんなこと少しも思っていなかったのに悪戯っぽく微笑んで切り返す。 教室に笑いが広がり、帰り支度をしていた数人の生徒が何事かと振り返る。
「明日って、私何か当たるっけ?」
「数学は真帆今日答えてたし、英語もまだまだ当たりそうにないし‥‥‥ないと思うけど、授業で答えるために勉強をするだけじゃダーメ。日々の勉強の積み重ねが定期テストの時、ひいては入試の時に役に立つんだから」
真面目腐った顔でそう言う友人は、常に成績上位者に名前を連ねている秀才だった。成績は中の上程度と言った真帆は、優秀な友人の助言に「はーい」と素直に返事をしておく他ない。
鞄の中身を確認し、忘れ物はないかと机の中を覗き込んだ時、綺麗な歌声が耳に届いた。
花弁、ひとひら、舞い落ちる
クルリ、クルリ、風に揺れて
友人の机の上で携帯が歌いながら振動している。液晶が七色に光り、メールのマークが点滅する。
「それ、何て曲? 初めて聞くけど」
「“ひとひら”って曲だよ。 随分前のなんだけど、凄い綺麗な歌で、思わず取っちゃった」
(“ひとひら”かぁ‥‥‥)
「ひとひらって確か、コレの主題歌になってなかった? あと、何か映画の挿入歌に使われる予定だったとか聞いたことあるけど」
ブックカバーを外し、本の表紙をこちらに向ける。 “天空の演奏会”と書かれた表紙には純白の羽を広げた天使達が様々な楽器を持って幸せそうに演奏している姿が描かれていた。
あまりにも可愛らしく魅力的な表紙に釘付けになっていた真帆は、優秀な友人の「真帆、時間は良いの!?」との一言ではっと我に返ると、友人達に手を振ってから教室を飛び出した。
☆ kn-0 ☆
古書店を回ってお目当ての本を手に入れた柊・久遠は、その足で書店に入った。 特に何か欲しい本があったわけではなかったのだが、時折こう言った普通の書店でも魔術関連の本が置かれている時がある。
雑誌のコーナーを素通りし、漫画のコーナーを横目で見ただけで通り過ぎる。文庫本が置かれているコーナーに視線を向け、新刊をチェックしつつ奥の棚へと移動しようとしたとき、久遠の目に可愛らしい表紙の本が映った。
(天空の演奏会‥‥‥?)
純白の羽を広げた天使たちが様々な楽器を持ち、気持ち良さそうに演奏しているイラストは、どこか心温まるものがあった。天使達の中心で伸びやかに腕を広げ、口を開けている少女 ――― 無論、この子の背にも仲間と同様の羽がある ――― が一番久遠の興味を惹いた。
そっと手に取り、表紙を捲る。 華やかなページが視界からはずれ、天空の演奏会と言う素っ気無い文字が現れる。著者名は榊・香夜(さかき・こうや)。多分男性だとは思うが、名前からは中性的な印象を受けた。
暫しその本を手にとって中をペラペラと見た後で、久遠は本を元あった場所に置いた。 可愛らしい表紙には心惹かれるが、内容は久遠の趣味とは違っている。表紙のためだけにお金を払うのは、あまり賢い事ではない。
今月の新刊の中に、久遠の欲しい本はなかった。 そのまま占いの本が置いてあるコーナーまで進み、太い背表紙に人差し指を滑らせる。 “占星術”“おまじない”“タロット”“陰陽師”‥‥‥こちらにも、久遠の探している本はなかった。
(今日はこれからどうしましょうか‥‥‥)
家に帰って買ったばかりの本を読んでも良いのだが、折角外に出て来たのだからどこかに寄ってから帰っても良い。
(草間さんのところって、確かここから近かったですよね)
いつも何かしら事件が転がり込んでくる不思議な場所・草間興信所。あそこに行けば、退屈はせずにすみそうだ。
ボンヤリと何の気なしに書店の特設コーナーに設置されていたテレビの画面を見つめる。 少し古い映画なのか、鮮度のあまり良くない画面の中で美しい少女が歌を歌っていた。ふわふわのドレスに身を包んだ彼女は画面の中でクルリと可憐に回ると笑顔を振りまく。足元には犬が擦り寄ってきて、空には白い鳩が大量に飛んでいる。
音声が小さいためにどんな歌を歌っているのかは分からなかったが、画面の右隅に浮かんだ彼女の名前は読み取れた。
(桜川・理緒、か。‥‥‥可愛い子)
天空の演奏会の表紙の真ん中で歌を歌っていた天使にソックリだった。
映像は古いものみたいだけれど、この子は今では幾つくらいになっているのだろうか。 そんな事を考えながら、久遠は無意識のうちに天空の演奏会の文庫本を手に取り、レジに向かっていた。
★ Ry-0 ★
授業終了のチャイムと共に教師が教卓を離れ、代わりに副担任の先生が入ってくる。 グルリと室内を見渡し、欠けている者がいないかを確認した後で簡単に連絡事項を伝えると帰りの挨拶を交わし、出て行った。
担任の先生は大阪の方に出張に出ており ――― 何かの会議があるらしいと聞いた気がする ――― 今日は副担任の先生が担任の代理として朝のHRも帰りのHRも受け持っていた。 ツンとした雰囲気のするまだ若い男性教師は女生徒からの人気は高かったが、男子生徒間での評判は悪かった。唯一話が短いと言う点が評価されていたが、普段の愛想の無さでのマイナスが大きすぎた。
(俺は別に良いと思うけどなー)
授業も分かり易いし、質問をすれば的確な答えを返してくれる。見ていないようで生徒一人一人のことをきちんと理解しているし、授業の内容の濃さについても人一倍気を使っていると言うことを、鈴城・亮吾は知っていた。
干渉はしてこないけれどもちゃんと見守ってくれている、そんな先生が亮吾は好きだった。 人気はあるものの授業は雑で分かり難い今の担任よりも、よっぽど副担任である彼の方が良い。いっそ担任を代えてくれないかと内心で願っていた。
「鈴城君、ちょっと邪魔なんだけど」
甲高い声が耳に突き刺さり、亮吾は慌てて席を立つと仁王立ちになってこちらを睨みつける少女に頭を下げた。 彼女の手には箒が握られており、気づけば回りの机は前方に移動させられた後だった。
「ごめん。俺の机は自分で運ぶから‥‥‥」
亮吾は彼女、神林・凛音(かんばやし・りんね)の事がどうにも苦手だった。 芸能事務所に所属しているだけあり、確かに顔は可愛らしいと思うが、如何せん性格がキツすぎる。特に男には容赦なく言葉の鞭を振るい、彼女に告白をして振られた生徒が3日3晩寝込んだと言う噂もあるくらいだった。
「自分で運ぶもなにも、当たり前でしょ。鈴城君、あたしと同じ班!」
「う、あ‥‥‥ご、ごめん! すぐ手伝うから」
(そうだ、俺、掃除当番だったんだ‥‥‥)
「もー、しっかりしてよねっ!」
わたわたしている亮吾をそのままに、凛音が綺麗な漆黒のポニーテールを振りながら他の列の机を運ぶべく廊下側へと移動する。 ピンと伸びた背筋が遠ざかるのにほっと安堵しながら、亮吾は自分の机を引きずりながら前に運んだ。
掃除用具入れから箒を取り出し、埃を掃き集める。毎日掃除をしているはずなのに、いつだって教室は汚れていた。
「凛音ちゃん、今度は映画に出るんでしょう?」
「んー、まだ分かんないよ。 話は来てるみたいだけど、正式なものじゃないから」
「コレを書いた人の弟さんの脚本でしょう?」
塵取りで埃を集めた後、机を元のように戻している間、亮吾の耳にはそんな会話が聞こえてきていた。 気になって視線を上げれば、凛音と喋っている少女の手には一冊の本が握られていた。
「そうだよ。 狂乱の夜想曲って言うの。朝霞姉妹の妹役なんだけど‥‥‥」
「でもさぁ、狂乱の夜想曲って、確か‥‥‥」
「鈴城! 校庭でサッカーやるっつってるけど、お前も来るか?」
「いや、遠慮しとく」
友人からのお誘いを丁重に断り、亮吾は鞄の中身を確認すると肩にかけた。
「‥‥‥でも、あたしは出たいと思ってる。だって、あの菅野・忠興さんの脚本なんだもの‥‥‥」
☆ Rn-0 ☆
暑い‥‥‥‥‥
ラン・ファーは額の汗を拭うと、恨めしげに太陽を睨みつけた。 爽やかに晴れた青空とは違い、地上は湿気でムシムシと蒸れていた。 不快な暑さは人の心を荒ませる。空の青さに一つ文句でも言いたくなるような、ギスギスとした気持ちが体中に充満していく。
(いかん、このままでは何かやらかしそうだ‥‥‥)
冷静に自己分析を行い、ランは目に付いた喫茶店に飛び込んだ。 ヒンヤリとした空気にほっと安堵の溜息をつき、レジに向かうとアイスティーを頼んで席に着く。質素な装飾品しか置かれていない店内で、テレビの画面だけがクルクルと七色に色を変えている。
音が小さいために何を言っているのかは聞こえないが、どうやら映画の一場面のようだった。
はっとするほど美しい少女が胸の前で手を組み、寂しげに口を動かしている。大きくゆったりとした動きは、それが歌だということを物語っていた。
つぅっと、一筋涙が零れ落ちる。何の前触れもなく流れた涙は、ランに微かな驚きを与えた。 寂しげな瞳からは涙が零れ、それでも口元は優しく微笑みながら歌を紡いでいる。歌が途切れ、唇を軽く噛む。顔を上げ、晴れやかな笑顔を浮かべながら空を仰ぐ。両手を広げ、大きく息を吸い込むと膝から崩れ落ちる。その場に蹲り、顔を伏せる。 微かに震えている背が、彼女が泣いているのだということを必死に訴えている。
(‥‥‥上手いな‥‥‥)
思わず引きこまれてしまったほどに、彼女の演技力は高かった。まだ幼さの残る少女は、大人の女優に引けを取らないくらい ――― もっと言ってしまえば、大人の女優ですら舌を巻くほど ――― 完璧な演技をこなしていた。
「アイスティー、お待たせいたしました」
「うむ。 それより、あの映画はなんと言う映画なんだ?」
アイスティーを運んできたウエイトレスが、テレビの画面を暫く見つめると「あぁ」と小さく呟き、微笑んだ。
「狂乱の夜想曲って言うんですよ」
「狂乱の夜想曲‥‥‥ふむ、覚えておこう」
機会があればDVDを借りて見たい。どんな話しなのかは二の次で、彼女の演技をもっと見てみたかった。
(そう言えば、名前はなんと言うんだ‥‥‥?)
ランが彼女の名前を尋ねる前に、画面が切り替わった。 ともすれば少女にも見えるような、甘いマスクの少年がヴァイオリンを片手に月明かりの中に立ち、誰もいない空間に向かって丁寧にお辞儀をすると、すっと表情を引き締めてヴァイオリンを肩に乗せた。
「あぁっ! そう言えば、狂乱の夜想曲って由良・樹(ゆら・いつき)君が出てたんだ‥‥‥!」
「由良・樹?」
「えぇ、あの子です。とてもカッコ良かったのに‥‥‥」
シュンと肩を落とした女性の様子を見るに、どうやら彼は引退したか、もしくは不幸に遭ってしまったようだった。
(おそらく後者だろうな‥‥‥)
ランと同じ年頃の少年は、何かに取り付かれたように一心不乱にヴァイオリンを奏でている。 音は聞こえずとも、彼がどれほど心を込めて演奏しているのかが伝わる映像に、ランはアイスティーを飲みながら視線だけはそちらに固定させていた。
(やはり、一見する価値はありそうだな)
帰りにDVDを見てみよう。 そう心に決め、勘定を払うと外に出る。
ムっとする暑さが体を包み、思わず顔を顰める。 このままDVD探しの旅に出ても良いが、どうせならもっと涼しくなってからにした方が良いだろう。それまでは、草間興信所で時間を潰そう。
ジリジリと照りつける太陽に抗議の意味を込めた視線を向ける。 空にはポツポツと雲が浮かんでおり、それらは風に流されながら様々に形を変えていた。 猫の顔、雪だるま、歪なハート、北海道、雀 ―――――
(もっと集まって巨大化すればあの忌々しい太陽を防げるものを‥‥‥!)
★ All-1 ★
集まった面々に一通りの説明を終えた武彦は、目を丸くしたまま固まる真帆とシュラインに交互に視線を向けた。 双方何かに酷く驚いているようだが、表情から察するにどちらも違う部分に驚いているようだった。
「‥‥‥わ、私‥‥‥役者なんて学芸会でもやったことがないですけど‥‥‥それでもいいんですか?」
シュラインより早く我を取り戻した真帆が、オズオズとそう尋ねる。 武彦がふーっと紫煙を天井に吐き出し、頭を掻くと「だからな」と言って真帆に顔を近づけた。
「演技力は問わないんだ。どうせただのテストなんだから、大根だろうが卵だろうがチクワブだろうが、関係ないんだ」
(武彦さん、おでんが食べたいのかしら)
ボンヤリとそう思ったのは、シュラインだった。 こんな暑い日におでんなんてしたら ――― しかも、興信所の冷房は今日も気まぐれで、止まったり動いたりを繰り返している ――― 気が狂うだろう。
「でもさ、テストだからって言っても折角なんだし、ちゃんとした作品に仕上げないとなんか勿体ねーじゃん。 例え下手でも何でもいいからさ」
「あのなぁ、お前は今回の依頼の趣旨を分かってるのか?」
亮吾が、分かっているけれどどうせだしと譲らないのを受けて、武彦は盛大な溜息をついた。
「で? シュラインは何に驚いたんだ?」
「実はね、こんな偶然もあるのかなーと思って。 狂乱の夜想曲って、確か桜川・理緒ちゃんが出てた映画よね。今日偶然町で、彼女の歌を聞いたのよ」
「奇遇だな。私も今日、狂乱の夜想曲の映画を少し見たぞ。 ‥‥‥もしかして、あれが桜川・理緒だったのか‥‥‥?」
「私も桜川・理緒って子の映像を見ましたよ」
ランに続き、久遠までもがそう言い、亮吾が気味が悪そうに顔を顰めながらその後に続いた。
「桜川・理緒って子は知らないけど、俺も狂乱の夜想曲がらみで1つあった。 うちのクラスの子が、それに出るとか何とか‥‥‥」
武彦と零を除けば、この場に集まったのは6人。その内4人が何らかの形で狂乱の夜想曲との繋がりがあったと聞かされれば、焦るのは残りの2人の方だ。 もっとも、焦っていたのは真帆だけであり、ケヴィンは表面的には「すごいねー」程度の感想しか出していなかったが。
「その桜川・理緒さんって、どんな方なんですか?」
「とても綺麗な子で、天使の歌声って噂されてたわね。本当に歌が上手くて‥‥‥特に“ひとひら”なんて、今聞いても感動するわ」
「ひとひら!?」
真帆の目が見開かれ、両手で口元を隠す。
「その様子からするに、樋口‥‥‥“ひとひら”をどこかで聞いたのか?」
「えぇ。お友達の携帯の着メロがそれで‥‥‥“天空の演奏会”の主題歌だったって聞きました。 それじゃぁ、何かの映画の挿入歌って、狂乱の夜想曲の‥‥‥」
「天空の演奏会、ですって?」
久遠が苦々しい表情でそう呟き、ソファーの隅にポンと置いていたバッグの中から1冊の本を取り出す。
「あぁっ!それ、それです!」
「‥‥‥流石に、ここまで来ると気味が悪いですね」
「えぇ、久遠さんのその意見には賛成だわ。 でも、そうするとケヴィンさんに何もないって言うのが気になるわね」
「Msエマ、そんな目を向けても何もないよ。 僕はただ、Mr草間&Ms草間と一緒に“くもすずめ”についての議論をしてただけ」
「“くもすずめ”って何ですか?」
「樋口、良い質問だが、その答えは下らないものだぞ。 トリックロンドは教師と言う名の生徒だからな」
「Mr草間!それどういう意味!?」
「えぇっ!?先生なんですか!? ‥‥‥あっ!保健の先生ですか!?」
真帆のその言葉に、武彦が吹き出す。 ほらな、お前はいたいけな女子高生から見てもやっぱり教師には見えないんだ。教壇に立っている姿は考えられないんだよ。と、ケヴィンの肩をバシバシ叩きながら爆笑している。
「違うよMs樋口。僕は英語の先生なんだ‥‥‥」
「え、英語!? ‥‥‥あー‥‥‥で、でも、言われれば見えます!ね、鈴城君!」
「えぇ!?お、俺に振るかぁ!?」
「まぁ、見えない事もない事もない事もないかも知れない事もないかも知れないな」
「ランさん、見えないのかそうでないのか分からないわ‥‥‥」
シュラインが苦笑しながらそう言い、ケヴィンがぷぅっと頬っぺたを膨らませながらそっぽを向く。
「そっかぁ‥‥‥それじゃぁ、トリックロンド先生って呼んでも良いですか?」
天然なのか、はたまたケヴィンのご機嫌取りをしようとしたのか、真帆はそう言うと純度100%の笑顔で首を傾げた。 その途端、ケヴィンの表情がふにゃりと崩れる。
「いやいや、トリックロンド先生じゃなく、ケヴィン先生って呼んでよ。フレンドリーに」
「‥‥‥先生って呼ばせてる時点でフレンドリーなのか?」
「武彦さん、あれで丸く収まるんだからそっとしておきましょう」
「Mr鈴城もケヴィン先生で良いからね」
「え、俺も!?」
またしても巻き込まれた形の亮吾は、ケヴィンと真帆のダブルニコニコに負け、渋々小声で「ケヴィン先生」と呼んだ。
「それで、草間。“くもすずめ”とはどういう意味なんだ? まさか、雀の形をした雲などと言う何の捻りもないものではないのだろう?」
「正解だ、ファー。 正解者には草間興信所特製、出涸らしのお茶をあげよう」
「そんな貧乏臭いものはいらん。 しかし、それで行くと繋がりが見えてくるな。今日、雀の形の雲を見たぞ」
「あぁ、私も見たわ。小さな鳥の形の雲」
「‥‥‥それはただの偶然と言うか‥‥‥あまり関係ないことだと思うんですけど」
「Ms柊の言うとおりだよ。 僕は狂乱の夜想曲の呪いをかけられてないみたいだ」
「勝手に呪いにするな、トリックロンド。 それで、役なんだが‥‥‥榛原・鏡夜はあちらで役者を連れて来るそうだ。水原・駿(みなはら・しゅん)と言うらしい」
「あっ!私知ってます!雑誌で何度か見たことあります」
「その水原君は、有名な人なのかしら?」
「そうですねぇ‥‥‥知っている人はごく少数だと思います」
「水梨・アリスは樋口、頼めるか?」
「はい! フルートは簡単な曲なら何とか演奏できますし‥‥‥頑張ります」
「で、東雲・瑞貴はトリックロンド」
「はいはーい。がんばりまーす」
「で、朝霞・白雪がファー、雛菊が柊。柊の方が歳は上だが、見た目はさほど変わらないし、問題はないだろう」
「任せておけ!私にかかれば朝霞白雪だろうが雛菊だろうが雛罌粟だろうが日暮だろうが、問題はない!」
「分かりました。私も精一杯頑張ります」
「それで、武彦さん、私は何をすれば良いの?」
「シュラインは、郡山・玲子とセレナの声をやってほしいんだ」
「セレナの声? それって、歌って事よね?」
「あぁ。セレナ役の子は歌はからっきしだそうでな。 頼めるか?」
「えぇ、勿論よ。 それで、亮吾君と武彦さんは何をするの?」
「俺の身長じゃ役者は無理っぽいし、俺は撮影クルーの方に回るんだ」
「俺は‥‥‥日向・蓮を‥‥‥」
どんよりとした表情からは、やりたくないと言う6文字が読み取れた。 しかしコレは仕事だ。やりたくなかろうが何だろうが、強制的にやらなくてはならない。
「そうだ、樋口と鈴城。お前ら、学校は良いのか? 一度行ったら終わるまで戻って来れないぞ。何しろ、撮影は朝から晩までぎっしり入ってるからな」
「あ、私は大丈夫です。鈴城君は?」
「俺も平気」
「そうか‥‥‥。二人とも期末試験の対策はバッチリって事だな」
武彦の指摘に、真帆と亮吾が明後日の方向を向く。どちらも成績優秀、何もしなくてもテストでは高得点が出せると言うタイプではないらしい。
「‥‥‥期末に赤点なんか取られたらかなわないからな、勉強道具は持って来い」
学生二人が「はーい」と渋々頷く。
「まぁ、樋口と鈴城は良いとして‥‥‥トリックロンド、お前は大丈夫なのか?」
「教師って言っても、臨時教師だし、その期間は大丈夫」
「そうか。 あぁ、それと、セレナ役の北条・マリアと水原は当日現地集合だ」
「ねぇ、武彦さん。 私、狂乱の夜想曲ってあまりよく知らないんだけれど‥‥‥失踪した当時の役者さんって誰だったのか分からない?確か、桜川・理緒ちゃんは入ってたわよね」
「あぁ。桜川・理緒はセレナ役だ。朝霞姉妹は姉が大谷・香奈子(おおたに・かなこ)妹が島根・奈々(しまね・なな)、東雲瑞貴は大城・正志(おおしろ・まさし)、郡山玲子は秋野・馨(あきの・かおる)、水梨アリスは伊藤・静(いとう・しずか)、日向蓮は渡会・由宇(わたらい・ゆう)、瀬田は近藤・辰好(こんどう・たつよし)榛原鏡夜は由良・樹だ」
「と言うことは、あれが鏡夜だったのか」
ランが一人そう呟く隣で、ケヴィンが大きく溜息をつくと首を振った。
「あーぁ、僕も狂乱の夜想曲の呪いにかかっちゃった‥‥‥」
「何か接点が見つかったの?」
「Mr由良とは、少し縁があったんだ。とっても良い子だったのを、今でも覚えてるよ」
☆ In-2 ☆
興信所の床一杯に積まれた資料の一つを手に取り、シュラインはソファーに腰掛けるとパラパラと捲った。
「私の言ったもの、全部借りてこられたの?」
「いや、幾つかは借りてこられなかった。 まず、残されたテープ‥‥‥これは、すでに向こうに送ってしまったらしいんだ」
「向こうって、屋敷の方?」
「そうだ。 一応の管理はしていたものの、半ばほったらかしにしてあったものだからな、数人のクルーが掃除や小物の配置のためにテープを持って行ったらしい」
「そう‥‥‥。それじゃぁ、向こうでは見られるって事ね」
「それから、脚本も借りてこられなかった」
「脚本も送ったの?」
「いや、違う。 そもそも、前回の脚本が見当たらないらしい。前回の脚本は、オリジナルの脚本を少しアレンジしたものらしいんだが、いつの間にか消えていたと言っていたな」
「‥‥‥何かあると思う?」
「あそこのオフィスは戦場みたいなものだったからな、何かが無くなってても増えてても不思議は無い」
「あら、それじゃぁここと一緒ね」
シュラインが散らかった興信所内を見渡し、悪戯っぽく微笑む。 武彦がそんな恋人の姿に頭を掻き、バツが悪そうに視線を逸らす。
「撮影前の屋敷内の写真や映像はある?」
「写真は数枚ある。送ったテープの中には、撮影中ではない場面を映したテープがあるみたいだ」
「メイキングのテープかしら?」
「そうだろうな。 あと、使用曲目と撮影クルーリストは貰って来た。 屋敷の見取り図も、送り済みだろうだ。それから、撮影時の各部屋の使用内容を書いた紙はないらしい。まぁ、脚本を見ればある程度は分かるだろう」
「そうね。その他のものは?」
「屋敷の前と今の所有者は変わっていない。 それと、失踪時の警察の捜査資料は借りてこられなかった。‥‥‥この世にもうないそうだ」
「どういう事なの?」
「瀬川さんの母親の棺に入れて一緒に燃やされたそうだ。 なんだか色々あるみたいだったが‥‥‥何しろあっちは凄まじい忙しさでな、怒涛の勢いで仕事を片付けてたぞ」
「瀬川さんって、普段からお忙しい方なの?」
「結構な売れっ子みたいだな。俺もよくは知らないが」
「そうなの‥‥‥。それで、曲や歌は狂乱の夜想曲のために作られたものだったの?」
「一部はそうらしい。全部が全部と言うわけではない」
「作曲家さんや作詞家さんに会うことは出来る?」
「‥‥‥いや」
「そう‥‥‥。題や登場人物からして、音や旋律が強く関わっていそうな印象があったから、作詞や作曲の時に受けた指示とか、脚本家さんの印象を聞ければと思っていたんだけど‥‥‥」
「実は、全員亡くなっているそうなんだ。元々、依頼をした時に高齢だった人が多いんだが、妙な話もあるんだ」
「妙な話?」
「作詞・作曲者が亡くなった後に作られた曲があるんだそうだ」
「つまり、亡くなった後から発見された遺作ってこと?」
「いや、違う。 亡くなった後に、誰かが意図的にその人達の名前を借りて作り上げた曲があるんだそうだ」
「それは何て曲なの?」
「題はつけられていない。 楽譜は残ってなくて、歌詞を書いた紙しかない。メイキングで桜川が歌っている場面があるそうなんだが、どこで使われる曲なのかはどこにも書いていない」
「歌詞を書いた紙は?」
「向こうに送ってあるそうだ。‥‥‥少し、気になるだろう?」
「えぇ、そうね。‥‥‥誰が作詞・作曲したのか、気になるわ」
「それから、屋敷に関して過去に何かあったと言うことはなかったらしい。菅野の失踪後は菅野の奥さんが管理して、今では娘さんと息子さんが管理しているらしい」
「娘さんと息子さんは今はどこに?」
「ヨーロッパ旅行中だそうだ。 家具や小物の増減はなかったそうだし‥‥‥あの屋敷は色々な撮影に使われてるみたいで、小物類は置いていないそうだ。辺鄙な山奥にある屋敷で、周囲に家はない。ま、あの屋敷自体に何か曰くとかがあるわけじゃないだろう」
★ In-3 ★
「狂乱の夜想曲って言うくらいなんですから、楽曲に何かヒントがある気がするって言うのは、シュラインさんに同意です」
学校帰りの真帆が零の出した麦茶をぐーっと飲み干すと、力強くそう言った。
「楽曲に何かヒントがあるって言ってもなぁ‥‥それがどう関わってくるのかが分からん」
「何かの呪いとかでしょうか?」
久遠の発言に、武彦が軽く首を振る。 分からないと言っているのか違うと言っているのかは分からなかった。
「一応、シュラインさんに頼んで使用されていた楽曲のリストを送ってもらって、その作者についてを学校のパソコンで調べてみたんですけど、コレと言っておかしなところは見つかりませんでした」
「屋敷の周囲に、怪しいところとか、危ないところとかは?」
「危ないところは‥‥‥まぁ、山の中だからな、結構歩いた先には滝があるし、川もあるし、崖もある。ただ、屋敷のごく周辺はこれと言って何もない」
「撮影途中で残されたテープの最後がどんなシーンだったのかも確認したいですし‥‥‥うぅーん、やっぱり屋敷に行かないと何も分からないですね」
「‥‥‥テープと言えば、妙な話を聞いた」
「どんな話しなの、武彦さん?」
「最後の日のテープだけ別にあるんだが、時々それが無くなるそうだ。しかも、それを見たいと思った時に限って」
「‥‥‥この話し、どう思います?」
久遠の呼びかけに、シュラインが眉根を寄せ、真帆が困ったように視線を左右に振る。
「やっぱり、呪い‥‥‥ですか?」
「それは、瀬川さんが言ったことなの?」
「いや、違う人だ」
「ねぇ‥‥‥そもそも、それを見たことある人っているの?見たいと思った時に限って無くなるんでしょう?」
「誰もいないそうだ」
「それは、最初から無いって事じゃないんですか?」
「いや、ちゃんとテープはあるそうなんだ。ただ、見ようと思うといつの間にか無くなっているらしい」
「と言うことは、瀬川さんも見たことないのよね?」
「そう言う事になるな」
「失踪した脚本家が何か関係しているんでしょうか?」
「なんとも言えないな」
「‥‥‥Mr草間」
それまでまるでそこにいないかのように押し黙っていたケヴィンが、武彦の名前を呼ぶと顔を上げた。 あまりにも真剣な瞳に武彦がゴクリと喉を鳴らし、続く言葉を待つ。
「大切な事を聞くのを忘れてたんだ」
「なんだ?」
「撮影、山‥‥‥つまり、お泊りでしょう?」
「そうだが?」
「そこ、温泉ある?ご飯美味しい?お土産物屋さんとか、どのくらいある?」
キラキラとした眼差しを向けられ、武彦はニッコリと ――― シュラインですらも引くほどの満面の笑顔で ――― 微笑むとケヴィンの耳を引っ張った。
「あいたーーーっ!!!??」
「遊びに行くんじゃねぇんだ!あ・そ・び・にっ!!」
「ぼ、僕だって分かってるよーっ! でもさ、少しくらいそう言うイベントがあったって‥‥‥ねぇ?」
同意を得ようと周囲を見渡すが、同意する者は誰もいない。
「そ、そんな目をしなくったって‥‥‥僕だって、ちゃんと色々やってるんだから!」
「例えばどんな?」
「Mr菅野について少し調べてきたんだ。他の脚本作品とか、出生とか」
「何か分かった事があったか?」
「出生に関しては、特に何も。お兄さんと歳の離れた妹がいたみたいだね。 脚本も調べてみたけど、特には。‥‥‥あえて言う必要があることと言えば、Mr菅野が色々な顔を持っていたってことくらいかな」
「‥‥‥菅野・忠興には幾つかの顔がある。小説家・脚本家・詩人・舞台俳優・画家・ピアニスト・建築家。他にも、物理学や天文学に秀でていたし、英語・ロシア語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・中国語を自由自在に話せたそうだ」
「凄い‥‥‥」
「凄いのはこっから先だ。 菅野は小説家としての名前、脚本家としての名前ではなく、詩人や舞台俳優、全て名前を使い分けていたらしい。他の顔もあったに違いないと言う説もあるし、いくつかは菅野ではないのではないかと言う説もある」
「それで武彦さん、菅野さんが手がけたものって何なのか分かるの?」
「画家と建築家としての名前は明かしているから、その2つについては分かる」
「どんな作品があるの?」
「現存しているものは何一つ無い。菅野は名前を明かすと同時に、それまで手がけた作品を全て燃やしたり壊したりしたそうだ」
「何でそんなことを?」
「さぁな。 天才のすることはよく分からない」
「本当に何も残ってないんですか?」
「作品名だけなら幾つか残ってる。“祝福の光”“切れない絆”“完全なる調和”“生の証明”“明日への希望”それから、建築物としては“朝比奈邸”が有名だったらしい。‥‥‥あぁ、そう言えば朝比奈邸は菅野が壊したんじゃなく、焼失したそうだ」
「焼失?」
「火の不始末が原因で、そこに不審な点は何一つ無い」
「もしそれが偶然におきた事故なら、写真の一枚も残ってておかしくないと思うんだけれど‥‥‥」
「多分残ってるだろうな。 ただ、問題なのはその朝比奈邸がどこにあったのか、詳細な情報がないんだ」
☆ All-4 ☆
朝早くからバスに乗って出発した一行は、武彦の頼りない運転にハラハラしながらも何とか屋敷に到着した。
「やはり、迎えに来てもらうべきだったな」
「俺もその意見に賛成。瀬川さんが折角迎えに来てくれるっつってたのに、どうして断ったんだよ」
「まぁまぁ、ランさんも亮吾君も、無事につけたんだから良しとしましょう。瀬川さんはお忙しいだろうからって、武彦さん、無理したのよ」
「そうですよ。例え予定時刻を大幅に過ぎての到着でも、無事に着いたんですから」
久遠がフォローと言う名の止めを刺し、武彦がガクリと肩を落とす。 時刻は既に夕方の4時過ぎ、予定時刻を3時間以上過ぎての遅い到着だった。
「心配なのは、撮影に響かないかですよね。皆さん、今日撮る分の脚本は覚えてきました?」
「勿論です。皆さんの足を引っ張らないように気をつけます」
真帆が力強くそう言い、シュラインも当たり前のことのように軽く頷く。ランも「私の辞書に不可能と言う文字は無い!」と言う、使い古された台詞を吐き、元々台詞の少ない武彦と、こちらもバッチリ覚えてきていたケヴィンが顔を見合わせて頷く。
「あぁ、今ご到着ですか?」
屋敷の扉が開き、中から安堵したような表情をした瀬川が出てくるとグルリと一行の顔を順番に見て大きく頷いた。
「欠けている方はいないですね、良かった‥‥‥」
「遅れてすみません、少々道に迷ってしまって‥‥‥撮影に響いたりしないよう、頑張らせていただきますね」
テスト撮影に長い時間をかけるわけには行かないため、撮影はかなりキツキツのスケジュールが組まれている。瀬川が気にすることはないと一言言ってくれたが、それは明らかな建前だった。
「早速撮影に入りたいのですが、大丈夫でしょうか?」
「えぇ。 ‥‥‥ケヴィンさんと亮吾君、荷物を頼めるかしら?」
出番の無いケヴィンと裏方の亮吾に荷物を託し、出番のあるメンバーはそそくさと屋敷に入るとスタッフから手渡された衣装に袖を通した。 朝霞姉妹役のランと久遠は高価そうなワンピース、アリス役の真帆はフワリと広がる長いスカートに白のブラウス、玲子役のシュラインは胸元が大きく開いた色っぽいデザインのドレスだった。
スタッフが大急ぎでランと久遠の髪の毛を軽く巻き、シュラインの髪をアップに纏める。真帆は耳の上から少量取った髪を後頭部で結び、純白のリボンをつけられる。
あっという間に良いところのお嬢様、お姉様に変身した4人は、部屋の隅で足をブラブラさせながらコチラの様子を窺っていた少女に目を留めた。
ツインテールにした髪は金色が混じったような淡い茶色で、肌は透き通るように白い。13歳か14歳程度の外見の少女は、椅子からおもむろに立ち上がると大輪の華のような笑顔で微笑んだ。
「直ぐに撮影に入らなくちゃいけないから紹介は後回しって言ってたけど、折角だから‥‥‥。 今回、セレナ役をすることになった北条マリアって言います」
ペコリと頭を下げたマリアが、シュラインに真っ直ぐな瞳を向けると首を傾げた。
「もしかして、シュライン・エマさんですか?」
「えぇ、宜しくね、マリアちゃん」
「シュラインさんの歌、とっても楽しみです! 理緒さんの歌声に匹敵するくらいだとか‥‥‥」
「だ、誰がそんなこと言ったの!?」
「監督が、草間さんからそう聞いたって‥‥‥」
「もう、武彦さんったら‥‥‥買いかぶりすぎよ」
唇を尖らせてそう言いつつも、シュラインはこっそりと口角を上げた。好きな人に褒められて嬉しくない人など、どこにもいないだろう。
「マリアさんって、ハーフとかですか? とっても綺麗な髪の色で、素敵です!」
真帆が微笑みながらそう言い、ついでにと自己紹介も簡単に済ませる。
「ドイツと日本のハーフです。‥‥‥とは言っても、フランスとイタリアの血も混ざってるんです。父がフランスとドイツのハーフで、母がイタリアと日本のハーフなんです」
「そうなんですか!?凄いですね! ってことは、フランスとイタリアのクオーターで、あれれ?でも、ドイツと日本が‥‥‥」
考え込む真帆をよそに、久遠は不躾にならないように気をつけながらマリアの頭の先から爪先までをゆっくりと観察した。
(やっぱり、少し桜川・理緒に似てますね‥‥‥)
顔立ち自体がソックリと言うわけではないが、纏っている雰囲気や表情は理緒に通じるものがあった。 一瞬にして周りの目を自分に引きつけてしまう、そんな強力なオーラがマリアにはあった。
★ Noc-5 ★
アリスの奏でるフルートの音に合わせ、鏡夜が繊細なヴァイオリンの音を響かせる。 蓮に背中を押された玲子が渋々ながらも二人の間に立つと、すぅっと息を吸い込んだ。
♪硝子の地球に硝子の音
♪壊れかけの世界に朽ちた心
♪触れれば消える儚いシャボン
♪満月を遮る黒い雲
気を抜けば直ぐに乱れてしまいそうなほどに危うい旋律の中、玲子の凛と透き通った高音が空気を振るわせる。 ソファーに座っていた雛菊がうっとりと目を閉じ、白雪が膝の上で軽く手を組むと口の端に笑みを浮かべる。
蓮が膝の上でトントンと指を動かし、無音の旋律を刻む。 壁際で静かに耳をそばだてていた瀬田がそっと部屋を後にし、美味しい紅茶とケーキを取りにキッチンに向かう。
アリスが最後の音を消し、鏡夜のヴァイオリンが口を噤む。まるで王子様の口づけで目を覚ましたお姫様のように、雛菊がゆっくりと目を開けると立ち上がった。
「素晴らしい演奏ですわ。アリス様のフルートに鏡夜様のヴァイオリンが綺麗に絡み合い、玲子様の歌声を引き立たせている‥‥‥素晴らしいですわ。それ以外の言葉が見当たらないほど、本当に素敵でしたわ」
「雛菊の言うとおりです。アリスさんも鏡夜さんも、以前よりも格段に腕が上がりましたね。玲子さんの歌声は相変わらず、右に出るものはいませんわ」
「そんなに褒められるとちょっぴり照れちゃいますね、鏡夜君」
「そうだね。雛菊さんはともかく、白雪さんはいつも厳しいから‥‥‥」
「姉様は、見込みのある方に限って厳しいんですのよ。才能のない方に関しては、何時も適当なお返事ばかり」
「あら、本当の事を言ってはいけないと言ったのは貴方よ、雛菊?」
「姉様は、直球で言い過ぎなんです。もっと言葉を選びませんと、徒に相手の方の心を傷付けてしまいましてよ」
「どっちつかずの曖昧な言葉で変に期待持たせるよりゃ良いと思うけどな」
「何人もの女に期待を持たせて曖昧にしたまま逃げてしまう貴方が言えた台詞?」
玲子が艶やかに微笑みながら蓮の腕をそっと取る。 煙草を出そうとしていた蓮が一瞬動きを止め、肩を竦めると手を振り解いてポケットから煙草の箱を取り出した。
「あっち行ってろよ玲子、煙草の煙は喉に悪いんだろう?」
「いつもそうやって都合が悪くなると追い払うんだから。 アリスちゃんもこっちへいらっしゃい」
「瀬田! 玲子さんとアリスさんのお茶は花の間に運んでさしあげて」
「かしこまりました」
玲子とアリスが何かを話しながら部屋から出て行く。二人の姿が見えなくなるまで待った後で、白雪が目を伏せると小さく溜息をついた。
「蓮さんも、いい加減玲子さん一人にしたらどうなんです? 先日だって、よからぬ噂を耳にしましたよ」
「心外だな。まるで俺が遊び人みたいじゃないか」
「あら、違いましたか? とりあえず、お堅い方ではないと認識していますけれど」
「そっちこそどうなんだよ」
「わざわざ貴方が心配してくださらなくても結構です」
「一応、元許婚だからな」
「親同士が勝手に決めたことです。私は貴方の事を許婚だと思ったことは一度だってありませんわ」
「もー、姉様も蓮様も、顔をあわせればいつもこれ‥‥‥。鏡夜様が困ってらしてよ。 折角久しぶりにこうして集まったのですから、昔のいざこざは忘れて楽しく過ごしましょうよ。ね?」
「そう言えば、セレナちゃんの姿が見えないようですけれど‥‥‥」
鏡夜のその一言に、雛菊が寂しそうに目を伏せると首を振る。
「わたくし、ここ一年ほどセレナとは会っていませんの。なんでも具合が酷く悪いらしく、部屋に篭ったきりですのよ」
「元々、あまり体の強い子ではありませんでしたから」
「‥‥‥時々歌が聞こえる以外は、ずっと臥せっているようですわ。 姉様が仰るには、酷く痩せてしまって、人と会うのを拒んでいるらしいんですの」
「そんな顔しないで雛菊。大丈夫、セレナはきっと良くなるわ。 体は弱くても、心はとても強い子だから」
「でも、姉様‥‥‥」
「セレナはきっと良くなると、貴方が信じてあげなくてどうするの。 ‥‥‥私達が信じてあげなくて、どうするの‥‥‥」
☆ Ry+Kv-5 ☆
それぞれが迫真の演技を繰り広げている外では、亮吾が引っ張りだこになっていた。 カメラワークや音響、照明の調節などの機械を複数同時に遠隔操作を行い‥‥‥時にはスタッフの手助けになり、時にはスタッフの邪魔になっていた。亮吾の思う照明の強さやカメラワークと、スタッフの考えているそれとは大幅に違っている場合が多々あった。
テストとは言ってもどうせならきちんと作り上げたい亮吾だったが、一円の利益にもならない今回の撮影にはちゃんとした設備は殆ど持ち込まれていなかった。 効果音作成もCG合成も編集も、やりたいのならば後日送ってもらったテープを元に作成するしかない。今回の撮影はあくまでテストであり、凝る必要はどこにもない。
同時進行で台本や屋敷、土地に呪いや魔術的要素や痕跡が無いか確かめてみるが、全くの空振りだった。 そもそも、作品としてこの映画を作る事を優先させている亮吾は、しばしばスタッフから鬱陶しがられた。 多少役者が噛んでも、多少台詞が出てこなくて妙な間が空いてしまっても、スケジュールをこなす事に意味があるのだ。
「ちょっと、鈴城君どいて!」
「亮吾君、ちょっと水取って来てくれる?」
「鈴城君、こっちにはお茶」
途中からはほとんど雑用係としてあっちに呼ばれこっちに呼ばれ、休む暇も無いくらいだった。
頻繁に呼ばれる亮吾の名前は、「鈴城君!」「鈴城!」「亮吾君!」「鈴!」「城!」「亮!」などと変化をしていき、ついには“りょん”で決着をつけた。
「りょんちゃん、ちょっとこっち来て!」
「りょん!ティッシュ取って来て!」
(あぁああぁあーーっ!! 何だよ“りょん”ってっ!!)
心の中でツッコミを入れつつも、亮吾はテキパキと指示に従って動いていた。
*
“りょん”が有名レストランのお昼時のような忙しさの中で四苦八苦している時、ケヴィンは無邪気に屋敷の周囲を散策していた。 温泉は無いかなー、駄菓子屋はないかなー、犬がいたらダッシュで逃げないとなー、などなど、いたってノホホンとした思考でトロトロと歩いていた。
口には飴が頬張られており、コロコロと飴を舌で転がすたびに口から飛び出した棒が右へ左へと揺れる。 このまま転んだら大変だなー、それにしても山の中って結構暑いなー、どっからか水音が聞こえてくるなー、もしかして温泉?でも、温泉ってあんな勢い良く流れ落ちるような音しないよなー。
見た目からして暑苦しい格好をしていたケヴィンは、万が一誰かと遭遇したら不審者として通報されるだろう。 誰だって黒のコートを着た金髪の美青年がニコニコ顔で飴玉を舐めながら山中を一人で散策している姿を発見したら、逆方向にダッシュで逃げたくもなるだろう。
(それにしても‥‥‥)
はたと“ソレ”に気づいたケヴィンが足を止め、自分が来た道を振り返る。 風が吹くにしたがってザワザワと揺れる木々の中、ケヴィンが歩いてきた道はどこにもなかった。
★ S+Rn+Kn+M-6 ★
ケヴィンさんがいません!とのスタッフからの緊急の報告に、瀬川は完璧に混乱していた。 その混乱に共鳴するかのように真帆もオロオロと無駄にその場を回り、久遠とシュラインも顔に出さないながらもその行方を心配していた。
もしかして、何かあったんじゃ ――― そう思う二人の隣では、ランが「それなら私はビデオを見ておく。帰ってきたら知らせてくれ」と言って、2階に上がって行ってしまう。菅野が手がけた他の作品と今回の脚本とに類似点は無いかを探すためと言う大義名分の元での鑑賞ではあったが、ランも最初からその部分に関しては期待はしていなかった。
「ど、ど、どうしましょう草間さん! ケヴィンさんが失踪しちゃいました!」
「大方、外をフラフラ歩いてるうちに迷子にでもなったんだろ。そのうち帰ってくるから大丈夫だ」
武彦のそんな適当とも思えるような台詞にホッと胸を撫で下ろしたのはシュラインだった。草間・武彦は、こんな時に適当な言い方をするような人ではない。そう言うだけの確固たる根拠があって言っているのだと、シュラインは分かっていた。
「そうね、ケヴィンさんに限って万が一の事は無いと思うわ」
「お二人がそう言うのなら‥‥‥」
久遠も二人の意見に賛同し、真帆もほっと安堵の溜息をつく。
(そうだよね、ケヴィン先生に限って‥‥‥。ケヴィン先生ならきっと、隠し持ったチョークとかでやっつけちゃいそうだもんね)
真帆のケヴィンに対する印象は“先生”と言う一言によって変な道に入ってしまっているが、あながちその想像は間違ってはいない。ニコニコとした表情が一瞬にしてキリリとしたものに変わる、ケヴィンはそんな二面性を持っていそうだった。
「それじゃぁ、ケヴィンさんが戻ってくるまで私達も休憩してましょう」
久遠と真帆がその場から立ち去り、シュラインは武彦に携帯灰皿を渡すと ――― 勿論目の前のテーブルの上には灰皿が乗っていたが、それはあくまで小道具だ ――― 疲れ切った顔の彼に優しく労わりの言葉をかけた。
「お疲れ様、武彦さん。 武彦さんって、意外と演技派だったのね」
「仕事柄、多少は出来てなきゃならない部分だからな」
「今日の分の台本をざっと読んでみたんだけど、意外と普通の話しだったわね」
「コレから先が普通じゃなくなっていくんだろ」
「どうして瀬川さんは、今日の分の台本しか渡してくれなかったのかしら。 もしかして、まだ書き途中なのかしら?」
「‥‥‥前の時が、そうだったらしい」
「前の時って、瀬川さんのお父様の?」
「あぁ。 そう言えば、話は変わるんだが‥‥‥スタッフのリストの中に、近藤・正明(こんどう・まさあき)って名前があっただろ? 彼は撮影の初日に階段から落ちて腕を骨折、その日のうちに病院に担ぎ込まれたらしい」
「つまり、その人は失踪しなかったってことよね」
「あぁ。 生きていれば今は50代くらいだ」
「生きていればってことは‥‥‥」
「瀬川さんに確認したところ、10年ほど前に交通事故で亡くなったそうだ」
「そうなの‥‥‥」
「あぁ、そうだ‥‥‥見取り図と、前に撮影した時の館内の写真。大事なものなんだから、無くすなよ?」
「もぅ、子供じゃないんだから!無くすはずないじゃない」
唇を尖らせながらも写真と見取り図を受け取ったシュラインは、まだ煙草を吸っている武彦をその場に残し、部屋を出た。 見取り図と写真を確認しつつ、廊下や天井、床、壁、装飾品などの違いを探す。勿論、全てが前回の撮影と同じ物を使っているわけではないため、若干の違いは見受けられたが、特にこれと言って不審な点は見られなかった。
各部屋を見て行き、最後にランのいる部屋を開けた時、階下からボーン、ボーンと言う低い音が響いてきた。それは丁度6回鳴ると押し黙り、シュラインは癖で左腕に視線を落とした。そこにはいつも巻きついているはずの時計は無く、代わりにテレビの画面を消したランが現在の時刻を教えてくれた。
「今は6時だ」
「あら、ランさん、もう良いの?」
「あぁ、飽きた‥‥‥。 そう言えば、トリックロンドは帰って来たのか?」
「まだだと思うわ」
「そうか、なら、少し探検でもするかな。 物理的にいなくなるためのルートとか、妖等の気配が無いか、確認してみる必要があるだろうしな。エマも来るか?」
「えぇ、同行するわ」
*
シュラインとランが屋敷を調べているその時、久遠と真帆も独自のやり方で捜査に当たっていた。
「典型的なのは、本当に財宝があって、ソレを守ろうとする怨霊が‥‥‥ってことかしら‥‥‥。面白そうね、探してみようかな」
「私もお供します!」
若干の好奇心と真剣に事件解決を願っている真帆が久遠の後に続き、専ら古い楽器や楽譜など、音楽関係のものが無いかを探索するが、小道具としてそこに置かれたもの以外には見当たらない。
1階は殆どが撮影用の部屋で、小道具を動かして調べるわけにも行かず、久遠と真帆は直ぐに2階に上がった。
怨霊や財宝、失踪について何か手がかりや証拠は無いかと探してみるが、整然と整えられた屋敷にはそれらのものはおろか、生活感も全く無い。屋敷の住人の遺品も無く、成果は上げられなかった。
「まるで、モデルルームみたいですよね。撮影用のお屋敷なだけあって、綺麗なので余計にそんな印象があります」
「そうですね。 ‥‥‥ここで何かがあったなんて、考えられないな」
「私も同感です。 でも、何もないならそれで良いじゃないですか。悲しい事なんて、無い方が良いんですよ」
「けれど、もし何もないなら、撮影クルーがどうして消えたのか、謎は残ります」
「うぅーん‥‥‥ケヴィン先生みたいに、山の中で迷子になって‥‥‥」
「‥‥‥十分悲しいことですね」
「はぅっ!た、確かにそうですね‥‥‥」
苦笑いを浮かべながら庭の方へと向かう真帆を見送り、久遠はもう一度詳しく調べなおしてみようと、1階に下りた。
*
庭に出た真帆は一通り見回った後で溜息をついた。やはりここにも不審な点は何一つ無い。
(ケヴィン先生も帰ってきてないみたいだし、どうしようかなぁ‥‥‥。フルートの練習でもしようかなぁ)
一応吹けるとは言え、響夜役の駿と合わせると未熟さが際立つ。
(幾らテスト撮影って言っても、やっぱり少し恥ずかしいもん。せめて駿君に合わせるくらいは出来ないと)
真帆が躓きそうになると、上手く駿がカバーしてくれる。その優しさが嬉しくもあり、申し訳なくもある。
真帆は屋敷の中にとって返すとフルートを取り、外に出た。屋敷内では瀬川がまだ若干混乱しており、スタッフも忙しそうだった。
フルートを唇に当て、そっと息を吐き出す。楽譜自体は事前に貰っていたため、暗譜はしてきてあるのだが、暗譜をしてあるのと実際に吹けるのとは別問題だった。
「あぁ‥‥‥また間違えちゃった‥‥‥」
それまでの伸びやかなゆったりとしたテンポとは違い、やや早くなる段になるといつも指がこんがらがってしまう。曲に何か秘密が隠されているとしたなら、こう言った些細な間違いでも大きく響くかも知れない。
ややムキになりながら何度も練習し、やっと吹けたと思った瞬間、右手から拍手が上がった。
「しゅ、駿君!?‥‥‥っと、水原君!」
「駿で良いよ、その代わり、僕も真帆ちゃんって呼ばせてもらって良いかな?」
こげ茶色の髪に、穏やかな表情、雑誌で見るよりも断然格好良い駿は人の良さそうな笑顔を浮かべながらそう言うと、真帆の隣に立った。
常日頃から興信所に来る美形を沢山見ている真帆は、美形を見ただけで舞い上がってしまうような女の子ではなかったし、芸能人と聞けば興奮してしまうような女の子でもなかった。けれど雑誌の中でしか見かけない人が実際に隣に立っていると緊張してしまうのは、誰にでもあることだろう。
「真帆ちゃんは頑張り屋さんなんだね。 僕もあの部分、凄く難しくて何度も躓いたのを覚えてるよ」
「駿君は、フルートも出来るんですか?」
「楽器の類は何でも。ピアノも出来るし、トランペットだって吹けるよ」
「へー、凄いですね」
「そんなこと無いよ。由良樹は、もっと凄かったんだから」
「俊君は、由良樹さんの事をご存知なんですか?」
「勿論実際に会った事はないけど、噂は色々と。 ‥‥‥彼は僕の父親の兄、つまり、僕の伯父なんだ」
それまでは若干乙女モードの入っていた真帆だったが、その一言に素早く“興信所モード”へと変身した。
「由良樹さんって、駿君の伯父さんだったんですか!?」
「そうだよ。 だからなんだって言われると困っちゃうけど‥‥‥ちょっと自慢したかっただけ、かな」
「そうなんですかー、でも、凄いですねっ!」
「マリアだって、桜川理緒の遠縁の親戚だって言ってたよ。確か、母方の親戚だったかな。 理緒は天使の歌声って言われてて、日本だけじゃなく世界でも活躍の場を持ってたから、凄い自慢してたよ」
(駿君だけじゃなく、マリアちゃんまで‥‥‥)
凄いですと言いながら微笑む真帆の心は、表情とは違って荒れていた。 そこに何か明確な意図が見えそうで、けれどただの偶然かも知れない。
(偶然にしては出来すぎてると思いますけど、でも、意図的にそうするにしても、どうしてそんな事を‥‥‥?)
「いやー、それにしても、山の中には魔物が住んでるね‥‥‥」
熟考する真帆の背後からノンビリとした声が響き、ケヴィンが髪に葉っぱをつけながら姿を現す。
「け、ケヴィン先生!? 何処に行ってたんですか!?もう、心配してたんですよ!?」
ケヴィンの登場に、真帆は一旦思考をやめるとケヴィンに走り寄った。
「ちょっとね、魔物が‥‥‥」
「魔物!? それで、ケヴィン先生は隠し持ってたチョークで‥‥‥」
「チョーク? いやぁー、それにしても、危なかったなぁ‥‥‥」
「ケヴィン先生が苦戦するなんて‥‥‥どんな魔物だったんですか!?」
「あのねぇ、うーんと‥‥‥。道にまーよえ?」
「何だそのやる気の無い投げやりな魔物の名前は。 どうせならもっとマシな名前を考えとけ」
丁度外の空気でも吸おうと外に出た武彦は、ケヴィンに素早くツッコミを入れると二人の会話を黙って聞いていた駿に視線を向けた。
「水原も、遠慮しないでツッコんで良いんだぞ。 この二人は、ツッコミがいないと永遠にボケた会話を続けるからな」
☆ Noc-7 ☆
「あら、姉様‥‥‥雨が降って来ましたわ」
「本当ね‥‥‥」
窓の外を見つめていた雛菊の声に白雪が立ち上がり、そっと隣に立つと空を見上げる。 白雪よりも背の低い雛菊が姉の横顔を見上げ、何かを言おうと口を開くが唇を噛むと俯く。
「嵐になるかもしれないわ」
「え?」
「雲がとても速い‥‥‥次から次へと、黒い雲が迫ってきているわ。雨も強さを増してきていますし‥‥‥きっと、明日は嵐になるでしょう」
「嵐‥‥‥憂鬱ですわ。 わたくし、嵐は嫌いですの。雨の音や雷の音が、まるで怒鳴っているようで」
「安心なさい、雛菊。雨の音も雷の音も、皆さんの素敵な演奏の前では掻き消えてしまいますよ」
「‥‥‥そうでしたわ、姉様。 今は皆様がいらっしゃるんですもの、何も恐れることはありませんわよね」
「えぇ。 きっと嵐だって、直ぐに去って‥‥‥」
ドンドンと激しく扉を叩く音に、白雪が口を閉ざす。 瀬田が何事かと急いで扉に走って行き、部屋で寛いでいた蓮が玲子につつかれて立ち上がる。
「はいはい、どちら様で‥‥‥」
「お久しぶりですね、瀬田さん。お変わりないようで」
「東雲様‥‥‥いかがいたしましたか!?まずはどうぞお入り下さい、すぐにタオルを持ってまいります」
「お手数をおかけしてすみません」
急ぎ足で立ち去る瀬田の代わりに蓮と白雪が玄関に出てくると、びしょ濡れの瑞貴を頭の天辺から爪先まで眺め、それぞれ違う表情を作った。蓮は驚いたような表情で目を見開き、白雪は苦虫を噛み潰したような表情で視線を一旦足元に落とした。
「どうしたんだ、瑞貴。 水も滴る何とかやらって実践しようとでもしてんのか?」
「蓮じゃないんだから、水も滴る良い男にはならないよ。私の場合、せいぜい濡れ鼠だろうね」
「よく言うぜ」
「白雪さん、突然の非礼をお詫びいたします」
「いえ‥‥‥それは良いのですけれど‥‥‥」
「現在書いている小説に詰まりまして、気分転換がてら外に出たのですが、近くに来ましてつい‥‥‥勿論、上がりこむつもりなどありませんでした。お屋敷を遠目に見てから帰ろうと思ったのですが、突然の豪雨にどうしようもなくなってしまいまして」
「折角近くまで来てくださったのでしたら、遠慮せずともお越しくだされば宜しいのに」
「白雪さんが良い顔をしないだろうと言う事は最初から分かっていましたから」
「‥‥‥私はお客人はいつでも歓迎しますよ」
瑞貴と白雪の間に流れる妙な空気を敏感に感じ取り、蓮がそっとその場を後にする。代わって瀬田がタオルと着替えを持って来ると、瑞貴に手渡した。
「このお屋敷には男は私だけですので、私の服になってしまいますが‥‥‥」
「すみません、瀬田さん。ありがたく着させていただきます」
「お湯の準備も出来ておりますので、どうぞお入り下さい」
「何から何まで有難う御座います」
「瑞貴様、嵐が去るまでここにいらっしゃるのでしょう?」
いつの間にか背後に立っていた雛菊が、目をキラキラさせながら瑞貴と白雪を交互に見比べ首を傾げる。
「えぇ、そうね‥‥‥この天気で山を降りるのは危険ですし」
「嬉しい! わたくし、瑞貴様の新作を拝読いたしましたの。ぜひそのことについてお話したいと思っていましたのよ」
「それは光栄です。私の書いた本など、雛菊さんのお目汚しにしかならなかったでしょうが‥‥‥」
「雛菊、お話なら後になさい。 瑞貴さんはどうぞ浴室へ」
「それでは、お邪魔いたします。 ‥‥‥あ、そうだ‥‥‥」
去りかけていた瑞貴が振り向き、チェシャ猫のような、艶やかさの中に狡猾さを潜めた笑みを浮かべると白雪の顔を覗き込んだ。
「白雪さんは、お読みくださらなかったのですか?」
「申し訳ありません。忙しかったもので」
「そうですか、それは残念です。 それで、セレナさんは如何です?」
「セレナは現在、体調が思わしくなくて臥せって‥‥‥」
「それでも、私の本は何時も読んでくれていましたよね。 横になっていても本くらいなら読めるからと」
「‥‥‥そうですね、セレナも私に隠れてこっそり読んでいたかも知れません」
「セレナさんの具合が比較的良い時にでも、感想を窺っておいてくださいますか?」
「分かりました。 そのうちに‥‥‥」
★ All-8 ★
雨に濡れたケヴィンが入浴している間、シュラインは窓の外を見上げながら顔を曇らせていた。
「まさか本当に雨が降ってくるなんて‥‥‥」
「さっきまで晴れてはいましたけれど、雲は多かったですし、山の中では天気は直ぐに崩れたりしますし」
「それはそうなんだけれど、なんだか‥‥‥本当の嵐が来ているみたいで」
「天気予報ではこの先一週間、晴れと出ていましたけれど」
久遠の言葉に、シュラインがゆっくりと頷く。彼女もまた、出発前にテレビで天気を確認して来ていた。
「あの、宜しければ紅茶でも如何です?」
瀬田役の秋藤・正親(あきふじ・まさちか)がトレーを差し出し、シュラインと久遠がティーカップをそれぞれ取る。
「すみません、わざわざ‥‥‥」
「何も秋藤さんがやらなくても‥‥‥」
「いえ、元からこういうのが好きなんです。役者より裏方タイプと言うか‥‥‥自分でも、どうして役者をやってるのか不思議なくらいなんです」
それに樋口さんもお手伝いしてくださっていますしとの言葉に視線を彷徨わせれば、ランと武彦に紅茶を届けている真帆の姿があった。 真帆も真帆で、色々と気を使うタイプなのだろう。
紅茶を受け取ったランが、亮吾にちょっかいをかける。 どうやら“りょん”と言う名前の言い易さに心惹かれたらしく、むやみやたら“りょん”と呼んでは亮吾を困らせている。
「だーもーっ!!こっちは忙しいんだ!」
「何を言うりょん!スタッフは役者のために動いてこそだろうが!りょん!」
「いちいち名前を呼ぶな!」
「ま、まぁ、お二人とも落ち着いてください。鈴城君も紅茶いかがです?」
真帆が二人の仲裁に入り、亮吾に紅茶を渡したその瞬間、雷の音が鳴り響いた。 かなり大きなその音に、一瞬室内が静まり返る。
「うわー、凄い。今、空がピカって光りましたね」
いつの間にか隣に来ていたマリアが窓の外を見つめながら弾んだような声を上げ、室内を振り返った。
「マリアちゃん、雷は怖くないの?」
「えぇ、私、雷大好きなんです」
☆ Kv-8 ☆
長い髪をバサリと背に払い、ケヴィンはタオルで丹念に拭くとドライヤーに手を伸ばした。 温風が髪にしがみ付く雫を飛ばし、徐々に髪が軽くなっていく。
(‥‥‥それにしても、まさかMr由良が‥‥‥)
ほんの数回、ひょんな縁で会っただけの樹だったが、音楽・演劇におけるその類稀なる才能はケヴィンも高く買っていた。 周囲から才能を認められても控えめに謙遜を繰り返す樹の人柄もまた、ケヴィンは嫌いではなかった。
人よりも長く生きる事の出来るケヴィンは、いつだってこの世界に置いて行かれる方だった。 そっと指輪に手を伸ばし、その存在を確認すると目を閉じる。
今まで出会ってきた人、交わした会話の数々、大切な思い出 ――― ケヴィンの中でだけ生き続ける硝子細工のような記憶の数々は、光りを当てられれば七色に輝きだす。
樹と最後に会った日の事を思い出す。 それは寒い日で、ケヴィンは相変わらずの格好で街を歩いていた。
『あれ、ケヴィンさんじゃないですか?』
『Mr由良、奇遇だね。 最近忙しそうだけど、睡眠時間はちゃんととってる?』
青白い顔をした樹にそう声をかける。以前、疲れが溜まって病院に運ばれたと言う記事を読んだ事があった。
『大丈夫ですよ。ケヴィンさんこそ、きちんと食事はとってます?』
『勿論だよ』
『久しぶりにお会いしたので色々と話したい事があるんですけれど、これから仕事が入ってて‥‥‥残念です』
『忙しいうちが華って、よく言うでしょう。僕もMr由良が活躍しているのを見ると嬉しくなるんだ』
『有難う御座います。それじゃぁ、ケヴィンさんに喜んでもらうためにもっともっと頑張らないといけませんね』
『でも、頑張りすぎはダメだよ』
『肝に銘じておきます。 今度、映画を撮る事になったんです。完成した暁にはケヴィンさんにもチケットをお送りしますね』
(きっと、あの時言っていた映画が狂乱の夜想曲なんだ‥‥‥)
ドライヤーを置いたケヴィンは、ふと背後に気配を感じて鏡越しに後ろを見た。 そこにはボンヤリとした顔で立ち尽くす少年の姿があり ――― ケヴィンの記憶が一瞬にして過去へと戻る。
こげ茶色の髪、華奢な体つき、人の良さそうな笑顔、いつも控えめで、頼りなさそうで、それでもヴァイオリンを弾く時だけは人が変わる。全てを圧倒するような存在感で、その場にいる全ての者を惹きこみ魅了する力強い音で、彼は人々を虜にしていた。
彼の奏でる音色を聞いた者は皆、暫し呼吸すら忘れる。瞬きすら忘れ、世界は一瞬にして凍りつく。 ケヴィンも何度か彼のヴァイオリンを聞く機会があった。
彼の作り出す世界は素晴らしかった。彼がテンポを変え、音色を変えるたびに聞いているこちらの感情も変化する。まるで感情を操られているかのような錯覚、普段は色々な柵で外に出すことの無い心の奥底に溜まった感情があふれ出すかのような幻。
世界の終わりに、ケヴィンは立ち上がって盛大な拍手を送った。それはケヴィンだけでなく、その場にいた誰もが立ち上がり、あらん限りの力で手を叩いていた。中には涙さえも浮かべている者もいた。
(あれは‥‥‥いつの事だっけ‥‥‥)
ズキリと頭が痛む。 あの感動的な世界が崩れ、今度は違う記憶が蘇る
寂しそうな表情の少年が、胸に手を当てると俯く。 全てを諦めてしまったかのような表情で、今にも泣き出しそうな表情で、ケヴィンは気になって声をかけた。
『光りが、消えたんです』
彼は確か、そう言った筈だ。それ以上のことは、何も言わなかった。 彼に会ったのはその時が最後だろうか? いや、違う‥‥‥もう一度だけ、彼とは会った。 ケヴィンの耳には、その時彼が言った言葉がこびり付いていた。
『またお会いすると思います。そして、もうそれ以上会うことはないでしょう。 再びの出会いまで、暫しの別れです』
彼の名前は、確か ――― 確か ―――
「ケヴィンさん?」
急速に記憶が遠退いて行き、現実の世界に戻ってくる。 鏡の中では心配そうな顔をした駿の姿があり、ケヴィンは振り返ると笑顔を作った。
「少し頭痛がしただけだよ、大丈夫。 そろそろ撮影の時間?」
「大丈夫ですか!? 薬とか、貰ってきましょうか?」
「大丈夫だよ。多分甘いものを30分ばかり食べてないからだと思うんだけど‥‥‥飴ならいくつも持ってきてるから、大丈夫」
「無理はしないで下さいね?」
「心配してくれて有難う、Mr水原。 すぐに行くってMr瀬川に伝えてくれる?」
「分かりました」
駿の背中を見つめながら、ケヴィンはふと妙な事に気が付いた。
(そう言えば僕、部屋の鍵って‥‥‥かけてたっけ?)
かけたような記憶があるが、鮮明ではない。 ケヴィンは一先ずその事は置いておき、あの少年の名前を思い出そうとした。
思い出そうとすればするほど、記憶には霧がかかって行く。名前の無い少年はついに顔すらも定かではなくなり、ケヴィンの中から少年の記憶だけが抜け落ちた。 ポッカリと開いた記憶の隙間の中、少年が最後に言った言葉だけが木霊していた。
いつしかその言葉すらも消え去り、悩んでいた事すらも消えて行った。 それは完全なる消失で、言い換えれば“あってはならない記憶”であった。
★ Noc-9 ★
出された紅茶に口をつけ、瑞貴は長い髪を背に払うと無邪気な笑顔で次から次に賞賛の言葉を向ける雛菊に微笑みかけた。
「雛菊さんにそこまで絶賛されると、嬉しい反面少し恥ずかしいですね」
「恥ずかしがっとけ瑞貴。 俺も読んだが、良さが少しも分からなかった」
「蓮様は瑞貴様の書くような繊細で優雅な本は向かないんですのよ」
「あら蓮、雛菊ちゃんに核心を突かれたわね」
「そう言うお前だって、瑞貴の書く本は良く分からないって言ってたじゃねぇか」
「だって、瑞貴さんの書く本は難しいんですもの。 ねぇ、アリスちゃん?」
「‥‥‥お恥ずかしながら、私もチンプンカンプンでした。 ごめんなさい、瑞貴さん」
「僕の本は読者を選んでしまいますから。むしろ、あそこまで褒められる雛菊さんが素晴らしいです」
「きっと、わたくしと瑞貴様はどこか感性が似ているのでしょうね」
嬉しそうにそう言いながら頬を染める雛菊を前に、白雪が顔を顰める。 それは小さな動きに過ぎなかったが、鏡夜には見られていたらしく、目が合った瞬間に不自然に逸らした。
「それで瑞貴様、今度はどんなお話をお書きになるんですの?」
「幻想小説に手を伸ばしてみようと思いまして‥‥‥」
「幻想小説!? わたくし、大好きですの。とても楽しみですわ‥‥‥」
「とある少女の話を書こうと思っているんです。 美しく優しく、まるで天使のような少女の話を」
瑞貴がゆっくりと立ち上がり、窓辺に近寄ると硝子に手を当てた。次から次へと雨水が叩きつけられては滑り落ちていく窓は、強風によってガタガタと音を立てながら揺れていた。
「この世には、永遠などありません。 終わりの時には、私達も等しく全ての存在がゼロの世界へと溶けてゆくのです」
瑞貴が色っぽい、それでいて狂気じみた微笑を浮かべ、集まった人々の顔を順番に見ていくと両手を広げた。 窓の外を稲光が鋭く横切り、瑞貴の顔を鮮明に浮かび上がらせる。
「きっと、逝き付く其処は安息の地。 全ての人は等しく幸せを享受出来る場所。 性別も人種も感情も思考も、愛も憎しみさえも全ては安息の地で皆等しく扱われる」
突然白雪の顔から血の気が失せ、クラリと上半身が傾く。
「姉様!? まぁ、お顔色が悪いわ! 瀬田!瀬田っ!!」
「昨晩遅くまで仕事をしていたせいかしら、気分が悪いわ‥‥‥」
「姉様、今日はもう寝た方が良いわ。お仕事なら、明日にでも出来るのでしょう?」
「白雪様、お立ちになれますか? 私がお運びいたしましょうか?」
「えぇ、大丈夫よ瀬田。一人で行けるわ。 雛菊、皆さんの事を任せるわ。 瀬田、夕食は7時頃にお出しして。私は今日は夕食はいらないわ」
「ダメよ姉様! ちゃんとお食べにならないからお体を悪くするんですよ! 瀬田、お粥は出来る?なるべく栄養のあるようなものを使って」
「そうですね、白雪様、お粥くらいなら食べられませんか?」
「‥‥‥そうね、お粥くらいなら‥‥‥。 皆さん、お先に失礼させていただきます。後のことは雛菊に任せてありますので、何なりとお申し付け下さい」
「お大事にね、白雪」
玲子の労わりの言葉に軽く頷き、よろめきながら部屋を出る。 ふらつく白雪の背中を見た後でアリスが心配そうに響夜に視線を向け、蓮がいつでも手を貸せるようにとソファーから少しだけ腰を浮かす。
「白雪さん」
今まさに部屋から出ようとする白雪を止めたのは、瑞貴だった。
「先ほど言ったような雰囲気のお話を書こうと思っているんです。 モデルはセレナさんで」
「‥‥‥貴方のお話を聞くに、あまり楽しそうなお話ではありませんけれど。 セレナをモデルに書くんでしたら、もっと明るいお話にしてくださいません?」
「そうですね、確かに明るく元気なセレナさんには合わないお話かも知れません。 けれど私は、どうしても書き進めようとするたびにセレナさんの顔が浮かぶんです」
「何故でしょうね。 もしかして瑞貴さん、セレナに何か深い思い入れがあるんじゃありません?」
「そうかも知れませんね。 けれど、ここにいる誰もがセレナさんに深い思い入れがある。あの歌声は、まさに天使です」
再び稲妻が光り、雷鳴が轟く。 誰もが俯いて何かを考え込んでいる中、瑞貴だけが誇らしげに顔を上げ、薄く微笑みながらポツリと低く言葉を吐いた。
「彼女がいなければ、彼女の言葉がなければ、果たしてここにいる何人の人が安息の地に旅立っていた事でしょう」
☆ All-10 ☆
時計が11時を告げる。 きっかり11回鳴った音に耳を向けながら、シュラインは窓に手を当てた。
窓の外は荒れ模様で、幾つもの水滴が叩きつけられては滑って行く。 風も強く、時折雷鳴すら轟いていた。
(まさか、本当に嵐になるなんて‥‥‥)
瑞貴の台詞に被せ、稲妻が光った時の事を思い出す。 完璧すぎるほどの背景は、自然の力以上の何かを感じる。
(でも、全くの偶然‥‥‥なのよね)
久遠も亮吾もランも、妖の気配はどこにもないと言っていた。3人が全く同じ言葉を口にしているのだから、信じても良いのだろう。
「シュライン、考え事か?」
「えぇ、少し‥‥‥」
武彦が煙草を咥えながらシュラインの隣に立ち、ライターで火をつける。
「何だか、出来すぎてるなと思って。‥‥‥色々と、あまりにも上手く行き過ぎてる気がするの」
「‥‥‥メイキングのテープを借りてきた。他の連中も見たいと言っていたが、明日も朝が早いから、途中までにしよう」
「えぇ、そうね。 それで武彦さん、前回の撮影テープは?」
「それが、確かに持ってきたはずなのにどこにも無いとスタッフが騒いでたんだ」
「全部のテープが?」
「あぁ。 ‥‥‥どう言う事なんだ‥‥‥」
「分からないわ。 今ここで、何が起こっているのかも‥‥‥」
*
真帆は持っていたペンを置くと、一通り回答を確認してからケヴィンに渡した。
ケヴィンが赤ペンで次から次に丸をつけていき、時折バツも入れながら最終的に点数を68と書き入れる。
「Ms樋口、基礎は出来てるけど、応用がまだまだだね」
「友達にもよく言われるんです。 基礎は出来てるのに、応用問題になると出来なくなるねって」
「基礎が出来てるんなら、これから幾らでも伸びますよね」
久遠の言葉に、ケヴィンが大きく頷く。 基礎が出来てさえいえば、その上に幾らでも積み重ねる事が出来る。
「久遠さんも英語が出来るんですか?」
「えぇ。イギリスに行く事が多いから」
「おー!一緒!僕もイギリスだよ」
同志を見つけたと言った様子でニコニコするケヴィンとは違い、久遠は取るべきリアクションに困って複雑な顔をしていた。
「英語は、暗記科目だって思っちゃうと辛いよね。 僕はあくまで言葉として、小説とか読んで勉強してるよ。勿論、辞書を引きながらだけど」
「そうですね、私も言葉を新しく覚える時はなるべく丸暗記はしないようにしてます」
駿とマリアにもそう言われ、真帆は溜息をつくと目を閉じた。
(勉強方法変えないとダメかなぁ‥‥‥)
「それにしても、マリアちゃんも駿君も凄いです。何でも出来て‥‥‥まるで菅野忠興さんみたいですね」
「菅野さんみたいな天才と比べられると、恥ずかしいな‥‥‥」
「そう言えば、菅野さんの設計した朝比奈邸について、不思議な事があるんですよね」
マリアのその言葉に、最初に反応したのは久遠だった。
「不思議なことって、どんなことなんですか?」
「朝比奈邸に住んでいたのは、朝比奈さんじゃなかったって言うんです。全然違う苗字の‥‥‥確か、大田さんだったかな‥‥‥」
「どうしてそんな事になったんでしょう‥‥‥」
「私もよくは知らないんですけど、なんでも菅野さんは設計当初からその建物を朝比奈邸と名付けていたようなんです」
「朝比奈さんと言う方が頼んで、何らかの理由で太田さんの手に渡ったと言うことではなくて?」
「えぇ。最初から、太田さんのためのお屋敷だったそうですよ」
「大田さんのためのお屋敷が朝比奈邸‥‥‥朝比奈って、苗字だと思っちゃってましたけど、何か違う事を示しているんでしょうか?」
「分からないわ‥‥‥」
考え込む久遠と真帆を他所に、ケヴィンはポケットに入っていたキャラメルを取り出すとその場にいる全員に配り、口に放り込んだ。
(どうやら、一筋縄じゃいかないみたいだね、この事件は‥‥‥)
*
途中から殆ど肉体労働と化していた亮吾は、痛む腕を押さえながら暗い廊下を歩いていた。 嵐が屋敷全体を揺らし、窓の外では木々が狂ったように踊っている。
(つ‥‥‥疲れたな‥‥‥)
今直ぐにでもベッドに入りたい気分だったが、メイキングのテープを見るまでは寝るわけにはいかない。 腕時計に視線を落とせば、時刻は既に11時半になっていた。
(こりゃ、寝るのは完璧に12時過ぎるな)
明日の朝、ちゃんと起きられるだろうか。 そんな心配をしながら歩いていると、前方にボウっと白い影が現れた。
咄嗟に身を構えたが、やって来たのは見知った顔だった。 稲妻が走り、一瞬廊下が明るくなる。長い髪をツインテールにした少女が眩しそうに目を細め、直ぐに廊下が暗くなる。
「どうしたんだマリア、もう寝るのか」
「うん、そう。 明日も早いからね」
「寝坊するなよ」
フワリとマリアが横を通り過ぎる。 お菓子のような甘い香りを纏ったマリアは、階段に足をかけると振り返った。
「そっちこそ、明日は寝坊しないでね」
「おう‥‥‥。 って言うかマリア、電気つけないと危ないだろ?」
マリアは亮吾の声が聞こえないのか、トントンと軽快に階段を上って行くと途中で立ち止まり、微笑んだ。
「大丈夫、転ばないよ」
稲妻が光り、マリアの姿が鮮明に浮かび上がる。 あまりの眩しさに目を瞑り、ゆっくりと開く。マリアの姿はすでにそこにはなかった。
マリアが消えた先の闇を見つめながら、亮吾は心に引っかかっている異物の正体を知ろうと頭を悩ませていた。
(何か今‥‥‥おかしな事が起きた気がする)
「何をやってるんだ鈴城?」
ビデオを片手に2階からランが降りてくる。 トントンと、確かめるような足取りで降りてくるランを見上げながら、亮吾は口を開いた。
「マリアに会わなかったか?」
「誰とも会わなかったが」
すれ違ってしまったのだろうか。 まぁ、そんな事もあるだろう。
(考えすぎだな、きっと)
疲れてるから色々と変な事にまで意識が向いてしまうのだろう。 そう思いながらランの後に続く。相変わらず雨の音はうるさく、風は狂ったように吹き荒れている。
「ランさん! 丁度今から呼びに行こうと思ってたんです」
「そうか。鈴城も連れてきたぞ」
たまたま会っただけじゃないかと心の中でツッコミを入れつつ、亮吾は目に痛いほどに眩しい部屋の中に入った。
「鈴城君もケヴィン先生に勉強教えてもらうんでしょう?」
「いや、今日はもう遅いし疲れ‥‥‥」
「何だ鈴城、マリアならここにいるじゃないか」
駿の隣に座り、久遠と何かを話していたマリアが顔を上げる。
「私はずっとここにいましたけど?」
その瞬間、亮吾の中にあった違和感の正体が分かった。
(喋り方だ‥‥‥)
廊下で会った時のマリアは、確か敬語を使ってはいなかった。
(でも、それなら‥‥‥あれは一体誰だったんだ‥‥‥?)
≪ to be continued‥‥‥ ≫
◇★◇★◇★ 登場人物 ★◇★◇★◇
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
6224 / ラン・ファー / 女性 / 18歳 / 斡旋業
7550 / 柊・久遠 / 女性 / 19歳 / 魔術師 / 狩人
6458 / 樋口・真帆 / 女性 / 17歳 / 高校生 / 見習い魔女
7266 / 鈴城・亮吾 / 男性 / 14歳 / 半分人間半分精霊の中学生
5826 / ケヴィン・トリックロンド / 男性 / 137歳 / 神聖都学園英語教諭 / 蟲使い
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