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<東京怪談ノベル(シングル)>


狐使いの心得


 昼下がりの草間興信所。
 猛暑の季節だというのに扇風機のみが回り、生ぬるい空気をかき回している。なぜかと言うと、エアコンは壊れている。今月は出費が嵩んでいて、修理もしくは新調する経費が……ないのであった。
 そんなわけで、事務所の主である草間・武彦(くさま・たけひこ)は、仕事をする気力もなくデスクに突っ伏して蕩(とろ)けていた。
 青い髪の少女が彼を訪ねて来るまでは。
「何? 試験運用?」
「はい」
 草間に、少女――海原・みなも(うなばら・みなも)は頷いた。
 古風なデザインの夏服セーラーの胸ポケットから、みなもは万年筆を取り出し、その蓋を開ける。
 するり、と。万年筆の中から青い水の流れが生まれた。そう見えたのは一瞬のことで、次の瞬間には流れる水のように艶やかな獣毛が光を反射しているのだと知れる。
「みこ(巫狐)ちゃん」
 みなもに名を呼ばれ、青い小さな霊獣は、セーラー襟の上にちょんと飛び乗った。
「この子との憑依に関してなんですが。どこまでできるのか、一度試しておきたくて」
 こん、とみなもの肩の上で鳴いたのは、管狐のみこちゃん。以前草間興信所に送りつけられてきた捨て霊獣を、みなもが引き取って飼っているものだ。
 飼い方については慣れて来たものの、まだまだどこまでその能力を使いこなせているかは未知数なのである。
 どういうことができて、できないのか。また、何かあった時にどこまで頼れるのか。
「必要な時になって、ぶっつけ本番ということになるのでは、不安ですから」
 怪異事件の先輩である草間の監修で、試験運用のようなことを一通りしておきたいのだと、みなもは言った。
 草間は唸った。
「うー……む。まあ、いいだろう。その狐のことについては、俺も責任がないわけでもない」
 気が進まない様子ながらも頷いた草間の眼前に、みなもの手から封筒が差し出された。
 几帳面な彼女の文字で「謝礼金弐万円也」と表書きされたそれを目にして、草間は目を瞬いた。
「いや、その狐を引き取ってくれと頼んだのは俺だからなあ。謝礼をもらうのも……」
「いえ、お納めください。きっと、たくさんお時間を取らせますし」
 草間は受け取らず頭を振った。しばらく派手な仕事は入っておらず、書類整理から逃れるためにも、むしろ時間を取ってもらえるのは草間にとってはありがたいことだったりするのだ。が、返そうとした封筒をみなもが丁寧に渡しなおしてくるので、草間はそれ以上固辞することは止めた。
 断るほうがみなもを傷つけると気が付いたからだ。
「それと、こちらは、お父さんからの協賛によるお礼になります」
 みなもはほっとした顔で、もう一つ封筒を出した。今度こそ、草間はぎょっとした。
 封筒の厚さ、1cm。まさかと思って中を覗き込むと、一万円札の束が帯付きで入っていた。
「こりゃ……」
 封筒から顔を上げた草間は、しばらく考えた後、口を開いた。幾分、顔つきが真剣なものになっている。
「わかった。乗りかかった船だ。出来る限り協力しよう」
「はい。よろしくお願いします!」
 ぺこり、とみなもは草間に頭を下げた。


       ++++++++


「学生さんには、夏休みってもんがあるんだよなあ」
 翌日の朝、みなもは再び興信所を訪れた。夏休みとは既に縁遠い草間は羨ましげだ。
 とりあえず、昨日は以前に試したのと同じ、狐ッ子モードでの性能チェックまでを済ませていた。
「聴覚・嗅覚については、半径100メートル以上は広げられるようだ。しかし、情報処理までこなそうとすると、20メートルが今のところ限界だな」
 メモを取ったノートを広げ、草間が確認する。
 みなもは今日は私服だ。セーラーカラーのワンピースを着たみなもの肩の上から、みこちゃんは不思議そうに草間の手元を覗き込んでいる。
 ちなみに、昨日はふわもこバージョンでのチェックは不能だった。
「ふわもこだと、やっぱり暑いのは駄目みたいでしたね。集中力がぜんぜん続きませんでした……」
「まあ、昨日は事務所が暑すぎたせいもあっただろうけどな」
 30度を大幅に越える真夏日だったのだ。エアコンのない状態では、草間ですらクラっとくるほどの。
「今日は大丈夫だ」
 草間はちらりとエアコンを見上げた。最新式エアコンの送風口からは、涼しい風が出ている。みなもからの報酬の一部で、今日新調したのだ。
 草間はリモコンに手を伸ばし、設定温度を大幅に下げた。エコには反するが、今日ばかりは仕方がない。
「よし、思う存分やってくれ」
「はい」
 頷いて、みなもは胸のボタンを外す。ワンピースが足元に落ちると、みなもは水着姿になっていた。
 一瞬ぎょっとした顔をした草間は、それを見てへなりと力を抜いた。
「……下に着ているなら着ていると先に言ってくれ!」
「あ。すみません、普通のお洋服じゃ、尻尾が出たとき困るから、って……」
 水着は前から見るとワンピースタイプのシンプルなものだが、後ろ側の布地が少なく、背中の中ほどから腰の尾てい骨のあたりまで肌が出るようになっている。少し大胆なデザインだが、これなら尻尾が生えても不自由しない。みなもの姉が用意してくれたものだ。
「では、やってみますね。……みこちゃん」
 みなもに呼ばれ、足元にいたみこちゃんがぴょんと飛び上がった。飛び乗った肩を蹴り、髪の上に飛び乗る――青い尻尾が翻った、かと思うと、水面に飛び込むように、ちいさな狐の姿がみなもの中に消えた。 自分の中に、自分ではないものが溶け込んでくる、不思議な感覚を、みなもは目を閉じて味わった。何度も繰り返して、少しは慣れて来たこの感覚。
 ふわりと、お尻のあたりから尻尾が飛び出す。頭には耳がひょっこり、鼻もひょっこりと狐ッ子モードに。
 更に同調を深めてゆくと、やがて深い海に潜るような浮遊感がみなもの身体を包んだ。
 それと同時に、全身が、ふわふわの毛皮に包まれるのがわかった。軽く掌を握れば、そこに肉球があるのを感じる。
 狐ッ子モード・ふわもこバージョンの発動である。
 エアコンが効いているおかげで、茹だるほどの暑さは感じない。
 音が、匂いが。五感の全てが研ぎ澄まされて行った。
 一番近いのは、草間の呼吸音。意識すれば心臓の音も聞こえる。外を歩く人の足音。風がビルの谷間を渡る音色。一つ一つの音を、みなもは確かめた。昨日は事務所にはなかった、新しい音が一つ。エアコンの稼動音だ。耳を研ぎ澄ませれば、機械の内部で回るファンが、僅かに軋んでいることすらわかる。
 しかし、集中力は突然の異臭に削がれた。
 みなもは目を開けた。窓から見える外の空が、少し眩しい。
「草間さん。あの、大変申し上げにくいのですが、お台所で、何か……腐っているようです……」
「ああ。そういえば、昨日の夜味噌汁作って、冷蔵庫に入れるの忘れてたな」
 しまった、という顔をする草間。みなもは肉球つきの掌で鼻を押さえた。
「そのお味噌汁、もう、食べない方が良ろしいいかと……」
 不意に腐臭を嗅いでしまったため、みなもは涙目になってしまっている。
「うーん。ダメージを受けないためにも、やはり、要る情報と不要な情報を区別する、情報処理の練習をするのが探索範囲を広げるためには必要なようだな」
 ははは、と草間は誤魔化すように笑った。
 草間はまず、台所で腐臭を放つ鍋を片付ける必要がある。


       ++++++++


 連日の試験運用で、データはほぼ揃った。
「狐っ子モード、ふわもこバージョンも込みで、無難に使える探索範囲はやはり半径20メートル程度だな。それ以上は、情報量が増えすぎて疲労が激しい。それに予想外の音や匂いを感じた場合、思わぬダメージを受けることがある」
 ノートを広げる草間に、みなもは頷いた。
「はい。20メートル程度なら、確実に知っている人の声や、足音や、匂いなどを探し当てることができますね。意識していれば、他の音やにおいに邪魔をされることもないみたいです」
 探索可能範囲については、これからの鍛錬によって上昇することもあるだろう、というのが草間とみなも、双方が出した結論だった。
 ノートのデータにはまだまだ続きがある。
「精度を期待するなら、憑依の時間は30分程度が適当だな。それ以上は、憑依する側される側、共に消耗が激しく集中も削がれる」
「はい。憑依を続けるだけなら1時間ほどはもちましたけど、あたしもみこちゃんも、後が大変でした……」
 ワンピースの胸ポケットに収まっているみこちゃんの頭を、みなもは申し訳なさそうな顔をしながら撫でた。
 30分以上続けると、まず注意力が散漫になる。それでも1時間ほどまでは憑依の状態を保っていられるが、それをすると次の日も疲れがとれない。おかげで、試した翌日は一日休息が必要になってしまった。
「30分以上の連続憑依は、旨味がないってことだな。30分憑依したら、もう一度集中力を回復するには30分ほど休憩を取ったほうが良い。……なんだか、テレビゲームの注意書きみてえだな」
「あたしもみこちゃんも、お互い憑依には極度の集中が必要ですから。ある意味、テレビゲームなどをしているのと似ているかもしれません」
 なるほど、と草間は呟き、そのこともノートのメモに追加した。
 ノートには、興信所近くの人通りのないビルの谷間を使った短距離走や、不意に落とされた定規を何センチ落ちるまでに受け止めることができるか、などのデータも揃っている。
「短距離走は、軽く流してもオリンピック選手並。ジャンプ力は、二階の窓を触れる程度、と。あまり非常識なレベルの上昇ではないだけに、人前でも使えるというところが有利かもしれん。運動能力、反射神経の点では、ふわもこバージョンのほうがわずかに上になるようだな」
 ふむ、と草間は鼻を鳴らした。
「見た目どおり、より霊獣に近付いているということか」
「より霊獣に近い、ですか」
 草間の言葉を追って、みなもは呟く。
 同調率を上げることによって、より深くみこちゃんと同化することができるのだ。では、究極まで深度を上げたら、どうなるだろう。
「よし。ふわもこまでのデータは揃ったことだし、今日は憑依深度をどこまで上げられるものか、テストしてみるか」
 草間も、みなもと同じことを考えていたらしかった。

 
 エアコンの設定温度を下げ、試験運用の開始。
「みこちゃん。今日は、できるだけ深く――お願い」
 水着になったみなもは、すぐにふわもこの狐ッ子姿になった。
 深く深く。みなもは、みこちゃんのために、自分の中の深い部分全てを開け放った。憑依を繰り返すことで、同化の深度を調節する術もわかってきたのだ。
 一瞬、戸惑いのような感情を感じた。そこまで潜ってしまっても良いのだろうかと、みこちゃんが迷っているのだ。
(いいんですよ。試してみましょう)
 呼びかければ、みこちゃんは喜びで応じる。
 青い尻尾がひらめくのを、みなもは閉じた瞼の裏に見たような気がした。
 ふ、と。
 突然に訪れる無音の時間。憑依によって、嵐のように耳や鼻から飛び込んできていた情報が、一瞬全て途切れ。
「あ、あ!」
 みなもは、激しい痛みに膝を折った。床についた手を、握り締める。
 体中の関節が、無理な方向に動いているような感覚だった。
 みなもの主観では、それは数分のように感じられたが、実際には一分に満たない、数十秒の間の出来事だった。
 やがて、嘘のように痛みが去った。
 目を開けると、草間の顔が間近にある。
 しかし、いつもと見え方が違う。みなもは眼を瞬き、周囲を見回した。
 色がない。いや、赤一色だけがある。赤と、陰影だけで描かれた世界。
(これは――?)
「見てみろ」
 草間が手鏡を差し出してきた。そこに映ったのは、完全な獣の顔。
 自分の身を確かめてみれば、身体も完全に、四足の獣――狐の姿に変じていた。
「霊狐化ってところか。気分は?」
「悪くない、です。ただ……落ち着きません」
 試してみれば、声は出た。みなもはうろうろと草間の周囲を歩き回った。じっとしていられないのだ。
「それと、色が、見えません。昔の白黒フィルムの映像みたいです」
 みなもの訴えに、草間は少し考えた後手を打った。
「何かで、読んだことがある。確か、犬には色覚がないんだ。狐も犬科の生き物だから、多分同じだろう。同化したら色の見え方も同じになったのかもな」
「でも、みこちゃんは、色はわかってたみたいです」
 家で、赤いペンを取って欲しいとか、頼んでみたことがあるのだ。うろうろと歩きながらみなもは首を傾げた。草間も首を傾げた。
「普段は、主人と視覚を共有することで、色の判別もつけていたのかもしれんな」
「完全同化の場合は、あたしの感覚のほうがみこちゃんの感覚に近くなる、ということでしょうか」
「多分な」
 草間はノートを手に取り、何事かメモを記している。情報の収集と整理という点では、草間は流石に優秀だ。
「あとは………………」
 草間はペンを置いた。と、突然、驚いたような顔をする。その足元に、黒く、毛羽立った手足を持つ何かがちらりと覗いた。
「あ! ゴキブ……」
「きゃぁあああっ」
 皆まで言われる前に、みなもは動く。常人の目には止まらないほどのスピードで、床を蹴り、飛びずさり、書類棚の上に隠れた。あの黒い触角の生えた生き物が、みなもは絶望的に苦手なのだ。
「えーと、悪い。下りてきてくれ」
「だだだだって、あれ、あれが、太郎ちゃんっ、が!」
 下から草間に呼びかけられて、みなもは書類棚の奥の壁にぴったりと身体を寄せた。
「いや、これは」
「きゃっ!」
 草間が、何か黒いものを手に摘んでいるのを見て、みなもは瞠目する。が、すぐにそれが動いてもいなければ生き物のにおいもさせていないことを知り、今度は眼を瞬いた。
 ゴム製のオモチャだった。しかも、カブトムシの。
「悪い悪い。いや、ちょっと、管狐とシンクロしても苦手かなと、気になってな。反応を見ようかと思って用意してたんだ」
「く、草間さん……!」
「同化しても苦手なものは苦手なのか。いやいや、流石、速かったぜ。跳躍もかなりのもんだったし」
 書類棚の上から飛び降り、メモを取る草間を見上げながら、みなもは思った。
 どうせなら、もっと他の試し方をして欲しかったです……!
 その時、そうだそうだ、と同意するような意識が、みなもの頭の片隅に生まれた。
「あ」
 みこちゃんだ。完全に同化していたはずなのに、と思った瞬間。
 また、あの激しい痛みがみなもを襲った。
「ああっ」
 気が付くと、みなもは元通り人間の姿に戻って、両腕で自分を抱き締めるようなポーズで、床にうずくまっていた。
 肩の上で、こん、とみこちゃんが鳴く声がした。
 みなもの息は荒い。
「霊獣化は、とても疲れる、ようです……」
 みなもの身体の限界を察して、みこちゃんのほうから分離してくれたようだ。
「時間的には……3分くらいが限界ってとこみたいだな」
「3分、ですか」
「どっかのヒーローみたいだな」
 草間の言葉に少し笑って、みなもは立ち上がろうとした。が。
「ぁああああっ」
 叫んで、みなもはもう一度しゃがみこんだ。
 何も身につけていないことに気が付いたからだ。
「な!?」
 草間も、今更ながらみなもが裸になっていることに気付いたらしく、大慌てで目を逸らしている(どうやら、連日水着姿を見ていたお陰で、服を着ていないシルエットに慣れていたために気付くのが遅れたようだ)。
 よく見れば、肩紐の部分が破れた水着が、床に落ちている。
 霊狐化の時、身体の形が大幅に変わったために、破れてしまったのだろう。
「……霊狐化は、使う場所と状況には充分な注意が必要なようだな……」
「そっ、そうですねっ」
 大慌ててワンピースを身につけるみなもを、みこちゃんが不思議そうに見上げている。
 草間はというと、今このタイミングで客が来たりしませんように!!と、扉を睨みながら強く強く祈っていた。



 こうして数日間の試験運用を終え、「海原みなも・管狐憑依の試験運用及び限界試験の経過と結果」と表紙に記されたノートが、草間からみなもの手に渡された。
「しかし、あくまで現時点での試験結果だからな。お前さんと、その狐の関係の変化によって、数値も変わるだろう」
 草間はそう言っていた。
 それは、上がることもあれば、下がることもあるかもしれないという可能性の示唆だ。しかし。
「まあ、下がる心配はなさそうだけどなあ」
 みなもとみこちゃんとの間に生まれている絆を、たっぷり見ることになった草間は、最後にそう呟いていた。
 


                                 End.


















<ライターより>
今日は。締め切りギリギリの納品になってしまい、申し訳ありません。
狐ッ子モード試験運用、ああでもないこうでもないと悩みながらも、楽しく書かせていただきました。
霊狐化は、運動能力の点では恐らくとても高くなるのですが、時間の制限があるという形にしてみました。
最後の草間の台詞のとおり、これからみなもさんがどんな風に使ってくださるかによって、性能はどんどん変化したり上がったりすると思います。
ああ、それにしても管狐を可愛がってくださってとても嬉しいです!
暑い日々が続いておりますが、お体にお気をつけて。
ご依頼、本当にありがとうございました!