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<東京怪談ノベル(シングル)>


【明りに潜むもの】


 ヤニで曇った窓の向こうに降りていく帳を、草間・武彦はぼんやりと眺めていた。
 草間の目の前のデスクには、彼が何よりも嫌う怪奇事件の依頼書があった。添えられた写真には、古い屋敷が写っていた。
 青い鉄門の後ろに、蔦に半ば覆われた年代ものの赤レンガの屋敷。
 草間が指を滑らすと、屋敷の写真の後ろからもう一枚写真が現れる。
 写っているのは屋敷に掲げられた表札らしい。崩れかけた銅版に刻まれたアルファベットが見て取れた。

「S、A、L、E、M、……セイラム、か」

 草間は煙草に惰性で火をつけていた。

「魔女狩りの“聖地”の名前ってのは、縁起でもねぇな」

 己の吐き出した皮肉に、草間は自嘲した。


 * * *


 あたしはここが間違いなく目的地だと確認し、地図を鞄をしまう。
 今日あたしがこの屋敷に訪れたのは、草間さんのお手伝いでだった。
 ここ数年、この街では行方不明者が多発しているらしかった。そして、行方不明者の最後の目撃証言はこの屋敷の周りに集中している。それも、尋常ではない数が。
 警察も動いてはいるようだったけれど、動きは鈍い。
 そこで草間さんが気付いた。この依頼が草間興信所に持ち込まれる、何時も通りの怪奇事件であることを。
 ぎゃーぎゃーと草間さんは文句を一通り喚いてから、諦めたように頼んできた。とりあえず件の屋敷の様子を下見してきてくれ、と。

 鞄の中から預かってきたデジカメを取り出し、とりあえず鉄門の前から屋敷を撮った。
 鉄門は開かれていたから、あたしは中を覗き込む。
 危険かもしれない屋敷には近づきたくなかったから、あたしは門の外からもう一度カメラを向けた。
 ズーム機能を使うとレンズ越しに、屋敷の壁にパネルらしきものが張られているのが見える。蔦と錆びに阻まれ、パネルに刻まれた文字は読み取れなかったけれど、念のためにシャッターを切った。

 カメラから視線を外すと、すぐ後ろからニャアと鳴声がした。
 振り返ると白い子猫がいた。首には赤いリボンが括られている。子猫はあたしを無視し、トコトコと鉄門の横を通り抜けていく。
 あたしは子猫の歩みを視線で追う。玄関の扉は大きく開かれていた。
 子猫は屋敷の中に迷いなく入っていく。外装は古臭いけれど、開かれた玄関には綺麗な生花が生けられていた。

「人、住んでいるんだ……」

 あたしは無意識に呟いて、鉄門を越えた。
 屋敷の入り口に近づくと、屋敷の中がよく見えてくる。奥に見える廊下には純白のレースのカーテンが風に揺れている。飾られている花からはいい匂いがした。
 立派な装飾を施された扉に手をかける。飾り窓には埃ひとつ、曇りひとつない。
 あたしにはこの屋敷が多数の行方不明事件に関わっているようには、とても見えなかった。

「ごめんください」

 あたしの声は警戒に小さかった。けれど、廊下の置くのドアが開くのが見えた。

「あら」

 優しい声がして、ドアの向こうから白髪のおばあさんが姿を現した。穏やかに笑うおばあさんに、あたしの警戒心はすっかり抜けてしまって会釈をする。
 おばあさんは片足を引き摺りながら玄関まで歩いてきてくれた。

「何の御用かしら?」

 しわくちゃの顔に優しい青い瞳が覗いていた。あたしは安心しきって事情を説明しだした。

「あたし、海原・みなもと申します。実は……」


 * * *


 おばあさんは行方不明になった女の子を捜しているのだというあたしの説明を真剣に聞いてくれて、詳しい話をと屋敷の中に通してくれた。
 広いリビングには大きなダイニングテーブルとイスが何脚か。その脇には年代もののテレビとソファがあった。

「座ってて。コーヒー入れてくるわ」

「そんな、お構いなく」

 あたしはそういったけれど、おばあさん奥に消えてしまう。もしかしたら、耳が遠いのかもしれない。
 つけたままのテレビでは、お昼のニュースが流れていた。最近またこの辺であった失踪事件を数秒報道し、けれどすぐ最近の一番の話題になっている政治ニュースに切り替わった。
 改めて辺りを見渡すと広い部屋の掃除はよく行き届いていた。

「おまたせ」

 声に振り向くと、おばあさんがトレイを手に帰ってくるところだった。おばあさんはやっぱり左足を引いていたので、駆け寄る。
 あたしがトレイを受け取るとおばあさんはゆったりと笑う。

「ありがとうね、みなもさん」

「とんでもない」

 あたしはダイニングテーブルの上にトレイを置く。真っ白なカップは小さな傷ひとつついていない、新品に見えた。

「ミルクは切らしてて……」

「あ、気にしないで下さい」

 おばあさんが座ったのを確認して、あたしも向かいに座る。
 コーヒーに砂糖だけ入れようとシュガーポットに手を伸ばす。同じように新品に見えるシュガーポットの蓋の取っ手には、小さな赤いリボンが括られていた。

「これ、かわいいですね」

 あたしがそういうと、おばあさんはそうでしょうと頷く。

「さっき届いてね。素敵よね」

 楽しそうに話すおばあさんに頷く返して、あたしはシュガーポットの蓋を開けた。

“にゃあ”

 と。
 砂糖の中から声が聞こえた。
 壁の中。いや、土に猫がうまっているかのような声。
 蓋に触れていた指が、陶器の冷たさではなく、生き物の背中に似た温もりを伝えた。

「うふふ。ね、素敵でしょう。あなたも素敵だわ」

 手に触れているのは猫の毛並みのような感触だった。
 赤いリボンに見覚えがあることにようやく気付いた。
 あたしは急激に血の気が引くのが分かった。
 指の震えでシュガーポットの蓋が本体にぶつかってカタカタと音を立てる。
 そっと、視線をあげた。

 おばあさんは笑っていた。
 笑ったまま、おばあさんの身体の右側はぐにゃぐにゃとうねっていた。笑い顔は歪んでいく。

「おいしい。おいしいあなた素敵だわ」

 そういう口がもうそれと分からないほど顔は歪んでいた。
 おばあさんの身体は、今や枯れ枝のように床から生えていた。
 いや、元からそうだったのかもしれない。だっておばあさんの左足はずっと床に張り付いていたのだから。
 ごぼごぼとお風呂の水をぬいたときのような音がした。
 床に見えない穴があるかのように、おばあさんだったものが吸い込まれていく。
 きゅう、とおばあさんは跡形もなく消えた。

 あたしは目の前の恐怖が消え失せて、ようやく蓋を取り落とした。
 カラン、と木製のテーブルの上に確かに蓋は陶器の音を立てる。

 にげよう。あたしは立ち上がろうとした。
 がくん、と恐怖でか膝が抜けて床に座り込んだ。
 だめ、早く逃げなきゃ。
 あたしは自分をそう奮い立たせて、膝に手を置く。
 ――置こうとした。
 する、とあたしの手は床に触れた。
 膝から先が、あたしの足が、ぐずぐずに解けていて、おばあさんが消えたときと同じように床に吸い込まれていく。

「……え」

 床に置いた手が、あたしの見ている目の前でとろりと融解した。バターみたいに。
 悲鳴を上げる余裕さえなく、あたしは床の上に解けた。


 * * *


 デジタルカメラが机の上にあった。
 印刷した写真を眺めながら考える。
 写真越しに対峙する“怪奇”。

「魔女の家の夢、か」

 草間はぼそりと呟いた。


 * * *

 キィ、と老婆が腰掛けた安楽椅子が揺れる。
 白い安楽椅子。肘当ての部分が濡れたように光っていた。
 老婆は指で肘当てを撫でた。
 それは、美しい人魚の鱗のような模様をしていた。