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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


BRILLIANT TIME 〜judgment〜

────総ては、貴方という時間に辿り着く為に。

【 05 : Tears 】

 階段を下りてくる足音に、ミヨコは己が主が戻ってきたのだと知った。
 携帯電話の電波が届かないから、と地上階に行っていたようだが、きっと「あの子」へ状況を知らせてきたのだろう。「あの子」は気が短く荒いので連絡を怠るとすぐに機嫌を損ねる、と深夜子がぼやいていたのを思い出す。
 ミヨコたちがいるのは、邸の地下室だった。今は陽光も差し込まない十畳ほどの一室を、幾本もの蝋燭がゆらりゆらりと照らし、壁に映った影を踊らせている。
 ミヨコは部屋の奥、木枠の格子に隔てられた暗がりを見遣った。両手を後ろに縛られ、座り込んでいるのは自分が攫ってきた赤髪の女性──碧摩蓮だ。彼女は先ほど意識を取り戻して以来、騒ぎもわめきもせずただじっと、深夜子と同じ顔をもつ自分を──この眼窩に嵌められた蜜色の宝石を睨みつけている。
「お目覚めになられました、ね?」
 深夜子が格子に手をかける。自分は進み出て、すぐ脇に控えた。
「こんな牢屋みたいなとこに放り込むなんて、あんた、どういうつもりだい?」
「もちろん、逃げられると困るから、ですよ?」
 深夜子は蓮を見据えたまま自分に手を差し出す。心得て、携えていた剣を──時計の針を手渡した。
 物言わぬ男が牢の鍵を開け、中から蓮を引きずり出す。そして彼女を深夜子の前に立たせると、
「蓮さん」
 深夜子は切っ先を蓮の胸元にあてた。
「貴女に恨みはありませんが、申し訳ありません、ね? 実は私、貴女のご友人のことが、憎たらしくて大っ嫌いで仕方ないんです」
「……征史朗のことかい?」
「ご明察恐れ入ります。ですからこれは、あのわからずやへの嫌がらせ──ですよ?」
 ふふぅ、と円やかな頬を押し上げて微笑を浮かべたまま、深夜子は蓮の胸へと刃を突き立てた。

 その様を、ミヨコは硬質な無表情で見つめていた。
 だって自分は主様のヒトガタ。主様のためだけに存在し、主様を満足させるためだけに力と美しさを揮うただの身代わり人形。
 判断など、自分が下す資格はないのだ。主様の言葉を至上とし、それに従ってさえいればいい。
 ────そう、わかっているのに、じゃあ、何故……?



 心臓も鼓動も持たないヒトガタであるのに、嵯峨野ユキは言い様のない胸騒ぎに襲われていた。
 集まった情報、自分が見た光景、それらは未だ散らばったピースでしかなく、完全な絵が描かれたわけではない。だというのに、ユキはどうしてだか確信していた。
 姿を消した蓮は、鳥辺深夜子の手の内にある。そして深夜子が蓮を捕らえている以上、蓮の身に危険が迫っていることは明白だ。
 早く行かなければ、と急く気持ちを抑えられそうもない。それなのに、ああどうしてだかまた目眩がする。昨晩倒れた時と同じ、自分の身体が侭ならなくなるほどの息苦しさと平衡感覚の混乱に顔を顰めながら、ユキは店の出口へと無理矢理足を踏み出した。


【 06 : Time 】

「はい、ちょっと待って」
 傍らを擦り抜けて行こうとしたユキの肘を、椅子に座ったままの蓮巳零樹は手で引っ掛け、歩みを留めさせた。
 振り返った彼の顔色──と言っても人形である彼に血行などありはしないのだが、寄せた眉や物言いたげな唇などが白磁の頬を蒼褪めて見せている。第一、扉に向かおうとしていた足取り自体が不安定。偶々傍にいたのが自分だったので引き止め役を担ったが、他の面々も同意見であるとこと、確認するまでも無いだろうに。
「行きたいなら行きたいと、言えばよくてよ?」
「事は急を要するようです。お連れ致しましょう」
 嘉神しえるが立ち上がり、セレスティ・カーニンガムも杖をコツリと鳴らして腰を上げる。心中をずばりと言い当てられたらしいユキは気まずそうに目を伏せ、その視線が自分と合ったので、答えるべく口角をくいと吊り上げた。
「僕も行こうかな。彼女──深夜子ちゃんには、一言言っておきたいことがあるんだ」
 ねえ薊? と意味ありげな視線を相棒に投げ掛ける。彼女は無言のまま心得てくれたようだ。
「それでは僕も。一度関わったことだし、何よりここで投げ出しては後味が悪い」
「同感っスよ梅ちゃん先輩! これ以上俺の聖域(サンクチュアリ)に、干柿増やされちゃ堪んねぇからな! 全くもう!」
 花鳶梅丸と江口藍蔵の先輩後輩コンビも、勢いよく名乗りを上げた。
「何だ江口、おまえも行くのか。残ってくれても構わないが」
「し、心配してくれるんスね! まださっきの拳骨食らったトコ痛いけど、俺、感激!」
「いやそれ、足手まといとか邪魔とか引っ込んでろとかそういう類なんじゃね?」
 さくりとツッコミを入れた梶浦濱路は思案する様に頭を掻いた後、ひょろりとした細い腕で曖昧に握った拳を突き上げた。
「よーし、今回俺ちょっと頑張っちゃうよ」



 霞む視界、横たわった自分の見上げる先に少女の微笑があった。彼女のふくよかな頬の白さだけが妙にはっきりと、明かりの乏しい薄暗闇の中で際立って見える。
 彼女に余すところなく見つめられている自分の胸からは、先ほどからとろとろと血が──それ以上の何かが流れ出している。
 彼女の凶刃は、自分を貫きはしなかった。むしろ、傷は案外浅いようにも思う。
 だのに、血だけが不自然なほどに溢れ、まるで献花かの様に胸に置かれた剣──時計の針の形をしたその剣を、赤い色に濡らしていた。
「他の方のようには、致しませんよ?」
 他? 考えようとすれども思考は儚い。
 身体が、手足が冷えて痺れていく。動かない、動けない。
「折角取っておいた貴女ですもの。ゆっくり、ゆっくり、ですよ?」
 男の一人が椅子を彼女に供した。鷹揚に腰を下ろした深夜子は、傍らのミヨコへと甘えるような視線を絡ませる。
「私の可愛いお人形さん。私の受けるべき責め苦がいらしたら、また私の身代わりになってくれます、ね?」
 ミヨコは陶器の様に無機質だった頬に、深夜子と同じ微笑をわざとらしいほどに貼り付ける。主と同じ顔、同じ形に作られた自分は主のモノ。主のために在り、主のために力を揮う。
 ミヨコは深夜子に跪き、深くこうべを垂れた。
「“主様”のお望みのままに、ですよ」



 セレスティの車で一行が旧鳥辺邸に到着したのは、時刻も深夜に差しかかろうという頃だった。
 高い石塀と植樹に囲まれた敷地は、一般的な家屋五、六件分の広さが優にあると見える。屋根から察するに屋敷の建物自体はこじんまりとしているようだが、鬱蒼とした木々に覆われた庭部分がやたらと広大だ。
 濱路が靄に化身して周囲の様子を偵察した結果、少なくとも門から玄関扉へ続く道には人の気配は無いようだった。
「家の扉とか窓は閉まってた、つか窓にはあれ、鉄格子っての? あれついてて超モノモノシイ。玄関の鍵? んあ……いやだって見てくるだけでいいって。あ、中暗かった。これは確か。庭のほうはもう真っ暗で見えねぇや」
 企業が管理しているとの情報通り、門扉には有刺鉄線が巻きつき私有地の看板が掲げられている。強攻という名の不法侵入を犯さないことには、第一関門すら突破できないらしい。
「えー、じゃあ塀に登って乗り越えるんスかぁ?」
 ぴょこぴょこ背伸びをして中を覗き込もうとする藍蔵に、梅丸がふむと唸る。
「ここが鳥辺深夜子らのアジトだと仮定すると、いやその前提で来たわけだが。ならば現在も使用しているはず……通用口のようなものがあって然るべきなんだが」
「そういや、あれ、あっち曲がったトコ? 別のちっちゃい戸みたいなのあったけど」
「キミさ、そういうの早めに言おうよ。その口、飾り?」
「ヒ、ヒドッ!」
 濱路の案内で一行は木戸を見つけた。施錠されていたが、靄として中に入った濱路が内側の閂を外したので問題は無い。
 先陣を買って出た藍蔵を筆頭に慎重に足を踏み入れると、そこは庭のただ中のようだった。枝葉が覆い被さり天蓋となり、夜闇の暗がりを一層深めている。かすかに届く月明かりに目を凝らせば、小道らしきものが二本、左右別々の方向に延びているのが見えた。
「早く、蓮さんを探さなくては」
 ずっと黙したままだったユキが独白の様に口を開く。言葉のまま歩き出した彼は振り返りもせず、道の一つを選んで闇の向こうに消えていく。ユキの傍らにいたしえるは当然のようにその背中を追いかけ、暗い夜闇の木立の中へと二人の姿はたちまち見えなくなった。
 それじゃあ、と次に足を踏み出したのは零樹で、彼はしえる達とは別の道を選ぶ。梅丸がそれを見て、心得た風に頷いた。
「確かに、二手に分かれたほうが効率が良いかもしれない。蓮巳くん、僕も行こう」
「え、え、え、じゃあえっと俺は……」
「そんなん、上から行ったほうが早いっしょ」
「私は足が悪いので、皆さんどうぞお先に」
 道を選びあぐねた藍蔵の前で、濱路は再び靄となって上空へ立ち昇り、セレスティはにこりと笑む。藍蔵はえーとうーんとと迷った挙句。
「っしゃあッ! 女の子は俺が護るッスよー!」
 しえるとユキの方向に突進していった藍蔵が、何をどう勘違いしたのか解ってしまってセレスティは苦笑する。そして呼吸を整え、心を静めると。
「……水底の様に穏やかな夜ですから、感じ易くて幸いです」
 辺りのに漂う薫り──そこに微かに残された思念を探り始めた。



 人形は人のためのモノ。
 ヒトガタは身代わりのモノ。
 私は、主様のモノ。



 駆けて来た藍蔵を途中で加えたしえるとユキは、整えられた道を進んで行った。
 やがて小太刀の連なりが途切れ、視界が開ける。どうやら庭を抜ける道を選んでいたらしい、目の前に聳えるは屋敷の白壁だ。
 横に長い敷地の西側に門扉と玄関はあった。東側に広がる庭を出たばかりのここからだと、屋敷の壁に沿って歩いていかなければ扉までは辿り着けない。念のため一階の窓を確認してみたが、濱路の報告通り掴んで揺すってもびくともしない鉄格子が嵌められている。人が住まなくなったからこうされたのか、それとも鳥辺家がここで暮らしていた頃からこんな監獄の様な防備がしてあったのか、知る手立ては残念ながら無い。
「蓮さんって、この家ン中にいるんスかねえ? むむむ」
 赤縁眼鏡を装着し、眉間に皺が寄るほど熱心に藍蔵は壁を見つめている。透けろ〜透けろ〜と、大変解り易い言霊を唱える藍蔵に、しえるは腰に手を当てて訊いた。
「どう? 何か見えて?」
「むー……見えねえなあ。まっ暗っス、って痛ェっ!」
「そのままこっち見るんじゃなくてよっ」
 透視能力のあるらしい双眸をうっかりしえるに向けてしまい、梅丸以上に容赦ない平手打ちが藍蔵の頬に飛んだ。見事な紅葉がそこに咲き、藍蔵は涙目、しえるは当然と鼻を鳴らす。
 そんな二人の遣り取りにユキはにこりともせず口も挟まず、常の愛想笑いすら浮かべていないのは極度の緊張状態にあるせいか。一歩下がって屋敷の全体を見回し、静か過ぎるその威容を検分する。
「梶浦さんの仰った通り、明かりがまるで点いていませんね。人のいる気配が全く感じられない」
「そうね。あと気になるのは、ミヨコを乗せて走り去ったあの黒塗りの車。外にもここにも、あれが見当たらないわ」
「えー、それじゃあここ、ハズレなんスかあ?」
「齎された手掛かりの中では、ここ以外に鳥辺深夜子嬢に縁のある場所はわかりませんでした。もっとじっくり調査していただければ、別の候補が浮かぶかもしれませんが、如何せん」
 時間が、とユキが苦々しく零す。
 藍蔵はほんの数時間前の、ミヨコが女性を殺めた場面を脳裏に描いた。直後から急展開だったのでゆっくり考える時間も無かったが、思い出すだに顔を顰める酷い光景だった。
 何たって、まだ肌に張りも艶もある我が聖域がしおしおの残念無念な干し柿にぃっ! てことは、聞いたところまだまだ若さ全開の攫われた女店主も、助けなければしわしわにぃぃ!
「ここしかわかんねえってなら、ここで探すしかナイっスよ! こうやって俺が協力してやるんだから! おおおおお、何でもかんでも丸見えっスぅぅ!」
「だからこっちを見るのはお止しなさいなっ!」
 再び藍蔵がしえるに頬を張られた、その時。
 静寂に沈殿していた闇の気配に、突然、狂暴な波が打ち寄せた。
「ひえっ!」
 藍蔵が悲鳴を上げる、同時に、しえるは後ろに跳び退く。崩れた体勢を庇いながら着地し顔を上げると、今さっき自分が立っていた場所に拳が打ち込まれているのが見えて瞠目する。長身の男がのめる様に、拳を大地に叩きつけていた。
 目標を捕らえ損ねたことに気づいたらしい男は小さく舌打ちし、ゆらり、揺らめく炎の様に身体を起こす。そして真正面のしえる、脇で尻餅をついていた藍蔵、身構えているユキを順に検分していき、
「……オマエ」
 最後に見つけたユキをまっすぐに指す。白銀の月光に照らされた彼はユキと同じ年頃らしき青年、藍の髪が微風に靡き、その前髪の下で宵空の如き濃紺の瞳がユキを眇めた。
「カタ、か」
 カタ? 頭の中で鸚鵡返ししながらしえるは闖入者の瞳を凝視した。人にしては美し過ぎる瞳。先刻知ったヒトガタの特徴、輝石の目──まさか。
 では彼はヒトガタなのか? いやしかし何か違和感があった。ああそう、彼は。
「片目だけ、なのね」
 男がしえるに視線を移す。彼の右目は湖面の様に澄んだ青い瞳だったが、左目は一般的な日本人のものと何ら変わらぬ黒目。初めて見る奇妙な容貌を気にする間もなく、しえるは辺りを囲む気配に肌を粟立たせた。
 いつの間に集っていたのか、黒いスーツの男たちが四、五人、円を狭める様にして三人に近づいてくる。その彼らもまた、左右どちらかの目だけが赤や緑の宝石の色をしていた。
「あーら、手厚い歓迎だこと。嬉しくなってしまうわ」
 声高に悪態をつきながら、ちらとユキを一瞥し距離を測る。目配せに彼は気付かなかったが、跳躍して辿り着けない遠さではないことは了解した。
「ここで間違っていなかった、と解釈して良さそうですね」
「おお、そうか! おいおい怪しさ爆発スーツ軍団、蓮さん返すっスよぉ! 俺もう、気張っていくっスからね!」
 藍蔵がしえるの前に踊り出る。仁王立ちして宣言する様はまるで壁。背中に護られたしえるは困惑に目をぱちくりしていたが、藍蔵はそんなことお構い無しで、眼鏡のブリッジをぐいっと押し上げた。
「むうううっ! えっとそこの右の固太り、弱いは左の脛! あっちのでかいのは……あ、くそ鍛えてやがる。んでさっきの兄ちゃんは、」
 高らかに言い放っていた藍蔵に向かい、先ほどの青年が素早く動く。
「……ザツオン」
 再びの舌打ちとともに吐き出された、不快を露にした声。言い終わらないうちに喉を鷲掴まれた藍蔵はぐえっと悲鳴を上げるも、それは締め上げられた咽喉で潰れる。身体はそのまま持ち上げられ、当然藍蔵は全身でじたばたと暴れて抵抗した。
「ちょっと、離したげなさいなっ」
 しえるが手を虚空に伸ばすと、その手の内に柄が現れすぐさま刃を生やす。蒼凰を喚んだしえるは真っ先に青年に剣を薙いだ、しかし危機を察して青年は紙一重で交わす。藍蔵は投げ捨てられ、偶々軌道上にいたユキに情け容赦無くぶつかった。
「ってぇ! ……って、うわああああ、まな板みたいな胸に抱きついちまったっスぅぅぅぅ! サーイーアークー!」
「それはこっちの台詞ですよ! 重い苦しいどいてくださいっ」
 もつれる二人をさて置いて、しえるは剣を構えたまま取り囲む一堂にきつい視線を配って牽制した。ヒトガタの様な瞳をひとつだけもつ彼ら、果たして人間なのか人形なのか。判らない、人ならばそんな簡単に斬り捨てるわけにはいかない。威嚇には有効だが、さりとてあからさまに敵愾心を剥き出しにしてくる彼らを突破するには──。
 思考を高速で巡らせながら、しえるはやっと立ち上がったユキを見た。
 ────そこで、ふ、と唇を綻ばせる。
 ユキが不思議そうな顔をした。だから、大丈夫よ、と透明な声で呟いた。
 大丈夫、貴方は私が護ってあげる。

 昼間に二人きりで話した時に感じた違和感。銀髪のヒトガタが、まるで夢の中で出逢った男の様に見えた。
 ヒトガタを作るには文字通り命を削ると言った人。執着や想いを核に、ヒトに最も近い姿を象る人形。
 ならば、ならばあの人形の中には、夢の人の命が──哀切なほどに燃やしていた執念もが、宿っているというのだろうか。



 零樹と梅丸は庭の木立の中を歩き、やがて少し開けた場所に出た。ちょっとした広場になっているそこには、六角形の屋根をもつ木製の東屋が建っていた。
 角ごとに立つ六本の柱で囲まれたその中に、月明かりに照らされた人影が見え、二人は足を止めた。それを待っていたかの様に影は静かに屋根の下から歩み出て、二人の前に姿を現した。
 一重の瞳に白くふくよかな頬、飾り物の石膏像を思わせるおもて──黒衣の少女。視認した梅丸は息を呑み、零樹は切れ長の眼を探る形に細めた。
「深夜子ちゃん……いや、ミヨコちゃんのほうか」
 双眸に金の光が宿っていることが夜目にも見て取れる。名を呼ばれたミヨコは微かにすらも反応せず、予め決められていたらしい言葉だけを唇に載せた。
「貴方がたは、責め苦、ですか?」
「誰に対する? って、訊きたいんだけど」
「“主様”の受けるべき責め苦がいらしたら、また“主様”の身代わりになってさしあげます、よ」
 唇以外の筋肉を動かさず淀みなく述べる彼女に、へえ、と零樹が相槌を打つ。
「深夜子ちゃんなら言いそうだよね。人形は身代わり、人形はただのモノ」
 キミの主様はどこ? 零樹の問いにミヨコは答えない。
「僕ね、キミの主様に言いたいことがあるんだ。僕が深夜子ちゃんの責め苦なら、キミじゃなくて直接本人に与えてあげなくちゃ」
「……“主様”の代わりになることが、ミヨコの意味」
「そうやって自分の人形に言い聞かせたってことかな、あの、いたずらが過ぎるお嬢ちゃんは。……ああそうか、だから深夜子の“ミヨコ”、なのか」
 語尾は独白のように懐中の薊に語りかけた零樹へ、
「蓮巳くん」
 堪らずと言った風に、梅丸が遮った。
 顔を顰めた困惑の表情は、零樹とミヨコの会話の意図が読めなかったからだ。梅丸はミヨコが人を殺めた現場を見ている、今自分はその剣を持っていた人形と対峙している。既に人が大勢死んでいる事件の核心に歩み寄っているのだ、出来るならば早急に悪行を止めなければ。
 そう梅丸が、半身の構えでミヨコを警戒していると。
「いいよ、じゃあ、僕は行く」
 呆気なくそう言って、零樹は梅丸の横をすたすたとすり抜けて行った。
 え、と眼を丸くし、引き留めかけた梅丸の手を零樹は意に介さない。
「だって、僕は人形を傷つけるつもりはないからね。本物の深夜子ちゃんを探すよ」
「そ、それは尤もかもしれないが、何処を探すんだ?」
「問題はそこなんだけど。ねえ薊、あの子は何処に隠れてると思う?」
「行かせません、よ」
 ミヨコが地を蹴る。数メートルの距離は瞬時に詰められ、零樹の目の前に立ちはだかった。
「蓮巳くん!」
 空の両手が零樹に掴みかかる。その指先が触れる寸前で梅丸が零樹を突き飛ばし、見事な体捌きで細い人形の腕を弾き飛ばした。ミヨコは一瞬よろけたがすぐさま重心を取り戻し、身体を支えた左足を軸に右脚を梅丸の太ももに叩き込む。
「遅いな」
 しかし梅丸はわざと身体を傾いでそれを避け、流れる動作でミヨコの左手首を捕まえる。捻り上げて、背後に回り拘束した。
 その様子に、一応助けられたはずの零樹が、尻餅をついた姿勢のまま顔いっぱいに不快を示す。
「ちょっと、乱暴は止してよ。ミヨコちゃんに傷でもついたらどうするの」
「君はどっちの味方なのかな!?」
「モチロン、健気な人形最優先」
 そんな会話の隙を突き、ミヨコが反動つけて梅丸の額に後頭部をぶつけてきた。当たりは軽いものの脳味噌がぐらりと揺れ、ミヨコを捕まえる腕の力が僅か緩む。逃げ出そうと暴れられ、再度頭突きに襲来されて目の前に火花がチカチカ飛んだ。
 家の宿業により忍びの技を会得している梅丸は、彼女のでたらめで乱暴な動きに悟るところがあった。この少女の攻撃方法、まともな武術と言うよりは喧嘩殺法──つまり、実践重視の力技だ。こんな滅茶苦茶なやり方で、あの大きな剣──針だとかいうあれを振り回していたのか。
「蓮巳くん、残念だが君のリクエストには答えられそうにない」
 背中から押し倒して、ミヨコを地にうつ伏せる。鳩尾が圧迫されるように倒したというのに、ミヨコは悲鳴の一つも上げない。これが人形だということなのかと思っていると、目の前に立ち上がる影が見えた。
 案の定、人形に狼藉を働いた自分を、零樹が絶対零度の瞳で見下ろしていた。
「離してあげて。その子は悪くない」
「言葉を返すようだが、この人形は人を手にかけている。僕はその現場を見た。それに、あの針。あれが時計の針だというのなら、時計盤があるはずだ。針を戻して時を戻す、その盤を僕はこのミヨコだと考えている。だから、これさえ壊せば鳥辺深夜子の企みを阻止できるんじゃないだろうか。それによって深夜子に何が起きるのかは未知数だが、躊躇してばかりはいられないだろう」
 人形の動力と人の命とは異なるかもしれないが、梅丸は人の形──身体を壊す方法なら心得ていた。腕力では自分のほうが勝っている、このままミヨコを壊すことは可能だ。だから黙認してくれと零樹を厳しい眼差しで仰ぐが、白銀の月と夜闇とを背負った彼は、首を横に振るのみ。
「僕だって深夜子ちゃんがどうなろうと知ったことじゃないけど、その子を傷つけるのだけは同意出来ない」
「しかし、」
「安心してよ。手立て無しで言い散らかしてるバカじゃ、僕はないから」
 え、と瞬いた梅丸の目の前で零樹は袂を探り、一枚の紙──札らしきものを取り出した。
「嵯峨野氏、の祖父殿だったっけ。ちょっとの間、この子を借りるね」
 地に押し付けられたミヨコの顎を上向かせ、白い頬についた泥を拭って綺麗にしてやる。不審そうな視線を向けた彼女の額に、零樹はその札を貼り付けた。



 靄となり早々に木立を抜けた濱路は、先ほど外観のみを調べた屋敷の内部に侵入してみた。一階から二階、隈なく漂ってはみたものの、闇に閉ざされた室内は人の気配がまるで無い。幾つかの部屋に家財道具は残っていたが、どれもほこりを被った布が掛けられ、この屋敷がもう長い間住人を受け入れていないことが知れた。
 収穫ナシってことで、と外に出た靄は、中空に揺らめきながらぼんやりと、思考とも呼べない朧な考えを虚空に浮かべる。
 さっき、目の前で人が死んだ。正直、「死」という概念が自分にはよく解らないけれど、大変そうだということは何となく解った……気もしないでもない。
 だって俺って死なないしさァ……って、あそーか、俺死なないんだ。死なないなら危ないことあっても、ダイジョブじゃない? もちょっとイッとく? みたいな?
 そんな風に、靄が再度の頑張る宣言にゆるい拳を握り締めていると、不意に眼下が騒がしくなった。ナニゴト、と窺ってわーおと驚く。知った顔──つまりユキにしえる、藍蔵の三人が、どう見ても友好的ではない男達に囲まれ攻撃を受けていた。藍蔵が投げられ、しえるが剣を出現させ、ユキが何かを喚いている。
 え、これ、助けドコロ? ていうか、え、あれ、助けるってどーやって?
 靄があたふたとしているうちに、男達は三人を分散させる作戦に取り掛かった。人数で勝ることを利用して、それぞれを分断、別々に攻撃。固まっていた三人が切り分けられる様子が上からよく見え、靄はその内、藍蔵が他の二人からじりじりと引き離され、木に覆われた庭のほうへと追い立てられていくのを目で追った。
 と、黒いスーツの男に飛び掛られた藍蔵が避けようとしてよろめく。もつれた足で転び、うわあっ! と悲鳴を上げて顔面から地面に激突する────寸前、その姿が地中に吸い込まれた。
 え? は? 何、今のナニ?
 面食らった靄は──濱路は、藍蔵が消えた地点へと飛んだ。そして気づく、彼が落とし穴に落ちたのだということを。
 地面に穿たれた狭い穴の中へと、濱路は実体をとりながら降り立った。数メートルの深さを経て、濱路は土の上へと着地する。見れば、傍らで引っくり返った藍蔵がイテテと頭を摩りながら身体を起こしている最中で、目が合った途端、うひょうっ! と素っ頓狂な声で叫ばれた。
「何でいるんスかっ!」
「いや、追っかけてきただけだし」
 そこで二人は顔を見合わせたまま同時に気がつく。そう、互いが見える、つまり明かりがある。
 地中に落ちたはずなのに、明るい?
「あらぁ。不法侵入、ですよ?」
 不意に声をかけられて背筋が総毛立つ。緊張に肩を強張らせたまま振り向けば、そこに立っていたのは黒衣の少女。二人同時に瞠目した、見覚えがある、けれど決定的に違う。
 自分が落ちた場所は土壁の地下室の様で、不審に思った明かりは壁に備えられた幾本もの蝋燭の炎だった。
 そしてその部屋の中央に立つ少女は、数時間前に自分の目の前で人を刺し殺した少女────によく似ているけれど、目が違う。作り物ゆえの完璧な美しさを湛える人形のそれではなく、血の通った人間の持つ黒い瞳。
 藍蔵は「レン」で聞いた話を思い出す。人を殺めていたのは人形のミヨコ、その人形の持ち主が同じ名前のみよこ。鳥辺深夜子。
「ふふぅ。明かり取りの格子窓が取れてしまったの、ですね。長年手を入れていなかったから……嫌、ですね」
 深夜子はそう言って淡く笑む。それが不安定な赤い光に照らされて、どうしてだが凄惨な陰影を刻んだ。言い様のない、底冷えするかの恐怖が彼女の口許から滲んでいるように思えた。
「って、そんなビビッてる場合じゃないッスよぉ! 蓮さんドコッスかあ!?」
 偶然ながらラスボスに直行、これは好機だと奮い立ち、腰を上げた藍蔵の袖をチョイチョイと濱路が引く。何ごとかと彼の指す方に目を遣って、絶句した。
 深夜子の足元の向こう、土が剥きだしの床に横たわる女性が胸から血を流している。そしてその上体には、細長く鋭いもの──剣らしきものが置かれていて、そのどちらにも藍蔵は見覚えがあった。
 女性は探し人として教えられていた碧摩蓮。そして彼女を貫いたのかもしれない剣は、目の前の少女と酷似した殺人者が手にしていた凶器。
「ミヨコ」
 不意に深夜子が言った。腕を組み、天井に向かってもう一度自分と同じ名前を呼びかける。
「ミヨコ、いらっしゃい」
 しかし誰の足音も近づいてこない。静寂を聞いて、彼女は何故か笑みを深くした。
「困りましたね、呼んだらすぐに駆けつけるようにと言いつけてましたのに」
「んーと、お人形のほうのミヨコちゃんに?」
 場にそぐわぬ暢気な口調で問う濱路に、深夜子はくすくすと微笑しながら頷く。
「だってあの子は、私の身代わりですもの。私の代わりになるためだけの存在。だからミヨコ……身代子という名前、ですよ?」
 中空に人差し指で名を描く深夜子の微笑は崩れない。その優位を示す態度に怯んでいるのか、それとも相手が女の子であることに躊躇しているのか、藍蔵は一歩すら踏み出さない。
 濱路は唇をへの字に曲げてうーんと唸り、
「まあその、名前とかってのはどーでもいーんだけど。早く助けないと蓮さんヤバくない? ほらほら」
 自分より上背のある藍蔵の背中をドンッと前に押し出した。うっわあ! と悲鳴を上げた藍蔵はたたらを踏んで二歩三歩、深夜子は笑いながら蓮を跨いで後ろに下がる。よろめいた藍蔵は前にのめり、手を突いたのは蓮の体の上だった。
「あ、やわらかっ……でなくてぇ、血ィィ!!」
「ほーら担いで逃げればいいっしょ。その子だけじゃ襲ってこないみたいだし、早くしないと上の黒スーツとか来るんじゃね? ……って、ああ、遅いか」
 気の抜けた濱路の言葉は、口調とは逆に緊迫した状況を伝えていた。深夜子の後ろの暗がりの中から、滲み出す様にその黒スーツが進み出る。先ほどからそこに控えていたのだろうが、まるで気配を感じなかったことに藍蔵はごくりとツバを飲み込んだ。地上で襲われたときから何となく感じていた違和感、そう、この男達は人としての気配がない。まるで、人の形をしたモノ。
「モノはヒトのためにあるもの。さあ、私を責め苦から守ってください、ね?」
 深夜子の号令を合図に男達が地を蹴る。ぬおっ! と藍蔵は悲鳴を上げたが、濱路をちらりと見遣ると蓮の身体をその手に預け、仁王立ちを決め込んだ。
「あれ、まさか庇ってくれてるとか?」
「今度は逃げる場所ないし、俺ってケッコー頑丈ッスからねェ! 蓮さんのこと、任せたッスよ!」
「お、カッコイー」
 全くそう思っていなさそうな声援に応えるかのように、壁となった藍蔵は素手で襲い掛かってきた男達を受け止める。
 その背中に守られながら濱路は腕の中に抱えた蓮に視線を落とす。不思議なことに胸の剣は蓮から滑り落ちることなく、まるでそこに張り付いている様。流れる血も緩やかながら勢いを止めない。あまり良くない状況、ということは濱路にも察せられた。
 そして、自分にも出来ることがあるらしい、ということも。
「……ねえ、深夜子ちゃん。深夜子ちゃんってばー」
 壁の後ろから呼びかける声に、藍蔵は「はあ?」と驚いたようだがすぐさま防戦に集中しなおす。呼ばれた深夜子は可愛らしく小首を傾げ、
「はぁい?」
「ん、あのさ。深夜子ちゃんの嫌いなものって、なーんだ?」
 深夜子の眉がかすかにぴくりと動く。それを見て取るや、濱路は靄へと姿を変えた。



 一人の少女の姿があった。
 漆黒の闇色のドレスを纏った彼女は富裕な家の一人娘として生まれ、両親の愛情を一身に受け慈しまれて育っていた。
 だが、彼女は生まれつき病を身に宿し、未だ初潮も迎えぬ歳にして悲観的な宣告を医師に告げられる。両親は深い嘆きに包まれ、少女は明けぬ夜を思った。ああ私は、もう二度と光射す朝を迎えることが出来ないのだ。幾度天に祈っても、甲斐なく命をもぎ取られていく。悲しい、寂しい、悔しい。
 しかし少女はそれでも、気丈に振舞おうとした。両親に最期まで愛される娘でありたいと、父と母の掛け替えのない存在のまま生き、そして看取られようと心に誓った。

 だがその純粋で健気な誓いは、他ならぬ両親の手によって粉砕される。

 ベッドに横たわり懸命に闘病生活を営んでいたある日、少女は両親から一体の人形を見せられた。
 少女は愕然とした。人形は少女に瓜二つの容姿を持ち、全く同じドレスを着せられ、そして両親に自分と同じ名で呼ばれたのだ。
『ミヨコ』
 両親は朽ちていこうとする自分ではなく、朽ちることのない美しい作り物に向かって笑顔を注いだ。
 ミヨコ、これは死なないミヨコ。お前の身代わりの子。
 深夜子、お前も独りじゃなくなって嬉しいだろう?

 少女は──深夜子は、その瞬間焼けつくほどに“生”を渇望した。
 どんな方法でもいい、どんな悪行でも構わない、他人の命を奪ったっていい。
 私はまだ生きている、そしてずっと生き続けるのだとこいつらにわからせてやりたい。

 ────私は、決して、死ぬものか!



「……そんなことが、あったのですね」
 ふう、とセレスティは細く長い息を吐き出した。
 瞼を開ければ、闇に広がるは屹立する木々の影。庭の端に一人佇んだまま、セレスティはこの地に残留する思念を探っていた。何か手掛かりでも掴めないかとの試みだったが、成果は予想以上だったと言うべきか。
 感じたのは恐らく、今から十五年前に彼女が強く心に刻んだ感情。長過ぎる生を行くセレスティの心にすら突き刺さる、命への熱情。そして、鳥辺深夜子を変貌させてしまった、ミヨコというヒトガタの存在。
 ミヨコは、死に臨んだ深夜子が自ら作らせたものだと思っていたが、逆だったようだ。深夜子に歪んだ執着を持っていたのは彼女自身ではなく、“娘”という存在を失うことを極度に恐れた彼女の両親だったらしい。
 哀れ、と表するべきか。しかし、だからと言って彼女の取った方法は褒められたものではないだろうに……。
 と、思考に浸っていたセレスティの鼓膜を異質な音がノックした。気配を感じてそちらを見ると、先刻自分たちが入ってきた木戸がキイと軋んで開くところだった。
「……こんばんは」
 姿を現した人物に、セレスティは一歩退いて間合いを取る。月明かりに照らされたその人影は、深夜子と同じ年頃の少女だった。
 頭の頂上近くでひとつに束ねた長い髪が、金色の光を淡く放つ。吊り上がった眦は意志の強さを表し、一瞬こちらの存在に驚いて見開かれた瞳は、すぐさま不敵な笑みへと取って代わられた。
「おまえ、こんな所で何をしておる?」
 見かけの年に不釣合いな物言いが飛び出してきて、セレスティは少し苦笑する。
「そう仰る、貴女は?」
「そう不審がるな。おまえと事を荒立てるつもりはない、ヤるんならあのババア小娘んトコに行けい」
 少女曰くの小娘というものが、深夜子を指すだろうと仮定する。ならば、自分たちの旧鳥辺邸訪問目的を凡そ把握していることになる。
 つまり、鳥辺深夜子と近しい関係にあり、現状をも認識している人物、と当たりをつけるべきだろうか。
「深夜子さんは、今、こちらに?」
「そんなもんわしが答える義理は無いじゃろうて。ただまあ……そうじゃな。三つ教えてやるからそこから考えるがいい」
 少女は薄い胸を反り返らせ、腕を組んでにやりと笑む。
「ひとーつ、わしは小娘に犬と玩具を貸しておる。ふたーつ、その期限は今宵の月が天を極めるまで。みーっつ、ところでおまえは“カタ”を知っておるか?」
「ふふ、三つ目が質問ですね。では二つ教えてくださったお礼に答えましょう、“ノン”」
 首を横に一振りしてから、セレスティは天空を見上げた。光を感じるのみの瞳が知らせる月の位置は、ほぼ天頂に登りつめていると言っていい。少女曰くの“犬と玩具”は、そろそろ返却期限ということか。
「ではついでに、わしが今からすることを三つ教えてやろう。ひとーつ、貸してやった犬を呼ぶ。ふたーつ、家に帰って就寝する。みーっつ、ではおまえは嵯峨野征史朗を知っておるか?」
「それに答えると、私にどんなメリットがあるのでしょう?」
「無いな。ふは、まあいい。では、邪魔はするなよ?」
 キラリ、と彼女の胸元で何かが光った。銀の煌きを弾くそれが長細い笛の形をしていることに気づくや、少女がそれへと肺一杯の息を吹き込んだ。
「…………!」
 大音声を予想して身構えたセレスティは眉間に皺を刻んだ。
 笛が、何の音も発しなかったからだ。──否、可聴域の音を発しなかったと言い換えるべきか。
「成る程。犬を呼ぶだけに、犬笛ですか」
 少女は鎖で首に掛けた笛を弄びながら、ふは、と笑った。
「ご名答。当てた褒美に、三つ教えてやろうかのう。ひとーつ、これはヒトガタを呼ぶ笛。ふたーつ、わしにとってヒトガタは犬か玩具。みーっつ、」
 一旦言葉を切った少女が、性悪と評しても差し支えない下品な笑みを浮かべる。そして人差し指を、鼻先へと突きつけてきた。
「わしがおまえらと本気でヤり合うのは、もう少し後じゃ。────セレスティ・カーニンガム?」



 これが明らかに人外のモノであると判別できたのならば、刃で切り裂いても問題は無かったのかもしれない。しかし、なまじヒトの形をしているもの──人かもしれないので、柄を急所に打ち込み気絶させるに留めておく。そのほうが、戦いにくいこと甚だしかったけれど。
「……ってワケで、時間がかかっちゃったけれど。さあ、後は貴方だけよ?」
 黒スーツの男達を地に倒したしえるは、あの青年に向かって剣を構え直した。残るは片目に濃紺の輝石を持つ彼のみ。
 彼は黒スーツ達を盾にするかに立ち回り、今もしえるから十分な距離を取っている。最初の一撃こそ派手だったが、藍蔵を締め上げた以外には積極的に攻撃してくる素振りが無い。
「貴方、あの子の何なのかしら? 私達を襲ってくるってことは、あの子の味方?」
 青年は答えない、どころか顔の筋肉すら微かにも動かさない。ヒトの形をしているが、どうにもヒトとしての気配が希薄な存在。ヒトガタは人形、ならば、あの彼こそヒトガタというのかもしれない。
「蓮さんは何処ですか?」
 背中に庇っているユキが声を荒げた。青年はやはり答えない。
「敵対する相手には、問答無用ってことかしら? ユキ、貴方といいヒトガタというのは、主様にしか従順じゃないのね」
 苦笑交じりにしえるがそう言った時、初めて青年の頬に動きがあった。ふるふる、と首を横に振ったのは「否」の意思表示らしい。彼は自分を指さして、
「……ヒトガタ」
 そしてユキを横柄にも顎で示して、
「カタ。……チガウ、モノ」
 カタ? そういえば、先刻も彼はそんなことを言っていたような……。
 と、青年に再び反応があった。はっと突然振り返る、そしてこちらに背を向けて迷うことなく地を蹴った。
「ちょっ、待ちなさいな! 逃げるの?」
 青年は庭のほうへと駆けていく。追うべきか、一瞬躊躇したしえるへユキの声が飛んだ。
「しえるさん、音です。この音、あの方が向かわれた方向から聞こえます」
「音?」
 顔を見合わせた二人の間に、刹那困惑と言う名の沈黙が下りる。ユキはぱちぱちと瞬きし、不思議そうに首を傾げる。
「まさか、聞こえないのですか? この……今、止んだ音が」
 しえるの表情が険しさを増す。辺りは夜のしじまが支配するのみ、風の吹き抜ける儚い音以外は何も聞こえない静寂。
 二人の間に情報の差異があるらしいことを了解し、しえるはユキに歩み寄ろうと一歩を踏み出す。そのほぼ同時に、地に倒れていた黒い塊たちがむくりと起き上がりだした。
「あら、まだやる気?」
 咄嗟に身構えたしえるを、しかし立ち上がった男達は一顧だにせず走り出す。向かう先は先刻の青年と同じだった。
 彼らの姿が庭の木立に消えていくのをしえるとユキは呆然と見送った。唐突にして呆気ない敵襲の退却に言葉も無い二人が立ち尽くしていると、見つめる闇の中から歩み出てくる人があった。十二分に見覚えのあるその人は、他ならぬセレスティだった。
「おや、お待たせしていましたか?」
 杖を突きながらゆっくりとした足取りで現れた彼に、どう反応すべきかしえるは考えあぐねる。とりあえず、と剣を虚空へ還した。
「ねえ、そこから出てきたってことは、やたら屈強な殿方達と擦れ違ったはずだけれど?」
「ええ、彼女の言葉を借りれば“犬と玩具”の皆さんですね」
「……は?」
 聞きなれない単語を飲み込みかねているしえるに頓着せず、セレスティは辺りをぐるりと見渡す。そしてその視線を、ユキの上で止めた。
「鳥辺深夜子嬢の目的が解りました。貴方の仰った通り、蓮さんの命が危機に晒されています。早急に探さなくては」
「それは勿論ですが、先ほどの」
「彼らはもう引き揚げましたよ。今この場で私達の邪魔をする存在は二人だけです。本物の深夜子嬢と……彼女の身代わりに生み出されたミヨコ嬢、ですね」
「それが、この子?」
 声と足音に、三者三様一斉にそちらを向いた。
 セレスティと同じく暗い庭から出てきた人影は、零樹と梅丸だ。迎えた三人の視線が、梅丸が両腕に抱く少女へと注がれる。ぐったりと四肢を投げ出し瞳を閉じた黒衣の少女は、誰何せずともその名を知れた。
「庭の中に東屋があってね、そこで出くわしたんだ」
 零樹の説明に梅丸が頷く。ミヨコの額に貼られた札は言霊を込めた特殊な札で、零樹の意に従う人形を作り出すことが出来るのだと先ほど本人から聞いた。尤も、元々自我の確立しているミヨコ相手では、こうしておとなしくさせる程度の効力しか発揮しないようだが、ミヨコを傷つけないことが主たる目的である零樹にはそれで十分なのだろうと、梅丸は理解している。
「では、こちらのミヨコさんは戦力外になったのですね。残るは本物の深夜子さんだけ、恐らく蓮さんは彼女と共に……何処にいるのでしょう?」
「さすがにそれは教えていただけなかったんですよね」
 セレスティが苦笑する。誰から、の部分が省かれていたが、ユキがそれを問う前に梅丸ははたと気づいた。
「ところであいつ……江口は、どうしたかな?」
 ぴくり、と眉が動いたのは二人同時。しえるとユキが顔を見合わせた。
「そういえば、先刻から見てないわね」
「私も圧し掛かられたのを突き飛ばした後のことは、ちょっと」
 二人が首を捻った、ちょうどその時。

  ────ああああああああああああああ……!!

 絹を引き裂く悲鳴とはかくやらん。女の甲高い、そして臓腑のそこから搾り出したかの絶叫が夜闇を蹂躙するかに響き渡る。一同は瞬時に顔を見合わせ、口にすることなく共通の認識を得た。
「江口のことは後回しにしよう。今、地下から聞こえたように思ったが」
「そうね、足の裏にびりびりきたわよ。でも、地下って?」
「そのことを言おうと思ってここまで来たんだ。ミヨコちゃんと会った東屋、彼と一緒に調べてみたんだけど、椅子の下に隠し階段が会ったよ」
「ああ。月明かりで確証はないが、うっすらと足跡のようなものがついていた。現時点で最も有力な候補だろう」
「まあいろいろと仕掛けの多いお屋敷だこと。何で地下の声が届いたかっていうのを考える前に、ねえユキ?」
「はい。参ります」
 言うなり駆け出したユキを先頭に、しえると梅丸が即座に続く。零樹がセレスティに一瞥を投げ掛けると、
「私はまた後から追いかけます。どうぞお先に」
「それは構わないんだけどさ。……ミヨコちゃんは深夜子ちゃんの身代わり、っていう意味なんだろうね」
 セレスティは頷く。
「身代りの子と書いて、ミヨコ。鳥辺深夜子嬢は生まれつき病を患い、本来ならば十代半ばで命を落とすはずでした。彼女の両親は迫りくる哀しみに耐えられず、征史朗さんの祖父に頼んで娘そっくりのヒトガタを創った。理由はどうあれ、それは深夜子嬢の死を前提とした行為。彼女にしてみたら、生きたいという切実な想い踏みにじられたようなものだったのでしょうね。故に深夜子嬢は両親を、そしてヒトガタをも憎むようになったようです」
「ふうん、ちょっと疑問が解けたかな」
「はい?」
「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心。深夜子ちゃんはやけに人形に固執しているようだった。これって、色こそ異なれども、深い想いを寄せていることに変わりは無いよね。そして、」
 言いさして、しかし零樹は続きを笑みで打ち消す。弓形の薄い唇に人差し指を当て、流し目よろしく目を細める。
「僕も行くとするよ。それじゃあまた、後で」
「お気をつけて」



 地を揺るがすほどの悲鳴が鼓膜を劈いた途端、地下室を覆っていた靄が一気に晴れた。
 蓮と濱路の壁として奮闘していた藍蔵は、靄に視界を奪われた時同様きょとんと呆けた顔をする。見れば、襲ってきていた男達は糸が切れた人形のように地に伏している。そしてその向こうで、膝を突いた深夜子が両手で体を抱き全身を小刻みに震わせている。蝋燭の揺れる明かりに照らされた頬は心なしか紅潮し、潤んだ瞳が大きく見開かれていた。
「な、何が起こったッス、か?」
 先ほどの叫びは深夜子のものに間違いなかった。まだ耳の奥が痺れているほどの大音声、一体彼女は何に対してあんな悲鳴を上げたのか。
「なんかぁ……効果テキメンって感じ?」
 背後の濱路がぽつりと呟く。相変わらず微妙に感情の籠もっていない彼を肩越しに振り向けば、蓮を抱えたままうーんと上目遣いで思案の表情。
「黒くて長い髪の、まあまあイケメンな男。和服を着てて、深夜子ちゃんと知り合いっぽかった。深夜子ちゃんは最初驚いて、次に顔を真っ赤にして怒ったワケ。そりゃもう激怒でいきなりぎゃあああああ、だよ。こっちがぎええええ、だっつの」
「はあ?」
「したらさぁ、そいつしれっと言うのね。アワレダナ、って」

『ヒトガタを、鳥辺の力をそんな風にしか使えないなんて、おまえは哀れだな……深夜子』

「おまえに何が解る、征史朗っ……!」
 常の柔らかな口調とは全く違う、大人の女性の声で深夜子が苦々しく吐き捨てる。
 それを聞いたからかどうなのか、藍蔵は不思議な思いで深夜子を見つめていた。彼女は確かに十をいくらか過ぎた少女の外見をしている、だが今は、その面差しが自分より年上の女性のものに見えて仕方ない。人一倍女という生き物に執念を燃やしている藍蔵だからこその感慨なのか、よくわからないけれどそう見える。
 刻まれた陰影は深い恨みと哀しみ。業火に囚われたかの女が顔を上げ、禍々しい眼差しをぎりりと蓮へと突き刺した。
「ミヨコを作ったおまえの祖父よりも、私の存在から目を背けた私の両親よりも、おまえが一番許せない。人形に狂って自ら命を縮めたおまえなどに、私の気持ちが解って堪るものか。見ておいで、その女の朽ちた骸をおまえの墓に投げ込んでやる。おまえらの時間も命も、私が全て奪ってやるっ!」
「うっわ!」
 ミヨコの怒号に呼応するように、濱路の腕の中、蓮の身体がびくんと跳ねた。驚いた藍蔵と濱路の瞠った目の前で、溢れ出る鮮血が勢いを増していく。
 そして蓮の肌からみるみるうちに艶が消えてゆき、波の様に押し寄せてくる無数の老いという皺、かさついた老婆の身体へと、いや死人の土気色へと急速に変化していくのを止められない。二人は蓮に取り縋るが、手立て無くその身から時間が──命が流れていくようだった。
「あああ、あんた! 蓮さんに何したッスかあ!?」
 深夜子は答えず、頬を引き攣らせる様にして笑った。
「もしかして、ヤバイ?」
「もしかしなくてもヤバイッスよぉ! ああそうだ、この針! 針を退ければ……って、くっついて離れないしっ!」
 助けなければ、という一念が藍蔵の全身を駆け巡るが、どうすればいいのかが判らない。脳裏にチラつくのはミヨコが刺し殺した女の屍、蓮も今まさにああなろうとしているに違いないのに。
「ダメッスよ! 絶対、俺が、助けてやる!」
 いつになく真摯に気炎を吐いた藍蔵が、笑う深夜子をねめつける。────そこで、はっとなった。
 物の内側を見透かす能力を有する藍蔵の眼が捉えたそれは、細く長く発光する何か。深夜子の体内を縦に貫く光の形には見覚えがある、蓮の胸から離れない針だ。
「身体の中に、針……?」
 訝しさに眉を寄せる藍蔵の呟きが耳に届いたのか、深夜子がふふぅと頬を押し上げる。
「命という名の時間を奪う長針、その力で時間を戻すこの身の短針。命とモノとを扱う嵯峨野を上回る、これが鳥辺の血の力、ですよ?」
「……こ難しいことは解んねえッスけど、つまりあんたの身体の針を壊せば、蓮さん助かるってことッスか?」
「え、ちょ、それって」
「蓮さん!」
 その一声を合図に、緊迫した室内に足音と声とが駆け込んできた。ユキとしえるは血を流す蓮を見て絶句し、梅丸は入ってくるなり「江口!」と藍蔵を呼ぶ。
「状況は?」
「あらミヨコ、捕まってしまったの、ですね? 使えない、所詮はお人形だこと」
「そういう言い方するから、僕も黙っていられないんだよね」
 遅れて零樹が到着し、開口一番深夜子に投げつけて前に進み出る。
「それよりも江口、どうなんだ、蓮さんはどうなっているんだ」
「ああ、それッス! ヤバくて、だからあの、深夜子ン中にもう一個の針があって、それを壊さなきゃって」
「中? 身体のか?」
「そッス! 身体のド真ん中、心臓より向こうの背中側。何であんなもの中に入れておけるのかわかんねえけど、それが時間を戻してるって、さっき」
「……信じるぞ、江口」
 梅丸が抱えてきたミヨコを地に横たえる。零樹がその傍らに膝を折り、深呼吸した梅丸を見上げる。
「時計盤はミヨコではなく深夜子本人だったか。……骨の数本は痛めるかもしれないが、事態は急を要するようだしな」
 深夜子が立ち上がる、その背後には牢の格子。ちらと地上への階段の方に視線を遣ったのに気づいたしえるが、その道を塞ぐように踵を鳴らした。
「私を傷つけるの、ですね?」
「出来るだけ、おとなしくしていてほしい」
 深夜子は怯える様子も無く、やはり微笑むのみ。
「ミヨコ、助けて。貴女は私の身代わり、私の責め苦は貴女が受けるはず、ですよ?」
 梅丸が深夜子を追い詰めて、華奢な身体を抱えるようにして片腕を回す。もう一方の手で拳を作り、それをぐっと握り締める。
「ミヨコ、助けて。助けなさい」
「息を止めていてくれ」
「ミヨコ、ミヨコ」
「いくぞ」

 ──── ミ ヨ コ 。



 人形は人のためのモノ。
 ヒトガタは身代わりのモノ。
 私は、主様のモノ。



 藍蔵に示された部位目掛けて拳を叩き込もうとした梅丸は、信じられない光景に言葉を失っていた。それは零樹も同様で、驚くというより呆れるしかなかった。
「……そんなに、その“主様”がいいの?」
 薊を抱いてぽつりと呟く零樹の目の前では、ミヨコが梅丸の腕にしがみつきその一撃を全身全霊で阻止していた。札は額に貼られたまま、ミヨコはぴくりとも動かない。無理矢理動いてそこで力尽き、それでも責め苦から主を守ろうとした、これは。
「人を守ろうとする人形の想い、か」
「蓮さんっ!」
 叫びに、零樹と梅丸は我に返る。濱路が困惑した表情でこちらを伺い、その傍らでユキが顔色を無くし蓮を呆然と見つめているのが目に飛び込んできた。
「なんか心臓、止まった、っぽい」
 濱路がおずおずとそう言うと、ゴトリ、音を鳴らして蓮の干乾びた胸から針が自然に滑り落ちる。紅色だった蓮の髪には霜が降り、滑らかだった肌は荒涼たる罅割れた大地の様。続くはずだった時間という命が奪われ尽くした蓮の身体は、終末を迎えた世界の如く無残だった。
 梅丸の腕から力が抜けた。藍蔵がああと呻いて泣きそうに顔を歪め、しえるが纏わりつく沈黙を振り払うかに深夜子へと歩み寄り。
「何とかなさいな」
 梅丸から深夜子の身体をひったくる。深夜子は首を横に振り、満面に笑みの花を咲かせた。
 突きつけられた現実を撥ね退けるように、しえるの声がしなって鞭打つ。
「さあ、蓮さんを生き返らせなさい。蓮さんの時間を戻して。ユキが、泣いてしまうわ」
「泣く? モノが? いいえ、ヒトガタは涙を流しませんよ? だってたかだかモノなんですもの。……ふふ、ふふふふ。私の勝ち、ですね。ふふふふふ、征史朗、私の勝ち、ですよ?」


 ヒトガタを恨む気持ちがわからないでもない。
 だが、生きたいと願う他人を踏みにじってまで、
 ヒトガタにその業を押し付けてまで、
 無理矢理命を繋ぐやり方を、俺は善しとはしねえよ。

 ────哀れだな。


「……あわれだな」
 と、膝を突いていたユキがゆらりと、陽炎の様に立ち上がる。
 そして緩慢な動きで人差し指を伸べ、示したのはしえるに両肩を掴まれた深夜子。しかし彼女以上に、しえるが不審を露にしてユキを凝視めていた。
「憎しみを殺せとは、言わない。だが、己を至上と愛してくれるヒトガタを、悲しませることだけは……捨て置けない」
「……まさか」
 しえるの唇が誰かの名を呼びかける。
 ユキが落ちていた針を取り上げて、切先を重たげに引きずりながら足を踏み出す。
 その瞬間、深夜子が叫んだ。
「来るな!」
 主の悲愴な叫びに、意識を手放しているはずのミヨコが微かながら反応する。それを咄嗟に梅丸が、気づいた零樹が共に抑え込んだ。
 逃れようとする深夜子をしえるは離さず、藍蔵も腕を伸ばして彼女の自由を封じる。
 ユキの構えた針の──剣の先端が深夜子の胸へと埋め込まれる。断末魔の如き絶叫。濱路が思わず耳を塞ぐ。

 ────故に、誰の耳にもその声は届かなかった。

「蓮の時間、返してもらうぜ。……深夜子」




 不自由な足でセレスティが地下室への階段を下りきった時、その場にいた全員の時間が凍り付いていた──ように見えた。
 土が剥き出しの床にステッキを突き、蝋燭が揺らめくのみの心許ない明かりが照らす室内を見回す。階段に最も近い場所でぺたりと腰を下ろしていた少年に目を遣れば、ぽかんと口を開けたまま眼を丸くしている。最奥には牢らしき木枠の格子、二人はその手前で黒衣の少女を抑え、また二人は同じ服装同じ顔の人形を羽交い絞めで引き留めていた。
 そして唯一こちらに背を向けた銀色の髪が一歩二歩とよろめく様に後退り、かくん、とその身体から力が抜ける。仰向けに倒れこもうとしたその身を、セレスティは腕を伸ばして抱きとめた。
「気絶、していらっしゃるようですが?」
 セレスティが首を傾げたのを合図にして、一同がそれぞれ長い息を吐き出した。
 梅丸が額に手を遣り、苦い表情で首を打ち振る。
「江口、その……深夜子は? いや、聞くまでも無いのか」
「いいえ、生きてるわよ」
 真っ先に答えたのはしえるだ。彼女は床に転がった針を一瞥し、藍蔵が戸惑いながら横たえた深夜子へとその視線を移す。彼女の外見に変化は見られず、ただ目を閉じているのみ。その顔も、先刻響き渡った悲鳴とは裏腹に、いっそ安らかなものに見えるほどだ。
「不思議なことに血が一滴も流れていない、息もしてるわ。私としては、ユキが殺人犯にならなくて良かったってトコロだけど」
「なんかこの人、寝てるみたいッスね。……念のために心臓が動いてるかどうか、胸辺りを、しょ、触診で……!」
「その図太さはいっそ見上げるが、天誅!」
 梅丸の鉄拳制裁がまたしても藍蔵の頭に振り下ろされ、哀れ藍蔵は地に沈んだ。
 セレステイは再び問いかける。一体、何があったのですか?
 零樹が、ふう、と大袈裟な溜め息をついた。
「僕が聞きたいね。ユキくん、どういうつもりだったんだか」
「あのー、ちょっといい?」
 間延びした声が投げ掛けられ、皆が一斉にそちら──濱路のほうを見る。彼はちょいちょいと蓮を指し示し、
「しわしわ、治ってきてる」
「ええええ!? 聖域復活ッスかぁ!?」
 沈没から一気に浮上した藍蔵を筆頭に覗き込めば、先ほどの逆回しの様、蓮の身体がみるみるうちに元に戻っていく。しえるが呼吸や脈の確認を取り、力強く頷いたのを合図にほっと胸を撫で下ろす。
 零樹はふと気づいて深夜子に視線を転じ、瞳に映ったその姿に、ただ静かに目を細めた。
 予想通りの結末が、そこにはあった。


【 07 : Time is over 】

 扉を潜ると昼間とは思えない薄暗さが視界を覆う。「レン」は今日も独特の静謐さを保ち、長身の梅丸が見上げるほどに重ねられた棚には、年月を経た人形達が居並んでいる。梅丸を検分するかに見つめてくる双眸は、まるで夜空に散らばる砂金の星。
 その無機質な容貌のひとつに、数日前出会った人形の面影を重ねたのは無意識の内だ。梅丸は最奥のカウンターの前で足を止めた。店主がふうと、紅の唇から紫煙を吐き出した。
「ああ、あんたかい」
 素っ気無い応対だったが、店主は、キセルをカタリと置いた。
「見たところ調子は良さそうだが」
「そうだね、まあ刺された後にしては、悪くはないよ」
 唇の端をくいと上げる彼女らしい笑み方。経過は良好だろうかと案じての来訪だったが、どうやら心配は無用だったようだ。
「おや、」
 からん、と玄関の扉が来客を告げる。待っているとあの銀髪のヒトガタが顔を覗かせ、梅丸を見つけるや、惜しげもなく艶を浮かべて会釈した。
「その節はどうも。またお会いできて光栄です。ああそういえば先ほど、貴方のお連れ様にお会いしましたよ。どちらに向かわれたのかは存じませんが」
「連れ? ああ、江口のことか。いや気にしないでくれ、擦れ違ったことを惜しむ間柄でもないんでね」
 勧められ、カウンター前の椅子に腰を下ろす。何度か客として訪れた梅丸であるが、こうももてなされたのは初めてのことだ。それなりに感謝されているのだろうかと、まあ、悪い気はしないので受けておく。
「ところで、ひとつ訊いてもいいだろうか」
 同じく椅子に腰掛けたユキに、梅丸は身体を向ける。
 はい? とヒトガタは首を傾いだ。
「気になっていたんだが、あの時君は、何故鳥辺深夜子を刺せたんだ? つまり、何故刺すことで事態が解決するのだと判ったのか、ということだが」
 ユキは蓮と顔を見合わせた。その表情が意外なほど困惑に満ちたものであったので、梅丸は不審に眉間の皺を寄せる。
「実は、私もそれが不思議で」
「というと?」
「自分が何をしたのか、は伺ったので大体把握していますが……憶えてはいないのですよね」 おぼえていない? 思わず鸚鵡返した梅丸に、ユキは頷く。
「蓮さんの時間が失われた辺りから、どうも記憶が曖昧で。私自身はまた倒れたつもりだったのですが、人を刺すだなんて物騒な狼藉を働いていたとのこと。どういうことでしょう?」
「いや、こちらに質問されても」
 ユキは視線を落とし、しばし思案の表情を浮かべる。だが彼の言う通り、手繰れど記憶の糸は途切れているらしく、ほどなくしてふるると首を横に打ち振り。
「まあ、解決したのですから、それで構わないんですけどね」
「……君がそう言うのならば、僕も深く追求する気はないが」
 何となく釈然としないものを感じながらも、これ以上言葉を重ねても甲斐は無さそうだ。
 梅丸は諦めたように息を吐き出した。そして、腰を上げる。
「それなら、僕はこれで失礼しよう」
「もっとゆっくりしていってくださっても、いいですのに?」
「いや、今日はちょっと立ち寄るだけのつもりだったんだ。また、そのうち寄らせてもらおう」
 ユキが立ち上がり、宝石の様な瞳を細めて淡く笑む。心許ない明かりの中で、紫電と銀とが発光しているかに見えた。
「いつでも歓迎いたします。どうぞ、またのご来店を」


 了


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1883 / セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ) / 男性 / 725歳 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2577 / 蓮巳・零樹(はすみ・れいじゅ) / 男性 / 19歳 / 人形店店主】
【2617 / 嘉神・しえる(かがみ・しえる) / 女性 / 22歳 / 外国語教室講師】
【7483 / 梶浦・濱路(かじうら・はまぢ) / 男性 / 19歳 / 夢人】
【7484 / 江口・藍蔵(えぐち・あくら) / 男性 / 17歳 / 高校生エロハンター】
【7492 / 花鳶・梅丸(はなとび・うめまる) / 男性 / 22歳 / フリーター】

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■         ライター通信          ■
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 随分とのご無沙汰になってしまいました。辻内弥里です。
 まずは心からお詫び申し上げます。最終的に半年以上お待たせすることになってしまい、本当に申し訳ありません。自分の不徳を噛み締めるばかりでございます。
 それでも発注を取り消さず、最後まで書き切らせていただいたことを、深く感謝しております。本当にありがとうございます。
 3回に分けました今回の「BRILLIANT TIME」は、これで終幕となります。06が共通、07が個別となっておりますので、他の方の分もお読みになられますと、いろいろわかるかもしれません。
 それでは短いですが、この辺りで。このたびは、大変なご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした。少しでも楽しんでいただけたら幸いでございます。
 失礼致します。
 辻内弥里 拝