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夢狩人 〜 始まりの夢 〜
1.
目の前に現れた男のことを、美香はよく覚えていた。
職業柄、一度会った者の顔を覚えることには長けているほうだが、この男のことは忘れるほうが難しそうだ。
「黒川さん、でしたよね?」
一応確かめるようにそう声をかけた美香に対して、黒川と呼ばれた黒ずくめの服を身にまとった男は軽く会釈をしてみせた。
「覚えていてくれたとは嬉しいね」
さして喜んでいる風には見えない、何処か人をからかっているような口調も美香の記憶にあるままだが、この男がここに立っていることが美香には些か奇妙だったのは、何か用がなければこの男は人前に姿を現すことがないという印象があったからかもしれない。
「今日は私に何か御用でしょうか」
「へぇ、よくわかったね」
美香の問いに案の定にやりと笑ってそう答えた黒川は、しかしすぐにその笑みを消し、彼には不似合いだと感じるほど真剣な表情で口を開いた。
「キミ、最近奇妙な噂を聞いたことはないかい?」
「噂、ですか?」
「そう、噂だ。聞けば他愛もないような内容だがね……夢を覚えていない者がここ最近増えている。そんなことを聞いたことはないかい?」
黒川が尋ねてきた噂というものには、美香は確かに聞き覚えがあった。世間話や噂話というものは美香のような仕事では案外に耳に入ってきやすいものだ。
美香を指名した客の中にも、そういえばそんなことを言っていた者がいたかもしれない。もっとも、言っていた当人は疲れているからだろうと気に留めていない様子だったが。
「あまり詳しくは聞いたことはないですけど、夢を最近見ていないという話を聞くことはありますね」
「じゃあ、こんな噂は聞いたことはないかい? 夢は覚えていないのではない、何ものかが夢を見ることができないようにしているんだ……なんてことは」
黒川の言葉に、美香は驚いたようにその顔を見返した。意図的に夢を見ることをできないようにする。そんなことがそもそも可能なのか美香にはわからないし、そんなことをしていったい何の意味があるのかも理解に苦しむ。
「聞いたことがないです。でも、そんな噂があるんですか? それが本当だとしていったい何のために?」
「本当だとして、という問いに対しては答えられるよ。その噂は決して嘘ではない。何ものかが人が夢を見ることを妨げている。そして動機というものも見当は付いている」
「動機ですか……まるで」
まるで、犯罪者のようだわ。
そう思った美香の心を読み取ったように、黒川はかすかに頷いて見せ、その顔には美香をからからっている雰囲気はない。
「僕はこいつを犯罪者として見ている。夢を見ることを妨げ、それを楽しんでいることは僕にとって充分に犯罪と呼ぶに相応しいからね。そして、僕はこの犯罪による被害がこれ以上広がることを阻止したいと思っているんだ」
「あの、それで私に何をしろと?」
どうやら黒川が真剣らしいことは美香にも充分理解できるのだが、そのことで何故黒川が美香の前に姿を現したのかがまだ理解できない。
すると、そんな美香に対して黒川はまったく美香が予想もしていなかったことを口にした。
「キミに是非協力して欲しい。この事件を止めるため力を貸してもらえないだろうか」
2.
思いがけない黒川の言葉に、美香は僅かの間ぽかんとした顔をした後、慌てて口を開いた。
「協力って言われても……あの、私がお役に立てるとは思えないんですけど……」
目の前にいる黒川がどうやら些かなりと奇妙な存在であることは感じるが、美香自身は何処にでもいる極普通の人間であり特別な力というものは一切持たない。
そんな美香に文字通り夢のような事件の解決を手伝ってくれと言われても、自分にできることがあるようには美香には到底思えない。
「難しいことを頼もうっていうわけじゃない。最近夢を見ることができなくなった男をひとり知っているんだが、その男から事情を聞いてくれないかな」
「そ、それこそ私がやっても……見ず知らずの人にいきなりそんなことを聞いて話してくれるとは思えないんですけど」
協力を拒む気があるわけではないが自分に何ができるかまったくわからない状況のため美香がそう言っても黒川は大丈夫だと言って折れようとしない。
「こういう話は案外聞く側が真剣に聞きさえすれば相手は話してくれるものなんだ。なにせ、夢が見れないなんてことで悩んでいたとしてもほとんどの者は気にも留めず、真剣に話を聞いてくれることなんてないからね」
だから、と黒川は美香のほうをちらと見た。
「キミのように相手の話を聞く能力に長けているのなら、少なくとも僕が聞くよりはマシな話が聞けると思ってね」
そう言った黒川の顔にはようやくにやりと何処か人を馬鹿にしたような笑みが浮かんでいたが、それは本心で美香のことを馬鹿にするためというよりその場の空気を和らげるための芝居のように美香には感じられた。
「話すことは苦手なんですか? そうは見えませんが」
「話すことは嫌いじゃない。むしろ興味のある話なら大歓迎さ。ただ、どうやら僕は真面目な相談役としては適していないらしくてね」
くつくつと笑う黒川の様子は確かに親身になって人の話を聞くということからは程遠いもののように見える。
黒川の頼みを強いて断る理由は美香にはない。僅かでも役に立ちそうであるのならそれを無碍に断ることも気が引ける。
「その方に会わせていただけますか?」
「勿論」
そう言って黒川は美香を先導するようにゆっくりと歩き出した。後を付いてこいということらしい。
黒川の歩調はひどくゆっくりしたものだったので美香が後を付いていくことに支障はない。
なのに、いつの間にか何処をどう歩いていたのか美香には覚えのない道へと入り込んでいく。いや、そもそもいま歩いている場所が何処なのか周囲を見ても美香にはよくわからない。
「あの、いま私たちはどこを歩いているんですか?」
「そうだね、さしずめ被害者であり証人のいる場所へ向かっているところ、というところかな」
答えになっていない黒川の答えに美香ははぁと答えるしかない。美香へ依頼したことは至極真剣なもののはずなのにどうしてもこの黒川という男は何処か人を食ったような態度を取ってしまう性格らしい。
こんな調子では、とてもその黒川曰くの証人が真剣に話を聞かせる気にはならないだろうという美香の判断は職業上の経験から来ているところも大きい。
歩きながら、美香は先程の黒川の会話を思い出しひとつ気になっていたことを尋ねてみることにした。
「そういえば、黒川さん。ひとつお聞きしても良いですか?」
「なんだい?」
「人が夢を見ることができなくなるということが黒川さんにとってとても重要な意味を持つように聞こえましたが、それはどうしてなんですか?」
美香の問いに、黒川は事も無げに答えを返した。
「なに、簡単なことさ。夢を見ることができないものが増えると僕が困る。僕は、人の夢を見ることが楽しみのひとつなんだ」
夢を見るということがどういうことなのかまで詳しく話す気がないらしい黒川に、美香は煮え切らないものを覚えながらもそれ以上尋ねることはやめ目的の場所へ向かった。
3.
黒川が美香を連れてきたのは何処にでもあるような喫茶店だった。といっても、以前黒川とであった黒猫亭という名前の店ではなく、極普通の喫茶店のようだ。
「あの隅の席に座っている男がそうだよ」
扉を開けて中に入り、店員が一瞬黒川の姿に怪訝な目を向けたことも無視して黒川は美香を店の奥の席へと連れて行く。
見れば、その席にはひとりの男が腰かけていたが、外見などはありふれている極普通の人間のように美香には見え、何かに悩んでいるという風にもさして見えない。
「やぁ」
と、その男に向かって黒川は何の躊躇いもなくまるで旧知のものにあったかのように声をかけたが、かけられた男はといえば驚いた顔で黒川を見、すぐにその顔が胡散臭いものでも見るような目に変わる。
「なんだ、あんた」
「突然失礼するが、実はとあることをいま調べているところなんだ。そして、どうやらそのことにキミが関わっているらしいという情報を手に入れてね。ついてはキミの話を聞けたらと思うんだ」
黒川の言葉に、男はますます胡散臭いものを見る目を向けてくる。あまり歓迎されているようには見えない。
このまま黒川に任せていては店からすぐに追い出されてしまうのではないかと思った美香は慌てて男に対して話しかける。
「す、すいません。お話を伺いたいというのは本当なんです。困っている事件が起こっていて、そのことに対する情報を集めているんです。突然こんなことをお聞きしたのはご迷惑かもしれませんが、よろしければ協力してもらえませんか?」
丁寧にそう話しかけた美香に対しては男も黒川に向けるほどの警戒は抱かなかったのか、僅かだが美香の話を聞こうという態度を示してみせた。
「えーと、あんたらが言う事件っていうのはなんなんだ?」
「それがその……夢、のことなんです」
普通に聞けば一笑に付されそうな夢という単語に、だが男は何かを思い出そうとするような顔になる。
「夢って、寝てるときに見る夢のことだよな? そんなものが事件になるなんてよくわからないが……確かに夢のことでは少し妙なことがあったな」
「妙なことですか? それはどんなことでしょう。些細なことでも良いんです」
「いや、昨日どんな夢を見たんだったかが思い出せないんだ。まぁ、忘れただけだと思ってはいるんだけどな……けど」
どうやらそれだけではないらしい男の様子に美香は真摯な目を向けたまま先を促すと男は躊躇ったように口を開いた。
「思い出せないっていうのが、なんだかいままでとは違うような感じがするんだ……なんて言えば良いんだろうな。見てはいたはずなのにそいつを何かが邪魔して思い出せないようにしてるっていうか」
男自身自分が言っていることが如何に馬鹿馬鹿しく聞こえるかという自覚があるのだろう、その口調には笑われるのではないかという様子が伺えたが、美香は無論笑うことなどしない。
「何かが邪魔をしている。そんな気がしたんですね?」
「あぁ、でも、そんなことあるはずないだろ? けど、そんな気が無性にするんだ。思い出せないことよりそっちのほうがどちらかというと気になるんだけどな」
男の話を聞きながら、美香はしばらく考えた後、何か手がかりになるようなことを男が知らないかと尋ねてみることにした。
「最近、何処か普段とは違う場所へ行ったということはありませんか? 何か曰くがあるとか、噂があるとか」
「違う場所って言われても……そういう場所にはあまり興味がないから近寄らないんだよな。いつもと同じ場所にしか行ってないと思うけど」
考え込んでも男にはこれという場所が浮かばなかったらしい。いつも通りの生活を送っていたつもりだと言われれば美香にはそれ以上聞くことはできない。
ありがとうございましたと礼を言い、男の元から立ち去ろうとしたとき、ふとあることが頭を過ぎり美香はそれをそのまま男に尋ねてみた。
「……あの、人通りが多いところは通りますか?」
「人通りの多いところ? そりゃ、会社行くときの交差点とかいくらでもあるけど、それが?」
「いえ……」
それ以上男に言うことはせず、丁寧に頭を下げて男の元から立ち去った。
「人通りが多い場所というのを聞いた理由はなんだい?」
喫茶店を後にし、歩きながら黒川は案の定美香にそう尋ねてきた。
「いえ、あの人が特別な場所へ行った記憶がないのなら、隙ができそうな場所を見計らって犯人が何かをしたという可能性もあるかと思ったんですけど……でも、何をしたらそんなことができるのかがわからなくて」
「ふむ、多少怪しい行動をとっても周囲に気付かれにくい場所ということで人通りが多い場所という聞き方をしたというところかな? この街なら些か奇妙なものがいても気にならないだろうしね」
黒川の考えに美香は頷いてから黒川のほうを見て自信のなさそうな顔で尋ねる。
「あの、私、お役に立てましたか?」
「勿論。僕ならすぐに追い返されて終わりだからね。何か手がかりが掴めたときにはまた協力をお願いするかもしれない。今回のことは礼を言うよ」
また気が向いたときには以前出会った店へ来てくれと付け加え、黒川は慇懃無礼にも取れるほどの礼をして美香の元から離れていった。
黒川の姿がなくなるのを見届けながら、美香も自分の家へと帰ることにした。
その道すがら、美香はふと考える。
今夜、自分は夢を見るだろうか。もし見ても、それを覚えているだろうか。
そう考えたとき、一瞬ぞくりと背中に冷たいものが走ったような気がした。
了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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6855 / 深沢・美香 / 女性 / 20歳 / ソープ嬢
NPC / 黒川夢人
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■ ライター通信 ■
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深沢・美香様
この度は、当依頼にご参加いただき誠にありがとうございます。
黒川から協力されてという方法での参加であり、美香様自身は特別な能力を持たないということからさほど噂のことは知らず関係者からの聞き込みという形で協力していただくこととしましたがお気に召していただければ幸いです。
またご縁がありましたときはよろしくお願いいたします。
蒼井敬 拝
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