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<東京怪談ノベル(シングル)>


    犬に変化してゆく少女

 朝、まだ早いうちにふっと目が覚める。
 すっかり聞きなれた新聞配達のバイク、トイレに立つおばあさんが廊下を歩き、ドアを開閉する音。
 最近、そうしたものにひどく敏感だ。
 それと、におい。
 隣の家で淹れるコーヒーの香りが、居間で丸くなるみなもの元まで漂ってくる。
 おばあさんの線香の匂いも、家の中ならどこにいるかすぐに追えるくらいだ。
 ――何だか、犬みたい。
 毛布を敷かれた大きな犬用のベッドに横たわり、みなもは思った。
 しっかりと首輪をつけられ、細い手を投げ出してボールに触れる。
 犬として扱われることにはもう、慣れてしまった。
 ある日を境に、周囲から犬としてしか見られなくなってしまったのだ。
 自分は何も変わっていないのに、みなもに見える手足は全て人間のものなのに。
 こちらが何をしても何を言っても犬としてしか認識されない。かといって犬と話せるわけでもないのだ。
 一時はそれを悪夢に思っていたこともあった。
 だけど今は犬としての幸せに甘んじている。
 完全にとは言えないまでも、みなもは自分の現状を受け入れることができたのだった。


「最近、あまり好き嫌いしなくなったね」
 幼い少年がみなもの頭を撫でて、嬉しそうに言った。
 以前はあくまで人の食べ物にこだわっていたみなもだが、少しずつだがドッグフードなどを口にするようになってきた。
 いざ食してみると、それは以外とおいしかった。
 銀色の器に盛られた食事を、みなもはきっちり食べつくす。
 食事を終えると、おばあさんにブラッシングをしてもらう。
 少年が学校に行くのを見送って、新聞をとってくる。
 変わり映えのない、犬としての日常。
 だが、瞬間みなもはギクリとした。
 自分の手が、白い毛におおわれた犬のものに見えたからだ。
 もう一度見直すと、確かにそれは人間のものだった。
 すらりと細く白い肌をした、少女の腕。
 みなもは安堵のため息をつき、いくら犬として生活しているからといって自分でもそう思えてしまうなんて、と苦笑を浮かべた。
 どれだけ人間らしくふるまおうと他人からは犬にしか見えない中で。
 自分の目だけは、唯一真実を映すはずなのに……。


 しかしそれは、気のせいなどではなかった。
 散歩に出かけたとき、ふと水溜りを覗き込んだみなもは、その中に白い耳が生えているのを見た。
 嬉しいときや哀しいとき、その感情に応じて動く尻尾が備わっていることに気がついた。
 おばあさんに返事をするときの「はい」という言葉が、自身の耳に「ワン」と鳴き声になって聞こえたりもした。
 ――何なんだろう、これは。一体、何が起こっているの……?
 みなもには、さっぱりわけがわからなかった。
 何も変わっていないはずだった。
 少なくとも環境には何の変化もないはずだったのに。
 困惑しながらも、どうにもならない。
 元より、みなもの声はどこにも届かないのだ。
 犬にも、人にも。
「どうしたの、元気ないね」
 ふさぎこんでいると、少年が心配そうに頭を撫でる。
 言葉が通じないとはいえ、この飼い主はみなもの心の動きに敏感だった。
 表情というよりは、尾の振り方や仕草にそれが現れているのかもしれない。
「そぉだ、またダンナさんに来てもらおうか」
 ナイスアイデア、とばかりに手を叩く少年に、みなもは慌てて首を振る。
 大きな犬を撫でるのは楽しいし可愛いとも思うけど、自分の婚約者として連れて来られるのは困ってしまう。
 いくらなんでも、そこまで犬になりきることはできない。
 ――だけど。
 これから先、状況が変わる保障なんてない。
 ずっとこのまま、犬としてしか認識されないというのなら……いつか結婚する日が来たとして、その相手は人間ではなく犬なのかもしれない。
 みなもには、もうどうするべきかなどわからなかった。
 ただ、抗おうとしても抗いきれない運命という濁流の中で。
 静かに流された方がよいときもあるのだと知っていた。


 首を振って否定したにも関わらず、大きなグレートピレニーズはやってきた。
 みなもになついてくるので、とりあえず頭を撫でてやる。
『気持ちいい』
 一瞬、そんな言葉が頭に響いて、びっくりしてしまう。
 耳から聞こえてきた音じゃない。だけどそれは確かに『言葉』だった。
「……今、あなた何か言った?」
 みなもは、恐る恐る大きな犬に声をかける。
『気持ちいい。好き。いい匂い、可愛い』
 率直な感情を羅列したような言い方だった。
 だけど、それは明らかに目を細めたグレートピレニーズのものだとわかる。
 ――どうして? 今まで、犬の気持ちがわかるなんてこと、なかったのに……。
 そう思った瞬間、サッ、と目の前の風景が崩れていく。
 正確には風景ではなく、その色合いだ。
 全体的にかすみがかったような感じになって、青に黄色、紫などで世界が構成される。
 目の前の犬がつけていたはずの赤い首輪も、その色彩を失っていた。
 ――そういえば、聞いたことがある。
 元々犬は色盲だと言われていたけど、最近では青や黄色、紫などの違いは判別できると解明されたのだと。
 ――じゃあ、これは、犬の目で見た世界?
 みなもは恐怖のあまり、声をあげて両手で顔をおおった。
 だが頬に触れた手は、人のものではなかった。
 白く長い毛と、やわらかな肉球。
 ――なに、これ。
 あたしは一体どこにいったの。
 人間の、海原 みなもは……。
 みなもは勢いよく駆け出し、洗面台に両手をついた。
 そこにいたのは、大きな白い犬。
 ぺたんと床に座り込んだ瞬間、その目の高さもすでに人間のものではないことに気がつく。
 一体、何が起こっているの?
 みなもは呆然としていた。
 いきなり人から犬扱いされたときも同じように戸惑っていた。
 それでも、自分に見える世界は今までと変わらず、自分が人間であることを疑ったことなんてなかった。
 なのに、今は……。
 みなもはわけもわからぬまま、必死になって理由を探した。
 犬に見えるようになった理由だってわからないままなのだから、この変化にも理由なんてないのだろうか。
 だが、一つの答えに行き着いた。
 そう……自分が犬であってもよいのだと認めた瞬間。
 変化はそのときから訪れていたのだ。
 唯一人、自分が人間であると認識していたみなも。
 その認識を、自ら揺るがせてしまったから。
 誰にも認識されない人間としてのみなもを、自ら手放してしまったから……。
 ――それとも、元々夢だったのだろうか。
 自分が人間だったなんて、ありもしないことを現実のように思い込んでいただけだったのか……。
 頭にモヤがかかったようで記憶が定かではない。
 みなもは自分の人間だった頃の記憶が、思い出さぬうちにゆっくりと蝕まれていっていたことにようやく気づいた。
 気づいたけれど、それすらすぐに形をなくしていってしまう。

 この先も、犬として生きてゆくために……。