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月光にご用心
響カスミがイアル・ミラールの封印を解いてから、半月が過ぎた。
イアルを自分のマンションに同居させることとなったカスミは、とにかく現代のくらしや社会情勢、ここに至るまでの歴史を知ってもらわなければどうにもならないと、学園の図書館から歴史書やマナー関連の本などをせっせと借り出し、夜は現代の生活について教え、昼間はそれらの書物で自習してもらうということをやっていた。
そんなわけで、イアルはこの半月、カスミのマンションから外に出ることもせず、ひたすら現代人としての知識を詰め込むことに没頭していた。
一方、レリーフの代金は、結局ロハになった。
というのも、どうやら古美術商の方もあれがいわくつきの品物だとうすうす察していたようで、カスミが事情を説明したところが、それなら代金はいらないという答えが返って来たのだった。とはいえ、さすがにカスミが封印を解いたことは、驚いたようだったけれど。
更に古美術商は、いったいどうやったのかイアルの戸籍まで捏造してくれた。
これにはカスミも、さすがに薄気味悪いものを感じたが、深く追求すれば更に怖いことになりそうな気がして、とりあえずありがたくその恩恵に浴するだけにとどめておいた。
+ + +
校舎から外に出て空を見上げたカスミは、思わず声を上げた。
「わあ、きれいねぇ」
それも無理はない。すっかり暗くなった空には、銀色の大きな満月が輝いていたのだ。
「雑用ですっかり遅くなっちゃったけど、こんなきれいなお月様が見れて、得しちゃったかもね」
思わず呟き、彼女は鼻歌混じりに歩き出す。
考えてみれば、このしばらく空はどんよりとくもっているか、はたまた雨が降っているかのどちらかで、夜になっても月も星もとんとご無沙汰だったのだ。
「満月ね。……なんだか見てると、お好み焼きが食べたくなって来たわね。たしか、冷凍室にまだブタ肉が残ってたわよね。じゃあ、今夜はお好み焼きにしようかな」
そんなことを呟きながら、学園前のバス停に向かう彼女の足は軽い。
そんなこんなで自分のマンションにたどり着いた彼女は、上機嫌でドアを開けた。
「ただいま。遅くなってごめんね」
靴を脱ぎながら声をかけるが、中からは返事がない。
「イアルさん?」
幾分怪訝に思いながらも、彼女はリビングに入って行く。そこにも彼女の姿はない。ただ、浴室の方からシャワーの音が聞こえているのに気づいた。
「なんだ、入浴中なのね」
苦笑してカスミは、一旦自室に行くとバッグを置いて服をスーツからラフなものに着替えてリビングに戻って来る。だが、浴室からはシャワーの音がするばかりで、イアルが出て来る気配はなかった。そのことに、カスミは少しだけ不審感を抱く。
「イアルさん?」
とりあえず、浴室のドアの前から声をかけてみた。だが返事はなく、中からはただ水音がするばかり。浴室のドアは下半分がサッシで、上半分が曇りガラスになっている。そのため、中の様子を伺うことはできなかった。それでも、ただシャワーの音だけが響く浴室は、なんとなく異様に感じられる。
カスミは、思い切ってドアを開けた。
途端、小さく息を飲む。
シャワーから勢いよく噴き出す湯と室内に立ち込めた湯気の向こうにあるのは、イアルの裸体ではなく、白い石で造られた彫像だった。
「何、これ……」
カスミはしばし呆然として立ちすくんだものの、とにかくシャワーを止めようと浴室に足を踏み入れた。
シャワーを止め、そのノズルの下にあるものをまじまじと見やる。
それは、心地よさげに上を向き、水か湯を浴びている風情の女性の彫像だった。顔は、イアルにそっくりだ。
「そっくり……じゃなくてこれ、イアルさん……よね?」
カスミは呆然と呟く。その彼女の中で、ようやく思考が巡り始める。
いったい何が起きたのかはわからないが、イアルは彼女が封印を解く前と同じく、石になってしまったということだ。
(でも……どうして? 私の封印解除が、完全じゃなかったってことかしら?)
よくわからないが、ともかくこのままにはしておけない。
彼女は苦労して石像を浴室から出すと、バスタオルできれいに拭いた後、イアルの名前を呼んだり心臓マッサージをしてみたりと、思いつく限りのことをやってみた。
だが、石像はなんの反応も示さない。
とうとうカスミは、途方にくれてその場に座り込んでしまった。
「いったい、どうすればいいの……? それともこの半月、私は夢でも見ていたっていうの?」
石像を前にしたまま、彼女はただ呟く。そして、学園の美術館の準備室で、レリーフだとばかり思っていた石板からイアルの封印を解いた時のことなどを、漠然と思い返す。
ややあって彼女は、ふいに顔を上げた。
「あの時……私はレリーフにキスしたんだったわよね」
呟いて、改めて石像を見やる。それは、あのレリーフと同じように、表面を半透明のつやつやとしたニスのようなものでおおわれていた。それに気づいて、カスミは小さく眉をひそめる。そして、半月前のことをもう一度、今度は詳細に思い出してみた。
(たしか……私がキスした途端、このニスみたいなものが、イアルさんの体に吸い込まれて行ったような……?)
まさかあんなことになるとは思わなかったので、はっきり意識していたわけではないが、思い返してみるとそうだったような気がする。
(なんでもいいわ。可能性があるなら、試してみるだけよ)
胸に呟きうなずくと、カスミは石像の肩に手をかけ、自分の唇で石像の唇に触れた。
途端。石像をおおった半透明の物体はイアルの体に吸収されて行き、同時に石だったはずのその体は温かい血の通う、やわらかい肌を持った人間のものへと変化したのだった。
+ + +
とりあえず服を着てリビングにおちついたイアルは、問われるままにカスミにいったい何があったのかを話した。
カスミが帰宅する少し前。彼女は入浴していた。
さすがに半月もあれば、毎日のことなので風呂の使い方ぐらいは覚えてしまう。それで、カスミには悪いとは思ったが、彼女が戻る前にシャワーだけでも浴びてしまおうと中に入ったのだ。
ところで、カスミのマンションの浴室は、大きくて広々とした窓がついている。そもそもカスミがここに決めたのは、窓から夜空を眺めながらゆったりと浴槽につかることができるこの浴室が気に入ったからだった。
そんなわけで、イアルが入浴している時にも、窓からは外の景色が臨まれたのだが――この日空にあったのは、大きな満月だった。しかも、それを遮る雲さえもない。
月光は、浴室内にまんべんなく降り注いだ。もちろん、シャワーを浴びているイアルの上にも。
そして、それを浴びた途端に彼女は、石と化してしまったのだ。
「――でも、どうして石になってしまったのかは、わたしにもわからないわ。封印は、一度解けたら二度と戻ることはないはずだし……」
話し終えて、イアルは悄然と呟くように言う。
そんな彼女に、カスミは石化した彼女の体を包んでいた半透明の物体のことを告げた。もちろん、石板に封印されていた時もそれが表面を包んでおり、それを解いた時も今も、解除と共にそれが彼女の体に吸収されたことも一緒に。
聞いた途端にイアルは、目を見張って息を飲む。
「……それは、石化の魔法が発動している証だわ。……それじゃあ、封印のためにわたしにかけられた石化の魔法は、完全に消えてはいないのね。わたしの体の中に残っているんだわ」
「どういうこと?」
問い返すカスミに、彼女は言った。
「石化の魔法はとても強いものなので、普通の人間にもその力が見えるの。それが、あなたの言う『半透明のニスのような物体』なのよ。それは本来は、魔法が解けると同時に完全に消えてしまうはずのものなの。でも、あなたが見た時には、わたしの体に吸収されて行ったのでしょう? つまり、魔法はまだわたしの体の中に存在しているということよ」
「でも……イアルさんはこうして人間に戻って、私と話しているわ。それはつまり、魔法が解けたってことでしょう?」
カスミはしかし、今一つ彼女の言うことが理解できずに、首をかしげる。
「いいえ。これはおそらく、わたしが鏡幻龍(ミラール・ドラゴン)の巫女で、その守護を受けているためよ」
イアルは小さくかぶりをふって返した。
「鏡幻龍の守護は、わたしにさまざまな恩恵を与えてくれるものだから。前に話したでしょう? わたしが日本語を話せるのも、その守護のおかげだって」
「ああ……。そういえば、そう言ってたわね。その龍が、まったくタイムロスのない同時通訳をしてくれてるようなもんなんだって」
封印を解いたばかりのころに聞いた話を思い出し、カスミがうなずく。
「ええ。……ただ、その鏡幻龍の守護の力も、弱まる時があるわ」
小さく微笑んでうなずいた後、ふいに唇を噛んでイアルはうなだれた。
「それが、月明かりの強い夜よ。……どうしてだかわからないけれど、月光はわたしの上から鏡幻龍の守護を遮ってしまうの」
「あ……! それで、月光を浴びて石になってしまったのね」
カスミは、ようやく謎が解けたとばかりに膝を打って声を上げる。
そんな彼女に、イアルは悄然と頭を垂れた。
「カスミ……。ごめんなさい。わたしの不注意で、あなたを心配させたし、迷惑をかけたわ」
「イアルさん……」
そんな彼女を見やって、カスミは思わず目を見張る。心配はしたが、迷惑だなどとは思っていないのだ。カスミは慌ててかぶりをふった。
「そんな顔しないで。私は別に、迷惑なんて思ってないから。……魔法だって、きっといつか完全に解ける時が来るわよ。この東京には、いろんな不思議な能力を持った人や、さまざまなことを研究している人たちがいるわ。マナーや現代のことを覚えたら、そういう人たちを訪ねて、石化の魔法から完全に解放される方法を探すことだってできるわよ。だから、元気出して」
「カスミ……」
イアルは驚いたようにカスミを見やった。笑みを浮かべてうなずく。
「ええ、そうね」
「そうそう。ただ、当分は月光は浴びないように気をつけないといけないけれどね」
「ええ」
冗談ぽく付け加えるカスミに、本当にそうだと思いながら、イアルは再度うなずく。
それへカスミはようやく安堵したように笑いかけ、思い出したように言った。
「ところで、お腹空かない? 私、もうペコペコよ。戻って来る途中で、お好み焼き食べたいって思ってたんだけど……イアルさんは、もちろん食べるの初めてよね。作るから、手伝ってくれる?」
「ええ、もちろん」
元気よくイアルがうなずくと、カスミは腕まくりしながら立ち上がった。
「よし。じゃあ、作るわよ!」
「はい!」
イアルも同じように立ち上がる。
一時間後、キッチンにはいかにも食欲をそそる香りが立ち込め、その中においしそうにお好み焼きをほうばる二人の姿があった――。
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