コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


あなたと、初めて会った夜

 あなたと初めて出会った夜……
 あなたと、初めて話した夜……
 私が……
 初めて、人の情を知った、夜……

 ■■■ ■■■

 ――どうしたんだろう――
 頭が、ぼーっとする。
 私は……一体どうしたんだろう……
 ここはどこ? 何も見えない。
 否――
 私は……誰……?

 私……私は、黒咲……や、よ、い……

 名前を覚えていたのは、奇跡的だったかもしれない。
 今の彼女の意識は何もかもが混濁していて、渦巻く暗黒のようで、その中にぽっかりと自分の名前だけが浮かんでいる。

 黒、咲、夜、宵。

 ――私は、どうしたんだろう――
 なぜ、目の前はこんなにも気持ちが悪く渦巻いて、
 なぜ、胸はこんなにも苦しくて、
 なぜ、体は沈んでいきそうなほど重くて、
 なぜ、頭はぼんやりとして、
 ――一体、どうしてしまったというのだろう――

「おい、お前」

 だから、意識の端に入り込んできた異質なものにもしばらくは気づかなかった。
「お前。生きているのか、おい」
 ――生きて? 生きている……?
 これはなに?
 今、私の身に起こっていることはなに……?
「呼吸はある……仕方ないな」
 ふっと、体に浮力がかかった。
 何をされたのか、今の彼女には理解できる範疇の出来事ではなかった。彼女の意識は混濁したままだったからだ。
 意識の端に混じりこんできた異質なものも、渦巻く闇に呑みこまれてしまったほどに。
 体にかかった浮力さえ、次の瞬間には忘れてしまったほどに。
「大人しくしていてくれよ。落としたらしゃれにならん」
 ――大人しく――
 理解できたわけではなかった。だが、彼女の体はそうした。なぜなら、そうするしか他に今の彼女の体に出来ることはなかったから。

 彼女を取り巻いていた暗黒は、幸いなことに永遠ではなかった。
 徐々に明るさを取り戻していった世界に――彼女はまぶしく目を細める。
 頭は相変わらずぼんやりしている。
 気持ちの悪い混濁こそ消えていったけれど、物事を理解する力はまだなかった。
 だから、口に何かを流し込まれてもそれが何か分からないまま飲みこんだし、額に冷たい何かを乗せられてもなんだか分からなかった。
 いや――
 なぜか、ひとつだけ分かったことがあった。

 自分は、介抱されている……

 なぜそれだけ分かったのか、彼女には知る由もなかったが――
 ひょっとすると、と後に彼女は思う。
 それが、初めての経験だったからかもしれない――と。

 ■■■ ■■■

 はっきりと目を開けることができるようになるまで、一体どれくらいかかったのだろうか――?
「三日だ」
 と、彼は教えてくれた。
 そう、彼は教えてくれた。
「四日目ではっきりお前も返事をしたからな……回復までに三日だ」
 そう言って、彼は苦笑した。
「なあ、黒咲」
 ――夜宵はまだどこかぼんやりした頭のまま、自分の傍らに立つ男を見やる。
 三十より少し手前ほどの年齢の男性だ。室内だというのにサングラスをかけている。
 ようやく声が出るようになった口で、夜宵は言葉を紡ぐ。
「何で、私の名前を……?」
「だから、お前が初めて返事らしい返事をしたとき、お前は自分の名前を名乗ったんだよ」
「………」
「俺も名乗ったぞ。覚えているか?」
 覚えていなかった。夜宵はゆっくりと重い頭を振る。
 それは予想の範疇だったのだろう。男は何を気にするでもなく、
「俺は草間武彦だ。……草間興信所の所長だ」
 と言った。
「草間……武彦……」
「草間でいい」
「草間……さん」
 夜宵はその名を繰り返す。
 聞いたことのない名だった。いや、一度自己紹介されているとしても、それでも聞いたことのない名だった。
 草間興信所。そんなところあっただろうか。
 小さな場所だということだろうか。それとも。
 夜宵もまだまだ、世間知らずということだろうか――
 草間は両手をズボンのポケットにつっこんだまま、夜宵の顔を見下ろしていた。――夜宵はようやく気づいた。自分は寝かされているのだ。
「ここは俺の事務所の中、ちなみに妹の部屋だ。妹に感謝してくれ――お前は、俺の事務所の前でぶっ倒れてた」
「倒れて……?」
「今も倒れているがな。……だいぶ意識が混濁していたようだな。外傷はなかったようだが、お前、原因は分かっているのか?」
 原因を理解しているのか――と、そう聞こえた。
「ええと……」
 考えようとした。しかし、頭がぼんやりしすぎていて何がなんだか分からない。
 それをすぐに察してくれたらしい、草間は嘆息して、
「分かった、まだ考えなくていい。しばらく養生しろ」
 とぽんぽんと額を叩いた。
 額は冷たかった。――冷たいタオルが乗せられているのだ。
 草間はそのまま身を翻そうとした。
 夜宵の口は急いで、その言葉を紡ごうとしていた――滅多に、口にしない言葉を。
「ありが、とう……」

 その次の日、夜宵の意識はかなりはっきりしてきた。
 横になっているのは性に合わないので、無理やり上体を起こしているところに、草間が入ってきた。
「おい。もう起きて大丈夫なのか」
「……うん……」
 半分の嘘。半分の本当。
 草間はコップを手にしていた。2つ。
「なら、まあ。無駄にならなくて済んだな」
 とコップの1つを夜宵に差し出してくる。
 中身は牛乳だった。草間の方は、香りで分かる。コーヒーだ。
 夜宵は牛乳に口をつける。冷たい潤いが喉を通って胃に落ち、ひんやりと内側から夜宵を落ち着かせてくれる。
 改めて、草間武彦を見やる。
 椅子を引っ張ってきて夜宵のベッド――本来なら彼の妹のベッド――の傍らに座り、足を組んだ彼。
 夜宵はおずおずと言った。
「ありがとう……助けてくれて」
「礼ならもう聞いた」
 言って、草間はコーヒーを飲む。
 夜宵は牛乳の白い面を見下ろしながら、
「考えたんだけど……」
「ん?」
「私……術者なんだ。倒れたのは……年に一度力が弱まる日に、強力な術を使ったからだと思う」
 言ってから、警戒した。術者という言葉に、草間はどう反応するか――
 しかし草間は、
「なるほどな」
 と簡潔すぎる言葉だけを口にして、再びコーヒーカップをかたむけた。
 夜宵は警戒心を解かずに、問うた。
「……驚かないの?」
「何にだ?」
「……術者、とか……」
「今さら。この東京でか?」
 魔の都市東京。
 悪鬼精霊神天使。何でもかんでもが闊歩する時代。
「……あなたも、術者?」
 夜宵は尋ねる。草間は首を横に振った。
「俺は臆病なただの人間だ。逃げるぐらいしか能はないな」
「………」
 草間さん、と夜宵は胸に刻まれたその名を呼んだ。
「何だ」
「あの……何かお礼を……」
 夜宵は少し考えて、
「いくら……ほしいですか……」
 草間が目をぱちくりさせる。夜宵はそれを、"彼はお金では不満"ととった。
「お金じゃだめなら……じゃあ、誰か、殺してほしい人……とか……呪ってほしい……人とか……いたら……私が代わりに……」
 夜宵の術とは、つまりそういう系統の術だった。暗殺術に長け、呪いを得意とし、呪殺ときたらもう得手中の得手である。
 事実、彼女が今回倒れてしまったのは強力な呪術を使ったからだった。そう言えばあの術は成功したか……まだ確認していないな、などとふと思い出す。
 けれど今は、目の前の男の方が重要だ。
 草間は――引きつった顔をしていた。
「あ、あのな。俺には殺してほしいやつも呪ってほしいやつもいないから――そんなことは考えなくていい」
「……そうですか……」
 夜宵はがっかりする。自分の力が役に立てばと思ったのに。
「他には……えと……えと……」
 生真面目なほどに真剣に、夜宵は草間に必死な目を向ける。
「……私の、体、でも……」
 草間が椅子ごとひっくり返った。
 夜宵は、何もないところでひっくり返る人を――呪われてもいないのにひっくり返る人を、初めて見た。
「……あの……」
 大丈夫ですか……と声をかけると、ははは……と乾いた声が返ってきた。
「お前な……とんでもないことばかり言い出すんじゃない……」
「だって……」
 自分にできることなんて、他に……
 暗い顔になる夜宵に、立ち直った草間はぽんぽんと頭を撫でる。
「無理して礼をしようなんて考えるな」
「……だって、恩返し、したい……」
「気にするな、お前を助けたのはこっちの気まぐれだ」
「でも……!」
 口調に力をこめて、夜宵は狂おしいほどに声を上げる。
「でも……!」
「落ち着け。話はいくらでも聞いてやる」
「でも……草間さん……」
 夜宵は頭に載せられた草間の手にぬくもりを感じながら、ぽつり、ぽつりと言葉をこぼしていく。
「嬉しかったんです……。私、誰かに助けられたことって、無かったから」
「そうか」
「……ありがとう、草間さん」
「ああ、その言葉は受け取っておいてやる」
 頭の上の手が、くしゃりと夜宵の黒髪を乱す。
「それ以上は、俺は欲しいとは思わん。……だからゆっくり休んで元気になって、ここから出て行って自分の帰るべき場所へ帰ることが俺への礼だと思え」
 帰るべき場所?
 そんなものはあっただろうか、と夜宵は思う。
 けれど、けれどなぜか――
 草間に言われると、それはとても暖かい言葉に思えた。
 夜宵はうなずいた。小さく、こくりと。
 草間が微笑んで――すっと夜宵の髪を指ですいた。

 ■■■ ■■■

 それからさらに2日経ち。
 草間が仕事から帰ってきた頃には、夜宵はもう出て行く準備を済ませていた。
「ああ。出て行くのか」
 草間は両足で立つ夜宵を頼もしそうに見る。
「はい。お世話になりました」
 夜宵はお辞儀をし、メモを取り出した。
「……これ、私の携帯の番号。何か困った事とか、手伝いが要ることがあったら、電話してください。すぐに駆けつけるから」
 私を呼んで――
 それは、夜宵の願いでもあった。
 お願い、私を呼んで。私を使ってください。
 草間はメモを受け取り、夜宵の目の前で自分の財布にしまった。
「頼もしい味方が増えたもんだ。……そのときは厚意に甘えることにするよ」
「はい、いつでも……」
 いつでも。
 あなたの味方です。
 あなたは私の恩人だから。
 ――私を助けてくれた人だから。
 だからあなたが呼ぶのなら、いつだって駆けつけてみせましょう。
 あなたが求めるのなら、いつだって応じてみせましょう。

 世話になった草間興信所に別れを告げた、それは夜宵が15歳のときの出来事。
 夜宵が草間武彦という人物に出会ったそれは、偶然だったのか運命だったのか。それは夜宵にも分からない――


 <了>


ライター通信-------------
初めまして、笠城夢斗と申します。
このたびはシチュノベをありがとうございました!お届けが大変遅れまして申し訳ございません。
セリフは大分改変させていただきましたが、大丈夫でしたでしょうか。
喜んでいただけましたら嬉しいです。
よろしければまたお会いできますよう……