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<東京怪談ノベル(シングル)>


優しい少女が殺した悪魔


みなもの身体が子豚になってから一週間が過ぎた。
公園の土管の中で丸くなり、あの日のことを思う。
鬼のような形相で自分を追う男、男からみなもを救った老人、老人の住む館、館から聞こえる子豚の鳴き声……。
あの男は、何故あれ程まで必死に自分を追ったのだろう。
落ち着いた今、時折そんな疑問を持つ。
勿論、一番考えるのは、「どうやって戻るか」ということ。
老人に促されるままにあの屋敷を出たが、みなもの身体が人間に戻ることは無かった。
何かしらの呪いがみなもを縛っている事は確かだ。
そして、恐らくそれはあの老人に関係している。

「君みたいな子、いっぱいいるんだよ」
公園仲間の子猫は、みなもの疑問に答えるように言った。
あの屋敷の前を通ると、助けを求めるような豚の声がする、それはノラには有名な話らしく、だからといって彼らはそれに興味を持たない。
何故なら老人も豚も、誰もあの屋敷から姿を見せる事は無いからだ。
みなもを除いて。
「出てこられたのだって偶然かもしれないよ。それなのに、自分から行くだなんてどうかしてる」
事情を知った子猫は、彼女に同情しつつそう言った。
心配してくれている。それはとてもありがたい。
けれどみなもは、「ぷぎ」と小さく鳴いて首を振る。 
「このままじゃ、きっと何も解決しないもの」


あの日のまま、門扉は少しだけ開いていた。
恐る恐る中を覗くと人気は無く、みなもが老人と座ったあのベンチに、烏が一羽だけとまっている。
ケケ、と烏が鳴いた。
と、その時、門扉がカタカタと上下に揺れた。
閉まる! 
そう思った瞬間、みなもは躊躇いを捨て、中へと飛び込んだ。
かたん、と閂が閉まる音がした。

庭に入った瞬間に、外とは違った不穏な空気に気づく。
人気が無いばかりで無く、敷地内がどんよりと淀み、薄暗い。
それに、変な臭いもする。
全てが異常で、まるでこの空間だけ現実から切り離されているようだった。
辺りを見回しつつ、みなもは館の前に立った。
両前足を上げ、固く閉ざされた扉をかりかりと引っかく。
「おじいさん、おじいさん! 話を聞かせて!」
そう心で叫びながら、蹄で懸命に扉を引っかいた。
けれど、扉は開かない。
若干の苛立ちを感じながら、叩くように前足を動かす。
しかしそれにも疲れ、手を止めようとしたその瞬間。
キィ、と音を立て、扉が内へ開いた。


後ろ足だけで立っていたみなもの身体は、体勢を崩して中へと転がる。
慌てて顔を上げると、あの老人がいた。
何か言わなきゃ、と思ったみなもは、老人の顔を見て言葉を失う。

老人は泣いていた。

「何故戻ってきた」
老人は、一週間前よりも痩せていた。
頬はこけ、空ろな目は顔面に深く沈みこんでいる。
さながら、生ける屍である。
ふと、みなもはある異変に気が付いた。
一週間前に感じた「あの気配」がどこにも感じられない。 
「君みたいな子、いっぱいいるんだよ」
子猫の言葉が脳裏に蘇る。
そう、確かに一週間前にはその気配があった。
彼らの視線を全身に受けながら、それを振り切るようにして、みなもは逃げたのだから。
なのに、今はそれが無い。老人と、そして子豚が一匹いるだけだ。
「どうして」
たくさん聞きたいことがあって、けれど上手く言葉に出来ず、紡げたのはその一言だけ。
そして、それにみなもは驚いた。
さっきまで、人の言葉は喋れなかったはずなのに。
みなもの言葉は今、「みなもの声」で辺りに響いた。
老人はそれに驚く事は無かった。
どこか諦めに似た様子でみなもを見下ろしている。
「もう、終わりだ」
「終わり?」
「魔力が無くなる。呪いは解ける。……君も、元に戻れるよ」
「どういうことですか? おじいさんが、あたしに呪いを?」
みなもの悲痛な叫びに、老人は遠くを見やる。まるで、大切な何かを探すように。
「呪いをかけた子豚は、とても柔らかく、甘い。そして、不老の妙薬となる。
適当に、目につく子を豚に変え、それを売って、……ときにその肉を食べ、私は生きてきた。
もう何十年になるだろうか。あまりに鈍く年を重ねて、もう何もわからない」
みなもは、自分を追うあの男を思い出した。
あの必死さは、そういうわけだったのか。
呪いの子豚の肉が持つ力は、みなもが想像する以上に多くの人間を魅了するだろう。
不老、そしてそれを食べ続ければ、恐らく不死に近い状態を得られる。
老人の言葉から、みなもはそれを推測した。

しかし今、目の前の老人はすっかり生気を失っている。

「君を逃がさなければ良かった。
優しさなど見せるから……魔力は消えた。
優しさなんて、今更いらなかった。もう必要なかったのに」
そう言うと老人は、ふらふらと階段を上がっていく。
みなもは慌ててその後を追う。
「待って!」
みなもの叫びも、老人の耳には届かない。
風に揺られるようにして、老人は階段を上り、歩いていく。
みなもも必死でついて行くが、四階まで上ることは子豚の身体にはなかなかの障害だった。
ようやくみなもが階段を上り終えると、突き当りの部屋へと消えていく老人の姿が見えた。
みなもは走り、迷うことなくその部屋へと飛び込んだ。

瞬間、あまりの異臭に、みなもは思わず目を瞑る。
放置された藁や飼料、そして豚の排泄物の臭い。
屋敷を前にした時に感じた「変な臭い」の正体はこれだったのだ。 
からから、と窓が開く音。
我に返り、みなもは顔を上げた。
老人が窓枠を両手で掴み、今まさに乗り越えようとしている。
みなもは慌てて老人の足下に走った。
「来るな」
老人は静かな調子で言い放つ。
しかしその言葉は、全身に電流のように響き、みなもはその場に硬直した。
老人は自嘲めいた笑みを浮かべ、「君にはまだ効くようだ」と呟いた。
「もう、どんなに待っても彼女は戻らない。
本当は分かっていたのに、それでも生きていたら会える気がした。
だから、悪魔に縋ってまで生き延びて来た……けれど、もう仕舞いだ」
老人はそう言うと、ゆっくりと足を上げた。
何か、言わなければならない気がするのに、上手く言葉にならない。
何を言えばいい。どうすればいい。
みなもは老人を止めたいと思った。
今、このまま去っていく事は、卑怯だ。
何より――、
「嬉しかった」
「……え?」
「助けてくれて、優しくしてもらえて……あたしは、嬉しかったんです」
老人は苦笑して首を振る。
「君はもう売った後だったんだ。だから、逃げようがどうでもいい。ただの気まぐれだ」
「それでも、それはおじいさんの……本当の、優しさです。人間としての。
それが、いらないものだなんて、必要の無いものだなんて、思いません!」
老人の心の奥に残っていた情は、僅かに息衝く「人であった」証。
それを悔やむことなど、してほしくなかった。
「……だとしたら、それは君のおかげだ」
老人は振り返り、みなもを見下ろす。
あの日、みなもに見せたそれと同じく、優しく温かな微笑みで。
「君の優しさが、死に損ないの悪魔を、人に戻してくれた。
……私は、人として死ねるんだな」

老人がそう言うと、みなもの身体を縛る魔力がとけ、身体が軽くなる。
全身を温かな光が包み、みなもの身体は元の人の姿へと変わっていく。


その瞬間、老人は窓から飛んだ。


呆然とするみなもの頭に、老人の呟きが響く。
「――ありがとう、優しい子」
それはとても穏やかで、優しい声だった。
あの日。
豚だっ自分の声は、老人にはこんな風に聞こえたのだろうかと、
知らず流れる涙を拭いながら、みなもはそんなことを思った。