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その日の黒猫亭
1.
いつもと同じ時間に外に出、いつもと同じ道を辿り、いつもと同じように規定通りの時間に店に着く。
そのつもりだったはずの美香はいま、まったく見知らぬ場所に立っている。
(……えぇと)
何処かで道を間違えただろうかと考えてもそんな記憶はない。そもそも、いつもと同じことしか行っていない状態では違う状況など普通は起きない。
なのに、美香の目の前にあるのはまったく見たこともない古びた店がひとつ。
こんな店はいままで店へいく途中まったく見かけたことがない。周囲を見ても、美香が知っている景色はない。
ここは、美香が知っている場所ではない。
(どうしようかしら……)
古びた外装の店は静かで、中に誰かがいるのか、そもそも開いているのかもわからない。見れば流暢な字で書かれた看板には『黒猫亭』とあるが、この店がいったい何の店なのか判断に困った。
これ、というものが当てはまらない。逆にいえば、何にでもなりえそうな店だ。もっとも、そんなことはありえないのだが。
時計を見る。少しくらいならば寄り道をしても勤務時間に間に合うだけの時間はある。
そんな考えが浮かんでいること自体が、美香がこの店に興味を抱いているという証でもあるのだが、それに気付いているのかいないのかわからないまま、美香はそうっと扉に手をかけた。
軋んだ音を立てながら、ゆっくりと扉が開かれ、店内が視界に移りこむ。
現れたのは昔懐かしい雰囲気をかもし出している喫茶店。外からでは中の様子がまったくわからなかったが、店内の装飾は気取った感じは一切なく初めて訪れたものでも気負いなく入れそうなものだった。
「あの、お邪魔します」
そう声をかけてから、中へ入る。音楽が流れているわけでもなく、静かな店内はけれど妙に居心地が良さそうだ。
「──いらっしゃい」
不意に、そんな声が美香の耳に届く。その声を聞いて初めて、店内に人の気配が現れたような気がした。
慌てて声がしたほうを見れば、カウンタの奥の席にひとりの男が腰掛けている。
黒尽くめの服を身にまとったその男は、美香のほうを見てにやりと笑った。
美香が日頃店で見ることが多い品のない笑みとは違うが、何処か人を馬鹿にしたような笑い方だった。
「あの、えぇと……」
「驚かせたかい? それならすまない。初めて見るお客には一応声をかけることにしているのでね。まぁ、適当に座ってくれ」
店内には男以外の姿はない。だが、この男は店主という言葉にはいささか不似合いだ。
僅かな警戒心と生来の人見知りのため、美香は曖昧な返事をしながら男に促されるまま手近のテーブル席に腰かけた。
途端、扉が閉まる音が美香の耳に届いた。
2.
腰かけはしたものの、落ち着かない様子の美香を見ながら男はくつりと笑って口を開く。
「そんなにかしこまる必要はないよ、何か飲むかい?」
「いえ、その、わたし……」
「見ての通り、ここは喫茶店だからね。何か注文してくれなければ店に失礼だろう?」
そう言った男の口調はやはり何処か美香をからかって楽しんでいるような響きがあり、美香はますます身を竦ませるように深く椅子に腰掛けた。
からかわれることに対しては以前に比べれば慣れている。もっと悪質な類の言葉や態度で接されることもしょっちゅうだ。
だからといって、店以外の場所でまでそんなふうに接されることをよしとしているわけでもない。仕事はあくまで仕事だ。
「注文をするには、それを頼むお店の方が必要だと思います」
強い口調ではないがそう反論した美香に、男はくつくつと笑ってみせる。
「確かに、それは正しい答えだね。だけど、この店の主は生憎留守でね、注文を聞く役割を持ったものが必要だと言うのなら僕がそれを務めさせてもらうよ」
言いながら、男は席を立つと美香の座っている席へと向かいわざとらしく礼をしてみせる。その手にはいつの間にかあつらえたように銀色のトレイまで持っている。
「お客様、ご注文はお決まりになりましたか?」
言い慣れているとも、似合っているともとても言えない台詞だったが、その仕草があまりに芝居がかっていることが美香にとっては却ってリラックスするきっかけのひとつとなった。
職業柄、いろいろな人間と出会うことがある。どういうことを好むものかを見定める目も養われている。
どうやらこの男はこうして人をからかうことが好きらしい。
なら、その遊びに付き合ってみるのも悪くはないかもしれない。
「紅茶を一杯お願いします、店員さん」
「喜んで」
にこりと微笑んでそう言った美香に、男はやはり馬鹿にしたような笑みを浮かべてそう返す。客商売の店員が浮かべるものとしては相応しいとはお世辞にも思えない。
そのまま芝居がかった仕草のままカウンタの中に入ったと思うと男はすぐにそこから顔を出した。
無論紅茶を淹れる時間などなかったはずなのに、男の手にはティーセットがある。
「さぁ、どうぞ」
やはりわざとらしくそう言いながら差し出された紅茶は淹れたてらしく香りも良い。
いったいどういう仕組みなのだろうと思いながらも、おそるおそる美香はやはりわざとらしく注がれたカップに口をつける。
途端、美香の顔に僅かに驚いた色が走った。
「……おいしい。とても良い葉を使ってるんですね」
「この店はこう見えて味にこだわりがあるんだよ」
にやりと笑うと男はくるりと踵を返しカウンタの席へと戻っていった。どうやら、店員役は終了らしい。
「でも、あの、この紅茶はいつの間に用意されたんですか? そんな時間はなかった気がするんですが」
「お客を待たせることが嫌いなのさ、この店はね」
そう言って笑った男の顔は相変わらず人を馬鹿にしたようなものだった。
3.
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕は黒川、黒川夢人というんだ。キミの名前を聞いても良いかな?」
「あ、はい……藤沢・美香といいます。職業は、えぇと……」
職業を言おうとした途端、美香は口ごもってしまう。
仕事は仕事と割り切ってはいるものの、美香の仕事に対して好意的に受け止めてくれるものは少ない。ほとんどの者は蔑みの目を向けるか、男性の場合は途端馴れ馴れしくあからさまな誘い文句を口にするものが多い。
だが、黒川と名乗った男はそんな美香の心情を察したのか、それともそんなものは歯牙にもかけていないのかどちらとも取れない態度のままくつりと笑ってみせた。
「キミの仕事に対して僕はさして興味はないよ。興味があるとするならばキミ自身に対してだけだ。普段何をしていようと、この店にいるときはただ客として振舞う以上のことは必要ないし、もし別の役割が必要なときはそうお願いするさ」
さっきの僕のようにね、と付け加えて黒川はくつくつと笑ったが、それがこの男流の気遣いなのか美香には判断がつきかねた。
「このお店はいったい何なんですか?」
「見ての通り、頼んだものを飲み食べるための店だよ。店名は外に書かれてあった通りだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「でも、わたしこんなお店知りませんでした。来るつもりだってなかったのに」
「なら、キミにとって必要があると店が感じて現れたんじゃないかな」
まるで要領を得ない黒川の言葉に美香は困惑を隠すこともできず考え込んだが、黒川はにやにやとそんな美香の顔をしばらく見た後に口を開いた。
「そんなに難しいことかい? キミは仕事へ行く途中だったんだろう? その前にこの店が現れてキミは中に入って紅茶を一杯飲んだ。出勤前のささやかな休息を提供することが今回の目的だったということで良いじゃないか」
出勤前、という単語に美香は慌てて時計を見た。長居というほどではないが予想外の男がいたため予定よりも長い時間ここにいてしまった。
「あ、お店に行かなきゃ……!」
遅刻などしたら何を言われるかわかったものではない。だが、見た時計の針は美香が思っていたよりも進んでいない。
その様子に、黒川はくつりと笑いながら扉へ近付き、わざとらしい仕草でゆっくりと扉を開いた。
「次はもっとゆっくりできるときに来ると良い。来る方法は簡単だ、此処へ来たいと思いさえすればこの店は現れてくれるさ」
では、御機嫌よう。
そんな言葉と共に扉は更に大きく開かれ、外の空気が店内へと流れ込んできたと感じたとき、美香の視界は一面霧が立ち込めたように塞がれた。
4.
気がつけば、美香はいつもと同じ店へ行くための道にいた。
何も変わっていないいつもと同じ風景に、美香はゆるゆると首を振った。
先程までいたはずの古びた店と些か奇妙な男とのやり取りはなんだったのかと考えたが答えは出そうにない。だが、あれは確かに実際に起こったことだという確信だけが美香の中には何故かあった。
「ゆっくりできるとき、また行けるのかしら」
そう呟いてから美香は慌てて時計を見た。普段より僅かに進んだ時刻を針は示している。
「いけない、お店!」
慌てて美香はいつもと同じ道を駆け始める。いまから急げば遅刻することはない。
懸命に走る美香の耳元で、くつりと誰かが意地の悪い笑みを零したような気がしたが、それもすぐに遠退いていった。
了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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6855 / 深沢・美香 / 女性 / 20歳 / ソープ嬢
NPC / 黒川夢人
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■ ライター通信 ■
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深沢・美香様
初めまして、ライターの蒼井敬と申します。
この度は、当依頼にご参加いただき誠にありがとうございます。
日常の一コマの中で偶然訪れたということで、出勤前の僅かなひと時を過ごしていただきました。あまり滞在時間は長くはなかったこととなりましたが、楽しんでいただけましたら幸いです。
黒川のほうからコンタクトをということでしたのでこのような形とさせていただきました。
お気に召していただければ幸いです。
またご縁がありましたときはよろしくお願いいたします。
蒼井敬 拝
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