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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


子供達は夜ごと、妖精を殺す

「…何だって?」
 草間の問いに答えたのは、興信所に顔を出していた少年だった。夏期講習の帰りだとかで、参考書の詰まったカバンをソファに投げ出して、どこから出したのかアイスをかじっている。それをちらりと恨めしいような視線で睨んで、草間はまた新聞に目を落とした。――ちなみに事務所のクーラーは絶賛、ストライキ中である。室内は窓を開け放しでも淀んだ空気で重く、暑かった。
「いや、何って。依頼」
「そうか帰れ」
 迷う様子さえ見せず、それどころか読んでいた新聞から顔さえ上げずに草間が即答すると、少年はアイスの棒をくるくる振り回して付け加えた。
「あ、何だよつれねぇな。神社の依頼なんだぞ。ご利益あるかもしれないのに」
 ――少年の名前は秋野藤、という。男子高校生にして神主見習い、東京郊外の小さな住宅街の小さな神社の後継ぎ息子である。
「悪いが今は別件で立て込んでるんだ」
「別件?あー。そういや夏だもんな、怪奇現象真っ盛りな時期か。忙しいのか?」
「…あのな、当たり前のことだが、ウチは興信所であって、心霊相談所じゃねぇぞ」
 あれ、そうだったっけ?ときょとんとして応じる藤が小憎らしい。わざとやっているのか、分かっていて彼をからかっているのか、どこか読めないのがこの少年の腹立たしいところであった。どことなく年齢不相応な子供っぽさがあるのだ、この高校生には。
「…そっかー。困ったな、ここくらいしか頼れる場所、思いつかなかったんだけど…行方不明の子供の捜索なんて、俺らの範疇外だし」
 ぱちり、と、今度は草間が目を瞬かせる番だった。訝しむように眉根を寄せ、彼は新聞からこの時初めて目をあげた。家出した子供の捜索。ここ何日かで彼の耳には、ひどく慣れた言葉であったのだ。
「……家出した子供って、もしかして、夏休みに入ってから連続してる行方不明事件の話なのか」
 歯噛みするような想いで、アイスの棒をくわえた少年を見やる。突然喰いついてきた草間の反応に、彼はばきんとアイスの棒を前歯で折って捨てた。
「多分それじゃね?俺、町の外のことは詳しくねぇけど、ウチの町内でも六人やられたよ。ありゃ神隠しだなー」
 さらりとそう返されて、草間はまずがくりと肩を落とす。
 ――ここ数日、夏休みに入って浮かれ気味の子供たちが連続して一夜のうちに行方知れずになるという事件が多発していた。草間はその子供たちの捜索を、珍しくも真っ当な依頼として、子供の一人の親から請け負っていたのだが――どうあがいてもこの興信所は、怪奇現象から逃げられないのか。
 とはいえ、ここまでろくな手がかりもなかった一連の事件に、ひとつの手がかりが加わったのは確かだ。
 目の前のこの少年は、「かみさま」と呼ばれる存在とコミュニケーションをとれるという特異な能力がある。その彼が「これは神隠しだ」と断言するのならば、恐らくそうなのだろう。肩を落としていた草間は嫌々、といった風に藤へ投げやりに問いかけた。
「神隠しって、確かなのか」
「うん。ヒメちゃん…ウチの神様がそう言ってた。どっかの、忘れ去られた神様が祟ってんじゃねぇかって。でもさ、なんか…妙っていうか面倒くさいっていうかさ」
「面倒くさい、ってのはまず俺に言わせてくれ。何だ?」
「…草間さん、妖精って信じる子だった?」
 唐突な問いかけの意図をとらえかね、草間が黙り込むと、藤は陰鬱そうな――常が子供っぽい彼としては珍しいことだが――顔をして、ソファの上で膝をかかえた。
「……子供がね、言うんだ。『神様は居るよ』って答えたら、『向こう側』に連れて行かれちゃうんだって。だからウチの界隈の子たちが、口を揃えて『神様なんか居ないよ』って言うようになっちゃった」
「――行方不明の子たちの夢の噂、か?」
「うんそれ。さすがー。調査してたんじゃん」
 与太話であればいいと思っていたが、と草間は内心で呻きつつ、気のない賞賛を受け止めた。

 消えた子供たちに何か共通点がないか、と探していた頃、子供たちの何人かが口にしていた噂話があった。それは、よくある怪談話の形式をとっていて、「一度聴いたら誰かに話さないと、夢にウカノサマが出て来るんだよ」というものだった。だからおじさんも、誰かにお話しないとだめなんだよ、と真剣な顔で言われたのを覚えている。(とりあえず「おじさんじゃなくてお兄さんだ」と訂正するのは忘れなかった)
 内容としてはこんな感じだ。夢の中で深い山道を歩いている。行けども行けども真っ暗な山道で、段々心細くなってくる頃、突然足を掴まれる。足元を見ると、女が一人、地面に寝そべって子どもの足を掴んでいる。その顔には口がなく、腕も細くて骸骨のよう。そして何より、腰から下が獣の形をしている。
「かみさまはいる?」
 その異形は、ないはずの口でそんなことを言う。「いないよ」と答えると、異形は消え夢は終わる。しかし、「いるよ」と答えると――


「…『神様が居る』と答えた子達は『向こう側へ連れていかれて消えてしまう』んだったな、確か」
「うん。ちなみに草間さんは夢見なかったでしょ」
「ああ、だから…与太話だと思ってたんだが」
「残念、その夢は7歳以下限定なんだよ。行方不明の子も7歳以下だよね、全員」
 彼は言ってから、悲しそうに膝に額を乗せた。それこそ本当に子供じみた所作で。
「――困るんだよな。7歳以下の子に『神様が居ない』なんて、まるきり妖精殺しの呪文じゃねぇか」
 彼の言葉の真意は知れなかった。ただ、顔を上げた時には少年はにやりと笑っていた。
「で、どする?子供の行き先探し、手伝ってくれるよね?」


***


 夏休みだというのに図書館は案外、人の入りが少なかった。お盆近いことと、平日の昼間であることが影響したのかもしれない。近隣の本好きらしい老人が二、三人、それに宿題を黙々とこなす学生が見受けられる程度である。
 ましてそれが、郷土史や古い地図などの資料の収められた書架であれば、尚のこと、人の気配は全く感じられない。
 そこに居るのは色眼鏡を外して息をつく青年が一人だけだ。本を守るためにほとんど日差しの入らぬ薄い暗がりであっても、線の細い整った美貌ははっきりと見て取れるだろう。そして見ているものが少し観察すれば、その美貌の主が、よくよくテレビを賑わせている顔であることも知れたかもしれない。
 だが幸いにして、図書館に居る人々は自分の手にした本に夢中で、通りすがる彼の顔になど誰も注目しなかった。
(人目がないのはありがたいな。集中できる)
 胸を撫で下ろしつつ、彼――世間的にはアイドルとしてその名を馳せる青年、夜神潤は書棚に目を走らせた。目的のものを数冊手にとり、近くの椅子に腰を下ろす。
(かみさま、か…)
 ページを繰りながら彼が思い出したのは、オフの日に時折顔を出す馴染みの興信所で聞いた話であった。
 最近、子供の失踪が相次いでいることは彼も耳にしていたのだが、どうやら興信所の主はその裏に「神隠し」が絡んでいる――という情報を得たらしい。確かに、言われてみればこれだけの広範囲で突然子供が消える、などという不自然極まりない事件である。なにがしかの怪奇が絡んでいるだろうことは想像が出来たが、それにしても、事件の犯人が「かみさま」だとは。
(この国はやたらと神が多いからな。少しくらい忘れ去られた神が居ても、まぁおかしくはないが)
 実際に、信仰を失って弱体化している神も居れば、瀕死の神を信仰で支える神社の息子も居る訳で。
(しかし、この国では、神さえ死ぬ、…か)
 僅かに苦笑めいた気持でそんなことを思っていた夜神の手が、ページのひとつでぴたりと止まる。目的の一項だった。確認したかったことを確認すると、彼は本を閉じ立ち上がる。他にも何冊か棚から抜き取って、郷土史や古い地図に目を通して頭に叩き込むと、夜神は来た時と同じように誰の目にも留まらずに、図書館を後にした。
 外へ出る前に、色眼鏡をかけ直す。夏の日差しも相当に強いが、有名人の彼の場合は世間の視線も同じくらいに強い。
 白い肌を刺すような日差しに目を細めながら、図書館で確認した情報を反芻する。
(やはり、例の神様とやら、『ウカノさま』というのは、ウカノミタマのことで間違いないだろう)
 宇迦之御魂。ウケモチノカミ、オオゲツヒメなどと並んで五穀豊穣の神として記紀に名を載せている神である。だが一般的にはこう呼んだ方が馴染みが深いだろう。夜神はその名前を小さく口に乗せた。
「つまり、稲荷神社…だな」
 ――ウカノミタマは、「稲荷神社」に祀られている神なのである。
 確か、東京にはかなり大きな由緒正しき稲荷神社があったはずだ。件の「神隠しの主犯」がもしもウカノミタマに連なる神なのであれば、そこで情報を得られる可能性はある。
 そこまで考えたところで、夜神は足を止めた。陽炎で揺らめく景色の中に、涼しげな緑と白の旗を目にとめたのだった。
 さて、と彼は考える。仮にも相手はカミサマである。礼を失するのは彼としても避けたいところ。
(…手土産くらいは持っていくべきだろうな、矢張り)
 風のない夏の午後、日差しの下で項垂れる旗には「稲荷ずし」の文字が見て取れた。 
 

***
 凧市が開かれることでも全国的に有名な、都内随一の稲荷神社も、さすがに夏の昼日中となると参拝者も疎らであった。夏の日差しと降り注ぐ蝉の声、木蔭を通る風もじっとりと湿って重たい。
 稲荷神社の特徴のひとつである、「狛狐」――狛犬の狐版のそれは、その日差しと熱気の下、微動だにせず参拝者を見守っている。
 かつて、この神社には、大晦日になると江戸中の狐が集まったと言われている。江戸が東京に変わり、野生のキツネが姿を消した現在でさえ、地域の人々に愛され大切にされている場所だ。小奇麗で、稲荷神社らしく朱塗りの鮮やかな本殿を眺め、夜神は次いで本殿の屋根の上へ視線を向けた。
 ――暑い日差しの下でそうやって屋根を仰ぐ青年の姿は、青年本人の知名度はさて置いても目立つものである。まして、唯人であれば、彼が屋根の上に何を見ているかなどと知れようはずもなく。
(声をかけていいものかな、これは)
 軽く眉根を寄せ――日差しが眩しかった、というのも一因ではあったが――夜神はわずかに躊躇した。
 彼の視線の先では、境内を守っていた一対の狛狐とそっくりの白狐が二匹、興味深そうに彼を見下ろしている。少なくとも、夜神にはそれが見えた。この神社の祭神の遣いか、はたまた祀られている当事者達か、いずれにしても「神」と称される存在であろう。一風変わった参拝者の気配を察しているのか、警戒するように二匹は無言でただ彼を見下ろしている。
 やはりこちらから声をかけるべきか。そう判断して息を吸い込んだ夜神だったが、言葉は発されることはなかった。
「夜神くんよね?」
 境内に、人の気配がしたのだ。振り返ってみれば知らぬ相手ではない。すらりとした長身と切れ長の瞳が日差しの下でも涼しげなその人物は、草間興信所でよく見かける、興信所の事務担当、所長の相棒のような立場の女性である。
「シュライン?どうしてこんな所に」
「それはこちらの台詞。…どうしたの、稲荷ずしなんて持って」
 まさか神頼み?と尋ねるシュラインは口元に思わず、といった風な笑みを浮かべている。青年と稲荷ずし、という取り合わせが不似合いだと――さすがに口に出すと失礼な気もしたが、そう思ってしまったのだった。
「ここの神様とやらに話を聞きたくてな。手土産くらいは持ってくるのが道理だと思ったんだが…何か変か?」
「いいえ、…言われてみると確かにお供えくらいは必要だったかしら」
 冗談めいた調子で言ってから、彼女はぐるりと境内を見渡した。参拝者と思しき人影は彼らのほかにはなく、寄贈された狛狐がいくつかでんと構え、旗が幾つも並んでいるのが見えるばかりである。何を探しているのだろうか、少し気に掛ったが、それよりも彼女の訪問の目的の方が引っかかったので、夜神は屋根の上を気にしながらもシュラインに問いかけた。
「もしかして、『ウカノサマ』のことを尋ねに来たんじゃないのか、シュライン」
 その単語に、境内を見渡していたシュラインの視線が夜神へ戻る。一度だけその青い瞳を軽く瞠ったものの、すぐに思い至ったのだろう。
「そう、夜神くんも調べてたのね。武彦さんに頼まれでもした?」
「頼まれたと言うか、俺としても興味があったから、ついでだ。…成程、草間のところで受けた仕事だ、あんたが絡んでない方が珍しいな。…しかし…」
 汗で張り付いた、ひとつに纏めた黒髪を背中の方へ流しながら、シュラインは夜神の言わんとすることを察して苦笑して見せる。
「そうね。私は神様と交渉する方法なんか持ってないわ。だから、ここで通訳してくれる子と待ち合わせてた訳」
「通訳?」
「武彦さんのところで聞いてない?秋野くん、って、神社の子よ。神様と話が出来るらしいわ」
 そこまで彼女が言ったところで、夜神はふいと入口の方へ顔を向けた。近づいてくる人の気配を察したのだ。
「あ、ごめんシュラインさん。待った?って…誰?」
 果たして。現れたのは、一人の少年であった。高校生くらいだろう、特にどうということもない普通の少年に見える。通学用のものらしい鞄と、空いた片手にはビニール袋を携えていた。鞄から少しだけ、祓え串が顔を出しているのが何とも不似合いである。
 彼は怪訝そうな顔で夜神を無遠慮にじろじろと見て、うーん、と小さく唸った。
「どっかで会ったことある?」
 不躾な問いかけだが、どうやら彼が常日頃からテレビに映っている人物そのものであるとは気付いていないらしい。騒がれずに済んだことに内心少しばかり安堵しながら、夜神は首を振った。
「いや、初対面だ」
「そか?うーん、どっかで見たような気がするんだけど」
 一人事情を解しているシュラインが、苦笑しつつ間に入る。
「急に呼び出してごめんなさいね、秋野くん。遅かったけど、補習でもあったの?」
「んにゃ。なんか草間さんトコの協力者って人に呼び出されてた。セレスティさん、だったっけな」
「セレスティ…セレスティ・カーニンガム?」
 シュラインが知った名前に思わず口をさしはさむと、少年はうん、と頷いた。
「そうそう、そんな名前だった。夏の昼間に外出るのは辛いから、代わりに神社で話聞いてきてくれって」
「それはそうでしょうねぇ」
 古い付き合いのある友人のことを思い出してシュラインも腕を組む。強い日差しが身体に障る彼の体質を考えると、彼が草間の調査を手伝っているのが意外なような気もした。
(こんな暑い日に武彦さんのところに行くとも思えないし…。武彦さん、どうやって頼んだのかしら)
 だが、疑問については今考えるべきではない。シュラインはすぐに思考を切り替え、目の前の少年へ意識を戻した。
「秋野くん、彼は夜神くん。調査を手伝ってくれている人よ」
 夜神が軽く会釈すると、少年はにこりと人懐こい笑顔を浮かべてそれに答えた。それからあれ、と小さく呟いて忙しく辺りを見渡す。
「ねぇ、ところで何でセレスティさんもシュラインさんも、夜神さん?あんたも、みんな揃って稲荷神社を気にしてる訳?」
「…例の夢の噂、あるでしょう。ウカノサマの夢の話。あれをね、見た子供に話を聞いたの」
 それは夜神にも初耳の話だった。耳を傾ける二人の男に、シュラインは噛んで含めるように、
「夢に出てきた『ウカノさま』は、どういう姿だったのかってね。そうしたら、どうも…そうね、近いものを挙げるとしたら、キツネ…それもダキニ天とか、あとは玉女ね。そういった姿のような印象を受けたのよ」
「ダキニ天というと、白狐に乗った女神か。玉女、というのは…」
 しばし記憶を探るために沈黙した夜神にとって代って、藤が口を開く。
「知ってる知ってる。最近じゃ珍しいけどな、ダキニ天とか弁財天とか、色んな神様がごっちゃに混ざってる神様だろ。稲荷神社の神様で、福を招くって言われて一時はすげぇ信仰されてたけど…」
 そこまで言ってやっと得心が言ったのだろう、藤がああ、と小さく声をあげた。
「そうかー。それで稲荷神社か。『ウカノさま』も稲荷さんの親戚かもしれないって訳だ。…ここの稲荷さんは、関東一帯の元締めやってるしなぁ。情報聞くならここが一番手っ取り早いか」
 ぽん、と手を打って、彼はそれなら、と夜神も眺めていた屋根の上へと視線を移した。片手に持ったビニール袋をぶんぶん振って、
「おーい。いつもの奴持って来たぜ、ちょっとツラ貸せよー」
 ――まるで、近所の友人を酒飲みにでも誘い出そうかというほどに気楽な調子で声を張り上げる。夜神とシュラインは同時に顔を見合わせた。
「……軽いな」
「………軽いわね。そんなんでいいの?」
 後半の問いかけは藤に対してだが、藤は平然としたものだ。その彼の足元に、先程まで屋根の上に居た白狐の一匹がいつの間にやら出現していたことに気付いたのは夜神だけだったが。
 その白狐はフンと鼻を鳴らし、夜神の視線に気づいてそっぽを向いて見せる。
<勝手をぬかすでない、小僧が>
 不機嫌そうに放たれた一言――シュラインには聞こえなかったが――に、けれども動じた様子もなく藤はにへら、と気の抜けた笑みを浮かべた。
<しかも貴様、また卵焼きを買ってきおったな。我らをバカにしてるのか>
「してないよ、だってあそこの卵焼き、美味しいじゃん」
「…ねぇ、卵焼きってまさか、あの卵焼き…?」
 稲荷ずしの方がどれだけ手土産としてマシだろうか、とシュラインは天を仰いだ。もしかすると人選失敗したのかしら、そんなことまで脳裏をよぎる。そんな彼女にも構わず、更に続けて藤はいかにも無邪気そうな様子で付け加えた。
「あ、ぼた餅の方が良かった?」
 この一言で夜神もピンときて、そして呆れた。仮にも相手は関東一帯の稲荷神社の総元締め――それは藤自身も承知しているはずだ。だと言うのに、この悪ふざけ振り。礼を失するどころの話ではない。
(…天然でやってるのかと思ったが、確信犯かコイツは)
 だが狐はしばし沈黙してから、溜息らしきものを吐き出しただけだった。
<ったく、貴様という奴は…もういい、先に用件を言え。ただでさえ訳の分からぬのが境内に入り込んだんで、ウチの若い衆がピリピリしておると言うのに>
 もしかしてその「訳の分からぬ」ものというのは自分のことだろうか、と夜神は当たりをつけて、白狐に軽く頭を下げた。
「警戒させてしまったのならすまない。俺も、こちらの二人と同じで話を聞きに来ただけだ。何か仕出かそうなんて思っちゃいない」
 言いながら、手土産の稲荷ずしを差し出すと、白狐は――狐なだけに表情は分からないのだが――ふさふさの尻尾をゆらりと一度揺らし、ふぅむと唸り声をあげた。満更でもない様子である。
<そうか、なら構わぬさ。その旨そうな土産は裏の狐穴にでも供えて行ってくれ>
「あ、何それ旨そう」
「…供え物を食おうとするんじゃない」
 かみさまが見える、という能力を備えているはずのこの少年に、神を敬う気持ちはあまり無いものらしい。


 表は暑かろう、という狐――神の遣いなのか、はたまた神社の神様とやらなのかは分からないが、とにかく白狐の案内で、三人は本宮の裏、狐穴跡などと称される場所へ移動した。昼間だと言うのにこの辺りは影が濃く薄暗い。その分、日差しが遮られ、いくらか過ごしやすいようだった。
「で、何が訊きてぇの?」
 何でもどうぞ、と答えた藤はちゃっかり卵焼きを頬張っている。「一個食べる?」と差し出されたがシュラインは丁重にお断りしておいた。
「そうね。まず、『ウカノさま』…子供達を攫っている神様について、何かご存知かどうか」
<知っておるともよ>
 白狐は即答し、藤とシュラインと夜神とを順繰りに見やった。
<あれはもう滅びを待つばかりの、弱きモノじゃ。信仰を失った時点で神ですら無い。――しかもあの『噂』じゃ、放っておいても何れ自滅するじゃろうて>
 そう伝えると、シュラインは腕組みをしたまま、思案げに呟いた。
「…その場合、行方知れずの子供達はどうなるかしら」
<一緒に消えるじゃろうな。彼岸の向こうへ道連れにでもする積りじゃろ>
 あっさりした返答にまず夜神が眉根を寄せ、藤の通訳にシュラインも同じように困惑を露わにした。口を開いたのは夜神の方である。
「それでは困る。行方不明の子供を見つけてほしい、というのがこちらの依頼だ」
 次いで卵焼きを飲み込んで、藤。
「そうだな。それに、妙な噂をまき散らされたままっつーのも迷惑だよ…あ、そういえば」
 彼はそこまで言ってはたと思いだしたように白狐へ目を向けた。
「爺ちゃんトコは、被害出てない?」
(…被害?)
<ちらほらとな。だが騒ぐほどの被害でもない>
 なら良かった、と、藤は肩をすくめてシュラインへ向き直った。
「何か他に尋ねておくこと、あるか?」
「そうね、『ウカノサマ』の居場所を…」
 地図を開いて詳細な場所を尋ねると、白狐は無造作に尻尾を振った。瞬くほどの間もなく、地図の上には印がつけられている。夜神がそれを覗き込み、頷いた。
「…ここか」
 白狐はその反応を確認するより早く、もう人間達には興味を失ったようだった。長く太い尻尾をくねらせ、背を向けている。言うべきことは全て言った、という風情だったので、夜神も特に引きとめはしなかった。卵焼きの最後のひとかけを口に放り込んだ藤も引きとめる様子はなく、地図を覗き込んでいる。
「シュラインさん、爺ちゃん消えちゃったよ。他に訊きたいことがあった?」
「あら、もう少し色々尋ねてみたかったんだけど」
 シュラインは口元に手をあてて少しばかり不満そうにしていたが、すぐに気を取り直して地図の印をじっと確認した。ふぅと細い息を吐いて、それを畳む。
 慣れた所作でそれをファイルに挟みながら、彼女は夜神に視線をやった。
「夜神くんはこれから、どうする?」
 問われた青年は胸ポケットにあった色眼鏡をかけ直している。
「そうだな…シュライン、すまないが、居なくなった子供に関するものを持っていないか?写真か…なければ住所だけでも構わない」
 彼の奇妙な申し出に、シュラインは疑問を差し挟んだりはしなかった。きびきびとファイルを開き、一枚の写真を取り出している。
「これでいいかしら。――あ、後で返して頂戴ね」
 勿論、と夜神が頷いたのに微笑み返して、シュラインは踵を返す。
「シュラインは、どうするんだ?」
「そうね。現地で訊き込みと、それから周辺の調査をしようと思ってるわ」
 ファイルを鞄に仕舞い込みながらそう告げたシュラインはふと顔をあげた。ひと仕事終えた、と言わんばかりに伸びをしている呑気な高校生がそこに居る。彼はシュラインの視線に気づいて、首を傾げた。
「ん?俺、これからセレスティさんに経過報告しないといけないんだけど。何かまだ用事?」
 言葉だけなら面倒そうに聞こえるが、不思議とにこにこ笑う少年の顔はそれを嫌がっている訳ではなさそうだ。
「…そういえば、あなたにも訊きたいことがあったんだった。『妖精殺し』って、武彦さんにそう言ったのよね。あれ、どういう意味?」
 しかし、その笑みはシュラインの言葉にすぐさま引っ込んでしまった。幼い子供がそうするように口を尖らせて、藤は呟く。
「ティンクが言ってただろ。『妖精なんか居ない』って子供が言うたんびに、どっかで一人、妖精が消えるんだって」
 童話と馴染みが薄いのか、夜神が僅かに訝しげな顔をする横で、シュラインは即座に言葉を返した。確かそんな一節を、何かの絵本で読んだ気がする――
「…ああ、ピーター・パンね」
「あれと同じだよ。…七つ以下の子供は、神様の側の生き物だから、言葉にだってそれくらいの力が宿っちまうんだ」
 彼はそれだけしか言わず、それきり、急ぎ足で境内を出て行ってしまったので、シュラインもそれ以上何かを問うことはできなかった。余程触れたくない話題なのだろうか。
 その隣で、夜神が考え深げに眼を細めていた。
「何と言うか…、気味の悪い符丁だな」
「…妖精殺し、という言葉が?」
「異教の神が最早敬われず供物も捧げられず、小さくなったのが妖精だ――なんて言葉を思い出してな」
「それは確かアイルランドの伝説ね。…全く、どうして二人して私の知識を図るような言い方をするのかしら。もっと親切に教えてくれてもバチは当たらないわよ」
 溜息交じりにシュラインは額に手をあてた。それでも冗談では済まされない響きを感じ取ったか、青い瞳は驚くほど真剣だ。
 ――敬われなくなった、信仰を失った神は小さくなって、妖精になった。その妖精は、子供の言葉によって否定されると、死ぬと言う。
 そしてあの噂。夢の中に現れた「ウカノさま」を、「かみさま」を否定しなければ、子供達は浚われる。ゆえに、子供達は口々に言う――「かみさまなんか、居ない」と。
 だから、秋野藤は動いたのだろう。町内の子供達がそんなことをこぞって口にすれば、彼の祀っている神々にも影響しかねないから。そしてそれは、彼の住む町に限らない。噂は東京全体に広まりつつある。
(ああ、成程――本当に)
「厭な符丁ね」
 彼女は呟くように言って、かつて祀られた狐の住んでいた場所を眺めた。稲荷ずしと、食べ残しの卵焼きが並んで供えられている。供物は腐りはしないのだろうかと不穏な想像が頭を掠めたが、彼女は何も口にはしなかった。
 少なくともこの場には信仰が宿っている。ならば供物は腐っても意味はあるのだ。


**

 夢の中は、深い闇が延々と続いている。
 視界に入る全てを乱暴に塗り潰さずには居られぬ、そういう衝動のようなものさえ感じる、暴力的な闇であった。そこが夜なのか昼なのか、一体自分が何を見ているのか何をしているのか、自分自身の輪郭さえあやふやにするような闇だった。
 だから真帆は、自分が一体どういう感覚でその夢の世界を見ているのかを上手く説明はできない。できないが、「夢の残滓」を渡った真帆が見て、感じているのは、恐らく過去に浚われた子供の一人が見ていた夢に違いなかった。
 ともかくも、時折どこからともなく吹いてくる生暖かい湿った風が、葉ずれの音と、それからむっとするほどの草木の匂いをさせているのと、足元で土の感触がするので、山の中かどこかなのだろうと薄ら見当だけがつく。
 歩けども続く闇にぶるりと身震いして、闇の中を歩く小さな人影は己の身体を抱くようにする。そうして足を止めた拍子にずるり、と、背中の方で音がした。重たいものを。引きずる音。不吉を連想させずには居られぬ。そういう類の。闇と、同じような気配をさせた。
 見えぬことを承知で振り返った彼(または彼女)の瞳に、不意に――本当に前触れもなく不意に光が届き、背後の重たい音の主が薄闇にぬっと現れる。
 白い獣毛に覆われた半身と、女の細い手と、土の上を引きずる黒髪が彼女の眼に映った全てだった。獣なのか人なのかも判然とせぬ輪郭の持ち主が、彼女を黒髪越しに見上げる。表情は髪に覆われ見えないが、ただ女が口を開いたのだけを感じた。
 真っ赤な口は獣のように開き。
 人のように言葉を紡いだ。
「――――」

 真帆は耳を澄ましたが、歯噛みするような気分で胸中で呟いた。
(駄目だわ、聞こえない…)
 だが事前に聞いていた話の通りならば、あの気配はこう問うたのではあるまいか。
 ―――かみさまはいる?
 と。そして、――あれが浚われてしまった、消えた子供ならこう答えてしまったのだろう。

「いるよ」
 
 夢の世界の闇に光が差したのはこの時だけだ。その光も月や星の優しいものではなかった。もっと汚らしく地上から曇天の雲を赤黒く反射するような、あの、街の明かりによく似ていたような気がする。言葉に人影が何かを応じると明かりは落ちて、再びあの闇が続く。
 事態を見守っていた真帆は小さく息を呑んだ。小さな人影がふらりと一歩を踏み出した、と思った途端に闇に飲まれるようにしてかき消えたからだ。闇の中には、獣染みた気配だけがひとつ呼吸している。
 その気配へと真帆が意識を向けた、その瞬間だった。その気配の主がぐぐっと顔をもたげた――そんな様子があった。気付かれた、と、真帆が身構えたと同時、先はあれほど聞こえなかったその気配の、その声が耳にざらざらと耳障りに響き渡った。
「出して。出して。ここから出して、出して出して!出して!!」
「え…?」
「出せェ!!」
 男とも女とも、否、人か獣かすら定かでないざらつく不愉快な声がごう、と叫び、真帆の身体がびりびりと震えを感じ取る。空気がというより闇そのものが震えている。真帆は顔をあげ、声を張り上げた。
「どこに居るの?どこから出して欲しいの?…ねぇ、教えて!」
 だが答えはない。ただ吠えるのをやめた気配が遠ざかるのを感じ、慌てて真帆はそのあとを追った。

 **

 闇に慣れた目には唐突に訪れた日差しは少し強すぎた。驚いて目を閉じた真帆は、肌に触れる空気が先程までと違うことを察しそっと薄眼をあける。
 背後には緑深い山が、目の前には民家と小さな田圃があった。だがそれと、ぽつりぽつりと並んだ民家以外は更地になっている。重機や、家の土台が出来ている場所もあった。これからここは開けた住宅地にでも変わっていくのだろうか。
 ――あの田圃はどうなるのだろう。
 ――もうお歳ですもの、息子さん達は土地を売った方がいいって…
 ――旦那さんもお亡くなりになったのだもの、それがいい…
 耳に何か、ノイズのように人の言葉が響いて、真帆は自分がどこに居るのか気がついた。一瞬、自分が元の場所で目覚めたのかとも思ったが、違う。
 小さな小さな神社の社に、彼女は座っていた。
 その社の、誰も手入れする人のなくなって朽ちるがままになった社に、一人の幼い子供が手を合わせている。ささやかだが身の回りの物を詰めた荷物を地面に置いて、じっと、社を拝んでいた。
「うかのさま、私ね、街へ行くんだって。お祖父ちゃんが天国にいって、お祖母ちゃん一人じゃ、もう、お米を作れないから、街へ行くの…叔父さんのお家へ行くんだって」
 手を合わせていた少女が顔をあげて、そんなことを言う。幼い顔だちが淋しそうに、首を少し傾いだ。
「このおやしろも、山も、全部、新しいおうちを建てるんだって…うかのさま、一人で大丈夫…?」
 真帆は不意に胸に痛みのようなものを覚えて思わず顔をあげた。今にも落ちてきそうなぼろぼろの屋根の上を見上げた。そこにはどんな影も見えなかったが、胸に差し込んだ痛みはおよそ、この夢の主のものであるに違いなく、だとすれば。
 ――お前は忘れてしまうのでしょうね、娘。
 呟くような囁くような。空気を震わせることなく脳裏に閃いた言葉も多分、きっと、そうなのだろう。この社の主の、神だった頃の「ウカノさま」の声なのだろう。酷く淋しそうな、諦めも含んだ声色だった。
 ――きっとお前は私を忘れるだろう。そうして私を知る者は、消えていく。
 ――そうしたら私は…死んでしまう。
 淋しげな声に知らず真帆がぎゅ、と拳を握って聞き入ったその時だった。彼女は唐突に、ぐい、と乱暴に肩を掴まれる。痛みに顔をしかめた真帆が抗議しようとして顔をあげると、そこは再び、闇の中へ戻っていた。
 闇の中で何かが、真帆を地面に押し付けている。肩にぐいと爪が喰い込むような痛みを覚え、間近に獣の臭いのする吐息を感じて真帆は身震いした。
「あ、あなたは…!」
「誰も彼もが我らを忘れる、殺す!場所を奪って!私を殺す…!」
 先の淋しそうな声と全く同じ物のはずの声にはもう淋しさはなく、そこにあるのは怒りだけだ。何故、という悲鳴のような怒りと、それから、最早、どこへ向けたものとも知れぬ憎悪。
「何故だ。我らが何をした!消えたくない!消えたくない、帰りたい、消えたくない…私ひとりで消えるものか…!」
「だ、だからってっ!子供を浚っちゃ駄目じゃない!」
 咄嗟に、本当に咄嗟に真帆の口からはそんな言葉が飛び出している。だがそれを聞いた「それ」は、かかかか、と真帆を抑えつけたままで笑いだした。獣のような口が裂けるように開いて、真帆の眼前に鋭い歯が並んでいるのが見える。
「――何も知らぬ人間風情がよく言う…あの子らは元より我ら神のモノだ、返すものか!私はまだ消えぬ、消えるならば誰も彼も…一緒に…消えてしまえ!」
 そうして獣は哄笑し、そしてふつり、とそれを途切れさせた。真帆を覗き込み――黒髪に遮られて瞳は見えぬが、見られている、と真帆は感じた――にぃと音もなく笑む。
「…貴様も消えてしまえばいい」
 全身が粟立つような。毛が逆立つような悪寒を押し込めようと真帆が足掻く。が、彼女が抵抗を行動に移すより早く、彼女に圧し掛かっていた影は、闇のなかにあってなお黒い影によって吹き飛ばされていた。
 鳥だ。橙の瞳を瞠って、まっさきに真帆が思ったのはそれである。立ち上がりながら彼女は、近づいてくる誰かの気配を察して動いた。まずは明かりを、と、手を述べた先に橙のランプが現れる。
 彼女の夢を具現化する、いわば幻の明かりは、夢の生み出した暗闇を優しく溶かして払っていた。その明りに照らし出されたのは、影のような黒い人影である。長身の青年が真帆をじっと見下ろしていた。顔立ちは端正なのだが、真帆を見る黒い眼にはどこか不審そうな、怪訝そうな色がある。
「浚われた子供にも見えないが、祟りを起こす元神様とやらにも見えないな。…誰だ?」
「えーと…あれ、そういえば、あなた、誰?」
 そうして口を開いたのは二人同時であった。真帆の方でもそんな反応を返してしまったのは、目の前の人物が、現実味を欠いて見えたせいである。
 一言で言えば綺麗過ぎた。夢の世界の住人と言われた方が納得できるくらいに。
「俺は夜神。…ここは例の、『ウカノさま』とやらの仕掛けた、夢の中だろう?…まさかと思うが君も浚われたクチじゃないだろうな。小さいし」
「ち、違いますっ、私これでも17歳です!」
「ああ、そうなのか」
 いっそ呑気なほどの調子でそんなことを言う夜神に、真帆は手早く自己紹介を済ませる。二人共に草間の知人であったのは幸いだった――あの男の知り合いだ、と言えば、それだけである程度は事足りる。
「つまり、お互い同じお仕事を手伝ってたんですね」
「…まぁ、そうなるか」
 だが互いに情報の刷り合わせをしようとしたところへ、再び、あの獣染みた声が響いたもので、真帆は思わず身を竦めた。鼓膜がびりびりと震えるような、ここは夢の世だからそれも錯覚なのだろうが、とにもかくも気弱な人間なら心臓が止まりそうな声。
「出せ…ッ!ここからァ、出せぇ!」
 夜神の反応は――彼女のそれよりはいささか淡泊である。元より、多少のことで動じるたちでもない。
「―――あれが、そうか」
 彼の視線には憐みも無かった。ただ僅かに、羨望に似た感情があっただけだ。
 ランプの明かりの届かぬ外、影の中から獣の姿が立ちあがる。無数の、狐だった。それが伸び縮みしながら二人に迫ってくる。
 咄嗟に使い魔を呼ぼうとした真帆を抑え、青年は無言で手を振った。それに応じるように、深い影で何かが羽ばたき、奔る。
 ――それだけだった。それだけで、辺りの闇が悲鳴をあげて弾け消えた。
「退け、かつて神であった何者かよ。…いずれ死ぬ身だろう。何故に足掻く?」
「――足掻きなどしておらぬよ。くひひひひひ!私はただ憎いだけだ。私を閉じ込めて。奪って。忘れて。私だけが。私だけが…何でこんな場所で消える…!お前達もだ、お前達も皆…っ!」
「だからって、どうして子供ばっかり浚うの!」
 祟りを成すと言うならば、あの田園風景――真帆が見た、恐らく過去の映像だろうあの場所――を破壊していた、あの工事現場やその関係者に向けられるものなのではあるまいか。もちろん、そもそも人を祟ったりしないでほしいところだが、それにしたってあまりにも理不尽だ。無関係な子供をどうして奪っていくのか。
 真帆の問いに、高笑いが答えた。ランプで照らされた闇は濁って、もうどこから声が聞こえるのかさえ判然としない。
「あれは彼岸の、神の側の生き物だからさ。その言葉に、力が宿るからさ」
 声は笑っている。だがその裏にはどんな感情も無い。
 ただ虚ろに笑っている。
 そこで、夢は途切れた。


***


 シュラインと夜神が神社へ向かった、その翌日。一行はそろって地図にあった土地を訪れていた。
 東京都内と言っても、かなりの奥地の方である。ある程度予想はしていたが、電車とバスを乗り継いでようやく現地に到着したシュラインが見たのは小さな集落、と言うよりも「元集落」だった。
 彼女が到着したのは――朝出発したにも関わらず――既に昼下がりだったのだが、夏の日差しの下には更地が広がっていたのだ。点々と、空き地と民家が残っている場所もあったが、ほとんどの土地が重機によってまっ平らに均され、工事予定の看板が立っている。
 ――近くこの辺りに新しい路線が出来るとか言う話を、事前に調査していたシュラインは知っていた。この辺りを都心で働く人々のベッドタウンとして再開発しようということなのかもしれない。
 眉根を寄せてシュラインは呻いた。
「神社も無くなってるんじゃないかしら、これじゃあ」
 地元の図書館で参考にした資料には、かろうじてここに稲荷神社があったことが記されていた。それ以上の記述は何一つない。どんな信仰があったのか、どんな習俗があったのか。
 シュラインが懸念していたのは、明治期の神社の一大再編成で、辺り一帯の信仰が緩やかに消えて行ったのではないか――という点だ。
 子供達が「夢で見た」と証言している「ウカノさま」の姿は、既に指摘されている通り、「玉女信仰」と呼ばれるものと合致する部分が多い。この「玉女信仰」、いわゆる神仏習合と呼ばれるもので、仏教と神道がごちゃ混ぜになったものなのだ。こうしたものは当時、廃仏毀釈の対象になりやすかった。加えて、この開発の波。
 恐らく、こうして更地にされるまでは、この辺りはちょっとした山間の集落だったのに違いない。だが、地肌をむきだしにされ、すっかり見晴らしの良くなった山の様子に、自然豊かだった頃の面影を見出すのは難しかった。シュラインのそんな感想に、呟いたのは彼女に同行してきたもう一人の助っ人である。優しげな風貌の少女、真帆は、理知的なシュラインと対照的に柔らかな優しげな瞳を伏せている。
「確かにここです。夢であの『ウカノさま』を追いかけ時に、見た光景」
 彼女は淋しげにひとつ付け加えた。
「…元は森や田んぼが沢山あったんでしょうね」
 彼女は夢を渡る力を持つ魔女である。シュライン達とは別ルートで、夢を手繰ってこの一件の調査をしていたらしい。
 更にもう一人、そんな彼女と夢の中で鉢合わせたのが夜神だった。この青年の方は、彼女ほどには感傷的になれなかったらしく、淡々と辺りを見渡してシュラインと、シュラインが手を貸していた人物に向けてぽつりとこぼした。
「確かに、『視た』光景と大体同じだ。この辺りで間違いないんだろう。…だがこれだけ更地になっていると、目印も何もあったものじゃないな」
「となると、残る頼りは地域の方の証言と、元神様の残した気配だけ、ということになりますね」
 四人目は、杖を持った青年だった。夜神もそうだが、こちらも端正な顔立ちに、どこか儚げな印象があるのは彼が杖に頼って歩いていたせいだろうか。その彼がふと、空き地の一つへ視線を移したので、自然他の面子も倣ってそちらを見ることになる。
 更地の中に一か所、まだ整地もされていないのだろう。雑草が伸び放題に伸びている場所があった。恐らく元々田圃だったに違いないと青年、セレスティがそう思ったのは、用水路だったらしき跡が残っているのを見たためだ。僅かに水の気配を遺しているその場所に、夜神がすぅと目を細めた。
「あれは…もしかすると、あの場所が?」
「でも、神社じゃないですね」
 真帆は、どこか落ち着かない様子だ。
「どうしたの?」
「…いえ。あの場所、妙な力というか、気配のようなものがあるので」
 セレスティの言葉にシュラインはそう、と頷いて思案するように腕を組んだ。彼女の中に引っかかっていた、幾つかの言葉が浮かんでくる。
「……真帆さん、確か、『ウカノさま』は、こう言ってたのよね。『ここから出せ』って」
「え?あ、はい。言ってました。出せって、帰してくれって…」
 言いながら夢の内容を思い出した真帆は、暑気にも関わらず鳥肌立った腕を抱え込んだ。あの暗闇は、今思い出してもいい心地はしない。だが、確かに目の前のあの空き地からは、僅かながらあの時の、夢で接した獣染みた気配が漂っている。
 一度夢で接していなければ、真帆は見過ごしていたかもしれないくらいの、本当に幽かな気配。
「…サノボリ…」
 シュラインはそう呟いて、今度はセレスティを見遣る。意図を察して、セレスティが頷いた。この近隣の風習について、彼はシュライン達に先んじて調査を済ませていたのだ。
「この近くの地域には、最近まで確かにサノボリの風習が残っていたようです。最近、といっても、二十年ほど前から水田が無くなってしまい、今では忘れ去られていますが…それがどうかしたのですか」
「あの、さのぼり、って何ですか?」
 真帆の問いかけに、シュラインが腕組みしたまま応じる。
「水田を守る神様、田の神はね、元々山の神と同じものだと、信じられていたの。山の神が里に――田んぼに降りて、田の神になる。田植えが終わると、作業を見守ってくれた田の神に感謝して、山へ送り返す。――その送り返しの儀式が、サノボリ」
 もしかすると、とシュラインは空き地をみやる。

「…出せ、帰せ、という言葉は…サノボリが行われず、しかも帰るべき山を壊されて、『ウカノさま』は元々水田だった場所から出られなくなってしまったのかもしれない」
 
 

 幸い、辺りに人目はない。雑草だらけの空き地に足を踏み入れるなり、全身に鳥肌が立って真帆は思わず立ち竦んだ。自分同様にあの夢を見ていた(らしい)夜神は何か感じないのだろうかと思ってちらと横目に見たが、この青年は相変わらず平然としたまま、足元の草を見て訝しげな顔をしていた。
「…これは、何だ?」
「おや。つくしですね。…こっちにはアザミが咲いている」
「え?」
 真帆もつられて足元を見、そしてぎょっとした。夏の野草であるエノコログサや小ぶりのヒマワリはまだいい。だが、それらに紛れて、確かにつくしやタンポポ、スミレといった春の草、ヒガンバナのような秋のものが見える。探せば冬の野草も混じっているかもしれない。
「神の力が凝って、植物の季節が狂っている…ということでしょうか」
「瀕死であっても神は神、ということだな」
 夜神が空き地の一点で足をとめ、辺りをぐるりと見渡す。
「…ここらが一番気配が強いようだ。結界…?のようなものがつくられている」
 彼の言葉に、セレスティが頷いて付け加えた。
「これが神隠しの所業なら、『マヨヒガ』と呼ぶべきでしょうかね。まぁ、どちらにしても、」
 青年の手には、小さなボトルがあった。何かを呼ぼうとした夜神を抑え、栓を抜く。中身はただの水だが、水を繰る彼にとってはただの純粋な水こそ、最も頼れる道具のひとつ。
「どうあれ、子供達はまず返して貰わなければ」
 地面に染みた水が、じゅっ、と、熱せられた鉄板に落とされた時のような音を放って弾ける。清められた水は、既に神ではなくなりつつある存在にとっては落とされた毒のようなもの。耳障りな音が響き、辺りの空気が歪んだ。
 咄嗟に目を閉じた真帆が次に目を開けた時には、そこは、同じ空き地でありながら、ひどく異質な場になってしまっている。人の気配がない。空が見えない――暗い。
「こ、これって、あの夢の中の…?」
 ――彼女が夢で見たのと同じ場所だ、という直感があった。と同時、彼女は自分の足元に倒れている人影に気づく。子どもがひとり、ふたり。動かぬ姿にぞっとして真帆が慌てて手をあてると、かろうじて弱い呼吸をしているのが分かったが、顔色も悪い。
「大丈夫?起きて、助けにきたよ…」
 真帆がそう声をかけて揺さぶろうとした、その手に向けて、何か黒い塊が襲いかかってきたので、慌てて彼女は手を引っ込めた。立ち上がり、辺りを見渡す。
 ――彼女の周りをぐるりと、黒い影は取り囲んでいた。
 狐だ、と、ただ直感でだけ真帆はそう思った。影は狐の姿をしている。最も、狐にあんな鋭い爪や牙があるのかどうかは知らないが。
「渡すものか…」
 低い唸るような。人のものでなく、獣のような。
 夢で聞いた声に、今度こそぞっとして真帆は立ちすくむ。
 その真帆の肩に、誰かがとん、と手を置いた。驚いて振り返ると、セレスティがにっこりと微笑んでいる。彼は無言で、水の入った瓶を振るった。振り撒かれた水に悲鳴をあげて、影達が飛び退く。
「さ、今のうちに。子供達を連れて行きましょう」
 その傍で、飛びかかってきた影を自らの力で弾き飛ばし、夜神が頷く。
「こいつは放っておいても自滅するが、そうなると子供達に危険が及ぶからな」
 セレスティは藤を経由して、夜神は直に、他の神様からそう情報を得ている。「放っておいてもいずれ自滅する」と。だが、その時、浚われた子供達は消えてしまうだろう、とも。
 その言葉に真帆は立ち上がった。いくらなんでもこんな恐ろしい夢を見せられた挙句に、消えてしまうのは酷過ぎる。竦んでいた足に気合いを入れて、彼女は一度目を閉じ、強く自分の夢を想った。
 夢幻を現実へ描き込む。――真帆の力が描いたのは、二頭立ての馬車と力のありそうな御者である。
「居なくなった子は全部で何人でしたっけ」
「二十三人」
「分かりました、全員回収します!だから、そっちの影の方、しばらく抑えててください!」
 無茶はしないでくださいねと言い置いて、真帆が去る。追い縋ろうとした影は再び弾き飛ばされ、悲鳴と唸り声を上げた。
「任せるしかなさそうですねぇ」
 苦笑したのはセレスティだった。足の弱い彼が子供達を運ぶのはいくらか無理がある。
「確かに。ここを抑えられるのは俺達だけのようだしな」
 夜神は軽く溜息をついた。




***



「それで――」
 草間興信所は、相変わらず暑い。クーラーのストライキは結局まだ続いているらしい。零の出してくれた冷たい麦茶にほっと一息つきながら、集まった面々はそっと顔を見合わせあい、それぞれ苦い表情を浮かべた。
「…子供達はどうにか連れ出せたよ」
 真帆がまずそう切り出し、シュラインが繋ぐ。
「もしもの為にと思って病院を手配しておいて正解だったわね、夜神くん。脱水症状を起こしている子も少なくなかったから」
「そうだな。とはいえ…」
「いや、待て、お前ら。俺が訊きたいことはそこじゃない」
 分かってますよ、と涼しい顔でセレスティが草間を遮った。
「…助け出せた子供は二十二人でした」
 真帆が俯いたところを見ると、いくらか責任を感じてしまっているのだろうか。彼女のせいではあるまいに、とセレスティは少々気の毒になった。
 最後の一人は、――あの影が渦巻いていた、遥かずっと奥の方に居た。
「ご、ごめんなさいっ…助け出せなくって…!」
「いや。真帆のせいじゃない。…無理に押し通して攻撃することも出来ただろうが、あの様子ではな」
 さすがに夜神の表情も苦いものになった。
 ――最後の一人は、「ウカノさま」に取り込まれていたのだ。恐らく、消えかけている瀕死の神にとって、「かみさまはいる」と答えてくれる幼い子供は、延命装置として丁度良かったのだろう。渡してなるものか、と必死に攻撃を仕掛けて来る「ウカノさま」に、彼らとしては不本意ながら一度撤退せざるを得なかったのだ。背後に弱りきった二十二人の子供を抱えて戦うには、いささかならず分が悪い状況だった。
「……そしてその最後の一人が、よりによって、俺の依頼人の子供だと、そう言う訳か…」
 そう。
 たった一人、救いだせなかったその一人が、偶然にも草間興信所に最初に依頼された対象だったのである。
「――もういっぺん、今度は救出作戦を練る必要があるだろうな、こりゃあ」
 草間の溜息は深く深く、興信所に落ちる。重たい空気を振り払うように――ちりん、と窓辺で、いつの間にかぶら下がっていた風鈴が揺れた。
 


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
7038/夜神・潤/男性/200歳/禁忌の存在
6458/樋口・真帆/17歳/高校生・見習い魔女
1883/セレスティ・カーニンガム/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い


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■         ライター通信          ■
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ご参加ありがとうございました。夜狐です。納品が遅れて申し訳ありません…。
リテイク等ございましたらお気軽に申しつけてください。