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【Rain which dyes a flower】
細い糸のような雨が、一面の新緑に当たっては小さな雫となって跳ねる。
何度も目にしている場所でも、季節や時間、あるいは天候によって、また別の表情を覗かせるものだ。
幾度となく足を運んでいる友人宅の庭園もまた、梅雨の頃を迎え、違った趣きを見せていた。瑞々しい緑に加えて、今が見頃のアジサイが青や薄紅などの花々を添えている。
重く垂れた、鉛色の雲の下。競演する様々な色を楽しみながら、庭園に沿いの道を歩く彼の視線は、自然と見覚えのある色を探す。
低木ながら、長身の彼にもおよぶ程の高さにまで茂った葉の陰で、微かに光がこぼれた。
視線を遮るアジサイを避ければ、それは気まぐれな蝶のように緑を抜けていく。歩調を速めて緑の壁越しに追いかければ、相手は彼に気付いていないのか。ちらと見えた色は、緑の中で消えてしまった。
足を止めて様子を窺うものの、再び現れる気配はなく。
よく見知っている屋敷内の記憶を辿りながら、彼は再び歩き始めた。
見失ったのはちょうど、屋敷に入る小さな扉がある辺り。
そして彼がいる場所からは、庭園の整備に必要な土や樹木を運び入れるために設けられた通用門が近いはずだ。
胸の内から湧き上がったのは、ほんのちょっとした悪戯心。
記憶の通りに庭を回れば、すぐに門が見えてくる。
取っ手へ手をかけると、鍵をかけ忘れているのか、抵抗なく門は奥へとスライドした。
無用心だと僅かに苦笑し、同時にほんの少しだけ不安が過ぎる。
鍵をかけ忘れるミスをするほど、ここを管理している庭師は何かに気を取られていたのだろうか――。
ためらう理由もなく、アドニス・キャロルは開いた門の間をすり抜けた。
○
壁にたたんだ傘を立てかけ、庭に面した扉から屋敷内へ足を踏み入れると、人がいる気配は遠く。
ただ雨音だけが、まるで彼の気配を隠すように屋敷全体を覆っている。
長い廊下を迷う事無く、アドニスは歩き始めた。
何かに誘われるように廊下を進み、角を曲がり、幾つかの扉を通り過ぎて。
まっすぐ辿り着いた扉の前で、始めて少しだけ躊躇する。
……ノックをするべきだろうか。それとも、黙って扉を開けるべきか。
僅かな思案の後、彼は後者を選んだ。
ドアノブを静かに回し、狩る者の身のこなしで音もなく室内へ滑り込む。
しかし、部屋の中には誰もおらず。
それでも彼は、自分が正しい扉を選んだ事を確信する。
小ぢんまりとした部屋は整えられて、壁際のテーブルと向かい合った椅子の背には、淡い新緑色のストールが掛けられていた。
端の部分に、クローバーの模様が帯状にあしらわれた薄手のストールは、見覚えがある。何故なら、バレンタインの日に贈られたコームの返礼として、彼が選んだ物だから。
整頓されたテーブルのペンケースには、シンプルなデザインの黒い万年筆が一本置かれている。それもまた、いつかのクリスマスプレゼントに恋人へ贈った物だった。
彼からの贈り物を壊れ物の如く仕舞いこむのではなく、彼がスーツのポケットに入れた、純銀製のライターと同じように――身近において大切に使っていることに、知らずと表情がほころんだ。
だが感慨にふける間にも、部屋の主が戻ってくる様子はない。
……そのうち、部屋へ戻ってくるだろう。
そんな事を考えながら、アドニスはソファへ腰を下ろす。
一時はシガレットケースとライターを取り出したものの、ふと思い直してポケットへケースを戻した。手にしたライターの表面には、小さなクローバーが彫刻され、三枚の葉にはエメラルドがあしらわれている。その葉の一枚一枚を指でなぞりながら、彼は窓へ目を向けた。
窓の外では、降りしきる雨が緑を潤している。ソファに背を預けたアドニスは何をするでもなく、ただ庭園に咲くアジサイを眺めていた。
外の音を覆い隠し、雨は静かに降り続き――。
○
……確か、これと似たような話を聞いた覚えがある。
勤勉な小人達が一仕事終えて帰ってくると、準備していた食事が全て食べられた後で。奥の寝室を覗けば、一人の見知らぬ少女が彼らのベッドを占領し、すやすやと寝息を立てて眠っていた……。
そんな、誰もがよく知っている童話を思い出しつつ、モーリス・ラジアルは困っていた。
いま彼の前にいるのは少女でも、ましてや見知らぬ相手ですらなく、占領されたのはベッドでもない。
だが思わぬ客が彼のプライベートな一角に陣取り、眠りこけている事には変わりなかった。
床に膝をついて顔を覗き込んでみるが、起きる気配はない。
かすかな寝息は規則正しく、浅い夢でも見ているのか銀色の睫毛が時おり震える。
既に見慣れた寝顔をモーリスはじっと見つめていたが、迷った末に手を伸ばした。
「起きて下さい」
呼びかけながら肩を掴んで軽く揺すると、柳眉が不機嫌そうに寄せられる。
「こんなところで転寝をしていると、風邪をひきます。キャロル?」
名を呼ばれ、ようやく目蓋を開けたものの、まだ夢うつつなのか銀の瞳はぼんやりと彼を見上げた。
「……モーリス?」
「はい。おはようございます、キャロル」
問う声に、モーリスが少し悪戯っぽい笑顔を向ける。
緑の瞳を見つめて恋人の表情を確認したアドニスは、室内へ目をやり、意識が途切れる前の状況を思い出した。
「俺は、寝ていたのか」
「ええ、ぐっすりと」
答える声を聞きながら、強張った首筋に手をやって肩を回し、眠気を払うようにアドニスが頭を左右に振る。それから銀の髪に指を滑らせてかき上げ、彼の仕種をじっと見つめる視線に気が付いた。
「……人が眠っている間に、何か遊んでいなかっただろうな」
「いいえ。来客には、ちゃんとおもてなしをするのですよ」
起こすまでの逡巡をよそに、モーリスは笑顔のまま答えを重ねた。
「それよりも、驚きましたよ。庭の手入れを終えて戻ったら、いつの間にか私の部屋でキャロルが寝入っているんですから。何か飲む物でも、持ってきましょうか?」
「いや、いい。外から、庭園の花を見かけたら……間近で見たくなってな」
本当の理由を言外に潜めて言い換えれば、勤勉なる庭師は言葉の通りに意味を受け取ったらしい。ソファから離れると、まだ降り止まぬ雨に打たれる花が見える窓辺へと歩み寄った。
「綺麗なアジサイでしょう?」
振り返ったモーリスに聞かれ、衣服の乱れを整えていたアドニスは顔を上げ、窓の外を眺める。
「いろんな色のアジサイがあるんだな」
「はい。アジサイは、土の環境によって色が変わるので……普通に植えておくと、日本では青くなりやすいんです。こうして、近い場所で別の色を咲かせるには、春先に土を調整してやらないといけなくて。上手く調整できたかどうかも、実際に咲くまでは判らないんですよ」
丹精込めて咲かせた花は、満足いく色なのだろう。
愛おしげにモーリスは、花へ目を細めた。
「知っていますか? 雨に打たれる毎に変わる花の色に、原産の日本ではアジサイを『移り気』だと表現するそうです。でも……例えばフランスだと確か、長く咲く姿を『忍耐強い愛情』という意味に取るとか。不思議ですよね、同じ花なのに」
そう、不思議でもないだろう……と、アドニスは胸の内で呟きながら、小さく笑んだ。
――『移り気』と、『忍耐強い愛情』。
相反する言葉を秘めたものは、彼のすぐ目の前にだって存在している――。
モーリスの説明を聞きながら彼はソファから立ち上がり、恋人の傍らに立つ。
「今日のような霧雨の日は、晴れた陽光の下でみるよりも綺麗に見えます。キャロルもそう、思いませんか?」
誇らしげな瞳へ、アドニスが「ああ」と短く頷いて答えれば。
「では、褒めて下さい」
不用意な心の隙を突くように、すぐさま次の言葉が返された。
「……褒め、る……のか?」
「ええ」
思わぬ要求に口からこぼれた呟きを肯定し、どこか楽しげなモーリスは彼を見つめて言葉を待つ。
口元に手をやり、戸惑いながらアドニスはアジサイへと視線を泳がせた。
急に褒めてほしいと言われても、とっさに表現が出てこない。彼が困窮する一方で、期待した瞳のモーリスは、言葉を探す様子を見つめている。
迷い悩んだ末に、ようやく彼は口を開いた。
「……、だ」
「はい?」
苦心して出した声は小さくかすれ、聞き取れなかったのか小首を傾げるモーリス。
「だから……」
一度、大きく窓へ息を吐いて呼吸を整えてから、改めてアドニスは恋人を見つめる。
「綺麗だ」
柔らかく響く言葉に、ほころんだ花の如くモーリスが嬉しそうに微笑んだ。
「キャロル……よく聞こえなかったので、もう一度お願いできますか?」
寄り添ってねだる相手に、困ったような表情でアドニスは嘆息する。
「今のは、聞こえただろう。だいたい、褒め言葉なんか俺は……」
「もう一度言ってくれれば、勝手に部屋に入ったことは帳消しにしますから」
「……やっぱり、聞こえてたんじゃないか」
瞳を輝かせたモーリスの金の髪を、なだめるように撫でて口付けながら、それでもアドニスは悪くはない――と、思う。
美辞麗句など程遠い、あまりに飾り気のない言葉を、恋人が心から喜んでくれるなら。
たまには苦心しながら、慣れない言葉を紡いでみるのも、いいかもしれない。
窓越しに二人のやり取りを見守っていたアジサイの花は、さぁさぁと降る雨に打たれ、揺れていた。
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