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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【東京衛生博覧会 前編】



真っ黒な壁。
闇の中に閉じ込められているみたいだと城ヶ崎竜子は思った。

薔薇の花びらが。

とめどなく降り注いでいる。
金色の髪が風もないのに揺れていた。

かさかさに乾いた唇が微かに震える。
竜子の首に縋り付いているのは、灰色の王様。
本来ならば玉間となっている部屋は、「出口も入り口もない」部屋、大きな正方形の箱へと変化を遂げていた。

「ベイブ…ベイブ…いい子だから、放しておくれよ…。 あたい、誠を助けに行かなきゃなんねぇんだ」

真っ白な髪を優しく撫でながら竜子は子供に言い聞かせる母親のような口調で言う。
ベイブは何も答えないまま、竜子の体に抱きついて動かない。
ゆっくりとその頭を撫でながら竜子は、泣き出したいような気持ちになった。

いや、実際泣いたのだ、何度も。

ベイブと一緒にこの箱に閉じこもり、一体どれだけの時間が経ったというのだろう。
黒須が、中国系マフィアのK麒麟に攫われた。
まだ、ベイブの状態が此処まで酷くなく、白雪によって黒須の現状を知る事が出来ていた時は、まだ、対策を練る余裕があった。
だが、ただでさえ、普段から正気と狂気の間を行ったり来たりし、竜子と黒須の存在で辛うじて、理性を保っていたベイブのか細い神経は、突如前触れもなく、呆気ない程に壊れた。
当然、彼の精神状態を反映して様相を変える、「千年王宮」も狂った姿へと変貌し、竜子はこうして、彼の心に閉じ込められた。
ベイブの精神状態を快方に向かわせる為には、どうしても黒須の存在が必要不可欠だし、完全にベイブが壊れてしまえば、千年王宮自体が崩壊し、王宮に住む無数の住人が現実世界へと流れ出て深刻な影響を日本、もしくは世界にすら与えるかも知れない。

未だ18の少女である竜子の肩に乗っている使命は余りに重く、辛い。

竜子は自分で自分の体を抱きしめて、小さく小さく呟いた。

「誰か 助けて」

ポロリと閉じた瞼から小さな雫が転がり落ちる。

その瞬間、竜子は背後から優しい腕に抱きすくめられた。

「オーケィ。 女王様。 手を貸してやるよ」

息を呑む。
薔薇の花びらが、竜子の肩に、首に、頬に滑り落ち、その花びらの愛撫を遮るように、道化師が竜子の顔を覗きこんだ。

「ハロー? ハロー? ハロー? ご機嫌はいかが?」

道化師は笑って、ベイブの様子に視線を走らせる。

「あーあー、酷い様子だ。  ジャバウォッキーはいない。 ベイブはこんな状態。 女王様は、お疲れのご様子。 誰が、私と遊んでくれる? さぁて、さて、どうしようかねぇ?」

この部屋にどうやって入ってきたかなんて事、もうどうだって良かった。
竜子は悲鳴のような声で「助けてくれ!!」と叫ぶ。
道化師は、目を眇め、そんな竜子を見下ろして「ま、ガラじゃないんだがねぇ」と言った後、ついと、正面を見据えた。
「それでも、私は、こう見えて結構フェミニストなんで、女の子の泣き声っつうのは我慢ならないんだ」

その瞬間、黒い壁に細い隙間が生じる。
ズ、ズズズと開く壁の無効から白い光が差し込んだ。
次の瞬間「ベイブ様!!」とベイブの名を呼びながら転がり込んでくる少女が一人。
真っ白な肌、真っ白な服、白雪が一目散にこちらに駆け寄ってきた。
この部屋の外側から、なんとか此処に入ろうとしていたのか、その爪は剥がれ、指先が血だらけになっていた。
「ベイブ様! ベイブ様ぁ!!!」
何度も繰り返し名を呼びながら、膝をつき、泣き伏してベイブの体に取りすがる白雪に、竜子は掠れた声で「外の状況は?」と問い掛けた。
「城の連中はどうしてる?」
その言葉にキッと睨み返してくる白雪を、竜子は、彼女という人間の性質を考えれば異質なほどの厳かな目で見返した。
白雪は、その目に気圧されるように「…チェシャ猫が反乱を起こした。 最下層に閉じ込められていた筈なのに、あの女、この期に、この城を乗っ取ろうとしている。 既に、彼女にたらし込まれたこの城の下層住人達が、この上層を闊歩し、好き勝手に振舞ってるわ。 この部屋も危うい。 ここに踏み入れられれば…」と、そこまで言って、震えたまま竜子に縋りついているベイブに震える手を伸ばし、血塗れの指先で頬にそっと触れると「ベイブ様は、もう壊れ果ててしまう」と呻く。
竜子は、ぎゅっと目を閉じ、そして、道化師に問うた。

「どうすれば…いい?」

道化師は、二人の少女を交互に見比べると「中々の難問だ」と言って肩を竦め、それから、竜子に「三つ」の課題を与えた。




SideC

【水無瀬・燐 編】


そのクレープ屋は、大好きな姉に教えてもらった、とっときの燐のお気に入りのお店だった。
薄く、焼きたての生地は甘すぎず、柔らかで、中に挟む新鮮なフルーツや、生クリームは口の中一杯に広がって、燐を幸せな気持ちにさせた。
店の前のベンチに座って、姉と並んでクレープにパクついた記憶は、他人から見れば他愛もない出来事なのも知れないが、本当に大事な思い出で、大好きな曜と同じような時を過ごしたいと願うのも、燐にしてみれば自然な願いと言えた。

燐の通う学校は、私立の中高一貫性のお嬢様学校で、燐が通う中等部に隣接した高等部には、全女子生徒の憧れの君と言っても過言ではない、凛々しくも美しい女生徒が通っていた。

その名は、七城曜。

キリッとした漆黒の眼差しは、深い夜の底を思わせる輝きを放ち、すっと伸びた背筋も美しく、燐もご他聞に漏れず、一目見てて、曜に夢中になってしまった。

何しろ、かーーーっこいいのである。

見た目だけじゃない。
言動、行動共に年齢に似合わぬ大人びた所があり、気風の良さと、クールさが、身近に男性のいない女性徒達をクラクラさせる。
曜は何とかお近づきになるべく、並み居るライバルをおしのけ、投げ飛ばし、はねのけ、転がされたり、同じファン同士仲良くなったり、ファンクラブを結成したり、まぁ、紆余曲折を得て、今では、曜の隣をぴったりくっついて歩く燐の姿が自然に皆に受け入れられる位の地位を手に入れる事に燐は成功していた。

そんな曜に、先日勉強を教えて貰った数学のテストが、前回よりも飛躍的に点数が向上した事を褒められて、「何かご褒美をあげないとな」と微笑みかけられた時、このチャンスを逃してはならぬ!と、即座に燐は頼み込んだ。

「ならば、来週の土曜日、燐と一緒にクレープ屋に行って欲しいのじゃ!」と。

さて、そんな訳で、楽しみすぎて眠れない金曜日の夜を経ての土曜日。
曜がどんな顔をして、あのクレープの味を楽しんでくれるのかワクワクしながら、待ち合わせ場所の時計台の下で、燐は彼女を待つ。
「やはり、先輩にも、チョコバナナフレークを食して貰いたいものじゃのう。 一番の人気商品故、売り切れておらんといいのじゃが…」
そう思いながら、待ち続けること一時間。

「…くぅ」と唸り、時計を見上げる。

待ち合わせの時間はもう、とっくに過ぎていて、些か燐、堪忍袋の緒が切れかけていた。

そうだった、そうだった、そうだった!

曜は律儀で、真面目な性格だが、日頃は、何かと忙しい身らしく、約束事は、小まめに確認を取らないと、時々忘れてしまっている事があったのだった。
何しろ、曜は、普通の女子高校生ではない。
仲良くなってから程なく知る事となったのだが、さる、大極道の可愛い可愛い孫娘であり、自身も強大な陰陽術の使い手である、世にも珍しい極道陰陽師だったのだ。
燐は、竜神の血を引く、妖魔にとっては極上のご馳走となる血の持ち主であるせいか、普段から街を歩いていても様々な怪奇現状に巻き込まれたり、妖魔に追い掛け回されたりするせいで、何度も曜に助けられた事もあるのだが、初めてその正体を知った時は驚くよりはむしろ「さもありなん」と納得させられたものである。

何てったって、妖魔相手に見せる迫力や、その佇まいがひしひしと「只者じゃない」感を醸し出していて、学校でこそ、お嬢様然と振舞ってはいたが、薄々燐は「あっちの姿の方が本性じゃの」と察していた。

先日などは、曜の祖父の組事務所に、燐をしつこく追いまわしてくる妖怪ごと突入し、後で散々叱られたのだが、その時の迫力など「い、いつもの曜先輩じゃない…」と震え上がらずにはいられない程のもので、出来るだけ怒らせないよう気をつけようと固く決心したばかりである。

とはいえ、理不尽な事では怒りを露にせず、いつもは物静かで、優しい曜の事を、例えその正体が、裏稼業の者であったとしても、燐は心から慕っていた。

「はふ…」と大きき溜息を吐いた燐は、先程から何度携帯に連絡してもマナーモードにしてあるのか、一向に電話に出てくれない曜に業を煮やし、彼女を迎えに行く事に決める。

というのも、燐にとっての日常は、日々、妖魔からの逃走も含まれているといっても過言ではなく、一箇所にじっとしている事によって、危険が身に及ぶ事が多々あったからだった。

「難儀な身の上よのう…」と呟き、せめて自身に、災難を振り払う力があれば…と望む。
守って貰ってばかりの人生は、些か燐に辟易とした感情を齎し、「他人に力を与えるばかりでもつまらん」と嘯かせるに至っていた。

燐は、まず、曜の実家を訪ね、不在を確認すると、次に、家人から彼女は部活に向かったと教えられたので、彼女の所属する部活の部室を訪ねてみる。
だが、部員にもまだ、顔を出していないと告げられるに至って燐は、ならば…と草間興信所を訪ねてみる事にした。

燐もそうだが、曜も時折、あの興信所の仕事を手伝っているようで、もしかしたら…?と思いつつ、足早に先を急ぐ。
暑さのせいか、額からとめどもなく汗の雫が零れ落ちてきた。
だけども、クレープの売れ行きが気になって、燐は小走りになる自分を止められない。

(あのクレープが、ダントツに美味しいのに、曜先輩に食べて貰えねば、哀しすぎる!)

最後は殆ど全力疾走状態になりながら、漸く辿り着いた興信所の扉を、バン!と大きな音を立てて勢い良く開ける。
すると、扉のすぐ目の前、本当に真正面に、捜し求めていた曜の姿があった。

「おお! やはり、ここにおった!」

そう言いながら事務所に飛び込み、曜の腕に飛びつくと「約束をしておったのに、忘れたのか?!」と喚くように問い掛る。

走ってきたせいもあって、大声を出した直後に眩暈を感じた。
「はひっ、はひっ」と荒い息を零しつつも、大きな目でぎゅうと曜を見つめる。
曜は燐が考えていた以上に驚いた眼差しで、燐を見下ろしてきた。
何だか、呆然としているように見えなくもないが、「早う行かねば、燐の大好きなチョコバナナフレークが売り切れてしまう! あれは、是非、曜先輩にも食してもらいたい逸品なのじゃ!」と、ぐいぐいと腕を強く引っぱる。

(日も、もう大分高い。 全く、曜先輩は!!)と心の中でプリプリしていると、「これも、何かも導きか」と曜が意味の分らない事を呟いた。
燐が「導き?」と首を傾げた後、曜に視線を向ければ、その背後に、ポカンとした顔を晒す武彦と、興信所の事務員、シュライン・エマの姿が目に入った。
「おお! エマ! 草間! お主らもおったのか!」と今まで、曜しか目に入っていなかった事を隠さない台詞を燐は吐く。

(ん?)

草間とエマと、もう一人。
燐は事務所の中に見慣れぬ男の姿を見かけて首を傾げた。

黒い帽子に黒いタキシード。
この暑いのに、よくもまぁ…と思えども、男は汗一つかかずに、にやにやと笑いながら立っている。
(客か?)と訝しむ燐の肩を掴むと、曜は身を屈め視線を合わせてきた。
「約束を忘れていてすまなかった。 この埋め合わせは、必ずする」
凛々しい顔を間近に寄せて、そう心からの声で詫びの言葉を口にする曜の魅力に逆らえず、暑い夏の最中を走り回らされた事を即座に忘れて、燐は頬を少し染めながら、コクンと素直に頷く。
(くぅ〜〜! 甘い! 曜先輩には、燐は甘すぎる!)と自覚すれども、どうしたって憧れめいた感情を抱いてしまう相手なのだから致し方はないのだろう。
そんな燐に付け込むようなタイミングで、曜は口を開いた。
「…だが、また、それとは別に、一つ、燐に頼みたい事があるんだ」
曜の言葉に、燐は大きな目をパチパチパチッと瞬かせ「頼み? 曜先輩が?」と首を傾げる。

「ああ、そうだ。 勿論嫌なら断わって欲しいし、無理強いをする気はない。 だが、燐にしか出来ない事なんだ」と曜が静かな口調で言った。
燐はその、曜の姿に魅入られ、美しい目を凝視する。
「…と、その前に、まず、燐。 悪いんだけど、血を一滴くれないか? 酷く弱っている人がいるそうなんでね?」と言いつつ手を差し出す曜に、別の者の頼みなら、盛大に顔を顰めて見せるが、逆らう素振りすら見せず恭しく、曜の手の上に自分の掌を乗せた。
竜神の血を引く燐の血は、万能の奇跡の薬でもある。
どんな病人も、けが人も、そして協力な呪いさえ、燐の血の威力の前には、無意味だった。

曜が細い針でチクリと指先を刺し、脱脂綿にその血液を含ませるのを、燐はうっとりと眺める。
若干危ない感じだが、自分の手から、血を拭う姿ですらカッコいい曜が悪いと、曜のせいにした。
「…ありがとう。 痛くなかった?」と、曜が問いかけてくるので、首を振り「ちっともなのじゃ」と、燐は笑い返す。
途端、素敵な微笑を浮かべ、曜は「いい子だ」と頭を撫でてくれると、それから再び、燐の肩にや優しく手を置き、「…さて、私が今からキミに頼みたい事と言うのはね? 千年王宮という場所に住んでいる王様が、チェシャ猫という敵に襲われて凄くピンチらしい。 王様は、今、体調が悪く、チェシャ猫に負けてしまいそうなんだ」と説明してくれた。
(千年…王宮?)と聞きなれぬ名を不思議に思えど、なんだか、まぁ、曜がこんな真剣な表情をしているのなら、緊急事態が起こっているのだろう。
「王様がやられてしまったら、その城は大変な事になってしまい、この世界にまで良くない影響を与えるんだ。 私は、王様の仲間を手助けに行こうと思う。 だから、燐は…」と、曜がそこまで言った所で、曜の声に聞き惚れていた燐は、事情を殆ど理解せぬままに…、

曜先輩困ってる→燐に助け求めてる→燐、頼りにされてる→燐、曜先輩助ける→曜先輩、燐に超感謝する→燐嬉しい

の公式を頭の中に即座に組み立て、曜の手を取ると、「燐は…燐は…曜先輩に、こんな風に頼られて、今、猛烈に感激しておるのじゃ!」と感極まった声で告げた。
「大好きな曜先輩の頼み、燐が断わる筈なかろう! 任せておいて下され! 燐が、その千年王宮とやらに参って、邪悪なるちぇしゃ猫を討ち滅ぼして見せましょうぞ!」と、力強く宣言した後で(ところで、千年王宮ってどこにあるのじゃ?)と心の中で、疑問を抱き、速攻燐は口にした。
「で! その千年王宮とやらには、如何にして向かえば良いのじゃ?」と、燐が誰にともなく問えば、先程、正体を訝しんでいた黒尽くめの怪しい男が近付いてきて、「この薬を飲んで、鏡の中に飛び込めば、たちまち千年王宮へと辿り着くよ」と言いつつ、紫色の液体が入った小瓶を見せる。

(鏡の中? 千年王宮とやらは、鏡の中にあるのか?!)と驚けど、躊躇っている場合ではない。
曜の為なら、例え火の中、水の中。

(ええい! 鏡の中に飛び込む位、なんでもないわ!)と決意して、「さてはて、それでは、千年王宮に行ったことのないお嬢さんに、今の千年王宮について簡単に説明を…」と黒尽くめの男が何か説明を始めようとしているのを、一切合財無視し、ひったくるようにして薬を手に取った。

「では、早速、千年王宮に行ってくるのじゃ!」と燐は事務所内の人間に宣言する。

「へ?」と、曜が小さく呟く声が聞こえたような気がしたが、勇ましいというか無謀というか、全く躊躇なく、燐はあっという間に、薬を飲み干した。
そして、「曜先輩! 燐の活躍に乞うご期待なのじゃ!」と張り切った声で叫び、「アデュー!」と皆に手を振ると、事務所の玄関脇にかけてある姿見に勢いよく飛び込む。
その瞬間燐は全身を冷たい手で撫でられるような、不思議な感触に身を竦め、まるで、冷水の中を光速で駆け抜けるような感覚を味わいつつ、千年王宮へと運ばれた。

長いトンネルの先に、眩しい光の扉が見えた。
燐は本能的に、あの扉の向こうに目指す地があると悟り、扉に飛びつき、渾身の力で押し開く。

ず、ずずず、ず…と重たい扉は、燐の力では中々動かず、「…ふんっぬぬぬぬっ!」と気合の入った声をあげ「なんじゃ、この、固い扉わぁ!!」と文句を言った。
漸く頭が出るだけの隙間が開いたので、ぐいと突き出し、「ったく、燐のように愛らしくも、儚き娘が、このような労働をさせられるとは、全くなっておらん! なっておらんぞ!」といいつつ、燐は、這うように、扉から出る。

そして、パンパンと自分の服を手で払うと、「さて! 待たせたな!」と、腰に手を当て、もう片方の指でとりあえず何処指して良いから分からなかったので、の、限りなく適当な場所を指しつつ叫んだ。

(ふっ、決まった!)と、暴漢に虐げられ、ヒーローを待ちかねた哀れな民のように、拍手喝采で迎え入れられるかと思えば、びっくりする位の沈黙が待っていて、「ハタ!」と目を見開く。

(も、もしかしたら、ベイブとやらの所に現れるつもりで、ここは敵の只中なのか?)と余りに冷たい反応に、辺りを見回せば、金髪の目の覚めるような美少年と、黒髪の和のものとも、洋のものともつかぬ人形めいた容貌の美少女、そして、真っ白な肌、真っ白な髪をした虚ろな表情の大柄な男が目に入った。
ハッと背後に気配を感じて振り返れば、男と同じく真っ白な風貌の女が座り込んで、無表情に燐を見上げてくる。

とにかく、登場してしまったからには、口から飛び出しかけている、用意していた向上は全部述べてしまわねば気持ちが悪い。
燐は不敵な笑みを作り、「この、水無瀬燐が来たからには、まぁ、タイタニック級の大船に乗った気持ちになるがよい! さぁ、敵はどこじゃ?! 曜先輩の、敵は何処じゃー?!」と辺りを見回す。
「いや、タイタニックはそりゃ、大船だけど…沈んだよね?」と美少年が冷静に突っ込んできて、突然自分に掛けられた声に、燐はひしっと固まってしまった。

うん、忘れてた。
自分自身、ここまで夢中で忘れてたけど……。

(り、りりり、燐は、そういえば、人付き合いが苦手だったのじゃ!!)と今更思い出し、どう答えて良いのか分からず横目で美少年を見る。
初対面の相手に会う時は、大体、懐いている知り合いと一緒だったりして、その背中に隠れて、相手の様子を伺うのが常套だった燐にとって、一人きりで見知らぬ世界に飛び込んできたという現実に直面すると、勇んでいた気持ちも途端に萎み、怯えるような気持ちになった。

そんな、瞬間的にパニック状態に陥った燐は、凄絶なまでに視線をあっちこっちさせながら、それでも、「お…お主がちぇしゃ猫とやらか?」と美少年に問い掛ける。

「いや…違うけど?」と翼が言えば、今度は人形めいた美少女に視線を向けて「では、お主がちぇしゃ猫だな?!」と、言いきり口調で断言した。
すると、愛らしい容貌に鬼の形相を浮かべ、「んだと、てめぇ…突然出てきやがって、何、ふざけた事抜かしやがる。 飾りじゃねぇ目玉を付けてから、物を言いな!」と、曜にも負けぬド迫力で、口汚く言い返され、途端、もう既に涙目っていうか、若干、「泣いた」判定が出来るような表情になりつつ、「え? じゃあ、お主が?」と真っ白な女に問うて首を振られた。
(だとすると、残りは…)と思いつつ、到底、猫呼ばわりされるような愛らしい姿をしていない男を、そろそろと眺め「…まさか…?」と言いつつ指差した辺りで、美少年が耐え切れなかったかのように、燐の肩に両手を置くと「よし、分かったから、まず落ち着け」と声を掛けてくれた。
涙目のまま、笑いにも縋る思いで、美少年を見上げる。
そして、コクコクコクと連続して頷く燐に「まず、ここに、チェシャ猫は、いない」と一つ一つ言葉を区切って言い聞かせてきた。
燐も、オウムのような調子外れの声で、「ちぇしゃ猫 いない」と繰り返す。
「僕達は チェシャ猫からこの城を守る為に ここに集まっている」
「チェシャ猫から 城 守る」
「あと タイタニックは 沈む」
「タイタニック 沈む」
「インディアン 嘘つかない」
「インディアン うそつかない」

最後、思いっきりの脱線を見せるやり取りに、燐は無心で言葉を続けた後、ハッと我に帰り、「お、お主、燐をバカにしておるだろー!!!」と、美少年に向かって喚き声をあげる。
「だって、バカなんだもの」
そう人形めいた美少女が至って平静な声で言ってくるので、むかっ!と苛立ちを感じれど、先程の、鬼のような形相が脳裏をよぎり、燐はうぐぐぐぐっと横目で睨んで、小声で、怖いからあくまで小声で「あ…あほー。 前髪パッツンー」と子供の悪口にも劣る悪態を吐く。
聞き逃してはくれなかったのか、ギラリ、と底光りする目で美少女が燐を視線で射抜き、燐は慌てて「大体! お主らが、悪の集団ちぇしゃ猫団から世界を守る面々などと、とても信じられぬ! なんか、見た目的には、頼り甲斐がない! 燐は、若干、自分の身の安全が心配になりだしている!!」と、我が身を省みずのたまった。
線の細い美少年と、華奢な美少女。
どちらも酷くとし若く見えるし、唯一便りになりそうな真っ白な男は、虚ろにぼけっと座り込んでいる。
どうも、あいつが「ベイブ」という、この城の王様らしい。
(王様が、あんな腑抜けた様子で、この城は大丈夫なのか?)と改めて周囲を見回せば、真っ黒な壁に四方を覆われ、天井から薔薇の花びらが止め処もなく降り注いできていた。
(先ほどから、どうも目の前に赤いものがチラチラすると思ったが…)
そう納得しつつ、何処から降ってくるのだろうと上を見上げると、燐の目に、槍にて天井に磔にされている女の姿が飛び込んでくる。

(!!)

目を見開き、慌てて視線を床に落とす。
(な、なんじゃあ、あれは…?)と思えども、もう一度見上げる勇気もなく、(か、変わったインテリアじゃのう…)と無理矢理自分を納得させる事にした。
そして、城に集っている面々について、自分の感想を述べていた事を思い出すと、えい!と美少年を指差し「けど、お主は男前なので、それはちょっと嬉しい!」と素直なんだか、なんなんだかな事を言う。
それこそ、テレビの中でも滅多に見かけないような美貌に、ちょっと見惚れてみれば、「ごめんね。 僕、性別は女なんだ」と美少年もとい、美少年っぽい少女はあっさり真実を告げ、その瞬間「がっでむ!」と燐は床に打ち崩れた。
そのまま、じたばたと暴れると「終わったのじゃあ! もう、トキメキが終わってしまったじゃあ! 知りたくなかったのじゃあ!」と、どうしようもない事を喚き散らす。
「う…うう、曜先輩もそうだが、間違っておる。 お主、生まれてくる性別を間違っておるのじゃ…」
そう言いつつ、ついと皆に視線を向けると「んで? お主らの名は?」とちょっとびっくりする位の切り替えの速さを見せて問い掛けた。
「…僕は蒼王翼」と美少年っぽい美少女が言えば「ウラ・フレンツヒェンよ。 覚えなさい」と、人形名旅少女も続けて傲慢な声で告げた。
「私は、白雪でございます。 お嬢様」
真っ白な女がそう名乗り、そして虚ろな表情の男を指示し「あちらにおられるのが、この城の主、リリパットベイブ様です」と、燐の予想通りの名を紹介してくれる。
ふんふんふんと頷きながら一通りの紹介を聞いた燐は、「ヨシ! 名前は分かった! で、今の状況はどうなっておるのじゃ?」と問い掛ければ、翼も、ウラも、詳しく分かってはいなかったのか、二人同時に顔を見合わせ、それから白雪に視線を送った。

考えてみれば、曜から聞いた曖昧な説明だけで、ここで、何が起こっているのか、具体的なことは何も知らないのだ。

二人の視線に釣られて、燐も白雪に視線を送り、皆の眼差しに答えるように白雪が静かに口を開く。

「現在、城内では、この城の最下層にいたチェシャ猫率いる反乱軍が、この部屋へ突入を果たす為に、外側より試行錯誤している状態です。 チェシャ猫は、狂気に蝕まれた性悪猫。 ズル賢く、地獄に落ちたユニコーンの角より作り出された魔剣の名手で、軍勢を率いた際の指揮官としての能力も侮れません。 この部屋は、ベイブ様の最後の心の殻。 とはいえ、今回の非常事態を受け、内側より、女王である竜子、私、そしてもう一人、現在唯一自在に城内を動き回り、外界とも行き来が可能な道化師が内側から無理矢理開き外界に繋げたり、外客…つまり貴方様方の事ですが…を招き入れた影響もあって、破られるのは時間の問題。 外には無限に等しい王宮内の下層域に棲まう狂気の住人が軍勢となって、部屋を包囲しておりますので…そうですね…」とふっと言葉を切り、「…かなり…ピンチです」と端的な言葉で現状を言い表す。

思わず、三人沈黙し、色々考えを巡らせる。

(ピンチ…? 軍勢…? 包囲…?)

白雪が述べた説明の中から、燐は物騒だと思われる単語をピックアップし、そして徐々に青ざめて言った。

(え? ここ、物凄く、危ない場所じゃ、なかろうか??)

勢いよく突入したは良いが、何の戦闘力も持たない身の上。
頼りにするのは、翼とウラだけなのだが…。
その表情をじっと見守れば、どちらも、然程、恐怖心は感じていない様子で、それぞれ、何か思案に暮れているようである。

(…二人とも、あんなナリではあるが…もしかして、強いのか…?)

燐の姉も、曜も、見た目こそは、華奢な美少女であるが、どちらも燐から見れば大変頼りになる能力の持ち主である。

人は見た目では判断できない。

翼は不安げな表情は一切浮かべず、平静そのものに見えたし、ウラなど「まぁ…数が多けりゃ、強いってもんでもないしね…」なんて余裕の表情で嘯いている。
燐は、うろうろうろと二人の顔を見回していたが、「…まぁ…乗りかかった船じゃ…ここで逃げては曜先輩に合わせる顔もないしのう…」と、観念して呟いた。

「…ていうか、さっきから気になってるんだけど、曜っていうのは?」との、翼の問い掛けに、キュッと両手を握り合わせ、目の中の星をいっぱい入れて、天を仰ぐと、燐は夢見る少女の声で答えた。

「燐は、中高一貫性の学校の中等部に通っておるのじゃが、曜先輩は、同じ学校の高等部に通う、スーパーウルトラエクセレントゴージャスデリシャスコンチネンタルミラクル格好いい燐の憧れのお人なのじゃ…!」

「デリシャスって言ってたわよ?」
「コンチネンタルとも言ってたね」

燐の並べ立てた装飾語の、明らかにおかしい部分に対して翼と静かに突っ込んでくるのだが、勿論、曜のことを思う燐には聞こえないったら、聞こえない。
ほやんと霞がかった目で遠くを見つめ、自分一人の世界に浸っていると、「…まぁ、じゃあ、その憧れの先輩に頼まれ、燐はここにきたって事で良いのかな?」と翼が問いを重ね、燐は大きく頷いた。
「そうじゃ! 曜先輩は、ぎゅっと燐の手を握り締め『可愛い燐。 強大な悪に立ち向かう為に、どうしてもお前の力が必要なんだ。 私と、お前の未来の為にも行ってくれないか?』と言ってくれたのじゃ! ここで、頑張らねば女が廃る!」

え? 曜は、そんな事、ミジンコ大程も言っていないよね?という台詞を捏造し、握り拳を固める燐の幻の曜の言葉に、「なんて気障な台詞…オエ…」とウラが舌を出し、それから「…誰かさんみたいね?」と翼を見上げる。
「…僕は、もっと巧く女性を褒める」
まるで、プライドが傷付けられたといわんばかりの翼が言うのを聞いて、燐は改めて翼を眺め「本当に…何故、男に生まれたのじゃ」と心底残念に思ったが、今は、翼に見惚れている場合ではない。
「という訳で『流石は私の燐だ。 信じていたよ…君の力を』と、曜先輩に感動して貰う為にも! 何とか、ここを防衛したい!」と言い切り、即座に「頼んだぞ! お主達!」と流れるような動作で、燐は翼達をびしっと指差す。
「…もしかして…堂々の丸投げ宣言?」という、ウラの突っ込みに「だって、燐は、御覧の通りのか弱き婦女子じゃ。 お主らは、見た目こそ、さして強そうには見えぬが、言動や立ち居振る舞いから察するに、かなりの実力者と、燐は見抜いた! という事で、頑張って、応援するからな!」と、燐はぎゅっと握り拳を固めた。

半眼になって「…何しに来たのよ…おまえは…」とウラが問い掛けてくる。
燐は、とうとう自分の力を明かす時が来たのかと、少し胸を高鳴らせると、「ふっふっふ!」と不敵に笑い「実は! 燐はのう! 人に、すーぱーぱわぁを与える、超素敵な血がこの身に流れておるのじゃ!」と一気に言い切って、「ええい! 控えおろう!」と、ぐぐい!と胸を反らして仰け反った。

だが翼も多分、相当様々な怪奇現象などに立ち会ってきた身の上、「へぇ…」と余り新鮮でない反応を返してきた。
「へぇ…って…」と燐が不満の気持ちを込めて翼を睨み、「燐の血を飲めば、どれだけ酷い病に悩まされ、どれ程悪辣な呪いに掛かっておろうとも、たちどころに癒されるのじゃぞ!」と更に訴えれば、「ああ、だったら、白雪のその指先や、ベイブの今の状態にも良いかも知れないわね」とウラも平然と言ってきた。
確かに、目をやれば、白雪は指先の爪が剥がれかけた大変視覚的にも痛そうな状態で、それは可哀想だと思うが、「すっごい病気も治すよ!」って言ってるのに、爪って! 爪って!!!と、何だか憤慨したような気持ちになる。
「ぬ、ぬぬぬ、ぬうう…!」と、一度唸った燐は、我慢しきれずに、「いーやーーじゃー! 褒めてくれなきゃ、つーまーらーんー!」とごねだした。
小さな体でじたばたと暴れる様子が、どうも琴線に触れたらしい。 翼が燐の傍にしゃがみ込み、「よーし、よーし」と燐の頭を撫でてくれると、「いやいや、でも、白雪さんの爪や、ベイブの今の窮状を、君の血が救ってくれるのは、本当に助かる。 ありがとう。 それに、多勢を相手にする前に、自分自身の力を増させて貰えるのも、心強いよ」と翼が礼を述べてきた。
途端、自分はちゃんと、この人達の役に立てるのだろうか?と不安に思っていた自分に気付き、ピタと暴れるのをやめ、「ほんとーか?」と、不安げ問うてしまう。
だって、どれだけ呑気に振舞っていても、燐にだって分かる。

今、この場所は本当に危機的状態にあって、翼も、ウラも、何とかこの場所を守ろうとしているという事を。

翼が「本当だよ?」と、笑顔で頷いてくれたので、燐はすこぶる嬉しくなって、「えへへへへ…」と、頬をピンク色に染めて笑う。
そんな、余りに分かりやすい反応にウラが「何照れてんのよ」と、呆れ声を出しつつ、人差し指で燐の頬を突ついてきた。
そして、「直接、血を飲むのも、浪漫がないわ。 折角、ここにローズティがあるのですもの。 燐の血を落として、『ブラッディローズティ』と洒落込みましょう」とウラは愉しげに提案する。
「クヒッ…戦争前に、血染めの薔薇茶を飲むなんて、何だか猟奇的で、野蛮で、なかなか魅力的な趣向じゃない?」と言うウラに、ぎょっとしてしまう燐。
(そういえば、この娘、格好もひらひら〜と、あの、ほら、あれじゃ。 ごすろり! そう、ごすろりの格好をしておるし、何だか、不思議な言動も多い。 変わった趣味を持っておっても、不思議はないわ)と、自分の言動の奇天烈さを棚に上げ、心中で一人深く納得する。
翼も、「僕のは、砂糖入れないでね?」と言いつつ床に腰を下ろしており、期せずしてティータイムが始まりそうな雰囲気に「そ、そんな呑気な事しておる状況なのか?」と燐は戸惑ってしまう。
(どれだけ肝が据わっておるのじゃ!)と思えど、「いや…だって、もう、全然緊張感ないし…」と翼が言うので「なっとらん! 気合を入れるのじゃ! 気合を!」と燐は喚く。
「いや、ていうか、緊張感がない原因の9割がおまえにあるわよ?」とウラに指摘され、余りに予想外の言葉だったせいで一笑に付すと、「笑止! 燐は、えぶりでぃ、えぶりたいむスーパークールな立ち居振る舞いを心がけておる! よって、燐のせいで緊張感が失われる等という物言いは詭弁に過ぎぬ!」と、燐の辞書書いてあるスーパークールの意味と、世間が認識しているスーパークールの意味はきっと違うのだろう…としか思われない事を言い放った。

翼が、フォローをするかのように「いや、でも、逆にありがたいよ。 下手に強張っているより、ずっと良い」と言うと、途端、また、「えへへへへ…」と頬を両手で押さえて照れたように燐は笑ってしまう。
薔薇の芳しい香りと、甘いチョコの香りが漂い、「ほら、燐も座りなさいな。 おまえの分も、淹れてやったわ。 ありがたくお思い? さぁ、早く、血を、ここに頂戴」と、ウラが燐を誘い、結局、誘惑には勝てなくて、「ま、直接呑まれてもなんだしな…」等と言いつつ燐も腰を下ろす。

円になるようにして座り、まず、燐が自分の指先に細い消毒済みの針で、ツッと穴を開け、ポタポタポタと、血をそれぞれのカップに一滴ずつ垂らした。

赤い血の塊が薄紅色の紅茶の中で緩やかにダンスしている。
ウラがまず、一口飲んだ。
そしてせわしなく瞬くと、ついと指先を虚空に翳す。
すると、細く白い指先にパチパチパチと眩い稲妻の光が宿った。
燐は、驚き、「雷を自由に操るのか!」と想像以上の能力に、心強さを覚える。
にんまりとウラは笑い、「でかしたわ、燐。 クヒッ…。 褒めてあげる。 いつもよりずっと調子が良いじゃない」と言った後、今度はベイブに紅茶を飲ませた。
カップを持ってやり、ウラがソーサーと共に口元まで運んでやれば、ゆっくりと口を開き、ベイブは紅茶を流し込まれる。

「…熱くない? ほら、零しちゃダメよ……?」

優しい声。 ウラは奇態な言動と相反した丁寧な手付きでベイブに紅茶を飲ませた後、その顔を覗きこむ。
ウラの微笑みはあどけないのに、何処か艶やかで、無心になったようにウラを見つめるベイブとの間に漂う雰囲気は呼吸を顰めたくなる程に色めいている。
その様子を見ていた燐は、何だかドギマギしてしまう自分が理解できずに、自分を誤魔化そうとして、「まるで、親鳥と、雛鳥のようじゃ」と小さく呟いた。

微笑ましいのに、どこか背徳めいたその空気に、何だか居た堪れないような気にもなり、手持ち無沙汰に紅茶を啜る。
今のところ体調不良も何もないし、自分で自分の血を飲むのもなぁ…と、あえて自分のカップには血を落としはしなかったが、ウラが淹れてくれたローズティーは芳しい香りがして、一口飲むとじわじわと体が温まった。
翼も、紅茶を一口啜って目を見開き、白雪が紅茶を飲んだ瞬間に治癒し、再生された爪先を眺めて、嬉しげに笑う。

「…まさか…こんなに早く効果が現れるとは…」
唸るように言う翼に「侮るな! 超一級の燐の血に掛かれば、そのような傷はちちちんぷいぷいのぷい!じゃ」と燐は誇り、皆が喜んでくれている様子を嬉しく思った。
ベイブが、薔薇茶を飲み干し、数度瞬くと、ゆっくりとウラから身を放し、自分の髪を掻き上げる。


「…白雪」

静かな声。
「…はい…白雪はここに」
白雪が喜びを押し隠すような震える声ですかさず白雪が応答する。
「…どうなっている?」
「チェシャ猫が反乱を起こしました」
くっと唇を折り曲げたベイブは「竜子は?」と問いを重ねる。
「黒須を救いに…」
目を細め、「…誠は?」と問えば、「いまだ、メサイアに虜の身。 されど、道化師が人を集め、黒須を救うべく奔走しております」と白雪はよどみなく答える。
「そして、僕達が、この城を守る為に集まってあげたというわけさ」
翼が口を開くと、ベイブはウラ、燐にも視線を向け「酔狂な…」と掠れた声で呟いた。
「分かってるよ。 でもねぇ、君の為じゃないから。 竜子に頼まれちゃったしね」
ベイブの反応に翼がむっとしたような声で告げ、燐も、何じゃ、その生意気な態度はとムカムカしつつも、「燐とて、この城の事などまぁったく知らぬが、曜先輩の頼みであるしな」と頷く。
折角助けにきてやったのに!と憤慨する燐とは違い、ウラは、愉しげに笑うと、「あたしが来るのは分かってたでしょ?」とベイブの耳元に囁いた。
「それで…正気は取り戻せたのか?」
翼が問えば、ベイブは首を振り「危ういものだ」と静かに笑う。
「とにかく、腹が減って仕方がない」とベイブが言うので「ほら…チョコ、作ってきてあげたわ? お食べなさい」とウラが、チョコをつまんでベイブの口先に差し出した。

燐は、その、ウラの指先を見て驚愕する。
チョコなどと言っているが、ウラの美しい指先に摘まれているのは、どうみたって真っ黒な小石にしか見えない。

(この世界では、石をチョコと呼ぶのか?)と驚き、燐は動揺を隠し切れない声で、「べ…ベイブとやら…。 異世界の住人ゆえ、食生活が燐達と違うのも頷けるのだが、それにしたってお主、小石を喰うのか?」と問い掛ける。

その瞬間、ウラが口を開いたベイブの唇にチョコを押し込み、振り返り様に「てっめぇ、たわけた事抜かしてっと、口に手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわせてやんぞ!」と怒鳴りつつ、ガツンと頭突きを一発燐にかましてきた。

(痛いのじゃあああ!!!)と激痛に、目が潤めど、ウラはと言えば、燐の血の力のせいか、然程痛みを感じてない様子で「チョーーーコーーー!! これは、チョコ! 嗅げ! 嗅ぎつくせ! すんだろ? カカオ臭が! これが石なら、てめぇ、あたしがわざわざ小石にチョコまぶして、持ってきたっつうのか? あぁん? なんだそれ? 何チョコだ? 石チョコか? 誰が、んなもん喰うか、頭の中にちったぁ詰ってんだろう脳みそ稼動させて、考えろや!」と凄んでくる。
だが、彼女に悪態を吐かれるのは、二度目という事もあり「な、ななな、だ、だって、み、見えるんだもん! 石に!」と燐も動揺しつつも言い返した。
すると、ぐいと燐の口の中に無理矢理チョコを押し込んで「喰え! とにかく喰え! 喰って石かどうか確かめろ!」とウラは怒鳴りつけてくる。
燐は目を白黒させながらむぐむぐと小石にしか見えないチョコを咀嚼した。
恐る恐る噛み締めれば、ひやりとした冷たい感触が口の中に広がり、それからゆるゆると口内の温度で溶け出した、甘い味わいに目を細めた。
「…おお…美味…い」
驚き、思わずポロリと本音を漏らす燐に、「ふん!」と荒く鼻息を噴出して、ウラが「とーぜんっ! ほっぺがなくなっちゃいそうでしょ?」と、ニヤリと笑う。
燐は、上目遣いにウラを眺めた後、「…むぅ」と唇を尖らせ、渋々頷くと、可愛らしい手のひらを差し出して「もぉ、一個」とおねだりした。

ウラは勝ち誇ったように燐にケースを差し出しつつ、「でも、チョコでは腹が膨れないわね…。 キッチンも、今はおかしな状況なの?」と白雪に聞く。
「ええ。 今では全ての支配権をチェシャ猫に握られています。 とはいえ…ベイブ様が空腹を感じおられるのは、何も人と同じ意味では御座いません」
そう白雪が言うので、夢中になった様子でチョコを食べていた燐は「では、なんで、腹が減っておるのじゃ?」と口の端にチョコをつけながら聞いた。
「精気が必要なのですわ」
「精気?」
ウラが首を傾げる。
「エナジーとも言い換えられますが、言ってみれば生きとし生けるものが皆持つ生命力のようなもの。 ベイブ様は、人の精気を時折摂取せねば精神の安寧を保つのが難しく、普段は竜子や黒須より吸引しておりました」
「ふううん」
興味も余り持てず、おざなりに頷いて、うぐうぐとお茶を飲み、燐は「ならば、少しでも長く正気を保てるよう、我らの中から誰かが提供してやれば良いのではないか?」と気軽に言う。
「ええ、そうして下さればありがたいのですが…」とそこまで言って白雪が言葉を切り、何故か、超ピンポイントで燐を凝視しつつ「…精気の吸引後は脱力状態に陥り、暫しの間行動不能な状態になってしまうのです」と言ってきた。

あれ? なんで燐を見るのじゃ?と不思議に思いつつ、「…こうどう…ふのう?」と、何故か拙い声で問い返す燐に、ぐいと顔を近づけて「とはいえ、動けなくなるのは、ほんの暫しの間ですし、吸引中は大変心地良く、その快美感と酩酊感はきっと、お嬢様を夢見心地にしてくれる事を、この白雪がお約束いたします」と、思いっきり燐に向かって説明してくる。

まさか…この展開わ…。

恐る恐る、翼とウラに視線を向けるも翼は、真顔で「今、僕が行動不能な状態になったら、大変な事になるよ?」と告げ、ウラも「悪いけど精気を与えることはできないの。 なぜなら暗闇の向こうへ戦いに行くからよ」と断わった。
「…それに、おまえ、戦闘に関しては別段さしたる能力はないのでしょ?」
ウラの致命的な問い掛けに、混乱も露に燐は四方八方を見回して、「…えーと、つまり、燐が……」と言いつつ、最後に、びくびくびくとベイブに視線を送る。
飢えた猛獣の如きベイブの眼差しを前に、「ふぎゅ…」と猫のような怯えた声をあげ、冷や汗らしきものをだらだらと零すと、最後に一縷の望みを求めるような眼差しで白雪に視線を向けた。
追い詰められた小動物のような燐の様子に、一切同情を示さず「お願いいたします」と、白雪が無慈悲に頷き、一瞬の硬直の後「いーーーーやーーーーじゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」と燐は叫んでのたうちまわる。
「こ、こここ、こ、怖いのじゃ! なんか、もう、聞くだけでおどろおどろしいのじゃ!」
そう燐が訴えども「大丈夫です。 痛くないですから。 気持ち良いだけですから」と聞きようによっては「いや、それは、それで精神的になんか嫌だ」というようなフォローを白雪が口にする。

「こ、こんな展開になるなんて、聞いてないのじゃ! う、うう、実は曜先輩、燐の事嫌いなのじゃー! こないだ事務所に妖怪ごと突入したの根に持ってるのじゃー!」と泣き言を喚く燐に、白雪が必死な様子で「ベイブ様も加減してくださいます。 何も命までは取りません」と、血走った目で言い募った。

白雪の 目が こわひ…。

そう慄きつつ、のっぴきならない事態に転がり落ちて言っている事に不安を覚え、「て…手加減…せんとどうなるのじゃ?」と涙目で燐が問えば、何でもないような調子でベイブが「誠は…3日間…生死の境を彷徨った…」と告げた。

燐、一瞬意識が遠のきかける。
生死を彷徨うって!!
3日間って!!!

た、たたたたた助けて曜先輩!!!

そう心の中で助けを呼べど、勿論、曜が来るわけもなく、孤立無援の状況で、ガタガタガタガタと小刻みに震えつつ、「……えーと、森へ帰らせてください」と「え? どこ出身?」な咄嗟の一言を燐は口にした。

マジで 帰りたい。

「で、出口はどこじゃ! 燐はどこから此処へやってきたのじゃ!」と喚く燐に「あそこ」と翼が白雪の胸を指差す。
前後の見境なく、ただこの場を切り抜けたい一身で「了解!」と軽快に答えて白雪の胸に飛び込めば、ぱふんと冷たくて柔らかな感触の後、待ってました!とばかりに、白雪がガシッと燐を捕まえて「ご協力を感謝します」と冷静に、翼と、燐両方に向かって礼を述べた。
「うぬうううう! 翼ぁぁぁ! 謀りおったなぁぁ!!」と燐は吼える。

大体、白雪の胸から来たってどういう事じゃ!!

実は燐、自分自身が、この王宮を訪れた際、道化師に貰った薬が「鏡」から「鏡」を渡る薬であり、鏡の化身である白雪の胸をこじ開けて出てきたという事に、全く気付いていない。
翼は嘘を吐いたわけじゃないのだが、翼の言葉よって、あえなく捕獲された燐は、「燐お嬢様の尊い犠牲は、白雪一生忘れません」と、まるで、死出の旅に送り出すかのような白雪の言葉に青ざめ、ウラも「さ、ベイブ。 血があれ程の効力がある娘だもの。 いただきなさいな」と勝手に薦める言葉に腹を立てた。
燐の精気は、燐だけのものじゃ!!と、じたばたじたばたともがいた挙句、どうしても逃げられないと悟った燐は「はひっ…はひっ…」と荒い息をつき、そのままがっくり項垂れて「わ…分かったのじゃ…もう…観念したのじゃ…」と項垂れ、くるりとベイブに向き直り、それからついと自分の手を差し出した。
「い…痛くするでないぞ?」と念押しすれば、ベイブは頷き、それからその手をとって、自分の唇を近づけてくる。
(げ?! まさか、キスするつもりか?!)とびっくりして、「す、すすすすとっぷー!」と燐は慌てて制止する。
「く…口からじゃないとダメなのか?」と燐が「…燐はうら若き乙女なのじゃ…。 キスは…ちょっと…」と言えば溜息をつき、それからベイブは燐の手に自分の掌を重ねた。
すっぽりと燐の掌を自身の大きな掌で覆い「口腔経由の方が…効率よく吸えるのだが…」とぼやきつつも、掌から燐の精気を吸い取り始める。
ベイブの掌が、ほの白く光を放ち、燐の強張っていた表情が見る見るとろんと緩んでいった。

凄く気持ちがいい。

まるで、猫になり、柔らかな毛布に包まれ、日の光を浴びているような、全身を優しい手で撫でさすられているような、恍惚とせずにはいられない感覚に、
「ふ…ゆぅぅにゃぁぁぅ…」喉を鳴らすような、猫の声をあげ、燐は目を閉じカクンと喉を仰け反らせる。
そして、ふわふわと笑いながら「にゃぁぁんかぁ…とおおぅっても、ほわほわするのじゃ…ぁ…」と言い、「…ごちそうさま」と言ってベイブが手を離した瞬間「う〜や〜」と情けない声を上げて、燐はころんと引っくり返った。
とんと白雪が、燐を受け止め「ありがとうございます」と言いながら、そっと床に座らせる。
「ふにゃ…ぁ…全身に…力が…入らぬぞ…」と燐が弱弱しい声で言うのとは対照的にベイブはすくっと立ち上がり「良い精気であった」と燐に向かって感想を述べる。
「…お陰で、少し動けるようになった」と言いながら、ふいに歩き出すベイブに「どちらへ?!」と慌てた様子で白雪が声を掛ける。
「動き回って…いいのか?」とその状態を計るような声で翼が問い掛ければ、「動ける今のうちに必要なものを取りに行く」とベイブは言った。
「…必要な…もの?」
「敵はチェシャ猫なのだろう? ならば『アレ』が有用な筈だ」
そう言ったベイブが、もう一歩足を踏み出した瞬間、その姿は掻き消えた。

おお、元気になったのなら、この燐が犠牲になった甲斐もある…と思えど、虚脱した体は全く力が入らない。
ふわふわとした気分はまだ続いていて、まるで眠りに落ちる寸前のような酩酊感を味わいながら、燐はぼんやり座り続けた。
ウラがてきぱきとした調子で、お茶のカップや、チョコのケースを片付け始める。
そして、何だか愉しげに「そろそろって感じじゃない?」と言いながら薄く笑った。
へにゃんとへたり込んでいる燐は、とうとう恐れていた時がやってきたのかと「う、うう、この状態では逃げ回る事も叶わぬ…。 お主ら…頼んだぞ…」と述べる。
「分かった、任しておいて」と翼が請け負えば「…翼ばかりじゃなくて、あたしだって、やるわよ」とウラは言った。
「あたしはね、あたしでも珍しいと思う位、今やる気があるの。 その上、燐の血のお陰ね。 力の調子も絶好調。 今のあたしは無敵よ」
そう自信たっぷりの調子で告げるウラに、白雪は「頼りにしております」と告げた後、「…ですが、あなたの保護者である、あの忌々しき…あら…失礼。 大変、ベイブ様にとっては有害で、胡散臭くて、イケ好かない魔術師が貴女を連れ戻そうと目論んでいる様子」と言う。
どうも、保護者といっている事だし、ウラの親と思われるデリクとやらとベイブは仲が悪いらしい…というより、何故、現在ウラの親の様子を白雪は分かるのか、燐はそれが不思議で仕方なかった。
翼が「…忌々しいって言葉を言い淀んだ意味が全く見えないくらいの言い様だね」と呆れ、燐は白雪の述べた台詞の中で、『魔術師』という聞き逃せない台詞が入っていた事に気付き、「な、なぜ、白雪にはそんな事が分かるのじゃ? っていうか、ウラは魔術師の娘なのか?!」と視線をキョロキョロさせた。
ウラが、フフンと鼻で笑い、「そうよ、このウラ様はいずれは大魔術師になるって決まってんの! 今から恐れ多がっておく事ね!」と燐に告げ、「…デリクが…そう…」と、困ったような嬉しいような複雑な表情を見せつつ、「ねぇ、今ならベイブもいないことだし、なんとか話だけでも出来ない?」とウラは白雪に問うた。

顔も合わせたくない程ベイブとデリクは仲が悪いのか…と思っていると、「分かりました。 燐お嬢様の血の効果も御座いますし、今の白雪ならば、出来るやもしれません。 暫しお待ちを…」と目を閉じて、暫く後、白雪がズズズと胸を開く。
自分がその胸をこじ開けて出てきたことは知らぬ燐は「な…なんじゃ?!」と、その光景に驚き、そして、その鏡に映る光景にもまた目を見開いた。

そこに映るは、あるマンションの一室。

何か渦の詰った硝子玉を片手に、考え込んでいる様子の男の姿が映る。

ダークブロンドの髪と、群青色した深い色の美しい瞳を持った、かなりの美形ではあるのだが、何だか、悩んでいる姿ですら、どうにも油断ならない胡散臭い空気を持った男だった。

(この男がデリク? じゃが、ウラの父親にしては若くないか?)と燐は驚く。

「デリク!! デリィーク!!」

ウラは鏡の向こうのデリクに向かって呼びかける。

「アア、ウラの幻聴まで聞こえてきテ…。 どれだけ私を困らせたら、あの子は気が済むんでショウネ? 私って、ほら、センシティブで、センチメンタルジャーニーですから(間違った日本語)、このままだと、ストレスで胃炎とかを患ってしまうかも知れまセン」
カタコト混じりの悲痛気な言葉は、されど、デリクとは初対面の燐にも、「なんて嘘っぽい!」と看破出来るような響きをしていた。
再度「デリク! 貴方に世界で一番無縁な病の心配なんてどうでもいいのよ! それよりも、こっちを見なさいよ! このあたしがこんなに一生懸命に呼んであげてるのよ!」とウラがデリクを呼ぶも、デリクは、見るからに、なんか意地になってるなぁという様子で、「…ほら、また幻聴が」と嘯く。
「大体、様式美にこだわる癖に、肝心なトコで抜けてるっていうか、ガサツ? 結構単純? むしろ、考えナシ? なウラに振り回される私は、もう、カワイソウ過ぎまス! しかも、チョコ、私の分ないシ! ないシ!!」と拳をぶんぶん振りつつ訴えるデリクに、「思いっきり拗ねてるだけだ…」と翼が呆れた声で言い、燐もその明らかな態度に呆れれば、「はぁ」と深い溜息を吐き「…冷蔵庫の二段目に…デリクの分のチョコ菓子が入れてあるから…」と若干疲れた声でウラが言う。

これだけの短いやり取りで、このデリクという男がどれだけ喰えない男であるかを、燐は悟る。
そりゃあ、ベイブと仲も悪くなるだろう。

天衣無縫に見えるウラだが、デリクと過ごしている事を考えると、彼女には彼女なりの苦労があるのだろうか?と燐は少し考え込んでしまう。
ウラの言葉に、デリクは機嫌を直したのか、クリンと笑顔でこちらに顔を向けてきて「可愛いウラ! 良かった、無事デ!」と言った。
「まぁ、白々しい! 誰ががさつよ! 考えナシよ! 明日から、デリク、無事に毎日靴を履けると思うんじゃなくってよ? そして、我が家の調味料の安否も気遣うことね! 特に、マヨネーズ、ケチャップ、味噌あたりは、一気になくなると思いなさい!」

ああ、靴に入れるんだ…と、調味料と靴の組み合わせに生理的嫌悪を抱き、ブルブルと背筋を寒くしつつ、デリクとウラの生活を想像してげんなりする。
デリクはそんなウラが可愛くてしょうがないという風にニコニコして「革靴の味噌漬けとか、マヨネーズ和えは、美味しそうジャないのデ、やめて下さイ」と、全然切実じゃない声で頼んでいた。
そして、目を細め、小さく胸の前で拍手をすると、「今日のコーディネートも、大変素晴らしいでス」と褒める。

確かに、ウラの格好は、ちょっと燐も羨ましくなる位には可愛い涼しげな白ベースのキャミワンピースを着ていた。
細めの黒いリボンで、フロントも、バックも編み上げられ、レースで胸元を飾っているそのワンピースは、可憐過ぎるデザインと華奢な作りが、着るものを限定するデザインではあるが、これ以上ない程ウラに似合っている。
薔薇の透かし模様が入ったふわふわと広がるワンピースと、厚底の大きなストライプリボンがあしらわれた白いサンダルとの相性はばっちりで、黒髪に留められたキラキラと光る蝶の髪飾りも絶妙なアクセントになっていた。

だが、デリクはその可愛さにはほだされなかったのか、「とはいえ、私に何も言わずに遠出したのハ、大減点でス。 丁度、私の部屋の本棚が、大分乱れてキタ所でス」と、そこまで言ったところで、後に続く言葉を悟ったのか、ウラは盛大に顔を顰め、それでも溜息混じりに、「しょうがないわね! 整理してあげるわ」と珍しく素直に請け負う。
そして、「だから、あたし、まだ、帰らない」ときっぱりとした口調でウラは言った。
目を見開き、首を傾げて、デリクは「どうしてモ?」とだけ問い掛ける。
ウラは、微笑を浮かべ、「どうしてもよ!」ときっぱり言い切ると、「だって、この城の薔薇園も、素敵なキッチンも、美しかった何もかも、今は、糞つまんない事になっちゃってるのよ? そんなの誰が許したって、このあたしが許す筈ないわ!」と笑いながら言い放つ。
「あたしは、あたしのお気に入りが失われる事を許さない。 そして、あたしが許さない限り、その所業が行われる事はありえないのよ。 だって、デリク。 世界はあたしを中心に回っているのだもの」

傲慢な言葉ですら、ウラの薔薇の唇から飛び出せば、予言めいて聞こえる。
我が儘も、不遜も、何もかもだ。

デリクが「ふー」肺の中の空気を押し出すような溜息を吐けば、座り込だままの燐が口を開いた。
「デリクとやら…、まぁ、心配はいらぬ。 燐がついておる限り、ぱわーあっぷきのこ、100体分がウラの味方についておると考えてくれてよい」
そう言い、ぐいと胸を張る燐に「いや、それ心強いのか、心強くないのか、かなり微妙なんだけど…」と翼が思わず言えば「えーと、じゃあ、フラワー! あの、炎がコロコロコロってでるやつ! あれが100本分じゃ!」と、更に「あれ、役に立つか、立たないか微妙なんだよね…」というようなアイテム名を挙げる。
「…是非、スター100個分でお願いしまス」と、真顔で頼んでくるデリクに、「デリクさんが、今まで見たことない位、結構必死なのは伝わってくるんだけど、繰り広げられる会話がトンチキ過ぎて、今いち真剣に聞けない…」と、翼が素直な感想を呻き、それから、「ふう…」と溜息を吐いた。


「デリクさん、千年王宮の状態は、今のところは小康状態を保っています。 燐が精気をベイブさんに分け与えてくれたお陰でもあるし、ウラが、ベイブの精神状態を落ち着けてくれた事も大いに役立ってる。 今、彼女は、僕達に必要なんです。 だから…」
ひゅっと翼は息を吸い、「僕が守ります。 この場にいる誰も傷付けない。 信じて下さい」と、凛とした声で言い放った。

燐は翼を見つめ、自分のお陰だといってくれた喜びと同時に、その悲壮な声音で伝わる、彼女が今回の件に感じている翼自身の責任の重さへの決意を見出す。

自分の小さな掌にそっと視線を落とす。
力が欲しい。

唐突に思った。
せめて、翼の重荷にならぬ力が欲しい。

守られるばかりの自分の有り様が、どうにも悔しかった。


デリクは首を傾げて翼を見つめる。
深い群青色した、謎めいた眼差しが、翼の心の奥底まで暴くように翼を覗いていた。
そしてデリクは、ふにゃっと唇を緩め、「コンコン」と鏡面をノックしてくる。
「いいですヨ。 そんなに、気負わなくてモ。 ネ? ウラ」
そう問い掛けられ、ウラが頷いて「あふっ」と一度欠伸すると、それから「とーぜん! 馬鹿ね。 翼。 あたしを誰だと思ってるの? 守ってもらわなくても良いなんて言わないわ。 でも、あたしが貴女も守らない理由も無くってよ?」と笑いながら言う。
燐も少しでも翼の気持ちを軽くしてあげようと、「燐もじゃ! 燐がおるからには、負けは有り得ぬ! まぁ、任せておけ! すっごい、応援、するから! 前代未聞の応援をするから! 乞う! ご期待!」と、座り込んだまま、それでもぐっと握り拳で、「なんで、応援だけなのに、そんなに自信たっぷりなんだ! ていうか、もう、むしろ、前代未聞の応援とか気になるよ! 見たいよ!」と言うような台詞をのたまう。
そんな燐とウラを振り返り、それから再び翼は苦笑を浮かべて鏡に向き直ると「あなたの大事なお姫様、お預かりします」とデリクに言った。
デリクは、諦めたように肩を竦め、それから、とても真面目な声で「ウラの事を、ヨロシク頼みマス」とデリクは翼に頼んでいた。

デリクの様子に、燐はウラを少し、羨ましく思う。
心配してくれる人がいるというのはいいものだ。
曜は今、一体何をしているのだろう?
燐は少し思いを馳せる。
少しでも燐のことを想ってくれていれば良いが…。

何だか燐は、心細いような、寂しいような気持ちになって、軽く唇を噛んだ。

さて、デリクとの通信を絶って暫く後、燐は「ミシリ」と不吉な音がするのを聞いて天井を見上げる。

黒い世界に皹が入っていた。

ウラが立ち上がり、周囲を見回すと「あらあら」と呑気な声を出す。
「…お楽しみの時間みたいね」

とうとうか…。
なんだか、呑気な会話を交わしていたせいか、燐は急に全身が強張るのを感じる。
怖い。
ここで、壮絶な戦闘が繰り広げられる事は充分予想がついている。
翼も、ウラも、どうか無事で…!と祈り、小さく震える燐の前に、ベイブの姿が再び忽然と現れた。

突如、燐の周りに銀色の結界が現れ、眩い光を放つ。
「…っ…何事じゃ?」
燐が問えば、ベイブは振り返り「…竜子よりの念押しだ。 お前の身の安全を何より願う者がいる。 くれぐれも傷を付けてくれるなと請われた」と静かに告げた。
竜子という名前に聞き覚えはないが、燐の安全を何より願う者には心当たりがある。
「…曜…先輩?」と小さく呟いて、燐は両手を握り合わせ嬉しげに笑う。

やはり、曜先輩は最高じゃ!と確信し、一瞬でも寂しく思った自分を笑い飛ばしたい気持ちになった。

想ってくれている人がいる。
それだけで、燐の心は強くなれた。


「白雪。 娘の傍へ」
「御衣」

ベイブの命に白雪がそっと燐に寄り添う。
「…調子は?」
翼が問えば、ベイブはつまらなそうに「然程」と答えて、彼女の手に、精緻な薔薇の意匠が施されたロケットペンダントを押し付けた。
「…持っておけ。 いずれ、使える」
ベイブの言葉に「あのロケットの中身は何なのだろう?」と燐は首を傾げ、「これを取りに言ってたのか?」と翼が問うた瞬間、ミシミシミシと部屋に亀裂が入り、そして見る見る間に崩れ落ちた。
眩いばかりの光に、目を眇め、そしてようやく視界が明瞭になった燐の目に、絶望的なほどの大軍が目には言った。
双頭の竜や、異形の禍々しい姿をした悪魔、毒々しい色合いの夥しい程の触手を持つ巨大な植物に、ぶよぶよと醜悪に震えるスライム、そしてたくさんのトランプ兵。

自身が行使しているらしい、風に髪を煽られながら、翼が「手加減…なんてさせて貰えないかな?」と余裕のある事を言えば、ウラが、パンと両手を叩き、クルリとまわって指先、爪先に雷を宿らせると、「そうね。 思いっきり踊らなきゃ追いつかないかもしれないわ」と、翼に負けない余裕の笑みを浮かべる。
燐は両手を組み合わせ、二人の勝利を心の底から祈った。

黒い壁が崩壊した外側には、まるで南国の如き奇妙な植物が生い茂っていた。
じわっと額に汗が浮かぶような、湿気を含む蒸し暑さに包まれる。
鮮やかだか、悪趣味な色合いの花々がそこらかしこに生い茂り、息苦しいような圧迫感を与えてきた。

何だか気持ちが悪いと燐は顔を顰める。
本当の亜熱帯の姿とは違う、歪な意思に満ちているように見えた。

「にゃぁぁぁおぅ…へぇぇ、やっと殻を壊せたと思ったら、王子様とお姫様を助っ人に呼んでたってわけかしらぁ?」

醜悪な軍隊の先頭に一人の女がいた。

「ベイブゥさまぁん…酷いじゃないのぉ…わっちを一番最下層に閉じ込めてぇ…自分は、すまし顔で女王とジャバウォッキーとヨロシクやってるなんてさぁ…。 し か も 、最近はお友達も増えたそうじゃない? ねぇ、もう、私はいらない女なの?」

ピンク色のふわふわにウェーブの掛かった髪を腰まで伸ばし、全身にぴったり張り付くような黒いスーツを着ている。
大きく開いた胸元から覗く胸は何か詰め物でもしているのかと疑いたくなるほど大きく、細くくびれた腰に連なる張り出した尻を緩やかに揺らして歩けば、しなやかに伸びた尻尾がゆらり、ゆらりと左右に揺れた。

あいつが チェシャ猫。

ピンク色に染められた唇を尖らせ、「…でもね。 ダメよ? だぁめだめ。 わっちは、ずうっとあんな場所にいる気はないのよん。 はぁい! 王様交代! 今度は、わっちがあんたを最下層に閉じ込めてあげる。 大丈夫。 寂しくないわぁ。 だって…貴方と遊びたーい!っていうお友達が、ほら、こぉんなにたくさんいるんですもの」と、後ろの怪物達を指示す。
気味の悪い声が次々に上り、圧倒的な音になってその世界を塗りつぶす。

燐がぎゅっと白雪にしがみ付きその不気味な声に怯えた。

「あらあら、ベイブってば人気者」とウラが唇に手を当て首を傾げれば、「代わってやろうか…?」とベイブが問いかけ、「遠慮させて頂くわ」と即座に断わられていた。

「みんなに相手して貰っているうちに、千年なんてあっという間。 そうね、大事な大事な竜子と誠も、一緒に閉じ込めてあげる。 どうぞ仲良く暮しなさいな。 勿論わっちも遊んであげるわよ? 昔よりも、ずっと、ずっと、たぁっぷりとねん」と言い、チェシャ猫は赤い舌を出して、唇を淫靡に嘗め回した。

「たかだか…猫の分際で…大きく出たものだな」
そうベイブが言えば、「ミャハハッ!」と腹を抱えてチェシャ猫は笑い、「…そんな事を言ってられるのも今のうち」と告げると、翼たちに向かって嘲笑うような表情を見せた。
「あんた達も、ばかな子達ね。 んふ、でも、可愛い子揃いじゃない。 いいわん、ゾクゾクしちゃう。 貴方達も、一緒に閉じ込められたいの? いいわ。 遊んであげる」
そうチェシャ猫は言い、そして後ろの軍勢に向かい「…やっちゃって」と彼女は此方を指差した。


雪崩を打つようにして、此方を四方に囲み向かってくる軍勢を前に、ウラが、けたたましい笑い声をあげ、激しいステップを踏んだ。
白いスカートの裾を翻し、「ばぁか! ばぁか! 馬鹿野郎の糞野郎共が! あたしを? 閉じ込める? くひっ! くひひひひっ! そんな寝言は寝てからでさえ慎みやがれ!」と叫ぶと、とてつもない雷が魔物たちに降り注いだ。

轟音が断続的に響き渡り、その威力に驚きつつも、燐は耳を塞ぐと「耳が壊れるのじゃ〜!」と叫ぶ。


翼はベイブから預かったペンダントを首に掛け、一気に強風を巻き起こした。

こちらも威力が凄まじい。

そこらかしこで、トルネードを起こし、大勢の敵を足止めにしている

チェシャ猫が目を見開き、「…何者?」と問うてきた。

「…僕? 王子様だよ」

翼が笑ってそう答え、美しい剣を召還した。

「悪い猫ちゃんにはおしおきだ」

猫に詰め寄る翼は、自由自在に風を操り、敵をなぎ倒しながら一気呵成にチェシャ猫へ詰め寄る。
チェシャ猫が、ひゅっと腕を横に振り抜けば、その手に銀の細いレイピアが現れて「舐めんじゃないよ…」と喉で唸った。
カンッ!と高い音を立てて、剣と剣がぶつかる。
翼が目で追えないような素早さで、足首や、腹、首元を、容赦なく斬りにいけば、猫特有のしなやかさで、身をくねらせ攻撃をかわし、翼の隙をうかがって鋭い一撃を食らわせにきた。

手に汗握る攻防に、燐は「頑張るのじゃー!!」と翼に声援を送る。

ウラはウラで手を激しく叩いて、何度も、何度も雷撃を落としていた。
狙い済ましたかのように、敵に落ちる雷達に興奮し、「撃て! やれ! そこじゃ! ぶちのめせ!」と、前代未聞と言っていた割には、大変オーソドックスな声援を送る。

ベイブはといえば、相変わらず、何を考えているのか分からない表情を見せているが、銀の結界付近まで迫り襲い掛かってきた魔物達は結界に弾かれ手出しは出来ないでいるらしく、ベイブが時折鬱陶しげに振る指から放たれる真っ白な炎に包まれた魔物達は見る影もなく溶け果ててしまっていた。

「旨そうな匂いがするぞ!」
「娘、齧らせろ!」
「こっちへ来い!」

おどろおどろしい声で、燐に手を伸ばそうとする魔物たちに「ひっ」と悲鳴を上げかければ、白雪が優しく抱きしめてくれる。
ベイブも、「この中にいる限りは大丈夫だ…」と請け負ってくれて、とりあえずは安堵した。

チェシャ猫が口を歪め、周囲を見回し「侮ってたってことかしらん?」と首を傾げる。

「ベイブの状態があんなに良いだなんて、想像もしなかった。 もっと赤ん坊みたいに泣いてんなら、可愛げもあったのに」

チェシャ猫は、そこまで言ってにっと唇を割く。

「『ママ』におっぱいでも貰ったの? ベイブ」

チェシャ猫は、悪意のある声でそう言って、それから、ベイブの傍へと一気に駆けてくる。
迫り来る彼女に、燐はぎゅうっと白雪の着ているワンピースの裾を握った。

「っ! 止まれ!」
ウラが叫び、指先に雷を宿らせ一気に頭上から振り下ろすと、その指先から雷の矢が射られる。

連続して打ち放すその攻撃を右へ左へと避け、一気にベイブの目の前までやってくると、チェシャ猫は「ぐっちゃぐちゃ!」と叫んだ。

「何人、一緒にヤったっけ? 血のブレンドスープを何杯一緒に飲み干した?! ここにいる娘っ子たち位の年齢の女が、あんた、大好物だったよねぇ? 今更さ! 今更さ、ベイビー! 昔は、お高く止まった女も知らない騎士団長! お次は、残虐非道、悪辣無比の快楽殺人鬼! それで、今度は何になるつもり? 女の子達に守られて、泣いているばかりの、ベイビーちゃん? 『アリス』をやった時はどんなんだっけ? ねぇ、昔語りをして頂戴? 『アリス』は最期に、あんたになんて言ったんだっけ?!」

ベイブの表情が見る見る歪む。

銀色の結界が不安定に揺れるのを、燐は心臓が破裂しそうなくらいドキドキしながら眺めた。

多分ベイブが壊れれば。

この結果射も壊れて…。

燐が周囲を見回せば、結界の周りで舌なめずりしている魔物達が目に入る。

(っ! まずい! まずい、まずいー!!)

そう思い、ベイブの正気を何とか取りとめようとするも、なんと言ってやれば良いのか分からず燐は混乱を極める。


両手を広げてチェシャ猫が喚くのを、白雪がその眼前に立ち、両手を広げ「おやめなさい!」と喚いた。


「役者が違うんだよ! 白雪!!」


チェシャ猫が叫ぶ。


「ここは あんたなんか お呼びでない 世界さ」

笑うチェシャ猫に白雪が青ざめ言葉を失くした。


「あっ…」

ベイブが頭を抱える。

「うっ…あっ…」

銀色の結界が酷く乱れ始めた。

「あっ…あ…まこ…と…何処? 竜子…りゅう…こ…」

ベイブが誰かを読んでいる。

まずい。

世界がぐらぐらとゆれ、燐は身も世もなく叫びかける。
壊れかけている。
ベイブが。

そして、どうすればいいかなんて、少しも分からない。

高らかにチェシャ猫が笑う。

「来ないよ。 可哀想なベイブ。 あんた 捨てられたんだ」

ベイブが、全身を震わせ、耳を塞ぐ。

「あんまり可哀相だから、わっちが拾ってあげようか?」

揺れが酷くなる。
何とかベイブの為に言葉を搾り出そうとした時だった。

「来ない? 女王が? 猫如きが…。 己の分を弁えなさい」


そう言って白雪が立ち上がった。


「悔しいけれど、あの女がこの城の女王である以上、来るのです。 あの女は。 来るのです。 王が呼べば」

白雪が胸に手を掛ける。
ずるりと、胸の間から女の指が突き出された。

「竜子!」

ベイブが名を呼ぶ。

「あいよ!」

それは力強い女の声。
ぐいと白雪の胸を押し開き、一人の女が千年王宮に降り立った。

王宮中の人間、魔物ですら、息を呑んだ。

薔薇の飾りがあしらわれ、裾の広がったゴージャスな赤いロングドレスを着ていた。
華奢なハイヒールを履き、豪奢な薔薇モチーフの髪飾りで金色の髪を纏め上げている。

女王。

白雪が読んでいた、その呼称に、燐は頷く。

女は、まさに女王の名に相応しい美貌と風格を兼ね備え、血色の良い頬や、滑らかな肌、そして何より表情が、躍動感に満ち、健康的で、華麗な色香を発散していた。

女に続いて、黒い透かし模様の精緻なレースが施された大き目な白い立て襟のドレスシャツの上に銀色の十字架モチーフがあしらわれ、いたるところにメタルボタンが付けられているインパクトのあるデザインの、裾の長いジャケットコートを羽織った、無性めいたスレンダーな美青年が現れた。
燐は、思わず息を呑み、トクトクと鼓動が跳ねるのを感じる。

と、ときめいた!!とよろめきかけるも、折角無表情でいれば、見惚れるばかりに美しいのに、焦った様子で、青年を様子を凝視していた翼に「違うから! 俺の趣味じゃないから! 色々あって、こういう姿をしているだけであって、基本、俺の全身コーディネートの平均額は3000円だから!!」と、「そんな別に知りたくないよ…」情報を公開してくる。
途端、がっくりと、幻滅してしまう燐。

やはり曜先輩が一番格好よいのう…と確信する燐の目の前に、黒薔薇のモチーフを濃い黒糸で刺繍で施された和洋折衷の打ち掛けを、豪奢に重ねて、羽織った美しい少女が現れた。
美しい絹糸の如き黒髪を背中に流して、十二単を身に纏い、銀色のティアラを頭に飾っている気品ある姫君の如きその姿に圧倒され、全身が震え、そして、その名を心から呼ぶ。

「曜先輩!!」

燐は一目散に駆け寄ると、ぎゅっとその体に抱きついた。

「曜先輩! 曜先輩! 燐は! 燐は、頑張ったのじゃ! 曜先輩の為に、頑張ったのじゃ!」と喚く燐の体をしっかりと抱きしめ「ああ。 よくやった。 えらいぞ、燐」と、曜はその頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。

そして、曜は銀色の結界の向こう側に立つ翼の姿を見止め、ツイと頭を下げる。

「貴方が、翼さんか?」
曜の問い掛けに翼は頷きで答えた。
「この状況を見る限り、この子を、連れて帰りたい所だがそれも叶わぬ身の上。 だが、竜子がこの子の無事を請け負い、何があっても無事に帰してくれると約束してくれた。 竜子が言ってたんだ。 貴方がいるから大丈夫だと。 頼む…この子を…」とそこまで言ったところで、燐は曜の着物の袖を引いた。

翼は、デリクにウラの事を頼まれていた。
この上、燐のことまで頼まれては、翼は、たった一人ですべてを守らねばならなくなる。

それは、出来ないと思った。

翼一人に、全てを任せるなんて、燐には出来なかった。


「曜先輩。 燐は…燐は大丈夫なのじゃ」
曜を見上げ、泣きそうな顔を無理矢理のように笑顔にして、燐は言い募る。
「燐は…実は、そんなに怖くなかったのじゃ」
いや、本当は震えるくらい怖かった。

「燐は、守られる為に此処に来たのではないのじゃ」
いや、本当は守られるしかない自分を分かっていた。

「翼と、ウラの力になり、この城をひいては、世界を守る為に来たのじゃ」
いや、本当は曜にさえ、褒めて貰えれば満足だった。

だけど、だけど、だけど。

「大丈夫。 燐は逃げ足が早いのじゃ。 いざとなれば、誰も追いつけはせぬ。 だから…」
ぎゅうと曜の内掛けの袖。
皺になりそうなほどに強く強く握り締め、「…翼は…全部守ろうとしておる。 それでは、余りに、翼が辛い…。 燐は…己が身は、己で守る。 翼の重荷にはなりとうないのじゃ」と、本当の気持ちを込めて燐は言った。

曜は燐の顔をじっと見下ろし、一度コクンと頷いた。
「…キミに、此処に行って貰ってよかった。 今、やっと心から思える。 でも、キミが無事に帰ってこなければ、私は即座に後悔する事になる。 だから…」
そう、心配げに述べる曜に向かって「燐は自分の身を守る実力にかけては天下逸品じゃ! 安心するのじゃ!」と明るい声で答え、燐はドンと胸を叩いて請け負う。
今、曜もきっと頑張っている。 だから、曜の前だけは、弱音なんて吐けないと思った。

きっと、凄く心配してくれていた。

疑ったのを恥じたくなるほど、きっと自分の事を心配してくれた。
だから、安心して、心置きなく曜が自分の役割を果たせるように、燐は曜が大好きな天真爛漫な笑みを浮かべて見せた。

曜は薄く笑い、それから翼に視線を向け「この子がキミに会えた事が何よりも、この件に関わって良かったと思える成果になりそうだ。 どうか、他の誰かだけでなく、キミ自身も無事で…」と曜が言えば。「お互いに…ね?」と翼は答えて笑った。
曜も美しく微笑み返し、さっと蝶が羽を広げるように着物を脱ぎ捨てる。
着物の下に、下着として着込んでいたのであろう、動きやすそうな小袖姿に変じており、鮮やかな椿の柄があしらわれた着物姿に、下ろしていた髪を素早く纏め上げ、簪で留めた姿は、十二単姿とはまた違う凛とした美しさに、燐は見惚れた。
曜が燐に脱ぎ捨てた着物を渡す。

「…キミに預ける。 大事な着物なんだ。 よろしくな?」

曜の言葉に感激しながら頷いて、それから燐は着物を抱え、深々と頭を下げた。

「…御武運を」

竜子と呼ばれていた女が、ベイブから受け取ったらしい大きなマシンガンを二つ抱えて、白雪に走り寄る。
ゴシックファッションに身を包んだ美青年も、薄紅色の美しい剣を片手に白雪の元へ向かっており、燐は少しでも曜の力になるべく、先程針でついた人差し指に貼っていた絆創膏を剥がし、ツイと曜に向かって差し出す。
何も言わずとも、燐の意図を理解してくれた曜は、そっと顔を近づけると、その人差し指に口付けて、燐の血の雫を舐め取った。

濡れた暖かな感触に、燐はトクンと心臓を跳ねさせ、そっと、曜の口付けた指先を胸に抱きしめる。

竜子が、「じゃ行くぞ!」と掛け声を掛け、曜達はまた白雪の胸の鏡に三人は飛び込んでいく。

ベイブの様子は、竜子の力もあってか落ち着いており、チェシャ猫は地団駄を踏むと「なんで! なんで! あの女!」と喚き散らし、そしてベイブを睨みつける。
だが、最早言葉で篭絡するのは無理と見たのか、「もう…生死の無事も問う気はない。 遊ぶつもりもなくなった。 一気に、叩き潰してやる!」と叫ぶと、魔物達が大きな黒い波のように一気に攻撃を仕掛けてきた。

翼やウラが必死に対抗するが、その勢いが留められない。

(くそう!!! 何か手立てはないのか?!)そう歯軋りをする燐に応えたかのように、思いもよらぬ援軍が現れた。

それは、空中から、床から、想像もしない場所から不意に現れ、姿を現し、群れになり、そして一気に、敵に踊りかかり始めた。


「っ…これは!」

魔物とはまた別の異形。
羽の生えた下半身が馬男達や、体中を動物の毛皮に覆われた者、鱗や角を生やした不思議の生き物達が魔物たちに喰らいついていく。
燐は結界のすぐ傍に現れや、大きな牙を持った男にお問い掛けた。

「お…お主らは?!」
「キメラだ! K麒麟に掴まってた所を助け出されてな! その代わり、あんた達を助けるように言われてきた!」
男の答えに驚いて、「誰に?」と問い返せば、「青い目の胡散臭い男にだ!」と即座に答えが返ってきた。


一瞬誰の事だか分からず、思考を巡らせ、ハタと、デリクがキメラの述べる外見に該当する事に思い至る。

どうやってこの場に彼らを送り込んだのかとか不思議に思わないでもないが、今は正直唯々、ありがたい。

ウラは良い保護者を持った!!と歓声をあげたいような気持ちになる。

キメラ達が魔物と取っ組みあい、この世の物とは思えない戦闘風景が繰り広げられる中、ウラが突如、ペガサスのような生き物に跨って、魔物の群れの頭上を抜け、何処かへ飛び去ろうとした。

「っ! ウラ!!! 何処へ?!」

翼が叫べば、既に小さな点になり始めたウラが大声で答える。

「迎えに行くの!!」
「誰を!」


「アリスを!」

アリス??

誰の事じゃそれは?!と疑問に思いウラが一体何を目的としてここを飛び立ったのかが理解出来ずに燐は混乱する。

されど、今は立ち止まっている時にあらず、ウラとて、この城を救う為に真剣であった事を重々承知している燐は、彼女には彼女なりの策があるのだろうと頭を切り替えた。

それから、どの位の時間が経ったのだろう。
風の力を振るい、剣を翳せど、無数に湧き出る魔物の前にはキリがなく、翼が目に見えて疲労し始める。

駆け寄り、自分の血を与えたいと想うが、魔物の群れがそれを許してくれそうにない。
それどころか魔物たちにとってご馳走な燐などは、あっという間に捕らえられ、バリバリと咀嚼されることが予想できた。

翼が、魔物の群れをくぐりぬけ、その中心で嫣然と戦況を見守っていたチェシャ猫へと斬りかかる。

「っ! あらぁ、王子様! ご機嫌麗しく!」

チェシャ猫の言葉に「そちらもね!」と言いつつ翼が剣を振り下ろせば、ひらりと身をかわし「…中々しぶといじゃない。 こんな援軍まで呼んじゃって!」と言い、キメラ達を指し示す。
「…あんた、何のつもりなの? 翼って言うんだっけ?」
そう問われ、「ただ、守りたいだけだ!」と翼が言葉を返す。
「っ、守りたい? 何をよ!」
「この城を!」
「何故?!」
「約束したから、竜子と!」

翼は、あの女王と友人同士らしい。
どの声に込められた決意の固さに燐は胸を打たれる。

だが、チェシャ猫は、声を上げて嗤い「ばかね。 お友達のためぇ…なぁんて、反吐が出るわぁ…おめでたくって!」と言い、レイピアを翼に叩きつけた。

「聞いてたでしょう?! ベイブは、気が狂ってる! 昔は、大量に人間を殺して遊んだわ? 正気の時だって危ういものよ! ジャバウォッキーと女王が良い気になって、お気に入りを気取っているけど、それだっていつまで続くものだろうねぇ! あんたが、守ろうと思ってるこの城は、本当にわっちから守り抜き、ベイブに返す事が正しいなんて! 翼はどうして言い切れるの?!」


チェシャ猫の言葉に、翼の視線が一瞬泳いだ。

動揺を誘われている。

「何を持って、わっち達を討ち、何を持って、あの男を守るの? 正義の味方のつもりなら、お門違いも良いとこさ! いいかい、誰が王様になろうと、このお城は危険で、あの男は、わっちよりも、ずっと凶暴で、凶悪なんだ! 翼!」

チェシャ猫が腕を伸ばし、翼の手首を掴んで顔を寄せる。

「あんたが討つべきは、わっちじゃなくて、ベイブじゃないのかい? この世界の為を思うなら、その剣はあっちに向けられるべきもんじゃ、ないだろう?」

妖艶な顔がぐいと翼に寄せられる。

それは、食虫花が獲物を捕らえた瞬間にも見えて、燐は思わず立ち上がった。


「ねぇ…翼…。 わっちと一緒に行こうよ。 世界、一緒に守ろう。 ベイブの手から」

チェシャ猫に引き寄せられ、翼の背中が丸まる。
猫背になり、ピンク色したチェシャ猫の瞳の色を翼がじっと見つめていた。

危ない!
燐は咄嗟に声をあげる。



「背筋を伸ばせ! 翼!!!」

 

頭を揺らすような燐の声に、ピンっと翼が背筋を正す。

「曜先輩が、言っておった。 姿勢を但し、背筋をシャンと伸ばせば、大抵の事はなんとかなると。 翼! 惑わされるな! 今、お主が判断基準にすべきは、正しいか、否かではない! そんなもの、誰にも判断できぬ! だから…!」
燐が、チェシャ猫を指差し、ニヤリと仔悪魔のように笑って言った。


「いけすかない奴を叩き潰してしまえ」


翼が、背筋を伸ばし、息を吸う。
チェシャ猫の顔をマジマジと見て、それから翼は頷いた。

「僕は、君とは一緒に行けない」
チェシャ猫が、翼に向かってレイピアを青眼に構え突進してくる。
だが、燐は、翼が、そのような攻撃にやられる筈がないと確信していた。

「だって 僕 君が嫌いなんだ」

微笑んで、剣一閃。

チェシャ猫のレイピアが高く跳ね上げられ、がら空きになった胴を翼は薙ぎ払う。
辛うじて飛びのいたチェシャ猫だが、その剣先はチェシャ猫の胸の辺りを切裂いていた。
大きく魅力的な胸が揺れ、はっとしたように胸を押さえたチェシャ猫は慌てたように顔を上げ、そして翼の胸元を凝視する。


「それ…は、わっちのもんだ!」

手を伸ばしてくるチェシャ猫をいなし、翼の胸元に手を伸ばした。
そこにはベイブから預かったロケットペンダントが下げられている事を燐も知っている。

「君の?」

「返せ! あんたの胸に掛けられているべきものじゃない!」

そう手を伸ばしてくるチェシャ猫を風で押し返し、その中を翼が開いて確かめようとした時だった。


パン!と突然何かが弾けるような音がして、ポツンと燐の頬に生暖かい液体が当った。

「え?」

そう呟いて見上げた燐の視界一杯。


空中から 魔物と戦っていたキメラ達の 頭が 赤い花が咲くように 弾けていた


「…え?」


呆然とした声が漏れた、一瞬後、雨が降った。

暖かな血の雨が。

首を巡らせれば、キメラ達が皆、頭を爆ぜて倒れていく。


パン、パン、パン

呆気ない程に連続して聞こえてくる破裂音。
キメラ達の頭に赤い花が咲いていく。


子供もいた。
女性もだ。
関係なかった。

戦っているものも、ベイブの傍に身を寄せていたものも、軒並み、みんな、頭をなくして、その場に倒れた。


魔物達が血に染まる。
燐も降りしきる鉄の匂いのする生温い雨に打たれ、赤く染まった。

それは、地獄めいた光景。


チェシャ猫が、「ひっ…」と引き攣った声を出した。

「ひっ…ひひひっ…ひひっ、ひあっはぁっはぁっはぁぁぁっ!」

大声で笑い、翼を指差し、そして同じように血を浴びている燐と、ベイブの指差す。


「贈り物だ。 わっちへの。 自分達だけ、助けが入るって思ってた? 一緒さ。 わっちにだって、いるんだよう。 『仲間』ってやつがね」

燐は、地獄のようなその光景に声も失い、圧倒され尽くした。

翼が、静かに問い掛ける。

「誰? Dr?」

翼の問い掛けに、チェシャ猫が手を叩く。

白雪の言っていた、K麒麟の幹部だというキメラを開発した男。

「ご名答。 彼からの贈り物だわ、この花は! どう? 綺麗なもんでしょう?」

そして血塗れの両手を広げ、微笑みながら言った。

「さぁ、戦況は、またも振り出しに逆戻り! さぁ、あんた達、これからどうする?」




〜to be continued〜


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3432/ デリク・オーロフ  / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【3343/ 魏・幇禍 (ぎ・ふうか) / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【3678/ 舜・蘇鼓 (しゅん・すぅこ) / 男性 / 999歳 / 道端の弾き語り/中国妖怪 】
【4582/ 七城・曜 (ななしろ・ひかり)/ 女性 / 17歳 / 女子高生(極道陰陽師)】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】
【3427/ ウラ・フレンツヒェン  / 女性 / 14歳 / 魔術師見習にして助手】
【4236/ 水無瀬・燐 (みなせ・りん)  / 女性 / 13歳 / 中学生】

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■         ライター通信          ■
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お届けが遅くなってしまい大変申し訳御座いませんでした。
今回は前編のお届けに御座います。
是非続けて後編も参加くださいますようお願い申し上げます。

それでは少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

momiziでした。