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犬として生きる少女
仔犬たちが乳房に吸い付く様子を、あたしは横になり眺めている。
なめて毛づくろいをしてやると、うっとりと目を細める子どもたち。
居間に置かれた大きな犬用のベッド。だけど最近はその前に敷かれた毛布にいることが多い。
お腹の上で寝てしまったり、吸いついたまま立ち上がってもぶら下がっていることもある、可愛らしくて手のかかるあたしの子ども。
穏やかで幸せな生活……だけど時折、頭に浮かぶことがある。
あたしが人間の姿をして、人間の家族と暮らす、夢のような遠い思い出。
あれは一体、何なのだろう……。
みなもが他人から犬に見られるようになって、随分経った。
自身にはあくまで人に見えていたはずの身体が犬に変化してゆき、その価値観や意識すら犬に変化していくのに、長い月日はかからなかった。
今や、みなもは自分と同じ犬種、大きなグレートピレニーズの旦那を迎え、仔を育てるのに懸命だった。
もう自らの身体が人の――少女のものであると認めることはないし、犬の姿で犬の生活を送ることに違和感もない。
人間であったことを忘れ、犬としての生活に幸せを感じているのだった。
「最近お前、犬っぽくなってきたね」
「今までは自分を人間だと思っているみたいだったものね。旦那さんができて、子どもが生まれて、犬としての自覚がでてきたんでしょう」
飼い主である少年やおばあさんの言葉にも、軽く首を傾げるばかり。
自分がどうして犬らしくなかったのか、何故人間だと思い込んでいたのか。
全ては遠く記憶となって、みなもには見当もつかないのだった。
ただそうしたことを耳にすると、ふっと浮かんでは消える、夢の残滓のようなものがある。
それはハッキリとした形ではなく、つかもうとすればなくなってしまう、頼りないものだったけど。
何故か切ない想いばかりを胸に残すのだった。
『やぁ、久しぶり』
自分と同じ、真っ白な犬が顔を覗かせ、みなもは尻尾を振って出迎えた。
もっとも、姿を見せるその前から音と匂いで彼が来るのはわかっていたのだけど。
『久しぶり』
そして犬の言葉で挨拶を返し、擦り寄っていく。
『子どもたちの調子はどう?』
『みんな元気よ。おばあさんたちが今、必死に貰い手を探してるとこ』
『こっちも同じだよ。いい人に貰われるといいね』
しかし旦那の言葉に、みなもは少し表情を曇らせる。
『――貰われていかないと、いけないのかな』
『え?』
『あたし、本当ならみんなと一緒に暮らしたい。あなたとだって、離れて暮らしたくはないわ』
みなもの言葉に旦那は驚き、目を丸くした。
『何を言ってるんだい。飼い主が別なんだから仕方がないだろう。こうして逢えるだけでも、幸せだと思わなくちゃ。子どもたちだって……ここの家や僕の家で全員を育てるのは無理に決まってる』
『それは、そうかもしれないけど……』
『確かに寂しいかもしれないけど、僕らだってそんな風に生まれて、ここまで育ってきたわけだろう』
それは動物としての本能よりも、飼い犬の生活に慣れたものの理論だった。
人間は餌を与え養ってくれる存在であり、仕えるべき存在でもある。
犬の家族で暮らすよりもよそにもらわれていき、飼い主を得る方が幸せなのだと彼は言う。
事実、野良犬ならばずっと一緒に暮らせないわけではないが、子どもはすぐに巣立ってゆくものなのだから、と。
しかしみなもは、それに生返事をするしかできなかった。
――あたしも、そんな風に生まれて育ってきた?
そうだったんだろうか。本当に。
みなもは、自分自身の記憶が妙に曖昧なことに気がついた。
父の記憶も、母の記憶もない。
ただおぼろげに浮かぶのは……。
『――あたし、もしかしたら人間だったのかもしれない』
そうつぶやくと、旦那は更にきょとんとしてしまう。
『何故?』
『……わからない。ただ何となく、そんな気がしただけ』
――もしそうだとしたら、あたしはどうして犬になってしまったんだろう。
人間のときはどんな生活をしていたんだろう。
元に戻る方法はあるんだろうか。
みなもがそんな風に夢想していると。
『もし人間に戻れる方法があれば、戻りたいと思うかい?』
静かに尋ねられ、みなもは考えたあげく、首を横に振る。
かつて自分が人間だったというなら、その事実に興味がないわけじゃない。
だけど覚えてもいないその生活に、未練などはなかった。
『ううん。だってあたし、幸せだもの。きっと、今までのどんなときよりも』
答えたとき、胸を貫くような寂しさと、それをおおいつくす満たされた想いでいっぱいになった。
やがて、子どもたちはそれぞれよそにもらわれていき、嬉しいことに一匹だけがその家に残されることになった。
みなもは今まで以上にその仔一匹に愛情をそそぎ、少年やおばあさんから愛情をそそがれる様を見守る。
犬としての基本的なことを教えながら、新聞をとってきたり、荷物を運ぶ手伝いをしたり、人に役立つことを教えていく。
みなもの頭に、人の記憶が浮かぶことはもう、なかった。
自らの生活に疑問を抱くこともない。
ただ出生を問われれば、覚えてないと答えるばかり。
平和で、幸せな犬としての毎日。
仔犬と戯れ、時折やってくる旦那と共に寄り添う。
だけどもしおばあさんが亡くなったら、少年はどうするだろう。
一体いつまで彼らと一緒にいられると、ただそればかりが気がかりなのだった。
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