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<東京怪談ノベル(シングル)>


子豚が呼ぶ館



あたしは豚になっている。

気が付いたのは、窓ガラスに薄ら映る自分の姿を見たから。
眠そうな目、大きな耳、意外と小さい顔と、淡い桜色の身体。そこにいたのは一匹の子豚。
それが自分だなんて、思いたくはなかった。
だけど他にも、視界が異様に低いとか、人の足を避けるのに苦労するとか(向こうが飛び上がったりすると、余計に面倒)
思い当たる節は色々あって、やはりあたしは豚になっているのだ、とみなもは思う。
というより、あたしは今、豚なのだ。よりによって何故「豚」なんだろう。
再び顔を上げると、ガラスに映る薄桜色の子豚の産毛が、夏の風にさらさらと揺れていた。
なでてみたいな、すべすべとして、きっと気持ちが良いんだろう。
そう思ってふと見ると、子豚は目を細めて気持ちよさそうにしている。
何て呑気な顔だろう、と苛立ちすら覚える、がそれは紛れも無く自分なのだ。
その事態こそが、みなもの不安を煽る。
はぁ、とため息を吐こうとすれば、ぷぎぃという鳴き声。それは奇妙な感覚だった。
この子豚の中には確かに人間の「海原みなも」がいて、人間として(子豚をなでたい、とか)考えたり、人間としてため息を吐いたりしているのに。
なのにここには豚になった自分しかいない。
ぞくぞくと、背筋に走る悪寒にみなもは全身をぶるりと震わせた。



「こんなところにいたのか!」
突然、男の野太い声が辺りに響いた。
振り向いて顔を上げると、作業着を来た大男(荷見える)が立っている。
「手間かけさせやがって」
忌々しげにそう呟くと、男はみなもの傍へとにじり寄る。
じりじりと、少しずつ距離をつめていく中、みなもは男の顔をじっと見つめた。
荒い息、滴る汗、そしてぎらりと光る目。
急に、心臓から全身へ震えが走った。

捕まってはいけない! 

そう思った瞬間――それは男が手を伸ばしたのと同時だったのだが、みなもは地面を蹴って走り出した。



男の怒号が背後に聞こえる。
男も走り出す、その足音が聞こえてみなもはひたすらにコンクリートを蹴った。
身体の小さな子豚は、思った以上にスピードが出る。
その速さと焦りから、みなもの鼓動はどくどくと細かく、そして大きな音を立てる。
いけない、いけない、このままでは、あたしは――!

「こっちだ!」

老人の声がした。
と同時に、みなもの身体はぐいと引っ張られた。
そのまま、身体はふわりと浮かぶ。
訳もわからずおろおろとしているうちに、みなもの身体は老人の膝の上に下ろされていた。
顔を上げると、白髪の老人が穏やかに微笑んでいる。
その微笑を見た途端、先ほどまでの心の逸りが不思議と収束していくのを感じた。
みなもが老人の瞳をじっと見つめると、老人は優しくみなもの背を撫でた。
それはとても心地良く、そして擦れる縄目の感触から、自分が網の中にいることをみなもは知った。
「どこだぁ!」
あの男の声だ。
みなもは身を強張らせ、老人の膝の上でぶるぶると震える。
すると老人は穏やかに「大丈夫だよ」と囁いた。
それでもみなもは、ぎゅっと目を閉じたまま、老人の膝の上で小さくなっていた。
老人がぶつぶつと何かを呟いていたのにも、気づかなかった。



しばらくして、男の声が聞こえなくなったのを確認すると、老人はみなもを網から出してくれた。
そして改めて膝の上に座らされる。それに抵抗感は無かった。
みなもは辺りを見渡す。広い庭だった。
しかし、庭木や花壇は手入れが行き届いて居ないようで、どこか寂しさを感じさせた。
奥に見えるあの白い家は、老人のものだろうか。その屋敷に、みなもは覚えがあった。
学校に行く時、いつも前を通る家に似ている気がしたのだ。
「災難だったね、お嬢さん。あのままだと、君は丸焼きにされるところだったんだよ」
え、と驚きの声を上げるつもりが、やはりぷぎゃ、という鳴き声にしかならなかった。
けれど老人は、みなもの言いたいことを理解したように頷く。
すると、あの男は養豚業者か何かだったのだろうか。
それで、出荷するはずの自分が逃げたから、あんな形相で追ってきた? 
あたしが豚だから? 
そうだよね、だってあたしは豚だから……。

「違う!」

と、子豚の中で、人間としてのみなもが大きく首を振って叫んだ。
「あたしは、人間だわ。豚なんかじゃない」
その声は、やはり言葉になどならなかった。
ただ、子豚がぷぎぷぎと鳴くばかりだ。それが悲しくて、心に穴を空けられたように切なかった。
子豚はずっと、鳴いていた。
老人はそんなみなもを見て少し驚いたような顔をしたが、やがてふっと微笑むと、膝の上からみなもを下ろした。
みなもが小首を傾げて顔を上げると、老人は困ったような顔をした。
「行きなさい」
老人はそう言って、みなもの尻を押す。
「君は思いの外、自我を残しているようだ。……私の気が変わらないうちに、出なさい。君は、よく挨拶をしてくれるいい子だから」
老人が指差す先には、小さく――子豚一匹が通れるくらいの隙間だけ開いた門扉がある。
みなもは恐る恐る歩いてから、老人を振り向いた。
老人は、優しく、けれど少し寂しそうに微笑んでいた。

「またね」

老人の言葉を聞くと、みなもは小走りに門扉に向かった。
背中に視線を感じる。それは老人のものでは無い気がした。
屋敷の中、何十匹の豚がみなもを見ている。
みなもは目を瞑り、門扉の隙間を駆け抜けた。ぷぎぃ、と豚が鳴く声がした。