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<東京怪談ノベル(シングル)>


目覚めの時

 パソコン画面に向かって一心に入力作業をしていた響カスミは、ふと手を止めて大きく伸びをした。
「ああ……。まったく、どうしてこんなことになっちゃったのかしら」
 軽く肩を回しながら、思わずぼやく。
 ここは、神聖都学園の一画にある美術館の準備室である。
 広大な敷地を持ち、幼稚園から大学までそろっている神聖都学園は、その構内に私設の美術館も設置されている。もちろん、一般のもののような大きなものではないが、生徒たちに少しでも本物の美術品に触れてほしいという考えの下に建てられたものなだけに、中身はそこそこ充実していた。
 とはいえ、ここには学園側が雇った館長と職員が別にいて、教師たちがその運営に関わることはほとんどない。ましてや、音楽教師であるカスミには、縁のない場所のはずだった。が、なんとなく成り行きで、今月美術館に入って来た美術品の目録作りをやるはめになってしまったのである。
 いや、それどころか昨日などは館長が留守とかで、なぜか彼女が新しい美術品の搬入に立ち会うことにまでなってしまったのだ。
「ここの館長さんって、人は良さそうな感じなのに……他人を言いくるめて使うのがうまいわよね」
 少しだけうんざりとぼやき、カスミは少し休憩しようと立ち上がった。
 準備室というが、そこは広いだけでなんとなく雑然とした感じの一室だった。
 床は板張りで、彼女が作業しているパソコンが置かれたデスクは、広い窓に面している。もっとも、デスクはこれ一つきりで、あとは壁際にスチールの棚と小さな冷蔵庫があるだけだ。残った空間には、搬入されてまだ美術館内に展示されていない美術品――絵画や彫刻などが漫然と置かれている。中にはまだ梱包を解かれていないものもあって、館長の言っていた人手が足りないというのは、あながち嘘ではないのだろうとも思わせた。
 とはいえ、所蔵品の目録作りなどは本来はここの職員の仕事のはずだ。
 カスミはまだなんとなく納得のいかないものを感じながら、冷蔵庫に歩み寄り、中から缶コーヒーを一つ取り出すと、プルトップを開けた。とりあえず、ここの冷蔵庫に入っているジュースは飲み放題との許しをもらっている。
 中身を半分ほど飲んでから、カスミはなんとなくそれを手にしたまま、室内に置かれている美術品の一つに歩み寄った。それは昨日、彼女が搬入に立ち会ったものだ。
 それは、等身大の女性を描いたレリーフだった。長い間、野ざらしにされていたものか、その表面は苔が密集して蔦がからまり、植物独特の匂いがする。だが、不思議とレリーフの女性の顔の部分だけはきれいで、まるで何かに守られてでもいるかのようだった。それに、近寄ってよく見ると、そのレリーフの表面は半透明のニスか何かのような物質でおおわれているのがわかった。
(数百年前の、王女様のレリーフ……か)
 胸に呟き、カスミは昨日、これを運び込んだ古美術商から聞かされた話を思い出す。
 このレリーフは、西アジアの今では集落すらない山間部にある谷間で発見されたのだという。とはいえ、その地域は中世の時代には地図にも載らないような小さな国があったと近隣の人々や郷土史家らの間では言われている場所で、古美術商はこのレリーフがその小国の遺物だと考えているようだった。
 ちなみに、そのあたりには今でもその小国に関する伝説が残っているらしい。
 それによれば、その小国は五つの首を持つ鏡幻龍(ミラール・ドラゴン)に守護されており、第一王女はその龍と心を通わせ使役できる、巫女だったのだという。ところが、その国の繁栄を嫉妬したある帝国が放った呪術士に操られ、王女は龍の力を使って国を滅ぼしそうになった。それを阻止したのは王女の妹――小国の第二王女で、彼女は姉を石版に封印することで、祖国を救ったのだという。
 つまりこのレリーフは、その伝説を模して作られたものか、あるいは本当に王女を封印した石版のどちらかだというわけだ。
(もっとも、人間が石版に封印されてレリーフになるなんてことがあるわけないから……これはきっと、その伝説を元にして誰かが作ったものなんでしょうけれどもね)
 カスミは胸に呟き、缶コーヒーの中身を飲み干した。
 本当は、これを飲んだら作業の続きに戻るつもりだった。だが、なんとなく離れがたくて、彼女はそこに立ち尽くし、改めてレリーフを眺めやる。
 整った顔立ちは愛らしく、だがどこか高貴で上品なものも持っていて、王女で巫女だと言われればうなずいてしまうものがあった。
(そういえば……古美術商はなんと言っていたかしら。伝説では、封印を解くのは『目覚めのキス』だと伝えられている……とか言ってたわよね)
 カスミは胸に呟き、一人小さく笑う。御伽噺などによくあるとおり、キスは封印を解くための最も一般的な方法だ。だが、御伽噺ではたいてい、その方法で王女たちの封印を解くのは、王子様と決まっている。
(女で音楽教師の私でも、キスの効果はあるのかしらね?)
 自分の思いつきに一人で笑いながら、彼女は面白半分に、自分の唇をレリーフの王女の唇に押し当てた。
 その途端。レリーフの表面をおおっていたニスのような半透明の物質が、王女の体の中に吸収されるように消えて行き、生身の人間の女性がカスミの方へと倒れかかって来る。
「え?」
 いったい何が起こったのか理解できないまま、カスミはとっさにその女性の体を抱き止めた。その体はひどく冷たかったが、しかしたしかに生きた人間の肉のやわらかさがある。
「な、何……? どういうこと……?」
 腕の中の女性を抱きしめたまま、カスミはただ目をしばたたき、呆然としたまま呟くばかりだ。
 それでも、いつものように気絶してしまわなかったのは、腕の中のそれがちゃんと人間だとわかるだけの質量を持っていたからでもある。いつの間にか、その場に尻餅をつくように座り込んでいたカスミは、改めて腕の中の女性を見下ろした。
 年齢は二十歳ぐらいだろうか。肌は白くきめ細やかで、丁寧に手入れされていたことがわかる。腰まである金髪もつややかで、こちらも手入れが行き届いていた。体には、薄紅色の胸元の大きく開いたレオタードのようなぴったりした衣服をまとっている。肘から手首までをおおう装飾品は、黄金造りで繊細な彫刻が施され、素人目にもかなり金のかかったものであることがわかった。
 それらを見れば、女性が一国の王女だと言われても、うなずけるものはある。
 しばし呆然としていたカスミは、ようやくこのままにしておくわけにはいかないと考える余裕を取り戻した。まず、胸元に耳を当ててみる。心臓は動いているようだ。手や肩に触れてみると、最初の冷たさはなく、人肌の温かさを取り戻し始めているようだ。
「そ、そうね。とりあえず……音楽準備室につれて行くしかないわね」
 呟いて、立ち上がる。救急車を呼ぶにしても、この状況をどう説明していいかもわからなかったし、とにかくちゃんとしたベッドに寝かせてやりたかった。音楽準備室の奥には、仮眠用のベッドがある。それに、あそこならばカスミにとっては勝手知ったる自分の城のようなものだ。
 とはいえ、一人でこの女性を担いであそこまで行くのは、辛いものがある。どうしようかとあたりを見回した時、部屋の隅に放置されている、台車が目に止まった。美術品を裏の搬入口からここまで運ぶのに使うためのものだ。
 カスミはうなずくと、ひとまず女性を床に横たえるとその台車へと歩み寄った。

+ + +

 目覚めた時、イアル・ミラールは自分の置かれた状況がまったく理解できなかった。
 最初、こちらを覗き込んでいる女性を見た時には、妹なのだと思った。だが、すぐにそうではないと気づく。顔は妹に似ているが、その肌は黄色味を帯びていて、年齢も自分より年上のようだったからだ。
「気がついた?」
 その女性が、軽く目をしばたたいて訊いて来る。言葉は異国のもののようだったが、彼女を守護している鏡幻龍が訳してくれるおかげで、意味は理解できた。
 小さくうなずいて身を起こし、イアルはあたりを見回す。
 そこは、見覚えのない小さな部屋で、彼女は簡素な寝台の上に横たえられていた。
「ここはどこですか? わたしはいったい……」
 不安に駆られて、彼女は思わずその女性に尋ねる。彼女の口から紡がれた言葉は祖国のそれだったが、これも鏡幻龍によって翻訳されているので、相手には母国語として伝わったはずだ。
「ここは、神聖都学園の音楽準備室よ。私は響カスミ。この学園の音楽教師をしているわ」
 女性は答えたが、イアルに理解できたのは相手の名前ぐらいで、あとはまったく意味不明である。
「ええっと……名前はなんていうのかしら?」
「イアル・ミラールです」
 問われて半ば無意識に答えた彼女に、カスミと名乗った女性は言った。
「今は、平成……じゃない、西暦二〇〇八年で、ここは日本の首都・東京の中にある神聖都学園で、この部屋はその中の音楽準備室よ」
 どうやらカスミは、もっと詳しく話さないと彼女がわからないと察したらしい。
 だが、イアルは最初に聞かされた西暦で、すでに衝撃を受けていた。それが本当ならば、彼女が封印されてからすでに、数百年が過ぎていることになる。
 そう。カスミが古美術商から伝説として聞かされた話は、真実だったのだ。彼女――小国の第一王女イアル・ミラールは、国を滅ぼさないために妹によって石版に封印されていたのである。
 それでも、どうにか衝撃を押し殺し、彼女はカスミから積極的に話を聞いた。
 そうしてようやく彼女は、自分が祖国からはるか東にある小さな島国・日本の首都、東京の一画に建つ神聖都学園の一室にいること、目の前にいるカスミが封印を解いてくれたことを飲み込んだのだった。
 だが、状況を理解すると今度はまた別のことが気にかかる。
「……それでは、わたしの国は? 妹や両親は……」
 思わず呟いた彼女に、カスミは小さくかぶりをふった。
「私も詳しいことは知らないけど、石版をこの学園に持ち込んだ古美術商は、イアルさんの国は今は滅びてもうないと言ってたわ。それに……国があったとしても、イアルさんの家族はもう……」
「あ……」
 言葉を濁すカスミの言わんとすることは、イアルにもすぐに察せられた。普通の人間が、数百年も生きられるはずもない。国が今も栄えていたとしても、妹も両親もとっくに死んでいるだろう。
 それは、彼女の胸を激しくしめつける思いだった。だが、あまりに突然の話で実感が湧かないのか、それとも驚きすぎたせいなのか、涙すら出ない。
 そんな彼女をカスミは、幾分痛ましげに見詰めていた。
 まさか、自分のちょっとした悪戯心がこんな結果を生むとは思ってもいなかったのだ。それに、イアルの状況は同情するに余りある。言ってみれば彼女は、眠って目覚めたら、数百年後の見知らぬ国に放り出されていたも同然なのだから。
(これはやっぱり、目覚めさせた私の責任よね)
 胸に呟くと、彼女は口を開いた。
「イアルさん。もしよければ、私の家に来ない? そんなに広い所じゃないけど、もう一人住むぐらいなら全然平気だから」
「え?」
 イアルは突然の申し出に、軽く目を見張る。だが、考えてみれば、それはありがたい言葉だった。なにしろ彼女にとってここは、右も左もわからない未知の国だ。とはいえ、封印も解かれ祖国にも戻れないのでは、この国でくらして行くほかはない。
「いいんですか?」
 尋ねると、カスミは笑ってうなずいた。
「ええ。封印を解いてしまった責任もあるしね。――でも、一緒にくらすなら、その敬語はやめてね。たしかに私の方が年上みたいだけど、他人行儀でいやだから」
「はい。ありがとうございます」
 礼を言ってから、イアルは慌てて口元を押さえて言い直す。
「ありがとう」
「そうそう、その調子」
 おどけた口調でうなずくカスミと、イアルは顔を見合わせて笑う。不思議とそうしていると、自分にはもう戻る所も家族もなく、友人知人すらいないのだという不安な思いが消えて行くような気がした。

+ + +

 こうして、イアル・ミラールは響カスミの家に居候することとなった。
 一方、カスミが美術館の目録の中からあのレリーフを削除したのは、言うまでもない。いや、それどころか彼女は、前日に自分が受け取った古美術商からの納品書なども全て、自分の家に持ち帰り、美術館関係者の目には触れないようにしてしまった。もちろん、古美術商には連絡を取って、レリーフの請求書は自分に回してくれるよう頼んだ。支払いに関しては、あまり高額ならばカードで分割払いにしよう、などともくろんでいる。
 後日、美術館の館長にレリーフのことを問われたが、「夢でも見たんじゃないですか?」としらばっくれた。
 本当のことを話してもよかったのかもしれないが、はたしてそれをあの館長が信じてくれるかどうかもわからない。また、信じたら信じたで、今度はイアルが奇異の目で見られる可能性もある。どちらにしても、これは自分の胸にだけ収めてしまう方がいいに違いないと、彼女は判断したのだ。
「わたしのために、ごめんなさい」
 事情を知って、イアルはすまない気持ちで謝ったが、カスミは気にしてはいないようだ。
「いいのいいの。せっかく新しく日本で生活始めるなら、すっきりする方がいいでしょ?」
 彼女はただ、笑ってそう言っただけだ。
 イアルはそんな彼女に感謝しつつ、今日もこの新しい土地に馴染むためにがんばるのだった――。