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火犬の牙
1.
暗殺という職業柄、深夜の訪問者は少なくない。
風呂から出、ノックの音が聞こえたときにも吉良乃は焦ることなく手早く髪を拭き身支度を整えると扉を開いた。
そこに立っていた者の姿を見たときも吉良乃の表情に変化はない。
何処かの病院の入院患者用と思われるパジャマを身にまとい、そこから覗いている部分には包帯が幾重にも巻かれている。
呼吸をするために鼻と口の部分から肌が僅かに見えたが、その肌は重度の火傷を負ったらしくひどく焼け爛れていた。
「……夜遅く……すみません」
しゃがれた声は火傷によるものなのだろうか、その声を聞いて初めて吉良乃は目の前に立つ真夜中の訪問者が男なのだとわかった。
「構わないわ。深夜にやってくる人は少なくないもの」
訪問者の風体に動じることなく、吉良乃は事務所の中へと男を招きいれた。
怪我は治りきっていないのだろう、男はのろのろと事務所に入るとぎこちない動きで懐から一枚の写真を取り出した。
「こいつを、殺してください」
そこに写っているのはおそらくは大学生であろう若い女性。だが、何処か周囲の人を見下しているような傲慢さが写真からも滲み出ている。
「この女性が、あなたをこんなふうにしたということかしら」
吉良乃の問いに、男はゆっくりと頷いてから口を開いた。
「僕をこんな風にしたのはこの女です。でも……こいつがしたことはこれだけじゃない」
しゃがれた声で語り始めた男の目には暗い復讐の炎が宿っていた。
2.
依頼人である男は写真の女同様大学生であったが、その立場は違った。
男の母親が勤めている会社の社長は、女の父親だったのだ。女はその立場を利用し、何かと男をこき使った。
「逆らえば、あんたの母親はすぐにクビよ。パパに言えばそのくらいのこと簡単なんだから」
見下した顔で女はそう言い、男を言いようにこき使っては優越感を満たしていたようだ。
男がそれに耐えていたのは生活のためでもあり、母のためでもあった。
仮に母がクビになるようなことがあっても、男が大学をやめ働くという手段がないわけでもない。だが、そう踏み切れるだけの覚悟がなく、また母親は息子が希望の大学へと入学したことをひどく喜んでいたのだ。そんなことを切り出すきっかけが男には見つけられなかった。
学生でいる間、女の我侭に耐えていれば良い。それまでの間だと思っていた男の考えはしかし甘かった。
ある日、女は自分と結婚しろと男に切り出したのだ。それは、これからも一生女にこき使われるということを意味していた。
結婚を切り出してきたとはいえ、女に男への愛情があったからとはまったく思えない。女としては、手近にいる都合とそれなりに顔立ちの良い男を夫として仕えさせ、好き勝手に生きるための駒にするつもり程度の考えだったのだろう。
しかし、それには流石の男も抵抗を示した。結婚して一生言いなりになるなどというのは耐えられそうではない。
何より、そんなことになれば女は男だけではなく男の母親も自分同様使い勝手の良い道具としてこき使うようになるだろう。
男は初めて女の命令を拒否した。そのときの女の顔は今でも覚えている。自分の命令に逆らうものがこの世にいるなどとは考えたこともなく、そんなものが存在することに対する怒りをあらわにする醜い顔だった。
男の母親が会社を解雇されたのはその翌日だった。解雇理由は聞かされず、退職金というにはあまりにも僅かな金が与えられただけだった。
母親は自分の息子の状況を知らなかったため、どうしてこんなことになったのかまったくわからないようだった。
だが、彼らを襲ったのはそれだけではなかった。
数日後、彼らの小さな家を炎が包んだ。明らかな放火でその家事で母親は死亡、男自身も重度の火傷を負うこととなった。
犯人はまだ捕まっていない。だが、男には犯人がわかっていた。
実行犯ではないかもしれない。だが、それを指示したものが誰かはわかっていた。
何故なら、犯人自らが男の病室を訪れ、勝ち誇ったような笑みを浮かべて苦しんでいる男を見下ろしていたのだから。
「これは当然の罰よ。飼い主の命令が聞けない犬には、御仕置きが必要でしょ?」
人を人とも思わないような女のそんな様子を、男は包帯の隙間から見える目でただ悔しそうに睨みつけることしかできなかった。
3.
依頼者から話を聞き終えた、翌日の夜、吉良乃の姿は暗殺のターゲットである女の家にあった。
やや大きくはあるが極普通の一軒家であり、豪邸というほどのものではない。そこに女は家族と共に暮らしているという。
女が眠っているのが2階の部屋であることは前もって調べてある。念の為、侵入した際に1階の他の家族の部屋には催眠ガスを流しておいた。
吉良乃は暗殺者だ。依頼とは無関係を殺すことは決してしない。
調べた通りの部屋に、女はいた。細くドアを開いて中を覗けばまだ起きていたのだろう、機嫌でも良いのか歌を口ずさみながら鏡に向かっている姿見えた。
ゆっくりと扉を開く。
親が来たとでも思ったのか無防備にこちらを振り返り、そしてその顔が驚きのため目を見開いて叫ぼうとする前に吉良乃は部屋の中に侵入した。
「なに、あんた誰よ!」
「私は吉良乃。あなたを殺すよう頼まれた暗殺者よ」
その言葉に、女は悪い冗談でも聞かされたような顔になったが、すぐにそれは冗談ではないことを悟ったようだ。
「あ、暗殺ですって!? あ、あたしをそんな目に会わせようとしたのは誰!」
「それは言えないわ。言わなくても身に覚えはあるんじゃないのかしら」
「そんなものあるわけ──」
「自分の身勝手で家族の職を奪い、その家を、命を奪ったことも覚えていないというの?」
冷たく問いかける吉良乃の言葉に女の顔が引きつった。罪の意識があるかどうかは疑わしいが、自分が犯罪と関わっていることを目の前にいる者が知っているということには気付いたようだ。
「あ、あ、あれはあいつが悪いんじゃない! 誰のおかげで暮らしていけてたと思ってるのよ! パパにお願いしたらあいつの一生なんてどうにだってなったのよ。だいたい、あいつがあたしの命令に聞けばそれで良かっただけじゃない! 悪いのはあたしじゃない、命令を聞かなかったあいつのほうよ!」
あまりにも幼稚な自己弁護を聞いても吉良乃はただ冷たい目で女を見下ろしていただけだった。
「あなたは勘違いをしているわ。力を持っていたのはあなたの父親、会社の持ち主も経営者も父親、あなた自身には何の力もありはしない。あなたが持っていたのは力がある父親の娘という立場だけ」
言いながら、吉良乃はゆっくりと左腕を出し手袋を外した。炎の紋様が刻まれた左腕は青白い光を放っている。
「あなたはそれを自分の力だと勘違いした。人は力に溺れれば、その力で自身を滅ぼす。あなたは『社長の娘』という名の力に溺れすぎたのよ」
それが、女がこの世で聞いた最後の言葉だったが、それを女が正しく理解したかどうかは吉良乃にもわからないし興味もないことだ。
女の姿が完全に消滅したことを確認し、吉良乃はその家を後にした。
了
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