コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


花の棺



 祖母の『予言』通りに母は亡くなった、と少女は言った。

 そして祖母は、孫娘にも「お前は17歳の誕生日を迎えられずに死ぬ」と宣告してこの世を去った。
 物心ついた頃から、死ぬ日の事ばかり考えていたのだと彼女は言う。避けられぬ死をどう迎えるか、延々悩み続けたと。
 少女は、そう訥々と自分の身の上を語り、碧摩蓮に対して棺を注文した。
「木製の、綺麗なアンティーク調の棺に入って、大好きなお花をたくさん詰めてもらって、静かに眠りたいんです」
 まるで、明日の遠足には好きなお菓子を持っていくのだ、という口調で少女は語る。しかし、その目は焦点が定まらず、正気を失いかけてでもいるかのような危うさを感じさせた。
 少女の骨ばった手の中の封筒には、それなりの金額が入っているらしい。聞けば子供の頃から、自分の棺を買うお金を貯めていたのだと答える。
 蓮は深々と嘆息した。ご注文とあらば棺の一つや二つ、簡単に調達できる。だが、まだ人生の何たるかを知りもしない小娘が、当たり前のような顔をして自分の棺を注文するのには、どうにも納得がいかなかった。
 少女の誕生日まで、残り一ヶ月を切っていた。早く棺を用意してほしいと頼み込む少女を説き伏せ、一旦家に帰し、蓮は愛用の煙管をふかしながら呟いた。
「さて、どうしたもんかねえ……」





 不慮の死だったと思う。
 なのにその表情は、死してなお周りの者の心を和ませるほどに穏やかだ。
 陸玖翠の傍らで、彼の体はゆっくりと熱を失っていく。

 彼の命を取り戻すのは、翠にとって不可能ごとではなかった。
 そうしなかったのは、それが本人の遺志だったからだ。

 かけがえのない友人だった。
 本当なら、どうにかして彼をこの世に繋ぎ止めておきたかった。
 たとえそれが、彼に対する裏切りになるのだとしても。

 だが結局のところ、翠は友人の遺志を守った。
 何故なら、翠は知っていたからだ。

 彼が、既に満ち足りていたことを。





 蓮はいらいらと指で机を叩きながら、同じ言葉をもう一度繰り返す。
「だから、せめて会うだけでも会ってみてもらいたいんだよ。会ったあと、どうするのかはあんた次第さ」
「その必要はないだろう。依頼人は自分の死を受け入れているのだからな」
 答える翠の声は、素っ気ないのを通り越して冷淡ですらあった。蓮は溜息を落とす。
 この友人の腰の重さは重々承知していたが、ここまで頑に頼みを聞いてくれないのは珍しかった。いつもなら友人のよしみで、話くらいはそれなりに聞いてくれるというのに。
「棺を注文したからって、あの子が本当に死にたいと思ってるとは限らないだろ?」
「棺を注文することによって、誰かが引き止めたり助けたりする事を望んでいると言いたい訳か? 随分と婉曲なSOSだな」
 気のない様子で答えて、翠は立ち上がろうとする。蓮はそれを引き止めるべく声を上げた。
「待ちなよ。あんた、身近で子供が死ぬかもしれないって時に、あっさり無視を決め込む気かい?」
「……蓮、私はおまえのように優しくない。だから死にたい奴をどうこうしてまで生かすつもりは毛頭ない」
「だーかーら!」
 蓮は机をひっくり返す勢いで立ち上がる。
「見捨てるのは、依頼人が本当に死にたがっているかどうか確認してからでも遅くないだろ!? せめて会うだけ会って、話を聞いてくれって言ってるのに!」
「どうしてそこまで肩入れする必要がある? おまえにすれば、棺が売れればそれで問題なしではないのか?」
「翠」
 このままでは埒が開かない。蓮は唐突に話を変えた。
「あんた、予言って信じるかい?」
「信じない」
 それが何か? と問うような翠の目を見つめ返し、蓮は言う。
「あたしもだよ。そんな嘘か本当か分からないあやふやなモンに、自分の人生の行く末を勝手に決められてたまるかって思うのさ。あんただってそうだろ?」
 翠が軽く頷いた。蓮は身を乗り出す。
「もしもあたしがあの子の立場で、もう死んじまいたいと思ってるなら、予言の日よりも先に死んでやるね。誰かの言葉に操られるなんて癪に障るからさ。なのにあの子は期日を待ってる。まるで、他に方法がないって思い込んでるみたいに」
 蓮は、自らを葬る準備を淡々と進める少女の顔を思い出していた。
 落ち着いた声音、どこか悟りきったような口調。凍てついた表情。その下に隠れた、静かで密やかな狂気。
 ──誰かに似ている、と思った。
 知り合った当時の翠に似ているのだと気付いた瞬間、蓮は受話器を掴んで彼女を店に呼びつけていた。
「本当なら抗える運命でも、本人が諦めちまったらおしまいさ。誰にも助けられやしない。でも、もしもあの子が単に、諦めざるを得ない心境に追い込まれてるだけだとしたら?」
 誰かが力添えをしてやるべきだと、蓮は強く主張した。翠は面倒くさそうに口を開く。
「その前に質問に答えろ、蓮。どうしておまえはそんなに、今回の依頼人に思い入れているのだ?」
 蓮が返答に詰まった時、ドアベルが鳴った。見るとドアの傍らに、息を切らせた少年が立っていた。
「あの、俺は神名という者ですが……、妹が注文した棺の、キャンセルをお願いできますか?」
 翠が微かに目を細め、ゆっくりと少年を振り返った。



 蓮は少年に椅子を勧め、冷たい飲み物でも振る舞おうとした。彼は恐縮しきりにそれを固辞し、改めて名乗る。
「俺は神名有理の兄で、勇人と言います」
 勇人は快活そうな少年だった。白い歯を見せて、人懐っこい笑みを浮かべる。
「有理の誕生日がもうすぐなんで、何かプレゼントでも買ってやろうと思ったんですけど、有理の奴、欲しい物を訊いても答えないんです。様子が変だと思って問い詰めたら、『自分は誕生日までに死ぬから要らない』だなんて言い出して……びっくりしました。おまけに自分用の棺も準備したなんて言い出すから、慌ててこちらまでお邪魔した次第です」
 お騒がせしました、と言って、勇人は礼儀正しく頭を下げた。
「本当なのかい、婆さんの予言云々ってのは」
 蓮が問うと、勇人は困惑しながらも笑って見せる。
「予言だなんて言うと大袈裟ですね。祖母が、亡くなる直前に訳の分からない事を口走ったのは本当です」
「その話、詳しく聞かせちゃ貰えないかねえ。こちらも商売だ。発注済の品をキャンセルするってんなら、それなりの説明をして貰わないと」
 売るつもりなどなかったのではないのか、と言いたげな表情の翠が、蓮の顔に視線を注ぐ。蓮はそれに気付かないふりでやり過ごした。
 勇人は記憶を探るように視線を彷徨わせる。
「祖母が亡くなったのは……十二年程前の事です。当時、有理は四つ、俺は十歳でした。祖母は原因不明の病気で倒れて、そのまま……」
 おや、と蓮は思った。となると勇人は成人しているらしい。だが、彼には少年特有の青さと爽やかさが色濃く、真面目な話の最中なのに微笑ましい気分になってしまう。
「その婆さん、本当にあんたの母親と妹が何歳までに死ぬ、なんて言い切ったのかい?」
 唸り声を上げて、勇人は腕組みをした。暫し考え込んだあと、彼は慎重に口を開く。
「いえ、そういう感じじゃありませんでした。確か……、このままだと母も有理も死んでしまうとか、そんな感じの事を言っていたように思います。いつまでに、という言い方はしてなかったんじゃないかな」
 勇人は一旦言葉を切り、独り言のように呟いた。
「……なのにどうして有理は、『十七歳の誕生日までに死ぬ』なんていう言い方をしたんだろう……?」
 不思議そうに言ってから、彼は困ったように頭を掻く。
「実は、あの時はとにかくバタついてて、俺も祖母の言動の全部をはっきりとは記憶してないんです。ただ、祖母が叔父と……口論と言うか、何か言い争っていたのはよく覚えてます」
「どんな風に?」
「えっと、コトアゲを取り消せ、とか何とか……」
 その言葉に、ようやく翠が反応を見せた。蓮は翠の様子を横目で見ながら、更に勇人に問いかける。
「コトアゲってのは何だい?」
「さあ、そこまでは……。ただ、祖母の言葉に伯父が動揺していたのは、子供だった俺の目から見ても明らかでした。コトアゲというのは何の事だと、うちの両親や親戚達も叔父を問い詰めましたが、そらとぼけるばかりで返答はなかったように思います」
「叔父上は今、どうしておられるのです?」
 初めて翠が質問を投げかけた。それに内心でほくそ笑みながら、蓮は勇人の顔を見る。彼は苦虫を噛み潰したような表情になって首を横に振った。
「叔父はいわゆる鼻つまみ者というやつです。自分は長男だからって、家業を継いで悠々自適の生活を送る算段をしていたみたいですけど、祖父も祖母も叔父のぐうたらな性格を熟知していましたから、叔父に継がせたら廃業の憂き目を見ると思ったんでしょう、娘──つまり俺と有理の母親に家業を継がせたんです」
「それにヘソを曲げて、世を拗ねたってとこかい?」
 ちょっと身を竦め、勇人は極まり悪そうに頷いた。
「お恥ずかしい限りです。毎日飲んだくれて、周りの人間に金の無心ばかりしてます。おまけに母の葬儀で不躾な振る舞いをしたものですから、親戚一同から縁切りを言い渡される始末でした。それでも性懲りなくうちに上がりこんできて、勝手に財布の中身をくすねていくような有様ですけど」
「不躾な振る舞いとは、どのようなものです?」
 どうやら翠は重い腰を上げかけているらしい。しめしめとばかりに蓮は一歩引いて、二人のやりとりを見守る事にした。
 翠の問いかけに、勇人は渋い顔になる。そしてそのまま、気のない万歳をして見せた。
「『邪魔な姉貴は死んだ! これで俺がこの家を継ぐんだ!』 ……母親に死なれて泣いている有理の前で、あの男はそう言って万歳したんです」
 正気の沙汰ではない。呆れ返る蓮をよそに、翠が問う。
「母君の死亡時期と死因は?」
「六年前に……事故で、です。事件性があるという事で、警察が詳しく調べてくれたんですけど、最終的には単なる事故という形で処理されました」
 捜査されたにも関らず何も出てこないという事は、叔父が直接手を下したわけではないらしい。となると呪殺だろうか。これはますます翠の管轄なのではないかと、蓮は彼女の表情をうかがい見た。翠は相変わらずの無表情だったが、彼女がこの件に興味を抱き始めているのが蓮には分かる。
「ところで、有理殿は自分の死を望んでおられるのですか?」
「まさか。そんな筈ありません」
 勇人はすぐさま否定したが、翠は冷たく問いかける。
「何故、貴方に分かるのです?」
「有理は以前、俺に誓ってくれたからです。……生きる、って」
 翠を睨み据えるようにして勇人は答えた。翠は軽く溜息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「その言葉が本当ならば、私は有理殿をお助けします」
 そして貴方を、と翠は言った。その言葉を怪訝に思う蓮の前で、勇人は何に対してか、感じ入ったように深々と頭を下げた。



 勇人に案内され、翠と蓮は神名家に赴いた。どうぞ中へ、と勇人が招くのに、翠は表札を眺めたまま立ち尽くしていた。
「どうかしたのかい? 翠」
「いや。……勇人殿、ひとつお伺いしたいのですが、貴方のご先祖に、呪いを生業とする方はおられませんでしたか?」
 突飛な質問に、勇人は一瞬きょとんとしたが、すぐに思い出したように答えた。
「どうしてご存知なんですか? 確かにうちの曾祖父は、呪い師みたいな事をやっていたらしいです。と言っても、俺も詳しくは知らないんですけど」
 翠は一人、納得したように頷いて神名家に足を踏み入れた。蓮は小首を傾げながらそのあとに続く。
 二人を有理の部屋まで案内しようとしていた勇人が、廊下の曲がり角でふと足を止めた。どうしたのかと問おうとする蓮を制し、彼は小声で囁いた。
「……叔父の声がします。また勝手にうちに上がりこんでるみたいです」
「それは好都合」
 翠が低く呟き、勇人を追い越して廊下を進む。声の主がいるのはどうやら居間のようだ。翠はその戸口に猫のように足音もなく忍び寄って、中の様子をうかがう。蓮と勇人もそれに続いた。
「あと二週間だなあ、有理」
 酒に酔ってでもいるのか、呂律の回らない男の声が聞こえてきた。それに対する有理の返答はなく、ただ微かに唸るような声が聞こえた。
「俺はな、この家の長男だ。正当な跡継ぎだ。なのにそれを、お前の母親が横取りしやがった。ジジイもババアも、よってたかって俺をコケにしやがって……」
 まるで独り言のごとく、男はぶつぶつと呟いている。有理が一言も発しないのを不思議に思い、蓮はそっと居間を覗き込んだ。
 有理は籐製のソファに横たわって眠っている。男はソファの背を掴み、有理の顔を覗き込んで何かを囁いていた。
「俺がお前らに全てを奪われたのは十七歳の時だ。だからお前も、十七まで生かしてやるものか」
 有理の耳に呪詛の言葉を注ぎ込まんとするかのように、男は言った。悪夢にうなされているのか、有理が苦しげに呻く。
 勇人が拳を握りしめて居間に踏み込もうとしたのを、翠が遮った。
「有理、お前も死ぬんだ。十七の誕生日を迎えずにな。お前らは俺を半分殺したようなものなんだから、これは当然の報いなんだぞ……」
 勝手な理屈だ、と蓮は心の中で毒づいた。逆恨みにも程がある。この男の言葉に頷いてやる事など、蓮にはできなかった。
 隣の翠はと見ると、いつもながらの無表情で男の言葉を聞いていた。その顔には嫌悪感の片鱗すら浮かんでいなかったが、彼女を取り巻く空気はどこかうそ寒い。
 勇人は唇を噛み、わなわなと拳を震わせていた。翠が諌めるように、彼の肩を軽く叩く。そうして二人を置いて、すたすたと居間の中に入っていってしまった。
 呆気に取られる蓮と勇人をよそに、翠は平然と言った。
「こんにちは。玄関で声をおかけしたのですが、返答がありませんでしたので勝手に上がらせて頂きました」
 突然の来訪者に驚き、男はソファの背を突き放すようにして有理から離れる。
「誰だ、てめえ」
「棺屋です」
 商売人の愛想笑いすらないまま、翠はさらりとそう言い放つ。男は一瞬、呆けたような顔をしたが、すぐに得心がいったように頷いた。
「ははあ、さては有理の奴が死期を悟って、自分の葬式を出す準備をしてるって事か。殊勝な心がけじゃねえか」
「いいえ。私がお持ちしたのは貴方の棺です」
 翠は言って、男に一歩詰め寄る。彼女が細身の女性で、しかも丸腰だからか、男は怖気づきもせずに鼻で笑った。
「何言ってやがる。寝言なんぞほざいてねえで、棺でも何でも置いてとっとと帰るんだな」
「寝言? いいえ、私の言葉は全て『真実』です」
 翠の声は静かだったが、そこには刃のような鋭さが潜んでいた。蓮は固唾を呑んで二人のやりとりを聞く。
「言霊使い・神名の家に生まれ、式を打つだけの能力に恵まれながら、それを正しく理解しないばかりか、誤った使い方しかできない愚か者。……私は今日、貴方が、棺という名の檻に封じられるのを見届けに参ったのですよ」
 どうして翠が神名家の表札を見てあんな反応を示したのか、蓮はようやく納得した。有理も勇人も、そしてどうやらあの男も、その筋では有名な呪い師──言霊使いの血を引いているのだろう。
 男が有理に向かって囁きかけていた言葉を思い出せば、彼女がどうして「自分は十七の誕生日を迎えずに死ぬ」などと口走り始めたのかも理解できた。有理は、実の叔父の言霊に操られ、死へと導かれていたのだ。──自分の意思に反して。
「封じるだと? 馬鹿な事を。俺が一体何をしたってんだ? 証拠でもあるのか?」
 男は嘲笑を浮かべて翠を見る。翠は男の舐めた口振りに怒るでもなく淡々と答えた。
「六年前の事故。貴方は『言挙げ』によって、自分にとって邪魔な者を死に追いやった」
 翠の口から『言挙げ』という言葉が出た途端、男は僅かに怯む様子を見せた。だが、すぐに勢い込んで噛み付いてくる。
「何だそのコトアゲとかいうのは。俺が何をやったって? そりゃ、姉貴やその子供を邪魔に思って呪いの言葉を吐いた事くらいはあるさ。だがそれがどうした? 最近の警察は、呪いをかけたくらいで人を犯人扱いできる訳か?」
 ふざけるなと、唾を吐く勢いで男は言い捨てた。翠は平然と答える。
「司直は貴方を裁けない。──ですが、貴方は裁かれる。言霊を私利私欲で行使した者は、言霊によって滅ぼされるが道理なのですから」
「やれるもんならやってみな」
 男は翠の言葉を嘲笑う。翠の声が、僅かに低くなった。
「貴方の母君は、貴方に命じた筈です。『言挙げを取り消せ』と。そこで母君の忠告を聞き入れていれば、貴方もこんな目には遭わずに済んだものを」
 何か不穏な気配を感じたのか、男が気圧されたように身じろぎする。
「言霊を自在に操る能力を持った者が、強い意志を持って己の思いを口にすれば、それは『言挙げ』となり、途端に真実へと変わる。──しかし『言挙げ』は、放つ者に悪しき心があれば、返す刃となって術者を滅ぼす筈。なのに貴方がそうして生きていられるのは……」
 翠の白い指先が、男の鼻先につきつけられた。
「貴方自身が、己を半分『死んでいる』と定義付けているから、ですね? ……死んでいるものは殺せない。従って、貴方の放った『言挙げ』が悪しきものでも、言霊は貴方を傷つけられなかった」
 男は首を横に振った。それは否定の為か、それとも怯えの為か。
「──『言挙げ』の証拠があるのか、と貴方は私に問いましたね? では、お答えしましょう。証拠ならあります。……近頃の棺屋は、少しばかり陰陽道をかじっております故」
 「少しばかり」とは謙遜したものだと蓮は思う。翠が行使する陰陽の術は、我流が主とはいえ、彼女は正統派の陰陽道もこなす。そして陰陽師の中には、呪符なしに言葉だけで式を打つ者もあるという。
「私は今から、『貴方は生きている』という言霊を放ちます。もしも悪しき言挙げを行っていれば、貴方が過去に放った言霊は、たちまち術者──貴方を襲うでしょう。悪しき言挙げがなければ、私の放った言霊は、何の力も持たないただの言葉と化すだけ。……これなら立派な証拠たりえる筈。異存は……ありませんね?」
「い、いいだろう、やってみろよ」
 男は頷き、不遜に笑う。
「言霊だのなんだのと馬鹿馬鹿しい。そんなもの、俺には絶対に効きゃしねえんだからな」
 最後の言葉に力を込めて男は言った。おそらく言霊を放ったのだろうと蓮は推測する。
「では試してみましょう。──貴方は、生きている」
 翠もまた、言葉に力を込めるように重々しく言い放った。
 蓮は男を注視したが、何の変化も見えない。
「へっ、見ろよ。やっぱり何も起こらねえじゃねえか」
 勝ち誇ったように男は笑う。翠は微かに小首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「へ?」
 男がどこか間の抜けた声を上げた。その瞬間、みしりと空気が圧縮されるような音がした。
 潰れた蛙のような声を上げて、男がよろめく。その姿が瞬く間に、見えない力によって二つ折りにされた。思わず息を飲む蓮の前で、男は幾重にも折り畳まれていく。苦しげな声を上げながら。
 まるで悪趣味な折り紙を見ているかのようだった。
 やがて男の姿は、一枚の薄い紙になった。何も書かれていない真っ白な紙だ。それを摘み上げ、翠はぽつりと呟いた。
「これが、悪しき言挙げの報い──か」
「ちょっと翠、今のは……」
 何だと蓮が問おうとした時、有理が唐突に跳ね起きた。彼女は辺りを見回し、見知らぬ女性──翠を見てきょとんとする。
「神名有理殿ですね。私は、貴方の兄だと名乗る人物に招かれてこちらへお邪魔しました」
「兄……ですか?」
 汗で額に張り付いた前髪を梳きながら、有理は困惑したように答える。
「私の兄は、六年前に亡くなりましたけど……」
 その答えに、蓮は驚いて後ろを振り返った。
 さっきまでそこにいたはずの少年の姿は、どこにもなかった。



 六年前の事故で、有理は母と同時に、身を挺して自分を守ってくれた兄を失ったのだという。
 最初に会った時とは違う、理性的な──けれど寂しそうな目をして有理は語る。
「私、お兄ちゃんに誓ったんです。……お兄ちゃんが守ってくれた命だから、大切にするって。お兄ちゃんの分まで、うんと頑張って生きるって」
 なのに、どうして忘れていたのだろう。彼女はそう呟いた。翠は答えず、懐から正方形の符を取り出した。
 翠は符を巾着の形に折り、有理に手渡す。
「お守りです。これを持っていれば、貴方が感じた喜びも哀しみも、楽しさも辛さも全て、先に黄泉路へ行ってしまった兄上の所へ持っていけるでしょう」
 満ち足りるよう、精一杯生きなさい、と翠は言った。蓮でも滅多に耳にしないような、優しい声だった。
 有理はこっくりと頷き、大事そうにお守りを手の中に包み込んだ。



「嘘をついてすみませんでした」
 勇人は──いや、勇人の魂は、蓮の店で二人の帰りを待っていた。
 翠は最初から、彼が既にこの世のものでない事に気が付いていたのだろう、黙って首を横に振る。
「俺は死んでしまっているから、生きてる人達の世界の事があまりよく見えないんです。でも、有理の事が心配で、ずっとあいつの傍にいました」
 そこへ叔父がやって来て、有理までも手にかけようとしたのだ。勇人は良からぬ気配を察知していながら、有理を助けるだけの力を持たなかった。
 誰かに助けて欲しくて、彼は救いを求めて辺りを彷徨った。そのさなか、勇人は不思議な光と出会ったのだと語った。
「温かくて、まあるい光でした。何て言うかこう……警戒心なんかもあっさり引っ込むみたいな、優しい光だったんです」
 その光に導かれ、勇人は蓮の店へと辿り着いたのだという。そうして、そこが有理が棺を注文した店だと気付いた彼は、咄嗟に作り話を思いついたという訳らしかった。
 謎の光の正体に、翠は心当たりがあるようだった。そうですか、と答えた彼女の声がどこか嬉しげなのを聞いて、蓮は自然と安堵している自分に気付く。
「まさか本当に助けてくれる人がいるとは思いませんでした。これで俺も安心してあの世に行けます」
 勇人は、何の憂いもない穏やかな笑みを浮かべて、深々と頭を下げる。
「有理が俺に持ってきてくれるお土産、のんびりと楽しみに待つ事にします。──ありがとうございました」
 少年の姿は、背景に溶け込むようにして消えた。薄暗い店内で、蓮は改めて翠に問う。
「あんた、あの男に一体何をしたんだい?」
「何をも何も、ただ『あの男は生きている』という言霊を飛ばしただけだ。相手はそれを無効化しようと言霊を放ったが、私はその前から幾つか言葉で式を打って布石を敷いておいた。それが功を奏して、あの男は自業自得の目に遭ったという訳だ。……それに、有理殿も立派に神名の家の血を受け継いでいる。最後には、彼女が昔に放った『兄の分まで生きる』という言霊が、あの男の妄執に打ち勝ったという事でもあるのだろう」
 そういう次第だ、と翠は答えた。蓮は翠の言葉を思い返し、納得する。目の前に置かれた白紙。あの男の成れの果てであり、棺でもある紙切れ。これが言霊からの、悪しき言挙げを行った術者への報復という事なのだろう。
「言霊は、あの男に対してかなり立腹していたようだな。見ろ、この容赦のない報いを。紙だというのに、文字のひとつも書けぬのだぞ」
 言いながら、翠は店の机から油性ペンを取り出して、紙に文字を書きつけようとした。だが、まるでインクが切れているのではないかと思うほどに文字を拒み、線や点すら書けない有様だ。徹底してるねえ、と蓮は呟いて紙を摘み上げる。
「字も書けない紙に、使い途なんざあるかねえ?」
「折り紙でも折るか?」
 翠は細い指で、器用に花を折って見せた。元は箸にも棒にも引っかからないような男だったが、こんな姿になれば罪がなくていいと蓮は思う。
「ところで蓮、最初の質問に戻るが、どうしておまえはあんなに有理殿に思い入れていたのだ?」
 唐突に問われ、蓮は咄嗟に折り紙の花を口許に当てた。
「……何だ? それは」
「言わぬが花、ってやつさ。聞くだけ野暮だよ」
 まさか今更、かつての翠と有理が重なって見えたからだなどと、そら恥ずかしくて言える訳がなかった。翠は怪訝そうな顔をしたが、深く追求する気はなさそうだ。
「そういうあんたこそ、最初は随分と冷たかったのに、勇人の話を聞いてるうちに随分と態度を変えたじゃないか。あれは一体どうしてなんだい?」
 翠は答えず、蓮と同じように紙の花で口を封じた。蓮は苦笑して腰に手を当てる。
「お互い、うまくお茶を濁したところで……、いい濁り酒が手に入ったんだけど飲んでいくかい?」
 それを先に言え、と翠は懐に手を突っ込み、手品のように杯から肴まで取り出した。蓮は笑って酒瓶を取り出し、彼女の杯を満たす。

 杯から零れた酒の雫が紙の花びらに落ちて、露のように光った。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【6118/陸玖・翠(リク・ミドリ)/女性/23歳/面倒くさがり屋の陰陽師】