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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


白物語「匕」

 月刊アトラス編集部。
 いつも静かとは決して言えない編集部に、最近、更に独特の騒音が加わっていた。
「……困ってるのよね」
碇の招集を受け、集った面々を前に、彼女はいつになく物憂い、そして悩ましげな溜息を洩らす。
 彼女の視線の先には、業務に勤しむ社員の姿。
 声高に電話で打ち合わせる編集員、叩き付けるようなタイピング、大判の紙を広げる乾いた音……高音域にかかるそれ等を通り越した、音は廊下から低く響く。

 ……ドスン……ドスン。

 一定の律を保ち、足下に伝わって来る振動に距離を容易に感知できる。

 ……ドスン……ドスン。

 徐々に大きく強く。近付いて来るその響きに、察しの良い者、心得のある者は通路となる箇所の椅子を引き、出来るだけ広く通路を保とうとする。
 近付く音とに気を引かれた戸口、その視線の先で蝶番の軋みが幻聴として聞こえるかのように、ゆっくりと、重々しく扉が開かれた。
「おはようございま〜すッ☆」
一転、今までの不審さを払ってそれはよい朝のご挨拶が、部内の照明に力を貸す。
 その声の源には、我らの愛すべき三下忠雄の姿があった……ただし。

 当社比200%増しの体重で。

 ふっくらどころの騒ぎではない表面積の肥大に、知る者は彼と認識出来ないか、己の目を信じないかのどちらかの反応を示す。ちなみに現時点、その比率は二対一であるのが統計として算出されている。
 更には。
 三下を三下として認識した上で、知人であればあからさま、彼らしからぬ変化を認める事が出来る。
 先ずはその頭。
 バンダナよろしく額に巻かれたのはハンカチ……編集部まで歩いてきただけで額から滲み出る汗に微妙にオレンジがかっているが、紛う方なく幸せを呼ぶ黄色だ。
 次に首もとにご注目頂きたい。
 たっぷりと三重になった顎に気を引かれるを耐えて頂いたその下に、幾重も安っぽい鎖が掛かっているのが見て取れる事と思う。
 インドの聖人が彼の為に、彼の為だけに祈りを込めた米が一粒、円柱型の小さな硝子瓶に収まって揺れるペンダントトップを初めとして、その隣に古代エジプトの英知を今に伝え、宇宙のエナジーと繋がるというピラミッドの形を模した金色のチャーム、更に彼の生まれ月の星座のシンボルを形取って誕生石をアクセントに一粒配した銀が、成人男子が身につけるには愛らしく揺れている。
 また、指には。
 福々しく丸々とした金色の招き猫、両手を頭の横に添えて客も金も招く欲深……基、オールマイティさを表して立体的に存在感の強さをいや増すリング。
 それ一つだけでなく、平たい面にぎっしりと般若心経を彫り込んだシルバー、何やらアヤシイ魔法陣を形作ったものまである。
 髑髏を連ねたブレスレットは魔除け、手首にも居るまねき猫、水晶や瑠璃、キャッツアイなど種類の違う天然石を連ねて数珠状態の物が腕に巻き付いている。
 そしてボタンが閉まらずに開いたままの背広、その下に着込んだTシャツははち切れそうな腹回りに伸びきっているものの、どうやら曼荼羅と思しき図柄が認められる。
 物問いたい複数の視線に、碇は問わずとも語り出す。
「……雑誌の特性上。あぁいうグッズのスポンサーが多い訳よ」
雑誌、とは勿論月刊アトラスの事を指す。
「で、あの三下があぁいう招運グッズを使って実際、効果が出たら、この上ないCMになるじゃない? 興味も手伝って……どうなるかって企画を通して、今はその実践中なんだけど」
どことなく滲む疲れは、碇の美貌に隙めいた色を添える。
「えー? 僕宛にまた懸賞賞品届いてるんですか? やー、困ったなー」
何やら怪しげな仏が舞い踊るマイカップを手に、懐から取り出したマイスプーンについた鈴をチリチリと鳴らし、三下は出入り口の脇に積まれた荷物を見る。
「あ、皆さんもお茶にしませんかーッ。北海道の恋人達から沖縄のちんすこうまで全国各地のおやつがありますよー♪」
陽気に声をかけて来る、三下の肉に埋もれそうな笑顔が福々しい。
「……見ててご覧なさい」
碇の指示に、衆目は三下に集まる。
 つまみ食い〜♪、と嬉しく歌いながら、三下は豆大福を一つぱくりと咥え、咀嚼し、呑み込む。
 同時に、むくっ、と音を立ててその身の幅が増えた。
 明らかに、異質な力がその身に影響を及ぼしている事は明らかだ。
「貴方達の任務は」
某スパイ映画のテーマソングを幻聴に聞こえそうに、重々しい口調で碇は告げる。
「幸運の源と思しき品を見極め、彼から奪取する事……」
 三下が開運グッズを身に着け始めたのはほぼ同日、その影響力から見て三下が幸運の元を手放せば即時、効果の消滅を判じられるだろうというのが碇の推測だ。
「今までの状況から鑑みるに、ターゲットの抵抗は激しいと思うわ。それは覚悟して頂戴」
不幸の権化、凶運吸い取り紙、とまで言われた彼が、懸賞に当たりまくりという幸運に甘い生活を容易に手放すとは思えない。
「〆切は明日、どうあっても今日中にターゲットの不幸を凌駕し得るラッキー・アイテムを突き止め、記事にしなければなりません」
碇はカタン、と軽い音を立てて席を立ち、面々に背を向けた。
「ターゲットには真意を悟られないよう迅速に、そして確実に……目的を達成出来るよう、協力体制を整えて事に臨んで下さい。後は各人の判断に任せます」
世の不思議や怪奇の情報を一同に集め、人様の好奇心をお銭に変えて。
 記事のためなら身内の幸せをも剥ぎ取る、碇の商魂に見出された七人の精鋭が、今困難に立ち向かう! 
「……って、前後編にした方が読者の興味を引いていいかも知れないわね」
そんな同意を求められても困る碇の発言は置いておくとして、幸せ一杯の三下を、不幸のどん底……元の状態に戻すという、何とも気の重い任務を承った面々は、仕方なく腰を上げた。


「あら、意外に少ないわね」
気鬱な任務への参加の意思を示した人数は、僅かに四人。
 軽い挙手で以て、意思を表明したセレスティ・カーニンガムが杖に体重を預け、ゆっくりと碇のデスクに歩み寄る。
「暑いのは苦手なので」
冷房が効いていても、忙しい人いきれの為、涼しさから程遠い環境で、更に視覚的な圧迫感を感じるのは頂けないのだろう。
 とはいえ、視力の弱いセレスティ、欠けた部分を感覚で補う為、存在感の強すぎる三下の暑苦しさを常に知覚するのは拷問に近い。
「これが冬場だと、まだ温かみのある眼差しで見られるんでしょうけれど」
シュライン・エマも、物憂い溜息を落としながら、碇に資料を手渡す。
「……やっぱり夏だとホント、体感温度も実際の室温もあがりそうよね麗香さん」
「あら、アリガト」
興信所に依頼していた裏付け調査を受け取り、軽く目を通した。
「裏付けオッケーね。あのままで通して」
近くの編集員を指で呼び寄せ、そのまま資料を渡す。
 眉唾な題材を記事として扱うことの多い雑誌の特性上、面白おかしく、ただ読者の興味を引けばそれでいい、というような誌面作りを碇は行っていない。
 その為、部下がどんな犠牲を払う結果になろうとも。
「バァゥッ」
そんな碇に漢気に感じ入るものがあったのか、ジャイアント・パンダが六本の指を拳に握り、片方の肉球へと打ち付けた。
 表面積に関しては今の三下に勝るとも劣らない、しかし種族的な属性から、ふくよかさが愛らしさにしか繋がらない飛東の吠え声に、桃・蓮花が頷いた。
「そうね、鳩尾に一発喰らわせて、ひんむけば万事解決ね!」
パンダの物騒すぎる提案に応じる、無邪気な笑顔には一片の迷いもない。
「効率的且つ速やか、という点では素晴らしいですが、どのアイテムが効を奏しているのか解らないですね」
碇の要望に応えることにはならない、とセレスティがやんわりとせっかち気味なサーカス団員達を押し止めた。
「それは最後の手段に取っておきましょう」
しかし、却下はされないらしい。
「でも、確かに展開的にはもう少し人が欲しい所ね」
記事の構成を考え、シュラインが腕を組んだ。
 ヒットアンドアウェイを気取るにしても、同じ顔ばかりでは三下の警戒を呼びかねない。
 因みに最終的に盗賊紛いの行為に走ることに関しては誰も異論がない様子で、決定稿としてさくっと流されてしまっている。
 最後の展開は派手な方が良い、と、どこか毒されてしまっている思考展開に、誰も気づいていない。
「まぁ、いいわ。こちらから人を出せばいいだけだし」
その毒の主……もとい、強い影響力の持ち主がそう言って室内を睥睨するのに、誰もが背を向け、目を逸らし、己の仕事に没頭している振りをする。
 それ、即ち編集長命令。決して逆らうことの許されない最高権力者直々のお達しに背くことなど許されようもなく、編集部員達は碇の白羽の矢が己を貫かぬことを祈るばかりだ。
 それは碇への恐怖と、三下の幸せと天秤にかけ、義で以て後者を選んだのではなく、これ以上余分な業務を抱える余裕がなかった為と思われる。
 係わり合いになりたくない……そんな無言の主張が個々の背中に浮かんでいる。
 この時期の編集部で、他者を気にかける余裕のある、畢竟、編集業務の深部に携わることの出来ない、外部の面々ばかりということか。
 だが容赦ない碇の眼光は、部下の内から哀れな子羊を見出した。
「桂!」
資料室から出て来たアルバイターは、突然の名指しにびくりと硬直する。
「何でしょうか、編集長」
「三下くんから何か一つ取り上げてきて」
別室に居た為、話の流れを掴めていないであろう人間に、碇はそんな無体なお達しを下す。
「……判りました」
しかし、ここで疑問を呑み込んで即時に行動に移るのが、アトラス編集部で生き残るのに必要な技能である。
 桂は机の間を縫うようにして、編集部員の空いたコーヒーカップを回収しながら三下の下へ辿り着く。
「三下さん、カップ洗ってきますから下さい」
「あ、ありがとー、桂くん」
幸せそうに中身を飲み干した三下が、何の疑問もなく桂にやたらエスニックな図柄のカップを手渡した。
 ごく自然に。一つを奪取した桂は、碇のデスクの周囲に溜まる面々に軽く会釈だけすると、そのまま廊下に出て行く。
「……流石ね」
あまりの手際の良さに、思わずシュラインの口から賞賛の言葉が洩れる。
 如何にして三下の幸せ……否、アイテムをむしり取るか。四対の視線が獲物を狙う鷹の鋭さで己に向いていることに、三下はまだ気づいていない。


「幸せそうで楽しそうね、三下くん」
「あ、シュラインさん♪」
笑顔で振り向く、そのきらきらとした笑顔にシュラインは思わず退きそうになる。
「そうなんですよー、最近自分でも怖いくらいにラッキー続きで! あ、おやつ如何ですか? これ新製品のチョコ。モニター懸賞で当たったんです、ダイエット効果があるそうですよ!」
今一番ダイエットが必要なのはお前だろう、という心中のツッコミを余所に、シュラインは差し出されたチョコを一粒抓んだ。
「良かったわね、頂くわ」
けれどもその目の前で、チョコを五粒ほど一気に口に放り込んだ三下の身が膨れるのを見、口に運ぶ勇気は出ない。
 カップは外れだったということか、と納得しながら、チョコはハンカチに包んで後で頂くわね、とその場を凌ぐ。
「他にはどんな嬉しいことがあったの?」
問いながら、シュラインはちらりと三下の首元を見た。
 幾重にも連なったチャームやらシンボルの間に、小さな青い硝子瓶が揺れている。
 シュラインの狙いはそれだった。
 三下の福々しさ、その太鼓腹が大黒天や恵比寿に通じるものがあり、アイテムがインド原産であるという点に着目してのチョイスだ。
 七福神は、インドから中国を経て日本に入ってきた、いわば外来の神々である。
「ちょうど良かった、今まとめてた所なんですよー」
いそいそと、三下はレポート用紙をシュラインに差し出す。
「効果を記事にするってことだから、取り敢えず嬉しかったことを書き出して見てたんです!」
と、三下が箇条書きにした内容を自慢げに示して見せる。
 懸賞当選確率は驚きの80%強、食料品や消耗品の高さが目に付くが、現金や貴金属等になると、途端に勝率は落ちる。せいぜい千円や五百円分の図書カード程度だ。
 そして、普段の生活でも当然、幸運の影響は見られるわけで、三下の曰く「幸運」は下記のように記されていた。

・雨の日に、車に泥はねを一度もかけられなかった。
・満員電車で、途中駅で押し出されなかった。
・犬と目があったのに吠えられなかった。

「すごいでしょう、こんな幸運初めてです!」
「…………」
うきうきした三下の声に、シュラインは、思わず目頭を抑えた。
 一部を目に通しただけでも、普通の人間には普通の生活。これを幸運と言い切ってしまう、彼の人生が不憫でならない。
 しかし、今のシュラインは碇の密命を帯びた身である。
 それはそれ、これはこれと割り切って、シュラインは顔を上げて微笑みを浮かべた。
「僕、今まで、親類縁者からはお前は幸福の壺とか印鑑とか買い込まされて、ローン抱えて破産するタイプだから絶対手を出すなって言われてたんですよぅ……でもちょっと考え改めました、編集長に感謝しないと!」
その編集長が、全てを奪い取れと指示を出している訳なのだが、知らない、ということは、違う意味で本当に幸せである。
「良かったわね、三下くん」
「ホントに嬉しいです!」
三下は、シュラインが共に幸運を祝ってくれていると信じて疑わない。だが、彼女の目は確実に三下の隙を探っていた。
「あれ?」
会話の途中、ふと気付いた……そんな自然さで、シュラインは、三下の胸のあたりを指差した。
「硝子瓶、ちょっと汚れちゃってる」
「えぇぇっ! 何処ですかどれですかっ?!」
勿論口実以外の何物でもないシュラインの指摘に、三下は慌てて胸元に下がる幸運グッズを鷲掴んだ。
 溶けたチョコで、べとべとになった手で。
「あぁぁぁっ?!」
最早、如何ともし難い。
 ティッシュで拭き取ろうとしても、油分と糖分の多い汚れは生半可なことで拭える筈もなく、三下は半泣きでティッシュを浪費している。
 シュラインは、本質は変わらない三下に何処か安心しながら手を差し出した。
「お湯で拭いたら取れるから、貸してみて」
「え、でも……」
折角のラッキーアイテムを、余人に手渡すのは流石に不安を覚えてか、三下の手は再びグッズを握り込む。
「大丈夫よ、三下くんの大事なものを、壊したり失くしたり……ましてや盗ったりしないから」
「え、そういう意味じゃなくんて、その!」
三下はあたふたと、シュライン二心を疑ったわけではないとの弁明に懸命だ。
 勿論、シュラインとて、三下の執着は子供がお気に入りの玩具を手元に置かねば不安なそれと酷似しているのは承知の上で、物悲しげに目を伏せた。
「信用がないってことかしら……」
シュラインのダメ押しに、三下が慌ててチョコまみれのグッズを差し出す。
「僕の幸運を一緒に喜んでくれたシュラインさんを疑うなんてそんな!」
実行で以て、誠意を示す。ある意味男らしい三下の行動に、シュラインはちゃっかりと、チョコの汚れがついていない鎖や紐の部分を握って受け取った。
「給湯室で拭いてくるわね」
それでも何処か不安げな……捨てられた子犬のような目を向けられ、シュラインは更なる安心を与えるために言い添える。
「汚れを落としたらすぐに持ってくるから……そうね、武彦さんに誓って」
雇用主の名は何気ない冗談のつもりで出したのだが、三下が途端にぱあぁっと明るい笑顔を浮かべてこくこくと頷く様に、シュラインは何とはなしにダメージを受けた。
 それでも笑顔で手を振り、廊下に出……壁に手をついて大きく溜息を吐き出す。
「……そんなにあからさま、じゃ、ないわよね?」
特別、秘めたつもりはないが、それほど大っぴらにしているつもりもない。
 他人の目に自分がどう映っているのか、ちょっぴり気掛かりが増えたシュラインだった。


 シュラインの手に因り、インドの聖人が彼の為だけに祈りを込めた米は、新潟県産コシヒカリとなった。
 ついでとばかりにピラミッドの形を模した金色のチャームは即席粘土細工に、そして彼の生まれ月の星座のシンボルは、さり気なく次の次の星座のそれへとすり替えられる。
 磨き上げておいたから、というシュラインの言葉に嬉しく礼を言い、肝心のアイテムの変化に欠片も気付かないのが、三下の三下たる所以だ。
 しかし、そんなシュラインの苦労も、幸運の源を突き止めるに到らなかった。
「招き猫の方が良かったかしらね」
遠く三下の動向を見守りながら、シュラインは本蕨を使った自家製わらび餅を小皿にとりわけ、上からきなこを塗して座を囲む一同に配る。
「それなら、次は私がそれを狙ってみましょうか」
編集部に持ち込んだマイカップ……どころか、アフタヌーン・ティーの茶器ワンセットを拡げ、セレスティは紅茶の香りを楽しむ。
「福々しく、丸々と太った招き猫……彼も随分とふっくらしておられますし」
お茶を楽しみながら共通点を見出し、ポイントを固めて行く。
「懸賞が当たりまくって手元にっていうのも、招き猫の本分らしくはあるわね」
投入人員は限られている……ここはアイテムを絞り込んで攻めるべきかと、シュラインも額を付き合わせる。
「いっそ後ろから一発入れて、一つずつ外しながら様子を見たらいいあるね」
もふっ、と自作の桃まんと紅茶を交互に口に運びながら、蓮花は物騒この上ない。
「バゥゥ、ガぅ」
「あぁ、そうあるね。そしたら三日は病院で熟睡あるもんね、残念ある」
熟睡というか、それは昏睡ではと、誰もが共通の疑問を抱く蓮花の案は、どうやら飛東の常識的な諌めで却下された模様だ。
 作戦会議とは名ばかり、和洋中の食材の入り交じったお茶席で、満足の行くまでお茶を楽しんでから漸く、セレスティは傍らに立てかけていた杖を取り上げた。
「では、シュラインさんに負けないように、私も参りましょうか」
次なるはリンスター財団総帥、セレスティ。
 名乗りを上げたセレスティの背に、口にものを入れている為、声の出せない面々の激励が気配だけで伝わって来る。
 足に負担をかけぬよう、杖に重心を置いたゆっくりとした足取りで、セレスティは書類と格闘する三下の右背後から声をかけた。
「三下くん、お隣よろしいですか」
「ふぇ? あ、ひゃいどうぞどうぞ」
足下に置いた箱の中、一年分の『うみゃー棒』をもりもりと消費しながら、三下は隣の椅子をセレスティの為に引き寄せた。
「あ、セレスティさんも如何ですか? おいしいですよ!」
チープな駄菓子をうきうきと勧められ、セレスティはお義理に一つ、手に取る。
 納豆味との表示を指先で読み取ったセレスティは、さり気なく脇の机に置きながら、こほんと小さく咳払いをした。
「……暑くありませんか、三下くん」
ひっきりなしに汗をかいている今の三下の周囲は、気持ちだけでなく湿度が高い。
 それが体温の高さ、そして汗臭さと相俟って、彼の机の両隣、及び前後の席の編集部員の姿がないのは、何処か別の場所に避難しているだろうことが察せられた。
「暑いですけど、夏ですからねぇ」
セレスティの遠回しな指摘に全く気付かない様子で、三下は額のバンダナが吸収できずに流れ落ちる汗を手の甲で拭い、朗らかに笑う。
「それにホラ、額に汗して働いてこそ、労働の成果があるというか! より生活が充実しているみたいで、全然気になりません!」
少しは気にしろ、と即物的な物言いが出そうになるのをぐっと堪え、セレスティは自身の額にも滲む汗を優雅にハンカチで押さえつつ微笑んだ。
「人生が充実しているのは何よりですね……けれども、色んなものを身に付けすぎではないでしょうか?」
具体的に言えば、贅肉や脂肪が。しかし其処まで直接的な表現は、上流階級のセレスティの美意識が許さない。
 やんわりとした指摘、そして眼差し……視界を有さぬ筈のセレスティの眼は、彼の意図を示すためか、シャツからでっぷりとはみ出そうな三下の三段腹を凝視するふりをしている。
「ぁ、やっぱり判っちゃいます? 最近、自分でもちょっと太ったかなって」
「ちょっと?」
思わず鸚鵡返しに問い返してしまい、セレスティはもう一度軽い咳払いで気まずくなりそうな場の空気を払った。
「そうですね……ちょっと、ばかりお肉がつきすぎな感はあるかも知れません。それは何時から?」
「そうだなぁ、気付いたら……あ、でもここ二週間くらいかな、運動しなきゃと思ってるんですけど中々」
言いながらも、三下は『うみゃー棒』を口に運ぶ。
 ぼろぼろと菓子屑が書類の上に落ちるのも気にならない様子で,次々と包装を剥く手にセレスティは思わず心底からの溜息を吐いた。
「高血圧」
セレスティがぽつりと洩らした一言に、三下がぎくりと動きを止める。
「動脈硬化」
眼鏡越し、怯えた瞳が上目遣いにちらりとセレスティを見る。
「メタボリックシンドローム」
「ああぁっ、言わないで下さいそれだけはあぁっ!」
耳を塞ぎ、その場でのたうつ三下の肩に、セレスティはそって優しく手を置き……かけて、じっとりと汗に濡れている感触に手を引いた。
「二週間でそんなに姿が変わるのは、明らかに異常です。それこそ実験体のような感じではないですか」
 本人、ダメだという自覚があるならば、まだ付け入る隙は存分にある。
 畳み掛けるセレスティに、嫌々と耳を塞いで首を横に振り三下はしばし聞くまいと頑張っていたが、抗しきれぬ様子で顔を上げた。
「……僕だって、色々気になってはいるんです、よ?」
ぐすぐすと鼻を鳴らし、それなりの葛藤を抱えていたことを吐露する、が。
「でもこんな美味しい生活、初めてなんです! 食べないと勿体ないし! 消費期限切れで食べ物を捨てるなんて、ご先祖様に顔向け出来ない〜ッ!」
がば、と駄菓子を抱えて泣き伏す三下に、彼が原因と捉えているのは単に暴飲暴食であることが判明した。
 体重増加が幸運の時期と重なっている、そんな符号に対する疑いは欠片も抱いていない。
 不安の方向性が明確になったことで、セレスティは即時に方向転換する。
「三下くん、夜はきちんと眠れていますか?」
気分は医師の問診である……セレスティの問いに、三下はこくんと頷く。
「自分は眠っているつもりでも、意外と体が休めていないこともあります。その装身具は、就寝中も着けているのですか? ずっと?」
「はい、お守りですから肌身離さず! バンダナとかシャツはお風呂の時に洗濯して、乾燥機にかけてから枕の下に敷いて寝てます!」
其処まで徹底するか。と、呆れを通り越し、ある意味尊敬に値する。
「肥満の原因はそれですね」
セレスティは適当なことをずばりと断言した。
「え?! でもこれはお守りで……」
一つ一つ、謂われと由来を説明し始める三下を手で制し、セレスティは蘊蓄を遮る。
「いえ、お守り自体に問題があるのではありません。常に身に着けておかなければならないという強迫観念が、三下くんの眠りを妨げ、意識下でストレスとなって肥満を誘発しているのでしょう。間違いありません」
人間、自信を持って断言されると弱い。
 それが不安に思っていることならば尚更で、三下は途端におろおろと動揺する。
「そ、そうなんですか? でもお守りだし、どうしたら……」
全てを改善するには幸福を呼ぶ壺と印鑑を買え、と言えば今の三下ならば三十回のローンを組む必要性があったとしても、間違いなく買うだろう。
 しかしセレスティはそんな阿漕な真似はせず、三下のぷくぷくとした手をそっと優しく取った。
「お守りならば尚のこと、清浄を保った方が良いでしょう」
汗にぬるりとした感触を堪え、セレスティは微笑む。
「ずっと身につけっぱなしだったなら、清潔とは言い難いので、一度社内でシャワーを浴びてこられたら如何ですか」
言いながら、三下の目を気分的には覗き込むようにして、数珠を解き、髑髏のブレスレットを外し、招き猫を取り去る。
 艶事でもないのに、人の装飾品を取り去るのは初めての経験だなと妙な感慨を抱きながら、セレスティは次に指に移ろうとして……思わぬ難題に直面した。
 指輪が、外れないのである。
 ぷくぷくと関節でくびれを作った、ハムのような指の根本に……嘗ての三下サイズで装着された指輪は、物理的に外すことが出来なくなっていた。
 このままでは、圧迫された血管に指先まで血が通わず、最悪、末端器官の壊死を引き起こしてしまう。
 斯くなる上はペンチで壊すしかなさそうだが、そうとなればお守りに執着を示す三下の抵抗は必至である……次なる手が必要かと、セレスティが最善策を思案するより間に。
 背後から高い声が上がり、三下の名を呼ばわった。
「まどろっこしくて見てられないあるね! 三下、勝負ある!」
びしりと扇子を突きつけて、高らかに勝負を挑む……やけに着ぶくれした蓮花の姿が其処にあった。


 蓮花は何重にも重ねた衣服の上に、マフラー、手袋まで装備し、更にはマントよろしくブランケットまで肩にかけている。
 芯となる本人が赤い顔をして汗を流すに、その厚着は決して室内が寒い為ではないのは明らかだ。
「私の強運と三下の幸運、どちらが強いか勝負ある!」
 唐突な流れに、誰もがついて行けていない中、蓮花の背後ではぱちぱち……否、ばふばふと両手を叩くパンダの飛東のみがこの展開に追い付いていた。
「勝負、ですか」
蓮花の扮装と、展開との繋がりが掴めず、セレスティが首を傾げる。
「このまんまじゃ日が暮れても順番こないある! 一気に片付けて晩御飯に帰るあるよ!」
夕食より優先度を下位に置かれた三下が、蓮花の挑戦に肩を揺らした。
「大丈夫なの? 三下くん」
色々な意味で心配になったシュラインが、渦中の三下に駆け寄るが、いつもの気弱さも何のその、意外なことに乗り気だった。
「ふっふっふ……今までの僕と思ったら大間違いですよ蓮花さん!」
瓶底眼鏡をきらりと光らせて、三下はビッと親指で己の胸を示して言い切る。
「幸運の強さと聞いて後に引けません!」
何やらめらめらと闘志を燃やし、周囲の不快指数を更に上昇させるに、セレスティがさり気なく三下と距離を置く。
 いつになく強気の三下に、蓮花は愛くるしく……しかしにやりと笑みを浮かべる。
「そうこなくては面白くないある」
「手加減はしませんよ」
バチバチと両者の間で飛び散る火花をに、しばし二人を見守っていたセレスティが軽い挙手と共に発言した。
「勝負、と言ってもどのようにして勝敗を決めるのですか?」
幸運という、形のないものの強弱を測ると言っても、咄嗟に判定方法が出て来ない。
「この姿を見て、わからないあるか?」
もこもこと着ぶくれした姿で胸を張られても、とんと見当がつかない。
 セレスティを初め、シュライン、三下、事の成り行きをなんとなく見守ってしまっている編集部員達も揃って首をふるふると横に振った。
「日本で運を試すと言ったら、えーと……何だったあるか飛東」
「バァァゥ」
どうやら飛東の入れ知恵らしく、遠くのパンダは簡潔に答える。
「そうそう、そうだったある……やっぱり野球拳あるね!」
びしぃッ! と仕切り直してもう一度、蓮花は扇子の先をもう一度三下に突きつけた。
「野球拳……ですか」
始まる前から既に反則くさい蓮花の姿に、セレスティはそれ以上のツッコミを出来ずに黙す。
「いいでしょう、受けて立ちます!」
言って三下はおもむろに背広の上着を脱ぎ、ばさりと床の上に落とした。
「女性相手ですから、ハンデです」
「三下くん……」
そしてノリノリの三下に、シュラインもまた軽い眩暈を覚えて制止のタイミングを見失う。
「三下のくせに生意気ある!」
一体何処のジャイアニズムかと言いたくなるが、三下に情けをかけられたとなれば、充分に蔑ろにされた気分になれる。
 蓮花と三下は、互いの緊迫感が最高潮に達した瞬間を見逃さなかった。
「いざ勝負!」
蓮花は拳法の型を取り、三下もそれを真似て「アチョー」と妙なポーズを決める。
 ノリノリの二人に、シュラインがカーンと甲高いゴングの音を再現して、開始の合図としてやるも……所詮、勝負は野球拳だ。
「よよいのよい!」
間の抜けた曲をアカペラで歌い終えたその時、両者は全く同時に拳を突き出した、かに見えた。
 だが、三下のまるまるとした手は五指を拡げていたのである。
「僕の勝ちです!」
「あ、有り得ないある……!」
小躍りして喜ぶ三下に、蓮花はがっくりと床に膝を付く。
 蓮花、そして飛東には三下如きに勝利を疑う要素は皆無であった。
 幸運勝負、と持ちかけておきながらも、サーカスの曲芸師として生計を立てる蓮花の目には、三下の動きなど氷に止まった蠅も同然、動きを読むことなど難はない、その筈が。
 敗因は、三下の手にあった。
 今の肉付きの良すぎる指は、開いても閉じていても、ぷっくりと膨らんだ肉に全体的に丸いフォルムを保っている。
 それは、グー、チョキ、パーの何れが出されているのか、勝負の後にじっくり見ないと判別が付かないという、思わぬ障害となって蓮花の前に立ち塞がったのだ。
 野球拳のルールに従い、蓮花は手袋を片方脱いで床に叩き付けた。
「もう一度勝負ある!」
「望むところです!」
人生初勝利に気を良くした三下が応じ、そうやってもう一度、もう一度、もう一度……と勝負を重ねるに、蓮花の分厚い装備が悉く取り払われるのに時間はかからなかった。
 蓮花の前には、堆く衣類が積まれているというのに、三下が脱いだのは最初の背広とバンダナを一枚のみ。
 スポーティでシンプルな下着姿まで追い込まれた蓮花に、何時の間にやら集まった男性陣……何故か他の部署の者まで周囲に人だかりが出来ている。
 更には三下コールが沸き上がり、勝負の場は期待と熱気に異様な盛り上がりを見せていた。
「蓮花さん……そろそ止めにしておきませんか」
余人の期待を一身に負い、まるで主役の舞台に立った心持ちだろう三下が余裕の表情で敗北を認めるよう促す。
 が、蓮花はそれを頑として拒んだ。
「まだ二枚残ってるある……全部なくなるまで私の負けとはいえないね!」
蓮花の選択に盛り上がる周囲に、同性として放っておけないとシュラインがバスタオルを手に間に割って入ろうとしたが、それは蓮花に止められる。
「ここでタオルが入ったら私、一生後悔するね……最後までやらせて欲しいある」
蓮花の決意に最早誰も止め立て出来ず、その真剣さに押されて周囲も自然と静まりかえった。
「覚悟はいいですか?」
「勿論ある!」
男の意地と女の誇りをかけた大勝負が今始まる……!
 とはいえ野球拳、どれだけシリアスな空気を作ろうとも、勝負が始まると同時に瓦解する。
「あうと!」
「せーふ!」
けれども本人達は真剣な表情で、全てを決する一手を突きだした。
「よよいのよい!」
観衆は息を呑み、シュラインが思わず目を背け、セレスティは優雅に紅茶のカップを傾けている。
 三下の振り下ろした右手、蓮花の突き出す右手が、互いの中心で拳を握っていた。
「……あいこでしょ!」
仕切り直してもう一度。
 パーと、チョキ。
 勝利の形で右手を突き上げた三下と、掌を拡げたままその場で固まった蓮花に、観衆がどよめいた。
「三下くん、もう……!」
シュラインの制止より先に、蓮花が動いた。
「私から挑んだ勝負ある、潔く負けを認めるね!」
肌に直接つけた下着を脱ぐことより、三下に敗北した事実を認めることに抵抗を覚えていたらしい。
 蓮花は、後ろ手にブラのホックをぷちぷちと外し、天井高くに投げ上げる。
 仁王立ちのまま、包み隠すものを取り払われた柔肌に、瞬きすらない観客の注意が集中する。
 仁王立ちになった蓮花、顕わになった豊満な胸の先端に大きな絆創膏が貼られ、しっかとガードしていることに誰かが気付くより先に、ふと翳りが差した。
「ばぅっ!」
人の輪の外に居た飛東が、飛んだ。
 手を広げ、両足をそろえた見事なフォームで観客を飛び越え、蓮花の背後にズンッ! と降り立つと、両腕で蓮花の体を抱え込む。
「飛東、邪魔するなある! まだ一枚残って……!」
パートナーの制止から、身を捩って逃れようとする蓮花だが、その体にふわりと上着がかけられた。
「三下……!」
「もういいでしょう、蓮花さん」
先に脱いだ背広で蓮花の体を隠し、僅かに目を逸らして肌を直視しないよう気をつけながら、三下は蓮花に謝罪する。
「僕も大人気なかったです、この勝負はなかったことに……」
そう、三下の癖に格好良く大人な提案をしようとしたのだが。
「あ」
目を見開いた蓮花が固い声を発し、言を遮った。
「汗臭い、ある……っ!」
蓮花にかけられたのは、体積が増えてから、尋常でない三下の発汗量の大半を吸収した背広である。
 その直撃たるや、尋常でないダメージを蓮花にもたらした。
「バウゥッ、バウ!」
目を回し、動かなくなってしまった蓮花を、飛東がしきりにゆさぶるが意識は戻らない。
「え、ど、どうしましょう、蓮花さんっ?」
おろおろとする三下を、飛東が円な瞳できっとばかりに睨みつける。
「バアァウッ、バウゥッ!」
「蓮花さんの仇と言っても……野球拳を焚き付けたのは飛東さんではなかったですか?」
相変わらず紅茶、今度はアイスティーを楽しんでいたセレスティが、さらりと飛東の主張を訳しつつ、突っ込む。
「バウッ!」
そんなことなど、馬耳東風……否、パンダ耳東風で、飛東は一声吠えて三下に指を突きつけた。
「蓮花の仇、次は僕と我慢比べで勝負だ! だ、そうですよ?」
あの一言の、何処にそれだけの文脈が隠されていたのか。
 畏怖と疑問がいや増す一瞬だった。


 青い空、白い雲。灼熱の太陽が圧力すら伴って照りつけ、時折渡る風は熱風が肌を焼く。
 季節が良ければ休憩時にそれなりの賑わいを見せる屋上も、勤務時間内、猛暑を記録する真夏日というコンボが決る場で、和もうとする者はない。
 しかし、今、そこには向かい合う二つの人影があった。
 正確にはパンダ影と人影、即ち飛東と三下は屋上に腰を下ろし、陽炎の立つその場所で……二人、ちゃんこ鍋をつついていた。
「ばぅっ!」
飛東が気合いと共に、取り皿に山と盛った豆腐を口中に投じる。
「まだまだぁっ!」
対する三下は、湯気を上げる鶏肉にかぶりついた。
 互いにもくもくと口を動かしながら、視線で火花を散らす。最早、我慢大会と言うよりも大食い選手権である。
「……暑い」
見ているだけでも汗を吹き出す光景に、場違いなテーブル付のビーチパラソルを広げた下、セレスティが紅茶フロートをスプーンでかき混ぜながら呟く。
「セレスティさん、中で待ってたらいいのに」
ちゃんこを作るために装備したエプロンをそのままに、シュラインが暑さに殊の外弱いセレスティを案じる。
「いいえ、お気遣いなく……準備は万端ですから」
スラックスを膝まで捲り上げた素足を氷水を張ったバケツに入れ、延長コードで引っ張り出した扇風機の前にミストを吹き上げるタイプの加湿器を置いて、熱風をどうにか凌いでいる。
 けれども、直射日光に焼かれる男二人の暑苦しさが軽減される訳ではない。
 同じテーブル、シュラインが鍋に投入する具材を刻む下では、冷タオルを額に乗せて呻く蓮花が転がっていた。
 医務室で休んでいればという提案は、本人の強い希望に却下される。
 とはいえ、そんな義務感に駆られているのは、碇から直接依頼を請けた面々のみ、蓮花と三下の勝負に盛り上がりを見せていたギャラリーは、酷暑で繰り広げられる暑苦しい勝負にまで同道することはない。
 激減したギャラリーに異論を唱えることもなく、男達の暑い戦いは静かに繰り広げられていた。
 けれども、飛東に分があるとは言えない勝負だ。
 三下がいつにない負けん気の強さを発揮し、汗だくになりながらも思わぬ根性で粘りを見せている。
 しかし、汗腺の働きがほとんどないパンダにとって、この暑さから逃れる術はない……けれども現況、飛東が最後の砦なのだ。
「確かに、残っているのは飛東くんだけだけど」
セレスティと蓮花の無理を推してでも事態を最後まで見届けたい気持ちを察し、シュラインは息を吐く。
 三下にとっては、現状維持が何よりも幸福に違いない。
 その当人が、こちらの思惑を察していないに関わらず、三下に有利に事が進むのは、今までの彼からすれば有り得ない、否あってはならないという気持ちにさせる、彼の不幸スキルはある意味健在であると言えた。
「三下くんが破裂する前に、決着がつくでしょうか」
セレスティが、熱く静かな勝負を眺めながらぽつりと呟いた。
 我慢比べは、既に食べ比べの様相を呈している。
 食べたら肥える、体質はそのままに三下が鍋を貪り喰らえば、結果はまさしく目に見えていた。
 ぐつぐつと音を立てて煮えたぎる、ちゃんこ鍋を前に無言なパンダ、種族的な特徴の強い丸いフォルムの飛東の体格に三下が追い付き、更には追い越さん勢いだ。
 もっもっ、と音を立てて無心に食べ進める両者に鍋の中身は着実に嵩を減らしている。
「あ……脱皮ある」
テーブルの天板が作る日陰を追い、じりじりと移動していた蓮花が指摘した途端、三下のTシャツの背が、ぴりりと音を立てて裂ける。
 けれどもそんなことも気にならないのか……或いは其処まで神経が通っていないのか、三下も飛東も、ひたすら食べることに集中していた。
 鰯のつみれを箸で突き刺し、もやしを引き上げ、白菜と春菊をまとめて噛み締める。
 その間、互いの姿を睨みつけて片時も目を離さない、鬼気迫る様相を呈していた。
 鍋は着々と中身を減らしているのが、箸で中を探る動きに察せられ、そろそろどちらかが耐えきれなくなるか、両者共に限界を迎えて相果てるか、自ずと高まる緊張の中、飛東と三下は全く同時に動きを止めた。
 否応なく高まる緊張の中、額を付き合わせ、鍋の中身を覗き込む二人は互いの腹を探り合ってかそれ以上動けない。
 飛東か。
 三下か。
 誰もが思わず息を呑んだ静寂に、飛東が天を仰いで一声吠えた。
「バゥっ!」
それは勿論、パンダの声で人と意思疎通の可能な形ではなかったが、不思議と誰もがその意を解した。
『ラーメン追加』と。
 三下は思わず掌中で箸を折り、セレスティが、眩暈に思わず額に手を置く。
「ま、まだ食べるんですか……」
あまり美しいと言えない二人の食べ方に、それなりにストレスが蓄積されていた模様だ。
「うん、さすが飛東ある! それでこそ男ある!」
そしてテーブルの下では蓮花がガッツポーズを取って、相棒の選択に声援を送る。
「頑張るのもいいけど、熱中症に気をつけた方がいいわ」
シュラインが理性的、且つ現実的な忠告と共に、ちゃんと用意してあったインスタントラーメンを鍋の中に投入した。
 出し汁は鍋に三分の一程の量が残り、インスタント麺はその水分を吸って瞬く間に膨張を始める。
 飛東が胸を張り、鼻を鳴らして三下を見る。
 明らかに挑発と取れる行動は、しかし飛東も限界が近く、精神的な重圧をかけることで敗北を認めさせようという腹が読める。
 漸くさらえた、と思った所で新たなる試練が課された三下は、しかしめげることなく飛東を見返した。
 箸は折れ、気力も尽きかけているだろう三下だが、折れた箸を投げ捨てると、背広の懐を探ってマイスプーンを取り出す。
「箸はなくても、僕にはこれがあります!」
スプーンでどのようにしてラーメンを。思わず五七五調を唸ってしまう彼の前向きさは、飛東に重い一撃を与えたようだった。
「メエェ〜〜……ェッ!」
縊殺されるヤギもかくやという悲しげな声を上げ、飛東の体がどぅと後ろ向けに倒れる。
「……ぼ、僕の勝ち、ですね……ッ!」
勝利の歓喜に浸る間もなく、三下もまた前のめりに倒れ込む。
 前に、ということは、煮えたぎる鍋の中に突っ込む、ということである。
「三下くんっ!」
シュラインが慌てて手を伸ばすが、肥大しきった三下の体重は、女性の細腕で支えられるものではない。
「シュラインさん!」
「危ないある!」
セレスティと蓮花が動こうとするが、直前までだれんとだれていた身では到底間に合わない……誰もが時間をゆっくりに感じる中、三下の手からスプーンが落ちる。
 華奢な柄を持つスプーンは、屋上のコンクリにぶつかって首が曲がる際、チリンと鈴の音を立てた。
 それとほとんど同時、ザッパンと重い響きを持つ音が暑い空気を打ち、涼感を伴って渡る風に、意識のある全員が屋上の出入り口に顔を向けた。
「お疲れ様」
其処には碇が水の滴るバケツを逆さに持ち、汗一つ額に浮かべずに立っていた。
 果たしてどれだけの水量がその一杯に納まっていたのか、一番手前に陣取っていたセレスティは元より、シュライン、三下、飛東まで水浸しになっている。
 因みに蓮花はテーブル下に居た為、直撃は免れていた。
「問題が起きたわ」
 水の滴る面々……流石に衝撃と冷たさで意識を取り戻した飛東と三下も見下ろし、碇は腰に手の甲をあてて仁王立ちになった。
「三下くんがつけてる幸運グッズを制作している一社に、詐欺の疑いで捜査が入ったの」
そんな会社と並び称される形で記事にされるわけにはいかないと、編集部に連絡が入ったと言う。
「今回の企画はなしよ、別の記事と差し替えるわ」
碇は冷静に指示を下し、手首にひっかけていたバケツをコンクリートの上に置いた。
「そ、そんなぁ編集長ぅ〜っ」
甘い汁を吸いたいだけではなく、編集者としての意地もそれなりに有している三下は、自分の関わる企画が総ボツになった事実に泣き声を上げる。
「そうそう、三下くんは明日から出張ね」
三下の泣き言など馬耳東風と聞き流し、碇は薄いパンフレットを差し出した。
 思わず全員が頭を付き合わせるようにして、フルカラーの冊子、どうやら旅行会社の発行したそれを覗き込む。
「地獄のダイエットコース……?」
赤い丸で強調してある箇所は、陳腐な中に確かな恐怖を感じさせる字面だ。
「賽の河原で石を積み、軽い汗を流した後……」
ポップな文字で綴られる文面をシュラインが読み流す。
「血の池地獄で脂肪を燃焼……」
セレスティが指先で文字を追う。
「針山でバランス感覚と共に筋肉を養う……ある?」
蓮花が脂肪で膨らんだ三下に視線をやる。
「ばぅうぅ、ばうっ、ばう(食べても食べてもお腹が一杯にならない精進料理で餓鬼の気分)!」
飛東が高らかに読み上げた。
 確かに、今の三下ほど適任な人材はない。
「三日間の集中コースを申し込んでおいたから。あ、それからこれは請求書ね」
何でもないことのように、碇はひらりと一枚の紙を三下に手渡す。
「な、何ですかこれえぇっ?!」
思わず三下の声が裏返る……金額が総計で其処に明記されていた。
 内容は、彼が身につけた諸々の幸運グッズ、の代金である。
「経費で落ちないんですかあぁぁっ?!」
請求書を握り締める三下の訴えを、碇は手で払い避けた。
「当たり前でしょう、取材後は三下くんの私物にするしかないんだから。ほら、文句言ってないで明日以降、移動時間も含めたの五日分の業務、今日中に終わらせなさい!」
鬼が居る。
 今までの幸運を無に帰するが如く、畳み掛けるような試練の連続に最早言葉もない。
 ただ、三下の幸運を司っていた何かが、最早その影響力を失っているということだけはよく判った。
 ある意味、いつもの彼に戻った姿黙って見守るしかない面々に、碇がくるぅり、と顔を向けた。
「あなたたち」
「はいッ!」
四人の声が、思わず唱和する。
「徒労に終わって悪かったわね。よかったらお目付役も兼ねて三下と一緒にツアー参加して頂戴。勿論、一般観光コースでね」
仕事も兼ねて、というのが碇らしいが、苦労の代償として彼女なりの労いに一同は取り敢えず頭を下げた。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【7317/桃・蓮花/女性/17歳/サーカスの団員/元最新型霊鬼兵】
【7318/ー・飛東/男性/5歳/曲芸パンダ】
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】

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■         ライター通信          ■
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いつもお世話になっております、闇に蠢く駄文書き、北斗玻璃に御座います。
先ずは種明かしから。
まずは「七」、漢数字で意味「7」ですね。
続いて「匕」、こちらは表題に使いました……「さじ」と読みます。
さーぁもう判ったね! ということでスミマセン、人数から7に拘って見せたのはフェイクでした……。
先ずネタありきで作ってしまったシナリオ、一応幸運グッズの表記七番目にスプーンを配してみたりと気を使ってはみましたが、残念ながら正解者が居なかった為、編集長に締めていただきました。
総帥ってば絶対にえす……と思いながら執筆しながらも、それを覗かせないのが味だよね、という拘りで以て臨んでみましたが如何でしたでしょうか。
三下はまた不幸体質に戻っておりますので、今後も心置きなく可愛がっていただけることと思います。
それではまた、時が遇う事を祈りつつ。