コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


子供達は夜ごと、妖精を殺す




 夏の日差しはいっそのこと暴力的、と呼んで差支えない。セレスティのような者にはそれは尚のことである。だから彼はあまり、夏場は外出しないことにしている。
 ひと昔まえであれば、図書館にこもるなり、本や音楽を用意するなり、あるいは自身が代表を務めている財閥の経営状況を眺め、必要に応じて占いをしたり――これは普段からの仕事だが――、屋内での過ごし方にはそれなりの工夫が必要であったが、昨今ではインターネットという非常に便利なものがあるもので、セレスティも自然とこの情報機器に頼る機会は多くなっていた。
 ――件の噂に接したのもこうした機会の中でのことである。
 そもそも、子供があまりにも唐突に忽然と消えてしまう、という事件は、じわじわと、しかし着実に数を増やしていた。ニュースにこれらの事件があがらなかったのは、ひとえに誘拐の可能性を疑われ、報道規制をかけられていたためだ、ということをセレスティは知っている。(財閥の長ともなれば、マスコミにだってそれなりのパイプくらいはある)
 またぞろ怪奇絡みでなければよいが――という彼の懸念を、笑い飛ばすようにメールの着信音が響いた。
 メールの発信元は草間興信所。
 ――怪奇事件と切っても切れぬ縁のある、ある筋には有名な、そしてセレスティにとっては馴染みの深い名前であった。
 内容はいかにもあの男らしくシンプルで事務的な。けれどもどこか、うんざりとしたような調子で。
 ――子供が行方知れずになっている件、怪奇絡みの可能性が出てきた。暇なら手伝わないか。
 仮にも一財閥の長を捕まえて「暇なら」とは何とも無粋な誘いではあるが、セレスティはその誘いに乗ることにした。実際のところ、彼はそれなりに暇を持て余していたし、子供が消えるような事件が続くのも寝覚めが悪い。
 そう言う訳で、彼は珍しくも夏場に外出をしようと思い立ったのである。

 

 暑気を避けて夕暮れ時に訪問した草間興信所は、室内に入ってなおむっとするような熱気が籠っていた。――クーラーが故障中なのだと、冷たいお茶を持って来た零がひどくすまなさそうにそんなことを言う。
「ごめんなさい、暑い中せっかく来て頂いたのに――しかも兄さんは出かけているし」
 間が悪い、とはこのことか。最も、顔の広いあの男は何かと色々なトラブル(ほとんどが怪奇現象絡み)に駆り出されているから、不在であってもさして珍しいことではないのだが。
「零さんの気にすることじゃありません、特に約束もありませんでしたから。まぁ、彼が居ないのは別に珍しいことでもありませんしね」
「こんにちはー、相変わらず暑いねー!」
 そこへ、呑気な挨拶と共に勢いよく扉を開けて新たな来客が一人。学校帰りなのか制服に学生鞄という由緒正しき高校生姿の少年は、室内を見渡し、セレスティと目が合うなりにこりと笑って手を振った。人懐こい様子に苦笑しつつセレスティが会釈を返す。
「セレスティさんもこんちは。零ちゃん、草間のおっちゃんは?」
「兄さんなら、少し調べ物がしたいとかって出かけてます。近くの図書館に居ると思いますよ」
「ふぅん、何だ残念、せっかく土産買ってきたのに」
 彼が手に提げているのはどうやら箱入りのアイスらしい。零が瞬いて、少し悪戯っぽく笑った。
「そんな気を使うなんて、珍しいですね」
「うん、なんか、ウチのかみさま達が、迷惑かけてんだからそれくらい買って行けって言うから」
 案の定、彼の発案ではなかったらしい。零は苦笑したまま、受け取った箱を冷凍庫に仕舞い込んだ。
「そんでセレスティさん、例のお稲荷さまに話、聴いてきたよー」
 零の差し出した冷えた麦茶を無遠慮にぐいと飲み干して、少年がそう胸を張った。

 少年、秋野藤は、この一件、神隠し調査の依頼人の一人である。(もう一人、子供を浚われた親からも草間は依頼を引き受けているらしい。)依頼を頼んだだけでなく、ちょっとした「特技」を活かして調査の手伝いもしてくれる、とのことだったので、セレスティは暑い中を歩く手間を彼に押し付けたような格好になる。
「暑かったよ、しかもあの神社、意外と駅から遠いし」
 少年は膨れて見せるが、さして可愛くも無いのでセレスティは笑みを崩しもせずに話をうながした。
「それで、どうでした?」
「…なんかねぎらいとか無いの、冷たいな」
 ぶつくさ言いつつも少年はカバンから一枚の紙を引っ張り出した。ややぞんざいな扱いをされていたようで、あまり綺麗な状態とは言えない。
 それが東京西部のある地域の地図だ、ということは、端に書かれたメモで知れた。しかも、セレスティには見慣れた筆跡である。
「シュラインも関わっているんですか、この一件に」
 知己の名前をさらりと口に出したセレスティに、藤が目を丸くした。
「あれ、どうして分かったの?」
「その筆跡で。…この興信所に出入りする常連なら、彼女の字は見慣れていますから」
 冷蔵庫に貼られたメモ帳や、草間の読みづらい字で書かれた書類に添えられた彼女の文章の筆跡は、確かにこの興信所に居ればいやでも目にするものである。セレスティほどの常連ともなれば、見覚えがあって当然なのだった。
「ふぅん、そういうものか。まぁ、いいや。確かにこの地図くれたのシュラインさんなんだよね。コピーして一枚持って行きなさい、って。あの人ホントこういうことにかけちゃ、手際いいよな」
「そうですね。彼女抜きでこの興信所の事務は成り立たないでしょうし」
「ホントに、兄さんだけじゃ、経理だってロクに出来ないですから。助かってます」
 ――今頃どこかで草間がくしゃみをしているかもしれない。などと藤はちらりと思って苦笑しつつも、地図に記された赤い印を指でさした。
「王子稲荷の狐のじーちゃんによると、神隠しの主犯の居場所はこの辺だろうってさ」
「成程」
 地域を確認したセレスティは即座に、自身の乗っていた車椅子からファイルを取り出した。今までに調べた中から、幾つか気になる事例を拾い上げてコピーを取っておいたのだ。付箋をつけた紙束をめくっていた指がある一点で止まり、セレスティは思案げに口を開いた。
「…この近隣の地域は、ここ数年で一気に過疎化の進んだ地域でしてね。地図の場所とは違いますが、子供が居なくなったことで儀式が行えなくなった土地もあるんです。もしかすると、『ウカノさま』もそうした理由で忘れ去られたのかもしれませんね」
 ――特に衰退の著しいのは、田植えや収穫、水田にまつわる祭事や信仰だ。あの一帯は、再開発の波に押され、水田の数が急激に減少している。
「……『ウカノさま』が稲荷であり、『ウカノミタマ』…豊穣の神の属性を持っているとすれば、水田の減少も無関係ではないでしょう」
「でも、稲荷様って、商売繁盛の神様ですよね?よく、商店街のお店から旗が奉納されてるのとか見かけますよ」
 不思議そうに零が問うのを、書類に目を落としたままのセレスティが応じた。
「稲荷は元々、五穀豊穣の神なんですよ。それが変容し、商売繁盛や福を招くものとされるようになったのです。それに、確か古い時代には日本では狐を山の神の遣い――水田の守護者として崇めていた地域もあると聞いたことがあります。これも稲荷信仰と無関係ではないのでしょう」
 一枚、紙をめくり、そこに記されたデータを見ながら淡々とセレスティは続ける。
「…もし水田や稲作にまつわる神なのであれば、何故子供を浚うのか――という点は疑問として残りますが、ね」
「そりゃ、だって」
 セレスティの言葉に、当たり前のような口調で藤が口を開く。麦茶を飲みほしたコップをじっと見下ろして、
「7つ以下の子供は、神様の側の、不思議の側の生き物だからな。そんな小さな子供が神様が居るの居ないの、そんなことを口にすれば、神様まで影響出るくらい強い言霊を発するんだ。…死にたくないなら、自分を信じてくれる子供をとっ捕まえるのが手っ取り早いし、それに」
 彼は何か言おうとして、口ごもり、結局やめてしまった。言葉の続きを待って沈黙していたセレスティはいささか拍子抜けして彼を見やる。
「…それに?」
 促す彼の言葉にも、藤は頑として答えなかった。
「……やめとく。俺は神様たちのこと、好きだから、こんな風に憶測で悪口を言いたくねぇもん」
「悪口、ですか」
「零ちゃんって、子供の頃のことって覚えてる?セレスティさんはどう?」
 二人はそれぞれに沈黙した。思い出せない、というのは少々正確ではない。特に零については、これは藤の知らぬことだから仕方がないとはいえ、彼女に幼少時代などというものは存在しないのだから。
 セレスティにしても似たようなものだ。彼もまた、人ならざる者――藤の言葉を借りれば不思議の側の存在ということになろう。幼少時代と言われれば記憶を遡ることも出来たが。最早時代さえ違う、遠い過去の話だ。
 二人の沈黙に少々居心地悪そうに身じろいでから、藤はふぅと細い息をこぼした。
「俺は、あんまり覚えてない。7つより下のことってなると尚更。…でもね、でも、覚えてることもある。あの頃、俺の周りはみんな、サンタさんが見えてたってことだ。だけど7つくらいの頃には誰かが言いだすようになる。『サンタさんなんか居ない』って」
「…」
「そうすると、どうなるか、知ってる?」
 藤は笑った。ただ、笑っていた。
「……死ぬんだよ、サンタクロースっていう、魔法の世界の妖精のおじいちゃんは。子供一人の言葉で、一人が必ず殺される」
「それは」
 概念的な話ではないのか。セレスティがそう口を挟もうとしたのを、藤は首を振って遮った。
「違うよ。俺はそういうの、神様とか、そう言う世界のモノが解るから、何となく知ってる。死ぬんだ。本当に冗談でも比喩でも無しに、殺されちゃうんだ、『サンタさんなんか居ないよ』って、子供のその一言でね」
 子供の言葉にはそれくらい力があるんだよ、と彼は言って、笑ったまま、空のコップを見下ろし、握り締める。
「――神様も同じだよ。特に信仰が薄くなって、弱くなった神様なら。子供の一言で生かされもすれば、殺されもする。…俺にはあの『ウカノさま』が、まるで、子供にその一言を言わせたがってるようにしか思えない」
「『神様は居る』…って一言、を?」
「ううん、逆。…『神様なんか居ない』って」
「…何故そんなことをする必要が?子どもがそれを口にすれば、下手すれば神は死ぬということでしょう、今のキミの話からすれば」
 うん、と静かに頷いて、藤はセレスティに笑みを向けた。
「俺には、『ウカノさま』が、それを望んでいるような気がする」
 曖昧な言葉の割には、確信がある風な言い方だった。彼が自ら言ったとおり、それは「何となく」分かる程度のものなのだろう。だとすれば、これ以上何かを問いかけたところで返る言葉はあるまい。
 人の世と神の関わりは、長いこと、人ならざる立場のセレスティは眺めて来た経験がある。一言で言うと、それは人の身勝手の歴史だ。特に日本のように、何でもかんでもご利益さえあれば崇め、祟りがあれば祀り、と、無茶をする宗教の土地柄では。世界には人が必要とするだけ神が居て、必要無くなれば容赦なく忘れ去られる。
 その身勝手に、神が怒りや絶望を感じることがあったとしても、セレスティは何ら不思議とは思わない。むしろ共感さえ覚えてしまうかもしれない。
 そうやって利用されることに飽いて、死を望んだ神がいたとしても。
 不思議ではないのかもしれない。



 **


 セレスティに草間を経由してシュラインから連絡があったのは、このすぐ後のことだ。
 


**

 シュラインと夜神が神社へ向かった、その翌日。一行はそろって地図にあった土地を訪れていた。
 東京都内と言っても、かなりの奥地の方である。ある程度予想はしていたが、電車とバスを乗り継いでようやく現地に到着したシュラインが見たのは小さな集落、と言うよりも「元集落」だった。
 彼女が到着したのは――朝出発したにも関わらず――既に昼下がりだったのだが、夏の日差しの下には更地が広がっていたのだ。点々と、空き地と民家が残っている場所もあったが、ほとんどの土地が重機によってまっ平らに均され、工事予定の看板が立っている。
 ――近くこの辺りに新しい路線が出来るとか言う話を、事前に調査していたシュラインは知っていた。この辺りを都心で働く人々のベッドタウンとして再開発しようということなのかもしれない。
 眉根を寄せてシュラインは呻いた。
「神社も無くなってるんじゃないかしら、これじゃあ」
 地元の図書館で参考にした資料には、かろうじてここに稲荷神社があったことが記されていた。それ以上の記述は何一つない。どんな信仰があったのか、どんな習俗があったのか。
 シュラインが懸念していたのは、明治期の神社の一大再編成で、辺り一帯の信仰が緩やかに消えて行ったのではないか――という点だ。
 子供達が「夢で見た」と証言している「ウカノさま」の姿は、既に指摘されている通り、「玉女信仰」と呼ばれるものと合致する部分が多い。この「玉女信仰」、いわゆる神仏習合と呼ばれるもので、仏教と神道がごちゃ混ぜになったものなのだ。こうしたものは当時、廃仏毀釈の対象になりやすかった。加えて、この開発の波。
 恐らく、こうして更地にされるまでは、この辺りはちょっとした山間の集落だったのに違いない。だが、地肌をむきだしにされ、すっかり見晴らしの良くなった山の様子に、自然豊かだった頃の面影を見出すのは難しかった。シュラインのそんな感想に、呟いたのは彼女に同行してきたもう一人の助っ人である。優しげな風貌の少女、真帆は、理知的なシュラインと対照的に柔らかな優しげな瞳を伏せている。
「確かにここです。夢であの『ウカノさま』を追いかけ時に、見た光景」
 彼女は淋しげにひとつ付け加えた。
「…元は森や田んぼが沢山あったんでしょうね」
 彼女は夢を渡る力を持つ魔女である。シュライン達とは別ルートで、夢を手繰ってこの一件の調査をしていたらしい。
 更にもう一人、そんな彼女と夢の中で鉢合わせたのが夜神だった。この青年の方は、彼女ほどには感傷的になれなかったらしく、淡々と辺りを見渡してシュラインと、シュラインが手を貸していた人物に向けてぽつりとこぼした。
「確かに、『視た』光景と大体同じだ。この辺りで間違いないんだろう。…だがこれだけ更地になっていると、目印も何もあったものじゃないな」
「となると、残る頼りは地域の方の証言と、元神様の残した気配だけ、ということになりますね」
 四人目は、杖を持った青年だった。夜神もそうだが、こちらも端正な顔立ちに、どこか儚げな印象があるのは彼が杖に頼って歩いていたせいだろうか。その彼がふと、空き地の一つへ視線を移したので、自然他の面子も倣ってそちらを見ることになる。
 更地の中に一か所、まだ整地もされていないのだろう。雑草が伸び放題に伸びている場所があった。恐らく元々田圃だったに違いないと青年、セレスティがそう思ったのは、用水路だったらしき跡が残っているのを見たためだ。僅かに水の気配を遺しているその場所に、夜神がすぅと目を細めた。
「あれは…もしかすると、あの場所が?」
「でも、神社じゃないですね」
 真帆は、どこか落ち着かない様子だ。
「どうしたの?」
「…いえ。あの場所、妙な力というか、気配のようなものがあるので」
 セレスティの言葉にシュラインはそう、と頷いて思案するように腕を組んだ。彼女の中に引っかかっていた、幾つかの言葉が浮かんでくる。
「……真帆さん、確か、『ウカノさま』は、こう言ってたのよね。『ここから出せ』って」
「え?あ、はい。言ってました。出せって、帰してくれって…」
 言いながら夢の内容を思い出した真帆は、暑気にも関わらず鳥肌立った腕を抱え込んだ。あの暗闇は、今思い出してもいい心地はしない。だが、確かに目の前のあの空き地からは、僅かながらあの時の、夢で接した獣染みた気配が漂っている。
 一度夢で接していなければ、真帆は見過ごしていたかもしれないくらいの、本当に幽かな気配。
「…サノボリ…」
 シュラインはそう呟いて、今度はセレスティを見遣る。意図を察して、セレスティが頷いた。この近隣の風習について、彼はシュライン達に先んじて調査を済ませていたのだ。
「この近くの地域には、最近まで確かにサノボリの風習が残っていたようです。最近、といっても、二十年ほど前から水田が無くなってしまい、今では忘れ去られていますが…それがどうかしたのですか」
「あの、さのぼり、って何ですか?」
 真帆の問いかけに、シュラインが腕組みしたまま応じる。
「水田を守る神様、田の神はね、元々山の神と同じものだと、信じられていたの。山の神が里に――田んぼに降りて、田の神になる。田植えが終わると、作業を見守ってくれた田の神に感謝して、山へ送り返す。――その送り返しの儀式が、サノボリ」
 もしかすると、とシュラインは空き地をみやる。

「…出せ、帰せ、という言葉は…サノボリが行われず、しかも帰るべき山を壊されて、『ウカノさま』は元々水田だった場所から出られなくなってしまったのかもしれない」
 
 

 幸い、辺りに人目はない。雑草だらけの空き地に足を踏み入れるなり、全身に鳥肌が立って真帆は思わず立ち竦んだ。自分同様にあの夢を見ていた(らしい)夜神は何か感じないのだろうかと思ってちらと横目に見たが、この青年は相変わらず平然としたまま、足元の草を見て訝しげな顔をしていた。
「…これは、何だ?」
「おや。つくしですね。…こっちにはアザミが咲いている」
「え?」
 真帆もつられて足元を見、そしてぎょっとした。夏の野草であるエノコログサや小ぶりのヒマワリはまだいい。だが、それらに紛れて、確かにつくしやタンポポ、スミレといった春の草、ヒガンバナのような秋のものが見える。探せば冬の野草も混じっているかもしれない。
「神の力が凝って、植物の季節が狂っている…ということでしょうか」
「瀕死であっても神は神、ということだな」
 夜神が空き地の一点で足をとめ、辺りをぐるりと見渡す。
「…ここらが一番気配が強いようだ。結界…?のようなものがつくられている」
 彼の言葉に、セレスティが頷いて付け加えた。
「これが神隠しの所業なら、『マヨヒガ』と呼ぶべきでしょうかね。まぁ、どちらにしても、」
 青年の手には、小さなボトルがあった。何かを呼ぼうとした夜神を抑え、栓を抜く。中身はただの水だが、水を繰る彼にとってはただの純粋な水こそ、最も頼れる道具のひとつ。
「どうあれ、子供達はまず返して貰わなければ」
 地面に染みた水が、じゅっ、と、熱せられた鉄板に落とされた時のような音を放って弾ける。清められた水は、既に神ではなくなりつつある存在にとっては落とされた毒のようなもの。耳障りな音が響き、辺りの空気が歪んだ。
 咄嗟に目を閉じた真帆が次に目を開けた時には、そこは、同じ空き地でありながら、ひどく異質な場になってしまっている。人の気配がない。空が見えない――暗い。
「こ、これって、あの夢の中の…?」
 ――彼女が夢で見たのと同じ場所だ、という直感があった。と同時、彼女は自分の足元に倒れている人影に気づく。子どもがひとり、ふたり。動かぬ姿にぞっとして真帆が慌てて手をあてると、かろうじて弱い呼吸をしているのが分かったが、顔色も悪い。
「大丈夫?起きて、助けにきたよ…」
 真帆がそう声をかけて揺さぶろうとした、その手に向けて、何か黒い塊が襲いかかってきたので、慌てて彼女は手を引っ込めた。立ち上がり、辺りを見渡す。
 ――彼女の周りをぐるりと、黒い影は取り囲んでいた。
 狐だ、と、ただ直感でだけ真帆はそう思った。影は狐の姿をしている。最も、狐にあんな鋭い爪や牙があるのかどうかは知らないが。
「渡すものか…」
 低い唸るような。人のものでなく、獣のような。
 夢で聞いた声に、今度こそぞっとして真帆は立ちすくむ。
 その真帆の肩に、誰かがとん、と手を置いた。驚いて振り返ると、セレスティがにっこりと微笑んでいる。彼は無言で、水の入った瓶を振るった。振り撒かれた水に悲鳴をあげて、影達が飛び退く。
「さ、今のうちに。子供達を連れて行きましょう」
 その傍で、飛びかかってきた影を自らの力で弾き飛ばし、夜神が頷く。
「こいつは放っておいても自滅するが、そうなると子供達に危険が及ぶからな」
 セレスティは藤を経由して、夜神は直に、他の神様からそう情報を得ている。「放っておいてもいずれ自滅する」と。だが、その時、浚われた子供達は消えてしまうだろう、とも。
 その言葉に真帆は立ち上がった。いくらなんでもこんな恐ろしい夢を見せられた挙句に、消えてしまうのは酷過ぎる。竦んでいた足に気合いを入れて、彼女は一度目を閉じ、強く自分の夢を想った。
 夢幻を現実へ描き込む。――真帆の力が描いたのは、二頭立ての馬車と力のありそうな御者である。
「居なくなった子は全部で何人でしたっけ」
「二十三人」
「分かりました、全員回収します!だから、そっちの影の方、しばらく抑えててください!」
 無茶はしないでくださいねと言い置いて、真帆が去る。追い縋ろうとした影は再び弾き飛ばされ、悲鳴と唸り声を上げた。
「任せるしかなさそうですねぇ」
 苦笑したのはセレスティだった。足の弱い彼が子供達を運ぶのはいくらか無理がある。
「確かに。ここを抑えられるのは俺達だけのようだしな」
 夜神は軽く溜息をついた。




***




 シュラインが、三人を空き地に置いて訪れたのはこの辺りに残っていた二件の民家だった。どちらか一方にくらい人が住んでいるのではないかと思ったが、近付いてみると思いのほかに荒れているのが分かる。
「どなたかいらっしゃいますか?…」
 誰何の声に応じる気配も、物音ひとつさえなく、シュラインは溜息をこぼした。やれやれ、忘れ去られた神様には、最早信仰するべき人さえ無かったのだ。
 誰も住んでいないことを確認して、シュラインはそっと門扉を開いた。錆びた扉が軋んだ音をたてて開いた。
 台所、風呂場、居間とのぞいて回り、改めてここは廃屋なのだとシュラインは確信した。恐らく引っ越したか、住んでいた人が亡くなって放置されているのか。部屋には家具のひとつさえ残っていない。畳も剥がされ、床はむき出しになっていた。
 ただひとつだけ。床の間に、不思議なものを見てシュラインはおやと首を傾いだ。
「…これは、…苗、かしら」
 床の間に箱が置かれ、そこに何かが植えられていたような形跡がある。最初は観葉植物の類かとも思ったが、枯れて原形を留めないそれは、稲の苗のようにも思われた。
 ―――サオリ、という儀式がある。
 田植えの終わりに行う「サノボリ」とは逆に、田に神を迎える為の儀式だ。調査の過程で調べたことを淡々と、シュラインは思い出した。「サオリ」の一般的な形式としては、床の間や神棚など家の中に、三把の苗を植える、というものがある。
 これがそうだ、と断定することはできないが、可能性としてはあり得ることに思われた。
「……サオリの儀式が、残っていたのね…」

 これは単なる推測である。
 ――サオリの儀式によって田圃に招かれた「ウカノさま」は、その後何らかの事情で「サノボリ」が行われないまま、田圃に残されてしまった。加えて開発の波で、帰るべき山をも失ってしまった。
 出せ、帰せ、という真帆が夢で聞いた言葉はこれに合致している。
 加えて、あの夢の噂。「かみさまなんて居ないよ」と子供に答えさせている、あの噂は。
(…まさか。あの神は、自殺しようとしていた…いいえ、違う。子供達に『かみさまは居る』と答えさせることで、自分の延命を図っている…これも違う)
 最後に思いついた可能性は、いくらか突拍子もなく、そして気持のよいものでもなかった。
(…他の弱くなった、『信仰を失って小さくなった』神様を、道連れに殺そうとしている?)
「まさか。…それだけのことをする理由も無いし、誰の得にもならないわ」
 自分で自分の想像を、そう呟いてばっさりと切り捨てると、シュラインは再び床の間を見やった。
 ――そうして、その場を後にした。



***



「それで――」
 草間興信所は、相変わらず暑い。クーラーのストライキは結局まだ続いているらしい。零の出してくれた冷たい麦茶にほっと一息つきながら、集まった面々はそっと顔を見合わせあい、それぞれ苦い表情を浮かべた。
「…子供達はどうにか連れ出せたよ」
 真帆がまずそう切り出し、シュラインが繋ぐ。
「もしもの為にと思って病院を手配しておいて正解だったわね、夜神くん。脱水症状を起こしている子も少なくなかったから」
「そうだな。とはいえ…」
「いや、待て、お前ら。俺が訊きたいことはそこじゃない」
 分かってますよ、と涼しい顔でセレスティが草間を遮った。
「…助け出せた子供は二十二人でした」
 真帆が俯いたところを見ると、いくらか責任を感じてしまっているのだろうか。彼女のせいではあるまいに、とセレスティは少々気の毒になった。
 最後の一人は、――あの影が渦巻いていた、遥かずっと奥の方に居た。
「ご、ごめんなさいっ…助け出せなくって…!」
「いや。真帆のせいじゃない。…無理に押し通して攻撃することも出来ただろうが、あの様子ではな」
 さすがに夜神の表情も苦いものになった。
 ――最後の一人は、「ウカノさま」に取り込まれていたのだ。恐らく、消えかけている瀕死の神にとって、「かみさまはいる」と答えてくれる幼い子供は、延命装置として丁度良かったのだろう。渡してなるものか、と必死に攻撃を仕掛けて来る「ウカノさま」に、彼らとしては不本意ながら一度撤退せざるを得なかったのだ。背後に弱りきった二十二人の子供を抱えて戦うには、いささかならず分が悪い状況だった。
「……そしてその最後の一人が、よりによって、俺の依頼人の子供だと、そう言う訳か…」
 そう。
 たった一人、救いだせなかったその一人が、偶然にも草間興信所に最初に依頼された対象だったのである。
「――もういっぺん、今度は救出作戦を練る必要があるだろうな、こりゃあ」
 草間の溜息は深く深く、興信所に落ちる。重たい空気を振り払うように――ちりん、と窓辺で、いつの間にかぶら下がっていた風鈴が揺れた。
 





□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
7038/夜神・潤/男性/200歳/禁忌の存在
6458/樋口・真帆/17歳/高校生・見習い魔女
1883/セレスティ・カーニンガム/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い


□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

ご参加ありがとうございました。夜狐です。納品が遅れて申し訳ありません…。
リテイク等ございましたらお気軽に申しつけてください。