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その名を呼ぶひと
鳥塚には、今はもう誰も知らぬもう一つの名がある。鳥塚自身、名乗らぬ名だから、知る者すら既に無い。ただ彼だけが、彼女の事をそう呼んだ。彼以外呼ばぬ名だったのに、鳥塚は何故か、それもまた自分の名だと知っていた。
「きらら」
彼は鳥塚の事を、そう呼んだ。もう随分と昔の話だ。その頃鳥塚は山中の小屋に寝起きしており、彼は鳥塚の住む山の麓の村に暮らす少年だった。村は裕福とは言えないがそこそこに豊かで、彼もまた、他の村人たちと同じ様に畑を耕して暮らしていた。静かな村だった。平穏ではあったけれど、異形の身である鳥塚の下に足しげく通ってくる者は殆ど無かったから、彼も少々変わり者だったのだろう。彼は鳥塚の黒くつややかな翼も、鋭い鈎爪も怖れる事無く、いつも何かしら食べ物を持ってやって来ては、笛の音をねだった。
「また笛を聞かせておくれよ、きらら。今日は芋を持ってきた。なあ、きらら」
鳥塚は大抵、彼の望み通りに笛を吹いてやったと思う。鳥塚の暮らす小屋の横には立派な楡の木が立っていて、そこから林を抜けると泉があった。彼はそこで鳥塚の笛を聞くのが好きだった。
「きららの笛は、優しい音がする」
彼はよく、鳥塚の笛の音をそう評した。鳥塚にはその『優しい音』が何なのかその時は分からなかったが、悪くは無いように思った。畑仕事を早めに切り上げた日には、彼はよく夕暮れまで笛を聞いていた。日が傾いて泉が茜色に輝くと、彼は少し表情を曇らせて、
「早いなぁ」
と溜息を吐いた。日がとっぷり暮れてから家路につく彼を、鳥塚は時折、樫の木の上から見送った。彼は知らぬだろうが、髪と同じ闇色の翼を広げて舞い上がり、村に着くまで見守った事もあった。そんな日々がどれくらい続いたのかはよく覚えていない。ただ、村を変えたモノが何だったかは覚えている。戦だ。夏の初めに村から沢山の人が連れて行かれるのを、鳥塚はただ、眺めていた。久しぶりに彼が姿を見せたのは、次の秋も深まった頃だったか。彼はもう、青年と呼べる年頃になっていた。
「きらら、きらら」
力ない声で呼んでから、彼は深い溜息を吐いた。
「お父は帰って来なかったよ、きらら。俺はお母の傍を離れられずに残ったけれど、お父は戦で死んだ。他にも沢山。」
ふわり、と隣に降り立った鳥塚に、彼は力ない笑みを浮かべて言った。
「なあ、きらら。俺とお母を殺してくれ」
鳥塚は笛を取り出そうとした手を止めた。その両肩を掴んで振り向かせると、彼はもう一度、言った。
「殺してくれ、きらら。お前になら、できるだろう」
以来、彼が丘を訪れて願うのは、笛の音ではなく自分と母親の死となった。鳥塚は彼の願いを容れず、結局、彼の母親は病で死んだ。独りになった彼はもう、鳥塚の元を訪れなくなった。鳥塚は、村を去った。それから色々な所で同じ様に笛を吹いて暮らした。その笛に魅せられ通い来る者もあったが、皆一様に、こう言った。
「揺るぎなき音よ、だがどこか物悲しい」
そんなものかと思った。時折あの村の青年の事を思い出したが、もう会う事も無かろうと思っていた。だが、旅の途中で通りがかった戦場で、鳥塚は彼を見かけたのだ。戦場となった荒地に立つ大きな楠から見下ろした彼は、幾人もの兵に追われていた。以前よりだいぶやつれた彼は、あっと言う間に兵たちに追いつかれ、引き倒された。鎧は無論のこと、刀すら帯びてはいなかった。巻き込まれたのだろう。乱暴に引き立てられ、刀を突きつけられてよろめく彼を兵の一人が殴ったのと同時に、鳥塚はふわり、と翼を広げた。周りの枝に居た鴉たちが同時に舞い上がる。大きな羽音に、兵たちが顔を上げた。うなだれていた彼もまた、ゆっくりと顔を上げる。生気の無かった瞳が、鳥塚を捉えて大きく見開かれた。
「きら…ら…」
ゆっくりと、だがはっきりと呼んだその声に、鳥塚はだが応える事なく彼を引っ立てていた兵たちを見た。
「てっ、天狗だっ…!!」
兵たちはそれぞれに悲鳴を上げ、ある者は得物を取り落とし、またある者は振りかざして斬りかかろうとした。だが、彼らがどちらの道を選んだとて結果は変わらなかった。全ては一瞬で決まった。多少数で優るとも、所詮雑兵は雑兵。ばっと散った血煙の後に、いくつもの骸が転がり、後に立っていたのは鳥塚と彼の二人きりだった。
「助けて…くれたのか」
彼の声に含まれた響きは感謝なのかそれとも怨嗟なのか。
「そうかも…知れません」
鳥塚には分からなかった。ただ、したい通りにしただけだからだ。結果は自分には関係がない。彼は小さく息を吐くと、そうか、と笑った。
「俺達の村ももう無い、戻る場所も何もかも無くしてまだ、俺は生きねばならんのか…。そういう事か、きらら」
鳥塚は答えなかった。分からない。彼に求める事は何も無い。何も無いはずなのだが、助けてしまったのもまた紛れも無い事実だ。だから多分、鳥塚は彼を生かそうとしたのだろう。
「どうしてだ、きらら。お前は前にも俺を殺さなかった」
理由は、分からない。だがポツリと口を突いて出たのは、思ってもみない言葉だった。
「貴方だけが私を…そう呼ぶのです」
自分でも何を言ったのか分からなかった。彼もまた同じだっただろう。だが、しばらくの沈黙の後、青年ははっとしたように顔を上げ、そうか、と笑った。
「俺だけ…か。そうか、きらら、お前はもう…」
鳥塚が頷くと、彼は力無く微笑んだ。
「じゃあ、俺はまだ死ぬ訳には行かないな。…『きらら』の為に」
鳥塚の知らぬ感情を瞳にたたえてそう言うと、彼は何も言わぬ鳥塚にもう一度微笑んでからよろよろと歩き出した。それが、彼を見た最後だった。人々は飽くまで戦い続け、そしてある時気付くと、戦が止んでいた。平和な時代が訪れたのだと人々は話していたようだったが、鳥塚には関係の無い話だった。鳥塚にはただ、自由に舞う空と、歌う声と、鳥たちさえあれば良かったのだ。時がどれだけ流れようと、人の世がどう変わろうと、鳥塚にはさしたる違いはないのだ。だから今も変わらず、楽をよすがに暮らしている。昔を懐かしむなどという感情も、知らない。だが、彼の事だけは、時折ふと思い出す。こちらをを見上げ、『きらら』と呼んだあの声と共に。確証はないけれど、彼は鳥塚の、いや、『きらら』が人であった頃の幼馴染だったのだろう。天狗となった人間は、多くの場合人であった頃の記憶を封じてしまうのだと言う。確かに人であった頃の記憶を、鳥塚はうまく思い出せない。思い出したいとも思わない。けれど、彼の声を虚空に聞いたそんな夜は、今は滅多に使わぬ笛に手を伸ばす。そして、宵闇を縫うように笛の音が、静かに街に響くのだ。
<終わり>
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